16d6e8b5.jpg一日ガスと小雨が降る。水辺のエリア偵察、他エリアは黒くなっててほぼ全滅っぽいが、ここは湯川なみに雨に強いようで、まだ80%がドライ。
丸木橋もまだ水没を免れている。上流500Mのダムで水流がコントロールされてて助かる。あと2本も積めばさらによいところだが..

最近、〇〇の滝を登ったひとがいて、話題の模様、元気がある人がいれば日本と世界の将来のためにはいいと思うが、現在の日本の目先ばっかのルールを疑うこともなく、笠にかかって批判する人間が多いのも現実のようだ。

日頃生きながらコンプレックスを感じてるやつ、自分は大事だが、主体性はない。社会からはのけものになる、こういうやつにとって自分より弱いものは攻撃の対象になる。とくに社会的に知られた人間のスキャンダルなど格好の標的だろう。

宮司が湯気を発するヤカンのごとくおこったらしい、歴代宮司に対してのメンツやら、立場もあるのだろうが、もしこの人が、開明化で、(よし、人間修養のためなら、とことんおやりなさい、ここはもともと修験者の修行の場なのだから)と言ったとしたら、彼らの立場は全く変わる。批判する人間もいなくなる。

日本人の宗教観も考えてみたほうがよいのでは..?

宗教ってなんだ?
熊野那智大社の祭神をしってる人間がどれほどいるのだろう、祭神の意味も分からない人も多いのでは?
正月は神社(神道)、葬式はお寺(仏教)、なかにはクリスチャンでもないのに教会で結婚式あげたりする(うけるほうもうけるほうだ)

これを見れば、日本には本当に信仰心の厚いひとは、少ないといえるし、必要がないからそうなってるともいえる。
日本で生きてゆくには、宗教ではなく日本のキマリをまもって生きてゆくことが最も重要である。

現行のとりあえずなんでもありの宗教感をみとめて生きてゆくこと、それによって日本内での和をまもること、これが、この国の宗教でありもっとも楽な生き方であるといってよい。

これは閉鎖的な田舎の論理である、

宗教は魂の救いである。 ヨダヤ教からキリスト教がわかれ、やがて、イスラム教が分派した。多民族の中で、現在世界の宗教は個人のアイデンティティーに近い意味をもつ。
世界の紛争を見渡しても、はじめは権益のあらそいだったのが、いったん宗教的な側面が強調されると、双方ひっこみがつかなくなって泥沼になることが多い。

熊野那智大社にいって、人生を見つめなおす人間がどれほどいるか?
宮司だってそれは気付いてるはずだ。

いつの間にか現代批判になった。

ちなみに大社始まっていらい、2700年うんぬんは、オカシイ。初代天皇と言われる(神武東征) から数えているはずだが
神武東征はいかなる史実を反映してるとしても3~4世紀ごろのことと考えるのが、史学では常識のはずである。(余計なオセワでした)