Fate/Project Zero (西行寺幽子)
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七番目の契約

 時間は未明、午前四時を過ぎた頃。無造作に荒らされたリビングの中で、討論番組を放映し続けているテレビの明かりだけが薄暗く照らしている。


「♪閉じ(みったせー)閉じよ(みったせー)閉じよ(みったして)閉じよ(みったせー)。繰り返すつどに四度――あれ、五度? えーと、ただ満たされるトキをー、破却する……だよなぁ? うん」


 鼻歌交じりに召喚の呪文を暗唱しながら、最近冬木市を騒がせている殺人鬼・雨生龍之介(うりゅうりゅうのすけ)はリビングルームのフローリングに刷毛はけで鮮血の紋様を描いていく。本当なら儀式というのはもっと荘厳にやるべきなのだろうが、そんなのは辛気(しんき)くさいばかりで彼のスタイルではない。雰囲気重視といっても所詮は自己満足なのだし、むしろフィーリングの方が肝心だ。

 かれこれ三〇人あまりの犠牲者を餌食にしてきた彼だったが、ここにきて処刑や拷問の手口が、似たり寄ったりの新鮮味に欠けるものになってきたのである。すでに思いつく限りの手法を試し尽くしてしまった殺人鬼は、どんな獲物を(なぶ)り、断末魔を見届けるのにも、もう以前ほどの感動や興奮を味わえなくなっていた。


 ひとつ原点に立ち戻ろうと思い立った龍之介は、かれこれ五年ぶりになる実家に帰省し、両親が寝静まった深夜になってから裏庭にある土蔵に踏み込んだ。彼が最初の犠牲者を隠匿したのが、もはや家人たちにすら放棄されていた、その崩れかけの土蔵の中だったのだ。


 五年ぶりに再会した姉は、姿形こそ変わり果てていたが、それでも龍之介が隠したそのままの場所で弟を待っていた。物言わぬ姉との対面は、しかし、これといった感慨ももたらさず、龍之介は無駄足だったかと落胆しかけたが、そのとき――蔵に詰め込まれたガラクタの山の中から、一冊の朽ちかけた古書を見つけたのである。


 薄い和綴(わと)じの、虫食いだらけのその本は、刷り物ではなく個人の手記だった。奥付には慶応二年とある。今から百年以上も昔、幕末期に記されたことになる。

 たまたま学生時代に漢書を(かじ)ったことのある龍之介にとって、その手記を読み解くこと自体には何の苦もなかった。――が、その内容は理解に苦しんだ。細い筆文字で、とりとめもなく書き綴られていたのは、妖術がどうのこうのという荒唐無稽(こうとうむけい)な戯言だったのだ。しかも伴天連(バテレン)がどうのサタンがどうのという表記が散見されるあたり、どうやら西洋オカルトに関する記述らしい。異世界の悪魔に人身御供(ひとみごくう)を捧げて式神を呼び出し云々というのだから、もうまるっきり伝奇小説の世界である。


 江戸の末期という時代において蘭学は異端のジャンル。その異端の中でもさらに最異端であるオカルトの書物となると、ただの悪ふざけにしては少々度が過ぎている感もあったが、どのみち龍之介にとって、その本の記述の信憑性などは最初からどうでもいい事柄だった。実家の土蔵から出てきたオカルトの古書というだけで、すでに充分COOLでFUNKYである。殺人鬼が新たなるインスピレーションを得るには充分な刺激だったのだ。


 さっそく龍之介は手記にあった『霊脈の地』とされる場所に拠点を移し、夜の渉猟(しょうりょう)を再開した。現代では冬木市と呼ばれるその土地に一体どういう意味があるのかは知らなかったが、龍之介は新たな殺人については雰囲気作りに重点を置くという方針で、極力、和綴じの古書の記述を忠実に再現しようと努めた。


 まず最初に、夜遊び中の家出娘を深夜の廃工場で生贄にしてみたところ、これが予想以上に刺激的で面白い。まだ未経験だった儀式殺人というスタイルは、完全に龍之介を虜(とりこ)にした。病みつきになった彼は第二、第三の犯行を矢継ぎ早に繰り返し、平和な地方都市を恐怖のどん底に叩き落とした。


 そうして、都合四度目の犯行――今度は住宅街の真ん中で、四人家族の民家に押し入った雨生龍之介は、今まさに凶行の真っ最中で恍惚に酔いしれていたのだが、さすがに四度も同じことを繰り返していれば熱狂の度合いも冷めるのが道理で、頭の片隅では理性による警告の声が、ブツブツと耳障りに囁きはじめていた。

 これまで龍之介は全国を股に掛けて渡り歩きながら犯行を重ねてきた。同じ土地で二回以上の殺しを重ねたことはないし、遺体の処理も周到に済ませてきた。龍之介の犠牲者のうち大半は行方不明者として今も捜索されている有様だ。

 とりあえず、冬木市に拘るのは今夜限りでやめよう――そう龍之介は心に決めた。黒ミサ風味の演出は気に入っているので今後とも続けていきたいのだが、それも三度に一度ぐらいのペースに自重するべきかもしれない。


 気持ちの整理がついたところで、あらためて龍之介は集中して儀式に専念することにした。


 今夜の魔法陣は、例の手記に図解されていた通りに、一発で完璧に仕上がった。こうもすんなり出来てしまうと、むしろ準備の甲斐がない。このためだけに両親と長女を殺して血を抜いておいたというのに。

 
「♪閉じよ(みったせー)閉じよ(みったせー)閉じよ(みったして)閉じ(みったして)|閉じよ(みったっせっ)っと。はい今度こそ五度ね。オーケイ?」


 余った血は部屋の壁に適当に塗りたくってファインアートを気取ってみる。それから部屋の片隅に転がしてある生き残り――猿轡(さるぐつわ)とロープで縛り上げた小学生の男の子を振り向いて、反応を窺おうと顔を覗き込んでみたものの、幼い少年は泣きはらした瞳で、切り裂かれた姉と両親の死骸を凝視してばかりいる。


「ねー坊や、悪魔って本当にいると思うかい?」


 震える子供に問いかけながら、龍之介は芝居がかった仕草で小首を傾げる。当然、猿轡をされた子供には返答など望むべくもなく、ただ恐怖に身を竦ませることしかできない。


「新聞や雑誌だとさぁ、よくオレのこと悪魔呼ばわりしたりするんだよね。でもそれって変じゃねぇ? オレ一人が殺してきた人数なんて、ダイナマイトの一本もあれば一瞬で追い抜けちゃうのにさ」


 子供は良い。龍之介は子供が大好きだった。大人が怯えたり泣き喚いたりする様は時折ひどく無様で醜いときがあるが、その点、子供はただひたすらに愛らしい。たとえ失禁しようとも子供であれば笑って許せる。


「いや、いいんだけどさ。べつにオレが悪魔でも。でもそれって、もしオレ以外に本物の悪魔がいたりしたら、ちょっとばかり相手に失礼な話だよね。『チワッス、雨生龍之介は悪魔であります!』なんて名乗っちゃっていいもんかどうか。それ考えたらさ、もう確かめるしか他にないと思ったワケよ。本物の悪魔がいるのかどうか」


 龍之介はますます上機嫌に、怯える子供の前で愛嬌あいきょうを振りまいた。普段は喋るのも億劫なのだが、とかく血を見ると――そして死に瀕ひんした者の前に立つと、彼は人が変わったように饒舌になる癖があった。

 末っ子を一人だけ殺さずに生かしておいたのは、血の量が三人分で充分だったというだけで、取り立てて深い意味はなかった。後々、儀式が済んでから何か他に楽しい殺し方を試してみよう、という程度に思っていたのだが―


「でもね。やっぱりホラ、万が一本当に悪魔とか出てきちゃったらさ、何の準備もなくて茶飲み話だけ、ってのもマヌケな話じゃん? だからね、坊や……もし悪魔サンがお出ましになったら、ひとつ殺されてみてくれない?」

「……!」


 龍之介の発言の異常さは、幼い子供であろうとも充分に理解できた。悲鳴も上げられぬまま、目を見開いて身を捩よじりもがく子供の様を見て、龍之介はケタケタと笑い転げる。


「悪魔に殺されるのって、どんなだろうねぇ。ザクッとされるかグチャッとされるのか、ともかく貴重な経験だとは思うよ。滅多にあることじゃないし――いてッ!」


 不意に見舞った鋭い痛みが、龍之介の(そう)状態に水を差す。


 右手の甲、だった。何の前触れもなく、まるで硫酸でも浴びせられたかのような激痛があった。痛みそのものは一瞬で治まったものの、痺れるようなその余韻は、皮膚の表面に貼りついたように残っていた。


 痛みの退ひかない右手の甲には、どういうわけか、入れ墨みのような紋様が、まったく心当たりのないうちに刻み込まれていた。
「……へぇ」

 不気味さや不安を感じるよりも先に、龍之介の伊達男(だておとこ)としてのセンスが反応した。何だかよく解らないものの、三匹の蛇が絡み合うようなその紋様は、なにやらトライバルのタトゥーのようで、なかなかどうして洒落ている。


 だが、にやけていたのも束の間、背後で空気が動くのを感じ取った龍之介は、さらに驚いて振り向いた。


 風が吹いている。閉め切った屋内で、有り得ることのないほどの気流。薫風に過ぎなかったそれは、やがて、みるみるうちに旋風となってリビングルームに吹き荒れる。
 床に描かれた鮮血の魔法陣が、いつしか眩い光を放ちはじめているのを、龍之介は信じられない気分で凝視した。


 何らかの異常が起こることは、むしろ期待していたのだが――こうもあからさまな怪現象はまったく予想の外だった。まるでホラー映画で悪魔が召喚されるシーンのような大げさな演出。お遊びのようなその効果が笑えないのは、それが紛れもなく現実だったからだ。


 もはや立っているのも危うくなるほどの突風は竜巻のように室内を蹂躙し、テレビや花瓶といった調度品を吹き飛ばして粉砕していく。光る魔法陣の中央には霧状のものが立ち上り、その中で小さな稲妻が火花を散らしはじめる。この世のものとは思えない光景を、だが雨生龍之介はまったく怖じることなく、手品に見入る子供のように期待に胸躍らせながら見守った。


 未知なるものの幻惑――


 かつて『死』という不思議の中に見出した蠱惑。そして飽くほどに重ねた殺人の果てに、いつしか見失っていたその輝きが、今――


 閃光。そして落雷のような轟音。


 衝撃が龍之介の身体を駆け抜けた。それはまさに高圧電流に灼(や)かれるかのような感覚だった。

 かつて雨生という一族に伝えられていた異形の力。今は子孫にすら忘れ去られ、それでもなお連綿と継がれてきた血によって、今日この日まで龍之介の中に眠り続けてきた『魔術回路』という神秘の遺産が、いま津波に押し流されるかのようにして解放された。そして龍之介に流入した『外なる力』は、たったいま彼の中に開通したばかりの経路を循環し、それから再び外部へと流れ出て、異界より招かれたモノへと吸い込まれていく。


 ――いわば、それは例外中の例外だった。


 もとより冬木の聖杯は、それ自身の要求によって七人のサーヴァントを必要とする。資質ある者がサーヴァントを招き、マスターの資格を得るのではない。聖杯が資質ある者を七人まで選抜するのである。


 妖怪を招き寄せる召喚もまた、根本的には聖杯によるもの。魔術師たちが苦心して儀式を執り行うのも、より確実に、万全を期してサーヴァントとの絆を築くための予防策でしかない。たとえ稚拙な召喚陣でも、呪文の詠唱が成されなくても、そこに依り代としてその身を差し出す覚悟を示した人間さえ居るのなら、聖杯の奇跡は成就する。


「――問いましょう」


 立ちこめる霧の中から、細く柔らかい、それでいて不思議なほどよく通る声が呼びかけてきた。


 風はすでに止んでいた。光を放っていた魔法陣の輝きも今は消え、床に描かれた鮮血は、まるで焼け焦げたかのように黒ずんで干涸らびている。そうして薄れゆく霧の中、先の声の主が忽然と龍之介の前に姿を現した。


 まだ若いらしく皺ひとつない顔。見るものすべてを虜にするかのように透き通った美しい黄金の瞳。金髪に紫のグラデーションが入ったロングウェーブは、まるでそれがひとつの芸術作品であるかのような印象を龍之介に持たせた。


 服装もまた奇異である。龍之介と同じか、それより少し高い長身を、白黒のゴスロリ風のドレス姿に表地が黒・裏地が赤のマントを羽織り、黒いブーツを履いたそのスタイルは、彼の求めた『悪の魔法使い』や『悪魔』などとはかけ離れたものだった。


「……」


 龍之介は少しだけ呆気にとられた。血の召喚陣から稲妻と煙とともに出現した――にしては思いのほか普通の人間である。具体的にこれといった姿形を期待していたわけでもないのだが、それが仰々(ぎょうぎょう)しい怪物でなく、ごく普通の人間の容姿をしていたことに、むしろ龍之介は途方に暮れた。たしかに服装こそ奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)ではあるが、だからといってこの女が、はたして本物の悪魔なのかどうか。

 むしろ、それ以上に、その姿を認めた瞬間に龍之介の中に溢れ出た感情に戸惑ってしまう。胸が早鐘を打ち始め、さらに全身に血が滾るような感覚。この感覚は――この気持ちは――なんだ? いままで感じたことのない熱い感情が己の中に沸き、今にも溢れ出さんと彼の身体を蝕み始める。沸々と溢れていた感情は、次第に激情へと昇華し、ついに龍之介の身体を乗っ取った。


 ――まあ、いいや……


 気がつけば、足を踏み出していた。ポケットに直していたナイフを取り出し、迷うことなく目の前の女目掛けて全身を余すところなく駆動させる。

 一歩踏み出すと同時に感じた快感は、どんな殺人にも勝るものであった。初めての快楽に身を(ゆだ)ね、滾る思いを血に濡れたナイフの一閃に込める。ナイフを振り下ろす龍之介が最後に見たものは、目の前の、直立不動の麗しの女だった。


 ――次に龍之介が見たものは、フローリングの床だった。どうやら組み伏せられているらしい。両の(かいな)を駆動させようと力を込めると、何故か一ミリたりとも動かない。痛みこそないものの、後ろ手に組み伏せられた龍之介は全身を動かすことを叶わず、唯一動く首だけを使って、周りから現状を知ろうと、きょろきょろと(せわ)しなく動かすも、ただ入ってくるのは自分の視点が床に限りなく近くなった、ということだけだ。あの少年は自分の右のほうで転がっているそういえば、さっき現れた女は――


「私を呼び、私を求め、キャスターのクラスに召喚せしめた召喚者……あなたの名前をお聞かせ願えますか?」


 龍之介の頭の上から声がした。彼は無理やり首を動かしてそちらを見ると、先ほどと変わらぬ優しげな表情で龍之介を覗き込む女性があった。……この女は、いま、自分が何をされそうになったのか理解しているのだろうか? 龍之介の手際のよさは、これまで犯した殺人が警察の目に露呈していないところから神業(カミワザ)レベルの代物であることは窺い知れよう。もしもこの女性が自分を組み伏せたのなら、しかしそれはまったく脅威ではなかった。むしろ、自分を殺そうとした相手に優しく微笑みかけ、あまつさえその名前を問うているところにある。


 いまだ総身に奔り続ける感情は拘束から逃れようと、龍之介の身体を内側から攻め苛む。今にも動き出し、彼女の(はらわた)を引きずり出したい。骨の折れる快音を聞きたい。頭蓋を叩き砕いて脳漿(のうしょう)を散らせたい。胸を引き裂いて熱い血潮を全身で浴びてみたい。腹を裂き、泣き叫ぶ姿を堪能したい。嬲りたい。(ねぶ)りたい。犯したい。その全身を余すところなく感じたい――


「マスター、いきなり暴れては駄目です。見たところあなたはこの家の者ではないようですし、だったらなおさら礼儀を弁えるべきです」


 龍之介を組み伏せたまま説法を始めた女。その声を聞くたびにドキリと跳ね上がる鼓動の意味を、龍之介は考えるのに必死だった。……しかし、いくら考えども、その答えは見つからない。それをこの女に問うたところで意味はないし、かねてより問われていたことに答えるとしよう。


「雨生龍之介っす。職業フリーター。趣味は人殺し全般。子供とか若い女とか好きです」


 突然の自己紹介に、女性は一瞬呆気に取られたような表情をして、しかしすぐに柔和なものに戻った。そしてゴスロリ風の女は頷く。どうにも名前以外の部分は聞き流されている風な様子だった。


「宜しいでしょう。契約は成立しました。あなたの求める聖杯は、私もまた悲願とするところ。かの万能の釜は必ずや、我らの手にするところとなるでしょう」

 言いながら女は龍之介の拘束を解き、彼の手を引いて立ち上がらせた。

「せい――はい?」


 何の事やらすぐには解らず、龍之介は小首を傾げた。そういえば確かに、土蔵で見つけた古書の中にそんなような記述があった気もする。つまらない箇所なので読み飛ばしていたのだが。


「……まぁ、小難しい話は置いといて、サ」


 龍之介は軽剽(けいひょう)に手を振って、部屋の片隅に転がしてある子供を顎で指した。


「とりあえず、お近づきにどうデスか。アレ、食べない?」


 異相の女は、先ほどから変わらない聖女のような美しい顔で、縛り上げられた子供と龍之介とを見比べる。龍之介の言葉と意図を理解しているのか、それさえも窺い知れない沈黙の間のうちに、はたと龍之介は不安に駆られた。もしかしたら失礼に当たる勧めだったかもしれない。悪魔が子供を食べるなんて、考えてみれば誰がそう決めつけたというのか。

 女は無言のまま、マントの(ふところ)から一冊の巻物を取り出した。輝くような美しいグラデーションの文字たち。それが神々の時代に創り上げられた宝物であることなど、龍之介は一切知らないが、その異形の巻物が放つ異彩に、龍之介は見蕩れてしまっていた。まさしく悪魔が持ち歩いていそうな小道具である。


「スゲェ……」


 龍之介の感嘆の声を、女は、ちらりと一瞥(いちべつ)をくれただけで無視すると、おもむろに巻物を開いて、何か意味の取れない言葉を一言二言ばかり呟いてから、それで事足りたかのように本を閉じ、また懐に仕舞ってしまった。
「……?」

 解せないまま見守る龍之介を余所に、女は床に転がされた男の子に歩み寄る。先刻からの怪事の連発に、少年は輪をかけて怯え、必死の様子で身を捩りながら、床を這って彼女から逃げようとしている。

 そんな子供を見つめる女の眼差しが、やはり優しく慈愛に満ちているから、龍之介はますます困惑した。どういうことだろうか。召喚されるのは、悪魔ではなかったのか?


「――怖がる必要はありませんよ」


 異相の麗人は、その美貌に釣り合う柔和で静かな声で、男の子に語りかけた。囚われの少年は、ここでようやく相手の温情に満ちた表情に気がついたのか、暴れるのをやめ、縋るような眼差しで女の表情を窺う。

 それに応じるように、女は微笑して頷くと、腰を屈めて少年に手を伸ばし――(いまし)めのロープと猿轡を、優しく解いて外してやる。


「立てますか?」


 まだ半分腰の抜けたような有様の少年を助け起こし、女は励ますように背中を撫でてやった。

 龍之介は、もちろんこの女が悪魔であることを(つゆ)ほども疑わなかったが、それにしても子供の遇し方についてはまったく釈然としなかった。まさか本当に、命を救うつもりなのだろうか?

 それにしてもこの女、見れば見るほど奇妙な風貌である。黙っているときは亡者じみた恐ろしげな顔立ちが、笑うと途端に邪気のない、まるで聖者のように清らかな表情になる。


「さぁ坊や、あそこの扉から部屋の外に出られます。周りを見ないで、前だけを見て、自分の足で歩く――一人で、大丈夫ですね?」

「……うん……」


 健気に頷く少年に、女は満面の笑顔で頷くと、小さな背中をそっと押しやった。

 少年は言われた通り小走りに、両親と姉の死体には目もくれず、血まみれのリビングを横断する。扉の外の廊下には、二階へ上る階段と玄関。そこまで行けば彼は殺人鬼の手から逃れ、生き延びることが叶うだろう。


「なぁ、ちょっと……」


 さすがに見かねて声をかけた龍之介を、女は素早く手で遮って制止した。勢いに?まれた龍之介は、気を揉みながらも為す術もなく、逃げていく子供の背中を見送るしかない。

 少年がドアを開け、廊下に出る。目の前には玄関の扉。さっきまで恐怖の色だけに塗り込められていた瞳が、そのとき、ようやく安堵と希望で輝きを取り戻す。そうして少年は振り返ることもなく、一目散にドアを開けて、外へ逃げていった。


 それを見届けた後で、女は龍之介に振り返った。その表情は幾分硬く引き締まっているようだ。


「龍之介、と言いましたね? 先ほどあなたが何を思って私に危害を加えようとしたかは、おおよその見当が付いています。現状を鑑みるに、あなたは所謂(いわゆる)『殺人鬼』なのでしょう……いいですか、マスター。私は殺生(せっしょう)を良しとしません。
 なぜなら人間の身体は、私たち妖怪と違い、遥かに脆く儚いものだからです。だからといって妖怪を殺すことも許されず、人間を殺すことも是とすることは出来ないのです。人間であるあなたなら解ってくれるでしょう……人がどれだけ儚く散り、哀しく消え去っていくのかを」


 また説法が始まった。この女は説教癖でもあるのか――いや待て、それよりも大変なことがあるだろう。あの少年を逃がしてしまえば、警察に龍之介のことが知られてしまうに違いない。自分の殺人が公になるのをなんとしても阻止したい龍之介は、女の説法になど耳もくれず、少年を追うために駆け出した。


 ――が、またしても、女に阻まれた。龍之介がドアを抜ける前に、そこへ現れ、塞いだのだ。


「自分の所業が人に知られるのが(まず)いのでしょう? それなら心配には及びません、あの少年には、先ほど記憶消去の魔法をかけておきましたから。助かったとはいえ家族を殺された身。その恐ろしい記憶を持ったままでは生活していくことは出来ないでしょうから」


 優しく笑うのは龍之介のためか、それともあの少年のためか。だが、龍之介はこの女に、いい人だな、という率直な感想を思った。悲劇の少年を救い、それにより、警察に通報されてしまうという悲劇から龍之介を救った。少年に関しては、他に救いようがあったかもしれないが、それでも、この二つを成し遂げるためにはこの方法が最善策だったのだろう。


 ――救済、か。いいなソレ、新しいインスピレーションじゃん!


 手段そのものにも度肝を抜かれたが、なお素晴らしいのはその哲学である。龍之介などでは及びもつかない、創意工夫で磨き抜かれた耽美たんびなまでの邪悪。これほど鮮烈で感動的な『死の美学』を持ち合わせた存在は、もはや最大級の賛辞をもって讃えるしかない。


「COOL! 最高だ! 超COOLだよアンタ!」

 救済という名目の殺人を教えてくれた。そうか、なら自分は今まで人を救ってきたんだな。サプライズや面白いことが無かった世界から、神様が闊歩する天の世界へと救済していたんだ。それなら納得が出来た。記憶を奪うのも、ある意味では殺しているようなものなのだから。殺生を良しとしない、そういいつつも記憶を奪って人を殺しているのだから何とも皮肉な話だった。


「オーケイだ! 聖杯だか何だか知らないが、ともかくオレはアンタに付いていく! 何なりと手伝うぜ。さぁ、もっと殺そう。生贄なんていくらでもいる。もっともっとCOOLな殺しっぷりでオレを魅せてくれ!」

「だから、殺しは良くないと何度も言っているのに……解りました。では、私はこれからあなたを更生させるため、そして聖杯を手に入れるためにあなたと寝食を共にしましょう」


 ――聖遺物のないまま召喚が成されたとき、それに応じる妖怪はマスターと精神性の似通ったものになるという。本来なら、この悪質な殺人鬼が期せずして招き寄せたのは、彼になお輪をかけて残虐な所行で後世に名を知らしめるような、正真正銘の嗜虐の妖怪であるはずだった。だが哀しいかな、龍之介の魔方陣は、やはい素人の物、正規の召喚としては不備が多すぎた。だからこそ、ここまで正反対の妖怪が召喚され、反発しあいながらも何故か解り合うような状況に陥ってしまっているのだろう。いや、ここはむしろ――


「あー、そういえば、オレまだアンタの名前を聞いてない」

 ようやく肝心なところに思い至った龍之介が、馴れ馴れしく問いかける。

「名前、ですか。そうですね。この世界で通りの良い呼び名といえば……」

 女は艶やかに濡れた唇に指をあて、しばし考え込んだ後、

「……では、ひとまず『尼公(あまぎみ)』とでも名乗っておきましょうか。以後はお見知り置きを」


 そう親しみをこめて、天使のような笑顔で答えた。


 こうして、第四次聖杯戦争における最後の一組――七番目のマスターとサーヴァント『キャスター』は契約を完了した。行きずりの快楽殺人鬼が、魔術師としての自覚も、聖杯戦争の意義も知らぬまま、ただの偶然だけで令呪とサーヴァントを得たのである。

 運命の悪戯(いたずら)というものがあるならば、それは最悪の戯れ事と言ってよかっただろう。


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