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虚無なる「匣の中の匣」

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『探偵儀式 THE NOVEL』 / はらぴょん
「清涼院流水大塚英志箸井地図」による漫画『探偵儀式』が完結し、それと同時に清涼院流水による小説『探偵儀式 THE NOVEL』が刊行になった。
大塚英志原案・脚本の『探偵儀式』自体が、漫画による「探偵小説論」であり、「清涼院流水論」の試みであったのだが、清涼院流水の小説版『探偵儀式』は、それ以上に物議をかもし出す内容となっている。
とりわけ「4/消えた推理小説」である。
ここで、清涼院は「推理小説作家クラブ」に対する全面的な批判を展開している。ちなみに、「推理小説作家クラブ」は、小説中の設定でこう呼ばれているだけで、現実社会では、どうみても「本格ミステリ作家クラブ」、それも批判内容からして、「探偵小説研究会」を批判しているとしか思えない。
批判の要旨をまとめてみよう。
・「推理小説作家クラブ」は、推理小説ジャンルの衰退に危機感を覚えた推理小説作家の団体である。
・この団体は、推理小説マニアの団体であり、一般読者の観点をないがしろにして、推理小説のマニアックで専門的な問題に専念してきた。その結果、彼らの描いた推理小説の理想は、一般読者の読みたいものから乖離していった。
・彼らは大衆小説やキャラクター小説を三文小説として侮蔑したが、それらのジャンルがむしろ大衆の支持を得て、安定した市場をつくることに繋がった。
・「推理小説作家クラブ」は、自分たちに対する批判には耳をかさず、身内だけの仲良しクラブを形成していった。そこでは、権力を行使する独裁者と、それに追随するイエスマンからなる恐怖政治が行われた。
・「推理小説作家クラブ」のイエスマンとなった出版社や編集者は、彼らの要望に答えることで、一般読者に受け入れられない本を量産し、巨大な赤字収益をもたらし、出版社のなかには民事再生法を行使する事態に陥るところも出た。
清涼院流水の小説は、当初、「本格ミステリ作家クラブ」および「探偵小説研究会」で、当時オピニオン・リーダー的役割を果たしていた笠井潔によって(現在は「探偵小説研究会」を離れ、「限界小説研究会」の活動にシフトし、「本格ミステリ作家クラブ」でも主流派とは言えなくなって来ているようである。)、探偵小説の構築をなしくずしにする「脱格系(脱コード派)」のミステリとして断罪された。このような小説(流水のことばでは、流水大説)がはびこることは、探偵小説のこれまでの歴史を台無しにし、探偵小説のジャンルを終わらせてしまう嘆かわしい事態だ、というわけである。
この批判には、笠井潔の批評家としてのデビュー期において、「脱コード化」や「脱構築」を唱えるニュー・アカデミズムによって、笠井潔はネクラのパラノであるとしておちょくられたトラウマが背景にあり、それ以来、脱コード派を眼にするたびに、その経験を重ね合わせて見てしまうという個人的事情も関係していたのである。
しかしながら、笠井潔による清涼院流水批判は、終息を迎え、軌道修正が行われる。
清涼院流水の作品に、一定の、無視できない固定ファンがつき、さらには清涼院の活動にインスパイアされた舞城王太郎や西尾維新の作品が、爆発的なヒットをとばすようになったからである。
仮に、清涼院を認めなければ、批評家として時代遅れとなってしまう。
そこで、笠井潔は、清涼院の小説に、キャラクターを立てるという特異な性格を認め、二十一世紀の精神状況を反映した文学の水準を達成したという一定の評価を与えるようになったのである。しかし、昔から笠井潔の本を読んできた人間の眼からすると、これは心底、清涼院を賞賛しているとか、好きになったということではなく、彼が手放しで評価するときは、もっと鮮烈な表現をとるからである、これらの評価が、文壇政治的な妥協の言葉であることがわかる。
清涼院にしてみれば、一度あのような激烈な調子で、それも幾つもの評論に渡って継続的に、批判キャンペーンを貼られた以上は、軌道修正による見解など、本当に信頼できるところまで行けるわけはなく、今回のこうした態度表明にはうなづけるものがあるのである。
無論、オーソドックスな探偵小説の好きな人は、その理想を追求するのは自由である。しかし、その理想を、周りの人に強要するとなると、さまざまな問題が発生する。
また、小説表現は、価値観を含むべきではない、という問題もある。価値観を含むものは、説教を含んだ説話と呼ばれるべきである。小説中に、自身の倫理観と抵触するものがあるといって、断罪する。これは大昔の小説観であり、説かれる思想がスターリン主義でないにしても、スターリン主義的な、目的達成のための小説という観方と共通したものがあるということになる。
これらの問題点の帰結として、今回の小説版『探偵儀式』がある、と思う。
No.418 - 2009/08/02(Sun) 00:36:02
EVAはVALISのシェアード・ワールドか / はらぴょん
『新世紀エヴァンゲリオン』(新劇場版では、ヱヴァンゲリヲン)には、数々のSF作品のタイトルの引用が見られる。

(例証)

(1)ハーラン・エリスン『世界の中心で愛を叫んだけもの』 → TV版最終話タイトル「世界の中心でアイを叫んだけもの」

(2)ジェイムズ・ディプトリー・ジュニア『たったひとつの冴えたやり方』 → TV版最終話サブタイトル案

(3)ロバート・A・ハインライン「夏への扉」 → 劇場版 第25話サブタイトル案

つまり、「庵野秀明と愉快な仲間たち」(「ラブ&ポップ」での表記)のなかに、海外SF小説の読み手がいることは間違いない。しかしながら、影響関係が明らかにされていないが、どう考えても、かなりの影響を受けているとおぼしい作品がある。
それは、フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』連作である。
連作とは、『ヴァリス(思弁SF)』と『聖なる侵入(SF)』と『ティモシー・アーチャーの転生(普通小説)』、および『ヴァリス』を生み出す過程で書かれた『アルベマス』である。
『ヴァリス』連作には、『新世紀エヴァンゲリオン』に頻出する「死海文書」が出てくる。
「死海文書」は、キリスト教よりも前のエッセネ派の残した文書と考えられているが、原始キリスト教の教義と似通った教えがみられる。
さらに、『ヴァリス』には、「ナグ・ハマディ文書」というグノーシス派の残した文献も登場する。
「死海文書」と「ナグ・ハマディ文書」は、20世紀の聖書考古学の最大の発見であり、特に「ナグ・ハマディ文書」は、それまでグノーシス派を異端として断罪する側の書いた文書からグノーシス派の教義を推定するしかなかったが、その発見によってグノーシス派の側の書いた文書を読むことができるようになり、その反宇宙的二元論を知ることができるようになったという点で重要であった。(実存主義などの現代の思想にも、それと似た反宇宙的二元論が見出せるという論者もいる。)
『新世紀エヴァンゲリオン』には、「ナグ・ハマディ文書」は出てこないが、「死海文書」および「裏・死海文書」という言葉に、グノーシス的な意味を込めているようである。(「死海文書」にも光の子と闇の子の闘争を描いた部分があり、書いた団体は異なるが、二元論という点で似た点がみられる。)
つまり、『ヴァリス』連作では、小説に出てくる「死海文書」と「ナグ・ハマディ文書」は、実際の「死海文書」と「ナグ・ハマディ文書」と同一であるが、『新世紀エヴァンゲリオン』では、実際の「死海文書」と必ずしも一致しない。すなわち、ポストモダン的引用が為されているのである。
『ヴァリス』の訳者、大瀧啓裕は、エヴァンゲリオンに関心を示し、『エヴァンゲリオンの夢』という大著を書いたが、『新世紀エヴァンゲリオン』に出てくる「死海文書」は、現実のそれではなく、虚構の小道具、ペダントリーであるとして、その読解において神秘学に踏み込むことをせず、この物語を碇シンジの精神の成長記としてオーソドックスな読解の道を選んだ。(斬新さという点では、小谷真理の『聖母エヴァンゲリオン』の方が刺激的であった。彼女は、エントリープラグのなかで溶ける碇シンジに注目し、男性社会のなかでアンデンティティを溶解させることで得られる自由というものを考察した。)
しかし、新劇場版において、『ヴァリス』との新たなつながりが浮上する。
「序」「破」ときて、次回作は「急」であるはずが、「Q」になったのである。
『ヴァリス』において、Qとはなにか。
新約聖書のなかの四福音書のうち、内容が重複しているマタイ、マルコ、ルカを共観福音書と呼び、マタイとルカが書かれるうえでマルコから得た情報をM資料と呼び、マルコにはないが、マタイとルカにある情報をQ資料と呼ぶ。フィリップ・K・ディックは、このQ資料、およびQ資料のもととなっているUQ資料が、聖書以前の「死海文書」、さらに「サドク派文書」(『ティモシー・アーチャーの転生』)に含まれているとする。つまり、キリスト以前に、キリストの教えに似たものが、この地上にあったとするのである。
無論、新劇場版もまた、ポストモダン的引用が為されるであろうから、言葉の意味はずらされる。つまり、TV版および旧劇場版をもとに、最新技術で再構築(リビルド)しようとしたが、原画がないために、TV版設定資料=Q資料まで遡行せねばならない、という具合に。
さらに続ける。
ディックは、『ヴァリス』で築いた世界観をもとに、SF的想像力を働かせる。それが『聖なる侵入』である。
地球の外にいる女性に、ホンモノの神の子が宿る。この神の子は、人々を救うために地球への侵入を企てる。
地上には、神をあがめる人々が教会をつくり、地上の権力、地上のシステムをつくっている。
いま、ここで神の子が侵入すると、それがたとえホンモノであっても、地上の秩序はひっくり返り、混乱は避けられない。
神をあがめるはずの人が、神の子を悪魔と見立て、神の子の殲滅を企てる。
いま、ここで人間にとっては良いはずの天使=ANGELが、まるでウルトラマンに出てくる怪獣であるかの如く見えてきて、やはり同種の怪獣を引っ張り出して戦うという変則的設定が誕生する。
そして、神の使徒である証拠に、死とともに赤い十字架が立ち表れる。
はたして、この戦いは善のための戦いか、悪のための戦いなのか。
No.417 - 2009/08/01(Sat) 01:06:45
冥界とこの世界のロンド / はらぴょん
黒い太陽
冥界とこの世界が重なり合うとき
爬虫類の指先をした死神が忍び込む

胞子で増える病い
コールタールのような黒い血液
誰も逃れられない
細胞に入り込み 食い破って増殖する
予測できない危機 百科辞典にもない
自然の復讐がはじまる

エレベータのなかで 
銃口をつきつけられたぼくは 決断を迫られる
死神に魅入られた人間が 人間を襲う
誰も逃れられない
誰も援けてくれない

黒い太陽
この世界が闇夜に包まれるとき
すべてはかたちと意味を喪い虚無が訪れる

悲鳴を上げるいのち
時はゆがみ 苦悶の余り 身をよじる
頭脳に入り込み 理性を食いちぎる
約束を破った報い 未知のファイナルゾーン
自然の叛逆がはじまる

エレベータのなかで
死神の銃を奪ったぼくは 引き金を引いた
殺人者となったぼくは 追われるしかない
誰も逃れられない
誰も援けてくれない

反撃をはじめよう
なにもかもなくした ぼくたちに残された希望
反撃をはじめよう
それが悪であれ
生きている限り 人は意味を求める存在だから
No.416 - 2009/07/23(Thu) 10:22:55
8月の新刊 / はらぴょん
来月出る文庫のうち、気になるものを挙げてみる。

◆澁澤龍彦著「澁澤龍彦 日本芸術論集成」河出文庫
文庫オリジナル。著者の死後、編集して一本に組まれたもの。澁澤の文庫は、こういうものが多くなってきた。

◆雨宮処凛著「バンギャル・ア・ゴーゴー」講談社文庫、全3巻
文学作品としては、いまのところ、一番の力作。
最近、また小説を書いてますね。テーマは、今取り組んでいる問題なんですが。
また、最新刊として「雨宮処凛の「生存革命」日記 万国のプレカリアートよ、暴れろ」(集英社)という威勢のいい本が出ています。

◆竹本健治著「狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役」光文社文庫
短編集なので、これから竹本作品を読もうという人には最適かも。

◆吉本隆明+坂本龍一著「音楽機械論ELECTRONIC DIONYSOS 」(ちくま学芸文庫)
ソノシート「人差し指のエチュード」はついてないな。どうみても。

◆倉橋由美子著「蛇・愛の陰画」講談社文芸文庫
「蛇」は「バルタイ」に、「愛の陰画」は「悪い夏」に収録されていたと記憶する。ようするに、再編集版。

◆倉橋由美子著「夢の浮橋」中公文庫
新装版なのか?

◆荒俣宏著 「新帝都物語 維新国生み篇」角川文庫 全2巻

時代が変わって、改めて加藤保憲が……。 

◆大塚英志+西島大介著 「試作品神話」角川文庫

サイコ関連かな。サイコ・キューブとか。
No.415 - 2009/07/14(Tue) 00:52:20
すっかり忘れておりました / はらぴょん
探し物をしていたところ、忘れていたカセットテープが膨大に見つかった。
どうやら、TVの前で、必死で息をつめて、雑音が入らないようにして録音していた(苦笑)時代の産物と思われる。
NHKに再放送リクエストするときとかに役立つかも知れないので、カセットテープに書いてあった文字を転記しておこうと思う。

「浅田彰が語るグレン・グールドの世界 1992.9.17 教育テレビスペジャル PM8:00/人を語る・坂口安吾(栗本慎一郎)」
「ETV特集 コリン・ウィルソン、立花隆 未知への対話 1至高体験 1993.4.12 PM8:00〜8:45 教育テレビ/ETV特集 コリン・ウィルソン、立花隆 未知への対話 2超常現象論 1993.4.13 PM8:00〜8:45 教育テレビ」
「ETV特集 クロード・レヴィ=ストロース 1自然・人間・構造(川田順造)1993.4.14 PM8:00〜8:45 教育テレビ/ETV特集 クロード・レヴィ=ストロース 2日本へのまなざし(川田順造)1993.4.15 PM8:00〜8:45 教育テレビ」
「柄谷行人の漱石探求 2夏目漱石と戦争(小森陽一) H4.10.15 PM8:00〜8:45 教育テレビ/道を楽しむ〜近づく日本文化デザイン会議 三枝成彰・中沢新一ほか 1990.9.16 AM1:00〜1:45 東海テレビ」
「ETV特集 生誕100年乱歩を読む 1都市・眼の欲望(荒俣宏・柏木博)1994.2.1 教育 PM8:00〜8:45/ETV特集 生誕100年乱歩を読む 2肉体・ユートピア・死(荒俣宏)1994.2.2 教育PM8:00〜8:45」
「ETV特集 男と女 エロスの時代 陽水の”詞”をめぐって 生の語り部・陽水(竹田青嗣・高樹のぶ子)1994.6.22 教育 PM8:00〜8:45/ETV特集 生と死 自己回復の時代 村上春樹をめぐって 僕の葛藤・春樹 世界の終焉をめぐって(竹田青嗣・加藤典洋)1994.6.23 教育PM8:00〜8:45」
「NHKスペシャル チベットの死者の書 第1夜 仏典に秘めた輪廻転生 死に方の思想と技法の書 死は終わりではない ホスピス病棟で注目 光の体験 (語り手 緒方挙)1993.9.23 PM9:30〜10:45 NHK総合/NHKスペシャル チベットの死者の書 第2夜 ドキュメンタリードラマ 死と再生の49日 死は解放 生命の秘密 (脚本 中沢新一)1993.9.24 PM9:30〜10:30 NHK総合」
「NHK現代ジャーナル シリーズ対論1992 日米ボーダーレスの時代に 柄谷行人VSリービ英雄 1992.1.7 20:00〜20:45 教育/NHK現代ジャーナル シリーズ対論1992 資本主義の21世紀 柄谷行人VS岩井克人 1992.1.8 20:00〜20:45 教育」
「EXPO’90 特集 森・不思議の旅「森からのメッセージ」(中沢新一) 1990.3.31 PM10:30〜 放送局不明/ビーグル号航海記 (中沢新一) 詳細不明」
「歴史発見 追跡 ザビエルの日傘 図像に秘められたキリシタンの物語(荒俣宏) H5.9.22 PM10:00〜10:45 NHK総合/ETV特集 輪廻の森・樹海 溶岩・洞窟の神秘 原始の森との共生 青木ケ原樹海の神秘性 森と人間のあり方(中沢新一) H6.6.6 PM8:00〜8:45 NHK甲府」
「ミッドナイトジャーナル 大衆文化復活にみるソ連・超能力ブーム 中沢新一ルポ 1991.4.30 PM11:00〜 NHK/気ままにいい夜 (柄谷行人・いとうせいこう) 1991.3.31 PM11:00〜 TBS TV」
「20世紀の群像 ボーヴォワール〜幸福への追求(朝吹登水子) 1娘時代 2サルトルとの出会い 3第二の性 4老いをめぐって 1991.3.4〜3.7 PM11:00〜(全4回) NHK教育」
「如月小春VS劇伴講義 S59.10.10 PM9:00〜10:00 放送局不明(ラジオか?)」
「NHKスペシャル 世界はヒロシマを覚えているか 大江健三郎・対話と思索の旅 1990.8.3 PM10:00〜」
「如月小春 エナジーボックス1 (曲目、YMO、サンソン・フランソワ、ローリング・ストーンズ、ジョン・フォックス、スティーヴ・ライヒ、クラフトワーク、立花ハジメ、ラテージュ、トーキング・ヘッズ) 1986.2.5 PM9:00〜10:00 放送局不明/如月小春 エナジーボックス2 (曲目、高橋悠治と三宅榛名、ダグマー・クラウス、ローリー・アンダーソン、OMD、デビッド・ボウイ、ジョン・レノン、ピンク・フロイド、如月小春と坂本龍一) 1986.2.14 PM9:00〜10:00 放送局不明(FM局か?)」
「プライム10 人はなぜ化粧するのか 2神々は彩りに宿る バリ島(中沢新一) 1992.6.24 PM10:00〜 NHK総合/現代ジャーナル シリーズ哲学と建築の対話2 (ピーター・アイゼンマン、磯崎新、浅田彰) 1992.6.30 PM8:00〜 教育」
「NHKセミナー・20世紀の群像 南方熊楠 森羅万象へのまなざし 顕微鏡1つ買うて 1990.8.27 PM11:00 教育/NHKセミナー・20世紀の群像 南方熊楠 森羅万象へのまなざし 郷土の事を研究せんと 1990.8.28 PM11:00 教育/NHKセミナー・20世紀の群像 南方熊楠 森羅万象へのまなざし 神林の乱滅を止めん 1990.8.29 PM11:00 教育/NHKセミナー・20世紀の群像 南方熊楠 森羅万象へのまなざし 無尽無究の大宇宙 1990.8.30 PM11:00 教育 (荒俣宏)」
「土曜フォーラム 南方熊楠 未来へのメッセージ (荒俣宏、内田春菊、神坂次郎、中沢新一) 1990.11.17 PM11:00〜11:58 教育/柄谷行人・岩井克人 詳細不明」
「たけしのここだけの話 不人気ゴルビーでソ連は危機に? (中沢新一) 1990.7.8 22:30〜 東海テレビ/気ままにいい夜 気分はアフリカン (ライヤル・ワトソン、エドワード鈴木) 1990.8.26 PM10:30〜 TBS」
「山口昌男 文化人類学の視角 (上野千鶴子、中村雄二郎、栗本慎一郎、大江健三郎ほか) 1985.7〜8 教育(カセット4本)」
No.414 - 2009/07/09(Thu) 20:32:03
コズミック・ゼロ〜日本絶滅計画』 / はらぴょん
清涼院流水の『コズミック・ゼロ〜日本絶滅計画』は、かなり緻密に組み立てられた政治経済小説である。
 おそらくは、デビュー作『コズミック』と、背後の伏線としては『カーニバル』の再話であるが、リアリズムの文脈に置き換えられ、かなり実現性の高い「絶滅」計画を、構築(JDCシリーズを念頭に置くと、再構築)している。
 ほぼ同時期に発表された『B/W』が、乗り越えるべき先行作品として『羊たちの沈黙』を想定したとすれば、『コズミック・ゼロ』は、作者本人は一切触れていないが、おそらく村上龍の『愛と幻想のファシズム』を想定しているのではないかと、邪推する。なぜ、そう思うのか。『愛と幻想のファシズム』では、全世界の政治経済を牛耳ろうとする多国籍集団として「ザ・セブン」が登場する。対する『コズミック・ゼロ』では、日本絶滅計画を遂行する英精鋭チームとして「セブン」が登場する。さらに、『コズミック・ゼロ』の「ゼロ」は、物語中の文脈では「絶滅」を示しているが、『愛と幻想のファシズム』の主役級の人物名でもある。
 清涼院流水は、ビジネス成功哲学を濃縮して盛り込んだ『成功学キャラ教授』以降、その分野のエキスパート水野俊哉とユニットを組むことになるが、本書でみせた世界情勢や経済状況を考慮した現実性の高いストーリーへの傾斜は、そういった影響もあるのかも知れない。そのリアリティーは、読んでいて、本物のテロリストが本書のやり方を真似たらどうなるか危惧するほどだったのである。おそらくは、より洗脳という点で、感染性の高いロジックをイデオロギーに埋め込むだけで、本書は悪夢への引き金を引くことに繋がる危険性がある、と思われる。
 清涼院は、ある一点において、愛と幻想の「ファシズム」を凌駕する。「ファシズム」でも、「侵略的帝国主義」に置き換えて考えてもよいが、それらは、要するに利益追求の思想である。他国の領土を盗る、他国の資源を盗る、あるいは無形の名声を盗る……。しかし、清涼院が本書で、あるいは『カーニバル』でやったことは、利益を欲望する主体自体を殲滅し、消去するという異常事態なのである。従って、計画には、さまざまな大義名分が掲げられるが、最終的に投げ捨てられる運命にある。こういった異常事態を何と呼べばいいか。「愛と幻想のファシズム」ではない。それは「i(虚無)と喧騒のニヒリズム」である。
 『コズミック・ゼロ』の本当の怖さは、ファシズムやテロリズムによるものではなく、一切の思想の存立根拠を、根こそぎ引っこ抜く徹底したニヒリズムに起因している。そして、ほぼ同時期に発表された『B/W』は、このニヒリズムを見据えて、対峙するという姿勢で書かれている。清涼院の「流水大説」は、その極端なストーリー展開によって、逆説的にメタフィジックな傾向を招きよせるのである。
No.410 - 2009/06/28(Sun) 10:43:35
『SPEED ANIME M@STER ~あにそんまぁすたぁ~☆』 / はらぴょん
『SPEED ANIME M@STER ~あにそんまぁすたぁ~☆』
(CD ポピュラー) ビクターエンタテインメント
 このCDの特徴は、アニソンを素材に、アップテンポのビートを利かせて、ダンス・ミュージックに仕立てた、パラパラ対応の音楽と言える。だから、爆音で何もかも忘れて、愉しんでしまうのがよい。
 ちなみに今回カバーされたオリジナル楽曲は、桃井はるこの「ナースウィッチ小麦ちゃんマジカルて〜愛のメディスン〜」、よーみの「夢は終わらない〜こぼれ落ちる時の雫〜」、豊崎愛生+日笠陽子+佐藤聡美+寿美菜子の「Don't say“lazy”」、堀江由衣の「バニラソルト」、FictionJunction YUUKAの「nowhere」、ALI PROJECTの「聖少女領域」、平野綾+加藤英美里+福原香織+遠藤綾の「もってけ!セーラーふく」、平野綾+茅原実里+朝比奈みくるの「ハレ晴レユカイ」、fripSide NAO project!の「やっぱり世界はあたし☆れじぇんど」、佐藤利奈+井上麻里奈+茅原実里の「経験値上昇中☆」、ヒトミソラ(吉田仁美&イズミカワソラ)の「KI-ZU-NA〜遥かなる者へ〜」、川田まみの「緋色の空」、水樹奈々の「ETERNAL BLAZE」、島みやえい子の「ひぐらしのなく頃に」、飯島真理の「愛・おぼえていますか」、林原めぐみの「Give a reason」、麻帆良学園中等部2−Aの「ハッピー☆マテリアル」。あとは、ボーナストラックで、相対性理論とAKB48と石川智晶のカバーが入っているのだが、これは聴いてみてのお楽しみということにしておこう。
 このCDのもうひとつの楽しみは、歌っている新人声優〜アイドルのなかに、未来のミュージックシーンを塗り替えるかも知れないアーティストの原石を見つけ出すことにある。
 実を言うと、このCD、『スーパー・アニメ・リミックス vol.2』および『スーパー・アニメ・リミックス vol.2 DISC2』(DREAMUSIC)と収録曲やアーティストの面で被っている部分が多い。しかしながら『SPEED ANIME M@STER ~あにそんまぁすたぁ~☆ 』で初めて登場しているアーティストもいる。例えば、Rose&RosaryのVocal、SION。Rose&Rosaryは、ゴスロリ(ゴシック&ロリータ)系のビジュアル・ロックバンドなのだが、ここではアニメソングのカバーということで、違う面を見せている。SIONが歌っているのは、「バニラソルト」。この楽曲は、音楽面でテクノを意識してつくられており、原曲の堀江由衣によるプロモーションビデオに関し、一部では「一人Perfume(要するに一人三役をやっているのである)」という評があった。この注目曲を、SIONがどう自分のものにしているか、これもまた聴きどころのひとつではないかと思う。
 つまり、このCDは、パラパラに使って良し、一人一人のアーティストに着目して聴くのも良し、いろんな楽しみ方ができるのである。
No.409 - 2009/06/28(Sun) 01:23:11
乙一著 『GOTH モリノヨル』 / はらぴょん
例えば、ある種の神秘体験を得て、それを言語化して、他者に伝えようとするケースを考えてみよう。言語化に成功した途端に、その体験のヴィヴィッドさは喪われ、ピンで留められた蝶のような空々しさが生まれるだろう。
 そこには、全宇宙を包み込むような拡大された意識の感覚もなければ、マクロコスモスとミクロコスモスが(ミクロコスモスの内に、マクロコスモスに繋がる法則性を含んでいるがゆえに)一致しているという感覚もない。勿論、事実性の地平を越える超越的なもの、絶対的なものへの希求も見出せない。あるのは、平版な事実の羅列だけといった状態になるだろう。
 このような言語化に成功した世界認識は、学問という知識体系に組み込むにはうってつけである。しかしながら、そこには生き生きとした世界の認識は失われてしまっている。
 ここで再び、鮮烈な神秘体験を得るためには、知のシステムの外部に向かうしかない。しかし、外部に出るためには、徹底的な削ぎ落としが必要である。知的体系を構築しようとする誘惑を切断し、世間的な評価を得ようとする欲望を切断し、さらには自分のエゴを否定し、それ以上削ぎ落とし不可能な底辺に堕ちることが必要である。
 しかしながら、再びその体験が甦っても、言語化とともにその体験は死ぬのであるから、外部に向かう運動は、不断の、敗戦覚悟の闘争でなければならない。
 さて、本筋に移る。この『GOTH モリノヨル』の主人公は、ある種の至高体験を得るために、犯罪に寄らずして到達できないという不幸な性向を持つ人物として設定されている。
 キーワードは、ロザリア・ロンバルドの死体写真と(球体関節)人形である。主人公にとって、ロザリア・ロンバルドの死体写真の如き美少女を被写体として選び、写真に撮るという行為が、ある種の至高体験に到達するための必須儀礼となっている。そこには、(嘘をついたり、虚勢を張ったりする)人間らしさとか、自己主張するおしゃべりな主体は不要であって、人形のように完全なる被写体とすべく、余分な挟雑物は取り除いてやらねばならない、というわけである。
 細かなことだが、作中に『眼球譚』の文庫本が出てくる。主人公が狙ったターゲットの落し物である。バタイユのこの本は、角川文庫ならば、表題が『マダム・エドワルダ 他四編』で、表紙は旧版は金子國義、新版は池田満寿夫。光文社古典新訳文庫ならば『マダム・エドワルダ、目玉の話』である。しかしながら、表題が『眼球譚』なのだから、講談社文庫の『眼球譚、マダム・エドワルダ』の可能性が高い。この現在絶版の講談社文庫の表紙は、ハンス・ベルメール!球体関節人形の作家である!
 私が考えるには、主人公は、美少女の死体写真を見ると、A10神経からドーパミンが出るように、条件づけ(プログラミング)されているのではないかと思う(殺人にではなく、あくまで写真を見ることで、快楽を得ているというわけだ)。
 主人公の犯罪は、一見ディオニュソス的狂乱とは遠くかけ離れており、終始クールであるようにみえる……が、主体性を喪った完全な客体としての写真にとり憑かれている彼の内部には、死とのせめぎあいのなか、静かな息遣いが起きているのではないか。
 犯罪にまで至る病的な内的世界を暴いた心理小説の傑作である、と同時に、後半の展開は論理的な駆け引きがみられ、ミステリの要素も隠し味として入っているように思う。 
No.408 - 2009/06/22(Mon) 23:56:25
小森健太朗著『英文学の地下水脈』 / はらぴょん
小森健太朗著『英文学の地下水脈』は、大きく分けて3つのテーマを扱っている。
 第一に、黒岩涙香による翻案のうち、原典が不明だったものを明らかにする作業。この過程で浮かび上がるのは、バーサ・M・クレー、ヒュー・コンウェー、メアリ・ブラッドン、C・N・ウィリアムスン夫人といった現在、探偵小説史では取り上げられることの少ない作家たちであった。
 第二に、神智学ムーブメントに影響を受け『蓮華の書』を書いたメイベル・コリンズと、涙香と乱歩が翻案した『白髪鬼』の原書を書いたマリー・コレリ、編集者・批評家のA・R・オレージのグルジェフへの傾倒の評価を巡る否定派のG・K・チェスタトンと肯定派のC・D・キングを紹介した文章。

 第三に、アガサ・クリスティーの翻訳の問題点を突いた文章、ヴァン・ダインことウィラード・ハンティントン・ライトのニーチェ研究と美学研究にスポットを当てた文章、密室論や後期クイーン的問題を扱った文章。
第一のテーマに関して云えば、要するに国際版の本棚探偵である。黒岩涙香の翻訳の原書が判らないものについて、100年くらい前の英国の探偵小説の原書を取り寄せ、内容を確認し、それが原書であることを立証してゆくのである。一見、マニアックで、専門的な分野と思われるかも知れないが、この部分が真相を究明してゆく探偵小説の手つきを連想させて、私には一番面白く読めた。
 19世紀の英国探偵小説の古書のなかから、原書を探り当てる小森氏の探求は驚異的なのだが(欲を言えば、入手した古書の書影も、モノクロで良いので、資料図版として載せるべきであったと思う)、これを可能にしたのはインターネット検索の力である。しかし、インターネットのない文久2年から大正9年を生きた黒岩涙香はもっと驚異的であって、英文学のなかから面白いものを選び出し、場合によっては複数の原書を組み合わせたりして、日本人に探偵小説の面白さを判らせようとしたわけで、しかも本書が明らかにしているように『妾の罪』に至っては、高度で複雑な叙述トリックを使っているわけで、実にワンダフルとしか言いようがないことがわかる。江戸川乱歩は、EQMMなどで海外の動向情報を入手していたようだが、涙香はどうなのか。涙香は1918年にヨーロッパに行っているようだが、探偵小説を出していたのは1988年から92年である。
 神秘学に関連した第二のテーマは、ページ数としては多くないのだが、探偵小説と神秘学(本書で取り上げられているのは神智学とグルジェフ思想である)の双方に関心を持つ論者は少なく、本書に書かれているエピソードは貴重な情報である。
 最後に、黄金期の探偵小説作家や、探偵小説の原理論に触れた文章に関して云えば、クリスティーに関して述べた文章が興味深かった。原書には、翻訳ではうまく伝えられているとは言えないタブルミーニングやミスディレクションなどの仕掛けがあるというのである。最後の「クイーン論の断章」は、『探偵小説の論理学』のプレリュードとなっている。どうやら本書の刊行時期が遅れたために、『探偵小説の論理学』の方が先に刊行されたようである。
 兎に角、本書は文学上の新発見が目白押しの研究書である。19世紀の英国探偵小説に興味を持つ方は勿論、明治期の近代日本文学に関心を持つ人にも、一読の価値がある本である。
No.407 - 2009/06/22(Mon) 23:54:07
菊地成孔+大谷能生『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・歴史編 』 / はらぴょん
東京大学教養学部で行われたジャズ講義録の上巻。
ここでは、「余りにロマンチックで思考停止的で自己完結的で非越境的」(P8)な従来の一般的なジャズ史に風穴を開け、偽史との批判を覚悟で、一般的な議論の対象となるような、他ジャンルとの関連性をも視野に収めた開かれたジャズ通史を打ちたてようとする。
おおまかに言えば、ここで語られる通史とは、
【1】十二音平均律
【2】バークリー・メソッド
【3】MIDI
が象徴するような時代区分である。
まず、【1】十二音平均律は、1722年発表のバッハの『平均律クラヴィーア曲集(第一巻)』を先駆とするドから上のドまでを等しい幅で数学的に十二等分して音階をつくり、それを基準として音楽をつくるような考え方を指す。この十二音平均律の登場により、それまでに使われていた不均等な幅の調律が廃れ(抑圧され)、一般的に応用の効く十二音平均律の方が優勢になっていった。このことは、音楽の「ポップ」化に直結していた。
続いて、【2】バークリー・メソッド。こちらは20世紀、ボストンのバークリー音楽院で教え始めた商業音楽の制作法を指す。ポビュラー音楽をつくったり、演奏したりするための、コード・シンボルによって和声を記号化して把握し、展開する、クラッシック音楽の作曲技法をシンプルに、簡潔にした方法論を指す。
最後に、【3】MIDI。ここまで来ると、音楽の記号化がさらに進み、音色や発声の状態までも数字で置き換えてデジタル処理するようになる。
つまり、菊地成孔+大谷能生は、この三段階説によって、音楽の歴史は抽象化・記号化の方法に向かっており、それとともにポップ化、一般的流通可能形態化が加速していると看做す。
しかし、本書の魅力は、見通しのいいジャズ史のパースペクティヴを開くということだけにとどまらない。
東京大学教養学部という、この国の最高学府とされている場所で、ビル・エヴァンスだの、チャーリー・パーカーだの、ジョン・コルトレーンだの、アルバート・アイラーだの、マイルス・デイビィスだのを大音響で流しながら、DJ風の饒舌な口調で、記号論にも通じるようなシャープな議論を展開するというすがすがしさにあるのだ。
菊地成孔+大谷能生は、バークリー・メソッドによる音楽を主流と位置づけながらも、それに対する対抗運動にも興味を示す。ジョージ・ラッセルのリディアン・クロマティック・コンセプト(LCC)、オーネット・コールマンのハーモロディック理論。商業的に成功した主流音楽に対抗する芸術的方向性という突破口。そこにも、自由への逃走線がある。
また、マイルス・デイビィスの「コーダル/モーダル」の探求、そして音楽における「電化」が、バークリー・メソッドを過去のものとして終焉させる過程。こうしたエピソードの集積が、本書で語られるジャズ史を、よりダイナミックで、躍動的なものにしている。
何より、これを読むと、なにか音楽を聴きたくなるのがいい。
とりあえず、倉橋由美子の小説に出て来たことのあるオーネット・コールマンから始めようか。
No.406 - 2009/06/22(Mon) 23:52:00
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