真説日本共産党史〜"官製"党史ではない真実の日共(日本共産党)党史を
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真説日本共産党史〜"官製"党史ではない真実の日共(日本共産党)党史を
今月で日共創立90年を迎えるが創立何10周年記念行事の度に日共指導部は"官製"党史を発表してきた。しかし、この官製党史ほど虚偽に満ちたものはない。だから、党外の国民の殆どは読まない。私もその一人だ。 立花隆氏が1970年代に発表したルポに宮本顕治リンチ殺人事件がある。
事件のあらましとはこうだ。宮本顕治元議長が戦前日共の指導部員だった1933年12月、同じ指導部員の小畑達雄と大泉兼蔵の2氏をリンチにかけて殺害した、いわゆる「日共スパイ査問事件」だ。 戦前の日共は特高警察(秘密警察。現在の公安警察の前身)の弾圧とスパイ=協力者を使った党内情報収集の前に、日共指導部は仲間に対して極度の疑心暗鬼に陥っていた。宮本賢治のリンチ殺人事件は丁度そのような時期に起きた。 なお、殺害された小畑達雄と大泉兼蔵が特高警察の協力者だった事実は実際はなかったと言われている。 立花隆のルポ発表を知った宮本は烈火の如き形相で怒った。宮本顕治は部下の弁護士たちを使って、名誉毀損の訴訟を起こしたが、党外の人間は誰一人として宮本の名誉が毀損されたと思った者はいなかった。
日本共産党には党内民主主義や自由な論議はあり得ない。党中央幹部会の方針を党員が盲目的に実践しているのが実態なのだ。その証拠にこれまで党大会において一度として党首である幹部会委員長の選挙が行なわれた試しがない。すべて役員選考委員会によって中央委員名簿が発表されると大会代議員は拍手と「意義なし」の唱和によって人事は決定されてしまう。
更に、日本共産党においては議論するということ自体が封殺されている。党内議論イコール「反党分子らによる分派活動」として粛清の対象となる。「つねに党中央の決定は絶対である」とされ、その無謬神話が党員を呪縛させている。 無謬神話によって党員を呪縛させてきた日共だったが、実は 日共の歴史は主流派による粛清の歴史だったことをわすれてはいけない。
まず、戦後日共党史をみてみると、戦後直後、日共は占領軍を解放軍と規定したが、この「解放軍規定」はソ連及び国際共産主義運動の独裁者スターリン書記長の指示だった。その後しばらく日共はスターリンの指示どおり、「平和革命」路線と共社人民戦線路線を直走った。と言っても街頭実力闘争は熾烈を極め、街頭デモとストライキ闘争は絶え間なく行なわれていた。そんな時期に勃発したのが戦後3大ミステリーと呼ばれた下山、三鷹、松川事件だ。 しかし、スターリンの人民戦線と平和革命指示は長くは続かなかった。1949年にソ連が核実験を成功させ原爆保有を世界に宣言したからだ。この原爆保有によってそれまで米国の核恐怖に怯え、米ソ蜜月を演出してきたソ連は一変、世界軍事革命路線に転換した。スターリンは各国共産党に反米擁ソの武力革命を指示したのだ。 1950年1月、スターリン直筆と云われる「日共の平和革命路線批判」=武力革命指示に日共党内は大混乱に陥ってしまった。党はスターリンの指示に従う国際派と平和革命に固執する主流派とに分裂してしまった。宮本は当時国際派に属していた。この当時の主流派と国際派に属していた幹部を見てみると、国際派には志賀義男、宮本賢治、神山茂夫、中西功など。主流派は書記長の徳田球一(中国で客死)、野坂参三、金天海(在日党員、後に北朝鮮に帰国)、伊藤律(後、中国亡命中にスパイ罪で摘発、無期懲役服役)、志田重男(後、1955年6全協後宮本によって粛清) 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、日共は主流派を中心に軍事革命方針を決議、武装闘争組織として「中核自衛隊」=人民軍を組織、また在日朝鮮人党員が指導していた在日朝鮮人連盟(朝鮮総連の前身)を改組した「民戦」こと「在日朝鮮人祖国統一民主戦線」は「祖国防衛隊」という軍事組織を立ち上げる。日共、在日朝鮮人「民戦」の、この二つの軍事組織は毛沢東の「農村から都市を包囲」する「遊撃戦戦略」をに則り、農村解放区建設や警察署を襲うなどして暴れまくった。
1953年のスターリン死去を機に米ソは急速に「雪解け時代」に入るとともに日共と民戦の軍事闘争も一気に終焉していった。
1955年夏、日共は第6回全国協議会を開くと軍事闘争方針の清算をおこなう。野坂参三を第一書記に宮本賢治らを常任幹部会員とする体制を発表するも、党内抗争は熾烈を極めることになっていく。 1961年には党内構造改革派(構改派)を粛清。 1964年、ソ連派を粛清。 1966年、中国派を粛清 この粛清を行なった中心人物が宮本顕治書記長(当時)だった。さながら日共秘密警察長官といったところか。宮本はその後も粛清を繰り返した。野坂参三、袴田里見、紺野与治郎ら戦後日共の幹部らを除名抹殺していった。 党内実権を掌握した宮本は革命方針を「人民的議会主義」と名売った選挙闘争一本に集約するが、1961年の宮本綱領では「人民民主主義革命から社会主義革命の連続2段階革命」を明記。革命方式に至っては、「平和革命を追求するが敵の出方によっては武力革命もあり得る」という「敵の出方」論を主張。だが、この論はいずれも党内対立の妥協の産物でしかなかった。
1970年代に入ると宮本路線の矛盾はいたるところで綻んでいった。宮本は党内左派を粛清する一方で「ソフト路線」を強調、このソフト路線の象徴として宮本は不破哲三を重用する。 社共統一戦線による民主連合政府(人民戦線政府)樹立を足掛かりにして第二段の人民民主主義革命(民族民主革命)そして第三段の社会主義革命という通称「三段ロケット型革命」を夢想し、そのためのソフト戦術を徹底させるべく宮本は遂に「用語改名」を強行した。党内の学習文献であるマルクス・レーニンの著作から「プロレタリア独裁」を「プロレタリア執権」に、「暴力革命」を「強力革命」にと改名した。 しかし、そのようなうわべを取り繕っただけの欺瞞性は成功するはずはなかった。スターリン流の硬直した組織論(党官僚による党の私物化)と排他的党派主義(一切の批判を受け入れない独善主義)に支配された日共はついに国民から見放されていき、長期低落局面に突入してしまっている。
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