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  Fate/Zero -Irregular shuffle- 作者:もぐ愛
二:誓詞





 未熟な少年、数日前まで素人同然だったその魔術使いの命は、もはや風前の灯火となっていた。

 腹部から下の半身と右腕を肩から失い、今や彼の身は五体を成すことがない。
 同年代に比較してやや低い身長に不釣り合いな大きさの褐色の左腕も、あり得ない方向に曲がりひしゃげ、元々の太さに見合った力強さはもはや微塵も感じさせず、ピクリとも動かなかった。
 それだけでも彼の死を決定付けるに充分過ぎる負傷であったが、朽ちかけた肉体には更なる死の因由が湧き起こっていた。

 その身に剣が生えていた。
 外側より衝き刺したなどという“真っ当な致命傷”では当然なく、剣は彼の内側から皮膚を突き破って無数に生えており、部位によっては鱗のようにひしめいていた。
 剣の鱗の群れは今もなお鋸で金属を削るような甲高い音を響かせて湧き続け、彼の残り少ない命を確実に削ってゆく。

 そこへ、音に届くかという速度をもって、二人の少女が駆けつける。
 一人は青いドレスに銀色に輝く鎧を身に纏う、金髪碧眼の少女騎士。
 もう一人は騎士に抱き上げられた形で同行する、銀髪紅眼の幼い少女。
 彼女ら二人は自分たちの知る彼の姿とあまりに懸け離れたその様に息を呑み、血の気を乱し慌て駆け寄った。

 彼の傍らまで近づき、少女騎士の直感をして彼の死が、既に覆せない事実であるという状態を突きつけられ、騎士は力なく膝を崩した。
 彼女の内に今あるのは、己の力不足に対する深い憎悪と悔恨、そして剣を捧げる主への思慕と恋情、それに比例する余りにも大きな喪失感。
 砕ける心身を叱咤して、騎士は震える唇を開いて、詫びと己の咎の告白を言葉にのせる。


『シロウ…………すみません……私はあなたを、守れ……なかった』


『――そうね。あなたはシロウを守れなかった。でも諦めるのは許さないわ』


 少女騎士の言葉に返されるのは、彼の残った左腕を縋り付くように抱き締める幼い少女の、揺るぎない意志を秘めた静かな宣言だった。
 少女は荘厳な装飾を施されたドレスが血の朱に染まるのも構わず、血よりも濃い瞳を煌めかせて視線が騎士を射貫く。


『ですがイリヤスフィール……すでに彼の命は……』


『いいえっ、間に合うわ! まだ間に合うんだからっ! 絶対に、シロウを助けるんだからっ!!………………――――ねえセイバー? あなた、シロウのために身も心も、その魂も捧げる覚悟があるかしら?』


 数多の戦場を駈け抜け、数多の敵を斬り伏せ続け、数多の敵味方に関わらずその様々な死の姿を見てきたセイバーと呼ばれた少女は、主の姿を眼にしてすでに諦観の境地に両の脚を踏み込んでいた。
 しかし、イリヤスフィールと呼ばれた少女は、確乎たる自信を滲ませる凛とした声で問いかけるのだ。その眼が語るのだ。助ける方法があるのだと。

 セイバーは逡巡も躊躇も、一切しなかった。
 たとえそれが一縷の望みだとて、主を救う手立てがあるのならば、試さないという選択しなど取るわけがない。
 それにセイバーはイリヤスフィールの言葉を、霊的第六感の閃きによって希望と信頼に足るものであると察知していた。


『愚問です。私はシロウの剣。そう誓いました。たとえこの度の戦で三度主が代わろうとも、それだけは変わりありません』


 望まぬ主代えによって、シロウと呼ばれる少年――衛宮士郎から裏切りの魔女へ、さらに騎乗兵の主たる黒聖杯の少女に、そして狂戦士の主であった白聖杯の少女と、およそ半月程度の戦争で複数の主に仕えることを強制されはしたが、最初に誓い、剣を捧げたのはあくまでも彼女の愛する士郎ただ一人である。
 その忠節と寵愛は不変。必要ならばセイバーは己が存在の全てを以て、主の少年を救おう。


『うん。なら、なんとかなるわ。いえ、してみせる』


『……ではイリヤスフィール、あなたに全てを託します。如何様にでも私を使って下さい。だから必ず――』


『えぇ。必ず助けてみせるわよ。なんたって私は、シロウのお姉ちゃんなんだから』


 イリヤスフィールという少女にとって士郎は当初、彼女から父を奪った憎き敵対者であった。
 しかし、出会ってみて、話してみて、同じ一時を過ごす内に憎悪はするすると彼女の身内から霧散していった。
 戦争に参加しているというのにその自覚のない大馬鹿者。敵であるはずの自分の心配をする底抜けのお人好し。義父の理想を受け継ぎ、そのために全身全霊を傾ける救えない愚者。

 しかしその在り方全てが愛おしかった。
 バーサーカー――彼女の守り手が敗北した時、颯爽、とまではいかなかったが、死に物狂いといった必死の体で駆けつけ、自身の命を省みずに護ってくれた男の子。彼女の弟にして、彼女を守護する騎士。
 思えばそれからずっと、この戦争では士郎に守ってもらってばかりだった。
 だから、盛大にお返ししないと恩知らずだなんだとキリツグとお母様に叱られてしまうのではないか。それとも、これからすることを馬鹿なことはやめろと止めるだろうか。

 しかし、聖杯となったイリヤスフィールの身体は、どのみちこの戦争が終わるまでを保証された先の窮めて短い命。
 ならば、決着のついた今この時、愛する弟――男性を救うためにその身を捧げるのも悪くない使い道だろう。
 それにこれより彼女たちが行うやり方ならば、それは死ではない。決して死ではないのだ。


『今のシロウは、あなたの鞘とアーチャーの腕で何とか保っている状態。私たちから鞘に供給される魔力も無限じゃないし、この剣群のせいでそれもどんどん消費していってる……終わりは近いわ。器である肉体がこれじゃあ、第二・第三要素まで欠損するのは本当に時間の問題――』


『――そこで、私とあなたの存在そのものを用いて、彼に新たな器を与えるのですね』


『アーチャーの腕の暴走もちゃんと抑えた上でね。こんな反則も、聖杯に溜まった魔力を令呪と“天のドレス”で使えば可能になる。でも出来るからって簡単なわけじゃないし、やっぱり奇跡って無茶は相応の等価交換から逃れられないの。
 だから、私たちはこれから融け合って結果的にシロウの一部になるんだけど――どうする? 個我の喪失が怖いのならやっぱり止めておくかしら?』


 イリヤスフィールは双眸を小悪魔的に吊り上げ、でセイバーに問いかける。
 その悪戯心の含まれた視線に対し、揺るがぬ決意を胸に据え、セイバーはその本心を吐露した。


『いえ、私はもう間違った望みを抱かない。だから彼を救うために私が私でなくなることに、未練も迷いもありません。それに騎士として、主と一つになれるというのならば、それはいっそ本望というものでしょうしね』


 内心、騎士と主の部分を女と男と置き換えていたが、イリヤスフィールはそれに対してからかうことをしなかった。
 むしろ共感し、恋敵ながら天晴れと嬉しく思っていた。


『そう。ふふふ。お互い残された時間は少ないわ。ならせめて、最期はシロウに新たな命をあげちゃいましょう』


 少女たちは頷き合った。これは死ではない。ただ、彼と同じ一つの存在となる。ただそれだけ。
 セイバーは彼女を止めるべきだったのかもしれない。士郎の器となるのは己一人でいい、それより聖杯の魔力を使ってイリヤスフィールの寿命を延ばせないのか――。
 しかし、血のように紅い瞳が語っていた。そこまで勝手はよくない、そんな都合の良い結果は得られない。
 不完全な英霊であるセイバーと、人間とホムンクルスの混血児。彼女らのどちらか一人が欠けては、この試みは成功しないのだと。
 ならば、セイバーに出来るのはイリヤスフィールとともに、士郎の未来を創る一助となるだけである。


『シロウ、強く生きて下さい。そして叶うなら、どうか幸せに――』


『その辺りは凛がどうにかするでしょ。……すっごく嫌だけど、任せられるのはあいつしかいないし』


『おやおや、未練ですか?』


『ふんだっ。もういいでしょ、始めるわっ!』


 不機嫌そうに頬を膨らませるイリヤスフィールに苦笑し、セイバーは最初で最後の褥以来、現在の仮初めの主に譲っていた、愛しい本来の主と唇を合わせる。
 それに負けじとイリヤスフィールは幼い身体でセイバーを力いっぱいに押し退け、士郎の唇を独占する。
 妹のように慕う小さな少女の微笑ましい行動に、セイバーはかつて己が仕えた彼女の母親のような、慈愛に満ち溢れた笑みを浮かべた。
 同じ男性を愛し、同じ男性に抱かれ、そして今これより、同じ男性のために身を捧げる。恋敵でありながらも本当に憎めない、愛すべき家族だった。


 ――アイリスフィール、あなたは私を許さないかもしれませんね。それでも構いません。ただ、あなたの娘はその身と引き替えに最愛の男性を救おうとしているのです。同じ女として、同じ道を進んだ先達として、イリヤスフィールの気持ちを解ってあげて下さい。


 イリヤスフィールは満足したのか、士郎から唇を離し、視線でセイバーに問いかける。
 その問いかけに首肯し、セイバーはイリヤスフィールの片手と自身の片手を合わせ、もう片方の掌は士郎の胸へ、剣の鱗の生え揃う部分へと這わせた。そこへイリヤスフィールの掌が重ねられる。
 イリヤスフィールの身に纏う“天のドレス”が淡い燐光に包まれ、礼装から覗く彼女の肌には令呪そのものとなる魔術回路が浮かび上がり、紅く輝く。
 融け合い、薄桃色となった光がイリヤスフィールだけでなくセイバーに広がり、衛宮士郎の残った半身をも包み込んだ。


『シロウ、いつかまた逢いましょう――』


『シロウ。私たちのこと、忘れないでね――』


 光は眩い純白の輝きに変わって燦然と閃いて、彼らのいる空間を光で満たし尽くす。
 そうして彼と彼女たち三人は、エミヤ・シロという一人の新たな少女となった。





 ◇◆◇◆◇◆◇





 ベッドの枕元に設置された暖色系の室内灯に照らされる一室で、主に寝床を譲ったキャスターは、現界した肉体の調子を精確に看ながら、瞼を閉じて生前の過去を振り返っていた。



 魔術使い衛宮士郎が錬鉄の騎士エミヤ・シロとなってからその生涯を終えるまで、彼女は己の義姉と騎士によってもたらされた命を決して粗末に扱うことなく、されど平穏に身をゆだねることもできずに、ひたすらに戦い続けた。
 その行為の原動力は、切嗣から受け継いだ正義の味方としての理想だけではない。
 最愛の女性二人からもらった命を無駄にしたくはないと思ったのだ。そして、彼女らに恥じない生き方をしたかったのである。
 愚直なまでのお人好しという在り方が、彼女たちの愛した衛宮士郎であると信じて――。

 戦地に足を踏み入れる前に、生涯の朋友“赤いあくま”から「自分を大切にできない者に他者を救えるはずがない」と忠告された。
 エミヤ・シロは衛宮士郎のように己の命を無価値として、命の勘定から度外視することはできなかった。
 それは彼のために彼女と一つとなった二人の想いに対する侮辱だった。
 だからこそ、その言葉を真摯に受け止め、歪な理想ではなく、ただ救いたいという想いを胸に、朋友とともに戦場を駆け巡った。
 騎士王から形見分けされた肉体の保有スキルのせいか、それとも二人の慈母のごとき愛情の賜物か、どこから集まったのか次第に同志が増え、彼女らを後援する理解者が幾人も出てきた。
 そしていつしか、戦場の聖女として表の世界にまで名が知られるようになってしまった。

 聖杯戦争でマスターだった頃に移植されたアーチャーの腕。そこから視た英霊エミヤの生涯とは大きく懸け離れた人生だろう。
 肉体、容姿も借り物ならば、その魅力もカリスマ性も借り物であるエミヤ・シロ。
 扱う魔術は模倣し、複製することに特化した贋作者。しかし同じエミヤでありながら、背負う命は常に三人分である。その重さを力に換えて、ひたすら前へと突き進んだ。
 そうした彼女の生涯において、セイバーとイリヤスフィールへの罪悪感が消えることは結局はなかった。

 だが、エミヤ・シロとして戦場をかけてから、終生彼女の裡に後悔はなかった。
 決して己を許せないという罪悪感がある。それと同じく決して癒えぬ喪失感もある。“あの場”で意識があったのならば、迷わず自害を選ぶほどに大切な少女たち。
 しかし、彼は彼女たちによって、新たな生命として生き残った。だから後悔だけは決して抱かない。抱いてはならない。
 彼女たち二人に救われた衛宮士郎にその資格はなく、それでもなお後悔するということは、彼に命を託した二人への冒涜でしかない。
 だから、エミヤ・シロは後悔だけはしない生き方を選んだのである。

 やがて、アーチャーとなった英霊エミヤ同様に、エミヤ・シロも死後を対価に世界と契約した。
 “抑止の守護者”として災害を殺戮をもって解決する掃除屋となることも承知の上だった。
 セイバーとイリヤスフィールがいれば間違いなく止めただろう。だが、その時エミヤ・シロは目の前の誰かをどうしても救いたかったし、そのために必要ならば、死後の対価は惜しくなかった。
 それに、彼女にはある思惑があった。その思惑が成功するかどうか、その先にある悲願が成就されるか否か、それは死後にしか判らない。
 望みが叶う可能性は窮めて低かった。それでも、一縷の希望に委ねるしかなかった。

 そうして、エミヤ・シロはその寿命が尽きるまで戦地で活動し続けた後、様々な者たちと笑顔を交わして看取られ、英霊の座へと昇った。
 さんざん覚悟していた“抑止の守護者”としての役割は予想外にその機会は訪れなかった。
 原因として考えられるのは、生前不覚にも容姿と名前がマスメディアによって世間に露出し、一般の幼子にまでその名が広まった影響で、それなりの認知度を得てしまったことであろうか。
 結果、守護者の中でも比較的星寄りの位置に据えられてしまったらしく、掃除屋の任を務める役目から除外されたようである。
 幸か不幸かは、エミヤ・シロには判じかねる情況であった。
 ただ、英霊エミヤの立場を思うと、素直に喜べなかったが。彼の分の仕事を幾らかでも肩代わりしたいという望みもあったのだ。

 それからどれだけ時が経っただろう。なにせ英霊の座は時間軸から切り離された特異点である。主観時間など当てにならない。
 それでもさほどの時を待たずに、彼女の望みが一つ叶った。

 聖杯戦争にサーヴァントとして召喚されるという望みが。

 もっとも、第五次聖杯戦争で“赤いあくま”辺りに召喚されるのが最も望ましい環境だったのであるが、こうして現世に喚び出されただけマシというものだろう。
 そう、仮に第五次においてキャスターとして現界していたメディアのマスターなどに引き当てられていたらと思うと――。


「――――っ!!」


 あまりにもな想像に、生理的嫌悪感で鳥肌が立ってしまった。
 生涯守り続けた操を、あの裏切りの魔女をして最低と言わしめる下劣卑賤の輩に奪われるなど、考えるだにおぞましい可能性である。
 しかしもしかしたら、己とは違うエミヤ・シロが第五次のキャスターとして召喚されたかという『if』を思い、暗澹たる気持ちとなった。
 絶対にあり得ないということは、絶対にないのである。彼女の今ある自我は有限だが、同時に座に存在する彼女は可能性世界とともに無限に等しいのだから。
 キャスターは陰鬱な内氣を吐き出すように溜息を吐くと、自身を喚び出した疲労のせいで深い眠りに陥るウェイバーの寝顔を観察した。


 ――まぁ、このマスターにそんな欲求は無さそうで助かったな。


 事実、年頃の少女の姿をしているとはいえ、サーヴァント相手に無理矢理に関係を迫ろうなどという性欲も根性も胆力もウェイバーは持ち合わせていなかったし、そんな動機に令呪を使うほど馬鹿でもなかった。
 思えば、第五次キャスターのマスターとワカメを連想する髪型の元親友が品性下劣だったというだけであろうか。
 愛し合い、合意の上とはいえ、セイバーと交わったキャスターは、我がことのように遍く並行世界の女性サーヴァントの貞操に憂い、淡い吐息を漏らした。
 窓から外を眺めると、空が白み始めている。じきに日の出だった。





 ◇◆◇◆◇◆◇





 冬木市一等の霊地の一つに構える遠坂邸の地下、蝋燭の灯りに照らされる仄暗いそこ魔術師の工房にいたのは二人の男性だった。
 一人は遠坂家の現当主であり、始まりの御三家の一角として、今回の聖杯戦争に参加する遠坂時臣。
 もう一人は、彼に師事し、現在は表向き決裂してはいたが、その実、裏ではしっかりと繋がりを維持して時臣の補佐をするべく暗躍する言峰綺礼の二人がいた。
 時臣は揺るぎない信頼を向ける綺礼の口から、彼の父である言峰璃正から伝えられた、ある報せを聞いていた。
 璃正は聖杯戦争の監督を務めるために聖堂教会より派遣された司祭であり、遠坂時臣に深く肩入れするという公平をむねとする監督役にあるまじき人物でもあった。
 しかし、彼には彼の信じる道があり、当人が聖杯戦争の勝者に与えられる願望機を託せるのは時臣をおいて他にいないと考える以上、表向きには公平を謳いつつも遠坂陣営に荷担するのは自然な流れであった。
 その彼の手元に預けられる魔導器――現界を果たしたサーヴァントの数とクラスを知らせる霊器盤は、ある変化を示していた。


「まったく、偶然というには些か出来過ぎだな。そうは思わないかね、綺礼」


「えぇ。まさか導師がアーチャーを召喚した昨夜の内に、残り全てのサーヴァントが一斉に喚び出されるとは……人の身ならぬ存在の稚気を感じずにはおれません」


 人ならぬ存在を討伐する経験を幾度も経てきた殺戮者は、神の実在を一切信じていないかのような虚ろな瞳で諧謔を語る。
 そこに信仰心が本当にあるのか疑いを持つ者は彼の身近にはおらず、言峰綺礼の本質を理解することもまたしない、できない。
 当人ですら己の本質に理解が及んでいない現状、周囲の眼に映る彼は不器用で物静かな、それでいて真摯な青年に過ぎなかった。

 そうした綺礼の本質を見誤りつつも愛弟子として彼に信を寄せる者、正当な精神と一流の実力を兼ね備える生粋の魔術師である時臣は、その諧謔を好意的に汲み取る余裕をもって、今後の方針を語った。


「それもまた聖杯の意志によるものかもしれないな。もっとも、今回の聖杯戦争で最古の英雄王であるアーチャー以上のサーヴァントは流石にいないだろうがね」


 優雅たれ、という家訓の実践を裏付けるのは絶大なまでの余裕であり、その余裕を保証するのは彼の喚び出た古代ウルクの王ギルガメッシュだった。
 こと英霊というカテゴリーにおいて、他を懸絶した最高位の英雄こそが時臣の召喚したサーヴァントである。
 さらに、時臣の魔術師としてのポテンシャルによって決定されたアーチャーのステータスも、聖杯戦争に参加した遠坂家の歴代マスターたちが記した記録に比して安定した高さを示していた。
 これほどの戦力を得ておいて、自信を持たないマスターはそうはおるまい。そして歴代マスターの中で時臣ほど勝利のための布石を撒いた者もまたいないだろう。
 油断も慢心もなく、ただ事実として勝利に手の届く距離まで詰めていたのは、紛れもない事実であった。
 しかし、足下を疎かにする己の悪癖を彼はまだ知らなかった。


「さて、すでにサーヴァントが出揃った以上、此度の聖杯戦争は始まったも同然。と、言いたいところだが、下賤の暗殺者(衛宮切嗣)はともかく、ロード・エルメロイが未だ冬木の地に足を踏み入れていない現状、残念なことに開戦はまだ先のようだ。
 綺礼、そちらは何か変わったことはないかね?」


 いかな魔術師とて、現代社会において海外渡航に際しては、表向きの手続きは取らねばならない。
 そして極東の島国への外国人の入国に関しては、時臣と盟友である璃正が聖堂教会を使って眼を光らせている。
 また、時臣の伝手で時計塔に潜入している者からも情報は入ってくる。
 そうした事前の情報収集の結果、時計塔の花形魔術師であるケイネス・エルメロイ・アーチボルトの来日は元より、ロンドンの地より出発したという報せもいまだ届いていなかった。

 対して衛宮切嗣も今や魔道の名家たるアインツベルンに連なる者となりながらも、そこに加わるまでの経歴が経歴だけに、正々堂々たる入国を期待するのは薄い望みであろう。
 裏の業界では魔術に関係のない方面でも悪名が轟くほどの人物なのだ。それこそ密入国ぐらい容易に行い、すでに市内に潜伏している可能性もある。
 国外と入国に関係する関連施設へは時臣と璃正の人脈で事足りる。その網に掛かってくれればよいのだが、やはり大した期待はできなかった。

 だが、網に掛かるにしろ掛からないにしろ、問題はない。
 なにせ戦争の舞台である冬木市内においては、


「全てのアサシンを放っておりますが、今のところは何も」


 彼が監視の網を一手に担っていた。正確には、彼のサーヴァントが、である。
 時臣の指示によって綺礼が早期に召喚したサーヴァントは、気配遮断スキルという、こと潜入・諜報において脅威的な真価を発揮するアサシンのクラスであった。
 そして彼が召喚したアサシンこそ、紛れもなく間諜として望みうる最高の能力をもっていた。
 それこそがアサシンの宝具“妄想幻像ザバーニーヤ”である。最大八十人にまで自己の存在を物理的に分裂させるこの特殊能力は、戦闘力という面では他六騎のサーヴァントに大きく劣る。しかし、それを補ってあまりある物量を具えていた。


「ふむ。ならば今しばらくの間は待ちに徹するとしよう。そしてロード・エルメロイの来日後、一日の時をおいて聖杯戦争の幕開けとする」


「心得ました」





 ◇◆◇◆◇◆◇





 意識は唐突に覚醒した。普段は低血圧で寝覚めが非常に進まないウェイバーは、この日に限っては未だ冷めやらぬ興奮が身体に残っているのか、慣れないベッドの柔らかさと清潔なシーツを恋しいと思いつつも上体を起こした。
 自分がいつの間にか眠ってしまったというのはどうでもよかった。冷静に、冷徹に、時には冷酷な魔術師として、ウェイバーは現状を正しく認識するべく努めた。
 ここ二日、いやすでに三日になる内に癖となった、右手の甲を確認する作業。
 翼を拡げる紋章のような意匠の令呪を穴が空くほどじぃっと眺め、次の瞬間にへらとだらしのない笑みを浮かべる。


「おはよう、ウェイバー。よく眠れたか?」


「うわあぁっ!!?」


 軽い悦に浸っていると、突然横から声が届く。起き抜けの彼にとってはあまりに効果的な不意打ちだったらしく、ウェイバーは不覚にも度肝を抜かれて飛び上がり、大声で悲鳴を上げてしまった。
 その驚きの様子を気にもせず、キャスターは白磁の水差しから揃いのカップへ白湯を注ぎ、音もなくソーサーを主の手元へ差し出してくる。


「まずはこれを飲みたまえ。私は朝食の用意をする。風呂を沸かし直しているので、その間に入って寝汗を流してくるといい」


 ウェイバーは醜態に関して無かったこととしてくれたサーヴァントに感謝をしていいのか、自身を驚かせた張本人に怒るべきなのかを百面相のごとく表情を変えて悩みながら、結局は素直に従うことを選択した。
 内臓に優しい適温の白湯を一気に飲み干すと、言われた通りに朝風呂に浸かる。
 湯上がりの彼を待っていた朝食は、昨夜の鶏肉の余りを用いたチキンサンドとコーンスープ、目玉焼きにサラダ、そしてコーヒーが用意されていた。
 食欲を刺激する香ばしい薫りを差し引けば、寄生していたマッケンジー宅で食べていた朝食で目にするメニューと概ね同じ。

 舌が肥えるどころか、口が傲るほどに美味な食事を堪能しながら、ウェイバーはもはやマッケンジー夫妻と一緒に過ごす食事のない事実に、一抹の淋しさを感じないではなかった。
 ことある事に口やかましく構ってくる夫妻に魔術師としての彼は辟易していたが、年頃の少年として考えて見ると、孫への愛情が溢れる二人の好意は新鮮で、暗示によって騙していたとはいえ、マッケンジー宅で過ごした時間は嬉しさを感じるものであった。

 だからこそ、マッケンジー宅から離れる必要が生じた現状は、好い機会であったのかもしれない。
 考えてみれば、全く関係のない老夫婦の家を潜伏するというのは、これから非情な戦争に参加する者として、あまりにも杜撰で無責任に過ぎる行為だろう。
 もし拠点として襲撃を受ければ、魔術師とは全く関係のないマッケンジー夫妻に累が及ぶ可能性は極めて大きかった。
 たとえ実質的に魔術の世界と係わりがないといっても、自分があそこで寝起きをしていた以上、何らかの疑いを持つのは自然な考えである。
 幾ら真実が全くの無関係とはいえ、拠点を狙うような輩の前に夫妻の身の安全が保証されるだろうか? 答えは、残念ながら否であろう。
 その無関係であるという事実を証明する手間を、わざわざ殺し合いに参加する魔術師が行うであろうか。
 殺した方が手っ取り早く、何より後腐れもない。それが非情な現実だった。
 無益な殺生を極力控える理性的なマスターならば話は別だろうが、敵陣営の人格や理性、温情を期待するなど全くもって馬鹿げた考えでしかない。


 ――後で荷物を回収するついでに、あの二人から僕のことをきっちり忘れさせないと……。


 さっさと引き払ったとなれば、触媒を盗んだ輩もわざわざ二人に手を出すまい。
 そう願いつつも、あの優しい老夫婦を軽率にも巻き込んだことに対する拭えきれない罪悪感に顔を顰める。
 ウェイバーは胸中に篭もる湿った空気を振り切るように、サンドイッチに手を伸ばした。





 そうした表情と所作に表れる主の感情をつぶさに見届るキャスターは、その対象が不明ながらも概ねウェイバーの思考を正確に見抜いていた。

 そして思う。甘いと。
 これから七騎のサーヴァントが覇を競い殺し合う戦争に赴くにあたり、目の前の少年の精神は甘いとしか言いようがない。
 魔術師である以上、冷徹になることは及第点レベルでこなせるだろうが、冷酷さを求められる場面でその感情――機械のように理性と利己の思考の下に行動する事態では期待を抱けないだろう。
 その冷徹に関しても、一度情を寄せた誰かを切り捨てることは、裏切られるか完全に敵対でもしない限りおそらくできまい。

 また難儀なマスターに招かれたものだ。と、率直な意見として思ったのがこれだった。

 得手とする解析の魔術を用いずとも、キャスターのサーヴァントとして現界した彼女には、他のサーヴァントより詳細に自身のパラメーターを鑑みることができる。
 おそらく生前に彼女の隣で戦場を駆けた“赤いあくま”がマスターならば、パラメーターの基礎能力値が1ランクずつアップし、魔力もA+とまではいかなくとも、Aの平均値から最高値となっていたのではないか。
 魔術師として見たウェイバー・ベルベットの能力は、生前の彼女が彼であった頃、未熟なマスターであった時分の実力に毛の生えたようなものである。
 それでも比較すればウェイバーの方が総合的に勝るのであろうが、あまり鍛えられていない体つきを見れば一目瞭然。魔道の世界で生きてきた学徒である彼に戦闘能力は無いに等しいと断じる他ない。

 聖杯戦争は各陣営の総力戦である。そしてサーヴァントはその最強戦力。
 しかし、サーヴァントは己と契約し、現世の依代となるマスターが生きていてこそ、世界に現界し続けられるのである。
 ならばマスターの殺害こそが、最も効率的な勝利手段となるのは必然の流れであり、自明の理。マスターへサーヴァントを差し向けるのが一番である。
 そしてどのマスターもサーヴァントより自身が最優先で狙われるのは百も承知しているため、サーヴァントに対してはサーヴァントをもってこれを迎撃するだろう。
 結果として戦闘はサーヴァント対サーヴァント、マスター対マスターという様相を呈することとなる。

 それを踏まえて、戦力として見たウェイバーの力は魔術師としての実力同様、毫ほどもないという事実。この情況から、後の戦局は攻守ともに厳しいと言わざるを得ない。
 そもそも、サーヴァントは一騎のみであり、マスターは一人であっても、主従に組する戦力は幾らでも準備ができるのである。
 さらに聖杯戦争は勝ち抜き戦。各陣営は最終的に自陣営以外の全てを駆逐する必要がある。
 しかし、潰し合いの過程で他陣営と共闘することもあり得るし、最悪一組を他六組で粉砕する状況もあり得ない事態ではない。

 仮に厳格且つ公正なルールを設けて一対一乃至二対二の状況を作り出せても、マスターの実力はおそらくこの戦争でも最弱レベル。逆に完全な公正さは仇にしかならない。
 そしてルール無用の戦争においては、弱いというだけで真っ先に潰され、淘汰されるのが戦場の掟であり常であった。
 おそらく、最初に淘汰するべく狙われるのはウェイバーとキャスターだろう。それこそ、自分たち以外の陣営全てを同時に相手取るという最悪の事態も想定する必要があった。

 以上が、彼――ウェイバー・ベルベットをマスターとする上で否定できない厳然たるデメリットである。
 それを踏まえて出したキャスターの結論は――だからどうした。というものだった。

 なるほど、能力として評価すれば、ウェイバーは悲惨なまでに未熟である。
 仮にキャスターの知らない切り札を用意しているという可能性もないではないが、それにしては彼女を召喚してからの浮つき具合が半端どころのものではなく、いっそ情緒不安定といっても過言ではない態度を取っていた。
 さらに拠点のない現状から、この戦いに向けての準備についても、さほど期待はできそうにないだろうと推量していた。
 無論、召喚されたばかりであるし、昨夜のウェイバーの精神状況が特別おかしかったという線もある。
 しかし、キャスターは長年かけて培った観察眼から、ウェイバーの人柄を概ねすでに掴んでいた。

 魔術師でありながら感情に左右されすぎて、すぐに内面の思考を言動に表す。
 それはある意味で素直――偽ることを不得手とした、魔術師としてあるまじき馬鹿正直さであるということで、見た目通りの未熟さと経験不足を隠す器量も狡猾さもない。
 さらにプライドは高いがそれに実が伴っていないという自覚にも乏しく、命懸けの戦争に参加するというのに、その態度から殺し殺される戦場で命の遣り取りをする覚悟も、やや薄いと言わざるを得ない。
 口に出してあげつらえば、ウェイバーの針金のように細い精神がゲシュタルト崩壊するほどの酷評をするが、欠点など人間探せば幾らでも出てくるものである。それはキャスターとて例外ではない。

 そしてキャスターことエミヤ・シロは相手の欠点より美点を、短所より長所に重きをおく。
 彼女は生前の生涯で積み重ねた経験から、生粋の魔術師という人種を嫌悪していた。
 惻隠の情に乏しいあまりに利己的な彼ら特有の思考は、いかに“赤いあくま”やその“終生のライバル”が変わり種であったか、貴重にして尊敬に足るものであることかを、嫌と言うほど思い知らせてくれた。
 そうした意味で、ウェイバーは彼女が知る魔術師の中でも負ではなく正の評価を得る精神の持ち主であろう。

 確かに未熟である。自意識過剰でもある。マスターとしても足枷以外の何物でもない。
 しかし、重要性の低いと思われるであろう誰かの安否を気遣う、その人間性は好感が持てた。
 無論、キャスターの庇護の下、人心地着いたという余裕が無ければ起こらなかった情動かもしれない。
 それでも、おそらくこの脆弱なマスターならば、その誰かが危機に直面した時、どのような場面においても駆けつけるのではないか。
 たとえ、決して間に合わないと理解していても、罠が張り巡らされていたとしても。
 そうした危うい無謀さも彼の中に見て取っており、延いては憎めない潔癖さとして彼女の眼には映る。

 良くも悪くも若いのである。ウェイバー・ベルベットという人間は。
 なにやら彼女のマスターとして、成熟した魔術師たらんと格好を付けたがっていたようだが、いまだ染まりきっていない精神性は隠し通せてない。
 キャスターはその漠たる心の在り方そのものに、ともに戦う上で信頼に足ると思わせる輝きを見出していた。
 長所となり得ぬ短所はなく、短所となり得ぬ長所もなし。
 結果としてウェイバーとキャスター双方にとって幸運なことに、ウェイバーの欠点こそキャスターに改めてサーヴァントとしての誓いを立てさせる要因となったのである。


 ――まったく、いつの間にか彼個人に肩入れしたくなってきたではないか。


 未熟大いに結構。むしろこれから幾らでも成長できるということである。
 元は非才凡人の窮みから多事多難の曲折を経て、結果的に英霊とまでなったキャスターも多少なりとも導くつもりだ。
 それに足りない戦力は他で補えばいい。余所から調達してもいいし、おあつらえ向けにキャスターのクラスで現界している以上、スキルを駆使しない手はない。
 そうとなれば、開戦まで忙しくなりそうだ。創る者としての腕が鳴るというもの。手間など惜しんでいられない。
 全ては、このマスターを生き残らせるために。
 どのような縁によって己を喚び出したのかは皆目見当も付かないが、目の前のマスターをこんな欲望に塗れた殺し合いで死なせたいなどと、キャスターである前にエミヤ・シロとして到底思えるはずがなかった。

 唐突にキャスターは、ふと脳裏を過ぎる既視感めいた閃きに思惟を向けた。
 彼女とともに聖杯戦争で戦ったセイバーも、当時の衛宮士郎にこんな気持ちを抱いたのではないか、と。
 なにせ“赤いあくま”にさんざん言われた通り、当時の己は誰が見てもへっぽこ魔術師であったのだから。
 そんな士郎に、あの潔癖で高邁な騎士はよく、本当によく尽くしてくれた。
 まさしく衛宮士郎には過ぎたサーヴァントであった。

 皮肉にもこの身はあの時のセイバー同様、未熟なマスターのサーヴァントとして弱体化した状態で現界している。
 これは試されているのだろうか? 何に試されているのかはおいておくとして。
 もっとも、セイバーの肉体と因子を受け継いだエミヤ・シロが取るべき方針は決まっている。


 ――セイバー。俺も君みたいに、一人の騎士として主に忠義を尽くしてみるよ。


 摩耗と劣化を免れた記憶の中の騎士王の面影を脳裏に浮かべ、キャスターエミヤ・シロは心の裡でウェイバー・ベルベットに彼のサーヴァントとして、改めて忠誠を誓った。


お待ちの方々申し訳ありません、ようやく二話を投稿させて頂きました。
一度完成したのですが「展開急すぎね?」と思って一旦削除しまして、それから書いては気に入らなくて書き直したりを繰り返していたらこれだけ牛歩に……一応原作一巻分までは台本形式で書き上げているというのにぃ。
それでもマシというだけで満足の域には至っていないというオチ。ゼロ二話のウェイバーで癒されなければっ!!


※感想の方でご指摘された誤字脱字と、自分としても「ちょと言葉足りないなぁ」と思ってた部分を修正させて頂きました。稚拙な文章と構成ですみませぬ……汗顔のいたりであります。


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