つなぐ 希望の木
災難を乗り越えてきた木々を、都内に訪ねた。
【社会】花街の記憶、残したい 阿部定事件の舞台 荒川・尾久
昭和初めの阿部定(あべさだ)事件の舞台となった東京都荒川区尾久(おぐ)のかつての花街で、地元住民が街の歴史を語り継ぐ活動を始めた。いまや面影を残すのは日本料理店一軒しかなく、当時を知る人が健在な間に、華やかな時代の記憶を残したいとの願いがある。 (井上圭子) 今月初め、尾久町会の渡辺康一会長(65)の呼び掛けで、十三人が懐かしい写真を持って町会事務所に集まった。かつての芸者屋や料亭などの経営者、元芸者ら「尾久三業地」(料理屋、芸者屋、待合茶屋の三業が集まった地域)を知る地元の人たちだ。 渡辺さんの家業は畳店。「見習いのころ、畳替えで検番に行くと『お兄さん、角が出てるとすり足でもつまずくのよ』なんてきれいなお姉さんに言われドキドキした」と笑い、「当時を知る人々が高齢化し、いま聞いておかねば街の歴史が風化する」と話す。 最年長参加者で小唄師匠・松峰照光(まつみねてるみつ)こと宮坂久子さん(89)は、十三〜五十歳まで芸者「小百合」として活躍した。「都心から適度に離れてるから、政治家や大企業の重役がお忍びで遊んだ。華やかだったわ」。尾久検番には日本初の芸者学校があり、三味線や長唄、絵や英語など十科目を三年で習得した。阿部定事件の年は見習いの「半玉(はんぎょく)」だった宮坂さん。事件数日後、現場となった待合「満佐喜」に呼ばれ、便所に入ったお客を薄暗い廊下で待ちながら恐怖に震えたという。 「あの時はやじ馬が線路まであふれて都電が止まったんだよね」「あれで有名になって三業地も潤った」。参加者たちは当時の思い出に浸った。 尾久三業地の歴史は一九一四(大正三)年、西尾久の碩運寺(せきうんじ)境内で見つかった温泉に始まる。ある日、けがした子どもが寺の井戸で傷口を洗うと、すぐ血が止まった。住職が調べると、ラジウム鉱泉だった。「寺の湯」と名付けた湯治場は評判になり、周囲に大きな温泉旅館が林立。押し寄せる客目当てに三業が発展した。戦後の最盛期には三十七軒の芸者屋と三十軒の料亭、三百三十人の芸妓(げいこ)がいたとの記録がある。六〇年代、周囲に工場が増え地下水がくみ上げられ、温泉は枯渇。花街も衰退した。 町会は今秋以降も会合を重ね、聞き書きや写真資料が集まったら一般公開するという。 PR情報
|