今日は、いくつか、気付いたことを指摘させていただきます。

「ノアの洪水物語は、盗作である」について。
旧約聖書のノアの洪水物語が、メソポタミアの古代文書と一致しているという事 実は、必ずしも「聖書の間違い」を論拠づけるとは言えないのではないでしょう か。むしろ、聖書の記述が、事実と無関係に考え出された創作ではなく、他のメ ソポタミアの文学と同様、かつて実際に起こったある事実に基づくものであると いう主張を論拠づけるものとして解釈することも可能だと思います。 私がかつて属していたファンダメンタリズムの教派(カルヴィニズムの系統)で は、機械的霊感説と、有機的霊感説とを区別しており、後者の方を採用していま した。

つまり、聖書記者たちは神の霊感の下に聖書を記したにせよ、彼らが全く聖霊の 機械や道具と化して、自分の意志や知性と無関係に、あたかも恍惚状態の中に聖 書を記述したわけではなく、他の文書を参照したり、それらを編集したり、彼ら が自分自身の知性や意志などの人間的な諸能力を働かせつつ聖書を記述した可能 性を排除していません。その人間的作業の中に、神の聖霊が働いて、彼らの仕事 が、誤りなき神の言葉として完成したものになるように導いたと理解しているよ うです。

また、「聖書の間違い」の検証を、@聖書と、聖書の外側の(いわゆる)事実との 間の矛盾と、A聖書内部の記述の矛盾の検証という二つの方法でなされているの は正しいと思います。しかし、それが、果たして、佐倉さんのおっしゃるように 「キリスト教を否定」せずにおれるものかは疑問です。なぜなら、殊に福音主義 の立場では、キリスト教の救いというのは、@聖書の予言に基づいて成就され た、Aイエス・キリストの死と復活という過去の歴史的事実に基づくものとされ ているからです。このあたり、大胆に踏み込んでいかれたらいかがでしょうか。

また、ファンダメンタリストの聖書論というもの自体をもっと詳しく検証される ことも必要になっていると思います。そこで、人間が言葉や考えを固定化し絶対 化していく心理をつかみ出して検証して欲しいと思います。人間はまた、そのよ うなものから解放されて自由になりたいという希求ももっています。

より充実し、完成したお仕事になるよう期待しています。

僕の方法論に対して、

それが、果たして、佐倉さんのおっしゃるように「キリスト教を否定」せずにおれるものかは疑問です。
「キリスト教を否定しているのではない」という僕の表現があいまいでした。もともと僕の「はじめに」の言明は、浜田しんじさんの、僕が「キリスト教撲滅運動」をしているのではないか、というふうなご質問に対して応答したものなのです。僕としては、そんなこと(キリスト教撲滅運動)などは考えたこともないので、キリスト教を否定しているのではないと言ったわけなのです。

もちろん、すべての思想に関して僕の姿勢がそうであるように、キリスト教も批判します。「聖書の間違い」を指摘することも、ある一部のキリスト教の立場の批判になっているわけです。また、このことは、ご指摘のように、結果として、聖書に誤謬がないことを根拠に成立しているような一部のキリスト教の存在そのものが実質的に否定されることになるかもしれません。たとえ、そうであっても、僕がそれを目標にして、その手段として聖書批判をしているのではないことは、もう一度、明確にしておきたいと思います。「キリスト教撲滅運動」など、僕には全然興味はありません。僕に興味があるのは、果たして聖書に間違いがあるのかどうかを僕自身の目と頭で吟味することです。(もちろん、同じような興味を持っている人が他にもおられると思うから、ネットに発表もしているわけですが。)

このことは、当然、いわゆる「ファンダメンタリスト」と呼ばれているクリスチャンに対する僕の基本的姿勢にも当てはまります。僕のさまざまな拙論を見て頂ければわかるように、それらがファンダメンタリズム研究ではないことは明らかです。ファンダメンタリズム批判でさえありません。「はじめに」を慎重に読んで頂ければわかると思うのですが、すべてのクリスチャンが「聖書には間違いがない」と信じているわけではないことを説明するために、「ファンダメンタリスト」を担ぎ出しただけです。僕が納得させようとしている相手はファンダメンタリストではなく、僕自身だからです。もし僕が、ファンタメンタリスト撲滅運動でもしているなら、あるいは、「彼らを助けてやろう」などというようなへんな意識でも持っていたなら、ご指摘の通り、

ファンダメンタリストの聖書論というもの自体をもっと詳しく検証されることも必要
かもしれません。あるいはまた、彼らの社会的環境分析とか心理分析とかもしているかもしれません。この点において、僕の拙論は確かにもの足りないものと思います。しかしながら、最近は、いったいどのような根拠で彼らは「聖書にはいかなる誤謬もない」と信じるようになったのか、その動機というか契機というか、そのようなものに少しずつ興味が沸いてきましたので、
人間が言葉や考えを固定化し絶対 化していく心理をつかみ出して検証して欲しいと思います。
というご期待にそえるような研究にも、もしかしたら、踏み込むようになるかも知れません。「聖書にいかなる誤謬の可能性も認めようとしないのは、おそらく、真実を知ることよりも、救いを求めることを優位においているからであろう」、などというような僕の最近の発言は、僕の興味がその方向に向いているからでしょう。

「ノアの洪水物語は、盗作である」についてのご批判のようなものこそ、まさに僕がこのサイトで「聖書の間違い」を公表し始めたときに期待していたものです。僕の説に対する具体的な間違いや欠点の指摘こそ、僕自身や読者にとって、知識を発展させるものだからです。したがって、この部分は、わたしの応答とともに、わたしの本論「ノアの洪水の物語は盗作である」へ追加させていただきました。

ご意見、どうもありがとうございました。


再びただのひと さんより

「ノアの洪水物語は盗作だった」に関する佐倉さんへの反論

私は、「ノアの洪水物語が盗作である」という佐倉さんの指摘を批判したわけで はありません。また、ノアの洪水物語が、他のメソポタミアの古代文書と一致す るからこそ、聖書の記述は歴史的事実と合致すると主張したわけでもありませ ん。

私が、指摘したのは、「ノアの洪水物語が盗作である」という佐倉さんの指摘 は、「聖書の間違い」を検証するという当研究の目的に、資するものでは全くな いということです。

それは次の点で明らかです。 まず、「聖書の誤り」とは、佐倉さんが冒頭の方法論の箇所で書かれているよう に、

@聖書の記述相互間の矛盾、と
A聖書の記述と、聖書外部の客観的事実との矛盾
の二つに分けることが出来るのですが、「ノアの洪水物語が盗作である」という 指摘は、上の二つのいかなる意味でも「聖書の間違い」を指摘するものではあり ません。なぜなら、「ノアの洪水物語は他の古代文書に基づくものではない」な どという主張は、聖書のどこにも記されていないのであり、「ノアの洪水物語が ギルガメシュ叙事詩に基づく」ということが事実であるにせよ、その事実は、聖 書のいかなる記述にも矛盾してはいないからです。(これに対して、「縄文人は ノアの子孫?」の文章などは明らかに、聖書の誤りの指摘になっています。)

では、佐倉さんはわざわざ、この文章を通して、何の間違いを指摘されたかと言 えば、それは「聖書の間違い」ではなくて、機械霊感説的な意味でのファンダメ ンタリストの聖書論の間違いであると思われます。ファンダメンタリストは、機 械霊感的な意味で、つまり、聖書記者が、自分の知性や、意志などの人間的能力 や、過去の諸文書の参照や、編集といった人間的作業とは無関係に、あたかも神 の聖霊の完全な機械、道具と化して聖書を記述したと主張しているに違いないと 断定した上で、「ノアの洪水物語が他の古代文書に基づく」という事実が、この ファンダメンタリストの聖書論と矛盾するものであることを指摘しているので す。

この文章は、明らかに「聖書の間違い」の指摘ではなくて、佐倉さんが佐倉さん なりに、何の詳細な検証も経ないままファンダメンタリストは機械霊感説を採用 していると断定した上での、「ファンダメンタリストの間違い」の指摘に他なり ません。つまり、佐倉さんは、ここで「聖書の間違い」と「ファンダメンタリス トの間違い」をうっかりすり違えておられるわけです。 これは佐倉さんの方法論の不備、不徹底を示す重大な問題だと思います。

ここでもう一度厳密に考えなければならないのは、「聖書の間違い」を指摘する ことと「ファンダメンタリスとの主張の間違い」を指摘することの関係について です。

私は次のように考えます。 誰の目にも白いものを白であるとわざわざ主張することは、ほとんど意味があり ません。このようなことが意味を持ってくるのは、白いものを黒であると主張す る人々が現れたときです。 「そしてその主張が人々を動かし、社会を動かす大きな力を持つようになると き」 なおいっそう白いものが白であることを明確に述べることは意味を持ちます。 同じように、そもそも数世紀にもわたって多くの異なる人間によって書かれた諸 文書間に矛盾が見られることは当然の事であって、この自明なことをわざわざ詳 細に検討し、記述すること自体には本来意味がありません。(例えば「日本書 紀」のような書物の中に矛盾が見られることをわざわざ検証して指摘する人はい ません。)

このような無意味なことが大きな意味を持つのは「この諸文書(Scriptures)は神 の霊によって書かれた誤りなき神の言葉である」と主張するファンダメンタリス トのような人々が存在するからであり、かつその主張が社会を動かす大きな力を 持ってきたからです。

このことを明確にふまえて、佐倉さんも、 目的をファンダメンタリスとの主張の批判であるとし、その手段として「聖書の 間違い」を指摘するとはっきり「はじめに」の中で述べられているのにも関わら ず、佐倉さんは、「来訪者の声」の中でのクリスチャンの批判に対する応答の中 では、自分は、「聖書の間違い」を指摘すること自体を目的としており、それに 終始するというように、当初の目的と方法を微妙に変更されています。あたか も、ファンダメンタリスとの複雑多岐な主張を検討することを意図的に避けてお られるようにも感じられることすらあります。

佐倉さんが、その言葉の通りに、キリスト教批判や、ファンダメンタリスト批判 を目的とせずに、それとは没交渉に「聖書の誤り」の指摘の中に引きこもられる とき、佐倉さんの仕事そのものが白いものを白いと主張するだけの全く意味のな い作業になってしまうと思われます。 従って「聖書の間違い」を指摘することは、「ファンダメンタリスト、キリスト 教の主張の間違い」を指摘することと切り離すことは出来ないのです。「聖書の 間違い」を指摘することは、ただ結果として「ファンダメンタリスト、キリスト 教の主張の間違い」を指摘することにつながるだけでなく、そもそもの出発的 で、「ファンダメンタリスト、キリスト教批判」を目的としてもっているはずで す。 それ故、ファンダメンタリストや、キリスト教の主張そのものをある程度は検討 し規定し、記述しておくことは、この研究の出発的にどうしても必要なものと思 われます。

わたしには、その歴史的経緯はよくわかりませんが、おそらく、単純な「機械的 霊感説」では彼らの聖書信仰が説明しきれなくなり、それを克服するために「有 機的霊感説」はあとから生まれたものでしょう。
私は、このような安易な断定の上に、この佐倉さんの仕事がなされていくのはと ても残念に思います。ファンダメンタリストというのは、聖書を重要視するプロ テスタントのなかの一群の人々です。その起源は宗教改革にさかのぼることが出 来ます。宗教改革というのは、ルネサンスの文芸復興の動きの中で、カトリック のウルガタ聖書ではなく、ギリシア語、ヘブライ語原典を自分の目で検証するこ とで、聖書が語っていることを、捉え直そうとした運動です。聖書の批判的研究 の起源は、実は、この宗教改革の時代にさかのぼることが出来ます。また、佐倉 さんが自分の目で聖書を確かめようとされていることも改革者や、当時のヒュー マニスト達の姿に重なるものがあります。この批判精神は、既に、その当時か ら、機械霊感説のような魔術的な聖書観を克服しています。カルヴァンに関して は明らかにそうであり、『キリスト教綱要』の中での彼の聖書論は明らかに有機 霊感説です。


作者より「ただのひと」さんへ

大きな誤解をされています。

わたしは、

目的をファンダメンタリスとの主張の批判であるとし、その手段として「聖書の間違い」を指摘するとはっきり「はじめに」の中で述べ
てはいません。そうではなく、「聖書の間違い」シリーズにおける目的は、
「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味すること
であり、その目的を達成するためにわたしが採用する方法は、
聖書の記述の中に、それが間違っているという実例があるかどうかを調べること
である、と述べているのです。


誤解、その1

誤解をもたらせているひとつの原因は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張がファンダメンタリストと呼ばれている人々によってなされているため、この主張を批判することとファンダメンタリストを批判することとが同じことであるように受け取られていることにあります。

わたしにはこの違いを簡単に表現する日本語の表現方法が見つからないのですが、英語ではこの違いを明確に区別する便利な構文的手段があります。

(1) the Biblical inerrancy, which the Fundamentalists advocate...
(2) the Biblical inerrancy which the Fundamentalists advocate...
この二つの文の構文上の違いは、関係代名詞 "which" の前にコンマがあるかないかです。そして、わたしが批判の対象としているのは(1)の方ですが、それを、「ただのひと」さんは(2)であるかのように誤解しておられるのです。これらは、区別を明確にするように訳せば、
(1J) 聖書には誤謬がないという、ファンダメンタリストも主張している、聖書観…
(2J) ファンダメンタリストが主張するような意味での聖書には誤謬がないという聖書観…
とでもなると思います。要するに、(1)では、「ファンダメンタリストが主張している」という部分を省いても、原文の基本的な意味はそのまま保持することができますが、(2)では、「ファンダメンタリストが主張する」という句を省いてしまっては、原文の基本的な意味が失われてしまいます。つまり、英文の関係代名詞 "which" の前におかれるコンマは、その後に続く句が、二次的な挿入にすぎないことを示す重要な役割をしています。

そこで、わたしは、「はじめに」において、きわめて意識的に

「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主 張はファンダメンタリスト(キリスト教原理主義者)と呼ばれる人たちの聖書観ですが実は…
というふうに、「ファンダメンタリスト(キリスト教原理主義者)と呼ばれる人たちの聖書観ですが」という句を、あたかも英文における関係代名詞 "which" の前におくコンマのように、二つの「、」の間に挿入して、それがなくても全体の意味が通じるような二次的な要素として挿入しているのです。先回も説明したように、ここでは、「聖書はいかなる間違いも含まない」という主張が、かならずしも、すべてのクリスチャンによって信じられているものではないことを示すために、「ファンダメンタリスト」をかつぎ出しただけですから。

もちろん、英文のコンマのような構文上の約束が、日本語文法上にもあるのかどうか、その点がわたしにはよくわからず、他に(1)をうまく表現する方法も見つからず、このことがいつも気がかりになっていて、(1)が(2)と解釈されないようにするため、わたしは、おそらく必要以上に、ファンダメンタリスト批判が目的ではないことを繰り返したのです。それが、返って、問題をこじらせてしまったようです。

実は、わたしが、英文における(1)と(2)のような区別が、日本語の表現ではどうもうまくいかない、と気がついたのは、2年ほど前のことです。わたしはメールのやり取りの中で、たしか、「聖書にはいかなる間違いも含まれないと信じるクリスチャン」というような表現をしたのですが、それを読んだ相手の方から、「すべてのクリスチャンが、聖書にはいかなる間違いも含まれない、と信じているわけではない」、というような内容の叱責の返事をいただいて、驚いたことがあるのです。わたしは、もちろん、すべてのクリスチャンが聖書の無誤謬性を信じているわけではないことは知っています。だからこそ、「すべてのクリスチャンの中で、聖書にはいかなる間違いも含まれないと信じるクリスチャン」という意味で、わたしは、「聖書にはいかなる間違いも含まれないと信じるクリスチャン」と、表現をしていたのです。ところが、これを読んだ相手の人は、まったく別の意味に捉えていたのです。

これを英語で表現すれば、誤解はありません。

(A) the Christians, who believe that the Bible is inerrant...
(クリスチャン、彼らは聖書には間違いがないと信じている人々ですが、…)
(B) the Christians who believe that the Bible is inerrant...
(聖書には間違いがないと信じている立場のクリスチャン…)
わたしが、意味していたのは(B)であり、わたしのメールの相手は、それを(A)と解釈したのです。わたしは、何の句読点も付けずに、「聖書にはいかなる間違いも含まれないと信じるクリスチャン」と、書いたのだから、相手も、一息に「聖書にはいかなる間違いも含まれないと信じるクリスチャン」と読んでくれるだろうと、勝手に思っていたわけです。ところが相手は、「聖書にはいかなる間違いも含まれないと信じる、クリスチャン」と、一息ついて読んでいたのです。

わたしは、そのとき以来、このことについて、少々神経過敏になっていて、おなじような誤解が生じそうなときには、「わたしの意味するところは、(A)ではなく(B)ですよ、(2)ではなく(1)ですよ」というような、捕捉の説明をする癖がついてしまったのです。違いを簡単に示す構文的手段がどうしても見つからないからです。ところが、今回、それが裏目に出てしまって、とうとう、「当初の目的と方法を微妙に変更」した、というふうにまで、解釈されるようになったのです。(読者の中で、日本語文法の専門家の方がおられましたら、どのように表現したらよいのか、是非ご教示お願いします。)


誤解、その2

誤解をもたらせているもうひとつの原因は、動機目的とが、混同されているところにあります。「動機」とは、人をしてある目的にむかって行動をおこさせる力ですが、「目的」とは、その動機を契機として、具体的に達成しようとする事柄の内容のことです。目的とその動機は深く関連していますが、必ずしも同じものではありません。たとえば、人類の貧困を何とかしたい、という動機から、わたしは自分の達成できる目標として、わたしの住んでいる町の貧困の問題を解決することを、わたしの行動の目的とするかもしれません。つまり、わたしの内にある動機の衝動は、わたしの能力の限界や他の興味などをまるで無視するかのように、無制限にわたしに行動を要求してくるのですが、それに対して、具体的に達成しようとする目標を設定するときは、わたしの持つさまざまな限界や興味などを無視するわけにはいきません。だから、動機と目的は必ずしも同一のものではありません。

わたしは、「はじめに」のなかで、二つの動機をあげています。

(1)人間は不完全であって、不完全な人間が誤らないという主張はあやしい。
(2)人間を神格化する思想を無視することは賢哲な判断ではない。
これらの動機から、たとえば、浜田しんじさんが想像されたような「キリスト教撲滅運動」を目標とする可能性もわたしにはあったはずです。同様に、「ファンダメンタリスト批判」を目標とする可能性もあったはずです。あるいはまた、キリスト教関係だけでなく、例えば、イスラム教原理主義批判なども目標としてたてる可能性もあったはずです。しかし、わたしはそれらを目標とせず、「聖書に間違いがない」という主張の吟味を、わたしが具体的に達成すべき目標として選択したのです。 ですから、このことをまとめて、わたしは
聖書の完全無謬性の主張を吟味する作業は、決して「キリスト教を否定する」とか「聖書を否定する」試みではありません。「聖書は完全無謬である」という主張の内包している人間神格化に危惧を抱き [ = 動機 ]、その主張の真偽を吟味する [ = 目的 ] もの
である、と宣言しているのです。したがって、
「聖書の間違い」を指摘することは…そもそもの出発的で、「ファンダメンタリスト、キリスト教批判」を目的としてもっているはずです。
という考えは、わたしの立場に関しては、まったくの見当違いであります。


その他

キリスト教はさまざまな面において批判すべき点が沢山あり、わたしもあちこちで批判していますが、「キリスト教撲滅運動」に関していえば、それはまったくわたしの趣味に反します。むしろ、「キリスト教撲滅運動」や「ファンダメンタリスト撲滅運動」のようなものが起これば、わたしはそのような撲滅運動に強く反対するでしょう。批判が、お互いの人格の傷つけ合いに陥ることなく、自由にオープンにおこなわれ、その結果、いろいろな真実と誤謬が明らかになることが大切なのであって、人が何を信じ何を拒否するかは、各個人が本人のために決定すべきことであって、他人があれこれくちばしをはさむことではないからです。

わたしにとって、「聖書に誤謬がない」という主張の吟味は「白を白と主張する」ことではありません。わたしには、「聖書に誤謬がない」という主張が「きわめてあやしい」主張であるように思えますが、調べる必要もないほど明晰なことではありません。また、結局のところ、自分自身のための答えを求めているという意味では、確かに没交渉的なのですが、自分自身のための答えを求める行為を無意味な行為だとは思いません。しかも、自分自身のための答えを求める行為でありながら、わたしは自分の意見を公表し、皆さんの意見も求め、それに対して対応してゆくという、「没交渉」とはかけ離れた方法を採用しています。

わたしの研究準備が不十分であるというご指摘については、まったく、そのまま認めざるを得ません。それは、恥ずかしい限りですが、恥を忍んで拙文を公表しているのは、本シリーズの取っている形式が、例えば、準備周到に(?)書かれる大学の卒論のようなものとは、根本的に異なっていて、主張と反論の繰り返しや、それにまつわるさまざまなおしゃべりを含めた、ひとつのダイアローグ(対話)方式を採用しているからです。わたしはここで、わたしの意見の最終発表をしているわけではなく、いわば、対話を始めるために声をかけているのです。

なお、「ノアの洪水物語は盗作だった」に関するご批判は、前回のように、本文のほうに追加し、わたしの応答とともに掲載しています。

ご批判、ありがとうございました。


再びただのひと さんより

前回の応答で、佐倉さんは、

(1) the Biblical inerancy, which the Fundamentalists advocate...
(1J) 聖書には誤謬がないという、ファンダメンタリストも主張している、聖書観…

(2) the Biblical inerancy which the Fundamentalists advocate...
(2J) ファンダメンタリストが主張するような意味での聖書には誤謬がないという聖書観…

という日本語表現では明確に現れにくい違いを明確に区別された上で 当研究の目的は(1)の意味で、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものである から、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張を取り上げ、その 真偽を吟味することであると述べられました。

私が佐倉さんに決して「キリスト教撲滅運動」やファンダメンタリスト達の人格 攻撃を促しているのではないということは当然の事として受けとめて戴くことと して、私には上の二つを区別される意味がいまひとつ明確でありませんので質問 したいと思います。

聖書の無謬性に関する主張は、キリスト教二千年の過去や現在において、様々な キリスト教信仰の立場からなされてきましたが、佐倉さんが上のように(2)では なく(1)をとられるとき、佐倉さんが批判吟味の対象として設定する主張と、過 去や現在において現実になされているキリスト教諸派の様々な主張との関係はど のようなものになるのでしょうか。佐倉さんが批判吟味の対象とする「聖書は神 の霊によって書かれたものであるから、全て正しく、いかなる間違いも含まれな い」という主張は、キリスト教諸派の主張と無関係に、佐倉さんが独自に、恣意 的に設定したものなのでしょうか。それともやはり、現実のキリスト教諸派の主 張として佐倉さんなりに定式化したものなのでしょうか。

佐倉さんが批判の対象として設定する主張と、現実のキリスト教諸派の主張が無 関係かどうかという問題は、殊に 「ノアの箱船物語は盗作だった」の記事で問 題になります。 佐倉さんは「ノアの箱船物語は盗作だった」という事実の指摘は「聖書が神の霊 に導かれて書かれた」という主張に対する批判として有効なものとお考えです が、それは「神の霊に導かれて書かれた」という主張を、人間の手で人間的手段 を用いて書かれたという要素を全く排除した機械霊感説的な意味で受け取ってお られるからだと思います。佐倉さんは明らかに機械霊感説を批判の対象としてお られるようです。

しかし、伝統的なキリスト教諸派の聖書の霊感説は有機的霊感説だと私は思いま す。簡単に論拠をあげれば、他の文書から引用したという事実は別段ノアの箱船 物語を取り上げなくても聖書の中にはふんだんに例があります。例えば、新約の 記者が旧約を引用するというのは頻繁に行われていることですし、パウロなど は、異教徒の文学からすらも引用しているとみられる箇所があります。(使徒行 伝のアテネでのパウロの演説)。聖書から引用するにせよ、他の文書から引用す るにせよ、引用という人間的手段が用いられているわけです。また聖書の諸文書 というのは、書簡であったり、歴史書であったり、法律文書であったり、歌であ ったりと言うように、人間によって人間的目的のために人間に向けて書かれたと いう側面をもちます。パウロ書簡を取り上げて見れば、パウロは一人称で特定の 教会に向けて言葉を発信しています。その中でパウロは決して恍惚状態の中で我 を失って、神が乗り移ったかのように、神の一人称で「我汝らに告ぐ」式に語っ ているのではなく、あくまでパウロ自身の言葉として、自分の頭脳を用いて言葉 を吟味しながら、時には旧約を引用し、またローマ書などは特に全体のアウトラ インにも配慮しながら、また教会員の一人一人のことを思いだし、その名を挙げ たりしながら語っています。このように聖書の文書が人間的な能力を用いて、人 間的作業を経て書かれたという側面は誰も否定できません。教会は、この自明の 事実をふまえながらも、それでもそれらの文書が神の霊に導かれて書かれた神の 言葉であると主張しているわけです。この聖書が人間的文書であるのと同時に神 の言葉であるという主張を有機霊感説と呼びます。キリスト教諸派の聖書に関す る主張は有機霊感説です。

キリスト教諸派が有機的霊感説をとっているのに対し、佐倉さんは機械霊感説を 批判の対象としておられます。佐倉さんがキリスト教諸派の主張とは全く無関係 に自らで機械霊感説的な主張を設定し、それを吟味するのだとおっしゃるのな ら、問題は生じませんが、それはあまり意味のある作業であるとは私は思いませ ん。極端な場合、地上のだれも主張していない主張を批判するということにすら なりかねません。また佐倉さんが自らが批判吟味の対象とする主張と、キリスト 教諸派の主張の間に何らかの関係を認めるのであれば、佐倉さんはやはりファン ダメンタリストを始めとするキリスト教諸派の聖書に関する主張を調べて、機械 霊感説を有機霊感説に置き換えて、それを批判の対象とする必要があります。当 研究の大きな方向転換が必要になるわけです。

また聖書は歴史に大きな影響をもたらしたという意味で歴史的書物です。 「聖書が無謬である」とする主張も同じ意味で歴史的主張です。 私は、このような歴史的書物に関する歴史的主張をめぐる問題を、過去や現在の キリスト教の主張と切り離して、つまり歴史から切り離し、歴史性を全く排除し て抽象化して取り扱うことは適切ではないと思います。

ここで余談ですが、聖書論と、キリスト論には相似関係が見られるという点を指 摘したいと思います。つまりキリスト教諸派は、二性一人格という教義で、キリ ストは完全に神であると同時に、完全に人である。この神性と、人性という二性 は、イエス・キリストという一つの人格において結合していると主張していま す。この主張は聖書が人間的文書であると同時に、その側面を全く排除しない意 味で神的文書であるという聖書の有機霊感説の主張と非常に似通っています。 このキリスト論の問題に当てはめて佐倉さんの方法を見てみると、佐倉さんは、 キリストが人であることを証明することで、「キリストが神である」という主張 を覆そうとする人と同じことをなさっているように見えます。キリストが人であ るという事実の指摘は、「キリストは人間であるという事と二律背反的な意味で 神である」という主張の反証にはなりますが、「キリストは人であって神であ る」というキリスト教の主張の反証にはなりません。

P.S.
有機霊感説は佐倉さんの指摘されるように「神の主権と人間の自由意志」という 古来から神学で争われてきた問題を惹起します。しかし、今は既にキリスト教信 者でない私は、有機霊感説がただしいと主張しているわけではなく、キリスト教 諸派の聖書に関する立場が有機霊感説であるという事実を指摘しているに過ぎま せんので、私がこの問題に答える立場にないと思います。私自身は佐倉さんの指 摘されることに全く同感であり、それ故にキリスト教を離れたのです。しかし、 この問題に関してはまたいつか私の思うところを書かせて戴きたいと思います。


作者より「ただのひと」さんへ


実存的問い

わたしの批判の対象となっている主張を、「歴史的主張」として取り扱っているのか、それとも「歴史性を全く排除して抽象化して取り扱」っているのか、という問題の設定の仕方は、おそらく、わたしの立場を正確に説明するものではありません。それは、例えば、「君は、奥さんを殴ることを、もう止めたのか」というような問いに類する問いであって、「うん」と答えれば、今までしばしば妻を殴っていたことになり、「いいえ」と答えれば、まだ今でも妻を殴っている、ということになってしまうからです。どちらを取っても、わたしの立場は誤解されます。

わたしの批判は、単なる歴史的批判でもなく、また、単なる抽象的批判でもありません。そうではなくて、実存的批判なのです。「このわたしはどうするのか」という問いに答えようとする営みなのです。バートランド・ラッセルのキリスト教批判に関する書が、日本で発行されたとき、確か、『宗教は必要か』というタイトルで発行されましたが、英国や米国では「Why I am not a Christian?」として発行されています。わたしの「聖書の間違い」も、正確に言えば、「なぜ、わたしは聖書に間違いがあると思うか」となるでしょう。そして、これが、わたしの目的はファンダメンタリスト批判ではない、ということの意味なのです。

実際、「聖書の間違い」に関するわたしの諸論も、もともと、インターネットが世の中で使用されるようになるより、何年も前から、個人的ノートに書きつづっていたものです。それは、わたしがわたしのために作ったものであって、キリスト教思想史に関する学術論文でもなければ、単なる抽象的哲学的遊びの対象でもありません。「このわたしはどうするのか」という実存的問いに答えようとするものだったのです。そして、この目的は、インターネットに公表するようになった現在でも、同じです。

キリスト論との相似関係で言えば、もし、「キリストが完全に人間であり、かつ完全に神である」という主張が、わたしにとって、矛盾した無意味な言明であり、旧約聖書的な意味での創造主は同時に被造物であることはできず、被造物は同時にそのような創造主であることはできない、という、ユダヤ教では一貫して信じられている主張を、わたしも基本的な原理として認めているとすると、「キリストが人である」という事実がわかったとき、当然、「キリストは神ではない」ことが確実に証明されます。この結論は、わたしの前提となっている基本的原理に関する確信を喪失したり、発見された事実が誤っていたということが明らかになるのでない限り、合理的な人間がなすべき当然の行為として、保持されます。この場合も、この論証が、自称「正統的キリスト教」のアタナシウス系のキリスト論の主張の反証になっているかどうかは、問題ではありません。わたしはアナタシウス系のキリスト論の批判をしているのではなく、わたしの抱えている問題を解決しようとしているのですから。

同様のことは、「ノアの洪水物語は盗作であった」に関しても当てはまります。わたしは、聖書以外の書の内容をあたかも神の言葉として引用したり言及したりしている聖書のいくつかの事実は、「聖書だけが神の言葉であり、聖書以外の書は単なる人間の言葉にすぎない」という考えと矛盾している、と考えていますから、その観点から見ると、「ノアの洪水物語」がメソポタミア文学の借り物である事実が明らかになることは、それが純粋に神の言葉ではないことを意味するのです。この結論も、やはり、わたしの前提となっている基本的原理に関する確信を喪失したり、発見された事実が誤っていたということが明らかになるのでない限り、合理的な人間がなすべき当然の行為として、保持されます。この場合も、それが、カルヴァン派の見解の批判になっているかどうか、ルター派の見解の批判になっているかどうか、メソジスト派の見解の批判になっているかどうか、カトリック神学の見解の批判になっているかどうか、メノナイト派の見解の批判になっているかどうか、改革派の見解の批判になっているかどうか、プレスビテリアン系の見解の批判になっているかどうか、エピスコバル系の見解の批判になっているかどうか、クリスチャン・サイエンスの見解の批判になっているかどうか、ギリシャ正教会の見解の批判になっているかどうか、統一教会の見解の批判になっているかどうか、エホバの証人の見解の批判になっているかどうかなどは、問題ではないのです。いったいこのわたしはどう思うのか、という問いに決定を下すことが問題なのです。


歴史と世界との関係

ところで、このような、自分自身の抱える問題に解答を見出す作業は、決して、歴史や世界からの断絶を意味するわけではありません。すべてのわたしの個人的問題は、わたしの過去の経験と学習とわたしを取り巻く他との複雑な関係などから生まれてくるものだからです。わたしのキリスト教や聖書に関する理解や問題は、キリスト教思想やその他の学習や経験から生まれているのであって、わたしが無から創造したわけではありません。わたしの経験や学習が未熟だと言われれば、そのとおりなのですが、だからこそ、対話式の方法を取り入れて、皆さんのご批判を受け、わたしの未熟さを少しでも補おうとしているわけです。

たとえば、わたしが

「ノアの洪水物語は、盗作である」についてのご批判のようなものこそ、まさに僕がこのサイトで「聖書の間違い」を公表し始めたときに期待していたものです。僕の説に対する具体的な間違いや欠点の指摘こそ、僕自身や読者にとって、知識を発展させるものだからです。
と、大歓迎したのは、「機械霊感説v.s有機霊感説」という図式でわたしはこの問題を考えたことがなかったし、とくに「有機霊感説」は、聖書が聖書以外の書の内容をあたかも神の言葉として引用したり言及したりしていることを矛盾と考えるわたしの理解に、チャレンジするもののように思えたからです。たまたま、「有機霊感説」は、それ自体が重大な矛盾を内包していて、わたしの目の前で、いわば、自壊してしまったのですが(「ノアの洪水の物語は盗作である」参照)、わたしは自分が現在正しいと信じている原理よりも、よりすぐれて説得力にまさる考えがあれば、いつでも採用する用意があります。

かつてわたしは、長い年月のキリスト教遍歴を続けましたが、そのように、こちらから出向いてキリスト教各派を学ぶというような理由も情熱も、わたしは現在の自分のうちに見つけることはできません。しかし、わたしは自分の学んだことから、たとえそれが未熟なものであったとしても、いや、未熟だからこそ、自分の意見を公表することによって、キリスト教各派の方からのご批判を心から望んでいるのです。わたしの本シリーズは、きわめて私的な目的を持っているとしても、歴史と世界へのドアは開かれていると思っています。


結論

わたしは、自分自身の抱える問題に解答を見出すことに関して、

それはあまり意味のある作業であるとは私は思いません。極端な場合、地上のだれも主張していない主張を批判するということにすらなりかねません。
というふうには、まったく考えていません。むしろ、
ひとはつねに自分にとって切実なことのみを語らねばならぬ。私には私自身に見えるものしか見えない。(西尾幹二『ヨーロッパの個人主義』)
のです。したがって、わたしが今後も引き続いて、自分にとって切実な問題こそもっとも意味のあることだと考え、自己の未熟さの欠陥をオープンなディスカッションのなかで補おうとする方法が有効であると考える限り、「当研究の大きな方向転換」はおそらくないでしょう。本サイトが「ファンダメンタリスト批判百科辞典」のようなものに転換することは、今のわたしにはまったく考えられません。人生は短いのです。

ご批判、ありがとうございました。


P.S.
「キリストが完全に人間であり、かつ完全に神である」というキリスト論は、「有機霊感説」とおなじ欠陥を持っていると考えられます。もしそのような便利なことが可能なら、なぜ、ナザレのイエスだけでなく、人類すべてをイエスのような存在としなかったのか、という問いに答えねばならないからです。また、この便利な理論を駆使すれば、人間だけでなく、「完全なる神であり、完全なるへび」や「完全なる神であり、完全なる天使」も可能であった、ということにさえなります。