三:抱負
――魔術師。
一般の人間がそういった名称を聞いてまず最初に思い浮かべるのは、杖を持って呪文を唱え、火や雷を発したり水や風を操ったり、はたまた箒に乗って空を飛翔する、フードで顔を隠したローブ姿を思い浮かべるのではないだろうか。もしくは舞台で観客を魅了する奇術師か。
昨今のサブカルチャー業界にのめり込む若人や趣味人ならば、また違った現代風のイメージを思い浮かべるであろう。それでなくとも、世界中で出版される某有名児童文学のおかげで、国家・人種・階級・年齢にある程度差別されず――無論、貧富の層の差で別されるだろうが――容易に想像することができるはずである。
ゆえに実在する魔術師というものを偶然知ることができた者や、または魔術師の家系に類する血筋の者として生を受けた人間の場合、概ねそうした固定観念的な魔術師像を真っ先に思い浮かべるのは無理のない話だろう。
もっとも、この世界の本物の魔術師という種類の人間たちにとっては、そうした“いかにも”な事象を起こすのは飽くまで手段、延いては手慰みの余芸に過ぎない。
彼らの最終的な目的とは、『根源』と呼称されるものに辿り着くことである。
“根源”とは、この世界の外側、次元論の頂点にあるとされる究極の”力”、万物の発端にして終焉、一にして全、そこは悠久の過去から遥か未来まであらゆる記憶を内在し、意のままに今ある全てを破却して新たに一から作り出せるという、神ごとき力威が存在する座標である。
『根源』という呼び方から、その意味するところは想像するに難くない。ただし、字義以上に途方もないスケールでその意味は機能する。
すなわち『根源』とは、世界の始まりの源泉であり、根のごとく全ての事象の出発点であり、つまりは初めに始まる一の場所。
そこには力があるとされる。そこには知識があるとされる。そこには何も無くて、全てがあるとされる。
その形而上の座標を目指す者たちを魔術師という。魔術師という名称も、『根源』へ辿り着くための最も近い道筋――「神秘」が「魔術」と呼ばれるために、それを扱い、探求する者として付けられた呼称に過ぎない。
もっとも、神秘を扱う彼らの中には、その呼び名に絶対的な価値と矜恃をもつ者も少なくはない。
ウェイバー・ベルベットは魔術師である。魔術師と呼ばれる人種の例外に洩れず、『根源』を目指す学術の徒だった。
母や祖母はそうした魔術師の目標へ真に興味を抱かなかったが、彼はベルベットの家で初めて魔術師たらんとした人間である。
しかし、そもそも魔術におけるベルベットの始祖である祖母からして、愛人関係であった魔術師から多少学んだ程度であり、ウェイバーに魔術を伝えた母も祖母との思い出を受け継がせるという意図以上の熱意と意欲をもっていなかった。
それゆえ、スタート地点からしてウェイバーは苦労を強いられることとなる。乏しい魔術回路、それに比例する魔力保有量、浅い歴史ゆえにあまり蓄積されていない刻印、家格も資産もないない尽くしである。
それでも時計塔に招聘された時は己の才能を認められたと欣喜雀躍としたものだった。もっとも、当初のその感慨も、時計塔入りしてすぐに裏切られることとなったのだが。
ウェイバーを待っていたのは、血統・家格至上主義という、隔絶した閉鎖社会における前時代的な既成概念、文字通り、歴史という重みそのものだった。
数年経っても改善されることのない冷遇の日々。周囲から当てられる劣等生の烙印。
ただでさえ魑魅魍魎が跋扈する魔窟においてこれでは、ウェイバーが先を目指すことの妨げにしかならなかった。
その後、幾つかの恨み節を沸き上がらせる出来事を味わい、一方的に仇敵と定めた元講師と戦うためにウェイバーは聖杯戦争に参加した。
常軌を往く魔術師としては、急がば回れとばかりにかなりの遠回りをしてしまっているが、自身の真価を不当に貶めた全ての者たちへ知らしめるためには必要なことだったのだ。
自分を信じ続ける彼が求めるのは、己の手に掴み取る勝利のみ。
聖杯というトロフィーもそれなりに魅力的ではあったが、誰よりも魔術師たらんと息巻く彼はあくまで己の力で『根源』を目指すのが至上目標である。
そんなウェイバーに、全ての魔術師の悲願にして通過点とされる願望機など、当然ながら必要ない無用の長物だった。
であるからこそ、食後のコーヒーの後にささめかれるキャスターの、
「私のことを話す前に聞き忘れていたことに答えてもらいたいのだが――。
ウェイバー、君は聖杯を手にして何を求める? 何を願ってこの戦争に参加するんだ?」
という問いに対して、
「……別に聖杯になんて興味ないよ。僕が望むのは、ひとえに正当な評価だけだ。終ぞ僕の才能を認めなかった時計塔の連中にっ、考えを改めさせることだっ!!」
言葉を連ねるごとに悔しさが沸々と募り声高になるがまま、ウェイバー・ベルベットは聖杯戦争に参加する動機を己がサーヴァントに威勢をのせて語った。
そして語り終えてから、キャスターがどういった反応をするか、ウェイバーは不安げな面持ちで返答を告げた相手の顔を凝視する。
馬鹿にされるだろうか? 呆れられるだろうか? 下らないと一笑にふされるだろうか?
それとも、ただ沽券を示すだけといった目的を抱いて戦いに臨む己を嘲笑うだろうか?
目の前の少女の姿をした存在は、少なくとも魔術師の英霊として召喚されるほどの超人の域に達している。
服装から神代の人物でないのは間違いないのであろうが、それでも時代を経るごとに神秘の劣化した現代の魔術師であるウェイバーからしてみれば、雲の上のような人物である。
そのような過去の偉人にとって自身の望みは、やはり取るに足らない小人の拘泥に映るのではないか。
しかしそうした被害妄想じみた彼の予想とは裏腹に、キャスターの表情に顕れたのは、その類希な妍を際立たせるあどけない微笑みだった。
ウェイバーは思わず喉を鳴らし、頬が紅潮するのを自覚した。
「それはまた難儀な雄図を明かしてくれたものだ。君はつくづく私の期待を裏切ってくれる。ああ、良い意味でだよ?――(一面においては凛に少し似ているな……)――そして聖杯自体はいらない、か」
「……あ……ぁ、ああっ。だから聖杯は、キャスターの好きにしてくれて、いいぞ? 僕のことは、気にしなくていいからさっ!」
動揺を抑えようとしても若さと経験不足がそれを邪魔するのか、ウェイバーはしどろもどろになりながらも押し切り、従者を篤く遇するマスターの気っ風の良さをキャスターに示した。
それを粛然と受け取ると、瞳の奥に荘重な光を灯し、キャスターは視線に献辞の意を乗せてウェイバーを見つめた。
そして、口角の片側が気持ちやや上に吊り上がる。可憐で小悪魔的な笑みだった。
「それは助かる。――まぁ、私の野暮用を少し叶えた後、最終的に冬木の聖杯は完全に破壊するつもりだったんだが。正直、マスターをどう説得するかが事前の悩みどころでね。まったく、気前の良いマスターをもって私は果報者だよ」
「な、ななな、なんだってぇぇええええええええええええええっっっ!!!?」
その叫び声のあまりの大きさに、客層柄、防音設備が過度に整った宿泊・休憩施設であったことを、主従ともに感謝するバカでかい大音声だった。
それほどの驚愕。その威力たるや、口にコーヒーを含んでいれば、対面に坐すキャスターの上半身へと霧状のコーヒーシャワーを浴びせたであろうほどである。
「お、おおお前正気なのかっ!? 聖杯だぞっ! 願望機なんだぞっ!? 魔術師だったら根源へ到達するために使うだろフツーっ!!?」
聖杯とは一種の奇跡である。それはあらゆる望みを叶える無限にして無色の力の塊。手に入れた者の願いの方向性を完璧に実現する万能の神の器。すなわち願望機呼び慣わす。
それを用いればあらゆる魔術師たちの悲願、『根源』への到達すら可能とされている。
しかし、キャスターの言い方から、彼女の願いは『根源』への到達ではないのだろう。確かに叶えたい望みにさえ使ってしまえば、あとは用済みというのも理解できないではないが、それでもあっさりと破壊――それも瞳に宿る決意が、完膚無きまでに絶対的な破壊をすると物を言っていた――すると言われれば、魔術師としてその利用価値を知るウェイバーは詰問せざるを得なかった。
そうしたウェイバーの慌てた態度をキャスターは涼しげに受け流すと、テーブルの上へとその繊手を向けた。
「正気であり、紛う事なく本気だ。ふむ――――時にウェイバー。君は聖杯がどこから来るのか知っているのかね?」
問いを投げかけると同時に、テーブルの上へ瞬きする間に物体が幾つか顕現する。
現れたのは、大理石より作り出されたチェス盤であり、横には大ぶりの黒檀の鉢が、盤の上には真鍮製の七つの駒がそれぞれ中央を向く形で円を描いて並べられていた。まるで己以外の全てが敵であるかのように。
大剣を構える騎士の駒。槍を掲げる槍兵の駒。矢を番える弓兵の駒。手綱を握る騎乗兵の駒。杖と魔導書を持つ魔術師の駒。曲刀を提げる暗殺者の駒。獣に変貌した狂戦士の駒。
七つの駒の意匠は、聖杯戦争に召喚されるサーヴァントのクラスを示していた。
ウェイバーは夕べより見続けたキャスターが虚空から具現化する器物について、生前の持ち物を肉体や衣服と同様に実体化させているのだと解釈していた。
しかし、サーヴァントとして召喚されたとはいえ、英霊であるキャスターが生前に聖杯戦争に対応した物品を所持していたとは考えづらい。
それとも、キャスターはここ二百年以内の英霊であろうか? そして初期の聖杯戦争に関わっていたとなれば、こうした駒を持っていても不思議ではないが――。
と、脱線しかけた思考を何とか軌道修正させ、ウェイバーはキャスターの問いを反芻した。
――聖杯が、“どこから”来るのか?
聖杯。元来その言葉が指す物は、神話の伝承や教会の教義、はたまた英雄譚や御伽噺でしか眼にすることがない奇跡の一つだった。
聖杯と銘打っているが、冬木の地に顕れる聖杯は、聖堂教会が聖遺物として認定するモノとは根本的に違い、その正体は手に入れた者のあらゆる望みを叶えし万能の釜とされる。
ウェイバーは時計塔で閲覧した資料の知識を紐解き、聖杯戦争の公開されている情報を記憶の淵より引っ張り出した。
そもそも、冬木の聖杯戦争とは聖杯降霊の儀式であり、二百年前にアインツベルン、マキリ、遠坂の三家が各々の素材・知識・秘術・領地を提供し合い、魔法使いの手を借りてようやく完成させた大規模な魔術システムである。
それゆえにこと聖杯戦争において、この三つの家系を“始まりの御三家”と呼ぶのである。
そうしたシステムがどういうものかは勿論公開されていないが、結果として聖杯戦争に参加する七組のマスターが最後の一組になった際に、アインツベルンが用意した依代に降霊する形で顕れる。
降霊という言葉が示す通り、聖杯それそのものは実体を持たない別次元の存在とされている。
参加マスターの手駒として喚び出されるサーヴァントは英霊の座から召喚されるが、では万能の釜、奇跡の願望機が降臨する前に在るとされる何処かとは、一体――。
「――――問い掛けをしておいてすまないが、話を進めるために答えを教えるとだ、現段階において聖杯とは、この世の何処にも存在しないものなんだ」
「……へ?」
「ああ、君たちマスターに令呪を授けるのも、私たちサーヴァントを召喚する際に補助をするのも、確かに聖杯の力だ。しかしねウェイバー、願望機としての聖杯は“今はまだ”ない」
七つの駒の内、アーチャーとされる駒を掴み、片手で弄びながら、キャスターの緋色の瞳は猛禽のように鋭さを増していく。
しかし眼光とは裏腹にキャスターの瞳からは威圧感の類は一切放たれていない。あくまで淡々と教え子に事実を講義するように、緩やかにウェイバーに語りかけてくる。
それでも射竦められたと肉体そのものが受け取ったのかビクリと身体を震わせ、ウェイバーは言葉を発せずに、なんとか視線で続きを促した。
「この冬木の地のとある場所に、始まりの御三家が敷設した魔方陣がある。これを大聖杯と呼ぶのだが、この魔術基盤こそ聖杯戦争のシステムそのものであり、冬木の地を聖杯の降霊に適した土地として整える機能を持っているんだ。令呪の作成とサーヴァント召喚の際に用いられる莫大な魔力の調達は、このシステムによって成り立っている」
英霊の座より英霊を召喚する魔力は途方もない規模の量であり、その英霊をサーヴァントとして三度とはいえ律する令呪も膨大な魔力を凝縮して生成される。
大聖杯は冬木の霊脈を決して涸らさないよう、六十年という時間を掛けて少しずつ霊地からマナを汲み上げ、聖杯戦争を行うための必要な魔力量を蓄えてゆく。
そして必要量の魔力が満たされた時、聖杯降霊の儀式の前兆として、マスターに相応しい人物を選別してその者に令呪を授け、聖杯戦争という降霊の前段階としての儀式を実行する。
常人の視点で見れば少々どころではない気の長い話であるが、魔術師にとって時間とは積み重ねて活用するものでしかない。でなければ子々孫々に成果を継承させるなどできはしない。
むしろたかだか六十年程度を待つだけで済むのは短いと言えるだろう。
キャスターの口から語られるこのシステムを開発した御三家の秘術には、一介の魔術師としてウェイバーも感嘆するほどだった。
「そして『大』聖杯などと言うからには、当然『小』聖杯も存在する。御三家の一角アインツベルンが用意した器におおよそあらゆる願いを叶えられるほどの無限に等しい魔力を注ぎ込んだものが小聖杯。即ち、聖杯戦争の優勝賞品がこれだ」
キャスターは盤の中央、七つの駒が囲む形となる位置に黒檀の鉢を置く。
「しかし、事前に知らされる降霊という言葉には少々の語弊があってね。正確には聖杯戦争を進めていく上で“聖杯を作り出す”のがこの儀式の正体なんだ。ウェイバー、そもそも何故御三家は外来のマスターを受け入れると思う?」
「それは……」
唐突に話題が脱線したように思えるが、キャスターの質問には意味がある。意図がはっきりと感じられる。
そこでウェイバーの総身が、先ほどとは別の意味で震えた。
考えて見れば不自然なのである。魔術師の悲願である『根源』に到達することができ、ありとあらゆる願いを実現させるほどの無限の魔力を秘めた万能の釜。そんなものを用意できるとなれば、それは魔術師として立派な成果なのである。
魔術師は協会のように横の繋がりを持つ者が多くいるが、それでも己の研究成果を他者に進んで公開する者など一人としていない。
魔術師は一般の人間に神秘を秘匿する以上に、己の成果を秘匿する。それを踏まえてキャスターの発言と時計塔の資料を合わせて考えてみると、聖杯戦争の異常さが浮き彫りとなった。
何故外来のマスターなどにチャンスを与える? 『根源』を目指す魔術師として考えれば自身の到達を脅かされる可能性を増やすだけの、矛盾した無意味な行為だった。
だが、本当に無意味なはずがあるわけがない。そこには何かしら意味があるはずなのだ。生成される令呪が三つではなく七つである理由が。サーヴァントとして英霊七騎を召喚する理由が。外来のマスター四人を集めるという理由が。
そこでふとウェイバーは気付く。話を始めた時にキャスターが用意した卓上の小道具を。
ヒントだったのだ、それは。思い至るべきだったのだ、話題の伏線となる小道具の意図を。
――まさか……聖杯の魔力ってっ!?
見開いたウェイバーの眼の奥に驚愕と理解の色が浮かんだのを見届け、キャスターは続けた。
「この聖杯戦争というシステムは本当によく出来ている。手にすれば根源へと届くこともおそらく可能だ。いや、前提を間違えているな。根源へ至る一手段として考案され、完成したのがこのシステムなんだ。公開されているルールが完全にバトルロイヤルをメインに据えているから気付きにくいのだが――。
君も気付いた通り、マスターとサーヴァントの数には意味がある。御三家が外来のマスターを呼び込む必要がね」
キャスターはひょいひょいと駒を摘んでは、鉢の内側にそれらを置いていく。
その行為が意味する事実を、ウェイバーは狼狽に呼吸を荒くしつつも、間違うことなく正確に理解した。
「察しの通り、聖杯は七騎のサーヴァントの魂を注ぎ込むことで完成する。この世界に呼び込んだ英霊の魂七つ分が座に帰る際に空く孔。それによって根源へ至ることが彼ら御三家の狙いだ。そして英霊の魂を魔力として換算すれば甚大な規模の量となる。それこそ七騎分ともなれば、無限に等しい魔力が、ね。そのための生贄なんだよ、サーヴァントという存在は。そして生贄を喚び出すための撒き餌こそ、マスターの存在理由に他ならない」
英霊が七騎喚び出される理由がこれでよく解った。単純に必要だったのだ。七という数が。そして御三家はその言葉が示す通り三つの魔術師の家系だった。七と三ではどうしたって数が合わない。
仮に御三家各家が二人ずつマスターを得るとしても、どうしても席が一つ余ってしまう。その余りを求めて聖杯戦争の本戦を控えた状態で、血みどろの抗争が勃発してしまうだろう。
ならばシステムとルールの作成段階で、下手に数の利を求めるのは愚の骨頂だった。協議の結果、御三家にはマスターとしての枠一つずつを得ることで落着した。
それに所詮は自分たちの陣営以外のマスターは、悲願成就を阻む敵性存在でしかない。
ならば数合わせのマスターの枠へは、欲望に駆られて参加する外部の魔術師を宛がえばいい。
どうせ己以外のマスターとサーヴァントは全て狩り尽くすのだから。そして、最終的には――。
ウェイバーは血の気の引いた顔色を繕う余裕もなく、力なく背もたれに身を預けた。
これまでのキャスターと接した時間は短いながらも、心底で信頼を寄せるに足るパートナーであるとウェイバーは認識していた。
事前にイメージしていたキャスター=先達にして遥か高みにいる魔術師、というの先入観を裏切り、所帯じみた言動やなんとなくそれを楽しんでいるような雰囲気から、マスターを意のままに操って主導権を握るような“魔術師らしい”人物とは到底思えなかった。
だからこうして説明されたキャスターの話も、嘘偽りはないのだろう。その人柄も考慮の内だが、何より矛盾の無い整合性の取れた言葉の数々に、それが真実であるとウェイバーを納得させていた。
ウェイバーはクッションの利いたソファに身を沈めると、力なく弛緩したようにゆっくりとした動作で右手を持ち上げ、己が手の甲に刻まれた翼を拡げる意匠の紋様を注視する。
「……じゃあ、令呪は……」
「先ほど根源へ至るには七騎が必要と言ったな。君も気付いているのだろう? 令呪の真の役目を。
御三家のマスターは勝ち残った後、最終的にその令呪によって自分が喚び出したサーヴァントを自害させる。そのために英霊すら律することができる絶対命令権を作成したんだろうな」
ウェイバーはこの時初めて、目の前の少女に対して良心の呵責を抱いた。
当初、資料によって得た知識で認識していた聖杯戦争とは、魔術師の純粋な実力勝負だと思っていた。
魔術師は魔術の腕を競い合い、喚び出したサーヴァントを使い魔として掌握して戦うのが正しい姿だと夢想した。
資料によれば、喚び出される英霊も何かしら願い事があって召喚に応じるとある。であるならば、利と理をもって説いてやれば、容易にこき使うことが可能であろう。
最終手段として、マスターには令呪というものまで与えられるのだから、大した心配はしていなかった。
しかし、ウェイバーは召喚前に触媒を失い、目当ての英霊を喚び出すことができなくなった。ゆえに触媒なしでの召喚を余儀なくされる。
そして喚び出した英霊の存在感は、彼を圧倒した。確かに英霊とは、人を遥かに超える超越の存在である。
こんな精霊の域に達した者を使い魔として使役する? なんて馬鹿げた考えだったのだろうか。
真名から征服王イスカンダルのような知名度による地形効果も見込めないであろう、全くの無名の英霊でこれなのだ。
いや、自分が喚び出した英霊である以上、キャスターがイスカンダルに劣るハズレであるはずがないのだが。
しかるに彼ら英霊を使い魔として扱うのは、身の程知らずの世迷い言でしかない。誰が好き好んで己よりも格段に劣る弱者に道具のように使役されたがるものか。
それでも聖杯戦争の勝利とは、聖杯の獲得と同義である。つまりウェイバーとサーヴァントは見事に利害が一致していた。
それを理由に協力すれば勝ち残るのも夢ではないと、不安はあったが思うことにしたのだ。
さらに、もともとウェイバーには聖杯に願う望みはなかったため、賞品をそのまま譲渡すれば話は簡単にまとまるだろうという打算もあった。
そして現在、その考えがいかに浅慮だったかを思い知らされていた。
聖杯戦争の実態は、英霊を用いた蠱毒の壺だったのである。のこのことやってきた外来のマスターであるウェイバーは、そのための単なる使い捨ての道具に過ぎず、ウェイバーが喚び出したキャスターはどこまでいっても生贄に過ぎなかった。
この事実に後ろめたさを感じずにいられるほど、ウェイバーは人間ができていなかった。そこまで達観していれば、そもそも時計塔を飛び出すこともなかっただろう。
ウェイバーは生気の薄れた様子で令呪から視線を外し、キャスターの方を力なく見遣る。視界に収まった彼女は泰然として動じた様子もなく、毅然と現状を受け入れていた。
それがウェイバーの心を無性に苛立たせた。そのまま歯止めが利かず、口はウェイバーの心情に忠実に言葉を紡ぐ。
「キャスター、お前なんとも思わないのかよっ!? こんな、生贄として利用するような儀式に呼び出されたんだぞっ! 僕が、お前を巻き込んだも……同然なのにっ……」
ウェイバーの動機は偏に魔術師としての矜恃――悪く言えば名誉のためである。
正当か不当かは視点によって異なるが、少なくとも彼の目から見れば間違いなく不当に軽んじられる現状を打破するために立ち上がった結果が、この聖杯戦争への参加だった。
だというのに、公開された情報を疑うこともせず鵜呑みにした結果、全ては御三家の掌の上であり、英霊とはいえ赤の他人を己の身勝手な私闘に引きずり込んだのである。他でもない、ウェイバー自身の手によって。
恨み言の一つでも言う権利が、キャスターにはあるのだ。こんな真相を知らされれば、罵られでもしないとウェイバーは心の均衡を保つことができないほどだった。
だというのに、キャスターの表情に浮かぶのは、朗らかな微苦笑のみだった。
「ウェイバー、別に君が罪の意識に囚われる必要はない。私は真相を承知の上で召喚に応じたんだし、何よりこうして聖杯戦争にサーヴァントとして喚び出されることを目的に守護者となったのだから」
「……………………はぁああっ!!?」
そのあまりに突拍子もない告白にウェイバーは驚倒した。あまりの衝撃に数秒の間は完全に思考停止に陥ったほどの驚愕である。
仰天の叫びと同時に、ここではたと気付く。キャスターはサーヴァントにしては不自然なほど真相を知りすぎているという事実に。
何故聖杯戦争について、ここまで詳しいのか? イレギュラーにすこぶる打たれ弱いウェイバーは、あまりにも驚天動地な事実を明かされたせいで、疑問に思う余裕がなかったのだった。
聖杯戦争に召喚される英霊には聖杯から現代で活動するのに支障のない知識が流れ込む。
そうした現世の知識が流入する前、現界を遂げるよりもさらに前、英霊の座から喚び出しに応じて招かれる前段階で、英霊には聖杯戦争の概要と願望機の存在を報されるのだ。
だからこそ、英霊は生前の未練などを始めとした己の望みを叶えるためにサーヴァントとなるのである。
勿論、ウェイバーはキャスターの説明によって、その時点で与えられる聖杯戦争のルールが詐欺同然のお為ごかしであることを知ってしまった。
口当たりの良い情報のみしか与えられずに得難い好機と喚び出される英霊たちにとっては、本当にいい面の皮であろう。
しかしここに例外が存在する。聖杯に呼びかけられる前からウェイバーたち外来のマスターの知り得ない聖杯戦争の真相に知悉し、さらに聖杯戦争に召喚されるために英霊にまでなった規格外のサーヴァントが。
「改めて自己紹介をしよう。第五次聖杯戦争にセイバーのマスターとして参加したエミヤ・シロという」
「セイバーのマスターだった!? いや第五次……第五次だってぇっ!?」
「ああ。要するに、私は未来の英霊ということなんだ」
本日何度目かになるウェイバーの愕然とした反応に、悪戯が成功したと言わんばかりに不貞不貞しい態度で、キャスターは満面に婉麗な笑みを浮かべた。
その笑みに釣られるように、疲れた顔を引き攣らせて笑うウェイバーは、目の前のサーヴァントがあらゆる意味で大当たりだったのだと確信した。
魔術師らしい先入観で完全に過去の故人、いや故人には違いないのだが、よもや未来人の類だったとは、その正体を正確に見抜くなどウェイバーだけでなく、他のどのマスターでさえ無理な仕事だった。
たとえ英霊の座が時間より切り離された座標であると知っていたとしても。
そもサーヴァントとして喚び出される対象は、必ずしも正規の英霊とは限らないのである。
この星に生まれ、集合無意識に記録された知名度のある存在ならば、純正の英雄やそれと対極を成す存在――俗に言う反英雄、さらに実在する歴史上の人物だけでなく、伝承にのみ伝えられ、人々の口端に昇った程度の架空の人物、娯楽媒体の中の虚構の登場人物ですら該当する。
聖杯がサーヴァントとして採用する許容範囲は、それだけ広範だった。
架空・虚構の人物に較べれば、目の前で意地の悪い笑みでウェイバーを眺めるのが未来、おそらく並行未来世界の人物だとしても何ら不思議はない。
だがこれは絶大なアドバンテージとなるのではないだろうか。
今回の第四次聖杯戦争の情報を持っているかは定かではないが、マスターとして参加した後に英霊――つまりは現代社会で英雄にまでなった人物なのである。
彼女が参加した第五次聖杯戦争で勝ち残ったにせよ初戦敗退したにせよ、生き残ったことには違いない。マスターの先輩として彼女の知識と経験は大いに役に立つはずだ。
実践の場において経験が何よりも大事だということを、その経験に人より乏しいウェイバーでも理解していた。
もっとも、それが熟知の域には達していないために、ほとんど前準備なしの勢い任せの渡日だったのであるが。
――いや、安心するのはまだ早いか。それよりも先に訊かなきゃいけないことがあるだろ。
「なぁキャスター、お前が納得ずくで僕の召喚に応えてくれたのは判った。なら、お前が聖杯に願う望みってなんだんだよ? こうして正体を教えてくれたんだ。ちゃんと答えてくれるんだろ?」
ウェイバー・ベルベットは、キャスターが胸に秘する願いを語ってくれるのだと信じて疑わなかった。
先ほどからの遣り取りでウェイバーをからかうのを面白がる傾向に少々あるようだが、 それでもウェイバーに願いを訊いた以上、この質問を誤魔化したり、ましてや茶を濁して黙秘するような不義理な性格ではないと感じていたからだ。
そしてウェイバーの期待と信用を裏切らず、キャスターはその問いに答えてくれた。
「私の望みは――――そう、逢いたい人たちともう一度会いたい。ただそれだけだな」
紅いその眼差しには迷い無く、地震や嵐でも折れぬであろう鉄の意志が窺えた。
しかし、瞳の光と違って泣き笑いのようにも見えるその表情は、彼女の年齢を外見よりも数段幼く見せて、儚い印象をウェイバーに抱かせ、それ以上のことを彼に訊ねさせなかった。
その表情に、鍛冶師が丹精込めて槌で叩いた様な鋼を思わせる強さと同時に、触れれば壊れるほどの硝子細工のごとき繊細さを感じ取ったがために。
それは彼女と繋がるレイラインの影響なのか、それともキャスターがこの未熟なマスターに初めて見せたであろう隙から洩れた彼女の素顔だったのか、今のウェイバーには判じかねるものだった。
キャスターの会いたい人物。それは十中八九故人だろう。
根源に到達するつもりがないのなら、少なくとも魔法によって死者の蘇生を行うのではないのだろう。
となると並行世界の同位体たる人物と再会したい? しかしこれはキャスターに抱くウェイバーの印象とはそぐわない動機だった。
全くの同一人物であっても、それは彼女の会いたい誰かとは完全な別人なのだから。
そうした詮のない思考に占められる中、キャスターの言葉は続く。
「あと、これは確認していない以上あくまで可能性なのだが、私の知識通りにこの世界も歴史を歩んでいるのなら、この戦いの終幕に顕れる聖杯は手にした者の望みを破壊という形でしか叶えない歪んだ願望機と成り果てているかもしれない」
可能性。あくまで可能性であるとキャスターは告げる。無色透明の力の塊、あらゆる望みを叶える聖杯が、そんな災厄の種に変貌しているなど、聖杯戦争の意味すら歪める大惨事だろう。御三家は元より外来のマスターやサーヴァントたちが納得するような話ではない。
しかし、並行未来世界でその事実を体験したキャスターの発言には重みがあった。
ウェイバーは聖杯を必要としないマスターとしては変わり種である。ゆえに、このキャスターの言葉にはさほどの衝撃は受けなかった。しかし、得も言われぬ悪寒を感じ、絞り出すような声で彼女に訊ねた。
「……そうなった原因も、お前は知ってるんだよな」
「あぁ、知っている。詳しく話――」
「いや、その前に訊きたい。そんな聖杯でお前の望みは叶うのか?」
「――っ」
キャスターの言葉を遮り、ウェイバーは問うた。
これは大事なことだった。並行世界の同一人物に会う程度ならば現界し続ければ可能であろうが、故人と再会したいと思われるキャスターは言ったのだ。聖杯を使用するのだと。
目の前のサーヴァントが、己の望みのためにそんな災厄の種を使うとは到底思えなかったが、それでも己の望みのために他の全てに破壊を撒き散らすような代物を使うというならば、それを律するのが彼女のマスターたるウェイバーの役目だった。
喚び出した張本人である者の責任とはいえ、返答次第では故人となってまで悲願するサーヴァントの望みを諦めさせることになるかもしれない。
それは圧倒的格上である英霊に対して、自殺行為に他ならなかった。
なにせウェイバーは魔術師といえども戦闘に関しては全くの門外漢であり、当人も頭脳派と自称する通り、実質ただの無力な一青年に過ぎないのだから、彼女の協力なしにこの聖杯戦争に生き残ることは困難――いや、彼女の不興を買うだけで、己の命が潰える未来しか待っていないのは確実だろう。
それでもウェイバーは、己の責任を放棄するという選択肢を断じて取らない。いや、ウェイバー自身も内心驚いたことに、取ることができなかったのだ。
おそらく、いや確実に後から己の言動を壮絶なまでに後悔することになるのだろうが、自分のサーヴァントが災厄を撒き散らすという可能性は、どうにも感情が我慢できなかった。
ウェイバーは場合によっては即座に令呪を発動できるよう、右手に刻まれた三画の刻印に意識して力を込める。
そうした悲愴感伴う主の覚悟を見て取ったのか、キャスターは揚々とした璃声を上げて大きく笑った。
「ふっははは、あははははははははっ!!」
呵々大笑と声を上げるキャスターの姿にウェイバーは不快感を感じなかった。
長らく周囲から侮蔑され、軽視され続けたウェイバーはそうした感情に敏感だった。
しかし目の前の少女の笑いに含まれるのは、今まで彼を嗤ってきた輩とは根本的に別種の感慨が感じられた。
そう、まるでウェイバーを拍手喝采で讃えるように彼女は笑い続けるのだ。
キャスターの歓呼の声は彼女の胸を沸かす熱が納まるまで続き、ひとしきりの笑いを終えると不意に凛然とした空気を纏い、改まってウェイバーに向き直る。
その空気に当てられ、彼は緊張と当惑の峠を越えていた五体を硬直させてしまった。
「我が主ウェイバー・ベルベット。私は君という人間に喚び出されて本当によかったと判断する。そうした矜恃は私が最も好ましく思う在り方だ。まだ多少未熟ではあるが、その精神に敬服するよ」
掛け値無しの称賛とともに誉めそやされて、そうした経験を久しく味わっていなかったウェイバーにその言葉は、容易く彼の心の琴線に触れて音色を奏でるに至った。
気付けば、ウェイバーの頬を二筋の雫が零れ落ちていた。女性の面前で情けない有り様であったが、不思議とウェイバーは彼女の前で取り繕う気が起きず、暖かい微苦笑を浮かべてハンカチで頬を伝う液体を拭い続けるキャスターの行為を甘んじて受け入れていた。
「落ち着いたかね」
「あぁ……ありがと」
これも驚愕と同じく何度目になる遣り取りなのか、ウェイバーはキャスターにかけられた言葉へ素直に相槌を打つ。
その事実が示すのは、それだけウェイバーに落ち着きがないということであり、このサーヴァントを前にして幾度も取り乱した結果の反復だった。
なるほど、自分はマスターとして、人間として未熟そのものであると認めざるを得ない。
ウェイバーはやや鬱々とした溜息を吐くと、新たにカップに注がれたコーヒーのお代わりを飲み干した。
「結論から言えば、歪んだ状態の聖杯でもどうにかする方法を生前既に確立しているんだ。だから君の心配は杞憂というものだよ。そして最初に言った通り、そんな害悪にしかならない欠陥品、いや危険物はさっさと破壊するに限る、というわけだ」
「はぁ、よく判ったよ。でもキャスターっ、お前の説明はいちいち勿体ぶってるんだから僕が誤解しても――」
「なに、マスターならちゃんと精確に理解してくれると信じたまでさ。私の説明が下手というのもあるだろうが、それは主の器量に委ねた結果というもの。まあ何事も精進を怠らないことだな。人間としてもマスターとしても」
そう返されては文句の付けようもなく、ぐうの音も出ないウェイバーだった。
そこはかとない敗北感に押し潰されまいと、なけなしの反骨心で胃の中にコーヒーを流し込む。今の彼にはその程度のことしかできなかった。サーヴァントの助言通り、やはり精進は必要であろう体である。
主のそうした様子に構うことなく、キャスターは淡々とこの世界でもあったであろう過去の事象を語った。
「さて、聖杯が歪んだ原因だがね、発端は今回から見て前回、つまり第三次聖杯戦争にある。
御三家の中でも純血を旨とするアインツベルンは錬金術を得手としてはいたが、こと戦闘に関しては正直埒外としか言えない家系だった。そして第一次、第二次の聖杯戦争では早々に敗北を喫したそうだ。
そこで業を煮やしたアインツベルンは必勝を期してある英霊を召喚した。その英霊の名は〈この世全ての悪(アンリマユ)〉」
〈この世全ての悪(アンリマユ)〉とはゾロアスターにおける絶対悪の名前である。
最高善とする神アフラ・マズダーに対抗し、まさしくこの世の全ての悪を司る存在と定義されている。
人の身で神の領域に踏み込んだ偉業を成し遂げ、死後その存在を一段上の次元に昇華された英霊を喚び出すのとはわけが違う。文字通り格の違う神の領域に坐す存在こそが〈この世全ての悪〉なのだ。
「ちょ、ちょっと待てよっ!……幾ら聖杯でもそんなもの喚べるはずが……」
「無論、神霊級の存在など聖杯を用いても召喚なんて出来なかった。アインツベルンが喚び出したのは、ある集落の者たちに“悪であれ”と呪われた何の力もない一人の人間だった。
おそらく歴代サーヴァントの中でも最弱の英霊だったのだろうな。アインツベルンの期待も虚しく、わずか四日でそのサーヴァントは脱落した。おまけにとばっちりで依代となるはずだった聖杯の器も破損。これによって第三次聖杯戦争は無効試合と相成った。
だが、この時さらに予想外の事態が起こった。それが聖杯の汚染だ」
キャスターは部屋の備品であるポットを持ってくると、空のカップになみなみと熱湯を注いだ。そして告げる。これが聖杯だと。
なるほど、無色透明の液体が注がれている。文字通り無色の力を満たした聖杯の模型だった。
そこにポットの隣に置いてあったインスタントコーヒーの袋を破り、中の粉末をカップに注いだ。そして告げる。これが今の聖杯なのだと。
確かに、これを無色とは口が裂けても言えないだろう。湯に溶けた粉末はカップの中身を隅々までダークブラウンに染め上げていた。
安っぽいながらもコーヒーの薫りのする器を互いに見下ろす。一度混じり合った溶液を完全に分離させることは容易ではない。少なくともこの場では不可能な難業だった。
コーヒーが冷めたからといって、カップの中身が無色に戻ることはない。譬喩としてインスタントコーヒーを持ち出した以上、これは即ち、一度汚染された聖杯は今も無色の状態に戻っていないという情況の示唆だろう。
「英霊としての力は末端の守護者にも劣る〈この世全ての悪(アンリマユ)〉だが、こいつはある厄介な呪いを持っていた。ただ“悪であれ”と生前かけられた呪詛がそれだ。
これによって無色の聖杯は無色であるために悪一色に染まりきってしまった。そして破壊という歪んだ形でしか望みを叶えられない代物へと成り下がった。
まぁ、根源に到達する程度の願いなら問題なく実行されるだろうから、御三家にとっては問題にならない問題なのだが――」
「それ以外の願いは災厄にしかならない……」
「ゆえに私の立てる大まかな方針を明かせば、まず、他のどの陣営にも聖杯を渡さない。そのために勝利を目指す。そして己の望みを果たす。しかる後に小聖杯と大聖杯を二度と使用できないように破壊する。と、この三つになる」
片手の人差し指、中指と、言葉の進みとともに伸ばし、目標となる行動指針として差し上げる。
その方針はウェイバーとしては文句の欠片もないものだった。
聖杯戦争での勝利は元々の彼の目的そのものであるし、たとえ根源を目指すと言われる御三家であろうとも、本当に根源だけを望むのかは大いに不安だった。
さらに自分たち以外の外来マスターたちの願いも、魔術師らしく根源を求めて世界の外へ向けられるものであるなどと盲信することもできない。
やはり安全を期すならば自分たちが勝ち残るしかないだろう。仮に聖杯が汚染されていなかったのだとしても、それは憂いが多少減った程度のもので、やはり勝利を目指すことには変わりない。
キャスターの望みを叶えるという方針も忽せにするつもりはなかった。
少なくとも聖杯戦争が終わるまでは運命共同体であり、無二の相棒なのだ。その意思と願いはマスターの責任をもって最大限に尊重しよう。
そして最後の破壊というのも頷ける目標だった。この世界ではたとえ汚染されてなかろうとも、キャスターの生きていた世界で汚染されていたのは事実なのだ。
話を聞く限りほとんどあり得ない原因なのだろうが、そんなあっさりと危険物に染まるような代物ならば、今後も悪性の英霊が喚び出されただけで汚染される可能性が高い。やはり放置する手はなかった。
そんな代物をもし捨て置こうものなら、ウェイバーの蚤の心臓をして終生まで後顧の憂いとなるのは、火を見るより明らかである。
ならば勝ち取ってから後腐れなく潰してしまう方がいい。それが精神衛生の上で最も確実な解決策である。
ウェイバーは姿勢を正すと、令呪の刻まれた右手をキャスターに差し出す。
その意図を察して、キャスターはウェイバーの掌に右手を沿え、互いに固く握り合った。
当然キャスターの全力の握力ならばウェイバーの手など呆気なく圧壊するので、充分に手加減はしていた。
「あー……改めてよろしく頼む、キャスター」
「承った。こちらこそよろしく頼むよ、マスター」
やはりウェイバーは自身が未熟だと思い知る。理由はただ握手をしたという行為によって内心を気恥ずかしさに占められ、自覚するほどに赤面するのを止められなかったからである。
対するキャスターは故人であるがための年の功か、やはり余裕をもって涼しげに微笑んでいた。
ウェイバーは自分と違って動じることのないキャスターの爽やかな笑顔に、理不尽な悔しさを感じてしまう。
いつの日か、自分はこのサーヴァントに相応しいマスターになれる日が来るのだろうか。力量も大事だが、そうではなく主に精神的な面で。今の主従の関係を客観的に見るに、少なくともこの聖杯戦争中になれるかは甚だ疑問だった。
しかし、不安に苛まれようとも立ち止まってはいられない。へっぴり腰でも前へと進まなければならない。ウェイバーは取り敢えず、キャスターの笑顔や接触に免疫を付けることを決意した。
その決意の一歩が彼の思うより幾分重いものだとこの先さんざん思い知ることになるのだが、少なくともこれが成長へ向けた最初の一歩だと、その時彼は信じたのだった。
うちのキャス子さんは面倒なのと義姉とセイバーのことが絡むのでウェイバーに元男だとは言ってません。
当初はお約束の「なんでさ……」と消沈してましたが、今は特に性別を気にしてませんので。まあ貞操の危機ぐらいは察知できますが。
むしろ戦術的に油断を誘う要素としか認識してないかもかも……。
さて今回はわりと穴だらけのプチ暴露回でした。全然話が進んでませんね; 申し訳ありません。
※感想板で指摘して頂いた部分を幾つか修正させて頂きます。特にヨシユキ様、ルビについてまことにありがとうございました。
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