尾張 高藪城
Takayabu castle

高藪城跡【愛知県知多郡東浦町緒川字屋敷参区】

【立地】丘城

【歴史】平安時代(794〜1185年頃)末期、平氏政権に追われた源氏一族の小河重房が当地に移
住したことに始まる。鎌倉時代(1185頃〜1333年)、1221年「承久の乱」などの活躍で小
河村の地頭職に任ぜられ、代々高藪地頭屋敷に住んで続いたが、南北朝時代(1336〜1392年)
動乱期の1360年、美濃・尾張の守護土岐氏に攻められ滅んだと云う。1475年小川氏の末裔と称
する水野貞守が地頭屋敷の南に緒川古城を築城し、その南に緒川端城・貞守の居館十右衛門屋敷・政所
を配し、地頭屋敷・高藪城を別城としたとされる。高藪城は室町時代(1336〜1573年)前期、
竹内直道の居城となり、5代直玄は水野氏に仕えた家臣であったと云う。一時、佐久間信盛の所領とな
るが、1580年水野信元の弟水野忠守〔1525〜1600年〕が緒川城に復帰。忠守没後、160
1年水野分長が継ぎ、緒川藩を立藩。この時、高藪城へ移ったとされる。高藪地頭屋敷・高藪城が在っ
たとされる屋敷参区は他にも家臣らの屋敷があり、場所や歴史が混在している可能性が高い。現在は住
宅に変わり、遺構は無い。


【所感】場所は屋敷参区の中央辺りから現在も残る小川が流れる谷筋〔弁天ちびっこ広場の南〕の間が
高藪地頭屋敷〔高藪城〕とされます。高藪城を含めた緒川の城館は、この谷筋を1つの区切りとしてい
るようで、丘陵を割く堀〔堀切〕のような役目であったと思われます。蓬左文庫蔵の「知多郡緒川村古
城之図」には谷側に土塁が書かれてあり、北方からの攻撃を警戒してのことと思われます。今回の訪城
で、この谷筋が高藪城や緒川城を考える上で重要なポイントであることに気付きました。


 

高藪地頭屋敷跡南端の道〔写真:左〕谷筋の北に在る弁天ちびっこ広場〔写真:右〕


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