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7/20の官邸前デモ - 政治からの接触と骨抜きの危機
7/20も官邸前デモに出た。この日は午後4時から大雨となり、デモが始まった後も土砂降りが続き、最悪の状態の中での立ちんぼとコールとなった。身一つなら傘でも雨合羽でも何とか凌げる。しかし、現場に持って行ったバッグはそうはいかない。鞄を預けるロッカーなどないのだ。足下に置くしかなく、縫製の内部まで雨水が浸みこんでぐっしょりの被害だった。シャワーを4時間かけ続けたのと同じで、財布の中の紙幣までボロボロ。7/16のブルーシートの炎暑地獄と言い、デモに出るということはひたすら忍耐するということであり、身体に無理を強いてコストとダメージを引き受けるということだ。デモが終わる頃、雨が上がり、上空に北からの冷たい空気が入って一帯を包み込んだ。しんとした秋の気配となり、濡れそぼった身体が芯まで冷え、体調を崩さないかと心配しながら帰路についた。先週と較べて、参加者の出足は鈍く、解散後に散る足は素早かった。人数が減ったなと驚いていたら、案の定、警察リークのカウントは前々回の2万1千人の3分の1の7千人に落ちていた。雨が災いした点が大きい。しかし、それだけでもないと思われる。7月から官邸前デモは高齢者の参加が目立って多くなっていて、膨らんでいく人数の主要な顧客層となっていた。高齢者にとって2時間の立ちんぼとコールは楽ではないのだ。健康を考えれば、デモの皆勤は難しいのである。
それと、反原発デモがニュース番組で頻繁に登場し、しかも内在的な扱い(特に報ステ)をされて紹介され、7/16の17万人集会の後はマスコミ報道の主役になった感があり、一つの達成感というか、これでまずは一安心という安堵の感覚がデモに参加者した人々の間に広がった点もあるだろう。6月の官邸前デモの焦眉の課題は、マスコミに何とか報道させることだった。その目標の攻防では、一区切りがついたと言える。遅ればせながら、TBSサンデーモーニングはデモを「風をよむ」で特集、NHKのクローズアップ現代も7/26に取り上げる。これらは示威行動の成果であり、コストを引き受けて辛抱強く歩道に立った市民が対価として得たものだ。Twitterを見ると、あるいはマスコミ報道でも、同じ市民がずっと参加し続け、全体の数と勢いが膨らんでいる印象を受けるが、実際にはその像は正確ではない。常連は確かにいるけれど、一回一回、参加者の顔ぶれは変わっている。風景に異同がある。注意深く観察すれば、デモは様相を変化させていることに気づく。誰もが一度は行くのだ。現在は、60代や70代の高齢者のところで意識が高揚していて、「孫たちのために自分が行かなきゃ」「居ても立ってもいられない」「デモをやらなくなった自分たちが悪い」という強い動機で、電車に乗って官邸前に足を運んでいるのである。彼らの中の少なくない部分が、60年代や70年代の青年時代にデモをした経験の持ち主でもある。
誰もが一度は行き、あるいは二度行き、そして特に高齢の参加者は、このデモの内容の単調さに飽きるのである。ずっと「再稼働反対」コールで場が埋めつくされ、他に刺激となる表現や主張の情報性がなく、起承転結の進行や企画性がなく、自分が何かを発信できるわけでもないから、早い話が退屈さを感じてしまうのだ。この点の感想については、子安宣邦の不満の発言がよく実態をあらわしている。60年代や70年代の若者のデモは、とにかく現場の周囲で熱く議論をするのである。情勢の分析だったり、デモの意義だったり、個人の生き方だったり、思想家や政党への評価だったり。そうした契機が官邸前デモでは摘み取られていて、「再稼働反対」コールと田中康夫の白風船の一色で塗り潰されていて、現場で何か自分が語ったり、誰かが何か言うのを聞くという場面がないのだ。ワンパターンの政治家やタレントのスピーチ以外は。二回三回と来ていると、その恐ろしいほどのコンフォーミズムを実感し、中国の文革や北朝鮮の反米集会を想起させられる。言葉は一つだけ(再稼働反対)なのだ。そして、デモをめぐる情報世界は事後のTwitterに限定され、そこではやはり、この単一方式のスタイルを賛美するよう主催者に促され、不満や反論は禁句とされ、恰も党中央の絶対的指令のように押しつけられ、賛同と賞揚と帰依のTweetが歓迎される。「文句があるなら自分で別に立ち上げろ」と排除されるのである。
批判する者に対しては、『1984年』のゴールドスタインへの罵倒攻撃の嵐となる。前回(7/20)、私は同じように国会記者会館前の一等席に立っていた。その場所は前々回のデモでもそうだったように、主催者にとっては厄介な「うるさ型」が勢揃いする鬼門で、公安刑事に向かって公然と野次を飛ばしたり、フジテレビの記者に暴言を吐いたりする豪の者が出現する。豪の者たちは午後3時から一等地に陣取っている。主催スタッフは、この場所で面倒なことが起きないように手を打ち、2人組でそこに警備に立ち、肩からハンドスピーカーを下げ、デモ開始の1時間前から大音量で音楽を鳴らしていた。雑音で一等席界隈を制圧したのである。そこで議論の輪が起きないように、警察やマスコミを非難するハプニングが起きないように、主催者への批判が共感の渦を起こさないように、狡猾に巧妙に策を打ったのだ。議論を封殺したのである。つまり、2人の若い警備要員はKGBの任務を担当していたのであり、誘導を表向きの任務にしながら内部統制をしていたのである。議論がないこと、議論をしてはいけないことがこのデモの特徴であり、参加者には「シングルイシュー」主義への翼賛が求められる。どうやら、若い人たちにはその方式について抵抗はなく、積極的に従い、「70年代の左翼デモ」や「警察と敵対するデモ」を悪罵して主催者に忠誠を誓っている。しかし、高齢の参加者はこの単色と統制が不自由に窮屈に感じるのだ。
三社祭りのワッショイも、青森ねぶたのハネトのジャンプも、年に1回だからいいのだ。あれを毎週続けて何度もやったら、やはり人は単調さに飽きるのである。看板のシングルイシューは、内実としてシングルモードになり、さらにone‐party ruleになっている。さて、7/20のデモの参加者が減ったことは気懸かりだが、7/20の鳩山由紀夫の登場以降、官邸前デモの関心は官邸と主催者との接触という問題に方向づけられることとなった。鳩山由紀夫に続いて、菅直人が野田佳彦にデモ主催者と面会しろと言い始めた。官邸前デモが、次第にマスコミの視野外の異端の位置からマスコミの世界に入ってきて、政局のキープレイヤーになると同時に、マスコミ関係者のネタの存在になりつつある。マスコミの政治記者のビジネス領域に入ってきた。これまでは社会現象であり、社会部記者の担当だった。これは、政界で影響力を失っている2人が、復活を目論んでデモを政局利用している図であり、主催者と野田官邸の間に入って存在感を示そうとしている政治である。私は、この動きは、デモを政治のチャンネルに繋げて回路を作る試みであると同時に、内側に取り込んで巧妙に骨抜きにする工作であると直感する。今後、政治の方から主催者に接触する試みが出るだろう。一つは、政府からの「野田総理との会談」に向けての懐柔工作であり、もう一つは橋下徹のスピーチコーナーの登場である。こうなって来ると、この政治の主導権はマスコミが握る。
おそらく、田原総一朗だとか、長谷川幸弘とか、マスコミの人間が接触を図ってくるだろう。彼らは、取材と称して主催者と個人的な人間関係を作り、主催者と野田政権をブリッジする工作員の役目を果たそうとするだろう。官邸前デモの今後について、私は悲観的な気分にならざるを得ない。マスコミは、「70年代とは違う一般市民のデモ」の表象を存分に利用し、その無色透明性を宣伝すると同時に、このデモが要求する政策(全基停止・即時廃炉)のラディカルさを剥ぎ取り、薄め、主催者をタレント化して政府側へ引き寄せるに違いなく、マスコミの工作員がそれに一枚噛むだろう。「昔のデモとは違うデモ」のフィクションとディスクールを、このデモの骨抜きのためにフル活用するだろう。主催者の思想の中にある反左翼主義がこの工作に引っ張られる磁力となる。骨抜きの工作員、それは田原総一朗でもいいし、菅直人と辻元清美でもいいが、まずは主催者を接待する饗宴から始まる。目の飛び出るような高級食材を並べ、酒盛りをしながら、左翼批判の大合唱で意気投合するのだ。「あいつらは何も分かってない」と。湯浅誠も、こんな感じで籠絡されたのではないか。「左翼の非現実主義」はキラートークになるのである。活動家の心をくすぐるのだ。橋下徹のスピーチコーナーの話は、こういう飲み食いの席でマスコミ関係者から持ちかけられるかもしれない。つまり、デモ主催者が労働貴族になり、体制側にべったりになる図である。3年前の派遣村と反貧困と同じコース。
二の舞だけは避けて欲しいと強く願う。
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thessalonike5
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2012-07-23 23:30
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