2012年07月20日

狭山茶の根源と源頼朝の教養

「牟佐志の地」の狭山茶と「川越の地」と「川越茶」についてまとめてみたい。

中世の歴史と「禅」と「茶」栄西 多賀宗隼著 吉川弘文館
<引用開始>
頼朝の教養
頼家・実朝と父頼朝は十三歳まで京に育ち、その都会人らしい風格はその人品骨柄・言語の端々にあらわれていた。威儀荘重・「容貌優美にして言語分明」と『平家物語』は報告しており、和歌をよくし、書に巧みな、文化的教養の持ち主であったことは今に伝わる詠歌・筆蹟がこれを証明している。ただ関東武士の純朴・質素の風を維持せんためには、つとめて個人的趣味と京都風風格を蔽うて(おおうて)示さぬを常とした。

<中略>

禅と茶
禅と茶と。それは今日の日本にとって、いかにも日本的な名であるが、これを歴史的にみると、それはすぐれて中世的なものであり、中世日本の象徴であるというも過言でなく、中世の歴史は、禅と茶を外にしては語りえないのである。
 中世を通じて、京都と鎌倉と二つの政権と文化の中心には、臨済宗が、世・出世を通じて、支配的な力をふるった。両都にそれぞれ五山をはじめ禅宗の大伽藍が甍をならべ軒を競うて、時の権力者、文化の指導者であった公家・武家の上層部の信仰をあつめた。一方、曹洞宗はおもに地方に発展して、これまた地方豪族・武士・民衆の帰依を得たのであり、かくして禅は中央・地方にわたり、わが国の仏教を代表する一大勢力となった。勢いの及ぶ所、日本の文化の禅宗化の風を馴致し、思想・芸術ないしは政治・外交・経済より、日常の行儀・風俗から飲食・言語に至るまで、禅を離れてほとんど存じ得ず、考えざるに至った。
<引用終了>

禅寺流通システム.JPG

中世以降の禅寺必需品の流通システム



以前にも紹介したが、元狭山村と秩父地区、青梅地区は方言を共有する。同じ「天領の民」として、時の政権の禅寺必需品の生産と流通を担っていたのである。秩父地方で生産された「桑茶」と青梅梅郷で生産された「梅」は狭山茶の生産拠点の元狭山村に集められ、二本木宿を通じて各地へ送られたことは疑うことができない史実であると考えられる。実際に、以前に紹介した宮寺地区の出雲祝神社の茶碑の背面には、江戸時代に狭山茶流通に関わっていた生産者や流通者名が明記されている。

さて、筆者がどうしても整理しておかなくてはならない問題の一つに「川越領」の問題がある。現在の川越市は川越を狭山茶発祥の地としているが明らかに違う。

川越市の天台宗の寺院には「狭山茶発祥の」の石碑が建っている。これは760年に遣唐使して唐に渡った最澄がその種を比叡山に植えたものだという。その種から茶樹になり、その実を天台宗の寺院に蒔いたとしてもおかしくはない。

しかし、である。それ以後川越地方がお茶の生産地になったのかというと、記録もなければ現在も産業として何も残っていない。

つまり、最澄が川越にもたらしたお茶と茶祖栄西が「茶禅一味」としてつくらせた現在の狭山茶とはルーツが異なるのである。

冷静に考えると分かる。川越には20以上の曹洞宗の寺院がある。筆者の知る限りでは臨済宗の寺院は確認できない。曹洞宗には「茶」「梅ぼし」のほか、「豆腐」と「納豆」が欠かせない。筆者は、広い川越平野では、米とともに、大豆を生産し、豆腐や納豆に加工していたものと類推する。現在も納豆の名店や歴史ある醤油メーカーが残っている。茶をつくるのではなく、大豆をつくり加工する方が時の権力者にとって生産性が高い、つまり収入が大きいのである。

川越市は、狭山茶の発祥地という看板を降ろし、豆腐や納豆の名産地であることを誇るべきである。

さて、冒頭の引用文のように臨済宗は「時の権力者、文化の指導者であった公家・武家の上層部の信仰をあつめた」が、【中村家】を中心とするまさに時の権力者が建立した建長寺派「五人組」は、源頼朝のポリシーである「関東武士の純朴・質素の風を維持せんためには、つとめて個人的趣味と京都風風格を蔽うて(おおうて)示さぬ」姿勢を貫き通した。

「牟佐志国」を1192良い国にするためには、「牟佐志国」の「川越の地」を支配する者たちと調和しなくてはならない。

筆者は江戸初期の寛永年間の読み物である「カムイ伝」を読んだ印象が忘れられない。下人に非人と悪徳代官、侍たちなどが繰り広げる「弱肉強食」の生き抜くための死闘を描いている。

時の権力者は「牟佐志国」の「狭山の地」「牟佐志の地」にも「川越の地」にも、下人を大事にしない地域、カムイ伝の世界があってはならない、そう考えていたに違いないのである。

最後に、源頼朝の頼朝のポリシーで発展を遂げた「牟佐志国」づくりであるが、時は経ち明治2年に韮山県に提出したに二本木村の「五人組」がいち早く提出した五人組帳を再掲示しておく。

「五人組帳の掟を堅く厳守し、親子兄弟夫婦をはじめ諸親類が相親しくし、また下人を憐れみ、農業を怠らず、全ての面で分限を守り、年貢も滞りなく納付することを誓約したもので韮山県の支配に忠誠を誓う」

五人組帳
庶民の隣保組織として江戸時代に組織された五人組が遵守すべき法規を記載し、追判帳簿。御法度書あるいは御請書ともいう。五人組帳は前書と請書とからなる。全書に町村役人と五人組が連名連判を加え、一つは領主に提出し、もう一つは町村に保管した。
posted by M.NAKAMURA at 16:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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