4    挑戦状

1954年11月。木村は朝日新聞紙上で「力道山への挑戦」を表明する。「力道山のプロレスはショー。シャープ兄弟の時は負け役をやらされた。真剣勝負なら力道山には負けない」とぶち上げたとされる。朝日新聞は当初からプロレスに批判的だった(朝日は力道山プロレス旗揚げ前の53年末に『結局は八百長の面白さ』という記事を載せている)こともあり、力道山ー木村戦について書かれた多くがこのことに触れている。ところがこの朝日新聞の記事は東京本社最終版を保存する縮刷版には載っていない。54年11月の朝日縮刷版を調べても見当たらない。
  2006年発行の週刊プロレス別冊冬季号収録「力道山VS木村戦の謎を追う」(石田順一)によれば当該記事は大阪版に掲載されていた。大阪版の11月1日付朝刊の記事は、巡業に来た木村が朝日新聞岐阜支局を訪ね力道山との間に全日本選手権を争いたいと表明したこと。続いて力道山が応ずれば東京、大阪、名古屋で3試合を行う予定と記し、木村の談話を載せている。
 「力道山はゼスチャアの多い大きい選手で実力はなく、私とは問題にならない。今度挑戦したのは力道山のショー的レスリングに対
し私の真剣勝負で、プロ・レスに対する社会の批判を受けるつもりで挑戦した。試合は六十一分三本勝負であるが二十分以内に力道山をフォールする自信がある」
 実際には3度はおろか再戦も行われず、力道山を20分以内にフォールすることもなかった。
 この木村の挑戦を力道山は受ける。11月26日、木村は上京し千代田ホテルで正式に挑戦を表明、27日に映画撮影中の力道山を松竹大船撮影所に訪ねて正式に契約し調印する。木村は45分1本勝負を主張したが、「国際ルールにのっとって」61分3本勝負が採用された。試合報酬は通常のファイトマネーではなく150万円を勝者七分(105万円)、敗者三分(45万円)で分ける賞金マッチとなることも決まった。入場料はリングサイド2千円。決戦のムードはいやが上にも高まり、「昭和巌流島の決闘」とマスコミはあおり立てた。

 「いつごろからやるか、だいたいの月日と段取りを決めての話なんです。これはお互いに公表しないで、やるときはパッと新聞にだそうじゃないか、という相談ずくでやったことなんです」(「私と力道山の真相」。ナンバー70号掲載)
 83年、60歳代半ばとなった木村はインタビューでこう語っている。突然の挑戦表明ではなく、プロとしての盛り上げ戦略だったということだ。それにしてはなぜ巡業先の岐阜で、という疑問は残る。また当時、木村率いる国際プロレス団のマネジャー格だった工藤雷介はプロレス旗揚げが成功したので、日本チャンピオンをつくるべき、そのためにはコミッショナーが必要だという雰囲気になったことを述べている(「ぷろれす・たいむ・かぷせる36」月刊プロレス74年1月号)。工藤は続けて語る。
 「そのころ力さんは契約を前に大船で映画?怒濤の男?をとっていたのだが、契約を前に一晩、築地の花蝶で二人でゆっくり話し合いさせた。勿論、八百長の相談をしろということではなくお互いにプロレスラーとしての話し合いをさせたのだが決裂、リキさんは大船に戻り、木村は千代田ホテルに一泊して、翌日大船に行って契約書にサインした。
 そこでまた話し合って、ある程度の一致点を見出したようだった…」のだが、試合当日、工藤はがく然とすることになる。
 水面下の攻防はありながらも、木村の挑戦表明で一気に雰囲気は盛り上がり対戦へ加速する。柔道が勝つか、相撲が勝つか。
 「当時まだプロレスリングが相撲とも柔道とも異質の格闘技であることを理解しない人々は、その面でも興味を抱いた」(「日本プロレス史第6回」鈴木庄一。月刊プロレス75年6月号)
 同時にプロレス八百長論が巻き起こっていた。だからこそ木村の「真剣勝負」での挑戦にファンたちは沸き立った。なにしろ国際試合第2弾ではシュナーベル組の反則に観客が怒り暴動を起こした時代である。ショー的演出を楽しむ余裕などなく、大衆はプロレスに熱狂していた。

 試合を前に謎めいた動きも出る。木村の師匠である牛島辰熊が試合を控えた力道山を東京・日本橋浪花町のジムに訪ねて来た。牛島は力道山に寝技を指導する。このとき力道山は右足膝を痛めたとも爪を剥がしたともいわれる。決戦を控えた力道山のトレーニングは一層の熱を帯びたともマイペースだったともいう。
 当時、力道山宅に起居していた芳の里は毎朝、「淳(淳三。芳の里の名)、殺せ」とハッパをかけられた。対戦は力道ー木村だけではなく、日本ー国際、全日本の対抗戦となっていた。プロレス入りしたばかりの芳の里は負ければプロレスに居られなくなると思い、作戦を考えた。関節を決められたら「痛い」と叫び、油断を誘って張り手を張りまくるつもりだった(週刊ゴング増刊「日本プロレス40年史」座談会。95年発行)。
 新興のプロ興行、プロスポーツに身を投じたのはスター選手だけではなかった。傘下レスラーたちの将来もかかっていた。彼らもプロレスに人生をかけたのだ。前日の21日には日本プロレス初のコミッショナーが誕生、酒井忠正が推戴された。そして22日、決戦の日を迎える。                     
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    (血闘 力道山ー木村)
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