Fate/Project Zero (西行寺幽子)
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新たなる魔術師


 あれから一年。

 雁夜はついに、その右手に令呪を宿すことに成功した。それはすなわち、聖杯戦争に参加するに足る魔術師であると、他ならぬ聖杯に選ばれたということ。苦痛に耐え抜いた雁夜の精神は畏敬に値する。だがしかし、肉体はその限りではなかった。

 三ヵ月目にさしかかる頃には、すでに頭髪が残らず白髪になっていた。肌には至る所に瘢痕はんこんが浮き上がり、それ以外の場所は血色を失って幽鬼のように土気色になった。魔力という名の毒素が循環する静脈は肌の下からも透けて見えるほどに膨張し、まるで全身に青黒い(ひび)が走っているかのようだ。


「ギリギリ間に合ったではないか」


 薄暗い中に月明かりが静かに差し込む部屋に、誰かが侵入してくる。それが何者か、雁夜にはすぐにわかった。かけられた声は、彼が聞き間違えようもないほどに忌々しい嘲笑を含んでいる。


「聖杯に選ばれたということは、貴様もそれなりの術師として認められたということだ。一先(ひとま)ずは誉めてとらすぞ雁夜。じゃがな……」


 杖を突きながら近づいてくる声を鬱陶しく思いながら雁夜は、麻痺によってうまく動作しない身体を、無理やり起こした。


 肉体の崩壊は予想を上回る速さで進行していた。とりわけ左半身の神経への打撃は深刻で、一時期は片腕と片足が完全に麻痺したほどだ。急場凌ぎのリハビリでとりあえず機能は取り戻したものの、今でも左手の感覚は右よりもわずかに遅れるし、速足で歩く際にはどうしても左足を引きずってしまう。

 声の主は雁夜の姿を一瞥し、汚らしい笑みを浮かべた。


「無様な姿よのう……」


 雁夜は苛立ちを抑えることなく大きく舌打ちして、声の主から顔を背けた。

 不整脈による動悸も日常茶飯事になった。食事ももはや固形物が喉を通らず、ブドウ糖の点滴てんてきに切り替えた。

 近代医学の見地からすれば、すでに生体として機能しているのがおかしい状態である。にもかかわらず雁夜が立って歩いていられるのは、皮肉にも、命と引き換えに手に入れた魔術師としての魔力の恩恵だった。


「ほれ、左足はまだ動くのか? んん?」

「ぐぁぁ……ぅ、あぁぁっ……っ!!」


 声は汚らしい笑い声でそう言い、杖を雁夜の左足の脹脛に突き刺した。痛みに悶える雁夜の表情を快く感じたのか、主は体重をかけて、さらに杖をねじ込んだ。


 主が杖を離すと、雁夜は怒りに燃える視線でその者を睨む。それと同時に、彼の顔中に蚯蚓腫(みみずば)れのように血管が浮かび上がり、それがグジュグジュと唸りをあげた。


「ホホ、怒るな怒るな。体内の刻印虫を刺激すれば、蟲が貴様を食い殺してしまうぞ。
 まあそれでもワシの見立てでは、貴様の命は、もってあと一ヶ月ほどだろうな」

「……充分だ」

 顔を背けたまま呟くように言った雁夜に、老魔術師は聞き返した。

「なんじゃと?」

「それで……充分だと言ったんだ」


 断言する雁夜の声は消え入るように小さいが、その声を、良しとして魔術師は薄気味悪く笑った。


「雁夜、一年耐えた褒美じゃ。貴様に相応しい聖遺物を見つけておいたわ。父の親切を無為にするでないぞ?」


 苦悶の表情のままで床に伏せる雁夜の一瞥し、間桐家党首の老魔術師は薄汚い笑みを貼り付けたまま、雁夜を置いて、部屋を後にした。




「くふふ……ふふ……あははは……」

 かくして極東の片田舎、運命の土地、冬木市において、いまウェイバーはベッドの上で毛布のぬくもりにくるまりながら、ひっきりなしに湧わいてくる笑いを嚙み殺していた。いや、嚙み殺しきれずにいた。カーテンの隙間から漏れ込んでくる朝の日差しに、数秒おきに右手の甲をかざして見ては、ウフフ、イヒヒと悦(えつ)に入った忍び笑いを漏らしていた。


「ふふ、ははははっ。ボクにも宿ったぞ、令呪が!! ボクは聖杯に選ばれた……聖杯はボクを認めてくれたんだっ」


 聖遺物を手に、冬木の地に身を置き、さらに充分な魔術の素養を備えた者……これを聖杯が見逃すわけがない。はたしてウェイバーの手の甲には、サーヴァントのマスターたる証、三つの令呪が昨夜からくっきりと浮かび上がってきていた。明け方から庭でけたたましく鳴き喚わめく鶏(にわとり)の声も、まったく気にならなかった。


「ウェイバーちゃ~ん、朝御飯ですよ~う」


 階下から呼びかける老婆の声も、今朝は普段と違ってまったく不愉快ではない。ウェイバーは今日という記念すべき日をつつがなく開始するために、速やかにベッドを出て寝間着を着替えた。

 閉鎖的な島国民族の土地にありながら、冬木市という町は例外的に外来の居留者が多く、おかげでウェイバーの東洋人離れした風貌も、さほど人目を惹くようなことはなかった。それでもウェイバーはさらに慎重を期すため、とある孤独な老夫婦に目をつけて、彼らに魔術的な暗示をかけてウェイバーのことを海外遊学から戻ってきた孫であると思い込ませ、首尾良く偽の身分と快適な住居とを手に入れていた。ホテル住まいをする費用がないという問題も一挙両得に解決されて、ウェイバーはますます自分の機転に惚れ惚れしていた。

 爽快な朝を満喫するため、庭で騒ぐ鶏の声をつとめて意識から追い出しながら、ウェイバーは一階のダイニングキッチンに下りた。新聞とテレビニュースと炊事の湯気に彩られた庶民的な食卓が、今日も何の警戒もなく寄生者を迎え入れる。


「おはようウェイバー」

「おはようウェイバーちゃん」


 老夫婦は寝ぼけ眼を擦りながら入室したウェイバーに簡単に挨拶をして、彼の座る席の前にトーストを置いた。

 グレン・マッケンジーとマーサ夫妻はカナダから日本に移り住んで二〇年余り。だが日本の暮らしに馴染めなかった息子は生国に戻って家庭を持ち、一〇歳まで日本で育てた孫も、顔を見せないどころか便りもないままに七年が経つという。――以上の情報は、ウェイバーが催眠術で老人から聞き出したものだ。お誂(あつら)え向きな家族構成を気に入ったウェイバーは、老夫婦が理想として思い描く孫のイメージを暗示で自分とすり替え、まんまと二人の愛孫『ウェイバー・マッケンジー』に成り済ましていたのである。


「おはよう……お爺さん、お婆さん」


 ウェイバーが席に着くのを確認してから、グレンはニュースに顔を向けた。朝のニュース番組では、ここ最近、冬木市を騒がしている連続殺人事件の特集をやっていた。


「冬木も物騒になったなあ」


 なんでもこの殺人者は夜中から明け方にかけて家に侵入し、寝入っている家族を惨殺するらしい。今月の初めから起こった連続殺人事件はもう三度目らしく、警察は同一犯の犯行と断定して捜査しているらしい。


「それにしても、なぁマーサ。今朝は明け方から鶏の声がうるさくてかなわんが、アレは何だろうね?」

「うちの庭に鶏が三羽いるんですよ。一体どこから来たのかしらねぇ……」


 実はそれは、昨夜、ウェイバーは令呪が宿ったと知るや喜び勇んで儀式の生贄の調達にかかったものの、まさか町の近隣で養鶏場を見つけるのがこんなに大変とは思わなかった。やっとのことで鶏小屋を探し当て、さらに三羽を捕まえるまでにまた小一時間。白みはじめた空の下をようやく家に帰りついた頃には、すでに全身鶏糞(けいふん)まみれ、(ついば)まれた両手は血まみれだった。


 儀式の決行は今夜。あの鬱陶(うっとう)しい鶏どももそれまでの命だ。


 そしてウェイバーは最強のサーヴァントを手に入れる。二階の寝室のクローゼットに隠してある聖遺物――あれがどれほど偉大な存在を呼び寄せる媒介となるのか、すでにウェイバーは知っている。

 真っ白なリボンで装飾された、真っ黒なトリコーンと呼ばれる三角帽子。それは、とある普通の魔法使いの象徴である帽子だ。魔法を使い、妖怪共を蹴散らし、冥界や魔界に到るほどの伝説の『普通の魔法使い』……その存在が、今宵、召喚によってウェイバーの膝下(しっか)に降だるのだ。彼を栄光の聖杯へと導くために。


「お爺さん、お婆さん、今夜は友達の家に行くから、帰りは遅くなると思うけど、心配しなくていいからね」

「うむ、気をつけるんだよ。ニュースでも物騒だと言っているからね」

 長閑(のどか)な食卓で、安物の八枚切り食パンを頰張りながら、いまウェイバーは生涯最高の幸福感に包まれていた。相変わらずの鶏の鳴き声が、ほんの少しだけ耳障りではあったが。



 その夜、いよいよ最後の試練に挑むべく間桐邸の地下へ赴こうとしていた雁夜は、途中の廊下でばったりと桜に出会(でくわ)した。


「……」


 出会い頭に桜が浮かべた怯えの表情が、ほんのわずかに雁夜の胸を痛ませる。
 今となっては仕方がないとはいえ、この自分までもが桜の畏怖の対象になるのは、雁夜には辛かった。


「やぁ、桜ちゃん。――びっくりしたかい?」

「……うん。顔、どうかしたの?」

「ああ。ちょっとね」


 とうとう左目の視力が完全になくなったのは昨日のことだ。壊死(えし)して白濁した眼球ともども、その周囲の顔筋まで麻痺した。瞼(まぶた)や眉を動かすこともできず、およそ顔の左半分が死相じみた有様で仮面のように硬直している。鏡で見た自分でさえぞっとするのだから、桜が怖がるのも無理はない。


「また少しだけ、身体の中の『蟲』に負けちゃったみたいだ。おじさんは、きっと桜ちゃんほど我慢強くないんだね」


 苦笑いをして見せたつもりが、またしても不気味な表情になってしまったのか、桜はますます怯えたように身を竦める。


「――カリヤおじさん、どんどん違う人みたいになっていくね」

「ハハ、そうかもしれないね」

 乾いた小さな笑い声で濁しながらも、


 ――君もだよ。桜


 そう、雁夜は胸の内で沈鬱に呟いた。


 今は間桐の姓を名乗る桜もまた、雁夜の知る少女とは別人のように変わり果てた。

 人形のように無機質な、空虚で(くら)い眼差し。その目に喜怒哀楽の情が宿ることなど、この一年を通して見たことがない。かつて姉の凜と仔犬のようにじゃれ合っていた無邪気な少女の面影は、もうどこにも残っていなかった。


「今夜はね、わたし、ムシグラへ行かなくてもいいの。もっとだいじなギシキがあるからって、おじいさまが言ってた」

「ああ、知ってる。だから今夜は代わりにおじさんが地下に行くんだ」

 そう答えた雁夜の顔を、桜は覗き込むようにして小首を傾げた。

「カリヤおじさん、どこか遠くへ行っちゃうの?」


 子供ならではの鋭い直感で、桜は雁夜の運命を察したのかもしれない。だが雁夜は、幼い桜を必要以上に不安がらせるつもりはなかった。


「これからしばらく、おじさんは大事な仕事で忙しくなるんだ。こんな風に桜ちゃんと話していられる時間も、あまりなくなるかもしれない」

「そう……」

 桜は雁夜から目を逸らし、また彼女だけにしか立ち入れない場所を見つめている風な目つきになった。そんな桜がいたたまれず、雁夜は無理に話の穂ほを接ついだ。

「なぁ桜ちゃん。おじさんのお仕事が終わったら、また皆で一緒に遊びに行かないか? お母さんやお姉ちゃんも連れて」

「お母さんや、お姉ちゃん、は……」


 桜は少し途方に暮れてから、


「……そんな風に呼べる人は、いないの。いなかったんだって思いなさいって、そう、おじいさまに言われたの」


 そう、戸惑いがちな声で返事をした。


「そうか……」


 雁夜は桜の前に膝をつき、まだ自由が利く方の右腕で、そっと桜の肩を包んだ。そうやって胸に抱き寄せてしまえば、桜から雁夜の顔は見えない。泣いていると気付かれずに済むだろう。


「……じゃあ、遠坂さんちの葵さんと凜ちゃんを連れて、おじさんと桜ちゃんと、四人でどこか遠くへ行こう。また昔みたいに一緒に遊ぼう」

「――あの人たちと、また、会えるの?」


 腕の中から、か細い声が問うてくる。雁夜は抱きしめる腕に力を込めながら、頷いた。


「ああ、きっと会える。それはおじさんが約束してあげる」

 桜を抱きしめる腕は弱弱しいが、それでも、雁夜は力いっぱい抱きしめた。戦争が始まれば、桜を護れる者はいなくなってしまう。それを詫びるように、雁夜は力いっぱい、彼女を抱きしめた。


「――じゃあ、おじさんはそろそろ、行くね」


 涙が止まった頃合いを見計らって、雁夜は桜から手を放した。桜はいつになく神妙な面持ちで、雁夜の、左半分が壊れた顔を見上げてきた。

「……うん。ばいばい、カリヤおじさん」

 別れの言葉が、この場には相応しいものと、彼女は子供ながらに察したらしい。

 背を向けて、とぼとぼと立ち去っていく桜の背中を見送りながら、そのとき雁夜は痛切に、心から祈願した。――手遅れになってくれるな、と。


 この一年のうちに桜が負った心の傷は、きっと永く尾を引くだろう。だがせめて、それが時間とともに癒えるものであってほしい。彼女の精神(こころ)が、致命的なところまで壊されていないものと信じたい。

 できるのは祈ることだけだ。あの少女を癒すのは雁夜ではない。そんな役目を請け負えるだけの余命など、彼には残されないだろう。そればかりは、未来の命が保証されている者たちに託すしかあるまい。


 雁夜は踵(きびす)を返し、ゆっくりと、だが決然とした足取りで、地下の蟲蔵に降りる階段へと向かった。


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