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原文入力:2010-01-01午前01:48:16(25114字)
[戦争60年 和解10年] ブルース・カミングス インタビュー
(訳注:この記事は2010年1月1日付けハンギョレ新聞に掲載されました)

小平 “北 開放必要”…DJ・チョン・ジュヨン 統一方式が正しい

イ・セヨン記者,クォン・テホ記者

今年は韓国戦争60周年を迎える年だ。また南北首脳会談が開かれ10周年になる年だ。‘6・25動乱’または‘6・25事変’と呼ばれた韓国戦争は2次大戦以後、米国とソ連・中国が初めて対抗した戦争であり、資本主義陣営と社会主義陣営の初めての衝突という世界史的意味がある。以後、冷戦が始まった。
朝鮮戦争以後、韓国では反共の旗じるしの下、独裁体制が続き1961年,1980年の度重なる軍事クーデターもこういう背景で可能だった。平壌大爆撃で廃虚の如くなった北韓は、金日成-金正日体制が続き、現在も戦時動員体制が続いている。

こういう政治的状況の中で国内の客観的な韓国戦争研究は事実上不可能だった。初期の著書は大部分が外国学者のものだった。特に‘韓国戦争研究はカミングス以前と以後に分かれる’という話がある程にカミングスの影響は独歩的だった。イ・ワンボム韓国学中央研究院教授は「1980年代以後、韓国戦争研究は事実上‘カミングス コンプレックス’と‘カミングス アレルギー’とが対決する様相だった」と話すほどだ。

カミングスの研究は反共主義見解に偏った伝統主義研究の平面性を越え、植民地と冷戦,階級葛藤という戦争の構造的起源に食い込んだという点で、韓国戦争研究を世界的水準に引き上げたという評価を受けている。一部では彼を北侵説に同調する親北学者として誤解したりもしたが、カミングスが<朝鮮戦争の起源>で提起したのは北侵説ではなく‘南への侵略誘導説’に近い。1990年代、共産圏機密文書が公開され、ソ連・中国・北朝鮮の計画による先制南侵説が否定できない事実に位置し、彼の南への侵略誘導説も説得力を失っているが、彼は依然として誰が初めて引き金を引いたかより、全面的衝突を産んだ歴史的・構造的要因が重要だという学問的信念を撤回しない。カミングスの影響を受けた進歩的研究者らも1990年代後半からは、色々な国の史料を交差分析のしたり戦争の起源や展開過程より戦争の遺産と影響という次元に研究方向を多角化している。

イ・セヨン記者 monad@hani.co.kr

01kam2←ブルース・カミングス教授(右側)がクォン・テホ ワシントン特派員とインタビューをしている。 チョン・アンスク <ハンギョレ>シカゴ通信員

■ブルース・カミングス インタビュー

<朝鮮戦争の起源>

-初めからタフな質問で始める。幼い時、‘韓国戦争は北韓の韓半島赤化野心、そしてソ連の世界共産化戦略により起きた’と習った。しかし、あなたは韓国戦争の起源で外部要因だけでなく内部要因にも注目した。あなたが考える韓国戦争の核心原因は何か?

“私は基本的観点を変えなかった。私はまだ韓国戦争が日帝強制支配期から始まった韓国内部の葛藤に始まったものと考える。(韓国戦争直前)当時、韓国,北韓はソ連と米国に2分化され、ソ連と米国は韓国内部で反目する両陣営を各々支援した。特にソ連と米国は各々の軍出身(日本軍と独立軍)たちを支援した。韓国戦争の原因は1930年代に遡る。当時、金日成は満州で独立軍ゲリラとして日本軍と戦っていた。そして日本軍は金日成を捕まえようと努めたし、彼らの中の1人がキム・ソクウォン(注:日本陸軍士官学校を卒業し日本陸軍将校として服務した。陸軍大佐として光復を迎え、56年に陸軍少将で予備役編入した。私学財団連合会理事を引き受けもし、忠武武功勲章,国民勲章牡丹章を受けた。45年の解放以後、ソ連は金日成を支援し米国はキム・ソクウォンのような人々を支援した。米国は日本軍にいた韓国軍将校らを登用した。これらの中には朴正熙,金載圭等も含まれている。米国は韓国の権力機構に日本軍出身者らを起用したことに大きな責任がある。

そして48年に李承晩が韓国に戻って来た時、李承晩は北韓から下ってきた日本軍出身韓国人将校らを軍将軍に起用した。これらの中の1人がキム・ソクウォンだ。そして米国は48〜50年に500人の米軍将校らで構成された諮問団を構成した。この諮問団はキム・ソクウォンのような(日本軍出身者らに)38度線防御の責任を負わせた。この点でソ連と米国が30年代日本強制占領期から対立してきた両者を各々支援したことは、外国が(一つの国に)介入したケースとしては最悪だ。(そうでなかったとすれば)韓国は統一されただろう。金日成は韓国軍の一部門を占めただろう。なぜなら彼は日本軍と戦ったためだ。キム・ソクウォンは日本帝国主義の下で最も激しい反逆者の一人だった。彼は勲章ではなく罰を受けるべきであった。しかしソ連は北側で金日成を支持したし、米国は南側でキム・ソクウォン(のような人物ら)を支持した。これは韓国としては最悪だった。49〜50年の韓国状況で、これはほとんど避けられなかった。

南北韓に外勢が介入したということは韓国戦争の核心原因の中の一つだ。戦争が起きた時、米国とソ連の役割はさらに重要だった。私は米国人なので戦争のこういう側面をさらに強調することができる。何かと言えば米国人たちは韓国戦争が共産主義者たちにより1950年6月25日に勃発したと考える人々が多い。‘米国は何もしなかったという話だ。そして我々は勇敢に韓国を防御した。そして韓国で(米国が)した事は全て正しいことだった’と考える。私が今まで35年間、学生たちを教え本を出版し朝鮮戦争のその複雑な起源を説明することに努めた理由だ。”

1930年代独立軍 金日成 - 日本軍 キム・ソクウォン
解放後 ソ連-米国が支援したことが不幸の種

-あなたは特別に韓国戦争での米国の責任を強調した。

“米国人の中で、米国が韓国を占領し米軍政を実施したことを知っている人はあまりいない。米国人たちは(米国による)ドイツと日本占領を知っているだけだ。米国人たちは韓国についてよく知らない。彼らは戦争が1950年に起きたと考える。私が強調したいのは、イ・スンマンのような愛国者たちが韓国政府を樹立する上で米国が大きな役割をしたが、これらの内の多くの人々が日本に奉仕した人々だ。日帝植民地時代の本質だが、それは非常に賢明でない処置だった。こういう背景が戦争を引き起こす状況を作った。米軍政は左翼,労働組合,人民委員会,女性組織などを弾圧し、後ほどこれは済州抗争と麗水抗争に集約された。これは韓国で起きたことに対し米国に深い責任を負わせた また別の例だ。

歴史学者が本を書く時、学者は現存する本,文書を調べなければならない。私が81年に出版された最初の本を書く時、ほとんどすべての本が北韓とソ連を非難していた。米国については何も分からなかったし、話すこともなかった。私は幸い米軍政時期の秘密文書を見られる最初の非政府機関研究者だった。その文書らは70年代に公開された。私はその記録を10年間調べた。それで私は私の判断に強い自信を持っている。なぜなら大部分の人々が知らなかった文書に基づいているためだ。普通の理性的な人がそのような文書を読めば、彼らが私の考えに同意すると信じる。私の最初の本の意図の一つは‘均衡’だった。現存するすべての本が金日成を批判している時だった。”

-あなたは韓国戦争で日本強制占領期間の影響を大きく強調したが、日本強制占領期間が朝鮮戦争に及ぼした影響とは何か?

“(日帝強制占領期間は朝鮮戦争の)主要原因の中の一つだ。唯一原因ではないが最も重要な要素だ。帝国主義期間、韓国人たちは韓国人と戦った。(日本強制占領期間に)警察の半分は韓国で恨みを買った。植民国家の警察の内、半分は韓国人だった。サンフランシスコ大学教授の私の友人サラ ソが最近、慰安婦と呼ばれる性的奴隷に関する立派な本を出した。サラ ソは多くの韓国人たちが慰安婦募集に関与していたということを把握した。日本人たちを恨んだ韓国人たちは、日本に賦役した(こういう)韓国人らと戦っただろう。ところで、こういう賦役が非常に蔓延していたということだ。

また日本は韓国を人材資本として利用した。数百万名の韓国人を産業現場,鉱山,徴用などに送った。約10万人の韓国人青年たちが軍に引っ張られた。また韓国人の20%が移動した。貧困,徴用などで満州,日本,韓半島北側などに行った。移住した韓国人たちの人生は不安定で、不調和と不安を引き起こした。(解放になるや) 45年に(日本軍にいた韓国人)軍人たちは故郷へ帰ることを願った。

最初の本で私はこの点に多くの部分を割り当てた。なぜなら韓国の民衆たちは彼らが帰ってくるのを不快と考えた。彼らは帰ってきて政治活動に関与し、40年代後半に多くの騒乱を引き起こした。

日本は(自分たちの)目標のために韓国人を利用した。台湾も日本植民地であった。しかし台湾人の移動は(韓国人に比べて)とても少ない。45年に日本には3万5000人余りの台湾人がいただけだ。(これに反し)韓国人は200万人を越えた。また台湾人の相当数は学生であるとか専門家たちだった。日本は韓国の人材を鉱山または軍,または性的奴隷として使ったが、台湾人を利用してはいない。韓国女性1万人余りが性的奴隷として連れて行かれた。

1920年代、日本は3・1運動の余波で宥和策,いわゆる‘文化統治’政策を使った。この時にキム・ソンスが東亜日報を始めるなど、韓国で新聞が発刊され始めた。(韓国人が)事業を始め本を書き、結果的に独立の本質を準備することが可能になった。しかし30年代に(日本は)再び強硬策に旋回した。日本に従事した人々が解放以後に恨みを買うことになったのはこの時からだ。

北韓はたびたび韓半島の分断と戦争を起こした張本人として日本を告発する。永らく私はそれを理解できなかった。日本は(強制占領期間に韓国人)分裂策を用いたし、これは45年から50年まで(解放以後)の混乱を引き起こさせた。日本は韓国の産業、また鉄道などを構築した植民地開拓者でもある。フランスがインドシナでしたことと比較される。フランスはインドシナに、オランダはインドネシアに何も建設しなかった。しかし、日本は資本を(韓国に)持ってきたし、韓国に資本主義を紹介した。日本は日本が未開発な韓国を発展させたと言う。わらぶきの家に住んでいた農夫たちを労働者,鉱夫にしたと話す。私は、長期にわたり日本植民主義に影響を及ぼした日帝治下で進行された開発と未開発を強調することが重要だと考える。韓国戦争の起源に関する問いだ。”

韓国戦争は‘国際戦の性格を持った内戦’
内戦でないならソ連崩壊の時に北も崩壊

-それなら戦争の性格面で見る時、朝鮮戦争は内戦(Civil War)なのか、でなければ国際戦(International War)か?

“大変重要な質問だ。大部分の米国人はベトナム戦争を内戦として見る。多くの米国人はベトナムに国際問題が介入したことを度外視する。

朝鮮戦争に対する完全な歴史を知れば、朝鮮戦争もまた内戦として眺めるだろう。日本は日帝強制占領期間に分裂策を用いた。一方は金日成、他の一方はキム・ソクウォンような人たちに分けて。その時、米国とソ連が進駐した。私はまだ朝鮮戦争の適切な正義は‘国際的勢力が介入した内戦’と見る。万一、内戦でないならば、北韓はソ連が崩壊した時点で一緒に崩壊しただろう。また北韓がベルリンの壁崩壊以後、20年間持続しているということは北韓が自分たちの方向が正しいと信じ、自分たちを守っているということを意味する。万一、北韓がソ連の操り人形であり、スターリンがボタンを押し、金日成が(南韓を)攻撃するようにさせたのだとすれば、北韓はヨーロッパで共産主義が崩壊した時、同時に消えただろう。言い換えれば、北韓の永続は私のような学者らには北韓がソ連の操り人形というよりは、根本的に民族主義体制だということを意味する。北韓の永続性によってこれは証明されている。来る6月には60年になる、60年。それ(このように分断された状態が長くなっていること)が韓国戦争の悲劇だ。しかし永続性は韓国戦争の基本的な属性が内戦であるためだ。

ベトナム戦は韓国戦争とは性格が違う。1954年ベトナム民族はディエンビエンフー戦闘でフランスを打ち破り、60年代の米国介入前まで約10年間の空白があった。それでベトナム戦争はベトナム内戦に米国が介入したと見られる。ソ連と中国はそれほど多くは介入しなかった。韓国,中国,ベトナムは植民主義に抵抗した似た経験を持っている。これは民族主義者と革命的抵抗運動を作った。それで北韓は共産主義中国,ベトナムと類似の歴史を持っている。”

-あなたの本で私は2次大戦以後に米国が初めから南韓,北韓分断を試みようとしたのではなく、あたかも偶発的に38度線が引かれたように理解した。38度線は計画されたものか、でなければ偶発的にできたものか?

韓国の分断はおそらく米国が長崎に原子爆弾を投与した以後の24時間に下した最悪の決定だった。最も強硬な外交政策マンであったジョン・メクコリーは(国務部の)ディーン ラスクなどに韓半島を分割する位置を探せと指示した。私はラスクが後ほど、これと関連してある証言をするのを聞いた。ラスクは米国がソウルを占めることを望んだ。ソウルはフランスのパリ、日本の東京のように全てのものが集中した巨大都市だ。1945年にもそうだった。米国地域にソウルを含ませるということは、米国としては大変重要な政治的決定だ。私たちはソウルを望み、それで38度線を選択した。地理学者を除き韓国人らが以前には全く知らなかったその線が永遠となったのだ。米国とソ連両者が38度線を受け入れたためだ。たとえソ連はいかなる公共文書にも38度線を受け入れたということは残さなかったとしても。彼らは38度線の南には降りて行かないことにより暗黙的に38度線を受諾した。しかし、ソ連が韓国を分断することを直接犯しはしなかった。したがって38度線は米国の決定だった。メクコリーとラスクは韓国人のどこの誰ともこれを相談しなかったし、同盟国である英国,フランス,ソ連とも相談しなかった。非常に思慮の浅い決定だった。その波及効果は今も続いている。今日、ある韓国人作家は(38度線を)歴史の障害物として描写した。38度線は東北アジアと韓国史の巨大な障害物だ。大部分の米国人はこれを知らない。(38度線の画定は)韓-米関係の悲劇の中の一つだ。”

-米軍政ホッジ中将はヨ・ウニョンと中道派の代わりに反共主義者であり親米主義者のイ・スンマンと韓民党を選んだ。これはソ連と北韓の存在のためなのか、米国としては避けられない選択だったか?

“ホッジ将軍は非常に興味深い存在だ。彼は反共主義者だった。また南部イリノイ州の出身だ。そこは40年代当時、人種差別が非常に激しかった州であった。黒人と白人学校が分離しており、あたかも米国南部のようだった。そしてホッジ中将は非常に保守的な背景を持っていた。ホッジは45年10月、イ・スンマンが帰国した時に彼を歓迎した。しかし当時、米国秘密情報機構は国務部の指示に反して秘密裏にワシントンへイ・スンマンを連れてきた。イ・スンマンは45年10月に東京に到着し、マッカーサーに会った。マッカーサーは彼に個人飛行機を提供し、韓国に帰るようにした。ホッジは10月20日盛大な歓迎式で彼を迎えた。これら全てがソ連はもちろん国務部政策にも反することだった。イ・スンマンは10月20日に反共的な演説を行った。そして当然、ソ連は平壌で金日成を前に出し一対となった。分裂があまりに早く訪れた。大部分の米国人は共産主義を見たことがなかった。なぜなら彼らは共産党を経験したことがない。強い左翼を持ってみたこともない。しかし大部分の韓国人は40年代に対日抵抗過程で自然に左翼アイデンティティを持った。米国人は韓国と韓国人らに対して何も知らなかった。(当時)韓国人たちは多くの問題を左翼が解決することができると見た。そして左翼は愛国的オーラを持っていた。それで(当時米国がイ・スンマンを選んだことは)非常に悪い決定だった。イ・スンマンを連れてくるのが現実的で実用的だと考えたが、これは単に状況をさらに両極化させただけだ。

2年後、ホッジョはイ・スンマンを嫌うようになった。彼はイ・スンマンの(大統領)就任前に韓国を離れた。彼はイ・スンマンがハワイの側近たちを連れてくることを願わなかった。彼はイ・スンマンに対する評価が低かった。はなはだしきはホッジは腐敗疑惑で何度もイ・スンマンを逮捕しようと試みたことさえあった。

こういう状況は米国-中国との関係で、ジョセフ スティルェル将軍と蒋介石の間にもあった。スティルェル将軍は蒋介石,イ・スンマンと近かったし、これらを見守った。米国は誤った人を選んだということを識別した。しかしイ・スンマンは米国を知っていた。イ・スンマンは米国で35年間暮らし、反共主義者であった。イ・スンマンは万一、米国がイ・スンマンを助けずにイ・スンマンを韓国のナンバー1指導者としないならば、その他に誰もいないと信じるようにすることができた。‘金九? 違います。彼と仕事をすることはできない。ヨ・ウニョン,キム・ギュシク? 違います。彼らとも仕事をすることはできない。彼らは私のように強くない。(唯一)私だけが韓国で米国の利益を守ることができる。’イ・スンマンはこのような点で非常に効果的だった。

(こういう状況は)韓国戦争まで持続した。53年にイ・スンマンに対抗したクーデターの動きがあった。しかしイ・スンマンは戦争末期に韓-米相互防衛条約を締結することができた。彼は非常に賢い政治家だった。米国がそのような人と共に仕事をしたのは失敗だった。彼は状況をさらに両極化させたためだ。

ホッジに対して付け加えるならば、彼は46〜47年にヨ・ウニョンとキム・ギュシクの左右合作委員会を設立しようと努めた。しかし不幸にもあまりに遅かった。すでに両極化した状態だった。ヨ・ウニョンの娘が(北韓で)私に話した。チャン・テクサンが47年7月にヨ・ウニョンを暗殺したと。チャン・テクサンは当時首都警察庁長官だった。私はこれが真実なのか否か正確には分からない。しかし米軍政がチャン・テクサンを容疑者として疑ったということは事実だ。46〜47年のこうした出来事が(左右)状況をさらに両極化させた。ホッジは45年9月にヨ・ウニョン,金九,キム・ギュシクと議論をするべきだった。イ・スンマンとではなく。しかし米国は(イ・スンマンを選択する)非常に悪い決定をした。”

-イ・スンマンは韓国戦争にはどんな影響を及ぼしたのか? そして今日の韓国の右派の間では建国の父としてイ・スンマンに対する再評価の動きがある。

“すべての国が建国者には寛大だ。ジョージ・ワシントンを批判することはかなり難しい。しかし、私は歴史学者は文書で発見されることなどを扱うべきだと見る。たとえ米国が45〜60年にイ・スンマンを支持し、彼がうまくやることを望んだとはいえ、米政府の中にはイ・スンマンの腐敗,側近らの権力乱用に関する書類がぎっしりと埋まった。イ・スンマンはキム・ソクウォンとペク・インヨプの兄ペク・サンヨプなどを就任させた。北韓にも日本に従事した人々がいた。しかし(その数は)少なかった。

49〜50年にイ・スンマンは(南韓が)北韓を侵攻することに対し、米国が支持するようにするため努めた。これはレトリックな宣伝ではない。全て文書にあることなどだ。ジャーナリストのウィリアム メテュスの記録によれば、はなはだしきは戦争1週間前にジョン フォスター ダラスが韓国にきた。ダラスはイ・スンマンに会った。ダラスはトルーマン行政府の大使だった。イ・スンマンは話した。‘私たちは北韓を攻撃する必要がある。米国は私たちを助ける必要がある。これが唯一の方法だ’と。

歴史学者は光栄を受ける資格がない人々を光栄あるようには出来ない。イ・スンマンは米国の支持がなかったとすれば韓国の大統領になれなかった。大部分の韓国人は(解放直後)彼について聞いたこともなかった。彼はとても高齢だった。すでに70才だったし、35年間も国外にいた。彼は米国出身の最初の博士だった。ある側面では非常に賢い政治指導者であった。彼は韓国の派閥を扱うことができたし、特に米国を扱うことができた。しかし保守的歴史学者たちはイ・スンマンの本当の行動を示す文書について話さなければならない。イ・スンマンは金日成と同じくらい戦争を誘発させた。金日成は結局ソ連と中国の支持を勝ち取り、米国は断った。これが根本的な違いだ。”

-あなたの<朝鮮戦争の起源>について一部の批評家はこの本が修正主義史観に立っており、とても主観的だという批判をする。ある批評家たちは金日成が朝鮮戦争勃発以前にソ連にこれを懇請したという旧ソ連外交文書を根拠に‘金日成がソ連の承認なしに戦争を起こした’というあなたの主張は間違っていると主張する。これをどう思うか?

“私は殆ど20年間批判を受けてきた。しかし私の最初の本は文書を通じて(以前の考えを)修正するために出したものだ。私たちが学生たちに問うのは‘どのようにして君の論文が以前と違うようにさせるか’ということだ。

第二に、慎重に言うならば私の本は、米国でこういう種類の本が得られる最高の賞である米国歴史学会が授けるジョン・キング・フェアバンク賞を受けとった。

韓国で(私の本を)理解するにはマイナーな問題と大きな問題が各々一つずつある。第一に(韓国)翻訳物はとんでもないものだった。私が3〜4ページも読めなかった。彼ら(翻訳者)は私が書いたことを全く理解できなかった。私は多くの隠喩(メタファー)を使った。そして多少文学的に書こうと思った。ところでこういうものの大部分がまともに翻訳されえなかった。その翻訳本は未だにいわゆる海賊版という形で不法流通されている。それで多くの人々は私が最初の本で書いたことをよく理解できない。翻訳を通じて読んだためだ。しかしこれはマイナーな問題だ。

重要な問題は、記録文書と関連したことだ。90年に第2版が出版された後、ソ連が解体された。私が知らなかったことがソ連の文書にはあっただろう。ソ連文書にあることを知らないからと私を批判するのは、私が米軍政期にある文書を知らないとして韓国の歴史学者らを批判するのと同じだ。彼らは(米国文書に)接近しなかった。そして私はそれ(ソ連文書)に接近しなかった。

私はそのような(ソ連)文書らが公開され次第、それを追った。(それにもかかわらず)韓国を侵攻した最初の主導者はスターリンではなく金日成だということには疑問の余地がない。金日成は持続的にスターリンに支援を懇請した。そしてスターリンは彼に限られた支援を許諾した。しかし金日成は全面的侵略を敢行した。私の最も激しい批評家たち、キャサリン ウィダスビのような人も今は(私の見解を)認めている。キャサリンは常に韓国戦争がスターリンの戦争だったと主張した。‘これはスターリンの戦争だ。スターリンがボタンを押した’と。私はそのような主張には私の耳を塞いだ。なぜならそれが事実であるはずがないので。そして今判明した。ゲリラ戦争でない、局地戦でもない、全面的戦争をすることにした決定は金日成が下したのだ。金日成の目標の中の一つは韓国を占領し、キム・ソクウォンのような人を捕え彼らの首を捻り、彼らが30年代に犯したことを追及しようとしたということだ。キム・ソクウォンが金日成の最初の妻キム・ヘスンを殺害したというデマがある。私はキム・ヘスンが彼の最初の妻なのか、そしてこれが事実かどうかわからない。しかし金日成とキム・ソクウォンの間に誰かの死がある。

こういう観点で見る時、私は金大中大統領の(韓国戦争に対する)主張が正しかったと見る。金大中は‘金日成が50年代に韓半島を統一させようとした’と話した。金日成は先に韓国、その次に日本式の世界共産化戦略を追求したのではなかった。”

-南北韓 中 韓国戦争の影響は今までどちら側がより深刻に受けているか?

“北韓がより深刻に影響されているということは疑いの余地がない。北韓は(戦争以後) 100万人以上の軍を持つ要塞国家に変わった。すべての国民が軍事訓練を受け、地下施設を設置し、足りない資本の相当部分を軍備に使う。北韓は戦争のために再組織されている。原因は米国が朝鮮戦争を終わらせようとする外交的努力(終戦協定または平和協定締結など)を傾けないためだ。米国は韓半島で最も強力な力を持った。戦争は遠い昔に終わるべきだった。しかしそうではなかった。戦争の効果は本当に北韓を軍事政府に変形させ現在まで続いている。

南韓の場合、65年以来 経済発展した。これは南韓を大きく変貌させた。大部分の南韓の人たちは韓国戦争について考えていない。若い人々はインターネットに没頭し、ハイテク産業の仕事を探す。南韓は韓国戦争以来(北韓より)より正常でより予測可能な種類の発展をしてきた。もちろん万一、南韓が45年に統一していたとすれば韓国はもっと遠い昔に安定した状態を得ただろう。

北韓は韓国戦争以後、深く影響されている。そして米国と日本が作った(南韓の)軍部が61年にクーデターを起こした。そして80年には全斗煥のクーデターがあった。軍部は30年間、韓国政治の主要な因子であった。しかし南韓は民主化された。私を攻撃した人々、右翼と反共主義者たちが(今は韓国で)影響力が減ったということは興味深いことだ。若い人々は30年前に教科書で読んだより私の本をより信じる。万一85年ならば、私は韓国がまだ韓国戦争から深い影響を受けていると考えただろう。全斗煥と軍部が軍部独裁を行っていたためだ。しかし韓国人たちはこれを変えた。ワンダフルだ。そしていつかそのような種類の変化は北韓にも起きうる。どんな形になるかはよく分からない。しかしいつかそうなると信じる。”
 
-国際法の側面から見れば韓国戦争はまだ終わっていない。技術的に停戦状態であるだけで終戦ではない。銃声が止み60年経つのに終戦に至っていない理由が何だと見るか? こういう現実と関連して具体的に誰にどんな責任があると見るか? 南と北が停戦体制を後にし平和体制を構築しようとするなら何をどのようにするべきか?

“適法性は韓国戦争とはほとんど関連がない。ヘリ トルーマンは米国憲法に従わなかった。米憲法は戦争を宣言する時、議会の批准を受けることを要求している。彼は議会の代わりに国連に行った。そして戦争宣言なしで地球の向う側に50万人の米軍を送った最初の大統領だ。リンドン・ジョンソン大統領もベトナム戦でそのようにした。ジョージH.W.ブッシュ,ジョージ・ブッシュもイラク戦でそのようにした。4度の主要な戦争で米国は戦争宣言なしに戦争を始めた。米国憲法によれば全て不法だ。53年に韓国戦争が終わった時、アイオワ州裁判所は韓国で戦争が起きなかったという判決を下した。(ハハハ)それは警察出動であったので戦争と呼ぶことはできないということだ。それで合法性は韓国戦争では初めから存在しなかった。

私は金泳三とビル・クリントンが4者会談(韓国,北韓,米国,中国)を行った時の90年代に平和協定を結ぶことが(今より)やさしかったと考える。北韓は平和条約(treaty)の要求を放棄した。米国憲法で条約は上院の承認を受けなければならないが、おそらく上院がこれを断るだろうということを知っていた。それで北韓は平和協定(agreement)に変えた。不幸にもそれさえもなされなかった。平和協定が韓国戦争を法的・技術的観点で終わらせるだろう。しかし平和協定が南韓,北韓間の対立までは終わらせることができないだろう。

韓国戦争を終わらせようとする南韓,北韓対立を終わらせる最も大きな努力は金大中が就任した98年2月から盧武鉉政府につながった去る10年間だった。南北関係進展の最も大きな成就がこれらによってなされた。しかし不幸にも90年代後半、米国がこういう(韓国での) ‘進展’と並んで行かなかった。その結果、2001年以来(南北関係で)ほとんど進展がなかった。そして北韓は今、核保有国だと主張する。90年代後半の(南北関係)進展が去る10年間、正しく引き継がれなかったということは非常に不幸なことだ。

01kam3←小平も“北 開放必要”…DJ・チョン・ジュヨン統一方式が正しい(※クリックすればさらに大きく見ることができます)

<統一>

-統一について話してみよう。統一は必要なのか? ある人々は統一が経済社会的混乱を引き起こすことになると見ている。‘そのような費用を払ってまでもなぜ統一をするべきか’という疑問を表わす人々もいる。

“私たちが年を取って学ぶのは慣性の法則が非常に強いということだ。火曜日したことを水曜日,木曜日,金曜日にもする。よりやさしくて、より予測可能なことだからだ。

韓国の統一が必ずしなければならない必然ではない。(しかし) 60年間引き延ばした以上、または夢にようなことだ。韓国が再統一されるということを信じる。たとえ60年間(両者が)毎日他の宣伝をしたとはいえ、南韓,北韓は非常に似ており、すべて両者ともに韓国の同質性を信じている。それならいつか統一されるだろう。

しかし今どこの誰も韓国の統一のために大きな犠牲を払おうとはしない。慣性はそのような点で非難されなければならない。ジョン・スチュワート ミルが‘万一ある人々が明日の朝、中国で400万人の人々が飢餓,洪水で死ぬにしても、私は非常に平和に寝床につくだろう。しかし万一、朝私の小さな指先が分かれたとすれば私は夜通し寝つくことができないだろう’と話した。人とはみなそんなものだ。ソウルで三星のような素敵な働き口を持っているならば、なぜ北韓の統一のために(自身のことを)犠牲にすることを願うだろうか? また北韓でも金正日とその家族たちが60年間統治して、ほとんど70年間。彼らがなぜ南韓との統一のために自分たちの権力を放棄するだろうか?

私はまだ金大中と盧武鉉の10年が統一のために大きい進展を作ったと考えている。基本は和解であった。即刻統一でなく。 万一南韓,北韓の間に和解がないならば、統一路を少しも進むことはできない。韓国の人々が北韓の人々を共産主義者,敵と見るより永らく失っていた親戚と見始めたということは非常に肯定的なことだ。‘真実と和解委員会’が韓国戦争を調査したが、非常に立派なアイディアだと考える。新しい文書に基づく歴史の再建、真相究明、そして犠牲者と加害者に対する理解などが統一のための背景となる。最近‘真実と和解委員会’の調査結果を見たが、戦争期間に韓国で起きた民間人虐殺が50年6月から51年中盤までの戦争初年度に起き、韓国当局が6〜7件に関与している。また共産主義者たちと左翼の虐殺行為も一度ある。6対1の比率だ。

(真相究明は)犠牲者と彼らの家族に歴史の位置を付与する。また(加害者と犠牲者)すべて互いに理解し始める。李明博大統領が‘真実と和解委員会’の門を閉めないことを望む。ところがイ大統領が(門を閉めるように)見える。”

金大中・盧武鉉10年間 統一 大きな進展
MB‘真実・和解委’門を閉めるべきでない

-韓国人には米国が韓国の統一を望んでいないという長い間の神話がある。どう思うか?

“米国と韓半島周辺の強大国たちは統一を願わないと遠い昔にそのように考えた。現状維持のために統一を犠牲にさせるのかという疑問があった。

しかし、金大中の和解政策は米軍の駐留を前提としている。2000年6月、南北首脳会談で金大中は‘米軍が統一以後にも(韓半島に)留まることができる’ということについて金正日の同意を得た。これは(金大中統一政策の)基本的な設計だ。韓国で米国の利益を守り保護する論理的な計画だ。そしてビル・クリントン大統領は米国の現実政治の側面で韓国の統一を支持した。

21世紀に米国が最も心配するのは何なのか?
中国だ。国防省はソ連崩壊以後から中国について心配してきた。中国は東アジアの(最大)権力であり、米国の利害関係に実質的脅威となる。韓国は違う。私たちは同盟だ。米国は韓国の統一を助けることができる。北韓または北韓のリーダーシップを中立化させることも一方法になりうる。

金大中は常に理想主義,妄想家という指摘を受けてきたが、事実彼は非常に親米的だった。金大中は韓国で米国が介入した状態での韓国,北韓和解・統一を望んだ。日本は韓国の統一を敬遠しているかも知れない。統一韓国は日本のさらに強い競争者になるためだ。中国は北韓が権力を維持することを望む。なぜなら北韓と中国は最後の共産主義国家であるためだ。ロシアは韓半島統一に格別な影響がない。米国はクリントンと金大中の登場以後、(統一になっても)東北アジアで安定した構造を維持することができる。”

-韓国が統一の良い手本を持ったか? ベトナムとドイツはそれぞれ違った統一過程を経た。韓国が彼らから何を学べるか?

“ベトナムの統一方式は1950年の金日成の方式と同じだ。ベトナム統一は全面的な侵略に終わった。ベトナムは南部ベトナム権力を破壊した。それは今日どこの誰にも良い手本ではない。

ドイツはいつも韓国で統一の手本として提示されてきた。しかしそれは良い手本ではない。東ドイツはソ連の操り人形だった。ベルリンの壁が崩れる時、東ドイツは10万人の警察力のような小さな軍隊だけを持っていた。ソ連は東ドイツに36万人の駐屯軍を持っていた。これがドイツと韓国が根本的に違う点だ。モスクワでボタンを押すことで、ゴルバチョフが東ドイツに軍隊を移動させない、そのような措置だけで韓国が統一を得ることにはならない。またドイツ統一は非常に高価な代価を払った。ドイツ市民の税金をたくさん引き上げた。韓国人がこれを恐れるのは当然だ。

しかし金大中とチョン・ジュヨンが推進した南浦と開城など、北韓輸出自由地域政策は少しずつ少しずつ北韓を再建することができた。北韓の賃金が安いから南側企業が利益を得る時に北韓のインフラ構造も少しずつ発展する。経済的に数十年かけて南韓,北韓を再統合するのは非常に良い計画だった。2006年に金正日と盧武鉉の首脳会談で黄海道海州と南浦港と関連した協定は大変重要だった。しかし履行されなかった。

こういう方式がはるかにより優れている。ドイツの統一は多くの費用を要求する。言い換えれば、金大中と盧武鉉,クリントン政府での対北韓政策が良かった。しかしジョージ・ブッシュが入ってきた以後、盧武鉉が退いて以後(すべてのことが)作動しなくなった。南北韓のすべてで。”

-あなたは金大中と盧武鉉の対北韓政策が好きでしょう?

“当然だ。私は金大中が大統領に選出された時、かなり驚いた。私は永らく彼を知っていた。私は彼が大統領になれないと思っていた。ところが選出された。私の判断が間違っていて非常にうれしかった。98年2月の就任式に参加し就任演説を聞いた。彼は根本的な方式の対北韓政策を実施するだろうということを知った。そのような根本的な変化が正しい。彼が多くの進展を成し遂げたことを歴史が証明してくれる。開城工業団地には4万人の労働者がいる。これから10万人まで増える展望だ。20年前には誰もいなかった。これはチョン・ジュヨンと金大中のリーダーシップが成し遂げた主要な成就だ。人々は‘北韓にお金をばら撒く。帰ってくるのは何もない。南北首脳会談を(お金で)買った’と考える。そのように言うことはやさしい。私たちは一歩後に退き、客観的に歴史を評価する必要がある。そうする時(南北関係で)金大中が多くの進展を成し遂げたということを知ることが出来るだろう。”

-李明博大統領は金大中-盧武鉉政府でなされた南北間協定を大きく無視した。しかし南北関係が深刻な物理的衝突や葛藤があることでもない。こういう状況をどのように理解しなければならないか?

“李明博は北韓に荒々しく対処すると公約したのでそのようにしている。彼の政治的支持層は保守的で韓国政治スペクトラムで右側に位置した人々だ。彼は彼の政策ではなく、経済が悪かったために当選した。その選挙結果には驚かなかった。むしろ驚いたのは彼が作動しない政策を着実に固執しているという点だ。北韓との関係はさらに悪くなった。

バラク・オバマが大統領になった以後、少なくとも去る6ヶ月間、北韓は米国と韓国にもう少し穏健になろうと努めている。しかし李明博が大統領になって以来、南北関係で進展があったと見ることは難しい。これは党派的な話ではない。北韓を圧迫する強硬策で、北韓が自分たちの行動を変えると考えてみよう。非常に良いことだろう。しかし2006年に北韓が核実験を行った。そして去る5月に再び核実験を行った。1945年以来、北韓は圧迫されれば直立したまま抵抗してきた。彼らの対処方式だ。

カーター行政府当時、小平は中国を統治した。小平は当時、ジミー・カーターに話した。‘北韓を圧迫しては絶対勝つことはできない。北韓を少しずつ孤立から抜け出すようにする必要がある’と。正しい言葉だ。金大中と盧武鉉がクリントン行政府とともに去る10年間、チューブから歯磨きを出すようにしようと絞り取ったが、イ・ミョンバクが再び歯磨きをチューブの後方に押込んだ。

韓国は‘真実と和解委員会’が努めている韓国戦争大虐殺に対する真相究明を行う必要がある。‘そんなことは起きなかった、全て忘れよう’と話すことはできない。李明博は経済的観点では良い大統領であるかもしれない。韓国経済は安定している。李明博がいることで良いことも多い。しかし(彼の)対北韓政策は作動していない。”

イランとは違い、米国との関係改善を希望
北韓 核兵器を放棄できると考える

-李明博は南北関係改善の前提条件として北韓の‘先ず核廃棄’を要求している。これが効果的と見るか? でなければ彼の接近が近い将来、変わることと見るか?

“返事がちょっと長くなりそうだ。米国では外交政策の決定は非常に党派的なイシューだ。ビル・クリントンが去りジョージ・ブッシュが就任した時、クリントンの政策の大部分をひっくり返した。これは北韓とクリントンとの間に結んだ協定も無視するということを意味する。北韓のチョ・ミョンロク国防委員会第1部委員長が、2000年10月にホワイトハウスへ来て‘北韓と米国が互いに敵対しない’という協定にサインした。ところがブッシュは北韓を‘悪の枢軸’と描写した。彼は北韓をまず攻撃対象とした。北韓はこれに‘協定のインクも乾かない内に’と反論した。

李明博も金大中-盧武鉉当時に南北首脳会談で結ばれた主要協定‘互いに敵対視しない’という協定が存在しないかのように行動した。韓国でも党派的な変化があった。外交政策には永続性がなければならないという主張がある。相手方はこちらの内部政治を理解してくれない。北韓は裏切られたと感じた。‘万一、米国や韓国の次の大統領が以前に結んだ協定を破棄するならば、私たちはなぜ約束を守らなければならないか’と北韓が言う。北韓はこういう問題を持っていない。彼らの指導者は永遠に全く同じであるためだ。民主主義でなく独裁体制であるためだ。ジョージ・ブッシュと李明博が前任者らが結んだ協定を履行しないのは良いことではない。不幸だ。

また私がひとつ言いたいのは、金大中が2001年3月(米国を)訪問して以来、韓-米間に政策の不一致があったということだ。時々は滑稽なこともあった。一方がこちらへ行く時、他方は正反対に行った。金大中は(ブッシュ政府でも)太陽政策が維持されるよう願った。しかしジョージ ブッシュは金大中に‘私は北韓を信じることはできない’と話した。<CNN>平壌特派員だったマイケル チノイが出した本にこういう内容がある。金大中がワシントンを訪問する前に、ブッシュに電話をかけた時だった。金大中が電話をかけた時、ブッシュはホワイトハウス執務室で電話を受けたが、受話器を手で覆って秘書に‘この人誰なの?’と尋ねた。金大中は数ヶ月前にノーベル賞を受けたというのにだ。(このように)ブッシュは外交問題には門外漢だった。そして金大中は世界で最も経験豊富な政治家だった。状況はますます悪くなった。

ブッシュはイラク戦争を敢行した。韓国戦争の間、ヘリー トルーマン大統領は全く人気がなかった。韓国人はこれをよく知らないのかもしれない。52〜53年、トルーマンは世論調査が始まって以来、米国史上 最も人気のない大統領だった。当時、米国人は米国が韓国戦争に介入することを非常に嫌った。2007年ブッシュの人気はトルーマンと似ていたし、2008年にはそれよりさらに低かった。そして米国史上、最も人気のない大統領としてホワイトハウスを去った。

イ・ミョンバクは就任してブッシュと親しくなろうとした。彼はブッシュを強く捕まえた。また盧武鉉とブッシュの間に広がった韓米関係の困難を復旧することを願った。あたかもそれが盧武鉉の誤りであるかのように。しかしそれは(韓米関係が難しかったのは)ブッシュの誤りがより大きかった。李明博はブッシュを抱いた。しかしブッシュはすでにレイムダックだった。人気がなくホワイトハウスを去った。私たちは選挙で政権が変わることということを知っていた。李明博が見るのに(ブッシュの政策に従うことが)賢明だったのか? そうではない。保守要人がまた別の保守要人を好きなのは当然だ。しかしブッシュが‘北韓との対話’という金大中の政策に背を向ける時、李明博がブッシュを抱きしめた。ブッシュはこちら側に行って李明博は北韓に向け強硬というまた別の方向に行った。

李明博がソウルで対北韓強硬姿勢を維持している時、バラク・オバマも北韓に対して対話の手を差し出した。韓国と米国の対北韓政策が外れたのは2001年以後10年ぶりだ。北韓が何を考えるか、北韓がどれほど悪かろうと、こういう政策混乱の責任が北韓にあると言うことは難しい。北韓は実際に米国と南韓の対北韓政策を知りたがった。(対北韓政策の混乱は)米国と韓国の内部政治のためだ。

気になることは李明博は北韓に対して和解政策を展開することができた。なぜならチョン・ジュヨンは非常に能動的であったし、経済開発を押し通し、李明博は現代グループの最高経営者出身であるから。それで私は彼が非常に実用的だろうと考えた。しかし対北韓経済政策ではそうでなかった。ミステリーだ。”

-イ・ミョンバクは現代グループが北韓に投資する前に現代を去った。

“うん、そうだ”

-オバマの対北韓政策もブッシュの対北韓政策とほとんど差がないという主張もある。

“それは北韓の失敗のためだと思う。オバマ大統領が就任した当時、北韓は米国に向かい挑発をしなかったとすれば、米国は北韓に手を差し伸べただろう。米国はキューバ,リビア,イランなどに手を伸ばした。北韓はいわゆる不良国家と呼ばれる冷戦状態に置かれている唯一の国家だ。北韓は(オバマ行政府に)途方もない要求の山を投げた。‘我々は核保有国家だ。米国はこれを知らなければならない。我々は10年前から軽水炉を望んできた。我々に軽水炉2つをくれ。(その代価として)我々に何かをしろと言うな’等等等。彼らは2009年初めにも最大の要求を継続した。彼らは4月に長距離ミサイルを発射した。独立記念日にはより大きな実験をした。これは明白に(北韓が)米国と親密だとする意図であり、米国の注意を得ようとする試みであった。しかし(彼らの)予想とは逆に何の効果もなかった。オバマ大統領にとって最も強硬な対北韓政策ラインだったジョン・ボルトン前駐国連大使の政策を行うようにさせた。北韓の行動のために。オバマがブッシュの対北韓政策を持続したのは事実だ。しかしこれについて非難されなければならないのは愚かな北韓の挑発であり、オバマではない。彼らは彼らがしなければならない行動の正反対に行動した。

しかしビル・クリントン前大統領が米国記者らを救出するために、昨年夏 北韓を訪問したことが重要な分岐点だった。なぜならクリントンと金正日の間に非常に実質的な対話があった。クリントンは10年前に北韓に対して新しい米国の政策を推進し両国間協定を作った人だ。クリントンの北韓訪問以後、(北韓が)別の方向に徐々に動き始めた。北韓は5月の核実験以後、去る数ヶ月間 挑発をしたことがない。それで私は10年前に戻ることができると多少希望的に考えている。(オバマ)行政府内には、ブッシュ行政府とクリントン行政府の政策を支持する人々がいる。オバマ行政府内で対北韓政策方向性を巡り、これらの間に大きな争いがある。しかし重要な勢力は北−米関係が10年前の協定に立ち帰るよう願っている。”

-6者会談が北核問題解決の枠組みとして適切だと見るか?

“6者会談は中国が主に主張してきた。また常に中国が主催した。中国にとって(6者会談は)大変重要だ。中国は北韓と米国が互いに対話することができるようにしようとした。ところが、ジョージ ブッシュは‘北韓と対話することを願わない’と話した。ディック・チェイニーは‘私は対話しない。私たちは悪とは話さない’と言った。北韓は(ブッシュ政府では)悪の枢軸だった。それで米国と北韓が互いに対話することが重要だった。これが6者会談の主要な目的だった。

北韓が6者会談に復帰するのは全面的に合理的だと考える。なぜなら6者会談は成功的だった。はなはだしきはジョージ・ブッシュも(北韓,米間)協定に動くようにした。また中国は北韓の主要な同盟だ。中国は北韓が6者会談に戻らず中国を当惑させることを願わない。それで私は北韓-米国対話の次に6者会談につながると思う。

<韓国戦争研究>

01kam4←ブルース・カミングス

- <韓国戦争の起源>は1980年代、韓国の歴史学界および社会科学界に大きな衝撃を抱かせた。韓国社会に近現代史、特に韓国戦争に対する関心を呼び起こした。その後、韓国の学者たちは<韓国戦争の起源>を基盤に、そしてまた彼を越えようと刻苦の努力を注いだ。パク・ミョンニム,キム・ドンチュンなど多くの学者の立派な成果がある。最近の韓国における韓国戦争関連研究をどのように評価するか?

“多くの韓国の研究者たちが私の最初の本で研究に力を入れているのを見る度に、私を謙虚にさせ光栄にもする。私が韓国研究者たちが見られなかった文書を見られたことは幸運だった。また私は90年代まで韓国が持てなかった自由な雰囲気で本を書くことができた。私はいつも韓国人たちのために本を書いていると感じている。文書にあるのは事実だ。私は南韓,北韓ともに(私がみた文書に対して)どんなことも書けないことを知っていた。そうすれば監獄に行ったから。81年に私の本が出てきた時。予想したように全斗煥政権が私の本を発禁にした。ブラックリストに上がった本の中で唯一の外国著者の本だった。しかし、そのような措置がむしろ全斗煥を嫌う学生たちに(私の本が)さらに多い興味を呼び起こさせた。

その時から韓国記者たち、または韓国歴史家たちは私に会う度に話したりした。‘若い人々、学生たちの皆があなたの本が好きだ’と。それで私はこのように言った。‘お歳を召した方々は?’と。私ももう年寄りだ。65才以下の人々は韓国戦争を体験した過去の世代に比べ、もう少しバランスが取れ開かれた視角で私の本を読むことができると考える。

私は退屈で保守的な歴史家たちが‘君は(何らかの事件が起きた後) 50年は何も研究してはならない’と話したりした。なぜなら a)君は(後ほど)文書を得ることになるだろう。 b)証言者たちがいるだろうと。私はそのような原則を破った。私が(韓国戦争) 50年が過ぎる前に文書を得たからだ。

私はパク・ミョンニムとキム・ドンチュンの(韓国戦争関連)著作らを集めてきた。また他の韓国研究者らの著作も集めてきた。例えば光州抗争に対して書かれた全南大ナ・グァンソの本も手に入れ永らく勉強した。

-最近は主に関心を持って研究しているのは何か?

“連結単行本<韓国戦争の起源>を準備中だ。約400ページに及ぶ。今、その作業をしているところだ。これとは別に、ソ連と中国の文書を含んだ改訂版<韓国戦争の起源>を書く計画だ。おそらく5年以内に出てくるものと希望する。それが最終本にはならないだろう。なぜなら北韓の文書らが(全く)分からないから。私とチャールズ・アームストロングなど一部の学者は韓国戦争と関連した北韓書類らを入手した。非常に貴重なものだ。ただし45〜51年間のものなどだ。いつか北韓書類がさらに公開されれば、私たちがそこから韓国戦争に対して新しい視角を得ることができるだろう。米国は文書公開にもう少し開放的だ。

しかし私たちは電子コミュニケーション(電話,録音機など電子機器と関連した音声情報)については何も分からない。電子情報国家安全機構は私たちが持っている最も大きな知識だ。米中央情報局(CIA)の7〜8倍に達する量だ。韓国戦争前と戦争期間の電子知識は私たちが持っていない大変重要な資料だ。2次大戦が終わり40〜50年が過ぎたが、暗号と情報は文書リストから除外されている。米国が日本の暗号を解読していたことが明らかになった。米国は戦争期間、日本のメッセージを読むことができた。これは2次大戦に対する歴史を変えたし、すべての戦争エピソードを再評価しなければならなかった。チャーチルとルーズベルトが日本の電信内容を読んでいたということを知るならば、米国が北韓・中国の暗号,中国の暗号,ソ連の暗号を解読していたかもしれない。私たちは1940年代にソ連の暗号を解いた。‘ベノナ文書’がそれだ。しかし、これは韓国戦争前に止まった。私の著作の仮説は、米国が日本暗号を解読していたというところにある。米国は韓国戦争期間、北韓,中国,ソ連の暗号をみな解読しただろう。だから情報機構の文書が大変重要だ。そしてCIAは情報公開から完全に閉ざされていた。

人は歴史が人生と同じであることを理解しなければならない。78年の韓国戦争の歴史は、85年とは違い、95年とは大いに違い、2009年とは完全に違う。そして私たち皆が去った時、私達の子供たちと孫たちが韓国戦争に興味を感じるその時は、また完全に変わるだろう。この点が歴史が魅力的な理由だ。事実は同じで変わらない。それが真実だ。しかし、私たちはすべての事実を知りはしない。私たちがすべての事実を知ることになるならば、私たちは常識的にこれを判断しなければならない。私は私の本が韓国戦争に対する最後の著作だとは思わない。しかしこれだけは言える。 (今、私が書いている)韓国戦争の関連本が私には最後の本になることということを。(本が出た以後)私は引退しているから。

-あなたは1981年に北朝鮮を旅行したと聞いている。その旅行が本を書く上で何か影響を及ぼしたものがあるか? 旅行の前後で北韓を眺める視覚が変わったことはあるか?

“私は1981年8月に北韓に行き、私の本は81年9月に出た。私が帰ってきた時、出版業者が私にコピー本を見せた。私と出版業者を除いて、どこの誰もその本(韓国戦争の起源)について知らなかった時だ。私がそれ以前に行ってみることができなかった国に行くことができるということは魅惑的なことだ。北韓は16〜17人の学者らを招請した。もちろん北韓はあらゆるものに案内した。明景台,子供病院,万寿台劇場,一般的な案内ツアーのすべての場所へ私たちを案内した。しかし私は一般的な北韓の人には会えなかった。しかし私のガイドは非常におもしろい人だった。私のガイドはキム・ジョンスだった。彼は後に北韓国連代表部大使になった。私は彼がニューヨークにいる時、何度か彼に会った。キム・ジョンスは非常に賢かったし、旅行をたくさんした人だった。彼は北韓が孤立し、外の世界に対して全く知らないということに対して抗弁した。私はキム・ジョンスとほとんどすべての主題について彼と対話した。彼は79〜80年全斗煥が権力を掌握する時、米国がこれを助けたのか、奪う時にこれを助けたのか、そして私がそれに対してどう思うかについて非常に多くの興味を持った。私は‘国務部が全斗煥が権力に上がることを望んだとは思わない。ジミー・カーターが全斗煥が権力をにぎることを望んだとも思わない。しかし、軍事情報局にいる人々、CIAまたはそれ以外の誰かが全斗煥を望んだかもしれない人々が(米国政府の中に)いて、彼らが全斗煥が権力をにぎるのを助けたのかもしれない’と話した。その時、キム・ジョンスは言った。‘私はそうだったと見る’と。

私が考えるに、80年代は経済的に北朝鮮政権は最高点にいた時だった。人々はよく食べ、服にも不自由はなく、住宅事情も良かった。貧しい国のように見えなかった。80年代に北韓は中国よりさらに良い暮らしをしていた。韓国の1人当り国民所得は81年に北朝鮮と同じ程度だった。ところが韓国は北韓をホコリの中に放っておいた。ところが妻が3年前に北韓に行き撮ってきた写真を見たが、私が81年に行った時と完全に全く同じだった。北韓は80年代末以後、激しいスタグネーションを体験した。それは本当に犯罪だ。北韓が自国民をまともに食べさせることができず、経済的マヒ状態をほとんど30年間引きずってきたことは(政策的)失敗でなくまさに犯罪だ。(北韓)経済は90年代初めから悪くなり始めたと見る。北韓リーダーシップが(過去) 15〜18年間、人々が死んでいくのに人々を救うための十分な仕事を正しくしなかったということは犯罪だ。

北韓に対する私の本で私は‘私がそこに行った時、良かった’と話した。これは私が強制収用所のようなそんなことに幸せだったという意味ではない。北韓は非常に違いに違うまた別の国だった。そのような観点で魅惑的だったということだ。私には未だにそうだ。”

-あなたは韓国で有名人だ。はなはだしきは、あなたの本を読んでいない人々でもあなたの名前はよく知っている。

- (チョン・アンスク通信員)クォン特派員の質問にもう一つ加えたい。何があなたを韓国戦争を深く掘り下げさせたのか?

“韓国人たちは外国人が韓国に興味を感じることが相対的に新しいので、そのような反応を示すのだと思う。しかしフランス,米国,おそらく韓国,そして他の国にもフランス史に対してよく知っている歴史家たちがいる。タクシー運転手でも、教授でも、会社員であろうとも、韓国人たちは私が韓国に対して考えていることより、多く(韓国を)知っていると考えるというのはおもしろい。もちろん日常的な事件については彼らが毎日新聞を読むので私より良く知っていることもある。しかし違う点で、彼らが全く聞いたこともない文書を私が20年以上研究した。”

-家族の話をしてもらえるか?

“私の妻は大家族で育った。義父は優れた公職者であり外交官であったし、大企業にもいた。私は私の妻の家族に対しインタビューで話したことがない。プライバシーのために。しかし家族たちが20年よりもっと前に私が全斗煥政府で悪名が高かった時に、私を婿として歓迎してくれた。妻の兄さんは軍人だったが、非常に暖かく私に親身だった。それで家族の中では政治は止まる。そうすべきだ。

私は私の息子たちを誇りに思っている。私たち夫婦は16才,20才の二人の息子を持っている。私は私の妻を非常に誇りに思っている。バージニア大学で、この国で最も難しいことの一つを受け持っている。妻は難しい学問である社会科学をしていて、700人の教授たちをコントロールしている。私は彼女がこういう仕事をすることについて非常に幸せだと思う。私が彼女に初めて会った時、私の妻がこういう仕事をしていなかったので、一層驚きだ。私は立派な家族を持ち非常に祝福されていると思う。これ以上の詳しい話はやめなければならない。

-大事な時間をいただき感謝申し上げる。

<北-米 対話>

* カミングスとのインタビューの後に北韓-米国の対話が開かれた。Eメールを通じ北韓-米国の対話と関連した追加答弁を聞いた。

-オバマ行政府での初の北韓-米国対話が開かれた。今後の北韓-米国対話の進行過程を楽観しているか? 北韓が6者会談に復帰すると見るか?

“オバマ大統領がこの間、米国との関係が悪かったイラン,シリア,リビア,キューバ,ビルマなどとの関係回復を試みている。この(関係回復)汽車が北韓駅をそのまま通過するとは思わない。私はその点で楽観主義者だ”

-北韓が核を放棄するかに対して根本的な疑問を持つ人が多い。安全保障さえできるならば、または北韓の要求どおりに北韓と米国間に平和協定さえ締結されるならば、北韓は核を放棄すると見るか?

“去る1991年から2002年まで米国と北韓が北核交渉を繰り広げた。米国と北韓は関係正常化と核兵器放棄というプログラムを持ったが、まともに進展しなかった。ところがジョージ・ブッシュが2002年9月に先制攻撃(可能)対象国家として、2002年10月には去る94年に結んだ基本協定をわざわざ撤回しようとした。その次に2003年3月にイラクを侵攻し、こういう急進的な行動は北韓の強硬派が(北韓の)安全のために核を維持しなければならないという声にさらに拍車を加えた。私は以前に北韓が核兵器保有可否を多少あいまいな状態にすることが北韓により有利だろうと考えていた。とにかく以後、北韓は2006年,2009年に核実験を行った。

こうしたことが北韓が核兵器と核プログラムを放棄するだろうと考えることを難しくさせる。しかし北韓は1994〜2002年まで8年間、プルトニウムの凍結を受け入れた。イランはこういう決定を受け入れたことがない。更に金日成は94年に取引を承認したし、核兵器が韓半島にこれ以上存在しないとも話した。だから北韓が核兵器を放棄できるという希望を相変らず持っている。”

-北韓の武器輸送機がタイで差し押さえられた。これに対し米国はUN国際制裁の結果とし、今後も制裁を継続するという。その一方で北韓-米国対話には直接的な影響を及ぼさないと言っている。すなわち制裁と対話を併行する‘ツートラック‘戦略を使っている。これは現在の対北韓核交渉で効果的な戦略か?

“米行政府はほとんど20年間、北朝鮮に向けて‘ニンジンとムチ’の戦略を使ってきた。あたかも北韓が政治体制でなくロバであるかのように。また北韓が行動を変える程の大きなムチを使うこともなかった。これと関連して軍事的解決策を使うことにはならない。それは1953年に米国がすでに学んだことだ。”

シカゴ/クォン・テホ特派員 ho@hani.co.kr

■ブルース・カミングスは

韓国戦争 修正主義的に解釈
米国中心冷戦的世界観 覆す

<韓国戦争の起源(日本でのタイトルは"朝鮮戦争の起源")>で有名なブルース・カミングス(1943年生まれ)は現在、シカゴ大学客員教授で韓国近現代史と東アジア国際関係が専攻だ。20代の時、1967〜68年平和奉仕団の一員として韓国に始めてきて縁を結び、米国の代表的な韓国現代史研究者となった。1981年に韓国戦争に対し米国中心の冷戦的世界観を覆す修正主義的解釈を出し、当時歴史学界にセンセーションを呼び起こした。ビル・クリントン行政府時は平和・外交を基本路線とする韓半島政策の理論的枠組みを提供した。

金大中前大統領と接触が厚く、1985年2月金前大統領が米国亡命を終え帰国する時、彼の安全のために一緒に韓国に来た‘同伴外国人団’に参加した。著書としては<韓国戦争の起源>の他にも、北韓研究書である<北韓 また別の国>,<韓国現代史>などがある。彼の妻は韓国人だ。同僚であり弟子のウ・ジョンウン博士(バージニア大学長・韓国学)と結婚し二人の子供をもうけた。

カミングス教授インタビューは彼が在職中のシカゴ大歴史学科事務室で行われた。彼は「ソ連と中国文書を新しく追加した<韓国戦争の起源>改訂版作業を始めている。5年以内に出てくることを願う。これが韓国戦争に関する私の最後の著作になるだろう」と話した。

原文: http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/396630.html 訳J.S