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【コラム 私は見た!】

双葉山の道 白鵬の道

2012年7月21日

 このところ、白鵬が攻めの仕上げのところで、機会をうかがうように間を取ることが目立つ。その分、ここと決めて攻撃に踏み切ると、そこからの攻めが速い。一気呵成(かせい)はおろか、攻められる方は、ただ信じ難いスピードで敗北のただ中に持ち込まれてしまうような感じである。

 しかし、相手をその敗北の中に追い込むスピードと、その仕上げが余りに徹底的なので、ある場合は相手をもてあそんでいるようにも見える。これは横綱の相撲としてはどんなものだろう。

 考えてみると、ここに到達するまでには、いろいろな段階があった。触ればけがをしかねない鋭さが売り物だった時から始まって、双葉山に少しでも近づこうと、寄る相撲を至上のものとした試行錯誤の時代まで、大相撲ファンは白鵬の掲げる理想に、少なからず理解と同情をもって付き合ってきたといえるだろう。

 これは力士にとっても相撲ファンにとっても、幸いなことであったといえよう。考えてみると、大相撲の世界に外国人力士を入れるという大胆きわまる決断を実行させた先人は、実に見事だったと思う。

 だが、実のところ一点欠けたことがあった。それは、双葉山の再評価を行うことを忘れていたことだ。その大きな忘却に気づかせたことは、白鵬の大きな功績であった。さらに、自分の相撲を少しでも双葉山に近づけようと決心したことは、日本人力士には気づきづらいことだったのだろうか。

 ただし、いかに白鵬が双葉山への憧れを口にしようと、双葉山と白鵬の相撲は金輪際同じものにはならない。そのことを冷静に受け取って、白鵬は双葉山と別な道を行かなければならないのだ。このところ、白鵬の攻めに迷いが交じってくることが多いように思える。そんな時に私はふとこんなことを考える。双葉山も自分なりの険しい道をたどるのに、やはり、こうして苦しんだのだろうと。 (作家)

 

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