Fate/Project Zero (西行寺幽子)
<< 前の話 次の話 >>
偽りの戦端

 草木も眠る(うし)三つ時、などという表現は、魔術師とサーヴァントには当てはまらない。


 夜の闇の中に、どれだけ数多くの油断ならない駆け引きが交錯していることか、影の妖怪たるアサシンには誰よりもつぶさに見て取れる。

 とりわけ、この冬木市に集った魔術師たちにとって、関心の焦点とも言えるのは二カ所。深山町の丘に立つ間桐家と遠坂家の、いずれも劣らぬ二軒の豪壮な洋館である。

 聖杯を狙うマスターの居城として、明々白々なこの二軒には、最近では監視を目的とした低級な使い魔が昼夜を問わず右往左往している。無論、館の主とてその程度のことは覚悟の上であり、いずれの館も敷地の中には探知と防衛を意図した結界が十重二十重(とえはたえ)に張り巡らされ、魔術的な意味合いでいえば要塞化も同然の処置がなされている。


 魔力を備えた人間が、主の許可なくこれらの結界に踏み込めば無事には済まないし、それはさらに膨大な魔力の塊とも言えるサーヴァントともなれば尚更である。実体、霊体を問わず、察知されることなくこの城塞級の結界を潜り抜けるのは、どう足掻(あが)いたところで無理であろう。

 ただし、その不可能を可能たらしめる例外もまた存在する。アサシンのクラスが保有する気配遮断スキルがそれだ。戦闘力において秀でたものを持たない反面、アサシンは魔力の放射を限りなくゼロに等しい域まで抑えた状態で活動し、まさに見えざる影の如く標的に忍び寄ることができる。

 さらに加えて、言峰綺礼のサーヴァントである今回のアサシンにとって、今夜の潜入任務はとりわけ容易だった。いま彼女が潜入している庭園は、かねてから敵地と見なされていた間桐邸の敷地ではない。つい昨日までマスター綺礼の同盟者であった、遠坂時臣の邸宅なのである。

 綺礼と時臣が他のマスターを欺いて水面下で手を結んでいたのは、もちろんアサシンも承知している。その密約を護るために、アサシンは幾度となくこの遠坂邸の警固を請け負ってきた。結界の配置や密度はとうの昔に確認済みだし、当然、その盲点についても熟知している。


 霊体化したままの状態で、数多の警報結界を苦もなく回避して進みながら、アサシンは内心で遠坂時臣の皮肉な運命を(わら)っていた。あの高慢な魔術師は、配下に従えた綺礼にかなりの信任を置いていたようだが、まさかその子飼いの犬に手を咬まれる羽目になろうとは思いもすまい。

 綺礼がアサシンに時臣の殺害を命じたのは、ほんの小一時間ほども前である。何が綺礼の翻意(ほんい)を促したのかは定かでないが、おそらくは先日の、時臣によるサーヴァントの召喚が発端であろう。聞けば時臣が契約したのはアーチャーのサーヴァントだそうだが、察するに、その妖怪が綺礼の想像以上に脆弱だったのかもしれない。それで時臣との協力関係にメリットがなくなったのだとすれば、今夜の綺礼の判断にも納得がいく。


(いたずら)に慎重になる必要はない。たとえアーチャーと対決する羽目になろうとも恐れる必要はない。すみやかに遠坂時臣を抹殺しろ』


 それがマスター綺礼からの指示だった。おそらく戦闘能力においては最弱であろうアサシンと比してすら、『恐るるに足らず』と侮られるとは――時臣が召喚したアーチャーの妖怪は、よほど期待を裏切った見込み違いの相手だったのであろう。


 庭も半ばまで来たところで、ただ素通りするだけで済む結界の盲点はなくなった。ここから先は、物理的な手段で結界を崩し、除去しながら進む必要がある。不可視状態の霊体のままでは出来ない作業だ。


 植え込みの陰に屈み込んだ姿勢で、アサシンは霊体から実体へと転位し、髑髏の仮面を被った痩身の姿を露わにした。遠坂邸の結界とは気配の違う、幾多もの『視線』が遠くから浴びせられるのを感知する。おそらくは敷地の結界の外から遠坂邸を監視している、他のマスターたちの使い魔であろう。時臣その人に察知されない限り、出歯亀はいっさい気にする必要はない。聖杯を巡るライバルである時臣に対して、彼らがアサシンの潜入を警告する理由など有り得ない。みな競争相手の一人が早々に脱落する様子を、高みの見物とばかり見届けるだけだろう。


 声もなく面倒くさそうに息をついてから、アサシンは最初の結界を結んでいる要石を動かそうとして手を伸ばし―


 次の瞬間、稲妻のように光り輝きながら真上から飛来した物体が、彼女の肩口を掠めて大地に突き刺さっていた。


「……ッ!!?」


 急に訪れた殺気に、驚愕を感じる暇もなくアサシンは左方の花壇の中へ飛び退(の)いた。攻撃された場所を見て、そこに突き刺さっていたモノを凝視する。――それは道路標識(・・・・)だった。赤い逆三角の中に、『止まれ』とだけ書かれた、何の変哲も無い道路標識。その一撃を予期すらしなかったアサシンは、信じられない思いで頭上を振り仰ぎ、投手の姿を捜す。


 いや、捜すまでもない。


 遠坂邸の切妻屋根の(いただき)に、その壮麗なる影は立ちはだかっていた。満点の星空も、月華の光すらも恥じらうほどに、神々しくも燦然と輝く美しい黄金の髪。纏う中華風の装束は紫霞(しがすみ)に彩られ、その存在の在り方を示しているかのように思えた。

 ――なんで……何であの妖怪(アイツ)が……!!?

 気配遮断のスキルを持つアサシンに向けた攻撃に対する怒りも、その片鱗すらも忘れ、アサシンはただその圧倒的な威圧感に恐怖した。知っている。自分は、あの妖怪を知っている。我らが幻想郷の創設者にして創始者にして創生主――


「一撃で頭蓋を潰すつもりだったんだけど……外しちゃったわね。ごめんなさい、次はちゃんと当てるから動いても大丈夫よ?」


 花々の中に伏せたアサシンを、透き通るような黄金の双眸で見下ろしながら、紫霞の人影は冷然と問い質す。


 (くさむら)の中からその存在に見蕩れてしまっていたアサシンはかぶりを振り、右手に愛用の三叉槍(トライデント)を出現させた。あの妖怪の能力は知っている……空間を切り開き、そうして剥き出しにさせた境界の穴から武具を取り出し、射出する……おそらくはそういうところだろう。これだけ解っていれば、ある程度はこれで打ち払うことが可能だろう。


「そう、足掻くの……うふふ。そうでなくちゃ意味が無いわ。逃げ惑い、私を楽しませなさい」


 紫霞の人影の周囲に、さらなる輝きが無数に出現する。空中から忽然と顕(あらわ)れたそれらは、剣であり、矛であり、道路標識であり、墓石であり、一つとして同じ物はなかったものの、そのいずれもが有り得ぬほどの魔力を帯びた武具だった。そしてそのいずれもが、残らず切っ先をアサシンに向けていた。

 それらが火を噴く前に、アサシンは駆け出した。草を踏み潰し、花を散らして遠坂の庭を縦横無尽に駆け回る。


 一瞬遅れて、境界の穴が見せ付けていたすべての武具を吐き出した。風を切る唸りとともに、無数の輝く刃がアサシンへと降りそそぐ。彼女はそれを打ち払い、打ち払えないものは何としても回避し、それを繰り返しながら、一歩また一歩と紫霞の妖怪へ近づいていく。


 後退し、前進を繰り返す。だが、スコールのように降り注ぐ武具に行く手を阻まれて、やはりこれ以上の進軍は許されない。何としても倒されてしまわぬために、アサシンは初戦ながら、奥の手を発動することは(いと)わなかった。


暗黒より現れし(ダーク)幻惑の雲(クラウド)――!!」


 発動とともに、アサシンを中心に漆黒の雲が湧き上がる。瞬時に庭を覆いつくした闇は、紫霞の妖怪の視界を完全に遮断した。その証拠に、発動と同時に武具の雨が、あらぬ方向へと降り注いでいる。気配を消し、その合間を縫うように闇を駆ける――それはまさに、影と呼ぶに相応しい姿だった。

 莫大な魔力を全身から開放し、それを暗雲へと変化させて身に纏う――これが、アサシン・封獣ぬえの宝具のひとつである『暗黒より現れし(ダーク)幻惑の雲《クラウド》』だ。


 鵺(ぬえ)という妖怪は、暗雲から現れ、人間たちの生気を奪っていったとされている。そのことからこの宝具が生まれたわけだが――しかし、ただ身を隠すだけが宝具ではない。宝具と呼ばれるからには、それ相応の絶大な力がある。この宝具は身を隠し、そして――


 アサシンを取り巻いていた暗雲が渦を巻き始めた。闇がとぐろを巻き、アサシンに纏わり付くように乱気流を巻き起こす。庭に広がっていた雲が、ある一転に向けて渦を巻きながら集められていく。その中心点では、この宝具の担い手たるアサシンが己の腕に魔力を集中させている。彼女の髪を揺らし、黒いローブが翻る。乱気流により発生した静電気が、彼女を囲むように迸る。バチバチと大きな音を立てる放電が、遠坂の庭を明るく照らした。


 雷撃が迸る。


 光り輝く無数の迅雷の槍は、瞬く間に敵妖怪を目掛けて空を駆ける。
 ――投射系の攻撃に圧倒的なアドバンテージのあるアーチャーとて、光を見切ることは不可能だ。秒速三〇万キロメートルの槍は一瞬にして、目障りなほどに美しい紫霞の影を、遠坂邸の切妻屋根ごとに吹き飛ばした――かのように思えた。


「え……!?」
 愕然として、膝からくず折れたアサシン。


 放電が消え、その情景に(おのの)いたのは、アサシンだけではなかった。遠坂邸の戦いを眺めていた使い魔を通した先の魔術師(マスター)たちこそ、この一撃でアーチャーが倒れるとはいかずとも、少なからずの負傷を受けることは予想していたのに――


「うふふふ。ああ、楽しかった。存分に楽しませてもらったわ、ええと、アサシン、だったかしら?」


 アーチャーに傷は無く、同時に、切妻屋根にも傷は無し。アーチャーと屋敷を覆うように展開された、わずかに迸る電流を纏った『境界の裂け目』が、アサシンの決死の一撃を、すべて受け止めていたのだ。アーチャーは裂け目を閉じ、アサシンを見下ろした。


「ねえあなた……宝具を使えば、私を倒せると思ったの?」


 地に伏せたアサシンを、煌びやかな黄金の双眸で見下ろしながら、アーチャーは冷然と、侮蔑以上の無関心でもって問い質した。その刹那――アサシンは、稲妻のように光り輝きながら真上から飛来した槍に、その無防備な腹部を刺し貫かれていた。


「ぁぐ……ぅ……」


 宝具を打ち破られ、一瞬にして興味をなくされた恐怖と、腹部を貫かれた激痛。そしてなにより、その一撃が見えなかったという驚愕。口腔(こうこう)から鮮血を吐き出しながらアサシンは、射殺す視線でアーチャーを見る。


「あなたは私に敵うわけがない。無謀な挑戦は、ただ己が身を滅ぼすだけよ」


 アーチャーが、手に持っていた日傘を振りかざす。空を切ったそこが切り開かれ、境界の裂け目が剥き出しにされる。そこから現れ出たのは、やはり、先ほどの武具たちだ。以前と違うのは、その量だった。およそ四〇以上もの剣が、矛が、道路標識が、刀が、ありとあらゆる凶器がアサシンへと切っ先を向けていた。


 勝てない。――思考ではなく本能の域から、アサシンは痛感した。
 あんなモノに勝てるわけがない。勝敗を競うだけ愚かしい。


 アレを、恐れる必要がないっていうの?


 おのれのマスターの言質(げんち)にアサシンは逆上しかかり、そこではたと、綺礼の言葉に矛盾がなかったことを悟った。


 あんなにも圧倒的な敵の前では、恐れるまでも――そう、恐怖する余地すらもなく――

 ただ絶望し、諦めるしか他にない。


 風を切る唸りとともに、無数の輝く刃がアサシンへと降りそそぐ。


 アサシンは視線を感じた。敷地の外から注視する使い魔たち。第四次聖杯戦争における最初の敗者、ただの一矢も報いることなく無様に果てるサーヴァントを、他のマスターたちが見守っている。

 そして最後の瞬間に、ようやくアサシンは理解した。マスター言峰綺礼と……その盟主たる遠坂時臣の真意を。


「痛かったわよね……? でももうちょっとだけ、我慢してね」


 その言葉は、彼女の耳元から聞こえた。そんな気が、した。

<< 前の話 次の話 >> 目次 感想へのリンク