2012年07月22日

芥川龍之介の自殺の原因B

芥川龍之介の自殺理由は@キリスト教を理解できずに「のめりこんだ」Aマスメディアのバッシングに苦しんだ、と書いてきました。
最終章は「芥川龍之介は重病であった」とするものです。これらの要因が重なり合い、芥川龍之介は自分が分からなくなり、自暴自棄の行動に突き進んでしまったというのが私の分析結果です。

芥川龍之介の自殺理由とされる「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉はあまりにも有名です。
現在は精神医療体制が構築されていますが、芥川龍之介が生きた時代は精神病者が身を置く場所がなく、相談する専門家もおらず、芥川龍之介は病気を治癒することができずに死んでいった、精神病で苦しんだ経験のある私はそう考えます。

専門家の話に耳を傾けてみましょう。

IPT 対人関係療法でなおす、トラウマ、PTSD 水島広子著 創元社

<引用開始>
トラウマ(心的外傷)
対処できない程の衝撃を受けたときにできる心の傷

<中略>

本当は、治療が必要なPTSDという病気になっているのに、それに気づいていない人もかなりいます。

<中略>

乖離病状
乖離というのは、さまざまなレベルで意識の連続性、続合性が絶たれる状態をいいます。「自分を外から見ている感じ」「現実味がない」「ぼうっとしている」というようなものから、「よく覚えていない」「まったく記憶にない」といもの、そして、いわゆる「多重人格」まで、さまざまな形があります。
乖離症状」は、もともとは、自己防衛的な意味のあるもので、あまりにも苦しい状況に耐えられず、しかも、物理的に逃げ出すこともできない時に「精神的にその場から逃げる」という目的をもった、症状です。
苦しい状況から逃げられないでも、それ以上留まったら、頭がおかしくなってしまう、というような状況では、よくできた防御だと思います。
<引用終了>

「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」が自殺理由とするなら、芥川龍之介は専門家の言う「乖離病状」にあてはまります。私も経験がありますが、「見えないものへの不安」が自分を苦しめるのです。

さらに、です。私も発病から2年3ヶ月経った昨年7月に精神科医から精神の病気と診断されるまでは病気であることに気付きませんでした。芥川龍之介も病気を自覚していなかったに違いありません。

芥川龍之介の病状を今から探ってもあまり意味はないものと考えます。重要なポイントは、どうして精神の病を患ったのかを知ることです。

以下に私の推論を記します。

◆いわゆる天才的頭脳を有する芥川龍之介は、文学作品を執筆するとともに、優秀な頭脳ゆえに時事問題にも積極的に言及していた。そのことが、彼が描く理想と現実のギャップを深く認識させるとともに、ギャップを埋めることのできない自分のふがいなさを責めることにつながっていった。

◆芥川龍之介は、救われる(「救われる」とは本当の自分に戻ることの意味)ことを求めて聖書を読んだが、日本人にはまず理解できない聖書は救いとはならず、聖書が示す「前だけを見て進みなさい」という教えも行動に示すことができなくなっていた。

◆「輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たとひピストルを用ふる代わりに新聞の記事を用ひたとしても」という残された言葉が示すように、出る杭は打たれた。作家とは評価する者がいて初めて成り立つものであり、私刑(リンチ)による「自分では対処できないほどのショック」で心身ともに傷つけられた。

このようにして芥川龍之介は傷ついていったのでしょう。免疫力も衰えていたものと容易に推察されます。

五木寛之 大河の一滴より
<引用開始>
免疫について
<免疫>というシステムは、単に体のなかに侵入してくる異物を拒絶し、排除する自衛的なはたらきをしているだけではない、自己と非自己というものを非常に厳しく明確に区分けして<自分とはなにか>というものを決定するのが免疫の大きなはたらきであるということなのです。そしてその免疫は異物を拒絶するだけではなく、その異物と共存する作用ももちあわせているということなのです。
<引用終了>

福島第一原子力発電所の事故で「放射線被ばくはガンになる」と大騒ぎになって久しいですが、心ない言葉や批判も精神だけでなく肉体を傷つけるのです。放射線は細胞内の遺伝子を傷つけ、自分だけに与えられた、自分らしくなるための細胞分裂を妨げます。言葉による「ストレス被ばく」も同じです。活性酸素という毒素を発生させ同様に細胞内の遺伝子を傷つけるのです。

最後に、芥川龍之介の自殺が教えてくれることをまとめたいと思います。

それは、神との同盟関係を持たない人間は弱い存在であるということです。救われないからです。聖書には「救う」「癒す」「治す」「清める」「憐れむ」「あがなう」などの言葉が出てきますが、私はこれらの言葉の意味は一つであると解釈しています。文中にも記しましたが、その意味は「本当の自分、神が望む自分にリセットされる」ということです。

本当の自分でありつづけられれば、精神は安定し思い悩むことはありません。私は精神科医に「フラッシュバック症状がでないのはキリスト教信仰によるもの」とはっきりと言われました。

「イスラエルのために祈りましょう」という現在の日本のキリスト教を信仰すべきだなどとは言いません。しかしながら、人間の思考は宗教観と哲学から生み出されます。無知なオバマ大統領は、就任演説で日本人は神を信じないかのような暴言を吐いていますが、宮崎アニメに示されるように古来より日本人は神を信じてきています。

和魂洋才という「社会実験」は大失敗に終わりました。以前に「日本人脳と湯川秀樹博士の卓見」という記事を書きましたが、日本人は、日本人の遺伝子が言うがままに生きていくべきである、そのことを芥川龍之介の自殺が教えてくれていると私は信じています。


日本人脳と湯川秀樹博士の卓見

この記事には湯川秀樹博士の卓見が紹介されています。

つまり日本人はいままでなんとなく情緒的であるというていた。(西欧人が)論理的であるのに対して、より情緒的であるといっていたのが、構造的、機能的、あるいは文化といってもいいけれども、そういうところに対応する違いがあったということが、角田さんのご研究ではっきりしたわけです。

 そうするとそこで私が考えますことは、その違うということを生かすという方向です。違うということは上とか下とかいうことではなくて、その違いということを生かす。
(中略)違うがゆえに独創的なものが生まれるのである。 西洋に比べてあかん、劣っているという考え方が根深くあったけれども、そういう受け取り方をしたら劣等感を深める一方です
<引用終了>
http://dream333.seesaa.net/article/277163183.html
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「罪」と「罰」の違い

アメリカ犯罪史上悪名高いカルト教の殺人集団「チャールズ・マンソン」のスーザン・アトキンズは2009年9月27日に死亡しました。61歳だったとのことです。

チャールズ・マンソン
http://rockstarninegaio.web.fc2.com/beatles/manson/manson.bio.html

スーザン・アトキンズは、7件の第一級殺人罪に問われ、終身刑で服役していました。

彼女は、服役中にイエス・キリストを主として、救い主として受入れました。そればかりでなく、彼女は同じ刑務所で服役しているほかの数多くの服役囚たちにもイエス・キリストを受け入れ、救いに至るよう導いたのです。そして、クリスチャンとして天国へ旅立って行ったのです。

彼女がキリストを受け入れたきっかけは、あることを知ったからです。

複数の会ったこともない人たちから手紙が届き、そこには、天の神が彼女を赦して下さるほど彼女を愛しておられると書かれていました。そして、大勢の人が彼女のために祈ってくれていたことを知ったのです。

彼女が子供のころから彼女が知っていた唯一のことは憎しみだけでした。マンソンの一味になり、身の毛のよだつような殺人に加担したのはそのためです。
彼女は、以前に送られていた聖書を読みました。詩篇を読んでいると優しく、愛に満ちた天の父が登場します。このような愛が存在すること自体、今まで知らなかったことでした。

福音書にはイエス・キリストの生涯が描かれていました。愛に満ちた、寛大で優しく、なおかつ公正であり、正義の方であることを知りました。
そして、聖書の言葉から、彼女は一つの結論を得たのです。

「私が刑務所にいるのは、私が殺人犯だからではなく、神様が私を愛しておられ、私が悔い改めることにより、神様は私に、生きるための力を授けたいと思っておられるから・・・」

彼女は、神を受入れました。そして残りの人生を、神を信じ神のやり方で生きていく決心をしたのです。

スーザン・アトキンズは服役中でも、自由の身でした。神の御子イエス・キリストが罪から解放してくださったからです。
スーザン・アトキンズは刑務所にいても新しい人生を見出し、その人生を生きるための力をイエス・キリストを通して受け取っていたのです。

これが、スーザン・アトキンズのストーリーです。

出所:パワー・フォー・リビング

私たち日本人は、犯罪に関する捉え方を間違えていると思います。遺族感情に配慮しすぎるため裁判の判決も「感情的判断」に陥りがちです。私的制裁(リンチ)もまかり通っています。

スーザン・アトキンズの生涯から「罪」と「罰」は違うことを学ばなくてはいけません。
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クリスチャン「寅さん」に学ぶ

「天声妻語」中野雄一郎著 いのちとことば社より

<引用開始>
寅さんにならう 「個」として生きる大切さ
 いまだに人気がおとろえない映画「男はつらいよ」の車寅次郎(寅さん)は、日本の男性を代表する面とともに、クリスチャンをも代表する特徴を持っています。
 まずは、徹底して「個」というものに生きること。私は私、あなたはあなた、「個」というものに生きる姿です。
 山田洋次監督は、「どうして寅さんを作ったのですか」という問いに、「私は日本人に『個』というものを知ってもらいたいのです。けれど、高い所から説教したって聞かないから、涙と笑いのペーソスで『個』を表わしました」と答えていました。 
 ですから、第一作で、寅とその妹さくらの婿になる博とのやりとりに、こんな会話があります。寅が「さくらはおまえのような職工にはやらない。少なくとも大学を出ているようなサラリーマンだ」と言うと、博が返します。「サラリーマン?お兄さんは大学を出ているのですか?」寅はぐっと詰まる。「てめぇーな、てめぇとおれは違うんだ。いいか。てめぇがさつまいもを食べて、おれがぷっとおならを鳴らすか?」
 このエピソード、実は京都のある大学生の先生が、哲学の教科書の冒頭に載せています。彼いわく。「これほど日本人に『個』というものをわからせたことばはない」。確かに寅は、「私は私。おまえはおまえ」と、今日も旅から旅、足の向くまま、風のむくまま、まさしくこれは「個」というものに生きる、あるいは神の前に「個」として生きるクリスチャンの一つの姿だと言えますね。
<引用終了>

寅さんと福音

<引用開始>
■そのとき、弟子たちがイエスのところに来て言った。「それでは天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか。」そこで、イエスは小さい子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子供たちのようにならない限り決して天の御国には、入れません。だから、この子供のように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18:1-4)

『寅さん』ほど“個”を通す人はいない。下品で軽率な中にも深いモノが隠れている。だから、否定を得て後に肯定を得る ! 人が何を言おうが「私は私」を貫く寅次郎。「オンリーワンにならなけりゃナンバーワンにはなれないんだよ。」と彼は言うし、示す。寅次郎は、義理の弟ひろしに向かって、「ヒロシ、お前が芋食って、俺が屁するか ? これ位、人というものは違うんだぞ。」と、“本質”を鮮やかに示します。日本人は“人・周り”というものにとらわれ過ぎて生きている ! 自分は自分なんですよ“個”を大切に ♪
<中略>
◆付記
◇僕は渥美清さんほど謙遜な方を知らない。(山田洋次・談)
◇渥美清さんの奥さんは熱心なクリスチャンでした。彼女の祈りに支えられて、彼も病床洗礼を受けて天に召されました。天国で寅さんに会えるなんて嬉しいね!ハレルヤ!!
<引用終了>
http://www.goodnewsstation.com/article.php?article_id=94

欲動だけを価値観とする読売新聞の門間順平記者が「子供のような無垢な心」を取り戻すよう、主イエス・キリストの御名によりお祈りいたします。アーメン
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2012年07月21日

日本のグランドデザインを考える その1「 政治理念」

「日本のグランドデザイン構想会議」と名のつく会議があるが、読むに値しない報告書が出されるに違いない。その理由は簡単である。過去の延長線上のミクロ、インサイドアウト(部分から全体を見る)の発想からの構想に違いなく、日本人と一部のアメリカ人以外には全く評価されないものであるからだ。

マクロ、アウトサイドイン(地球全体から日本を見る)視点で何回かに分けて日本のグランドデザインを考えてみたい。

前提として
@東日本大震災で日本人にパラダイムシフトが起こったこと※
A筆者が提唱してきた「護送船団方式が日本経済をダメにする」は正しかった
B政治も行政もここ数十年間「大失敗」してきたから現在の荒廃社会が存在する
などの要因があげられる。

※パラダイムシフト ウィキペディアより
パラダイムシフト(英: paradigm shift)とは、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命的にもしくは劇的に変化することを言う。パラダイムチェンジとも言う
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%88

そのうえで、以下のシーケンス(正順)に基づき論じていきたい。基本的に孫正義氏の理論と筆者がディズニーで学んだ「価値を生み出す装置づくり」の要諦は同じである。
@政治理念が第一である
A理念を「見える化」したものがビジョンである
Bその上で、「戦略」→「戦術」→「実行計画」を作成するのである。

第一回はグランドデザインを描くために必須な政治理念について考えてみたい。

政治理念と言っても決して難しく考えてはいけない。再出発の日本に必要な政治理念は、日本国憲法前文に書かれているのであるから。

日本国憲法前文
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM

「自由のもたらす恵沢」、「福利は国民が享受する」、「人類普遍の原理」、「政治道徳の法則は、普遍的な者であり」、「崇高な理想と目的」。まさに、欧米人的発想のマクロの理念そのものである。

この理念の下に「条文」という「見える化」したビジョンが示されている。しかしながら、その条文は官僚の都合のいいように解釈され今日に至っている。

第一五条
@公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
Aすべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

公務員の身分保障など一言も書かれていない。誰が読んでも公務員は「罷免」できると解釈するが、日本の官僚の読み方は違うようである。

公務員倫理法
憲法15条は、公務員を選定・罷免することは国民固有の権利であるとさだめているが、これは、個々の公務員について直接に国民が選挙したり罷免したりする意味ではなく、公務員制度が国会の統制下におかれなければならないことを意味する。

引用元
懲りない面々、処分つづく大阪市職員。大阪市議 辻よしたか氏のブログから
http://tsujiyoshitaka.wordpress.com/2008/03/29/%E6%87%B2%E3%82%8A%E3%81%AA%E3%81%84%E9%9D%A2%E3%80%85%E3%80%81%E5%87%A6%E5%88%86%E3%81%A4%E3%81%A5%E3%81%8F%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%E8%81%B7%E5%93%A1%E3%80%82/

筆者は、ここまで国民を愚弄してきた官僚に「過去の延長線上にない改革」を求めても「実(じつ)」は取れないと考える。それよりも、筆者の持論である「30年かけて自然消滅的に公務員をゼロにする」方が、日本の将来を容易に展望できるようになる。

話を政治理念に戻す。

「自由のもたらす恵沢」、「福利は国民が享受する」、「人類普遍の原理」、「政治道徳の法則は、普遍的な者であり」、「崇高な理想と目的」をかみくだいて表現すればいいだけであり、政治理念が憲法前文に示されたマクロの論理、「人類普遍の原則」から逸脱したものであっては絶対にいけないのである。それはまさに憲法違反なのであるから。

このようにマクロの視点から日本の政治を考えないと日本は到底世界から尊敬される国家にはなれないばかりか、「青い顔」をした国民ばかりの国家になってしまう。

繰り返すが、政治理念を明確にすることは難しいことではない。筆者は鳩山内閣の友愛政治理念を高く評価してきた。いや、いまでもである。しかしながら鳩山政権には崇高な政治理念をビジョン化し、戦略化する能力がなかった。
思想は崇高でも、官僚組織というあたかも自らが行政を司る者とおごっている組織には到底伝わる訳がなく、無残にも自滅していってしまったのである。

筆者は今、手あかのついてしまった友愛社会という言葉に変わる「価値観の表現」を考えているがなかなか決定できないでいる。「生活が一番」などというミクロの発想ではなく、日本人やこの国に住むすべての人々が「よし、参加しよう」と言ってもらえる社会づくりの合言葉を見つけ出したい。

「博愛社会」「心の平安社会」も候補である。「希望社会」と合わせて「博愛希望社会」なども考えられる。
憲法からの「福祉恵沢社会」は堅すぎるだろうか。

ドリーム党が掲げる政治理念についてまとめると
◆人類の普遍性というマクロの発想から政治理念が決定される
◆打ち出された政治理念に基づき、憲法の条文解釈にも変更が加えられなくてはならない
◆国民誰もが目指す社会づくりに参加しようという気になる「価値観の表現」が必要である

最後に、国名変更に関する請願活動も行っていきたい。

日本国憲法第一六条 
何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

マクロの視点で日本の将来を考えた場合、JAPANという英語の登録国名を変えるべきである。「The republic of Nippon」が新しい日本、それは真の「戦後」を終わらせる再生日本民族にふさわしい国名である。
Japaneseという英語もなくしたい。People of Hollandのようにpeople of Nippon がいい。

共和国ウィキペディアより
共和国(きょうわこく、republic、羅: res publicaレース・プーブリカ)とは、国家が国民全体に所有されている状態、すなわち君主が存在しない国家である。対義語で、君主が存在する国家(王国、帝国など)を君主国という。同義の漢語には民国(中華民国、大韓民国)がある
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
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脱原発 再生可能エネルギー国家像が見えてきた

筆者は「日本は大丈夫、技術力で中国に追いつかれることは絶対にない」という信念を持って発言しているが、それを裏付ける朗報である。

本日の報道から
<引用開始>
製紙各社、エネルギー事業で売電本格化 「買い取り制度」参入後押し
洋紙や板紙の需要低迷に苦しむ製紙各社が、自家発電設備などを活用して発電事業の強化に乗り出している。業界2位の日本製紙グループ本社は傘下の日本製紙が5月、大口需要家に売電できる特定規模電気事業者(PPS)に登録し、供給先の多様化に乗り出した。業界首位の王子製紙も生産能力の削減で生じる余剰電力の活用などで発電事業を拡充する。各社ともエネルギー関連を有望事業と位置づけ、収益の柱に育てたい考えだ。
<引用終了>
http://www.sankeibiz.jp/business/news/120721/bsc1207210500000-n1.htm

筆者は以前からこの記事に注目し、環境展エコプロダクツで日本製紙に接触したこともある。
5年以上前のこの記事を読み、上記危機との関連性を考えてみて欲しい。

<引用開始>
製紙業界、ボイラー燃料のバイオマス化加速 原油高で
2007年02月06日17時00分
宮城県石巻市、旧北上川の河口近くにある日本製紙の石巻工場。写真のカラー印刷に適した塗工紙など印刷用紙、新聞用紙などを11台の製紙機で年95万トン生産する同社の基幹工場だ。
 この工場で昨年10月、53億円を投じたバイオマスボイラーが稼働した。外部から買ってきた建設廃材などの木くずや、工場排水から回収する木材繊維などの燃料を、コンベヤーで炉の上部まで運んで投入。850度の砂と混ざりながら燃え、1時間に最大180トンの熱蒸気が発生する。この蒸気で製紙機の動力になる自家発電用タービンを回し、紙の乾燥にも使う。
 稼働に伴い、重油ボイラー3基のうち1基を止めた。同工場の重油使用量は以前の6割減の年3万7千キロリットルに。重油の購入量が減り、木くずなどの購入費を差し引いても収益が良くなった。「計画時は年10億円の改善を見込んだが、原油高騰で20億円超に上りそう」と兼子誠工場長。
<引用終了>
http://www.asahi.com/special/070110/TKY200702060316.html


被災した日本製紙石巻工場も生産を開始した。心から祝福したい。

2012年5月9日 石巻工場でコピー用紙の生産を開始
http://www.np-g.com/news/info12050901.html

これらの記事を読めば、誰でも「日本は大丈夫だ」と思えるに違いない。

残された問題は一つである。石巻工場はがれきの木材を使用しているのだろうが、事業用と捉えられることを恐れ、積極的に木材がれきを受け入れていない可能性がある。この問題をクリアすることと、全製紙会社が日本中の森林から加工用木材チップや燃料用の木クズが安定供給されるシステムを政治主導でつくっていくことである。

こうすることにより、菅直人前首相が言う「再生可能エネルギーへの投資は、日本の成長戦略のかなめになる」のである。

菅直人の今日の一言より
<引用開始>
再生可能エネルギーへの投資は大半は国内需要となり、雇用拡大にも役立つ。その上、再生可能エネルギーは石油や天然ガスのように外国から輸入する必要がないので、その点でも国内需要につながる。

  経済界も、原発シフトから再生可能エネルギーシフトへ転換しつつある。福島沖の浮体の風力発電計画やスマートグリッドなどの分野に、日立、東芝、三菱重工など従来原発建設の中心企業も参加している。日本の成長戦略のかなめになるはずだ。
<引用終了>
http://ameblo.jp/n-kan-blog/entry-11307898432.html

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明石市の花火大会歩道橋事故と東日本大震災

まず、朝日新聞のこの記事をご覧ください。

<引用開始>
「責任所在 明確に」/明石歩道橋事故裁判2012年07月19日

2001年7月の花火大会で見物客11人が死亡した明石市の歩道橋事故をめぐり、幼い子どもや母親を亡くした遺族3人が18日、神戸地裁で意見陳述した。1人ずつ証言台に立ち、「組織の責任の所在を明らかにし、警察と検察の使命を問う判決を」と訴えた。
 意見陳述は、事故を予測できたのに対策を怠ったとして業務上過失致死傷罪で強制起訴された元明石署副署長の榊和晄(かず・あき)被告(65)の公判で行われた。
<引用終了>
http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000001207190006

今日21日は、11人の尊い命が奪われたあの痛ましい事故から11年目に当たります。遺族にとっては命日です。

私は、以前に書いていたブログでこの事故の真因を伝えたいと何回も記事にしましたが、遺族に伝わることはありませんでした。神戸新聞などの機関にメールを送りましたが、返事が来ることはありませんでした。

改めてお伝えします。この事件は冤罪事件に属するのです。なぜならば、圧死させた加害者、つまり直接「手掛けた」犯罪者は、県警でも明石市でもありません。警備を担当した警備会社は「間接殺人者」としての業務上の過失は問われ、刑は確定しています。

それでは、「直接殺人者」とは誰でしょうか。それは「群衆」です。事故報告書にも「後ろから押された」という証言が明記されています。

どんなに込み合っていても、全員が「小さく前へ、ならえ」状態なら「群衆なだれ」など起きようがないのです。

歩道橋の駅側から海岸側に向かっていた人たちの中の、危険予知能力に欠けた若者達の集団が、ラグビーのスクラムのように前の人を押した事が事故の真因なのです。
事故調査委員会や警察は本来なら歩道橋にいた人全員の事故発生時の位置とその行動を特定し、事故を引き起こしたこの若者達の断罪を行なう必要があったのでしょう。しかしながら、「はい、私が押した結果により11名が亡くなりました。どうぞ刑務所に入れてください」とは誰一人申し出ないことは明白です。調査委員会も仕方なく事故責任を警察、警備会社、明石市の三者に分割するような報告書を作成したのでしょう。

 最高裁まで争われる可能性もありますが、変わってしまった日本人の気質と失われた日本人の危険予知力が、歩道橋事故後も、多くの事故や犯罪の温床になっている事実を、日本社会は認識すべきです。

発生のメカニズムも単純です。一車線のトンネル内で車両同士が向かい合っている時、両車両の後続の車両が、前の車両を意識的に押しつづけることにより、先頭部分に後続車から伝えられたエネルギーが集中し、先頭車両同士も衝突します。エネルギーが大きければ、先頭車両はせり上がり「なだれ」になって落下するという極めて単純なメカニズムです。

どうすれば防止できたのか、その答えも明白です。警備会社が群集心理をわきまえ、「正しい方法」で群集をコントロールしていれば簡単に防ぐことができたのです。東京ディズニーランドに開園当初から存在する安全管理上のゲストコントロール理論とノウハウを学んでいれば、11人が犠牲になることはなかったのです、

尼崎JR脱線事故然り、シンドラーエレベーター事故然り、六本木ヒルズ回転扉死亡事故然り、安全管理の理論もノウハウも持たない現場経験のない「無知害」人間である裁判官や事故調査委員が事故の真因にたどりつくことは決してありません。反対に、罪のない警察や明石市が冤罪被害者になってしまうのです。

現在も進行中の明石市の花火大会歩道橋事故の裁判の争点も警察は「予見できた」「予見できなかった」というものです。

明石市の花火大会歩道橋事故ウィキペディアより
<引用開始>
刑事裁判では兵庫県警が計画策定と当日警備の両方の業務上過失致死傷容疑で、明石署、明石市、ニシカンの当時の担当者ら計12人を書類送検し、うち当日警備の5人を神戸地検が在宅起訴。
神戸地裁で2004年12月17日、警察1名、ニシカン1名に禁固2年6月の実刑、市3名に禁錮2年6月・執行猶予5年の有罪判決が言い渡された。
<中略>
当時の警察官20人を事情聴取や事故当日の無線記録を再捜査した結果、副署長は計画段階では歩道橋周辺に警官を固定配置し、必要があれば機動隊などを投入する権限を現場指揮官だった同署地域官に与えて事故防止に必要な一応の措置は講じており、雑踏警備の計画策定段階での注意義務違反や警備当日に事故を予見できたことを裏付ける証拠が出ず、公判を維持して有罪に持ち込めないとし、法と証拠にもとづいて適切に判断した結果としている。
<引用終了>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E8%8A%B1%E7%81%AB%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E6%AD%A9%E9%81%93%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E6%95%85

東日本大震災では多くの逃げ遅れや原発からの避難という多大な被害者を生み出しました。巨大津波の襲来も全電源喪失も「予見できた」「予見できなかった」論争を出発点にすると、明石市の花火大会歩道橋事故のように、決して納得できる解決には至りません。

アナロジー(類推)的に考えると、津波で亡くなった人の遺族は、市町村や県という自治体に「予見できた」として、効果的なエバキュエーションevacuation(避難)訓練を怠ってきたと裁判に訴えることも可能になります。なぜならば明石市の花火大会歩道橋事故では、明石市の職員に有罪の判決が下っているからです。

私の持論は「この国の国家運営システムの全面的見直し」ですが、特に安全管理の問題では「予見できた」「予見できなかった」ではなく、「想定作業を行ったのか」「想定作業を行わなかったのか」という安全管理論の鉄則を出発点にしていかないと、30年経ってもこの国に平安は訪れないと考えます。

明石市の花火大会歩道橋事故から11年が経ちました。個人に与えられた時間は有限の財産です。誰にも奪う権利はありません。冤罪事件に巻き込まれた被害者は、貴重な時間を奪われ苦しみ続けるのです。

以下、過去に記した記事を掲載しておきます。

2005年10月31日
ブログの役割と明石市花火大会歩道橋事故

ホスピタリティ経営をテーマにした講演を終えた翌日、明石市花火大会歩道橋事故の現場を訪れました。

ショックでした。

簡単には説明できませんが、11人もの尊い命が奪われたこの事故の真因にたどり着いていてしまった、そのことがショックであったのです。

「ブログ 世界を変える個人メディア」を出版したダン・ギルモア氏は、ブログの重要な役割の一つは、マスメディアの批評家として機能することであると述べています。

氏の母国、アメリカであればその通り!と言えるのでしょうが、残念ながら日本は違います。
日本全国470万人のブロガーは、マスメディアだけではなく「政治家」「学者」「学識経験者」「官僚」等、世論を構成することに影響を与える人々全員を批評の対象にすべきです。

この忌まわしいこの事故の現場を訪れその意をさらに強くいたしました。

私はこの事故のニュースを聞いたその日から、今日までの大きな「流れ」を予測していました。

本当の犯人を取り逃がす。
日本中の自治体はこのようなイベントを取りやめるようになる。
規制緩和でなく、規制強化の方向へ警備業法が改正される。
今後の防止対策となりえる「事故報告書」が出されることはない。

千葉県の印旛沼花火大会は、毎年30万人を集める行事であったが、今年は中止された。4年前に兵庫県明石市で起きた事故の教訓で警備費が膨らみ、一方で協賛金が集まらない。

「明石市の事故は各地の花火を変えた。どこも警備費を増やし、観客の誘導が綿密になった」以前なら50人で足りた警備員を昨年は299人雇った。

8月7日の朝日新聞 天声人語より引用

警備業法も予想通りの内容に昨年6月改定されました。自民、公明が賛成、野党は反対、参議院議員であった田島陽子氏も議会で質問しています。


今年の6月の神戸地裁での判決は明石市、警察、警備会社の三被告の怠慢を事故原因とし、軽重関係もないとしました。

この判決は誤っていると考えます。

私は、事故が起きた7月の末に当時の岡田明石市長あてに文書を送っています。ポイントは以下の通りです。

警備を担当した警備会社に7割の責任がある。
歯医者が心臓手術を行ったようなものである。
明石市には警備会社の無能ぶりを知らずに業務委託した責任がある。


現場を視察して「ショック」の前に ビックリ! することがありました。

歩道橋は「平ら」だと考えていたのですが違いました。朝霧駅から海岸方面にかけて「スロープ」になっていたのです。持っていたペットボトルを置くと海岸方面に転がっていきました。

つまり、この歩道橋に滞留し事故に遭遇されたほとんどの方々は「つま先下がり」の状態で立っていたことになります。この状態で後ろから押されればとんでもないエネルギーが働くことは、物理が得意でない私にも容易に推察できます。

この事実は事故報告書には全く触れられていません。
改めて事故報告書に目を通してみましたが、真の事故原因について述べていないことに気付きました。

小書「すべてのゲストがVIP」の中で繰り返し述していますが、ディズニーランドの安全管理に関するノウハウは卓越しています。当然ですが大観衆の安全誘導においても同様です。

私を含めディズニーランドのスーパーバイザー経験者は、安全誘導の基本的考え方、そのノウハウを“厳しく”叩き込まれています。

一方、報告書を作成された6人の方々は弁護士や大学教授の「学識経験者」であり、「やったことがない」方々です。

目の付け所が間違っている、私はそのように感じました。

さて、ショックの話に戻します。
警備会社は何をやっていたのか! 疑問を超え「怒り」の念を禁じえませんでした。

駅周辺の導線や歩道橋の状況を考えると、大観衆の安全誘導にはかなりの困難がともなうことも容易に想定できました。

しかしながら、困難であればあるほど万全をつくすことを要求されるのがディズニー方式です。

どことどこにスタッフを配置し、どのような職責を与えればよいか。
想定外の状況が発生した際、危険を回避するため誰にどのような判断をさせるか。
二重、三重の安全装置は必要か。

担当した警備会社には危険予知能力がまったくなかった、ディズニーでは当たり前のことがこの事故現場では全く行われていなかった・・・このこともショックの一因です。

そして、
私が関わっていたなら事故を防ぐことができた。
そう考えると何か胸が締め付けられる思いにかられました。

大阪でのホスピタリティ経営に関する講演で、ホスピタリティ経営とは、

ホスピタリティ・マインドを持ち
ホスピタリティ・マネージメントにより
ホスピタリティ・オペレーション(心を込めた現場運営)を行うこと

そのように述べさせていただきました。

警備を担当したこの警備会社が「ホスピタリティ経営」を目指していたなら・・・このような悲惨な事故は起きませんでした。

そのことを痛感しました。
ショックでした。
 
この事故についてはブログ中で可能な限り語っていきたいと考えております。

今後、多様な専門性を有したブロガーが、マスメディアや学者たちに対し様々な批評をしていくことこそがこの国の閉塞感を打ち破る唯一の方法である、私はそう考えます。

最後になりますが、この事故の犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈りいたします。


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2012年07月20日

狭山茶の根源と源頼朝の教養

「牟佐志の地」の狭山茶と「川越の地」と「川越茶」についてまとめてみたい。

中世の歴史と「禅」と「茶」栄西 多賀宗隼著 吉川弘文館
<引用開始>
頼朝の教養
頼家・実朝と父頼朝は十三歳まで京に育ち、その都会人らしい風格はその人品骨柄・言語の端々にあらわれていた。威儀荘重・「容貌優美にして言語分明」と『平家物語』は報告しており、和歌をよくし、書に巧みな、文化的教養の持ち主であったことは今に伝わる詠歌・筆蹟がこれを証明している。ただ関東武士の純朴・質素の風を維持せんためには、つとめて個人的趣味と京都風風格を蔽うて(おおうて)示さぬを常とした。

<中略>

禅と茶
禅と茶と。それは今日の日本にとって、いかにも日本的な名であるが、これを歴史的にみると、それはすぐれて中世的なものであり、中世日本の象徴であるというも過言でなく、中世の歴史は、禅と茶を外にしては語りえないのである。
 中世を通じて、京都と鎌倉と二つの政権と文化の中心には、臨済宗が、世・出世を通じて、支配的な力をふるった。両都にそれぞれ五山をはじめ禅宗の大伽藍が甍をならべ軒を競うて、時の権力者、文化の指導者であった公家・武家の上層部の信仰をあつめた。一方、曹洞宗はおもに地方に発展して、これまた地方豪族・武士・民衆の帰依を得たのであり、かくして禅は中央・地方にわたり、わが国の仏教を代表する一大勢力となった。勢いの及ぶ所、日本の文化の禅宗化の風を馴致し、思想・芸術ないしは政治・外交・経済より、日常の行儀・風俗から飲食・言語に至るまで、禅を離れてほとんど存じ得ず、考えざるに至った。
<引用終了>

禅寺流通システム.JPG

中世以降の禅寺必需品の流通システム



以前にも紹介したが、元狭山村と秩父地区、青梅地区は方言を共有する。同じ「天領の民」として、時の政権の禅寺必需品の生産と流通を担っていたのである。秩父地方で生産された「桑茶」と青梅梅郷で生産された「梅」は狭山茶の生産拠点の元狭山村に集められ、二本木宿を通じて各地へ送られたことは疑うことができない史実であると考えられる。実際に、以前に紹介した宮寺地区の出雲祝神社の茶碑の背面には、江戸時代に狭山茶流通に関わっていた生産者や流通者名が明記されている。

さて、筆者がどうしても整理しておかなくてはならない問題の一つに「川越領」の問題がある。現在の川越市は川越を狭山茶発祥の地としているが明らかに違う。

川越市の天台宗の寺院には「狭山茶発祥の」の石碑が建っている。これは760年に遣唐使して唐に渡った最澄がその種を比叡山に植えたものだという。その種から茶樹になり、その実を天台宗の寺院に蒔いたとしてもおかしくはない。

しかし、である。それ以後川越地方がお茶の生産地になったのかというと、記録もなければ現在も産業として何も残っていない。

つまり、最澄が川越にもたらしたお茶と茶祖栄西が「茶禅一味」としてつくらせた現在の狭山茶とはルーツが異なるのである。

冷静に考えると分かる。川越には20以上の曹洞宗の寺院がある。筆者の知る限りでは臨済宗の寺院は確認できない。曹洞宗には「茶」「梅ぼし」のほか、「豆腐」と「納豆」が欠かせない。筆者は、広い川越平野では、米とともに、大豆を生産し、豆腐や納豆に加工していたものと類推する。現在も納豆の名店や歴史ある醤油メーカーが残っている。茶をつくるのではなく、大豆をつくり加工する方が時の権力者にとって生産性が高い、つまり収入が大きいのである。

川越市は、狭山茶の発祥地という看板を降ろし、豆腐や納豆の名産地であることを誇るべきである。

さて、冒頭の引用文のように臨済宗は「時の権力者、文化の指導者であった公家・武家の上層部の信仰をあつめた」が、【中村家】を中心とするまさに時の権力者が建立した建長寺派「五人組」は、源頼朝のポリシーである「関東武士の純朴・質素の風を維持せんためには、つとめて個人的趣味と京都風風格を蔽うて(おおうて)示さぬ」姿勢を貫き通した。

「牟佐志国」を1192良い国にするためには、「牟佐志国」の「川越の地」を支配する者たちと調和しなくてはならない。

筆者は江戸初期の寛永年間の読み物である「カムイ伝」を読んだ印象が忘れられない。下人に非人と悪徳代官、侍たちなどが繰り広げる「弱肉強食」の生き抜くための死闘を描いている。

時の権力者は「牟佐志国」の「狭山の地」「牟佐志の地」にも「川越の地」にも、下人を大事にしない地域、カムイ伝の世界があってはならない、そう考えていたに違いないのである。

最後に、源頼朝の頼朝のポリシーで発展を遂げた「牟佐志国」づくりであるが、時は経ち明治2年に韮山県に提出したに二本木村の「五人組」がいち早く提出した五人組帳を再掲示しておく。

「五人組帳の掟を堅く厳守し、親子兄弟夫婦をはじめ諸親類が相親しくし、また下人を憐れみ、農業を怠らず、全ての面で分限を守り、年貢も滞りなく納付することを誓約したもので韮山県の支配に忠誠を誓う」

五人組帳
庶民の隣保組織として江戸時代に組織された五人組が遵守すべき法規を記載し、追判帳簿。御法度書あるいは御請書ともいう。五人組帳は前書と請書とからなる。全書に町村役人と五人組が連名連判を加え、一つは領主に提出し、もう一つは町村に保管した。
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希望が浮かぶメガフロートの将来像

福島第一原子力発電所の事故に伴う汚染水の処理の問題で、久しぶりにメガフロートが話題になりました。

汚染水保管メガフロート、5億円で東電に譲渡へ 静岡市
http://www.asahi.com/national/update/0116/TKY201201160452.html

鳩山政権の頃ですが、私はメガフロートに大きな可能性を見出していました。当時まとめたレポートを公開します。


普天間移設、迷走の末の「現行計画回帰」?
読売新聞 04月25日09時20分

<引用開始>
 沖縄の米軍普天間飛行場移設問題で、日米両政府が2006年に合意した米軍キャンプ・シュワブ沿岸部(沖縄県名護市辺野古)への現行計画が再び検討の俎上(そじょう)に載せられたことが24日、表面化した。

 鳩山政権が7か月余り否定し、迷走した末の「現行計画回帰」に対し、沖縄の反発が一層強まるのは避けられない。

<中略>

 ◆メガフロートまで
 政府関係者によると、政府内では年明け以降、沖縄県内外の約20か所について「技術的検証」を行った。自民党の橋本政権下で浮上し、予算や技術的難点の多さから消えた名護市沖合に構造物を浮かべる「メガフロート」案まで技術者を呼んで研究されたという。
 メガフロートは、空洞の金属製の箱を組み合わせた浮体構造物で、90年代、日米の沖縄施設・区域特別行動委員会(SACO)などが実用化を検討した。最大の理由は、構造物が撤去可能なうえ、海の生態系への影響が少ないとのふれこみで、沖縄県民の理解を得やすいとの思惑からだった。今回の再浮上も同じ理由だ。
 だが、シュワブ沖は波が荒く、防波堤が必要で、「工費は1兆円を超える」(防衛省筋)との見積もりもある。総工費約4000億円とも言われる現行計画を「金がかかりすぎる」と否定してきた政府の主張とは大きくかけ離れる。
<引用終了>
http://boeinews.blog2.fc2.com/blog-entry-71.html


工費1兆円について再度検証してみます。報道は防衛省筋の見積もりを根拠に1兆円と書いていますが、まさに「勉強不足」としか言いようがありません。

この1兆円の根拠を推察すると、メガフロート基地の東方に、滑走路以上の長さの防波堤をつくることが前提になっていると考えるのが、「何としても埋め立てる」ことを最優先させる利権者の思想であると思います。

水深が数十メートルの沖合数千メートルに、既存のコンクリート製防波堤を建設すれば、確かに数千億円かかるのかもしれません。

しかし、です。メガフロートの動揺特性と使用方法を考えたとき、私は防波堤を建設する理由は見当たらないと考えます。

その理由です。
メガフロートは揺れません。

メガフロート技術研究組合のホームページより
<引用開始>
動揺特性
 メガフロートは、海の中に建設されますから、当然波を受けます。この波の中で、揺れて船酔いしないかという疑問をお持ちの方も多いと思います。しかし、メガフロートは、その名前のとおり、巨大なるがゆえに揺れません。一般に、小さな船より、大きな船のほうが揺れないことは、皆さんも経験されていることと思います。これは、波長に比べ浮体の長さが長いほどたくさんの数の波を受けるため、持ち上げようとする力と引き下げようとする力が、互いにその力を消しあってしまうからです。そのため、メガフロートでは、波による上下動も回転も起こりません。

そもそも、メガフロートの研究開発は、メガフロート上で人が経済的な活動を行うことも視野に入れてなされたものであり、ヘリコプターや航空機の離発着という極めて稀な使用方法に限って研究開発されたものではありません。以下に示したページの写真のような使用方法であれば、場所により防波堤は必要であるのかもしれませんが、今検討さているのはアメリカ軍基地であり、芝生が敷かれた海上空港ではありません。
<引用終了>
http://www.srcj.or.jp/html/megafloat/whatmega/what_index.html

訓練されたアメリカ兵が基地として使用する障害はまったくない、そう断言します。

◆船として考える
陸とつなげ、固定された場合は船ではありませんが、固定物を外せば船になります。それも世界一の長さを持つ巨大船になります。(確か、世界一のタンカーの長さは500m位です。)

船として考えた場合、同じ船である巨大航空母艦には防波堤が必要でしょうか。誰が考えても「不要」と言うでしょう。メガフロートというと「鉄製のいかだ」をイメージしますが、理論的には、巨大タンカーや、巨大航空母艦と同じ高さのメガフロートを建造することは可能です。

つまり、「沖合に防波堤を建設しないと波により使いものにならない」という埋め立て至上主義者の理論は破綻しているのです。

◆メガフロートの無限の可能性
海上基地として
以前に記したように、アメリカ軍や国連は移動式の海上基地を有することになります。国連は、メガフロート基地を震災などの被災地に派遣し、効果的な救援活動を行うことが可能になります。

巨大いけすとして
日韓、日中、日台、日ソ間で協働することにより、メガフロートを用いた水産物の生産基地に活用されるようになるに違いありません。海洋バイオマスの生産にも活用されます。

レジャー施設として
私は本気で「ひょっこりひょうたん島」構想を考えています。リーマンショックの影響で中止になりましたが、横浜開港150年祭に合わせ、大型フェリー内をドラえもんパークに改造し、日本各地の海でエンターテイメントを繰り広げる計画がありました。
規模を拡大し、ドラえもんや宮崎アニメなどの日本の財産や緑を満載した「ひょっこり島」を生み出し、人々が楽しんだり、良質な美術や芸術に触れたりできる、家族で楽しめるエンターテイメントの場を生み出したいと考えます。
夏場は、危なくないように仕切った「洋上プール」で子どもたちは思う存分泳ぐことができます。さらに、全天候型の(人口)釣り場も設営されますから、釣りファンにも愛される場所になることでしょう。

難民救済用「友愛メガフロート」
日本は、インドシナ難民の受け入れの問題に苦労していると聞いていますが、簡易住居付きキャンプ用のメガフロートと、陸上に木造物を建設する拠点となるメガフロートをセットで展開することにより、難民問題においても、国際社会に大きな貢献ができるものと考えます。

海上農地として活用
規模の問題は残りますが、諫早湾の堤防開門後の農地として活用することも考えるべきです。木製ハウスではありますが諫早湾のメガフロート上に、日本の技術の粋を結集した24時間、365日稼働する「農地」を創造し、干拓地で営農していた方々が組合をつくり生産活動をしてもらいます。
この、巨大な実験を成功させることは、北海道の襟裳町などの小さな漁村でも通年の「仕事」が得られるということを意味し、全国各地で展開されることにより、日本の食糧自給率を高める切り札になるに違いありません。地方で生きていく勇気も沸いてくることでしょう。もちろん、今年のような異常な野菜不足などの問題も解消されます。

世界の水問題解決の一助に
ノルウェーで開発された手法で、巨大な水袋を水が不足している国へ曳航するという対策が考えられているそうです。35,000トンの水を運んだ実績もあるそうですが、35,000トンの水とは、東京ドームの容積1,240,000㎥のわずか3%分でしかありません。

メガフロートを使うとこの数十倍の水が運べます。東京ドームの容積1,240,000立方メートルの空間を生み出すためには、長さ2,067m × 幅60m × 高さ10mの建造物をつくるだけです。長さを3,000mにすると東京ドームの1.5倍のダムを生み出すことができるのです。
水問題は待ったなしです。日本は世界に誇るメガフロート大国に生まれ変わるべきです。

国際ノブレス・オブリージュ
「人に魚を与えれば、一日食べさせることができる。 だが、魚釣りを教えれば、 一生食べさせることができる」 老子

私は、世界地図を眺めながら地球市民として考えることがよくありますが、鳩山首相や菅直人副総理が言われるように、日本の土地は日本人だけのものではないという結論に至っています。

同様に、地球の海洋は誰のためのものだろうと考えます。地球の陸地面積は、全体の約30%であり、海洋面積は全体の70%を占めています。

世界には、海に面していない内陸国が40カ国以上ありますが、これらの国の国民は、海の恵みを享受する権利を有していないのでしょうか。私は同じ地球市民として、決してそうではないと思います。
神が平等に与えて下さったものであり、国境という人々の思惑によりつくられた「隔たり」がこの世に存在していなければ、どこの地に産まれようが、海の恵みは平等に分け合うべきであると考えます。

もちろん、現行の領海と経済的排他水域を撤廃すべきであるなどと提言するつもりはありません。私は、内陸国は公海上にメガフロートによる人工島を有する権利があると考えます。その人工島を利用して、「魚釣り」である漁業(養殖を含めた)を営み、海の恵みを享受する権利があると考えます。

山手線内側の面積が約60万平方キロメートルです。メガフロートで10キロ×10キロの100平方キロメートルの面積を持つ人工島をつくり、漁業とバカンスの「テーマパーク」にすると、小さな国でも豊かな生活ができるようになると確信します。

坂本竜馬ではありませんが、若者たちは自国に海を持つことにより、大きな夢を抱くようになります。当然、大型旅客機が離発着する空港も整備されますから、経済的な側面の改善にも寄与すると考えます。

特に、ウガンダなどの中央アフリカの内陸国にとっては、文化力や経済力などの国力を高める起爆剤になり得ると考えます。

大海原の10キロ四方の人工島など、宇宙からみれば「点」でしかありません。
セーシェル最大の島マヘ島の面積は153平方キロメートルですから、十分、国の「飛び地」としての価値は莫大であると考えます。

そして、このメガフロート人工島を、日本をはじめとする先進国は、高貴なる国家の義務として、海を持たない内陸国へ寄贈すべきであると思います。問題になっているギリシャの国家予算に近い、10兆円近い建設費が必要となるでしょう。しかしながら、国連を中心とした活動で「軍事費の一部をメガフロート建設にあてる」方向性へ転換を図ることにより、世界の軍縮が進むと同時に、数十年後には、世界平和は達成されると私は信じます。

世界の内陸国
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%99%B8%E5%9B%BD%E4%B8%80%E8%A6%A7

水没すると危惧されているツバルの問題も解決できます。私一人でもいくつかのアイデアを出せるのですから、世界中が日本のメガフロートの可能性を追求したらすごいことになる、数百年後には5大陸は陸続きにすることを実行に移す指導者も現れるかもしれません。
<転載終了>

今、ドリーム党が一番打ち出したい政策は、以前にも示したように、日本の熱帯、沖の鳥島付近に「ツイン・メガフロートタウン」を生み出すことです。日本と韓国で沖の鳥島を共有し(もちろん日本の国土であることには変わりありません)、両国、あるいは民主主義化された北朝鮮の人々が熱帯のバカンスを楽しめる特別な場所、いわば「南の国テーマパーク」構想です。

アジア各国からのジェット機が飛来し、巨大観光客船が来航する世界でも有数の観光地に発展していくことでしょう。

私は、石原都知事の最大功績が日本の熱帯、沖の鳥島の保護であったと思います。それだけに子どもたちの未来への希望につながる「ツイン・メガフロートタウン」構想を現実向かわせたい、そう切望します。


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マスメディアによる世論操作と「無知害」

今朝の朝日新聞の一面トップのタイトルである。

オスプレイ事故、5年で58件 米軍資料で判明
<引用開始>
オスプレイには海兵隊型のMV22と空軍型のCV22があり、沖縄の普天間飛行場にはMV22が配備される。海兵隊の資料によるとMV22では06年10月〜11年9月に計30件の事故が起きた。Aは飛行中の機体からの出火と乗員の転落事故の2件、Bはエンジンの出火や前脚が折れる事故など6件、Cはエンジン故障や火災、着陸時の衝撃による乗員の負傷など22件だった。
<引用終了>
http://www.asahi.com/politics/update/0720/TKY201207190736.html

事故件数一覧表を見て欲しい。58件中、45件がレベルCの事故であり、12件がレベルB、4件が重大事故のレベルAである。

それでもマスメディアは「事故58件」と、重大事故も軽微な事故も「ごちゃまぜ」の数字にして読者を煽る。
救いたいとは思わぬが、もはや救い難いと言わざるを得ない。

なぜだろうか。マスメディアは不安を煽るのが主たる仕事であるのではあるが、その原因は「無知」から来ている。筆者は、米軍のようにレベル別に区分けして事故を管理している日本の組織を、ディズニーランド意外に知らない。反対に、ディズニーランドのレベル別の対応についてはその考え方からシステム論に関してまで熟知している。

その筆者から言わせると、マスメディアの「無知」は「害」であり、もはや「無知害」人間という実害をもたらす存在としか言いようがないのである。

以下に記した資料は、筆者が2007年に福島第二原子力発電所での講演で配布した「特別な資料」であるが、このブログを読んでくださっている多くの読者が、マスメディアの「無知害」による世論操作に惑わされないために、敢えて公開する。

著作権法上の取り扱いには十分注意して欲しい。

マスメディアの世論操作を防ぐ方法
http://imagineer.up.seesaa.net/image/E3839EE382B9E382B3E3839FE381AEE4B896E8AB96E6938DE4BD9CE38292E998B2E38190E696B9E6B395.pdf

資料 事故と故障の区分け
http://imagineer.up.seesaa.net/image/E8B387E69699E38080E4BA8BE69585E381A8E69585E99A9CE381AEE58CBAE58886E38191.pdf
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2012年07月19日

芥川龍之介の自殺の原因A

第二回はマスメディアのバッシングを自殺理由とする記事を書きたいと思います。

芥川龍之介が自殺した1927年(昭和2年)当時はプロレタリア文学全盛の時代でした。

プロレタリア文学ウィキペディアより
<引用開始>
プロレタリア文学(プロレタリアぶんがく)とは、1920年代から1930年代前半にかけて流行した文学で、個人主義的な文学を否定し、社会主義思想や共産主義思想と結びついた文学である。戦前の日本文学の潮流の一つ。
<引用終了>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%96%87%E5%AD%A6

日本共産党の創始者の宮本顕治がプロレタリア文学の観点から芥川龍之介の文学を批評したが、芥川龍之介は資本主義や資本主義上の道徳を否定することばをいくつも残しています。

◇正義とは武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば敵にも味方にも買われるものである。

◇われわれを支配する道徳は、資本主義に毒された封建時代の道徳である。われわれはほとんど損害のほかに、なんの恩恵も浴していない。

◇道徳の与えた損害は完全なる良心の麻痺である

◇強者は道徳を躊躇するであろう。弱者はまた道徳に愛撫されるだろう。道徳の損害を受けるのは、つねに強弱の中間者である。

作家という職業人には他者より「繊細で細い部分」と「推進的で強い部分」の両方が必要不可欠と私は考えます。
特に名作家である芥川龍之介は、誰よりも繊細で、敏感で、それでいて好奇心旺盛だったのでしょう。

私はクラフトマン時代から、自分が生み出したオリジナル作品の評判は気になりました。高く評価してくれた人も、評価してくれなかった人もいましたが、作品への評価が自分自身への大きな対価、つまり「心の食べ物」になるのです。

また、芥川龍之介はこのようなことばも残しています。

◇個人は神の前に懺悔した。今人は社会の前にざんげしている。

◇人生はつねに複雑である。複雑なる人生を簡単にするものは暴力よりほかにあるはずはない。

◇私は不幸にも知っている。時には嘘によるほかは語られぬ真実もあることを。

◇あらゆる社交はおのずから虚偽を必要とする

◇阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じている

◇懐疑主義者もひとつの信念の上に、疑うことを疑わぬ という信念の上に立つたものである。

懐疑主義ウィキペディアより
懐疑主義(かいぎしゅぎ、米: skepticism、英: scepticism)とは、基本的原理・認識に対して、その普遍性・客観性を吟味し、根拠のないあらゆるドクサ(独断)を排除しようとする主義である。懐疑論(かいぎろん)とも呼ばれる。これに対して、絶対的な明証性をもつとされる基本的原理(ドグマ)を根底におき、そこから世界の構造を明らかにしようとする立場を独断主義(独:Dogmatismus)ないし独断論という。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%90%E7%96%91%E4%B8%BB%E7%BE%A9

「考えることは疑うことから始まる」パスカル

精神がとぎすまされた芥川龍之介は、疑い、考え、作品にして世の中を変えていきたいと独り闘っていたのでしょう。

詳しい記録は残されていませんが、忌憚ない政治的発言を繰り返す芥川龍之介は、マスメディアから相当なバッシングを受けていた可能性が高いと判断します。なぜならば悪魔と契約したファウストのように、報道商品を売るために悪魔の手先になり、善人をやっつけるのがマスメディアの特性であるからです。

私もそうでしたが「心に一点の曇りもない人間」がバッシングされるのです。

それは、この一言から読み取れます。

◇輿論は常に私刑であり、私刑は又常に娯楽である。たとひピストルを用ふる代わりに新聞の記事を用ひたとしても

キリスト教の教えの問答にこのようなものがあります。

「なぜ、善人が攻撃を受けるのですか」
「答えは、その質問の中にあります。悪魔の敵である善人だから攻撃されるのです」

繊細な芥川龍之介は、作品や論評に対する新聞記事という評価を「私刑(メディアリンチ)」と受け取り、心を傷つけていたのでしょう。

卑怯な読売新聞により突然背後から切りつけられ、数日間張り込まれるというメディアリンチ経験を持つ私には、芥川龍之介の筆舌に尽くし難いその苦しみがよく理解できます。読者の方には理解できないでしょう。病気になり自殺を考える身体になってしまったその苦しみを。

最終回は芥川龍之介の病気の面から自殺の原因を探ってみます。
posted by M.NAKAMURA at 13:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「人間愛」なき日本テレビの記者死亡事故の件

当時の読売新聞から
<引用開始>
県警は取材自粛要請…日テレ「判断甘かった」

 「結果として判断が甘かった」。埼玉・秩父のヘリ墜落現場を取材中の日本テレビの記者ら2人が死亡した事故で、同社幹部は反省の言葉を口にした。
 現場はベテランでも命を落としかねない危険な山で、地元県警は取材自粛要請を出していた。なぜ2人はガイドと別れて山に戻ったのか、登山装備は適正だったのか――。
 東京都港区にある日本テレビ本社ビル18階の会議室。1日午後4時からの記者会見に集まった50人以上の報道陣の前で、細川知正社長は「有能で意欲的な2人を失い、残念な思いでいっぱい。原因を究明し、再びこういう事態が起こらないようにしたい」と陳謝した。
<引用終了>

以下、2年前に書いたレポートを転載します。

<開始>
ポイントは一つです。
「日本テレビの報道局長は、取材班である部下に自分の子どもが含まれていたら、埼玉県警から出されていた死亡事故現場への現取材の自粛指導を無視してまでも、取材を強行したのか、否か」

マザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく、無関心」という名言を残されました。人間愛なき日本テレビは、部下の命には全く無関心であったということが分かります。

私は、講演で「ディズニーランドでは、パレードを柵の上や岩山の上で見ている人を降ろします。それは、危ない行為をしている自分の子どもに注意する実の親と同じ気持ちだからです。他人であっても同じ空間と時間を分かち合っているファミリーす。皆さんは自分の子どもや大切な人が落下して大けがをしたら自己責任と考えますか。決して『自己責任』などとは考えませんでしょう。ディズニーランドのキャストも同じなのです。このことがディズニーの『人間愛』の全ての物語っているのです」と語ります。

起きてはいけない事故が起き、二人の尊い命がまた奪われました。この事故は自然災害でも、労働災害でもありません。明らかに人災であり、遺族はこの事故に対し毅然たる態度で臨むべきであると考えます。

現在は、トラックや観光バスの運転手が重大事故を起こした場合、個人の責任以外に会社側の管理責任が問われる時代です。これは、マスコミの「営利」への厳しい追求がもたらした結果です。

そのマスコミが「取り返しのつかない」事故を生みだしたのです。犠牲者の死を無駄死にしないためにも、理性的な原因究明が行われなくてはならないと考えます。

しかし、です。天木直人氏でしたら最初に「見てるがいい」と記すでしょうが、既存の事故調査のライン上でこの事故の取り調べが行われると、結果は日本テレビ側の望むとおりになるでしょう。

恐らく、このような展開になるに違いありません。

社長が責任を取ることはない
日本テレビの細川知正社長は、会見で「お騒がせしました事を、心からお詫び申し上げます」と発言しました。また、取材を「許可した」責任者は、死亡事故に至った直接の原因を「装備の問題とは認識していない」と答えました。
これらは、決して「言質を取られたくない」という逃げの姿勢であり、同業者であるマスコミからも追求から会社や自身を守るために、周囲の関係者により周到に用意された、心のこもっていない「パフォーマンス(演技)」です。

ガイドと被害者家族の「囲い込み」が始まる
「囲い込み」という用語が正しいのか分かりませんが、読売グループの組織の総力を挙げて、ガイドと被害者家族を「敵」にしないために、あらゆる手を使って事故関係者を囲い込んでくるに違いありません。
警察に手を回し、あくまでも日本テレビ社員の「自己責任」であるかのような捜査結果を出すに違いありません。その上で、「読売グループの将来がかかっている」という脅し文句を使い、ガイドや被害者家族に大きなプレッシャーをかけてくる作戦を取ることでしょう。

かん口令と証拠隠滅の恐れも
テレビ局に対し家宅捜索が行われることはないでしょう。私は、ある大物弁護士に「最後のパレード」事件の件で相談したことがあります。しかしながら、その先生は「司法が読売を負けさせることはない」と明言されました。
読売グループの体質は「自分たちは何でもできる」とおごっていることです。普通の事故、事件と同じように捉えていると、読売グループ関係者は見えないところで暗躍し事故を矮小化するとともに、報道の舞台からこの事故を早々に消し去るに違いありません。

トカゲのしっぽ切りか、それとも・・・
取材を許可した現場責任者は、当事者として「心身ともに疲れ果てるまで」会社に利用されることでしょう。現場責任者は、被害者の49日の法要までは必要とされるでしょうが、その後はどんな運命が待っているか分かりません。周囲が気をつけないと自殺の恐れがあります。会社に反旗を翻すと・・・創造を絶する結末が待ちうけているのかもしれません。

数か月後には、誰もこの事故を覚えていない
忘れ去るまで早くて1ヶ月、遅くて3カ月でしょう。現場で何が起きたのかは推測でしかなく、二人とも死亡したことは極めて会社側に有利に働き、会社側の責任の所在もあいまいに終わると私は推察します。
管轄する総務省からの「指導」くらいに落ち着かせたいと経営陣は考えているに違いないと私は考えます。

大手企業における過去の重大事故後の警察や司法の対応を鑑みた場合、まず90%の確率でこのような展開になると私は考えます。
<転載終了>

この事件の原因究明は行われたのでしょうか。結果は公表されたのでしょうか。

6月19日に東日本大震災に伴う巨大津波で多くの人命が奪われた原因は日本テレビの報道姿勢にあると書きました。
http://dream333.seesaa.net/article/276041012.html

7月2日には、日本テレビのニュースにころっとだまされる人とは@という記事で、「埼玉県議の夜遊び事件」の日本テレビのあきれるほどひどい報道ぶりを明らかにしました。
http://dream333.seesaa.net/article/278479388.html

読売グル―プの社員は「自分たちは特別な者」として、傲慢に暴れまくっています。亡くなった記者のご家族や読者や視聴者が可哀そうでなりません。
posted by M.NAKAMURA at 10:51| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

読売新聞を読むとバカになるC

読売新聞の記事から

いじめた生徒の親族?ネットに偽情報で被害深刻
<引用開始>
 大津市で昨年10月、市立中学2年の男子生徒(当時13歳)がいじめを苦に自殺したとされる問題に関連し、インターネットの掲示板で知らぬ間に無関係の人の実名がさらされ、職場に中傷やいたずらの電話がかかるなどの新たな被害者を生んでいる。

 被害届を受けた滋賀県警は名誉毀損(きそん)容疑で捜査している。
<引用終了>
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120718-OYT1T00756.htm

『最後のパレード〜ディズニーランドで本当にあった心温まる話』事件で読売新聞の門間順平記者の捏造報道により「悪者」とされた私は、PTSDに今も苦しみ、名誉と人権を失い、仕事を失い、家族を失った。捏造報道で私や私の家族を苦しめた読売新聞にいじめ問題を報道する権利などない。

私には、ネット上で「自殺せよ」という犯罪行為が3年以上経った今も続いている。

74 :バロム1:2012/07/14(土) 18:43:55.07 ID:XMe+lX0B

‥凄いねぇ?w

やっぱり御大自ら出て来ると、権子やウンコ君ら相手の時とはレスの勢いが違うな。

とりあえず持ってるトリップを付けてみました。

さて‥ゲバルトと言うからには"読売新聞本社前での焼身自殺"予告。

あれ以上の"ゲバルト"は有り得ないと思われるのですが、いつになったら実行されるのでしょうか?w
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/news2/1342187942/1-100

547 :朝まで名無しさん:2012/06/18(月) 04:00:15.50 ID:JDsiuaMw

抗議の自殺 抗議の自殺 抗議の自殺
死をもって無実を証明すべき。

そうでなければブログなどは無意味。だれも信用しない
最大の勇気をもって自殺することだけが無実の証明となる。

それもできないヘタレ臆病者はやっぱり盗人だ!
やってみろ! 犯罪者の前科者!
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/news2/1331702037/501-600

読売信条より
取材・報道に当たっては、人権の尊重を常に心がけ、個人の名誉を不当に傷つけたり、プライバシーを不当に侵害したりすることがないよう、最大限の配慮をする。http://info.yomiuri.co.jp/company/shinjyo.html

2ちゃんねらーにはめられた間抜けな門間順平記者は今でも讒言(ざんげん 他人を陥れようとして、事実をまげ、いつわって悪しきさまに告げ口をすること)報道を繰り返し、私のような被害者と、多くの加害者を生み出しているのだろうか。

読売新聞の読者が哀れでならない。

7月12日
最後のパレード事件とはなんだったのか
http://dream333.seesaa.net/article/280528353.html
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2012年07月18日

植繊機と木質ペレットと竹ペレットの可能性 これを読めば明るくなる

植繊機とはその名の通り植物を繊維にすることができる極めてすぐれた加工機械だ。神戸製鋼の子会社の神鋼造機が特許を有しているが、うわさによると「絶対に中国に輸出しない」そうである。理由は簡単、コピーをつくられる可能性が極めて高いからだ。

植繊機
http://www.shinko-zoki.co.jp/syokusen/bamboo/index.html

次にこちらのページをご覧いただきたい。
<引用開始>
木質ペレットは、県内の森林を育成する段階で伐採された間伐材を柱や板材に加工する際に発生する、かんな屑やおが屑などを高圧で押し固めて円筒形に成形した燃料です。大きさや形など規格が均一で、乾燥もしているため、液体燃料のように備蓄、取扱が容易という利点を有する優れた燃料です。家庭などの暖房用ペレットストーブの燃料として、また、農業用ビニールハウスや・温浴施設などの暖房加温用ペレットボイラーの燃料として利用されています。
<中略>
竹ペレットは、竹材に豆腐粕などの食品加工残渣を混ぜ、圧縮によりペレット化した飼料です。この竹ペレットは、一般的に利用されている乾草(アルファルファヘイキューブ)と栄養価がほぼ同等で、乳牛など反芻動物の家畜飼料として利用しても、乳質や健康に問題がないと、県畜産試験場からのデータが出されております。
<引用終了>
http://www.emk.jp/katudou/web-mori/no25/web-mori-bio.html

上記ホームページでは「暖房用」と限定しているが、木質ペレットでの集中冷暖房システムは何年も前に開発されている。

◆間伐材ペレットで集中冷暖房  (日本経済新聞掲載) 2007.10.02
全国初の民間住宅の集中冷暖房として、安成工務店が建設中の戸建て住宅団地「安岡エコタウン」が日本経済新聞に取り上げられました。
http://www.yasunari.co.jp/news/detail/index.php?id=1444

2007年の報道である。時の政府はバイオマスの方向性を国民が共有してしまうことは石油離れ、アメリカ離れにつながり、既得権益集団にたたかれるのを恐れ、この領域の発展に「待った」をかけていたのであろうか。

竹に話を戻す。植繊機により繊維状に加工された竹は動物が消化できる「食料」となる。同じイネ科の植物のサトウキビを植繊機で加工してパウダーにすれば、立派な「食料」となる。沖縄や南の国に住む人々にとっては朗報のはずだ。

さらに、である。筆者はピラミッド・ストーンによる防災強化を提唱しているが、同サイズ1m×1m×1mのプランターを世界標準にすべきと提唱していきたい。東京ディズニーランドのワールドバザール内の樹木は大型プランターに植えられたものだ。1立方メートルサイズとその4倍サイズのプランターをつくり、先進国でトウモロコシやサトウキビの種をまき、あるいは実のなる木を植樹しアフガニスタンなどに届けるのだ。

そのプランターはそのまま「沃土」として以後も活用され、農業の発展につながるはずだ。植繊機により、食生活も豊かになるに違いない。

「植繊機」「木質ペレット」「竹ペレット」の可能性について書いてきたが、特に孟宗竹などの竹(竹の子の皮が落ちないものは笹という)は基本的には欧米には存在しない。無価値のように思われている竹であるが、食料にもなるし、竹エキスのような良性のホルモンとして人間の身体をサビさせない働きも有している。日本の「竹力」が世界を圧巻する日が来ると筆者は信じて疑わない。
posted by M.NAKAMURA at 15:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「スイッチオン」なきこの国の危機管理

2年前に記し、民主党議員に送ったレポートを公開します。東日本大震災で政府があわてざるを得ないことが理解いただけるでしょう。もちろん、このようなふがいない政治体制を築き上げたのは自民党ですが。

平成22年7月16日
民主党衆議院議員様

スイッチオン」なきこの国の危機管理レポートに関する件


表題の件、下記の通り提案致します。



1.はじめに
今年も集中豪雨による犠牲者が多数発生してしまいました。幸い口蹄疫問題は終焉を迎えようとしていますが、宮崎県の東国原知事の為政者としての資質に欠ける言行などを見るにつけ、この国は、危機管理の「イロハ」が全く分かっていないという結論に至りました。

この国の行政は、国民の生命と財産を守るという最低限の仕事ができないのです。このままでは、同じことを未来永劫繰り返します。再び尊い命が「人災」により奪われ続けることになります。
私は、これから本格的な台風シーズンを迎えるに当たり、現場の関係者が現状より効果的な防災態勢を構築できるための私にしかできない助言をしたいと考えます。

2.何をどうするか(目的)
2010年7月豪雨災害の現地調査に基づく調査レポートを取りまとめ、現行法の範囲内で集中豪雨や台風における人的被害防止対策において「できる」、あるいは「すべき」ことを自治体に助言します。そうすることで、自治体と住民の防災意識を高め、土砂災害やゲリラ豪雨による被害者数を限りなくゼロに近づけます。

3.どのようにして、目的を達成するか
ハイレベルな防災活動を行っている地域(三重県尾鷲市など)の防災対策をベンチマークするとともに、梅雨時に被災地域が実施した防災活動を詳細に調査し、その調査結果を、シンプルな報告書にまとめ、「こうすれば、こうなる」という単純化されたマニュアルに落とし込み、インターネットを用いて必要とする自治体に配布することにより、国民の生命と財産を守るという行政組織の目的を達成します。

4.前提となる考え方
@「新しい公共」が原点
ここに詳細を記す必要はないと思われますが、誰にも出番と役割があり、人と人、人と社会が支え合って友愛社会を築き上げるための「新しい公共」というOSの上に、防災対策という命を守る「安全装置」が機能することは言うまでもありません。また、そうしないと、真の防災対策などあり得ないのです。

A「スイッチオン」なき危機管理の恐怖
多くの犠牲者が出たにもかかわらず、いつ、誰が、どのような状況の時に、誰に対して危機管理の「スイッチオン」したのか、あるいはしなかったのが、全く見えてきません。国家の指揮命令系統の常道から言えば、危機管理の「スイッチオン」をするのは気象庁ではありません。それは、アメリカの「カトリーナ」来襲時の事実経過を見れば明らかです。
「スイッチオン」とは、自治体の防災担当者が、予め決められた手順で与えられた仕事を始めるということではありません。パソコンという問題解決システムが立ち上がるように、国や自治体という問題解決システムの連携を立ち上げるために、スイッチをオンするのです。
日本国憲法には、「全ての公務員は一部の奉仕者ではない」と明記されていますが、例えば東村山市であるならば、東村山市に危機管理の必要性が生じた時、東村山市の全ての公務員や特別職の公務員、あるいは、東京都や近隣都市の公務員までもが「スイッチオン」しなくてはならないのです。公務員は、国民から給料をいただいているのです。「防災は私の仕事ではありません」は、日本国憲法違反と心得なくてはならないのです。

B大震災と同様に避難は「長期戦」と考えなくてはならない
集中豪雨や台風は、時間とともに襲来し、時間とともに去っていきます。大震災は反対です。瞬時にやってきて、震災後長い間被害者を苦しめ続けます。その事実は、避難所が明らかにしています。大震災が発生した場合、事後に長く避難所生活が続くことになりますが、学校の体育館で苦しむ被災者の映像は、ある意味国民を思考停止にしてしまいます。なぜならば、「自然に対する人間の無力さ」を映像は強烈に国民にインプットしてしまうからです。
このような映像を目にした国民は、土砂災害等の危機に置いても避難所に向かうことをためらいます。もちろん、命の方が大切なことは理解していてもためらうのです。この住民の心理に、事前避難の徹底の難しさの原因が隠されているのです。
この度の豪雨被害でも、襲来前に避難していれば、多くの人命が救えたのです。大震災後のように数カ月の避難所生活を考えれば、数日から数週間の避難所生活は決して長くはないのです。
後に記しますが、決定権者から避難を指示されたら、「喜んで避難する常識」をこれからつくっていくことが、災害犠牲者を生み出さないために何よりも大切なことなのです。

C自治体は困っている
総論的に言えば、この国は、国全体を統治する知恵とノウハウを有していません。そのために、自治体はどうして良いか分からずに右往左往しているというのが実情なのです。宮崎県の口蹄疫問題で、隣接する県が急きょ対応マニュアルを作成したと報じられていますが、防災に関しても同様であり、経験したことのない災害や、予測できにくい災害に対しては全く無防備なのです。まるで、プロ野球チームがキャンプをしないで本番に突入していくかのようです。自治体も万全な準備をしたいにも、国の無策に対して困り切っているというのが現実であると勘案されます。

D住民も困っている
「自己責任論」をインプットされ続けた日本人は、助けてもらうことにある種の罪悪感を持ってしまっています。情報を一方的に押し付けるテレビにからしか情報を得ることができない多くの住民は、今やそれが当り前であると考えるに至りました。つまり、テレビにより、住民同士のつながりが分断されてしまったのです。さらに、防災に責任を持つべく自治体も、テレビ同様に、防災アナウンスなどの極めて楽な情報伝達手法である「マス・コミュニケーション」に走り続けました。その結果住民は、自らが仕入れた情報に基づく自らの判断で、自らの行動を決定しなくてはならなくなってしまったのです。
繰り返しますが、国にも自治体にも一人ひとりの住民の生命と財産を守るノウハウがないのです。理論と経験に裏打ちされた危機管理マニュアルがないのです。そのために今年も多くの人命が失われたのです。
不幸なのは国民なのです。そのことを大前提にしないと国家による危機管理は到底成し遂げられないのです。

E1時間100ミリ降雨時代に突入
今年は、1時間当たりの降雨量に関するこれまでの気象庁の観測記録が何度も塗り替えられました。地球温暖化の影響かどうかの議論はともかくとして、現実に起こっている現象に対応できる態勢を構築することを前提にしなくてはならない時代に突入したと強く認識しなくてはならないのです。
新しい危機に対応するためには、これまでの防災の専門家がいくら机上で議論を重ねても、一向にらちが明かないことは明白です。日本では、これまで失敗から学ぶ「失敗学」というディズニー・テーマパークと180度異なる再発防止理論がまかり通ってきました。失敗学は、カーナビゲーションシステムで言えば、「フィードバック」に当たります。つまり、間違いを正しい道に戻すという理論です。一方、ディズニー・テーマパークの事故等の防止策は「フィードフォアード」です。「この先に危険が待ち受けています」と警鐘を鳴らすのであり、いかに、先を予測するかを重要視しています。
日本にも、「カトリーナ」級の台風が来る時代になることを前提とし、「フィードフォアード」の考えから災害防止策を講じることが、何よりも大事なのです。

5.現地調査で到達するレポートの結論
@総論
襲来型の災害による人的被害の防止は、大震災よりはるかに容易であると考えなくてはなりません。しかしながら、この国では1995年の阪神淡路大震災後、毎年発生する水害被害者数の累計の方が震災による被害者数の累計を上回っていると考えられます。これは明らかに人災であることを物語っています。
レポートでは、レベルの高い防災システムを持つ自治体と、今回の人的被害の発生から学んだシンプルな防災マニュアルに即し、自治体の責任者たちによる事前の図上訓練と関係者による実地訓練を定期的に行うことを柱とした、標準的防災態勢の構築により、台風や集中豪雨による人的被害をゼロにすることが可能であることを提言いたします。
また、民主党政権が目指す「新しい公共」、つまり地域を生活共同体として、共同でリスク処理にあたることで、互いを支え合い、守りあう仕組みを築き上げることこそが、災害に強いまちをつくる唯一の方策であることが当該レポートの「まとめ」となることをここに明示しておきます。

A具体策
■「スイッチオン」態勢の確立
◆「スイッチオン」は、入梅前
もちろん、防災に関しては年間を通して警戒していなくてはなりませんが、1時間100ミリ降雨時代を迎え、入梅前から豪雨災害に対する備えをしておくことで、被害が想定される事態になってもこれまで以上に冷静沈着な対応ができるようになります。言ってみれば、自治体も良い意味で「楽」ができるということなのです。

◆レベル別防災対策の徹底
入梅直前を警戒レベル1としたり、梅雨前線の北上を警戒レベル2としたりして必要な防災活動を行います。警戒レベルを決定するのは、都道府県の首長です。レベル別防災対策を正しく運用するための絶対条件は「取り返しのつかないこと」を明確化することです。つまり、「行政が住民の生命を守れなかった」ということが「取り返しのつかないこと」であり、家屋の損壊や道路の分断などは、「取り返しがつく」ことと、防災関係者は強く認識しなくてはならないのです。
行政の全ての防災活動は「住民の生命を守る」という一点に的を絞るべきであり、レベル別防災対策一覧表の提示は、この行政の最大の使命を成し遂げる最大の武具になると確信します。

■避難所の「居心地」「安心感」「信頼感」の向上
◆「居心地」の向上
中越沖地震の避難所の映像が目に焼き付いている国民は多いことでしょう。誰もができれば避難所生活を1日でも送りたくないと考えるのではないでしょうか。その理由は明白です。「居心地」が極めて悪いからです。その要因は、第一にプライベートの場がないということです。当たり前ですが、人間は「寝床」という外部から守られた空間を必要とする生物なのです。その空間がなければ、ストレスがたまりその人らしからぬ心理状態に陥るのです。
もう一つは、娯楽性です。テレビを見たりパソコンをしたりする時間は健常者にとって必要不可欠なのです。病院の大部屋にもカーテンで仕切られた個室があります。例え、数日間であっても、避難所の「居心地」は、避難を選択するかしないかの大きな要因であることを行政は肝に銘じなくてはならないのです。

◆「安心感」と「信頼感」の向上
避難所に行けば、誰かとつながり誰かに助けられるという「安心感」と「信頼感」を非難した住民に与えなくてはなりません。台風時や豪雨災害時には「田んぼを見に行って行方不明」、「近くの用水路に流されて行方不明」という被害者が必ず発生します。例え田んぼがどうなっていても、手の打ちようがないにもかかわらず、住民は見に行ってしまうのです。
避難所に、消防や自治体関係者が待機し、説得するとともに、安全上問題なければ、一緒になって見に行くくらいの住民サービスは行うべきです。そうすることで、住民の「安心感」と行政への「信頼感」は格段に高まるのです。

◆モックアップづくりと避難所バリューアップの実地訓練
先の話になりますが、国は、一般的避難所のモックアップ(模型、CGでも可)を、広く国民に示し、避難所生活は、ハイチの避難民のように多大な苦痛と生命に対する脅威を与えるものではないということを、これから避難を余儀なくされる可能性のある国民に伝えるべきであると考えます。その上で、日本の森林から産出された「国家備蓄材」を使った簡易的な個室数十室を、ボランティアがほんの数時間でつくり上げる訓練兼パフォーマンスを全国各地で行うべきであると考えます。
こうすることにより、国民であることの自信と誇り、連帯感が生まれてくるに違いがないのです。

■コミュニケーション・チャンネルの多様化
◆インディビデュアル・コミュニケーション
テレビや防災放送といったマス・コミュニケーションではなく、レベル別防災対策に基づき、人から人へ警戒情報を伝えることが何より大切です。その理由は、人は命令や指示では決して「その気」にならないからです。ディズニー・テーマパークのように「あなたのことが心配ですから」と考え危険行為を止めてもらおうと心から働きかけないと、人は動機付かないのです。私は、この法則を「玄倉川の法則」と呼びたいと思います。
1999年の夏、神奈川県の玄倉川で川の中州に取り残された18人が流され、子どもを含む13人が犠牲になりました。テレビでもその瞬間の映像が放映されました。この悲惨な事故を忘れられない人は多いことでしょう。
この事故では、増水警報も流され、警察官も撤収するよう呼びかけていました。それでも、その声は被害者には届かなかったのです。なぜでしょうか。その答えは、避難するように呼び掛けた警察官には、相手を「家族のようなとても大切な人(VIP)」と思う気持ちがなかったために、被害者たちに「私たちを心配してくれている」とは伝わらなかったからなのです。
任務ではなく、「あなたのことが本当に心配なのです」という心根が人を避難させるのです。
これが、「玄倉川の法則」なのです。

◆あらゆるチャンネルを活用
人を動機づけるのは、同じ共同体に暮らす人々です。無機質な防災放送ではなく、知人や地域の関係者が、「玄倉川の法則」に則り、人を避難所に向かわせたり、不用意に屋外に出たりしないように自制させたりするのです。そのためには、自治体、警察、消防署、地域の消防、商店街、郵便局、青年会議所、老人会、理容店などの住民パワーが一体になることです。
このように、地域を生活共同体として、共同でリスク処理にあたることで、互いを支え合い、守りあう仕組みを築き上げることこそが、災害に強いまちをつくる唯一の方策と言えるのです。

■警察と自衛隊の機動力向上
◆警察
警戒レベル1の段階から、自治体や消防と連携し、最悪の事態を想定したシミュレーションを行うべきです。明石市の花火大会歩道橋事故では、明石市や兵庫県警が事故を事前に予測できたと問われています。住民の生命を守るためには、住民が期待する以上の緊張感を持っていただきたいと考えます。

◆自衛隊
法的な問題は残りますが、自衛隊は被災後の人命救助だけではなく、災害現場からの「邦人保護」を積極的に行うべきであると思います。警戒レベルがレベル4(人的被害が想定される)の段階で、首長は自衛隊の救援要請を行うよう提言したいと考えます。

■法則の発見
◆アナログからデジタルへ
テレビ報道によりますと、がけ崩れの前に水がしみ出た、異音がしたなどの住民の報告がありますが、この段階で避難しても手遅れの可能性が高いことを認識しなくてはなりません。一方で、がけ崩れの1時間前に大雨が降ったという情報もあります。もちろん、場所により異なるとは思いますが、「ここに、これだけ雨が降ったら、こうなる」というデジタル的な法則を発見し、数値を持って避難行動に移る態勢を構築していく必要があると思います。

◆豪雨被害は「雷」から
豪雨は結局のところ積乱雲がもたらします。そして、その積乱雲の発生は予測できます。到達時間も予測できます。豪雨をもたらす「雲」を分解し、「こうなれば、こうなる、そうなればこのような被害が発生する」という簡素化した法則にまとめ、中学生でも気象上の危機管理が理解できるようにすることにより、住民の必要以上の恐怖感はやわらぎ、より理性的な対応がなされるようになるのです。

6.実効性のある調査レポートを作成
@与党が臨時国会を優勢に進めるために
度重なる水害による人的被害にしても、口蹄疫の初動の遅れやその後の迷走にしても、原因は民主党政権にあるのではありません。この国の都市運営ノウハウの欠如にあるのです。もちろん、過去の政権を批判するだけではいけません。科学的根拠を持って、国民がより安全、安心に暮らせるよう地方行政の手助けをするという姿勢で臨まなくてはならないと思います。
しかしながら、これまで野党の妨害で実績を築くことができなかった民主党政権にとって、何かが「動き出す」という姿勢を国民に見せつけて行くことは大事なことであり、国民も大いに期待していることです。
民主党議員は理論的で人間臭さに欠けるという指摘もあります。私の願いは、民主党の国会議員や地方議員が、生活共同体である地域社会に溶け込み、当該レポートを参考に共に額に汗を流しながら、地域の防災に一体となって取り組んでいただきたいということです。そのために誰が読んでも「その通りだ」というレポートに取りまとめたいと考えております。

A調査時期と調査レポートの提出時期
調査は早い方が良いと考えます。その理由は、誰にでも「あの時こうしていたら」「もっと早く非難していれば」など、「たら、れば」の念があるからにほかなりません。早めの聞き取り調査により、関係者の本音や効果的な防災対策案が示されるのは確実であり、この声を聞かないのは実に「もったいない」ものと考えます。
関係官庁からの報告書(白書?)がいつ出されるのか分かりませんが、民主党は独自の調査を急ぐべきであると私は考えます。
<調査期間>7月下旬より8月中旬
<レポート提出時期>8月下旬

B調査方法など
◆名称は「民主党2010年7月豪雨被害特別調査研究チーム」など。
◆被災地域の民主党議員の事務所の協力があれば、特段のスタッフは不要。
◆仮レポート名「行政が住民の生命を守るためにどうしても手に入れたい防災レポート2110」

C調査費用など
テレビ番組で民主党を貶める発言を繰り返していた複数の政治ジャーナリストが、年間に一人1千万円の官房機密費を受け取っていたという報道がなされました。見返りを求めるという意味ではありませんが、この仕事はスペシャリストにしかできません。事情ご賢察の上、特別なご配慮を賜りますようお願い申し上げます。

7.最後に
私は「群れをなす猫」という言葉を好みます。普段は猫のように身勝手に振舞っていても、個人では倒せない大きな相手が攻撃を仕掛けてきた時に、個体が群れをなして相手に立ち向かうことができたら、こんなに「美的」なことはありません。
民主党の「新しい公共」も、昔ながらのフォークダンスの世界ではなく、「群れをなす猫」的に考えると、若者も、いわゆる「一匹狼」的な生き方をしてきた人も、きっと参加してくれるのではないかと考えます。
防災は、まさにネットワークづくりです。コミュニケーションづくりです。防災上のネットワークやコミュニケーションが、防災にとどまらす、地域の治安、教育、子育てなどのネットワークやコミュニケーションに育って行くに違いないと私は信じて疑いません。

■参考、今後の法則づくりに関して
これを怠ると必ずこうなるという失敗の法則や成功の法則を示して行きたいと考えます。

◆明石市の花火大会歩道橋事故の法則
マーク・トウェインの警句「災いを引き起こすのは知らないことではない。知らないのに知っていると思いこんでいることである」を知らないと尊い人命が失われる。

◆シンドラーエレベーターの法則
「設備は安価で納品し、メンテナンスで設ける」ことは、災いにつながる。
メインシステムに悪影響を与えるサブシステムに安全装置を設置しないと尊い人命が失われる。

◆六本木ヒルズ回転扉死亡事故の法則
大事故につながる小規模な事故を放っておくと、必ず大事故につながる。

◆尼崎JR脱線事故の法則
厳罰では人は動機づかない。厳罰主義は、反対に人を自暴自棄の行動に走らせる。

◆秋葉原連続殺傷事件の法則
人には居場所と役割と労働の対価が必要である。人は、居場所と役割と労働の対価が認められなかったときに自暴自棄の行動に走る。
以上



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中国高速鉄道事故から1年 事故原因を探る

今朝の朝日新聞は昨年7月23日に起きた中国新幹線の衝突脱線事故について報じている。しかしながら世界を震撼させたあの重大事故の原因を探求する記事にはなっていない。

当時、中国新幹線は日本の新幹線技術を「盗用」したという報道がなされていた。筆者もそう思うが、視点が違う。

毎日新聞の記事から引用
<引用開始>
責任者によると、落雷の影響で信号システムが故障し、正常運転していた先行列車に搭載された機器に送られるデータが不安定になったため、列車は規定より低速で運行した。さらに、運行管理センターのデータ収集システムのプログラムソフトに設計上の欠陥があり、この列車の後方区間に発信される信号が赤信号になるべきところ、青信号になったことから自動列車制御装置が機能しなかった。このため、低速で走行していた先行列車に後方から通常速度で運転してきた列車が追突したとしている。
<引用終了>

新幹線のハード面は「盗用」できたとしても、日本が誇る最高の列車制御ソフトウエアは「盗用」できなかったのである。

見出しだけ読めばいいこんな記事もある。

『自主開発』の中国高速鉄道脱線事故に戸惑う日本企業 技術供与メーカー「責任どこまで」
http://sierblog.com/archives/1518244.html

JR東の新幹線システム障害、原因は処理限度値のオーバー
JR東の新幹線運行トラブルを起こしたシステム障害の原因は、ポイント不転換が発端となって必要になった列車のデータ修正がシステムの限度値を超えてしまったためだった。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1101/18/news095.html

筆者は、ジェットコースターの制御システムに関し熟知している。その理由は熟知していないとスペース・マウンテンやビックサンダー・マウンテンのスーパーバイザー業務に支障が出るからである。ディズニーランドにはもちろん信頼できるメンテナンスキャストがいるが、運営側のスーパーバイザーはハード、ソフト面で高度な技術論を身につけなくてはならない。これがディズニーランドのすごさであったが、残念ながら経費の問題でスーパーバイザー制度は廃止された。

詳しいことを記しても理解できないと思われる。結論だけ記したい。

◆東京ディズニーランドのジェットコースタータイプのアトラクションの制御ロジックを管理してくれていたのは京三製作所という東海道新幹線(JR東海)の制御システムを確立させたメーカーである。
京三製作所
http://www.kyosan.co.jp/

◆列車制御分野にまで進出した日立、東芝、三菱といった財閥系の大会社は台頭し、日立製作所が東北新幹線の制御システムを勝ち取った(おそらく政治力が働いたのであろう)
◆日立の制御システムは、京三製作所の制御システムと比べて制御ロジック(理論)が極めて貧弱であり、少しの過剰情報によりシステムがダウンしてしまうものであった。
◆中国はこの貧弱な制御システムを「盗用」してしまったために、制御が原因の重大事故が発生した。
◆京三製作所の制御システムを導入した台湾新幹線には重大なトラブルは一件も発生していない。

筆者は「日本は大丈夫、中国は絶対に日本に追いつけない」と申し上げたい。日本人の自信につながることを祈って。
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2012年07月17日

芥川龍之介の自殺の原因@

生誕120年を迎える芥川龍之介は7月24日に服毒自殺しました。自殺の理由は色々と書かれていますが、なぜ自殺しなくてはならなかったのかを私なりに切り口を変えて論じてみたいと思います。
1、キリスト教関係論
2、マスメディアバッシング論
3、精神病論

これらの要因の複合による自殺であることは明白ですが、要因の中身を解き明かせる者は数少ないと思います。

このような名言が残されています。
自分と同じようなトラブルを経験したことがない人から助言を受けてはならない。
Never take the advice of someone who has not had your kind of trouble. 
Sidney J. Harris

芥川龍之介同様、作家である私は、この3つの要因を経験しています。まさに、わたしにしか書けないことであると自負していますが、その評価は読者がそれぞれ判断すれば良いことです。

今日は、クリスチャンとしての視点から芥川龍之介の自殺を捉えてみます。資料が多いので結論から書かせていただきます。

芥川龍之介はクリスチャンの内村鑑三の本を読み、聖書を読みあさったが聖書の全体像が捉えられず悩み、さらに聖書の美しき世界と生きている社会のギャップの大きさに対応できず、他の要因が加わり自殺に至ったというものです。

さて「芥川龍之介 読書家」で検索したところ、以下の記事に出会うことができました。感謝して引用させていただきます。

読書で日暮らし
<引用開始>
 いつか丸善へ行った時など、本を捜している間に夕方になり、終業のベルが店内に鳴り響いた。芥川の前には、選んだ本が既に十五六冊も積まれていた。
 客は静々と帰って行く。店員は客のいなくなったところから、本棚へ白い布を掛けて行った。今や全部掛け終って、芥川の前の本棚だけ残されている外は、ブラインドもおろされ、薄暗い廃墟のような静けさが私たちを取りかこんだ。
 私はいたたまれなかった。しかし、芥川はまだ本から目を放さない。不断はあんなに人の気を兼ねる彼に、こんな一面があるのかと彼の性格のシンにさわったような気がした。
  『鴎外荷風万太郎』小島政二郎
<引用終了>
http://d.hatena.ne.jp/Tsubute/20111120#p1

芥川龍之介の「とぎすまされた」人格を知ることができる一文です。

芥川龍之介は聖書を枕元に置き死んでいきました。「侏儒(しゅ‐じゅ【侏儒/朱儒】1 背丈が並み外れて低い人。こびと。2 見識のない人をあざけっていう語。大辞泉)の言葉」という題名で持論を展開しています。

<引用開始>
自由意志と宿命とに関らず、神と悪魔、美と醜、勇敢と怯懦(きょうだ)、理性と信仰、――その他あらゆる天秤(てんびん)の両端にはこう云う態度をとるべきである。古人はこの態度を中庸と呼んだ。中庸とは英吉利語(イギリスご)の good sense である。わたしの信ずるところによれば、グッドセンスを待たない限り、如何なる幸福も得ることは出来ない。もしそれでも得られるとすれば、炎天に炭火を擁(よう)したり、大寒に団扇(うちわ)を揮(ふる)ったりする痩(や)せ我慢の幸福ばかりである。
<中略>
 天国の民
 天国の民は何よりも先に胃袋や生殖器を持っていない筈(はず)である。
<引用終了>
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/158_15132.html
(3万6千字を超えます、一度に読もうとすると行きづまります。まるで聖書のように・・・)

クリスチャンに与えられた「大宣教命令」は、地獄へ向かう者を救いだすことです。それは、神に従属するか、自分自身の欲望に従属するかの選択です。人間は、アダムとイブがヘビに惑わされ「善と邪悪を知る実」を食べてから、神の従属から離れ、悪魔の「惑わし」に従って邪悪な、地獄へと続く道を歩まされているのです。

まるで知識欲旺盛な大学生のように真理の追究に没頭する芥川龍之介は、クリスチャンである内村鑑三や新渡戸稲造の本を読んでいるに違いありません。

特に、同じ時代を生きクリスチャンのクラーク博士が教えた札幌農学校に学び、アメリカに渡りキリスト教を学んだ内村鑑三の影響は大きかったと思います。

その、内村鑑三は、アメリカのクリスチャンの堕落ぶりを見て、通っていた神学校も止めてしまいます。そして、独自の「無教会主義」を提唱するようになります。

内村鑑三とキェルケゴール 栄光出版 大類雅敏著

<引用開始>
内村は「聖書之研究」(76号「断感」。明治39年6月10日)に、次のように、キェルケゴールに書くに至る。

デンマークの思想家ゼーレン・キルトガート曰く「基督教は解するに最も難き宗教なり、余は斯世に於いて未だ曽て真正の基督信者を見たることなし、然れども解するの難きは其誤謬(ごびゅう)なるの証拠に非ず、一人の基督信者なきは余が信者たり得ざるの理由となすに足らず、余は全世界に一人のなきも独り確実なる基督教の信仰に達せんと欲する」と。
然り、実に然り、極東の日本国に生れし余も、未だ曽て余の理想に合う(かなう)信者一人見しことなしと雖も(いえども)不肖の余の如き者もまた彼れキルケガート氏の言に倣ひ、少くとも日本国に於ける。唯一の基督信者たらんことを求ふ。

<中略>

内村は、キェルケゴールの「ラディアカルな面」に接したことになる。つまり、キェルケゴールの無教会主義的な態度に感動したわけであり、「聖書の研究」に、キェルケゴールの「瞬間」の抄訳をしたほどである。
「瞬間」は、1885年5月に特殊な片面刷の大判紙で、キェルケゴールによって発行された。キェルケゴールの攻撃を公表したものである。この年の10月にかけて9号まで発行された。公認のキリスト教会への侮辱と嘲笑が、ますますグロテスクな調子を帯びた。9号では、「牧師が人食い人種であることを最もいやしい仕方で」証明しようとしている。

牧師は田園の邸宅に、魅力的な昇進への期待を抱いて居心地よく住みついている。彼の妻は丸々とふとり、子供たちもそれに劣らない。しかも、これら全ては、栄光ある者たち、すなわち、救世主、使徒、真理の証人の苦難によるものであり、これこそ、牧師が生計のよりどころとしているものであって、彼らは彼を食い物のにし、それでもって、彼は人生の楽しさにひたりつつ、妻子を養っているのである。彼はこれらの栄光ある者たちを塩づけにして、貯蔵しているのである。「われに従え!」という彼の叫びは無駄である。おそらく、しばらくの間、彼はこの叫びからわが身をかばわなければならないだろう。しかし、年が経つにつれて、彼は非常に無感覚になり、もはや、それは聞こえなくなる。おそらく、彼は自分が「キリストの真の弟子」と呼ばれるのを聞いて、初めはある種の気恥ずかしさを感じるであろう。が、年が経つにつれて、彼は慣れてしまい、自分自身がそれが真実だと思いこむようになる。
こうして彼は死んでいく。人間として可能な限り徹底的に堕落して、そして、真理の証人として葬られるのである。
<引用終了>

私は、日本政府の要望に応じて1年だけ札幌農学校長に就任したクラーク博士が1期生には「bee gentleman」とだけ教え、立派なクリスチャンにしましたが、2期生の内村鑑三とは接点がなかったことが、内村鑑三を「真のキリスト教を知るクリスチャン」にできなかった理由であると考えます。

芥川龍之介はキリスト教に関する本を書いていますが、クラーク博士のような正当なキリスト者の友人をもたなかったことが、「キリスト教とは何だ」と思い悩み、自分で自分の脳を傷つけっていったものと考えられます。

私が以前に通っていた教会にY子さんという若い女性がいました。日曜学校で一緒に聖書を勉強しましたが、聖書を読むことが自らの病気、うつを治すと信じていました。聖書は色鉛筆で真っ赤の状態でしたが、いつからか来なくなりました。うつがさらに悪化したと後に聞きました。

聖書とは何か、この世で誰も「聖書とは〜である」と聖書を丸裸にした人間はいません。もちろん私にもできません。なぜならば、エジプト文明と異なり、シュメール人の記した聖書の世界には、証拠となるものが何一つ残されていないからです。

私は一人のクリスチャンとして「聖書とは〜だ」とは書いていきますが、すべて類推論の世界であり、実証はできません。
芥川龍之介とキリスト教の関係も同様です。聖書は意識的に分かりづらく書かれています。なぜならば、書いたシュメール人(イスラエル家)を近寄りがたい存在にさせるためです。聖書を追求すればするほど、悩みます。特に欧米人と右脳と左脳の働きが異なり、さらに文化的にしなやかな日本人には、聖書の言う「善と邪悪」の区別がつきにくく、まるで迷路に迷い込んだような感覚に陥ってしまうのです。

芥川龍之介は、限りなく高尚な「善」を求めました。しかしながら、聖書は何も答えてくれませんでした。

そして、マスメディアのバッシングや持病である精神の病により、耐えきれなくなりこの世を去ったのです。
享年36歳(満35歳)でした。
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脱原発10万人集会 主権者の「声」をカタチにする方法

普天間問題同様にもうこの火は消えません。しかしながら、従来の方法でいくら「声」を集めても、決して将来の原発ゼロにはつながらないと私は確信しています。

日本人はこれまで「オムニムーバー」に乗せられてきました。「オムニムーバー」とは東京ディズニーランドのホーンテッド・マンションで採用されているライドシステムです。数多くのディズニーのライドシステムの中でこの方式がホーンテッド・マンションに取り入れられた理由は、「見せたいところだけを見せて、見せたくないところは絶対に見えないようにする」という利点があるからです。イメージ的にはベルトコンベアー上の回転するイスに座った(馬の遮眼革のような)目隠しをされた人間が、常に誰かの指示で右を向いたり左を向いたりして進んでいくようなものと捉えてください。

テレビを中心としたマスメディアは、常にこの「オムニムーバー」に国民を載せようとしています。そして、官僚はそれを利用します。

ピーター・ドラッカーは「明日を支配するもの」に以下のように書いています。
<引用開始>
官僚という指導層は、一般に考えられているよりもはるかにしぶとい。不祥事や無能が暴露された後も、長く力を持ち続ける。

日本はこれまで問題の先延ばし戦略で成功してきた。この40年間に解決不能とされていた社会的問題を、問題の解決ではなく、問題の解消によって解決した。
<引用終了>

消えた年金問題など、大きな問題が起きた時、官僚たちは国民を「オムニムーバー」に載せ、見せたいところだけのシーン見せ、都合がいいようにメディアを使いコントロールしていきます。そして、官僚はつぶやくのです、「時が解決してくれるさ」と。まさに、ピーター・ドラッカーのいう問題の解決ではなく、問題の解消(消えてなくなる)を狙っているのです。

私も反省していますが、脱原発10万人集会に集まった人も、集まらなかった人も、これまで「オムニムーバー」に乗せられていたことを省察し、通常の方法では官僚や東電、そしていわゆる「原子力村」のシールド、防御壁は打ち破れないことを知るべきです。

それではそのシールドを打ち破るにはどうしたらいいのでしょうか。簡単です。打ち破るには外部からの実力行使(ゲバルト)ではなく、内部に影響をあたえれば良いのです。つまり、「声」を「知恵」というカタチにすることです。
官僚も東電も自分たちの仕事がなくなること、原発で働く地元民の仕事がなくなることを恐れています。自分に当てはめて考えれば当たり前のことです。
私は、先日も一部提示しましたが、東電も官僚も安心して前向きに取り組める原発ゼロを目指すロードマップを書き上げたいと思います。

2012年06月30日
バックキャスティング手法による脱原発ロードマップづくり
http://dream333.seesaa.net/article/278116074.html

菅直人前首相もロードマップ作りに真剣に取り組んでいます。

脱原発ロードマップ第一次提言を発表
http://n-kan.jp/news/?p=94

全国の脱原発論者の「声」をロードマップ(設計図)というカタチ(形式知)に落としこんでいく、そして「声」を上げるだけではなく、自然エネルギー、再生可能エネルギーづくりに参加していくことで、原子力村の内部に入っていくことができるのです。
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2012年07月16日

C・W・ニコル氏の「エンジン焼き」発想が地球市民を変える

C・W・ニコル氏の著書「アウトドアクッキング」を半年ほど前に読みエンジン焼きを知り「これは使える」と直感しました。
カナダでの話ですが日本でも行っているそうです。

<引用開始>
エンジンの熱で料理を試みたのも、このときだった。上等の肉を大きなかたまりで買い ― ときには、鴨とかカリブーの肉とか、またはクマの肉のこともあったが、あと人数分のパンと手ごろな野菜をそろえ、料理をしかけて四、五時間ドライブしたあと、きれいな川のほとりを選んで道端に車を止める。それからやおら、肉を取り出してのんびりと食事を楽しんだものだった。
<運用終了>

これ以上書きませんが、エンジン熱で料理する、つまり車が熱源となり生ものを加工するという発想は、地球市民の生活を変えてしまう可能性もあります。

日本で考えてみましょう。訳を話し、三菱パジェロのエンジンルームを見せてもらいましたが、エンジン焼きが可能な空間はありませんでした。しかしながら、そのときあることに気付きました。「これからは電気自動車の時代、車がオーブンになる」「エンジン内でなくてもいい、排熱も利用できる」と。

私が考えているのは、生ゴミの問題です。年間11兆円もの食べ物が捨てられていますが、生ゴミは乾燥すれば資源になります。15年後位をめどに、すべての車両に「乾燥機」取りつけ、乾燥して地域の工場に運び、動物や鳥、魚や植物の「えさ」になるペレットに加工するシステムが確立できないか、と本気で考えています。

このエンジン熱料理方を高温多湿な発展途上国に当てはめてみます。この地方は「生ものがすぐに腐る」地方であり、ビーフジャーキーなどの乾燥保存食が作りにくい地域ですが、ドライフルーツも含め、車所有者は保存食の生産者としての副収入が得られるようになるでしょう。「チリも積もれば山となる」です。国家をあげて保存食づくりに励めば、飢餓からの恐怖を感じなくなるに違いありません。

とても良いことを教えてくれたC・W・ニコル氏に感謝申し上げます。
posted by M.NAKAMURA at 11:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

普天間問題を解決するフラタニティ・テーマパーク


私は日本には強制注入すべきソフトウエアがあると2005年の尼崎JR脱線事故以降発言してきましたが、力不足で中央には届きませんでした。

7月6日
国会事故調の最終報告を笑う
http://dream333.seesaa.net/article/279200941.html

ディズニーランドにあって日本社会にほとんど見受けられないソフトウエアの一つに「シーケンス【sequence】《「シークエンス」とも》1 連続。連続して起こる順序。大辞泉」があります。
目には見えませんが、スイッチをいれるとコンピュータが「何か」をクリアしながら立ち上がっていく仕組みと同じことです。

合意と契約を遵守するアメリカ人は、このシーケンス論に基づいてすべてを進めます。1→2→3→4→5と決めたら絶対にそれを守るのが民主主義と信じて疑いません。筆者もそれが正しいと思っています。

普天間問題も同じです。アメリカ軍再編は1→2→3→4→5とシーケンスされていた(アメリカの国内手続きの完了)のですから、仮に3の段階の辺野古移設を「最低でも県外」などと時の日本の総理大臣が発言したのですから、アメリカ側はさぞや驚いたことでしょう。

もう一つ、ディズニーランドにあって日本にないソフトウエアが「レベル別対応法」です。「アメリカのテロ警戒レベルがレベル3に引き上げられた」というニュースを耳にした人は多いと思います。

普天間基地や嘉手納基地などの臨戦体制の最高レベルを5とします。私にはどうしても想像できませんが、敵国が沖縄や本土、あるいはアメリカの同盟国韓国を攻撃してくるという想定です

つまり、レベル4(敵国が攻めてくるという確実な状況)になるまでは、普天間基地は演習用の基地として存在しているのです。
アメリカをシーケンスを崩さず、合法的に説得する方法はレベル4(もちろんこれはアメリカが判断するのですが)になった瞬間に、現在の普天間基地の機能をそのまま活用できるようにすること保障することです。基地機能は温存され今と変わりませんが、普段は空っぽの状態にしておくことも可能です。オスプレイもり離発着しません。

辺野古になるのか分かりませんが、代替施設完成まで、部隊だけが日本国内や海外、アメリカ本土に仮移転することが望ましいと考えます。そして日米の国益を考えた時、普天間基地を早期に「(仮称)日米友好フラタニティ(友愛)・テーマパーク」と改称し、日米友好の象徴的施設に生まれ変えさせることこそが、沖縄の基地問題を解決させる端緒になると確信します。

まとめてみます。
1.どのようなテーマパークにするか
「基地」から、アメリカの国益を向上させる多機能的な「パーク」にチェンジさせる。

2.「パーク」で何が行われるか
@日米友好の市民交流である「アメリカンサイズ」のフレアマーケットの開催
インディアナ州Shipshewanaで開催される巨大フレアマーケット(1000ブースを超える蚤の市)
を参考に、アメリカ人による手づくキルトやクッキーやアメリカンペドラー(行商人)がつくる木工品などを扱う「フリーマーケット」を広大な「パーク」を使い月に何回か開催する。日米友好が日米同盟の要であるという思考から、出展社であるアメリカ人の日本への渡航費等は、日本の防衛費から念出する。同様に日本の手作り品や伝統工芸品も出展させることにより、日米両国に限らず、東アジア各国から沖縄に数万人規模の観光客を集める。

Aアメリカ商務省が「売りたい」アメリカの商材を展示する見本市を開催
アトランタやシカゴの国際展示場で開催される見本市を参考に、アメリカが売り込みたい商材の見本市を適時開催する。こうすることにより、「(仮称)日米友好フラタニティ(友愛)・テーマパーク」は東アジアにおけるアメリカ商材のショーケースと化す。日本の製品と合わせ、沖縄が日米の東アジアビジネス上の「拠点」となる。

Bアメリカのエンターテイメントを提供
広大な敷地を利用し、日米が協力し一流のエンターテイメントを提供する。「Base」が「Park」に変わることにより、将来的にはアメリカのシンボルともいえる「ディズニー」の協力も得られる可能性が高い。
観光振興券の発行などにより、沖縄は「日本一の観光地」「世界の観光地」になると確信する。

3.残された問題
残された問題はない。建造物はすべて2×4材の簡易建造物であるので一日で元の普天間基地に戻すことができる。
湾岸戦争の際にもイラク軍のクウェート侵攻から多国籍軍による「開戦」までには、日数と段階を経ている。普天間基地も同じである。密約ではなく、正々堂々と「アメリカの警戒レベルが○に達した場合、「(仮称)日米友好フラタニティ(友愛)・テーマパーク」は、条約に基づき、アメリカ軍が機能する状態に○日間で戻す、とアメリカ政府に確約することが肝要である。

ぜひ、こちらのホームページを見てください。筆者が何回も通ったインディアナの巨大フレアマーケットです。

shipshewana flea market
http://www.tradingplaceamerica.com/
amishcountry
http://www.amishcountry.org/leisure/shipshewana-flea-market-auction

日本語版アーミッシュブログ
http://www.albatro.jp/birdyard/photo/amish/index.htm

ここシップシワナには、私が愛する本当のアメリカがあります。プレーンフォーク(素朴、質素)なアーミッシュの人々がいます。両国が「分かり合い」共存共苦していけば、30年後には日本のアメリカ軍基地はなくなり、「(仮称)地球市民フラタニティ(友愛)・テーマパーク」になっているに違いありません。
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2012年07月15日

パンダの死とノミのサーカス


ノミのサーカスと聞いてピンとくる人は少ないと思います。
ノミのサーカスで検索してもどれも正しくありません。南米で行われている(た?)ノミのサーカスとはこういうものです。

お皿の上にノミを入れるとピョンピョンと飛び跳ねるが、お皿からは出ない。

これだけのことです。問題は「ノミがなぜお皿から外へ逃げないのか」という点にあります。その答えはこうです。

「皿に透明のふたをしてノミを放すと、最初は天井にぶつかるまで跳ねるが、ノミは学習し(痛さを覚える)ぶつからないようにピョンピョンと飛び跳ねるようになる」

熱帯魚のアロワナで同様な実験をした人がいます。最初、水槽の中を透明なガラスで仕切っており、後にガラスを外してもアロワナは仕切ってあった向こう側には行こうとしません。ガラスにぶつかった痛さが忘れられないのです。

私は、オリエンタルランド時代、部下に対しノミのサーカスの話をし、組織に飼いならされるなと指導してきました。小さな人間になるなと。

さて、パンダの死とノミのサーカスの話の共通点は何でしょうか。

ノミであっても、古代魚であっても「痛さ」を感じるのです。そして本来の自分の姿を見失ってしまうのです。
パンダも同様に常に「痛さ」を感じていると私は主張したいのです。

だから「観覧させるな」「野生に返せ」などとは言いません。「いたわる」とは「労わる」と書きますが、「痛みを割る」つまり、痛みを分かち合う「痛わる」のほうがより理性的な表現であると思い、今後使用していきます。(以前は「世論」と「輿論」はべつなものでしたが、いつのまにか理性的な「輿論」は使われなくなりました。官僚やマスメディアにとって都合のいい言葉ばかりが残っていく、すべてを疑ってみる必要があります。)

精神病も含めすべての病気は痛みを誰かと共有すると痛みが半分になると言われています。もちをん、私もそうです。
パンダも同じです。妊娠したときから痛みが始まっていると考え、「痛わる」必要があるのです。

ノミのサーカスが教えてくれるもの、それは「痛わる」ことの大切さだったのです。
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