「主文、控訴人須藤光男…の本件控訴を棄却する。控訴人栃木県の控訴に基づき……」
静まり返った825号法廷。いささか長い富越
日産自動車栃木工場の従業員だった須藤正和さん(当時19歳)が、同僚とその仲間ら3名(のちに高校生1名が加わる)による2か月以上にわたるリンチの末、殺害された「栃木リンチ殺人事件」の民事裁判控訴審判決を傍聴した。深々とお辞儀をした栃木県の代理人弁護士の姿が判決の全てを言い表していた。
栃木リンチ殺人事件とは、1999年9月29日、栃木県
Aら3人は須藤さんを連れ回した間、「熱湯コマーシャル」と称して、最高温度のお湯をシャワーで浴びせたり、沸騰した熱湯をコップに入れて身体にかけたり、靴ベラで火傷跡を殴る、「キンチョール」と称して、ライターの火に殺虫剤を噴霧してそれを須藤さんに火炎放射器のように浴びせるなど、想像を絶する残虐なリンチを加えた。
その残虐な犯行態様もさることながら、異変を感じた須藤さんの両親が捜索願を出した石橋警察署の刑事らが「警察は事件にならないと動かない」と殺害までほとんど捜査に乗り出さなかったことが世間の非難、注目を集めた希有な事件である。Aの父は栃木県警氏家署交通課の警部補だった(事件後、退職)。
主犯格のAと残虐行為を率先したBには無期懲役が確定、従犯のCにも懲役5年以上10年以下の刑が確定し、現在3人とも服罪している。
一方、須藤さんの父、光男さんと洋子さんは2001年4月に犯人3名とその親、そして栃木県警(栃木県)を相手取り、総額1億5000万円の損害賠償を求める訴訟を起こした。
一審・宇都宮地裁の柴田秀裁判長は須藤さんの訴えをほぼ認め、栃木県に約9600万円を支払うよう命じた。
BとCの親は損害賠償を認めて和解が成立したが、Aの両親は拒否し判決に持ち込んだ。結局、Aの両親には責任なしとされ、賠償請求は退けられた。
これに対し、県と須藤さん側が控訴し、二審・東京高裁の審理が始まったわけだ。
一審は提訴から判決まで5年を費やし、証人を多数呼んで弁論を行った。対して二審の富越裁判長は書面審理のみでわずか3回の弁論で結審した。
二審で栃木県警側はなりふり構わぬ反証攻勢に出た。その1つが産経新聞の記事に対するものだ。
記事は産経新聞がこの事件に関するキャンペーンを手がけている最中のもので、宇都宮中央署を訪れ、被害届を提出しようとした日産自動車の須藤さんの同僚の訴えに耳を貸さず、警察はついに被害届を受け取らなかった、というもので、2000年6月7日付社会面の記事だった。
県警側が提出したのは、2000年6月7日に栃木県警地域部から警察庁生活安全局に送られたファクスで、同僚、安西浩二さん(仮名)に栃木県警の警察官が出向いて事情を聴いたところ、「産経新聞の記事はひどい。宇都宮中央署の刑事さんは親身に話を聞いてくれた。産経新聞の記事は嘘偽りだらけだ」と述べたという趣旨のことが書かれていた。
この証拠を見たとき、背筋がぞっとした。この記事は私の部下だった森浩記者が須藤さんの同僚から聞いてきた話を私がまとめたものだったからだ。「あの同僚の子は嘘を言ったんだろうか──」。森は私が当時、勤務していた宇都宮支局でも最も優秀な記者だったので、彼の手腕を信頼していた。だから彼のことは少しも疑わなかったが、安西さんが記者に迎合したのではないか、という不安が脳裏をよぎった。
いずれにせよ誤報呼ばわりされてはメンツがない。私は相手側提出のその丙号証を凝視した。
ところがよく見ると、この証拠には欠陥があった。安西さんの署名、捺印がないのだ。ファクスの日付からして記事が出たまさに当日、まとめられたものだと分かる。やけに手回しがいい。果たして本当に安西さんはこの警察官に会って、こんなことを話したのだろうか。それとも警察が
「いや、まさかな」と思った。栃木県警はこの事件で被害者の両親を精神的に侮辱したばかりか、自らの捜査能力の低さを満天下に知らしめてしまったのである。この証拠がもし捏造されたものだったら、それこそ恥の上塗りだ。そんな見え見えのことはするまい。
ところが須藤さんの原告弁護団の1人、大木一俊弁護士が安西さんに面会したところ、「事件で僕に会いに来たのは、須藤君の遺体を発見し、殺人事件を立件した警視庁の刑事さんだけです。栃木県警の人は1人も僕のところに面会には来ていません。だから産経新聞の記事を『ひどいですね』と言うはずはないのです」という趣旨の回答をしたという。
真実はどちらなのか。私は安西さんが高裁の法廷に証人として立たされることになるだろう、と予測した。
大木弁護士は自信満々で、「僕のところに栃木県警の関係者は会いに来ていない」とする安西さんの証言を反証として高裁に提出した。栃木県警側の弁護士は心なしか顔が青ざめていた。
富越裁判長は温厚そうな顔で両サイドの弁護士を見回した後、険しい表情に一変させて栃木県警側の代理人の谷田容一弁護士に話しかけた。話しかけたというよりは詰問に近かった。
「この証拠はどういう意味があるんですかねえ」
さらにこう付け足した。
「一審で出された証拠をもとに判断しますが、それでいいですね」
谷田弁護士は「それで結構です」と恐縮した様子で頭を下げた。
「勝負あったな」と傍聴していた私は確信した。
一審の宇都宮地裁でも同じように雌雄を決する場面があった。須藤さんが殺害される2日前の11月30日、石橋警察署を訪れ、須藤さん救出を訴えていた光男さんの携帯電話に須藤さんから電話がかかったのだ。このとき、「友人として電話に出てほしい」と光男さんに頼まれ、生活安全課のI主任(巡査部長)は電話に出る。そして「正和か。みんなに迷惑をかけちゃだめじゃないか」と呼びかけた。すると須藤さんと思われる声が「おめえ、誰だ」と怒鳴った。「石橋の警察だ」とI主任が答えたとたんに電話は切れた。この電話がきっかけで捜査の手が迫ったと感じた犯人グループは須藤さんを殺害する相談を始めるのである。
ところがI主任は「自分はそんなことは言っていない。須藤さんの母、洋子さんが『金なんかあるか。でれすけ(栃木県の方言で馬鹿の意味)野郎』と怒鳴ったから切れた。自分は電話にも出ていない」とシラを切ったのである。
須藤さんは、この場面に立ち会っていたBの母親を証人に呼んで真偽をただした。
「洋子さんは電話に出ていません。電話に出たのはI主任です」
Bの母親はそう明言した。原告団の弁護士にすら反対されていた、犯人の母親からの証人尋問。これは須藤さんの・賭け・だった。
当時、大阪社会部に在籍し、国税局担当として東奔西走していた私はこの話を後で須藤さんから電話で聞いた。「神様は見捨てていなかったんだな」と大げさに言えば思った。なぜか涙があふれて仕方なかった。裁判中に亡くなった洋子さんの執念かもしれなかった。
二審の東京高裁の法廷でも、同じような場面が繰り返されたのである。
「富越裁判長は鋭いな。これで二審も須藤さん勝訴だな」と確信した。
個人的な話で恐縮だが、私は高校生のころ裁判官に漠然とあこがれていた。中学生時代は冤罪関係の本をむさぼるように読んだ。だがいかんせん勉強が嫌いだった。今は新聞記者として禄を食んでいるが、静岡、宇都宮と支局にいたころは、暇を見つけては小さな事件でもせっせと足を運んで、公判を傍聴に出かけていた。東京と大阪で国税を担当していたときですら、脱税の裁判にはせっせと足を運んだ。だから自らの公判の『筋読み』にはかなり自惚れていた。
だが、それはまさに自惚れだった。
今にして思えば、あのとき富越裁判長は栃木県警に救いの手を差し伸べたのだ。
「こんな証拠を出したら、信用性が低くなるぞ。この証拠は見なかったことにする──」 平易な言葉でいえばこう言い換えることができただろう。私の洞察は間違っていないと思う。
結論を言おう。富越判決は不当だ。理由は今まで述べたことでおわかりいただけるだろう。いかに富越裁判長が「結論先にありき」で訴訟を進行させたか、象徴的な場面がさきのシーンなのだ。栃木県警サイドとしては「ありがたや、お代官様」ってなもんである。判決の際、深く頭を垂れた弁護人の心境を
栃木県警の訴訟に臨む態度も不誠実きわまりない。例示すれば、さきほど書いた「でれすけ野郎」発言を巡る二審の弁論である。
県警は事件発覚当初からI主任は「石橋の警察だ」とは答えていない。須藤さんの母、洋子さんが「金なんかあるか、でれすけ野郎」と怒鳴ったから切れた、と主張してきた。
一審の柴田判決が県警の言い分を退けると、二審で丙23号証なる証拠を出してきた。 なんとこの丙23号証とは私が書いた記事なのである。2000年4月18日付の産経新聞栃木版で当時、連載していた「十九歳の暴走」11回目の一節である。
▼この点について当初、県警側は「母親の洋子さんが『うちにはもう金なんかない。このでれすけ野郎』と言ったら切れた」と説明していた。洋子さんは「でれすけ野郎とは言ったかもしれない。しかし、刑事さんが電話に出た後ろで言ったもので、私は直接電話には一度も出ていない」と主張している。
県警は一審の負けを逆転させるため、私のインタビューに答えた洋子さんの発言を証拠提出したのだ。
結果、二審・富越判決は「亡洋子は、控訴人須藤の側で『このでれすけ野郎』と、正和を叱りつける発言もした」と一審の法廷供述をなかったことにして、私の記事を根拠に県警に軍配を上げている。それはまだいい。富越判決は「I主任の発言が、正和殺害を決断させたと認めるには足りない」というのである。
富越判決は須藤さん側の言い分も認め、最後の電話にI主任が出て「石橋の警察だ」とI主任が言って、電話が切れたことは認定している。県警が私の記事を根拠に「でれすけ野郎」発言があった可能性が高いことを立証したとしても、I主任の責任が軽くなるものではないはずだ。
富越判決はしかし、「石橋の警察だ」とI主任が答えて(それまで頻繁にあった金の無心の電話はこの電話を境に一切なくなるのだ)も、I主任に責任はないというのだ。
富越裁判長は、冒頭陳述を読んでいないのだろうか。宇都宮地検がA、B、Cの刑事裁判初公判で読み上げた冒頭陳述にははっきりと「石橋警察を須藤の両親が訪れていることを知ったAらは須藤の殺害を決断した」(要約)と書かれているのだ。これはとりもなおさずAら犯人グループが警視庁の調べにそう供述したからにほかならない。
しかも富越判決は洋子さんの「でれすけ野郎」発言を根拠に須藤さんの両親は「正和の生命への危険が切迫していることに認識を有していなかった」と断じているのだ。要は「助けてください。もうすぐうちの息子は殺されます」と親が訴えない限り、警察に責任はないというのである。普通の常識ある親なら警察を煩わせて申し訳ないという気持ちがあるはずで、かりに正和さんに対して怒鳴ったとしても、それは警察への手前という側面もあるはずだ。そんなことは少し考えれば分かるではないか。
須藤さんの両親があちこち動き回ってCが乗用車の所有者であることを突き止めたり、須藤さんが包帯を巻いてけがをしているらしいことを突き止めているのだ。対して警察は刑事部屋の中にいてもできることしかしていない。あまつさえ「須藤はクスリでもやっているのではないか」などと暴言さえ吐いているのだ。2か月以上もただの一度も栃木県警は張り込みさえしていないのに。
富越判決は、11月25日の須藤さんの母、洋子さんの捜査依頼を刑事が失念したことについてのみ違法としているが、その結果、導き出された答えは「この時点に捜査されていれば3割の生存可能性があった」というものだ。この「3割」とは何が根拠なのか、これも全く書かれていない。
さらには須藤さんが犯人グループの一味のように振る舞ったことが栃木県警に被害者であることを認識させる妨げとなったとまで述べている。
またこうも言う。「正和が恐喝等の金銭上の犯罪行為に巻き込まれて被害者となっているのではないかという懸念及び正和が負傷しているとの懸念に基づき、正和の捜索を開始するよう求めるものであって、正和が生命に危害が及ぶような犯罪の被害者となっているとの切迫した認識を有するに至らなかった」
さきほども書いたように「殺されそうです。助けてください」と訴えない限り、自らの子供が後で殺害されたとしても、警察の責任を問うことはできないと言っているのである。これも繰り返すが、この事件で栃木県警がしたことといえば被害届を受け取ったことと、殺害前日にCが乗った乗用車を手配したことだけである。(乗用車の名義がCだということも須藤さんの両親が調べてきた)
声高に裁判所が出した判決を「不当だ」などと言って騒ぎ立てるのは、本来、好きではない。冤罪を叫んでいる被告の中にも、支離滅裂な主張をしたりするのがいるし、死刑囚に「さん」付けして支援したりする人々には一分も同意できない。しかしこの判決はあまりにもひどい。これだけはいくら強調しても強調しすぎということはないだろう。
日本の司法の最高機関である最高裁判所がこんな行政に都合のいいつまみ食いのような判決を追認することはないだろうと固く信じている。司法の良心を信じているし、たくさんの魅力あふれる裁判官も取材の過程で見てきた。だが上告するのは憲法違反しか理由がない。棄却しなければ著しく正義に反すると最高裁が認めた場合は、最高裁が下級審判決をひっくり返すことはできる。だが、「憲法違反ではないから」と最高裁が言ってしまえばそれまでなのだ。
1951年に山口県で起きた老夫婦強盗殺人事件で、共犯者の自白により一、二審とも死刑になった阿藤周平という人物がいる。この人をモデルにした主人公は今井正監督の「真昼の暗黒」のラストシーンで、拘置所に面会に来た母親に向かって「まだ最高裁がある」と叫んだ。救いようのないほど暗澹とした映画だったが、実際は都合7回の裁判を経て、最高裁は自判し、真犯人の吉岡晃(無期懲役が確定、故人)以外は無罪とし、晴れて阿藤氏らは自由の身になった。
今こそこの言葉を大いに叫びたい気持ちだ。
「まだ最高裁がある!」