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虚無なる「匣の中の匣」

竹本健治ファンの評論連載の場として自由にお使いください
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奥泉光「モーダルな事象―桑潟幸一助教授のスタイリッシュな生活」 / はらぴょん
 東大阪のしがない短大の桑潟幸一助教授は、たまたま『日本近代文学者総覧』で、意に反して溝口俊平なる無名の童話作家の項を書いたがゆえに、溝口の新発見の遺稿と称するものの解説を依頼される。溝口の遺稿は、どうみてもくだらない作品であったが、泣ける童話として、発見にまつわるでっちあげられた美談とあいまって、ベストセラーとなる。しかし、この遺稿の出版に関わった編集者が、首なし死体として発見され……。
 本書の探偵役は、ジャズミュージシャンの北川アキと、元夫で編集者の諸橋倫敦。こうして、本書は、あたかもミステリの譜面に沿って進行するかに見えるのだが……タイトルにモーダル (modal) とあるように、コードよりもモード(旋法)に沿って進むモダン・ジャズのように、途中からミステリの論理学にそぐわないようなおぞましい悪夢のようなシーンが差し挟まれるようになる。アトランチィスのコイン、ロンギヌス物質、戦時下における非人道的な人体実験(?)、MD世界心霊教会なるカルト集団……近代合理主義をねじ伏せるようなオカルティックな論理は、幻覚なのか、現実なのか。
 この物語は多層構造になっているようにみえる。まず、表面の第一層に、ミステリがあり、絡まった事象を解きほぐそうとする謎解きがある。その下の第二層には、歴史的真実があり、戦時下の日本における人権蹂躙の問題があり、一見そういった日本にアンチを示しているかの如きカルト宗教が、その実、日本的な権力システムを極端化しているのではないかという問題意識がある。さらに、その下には桑潟幸一の行動と思想によって明らかになるコールタールのように、どろっとして、粘りつく、おぞましい現実がある。この最後の層を描きこむことは、本格ミステリのロジックにとって、リスクを伴うと思われる。合理的に解き明かすことのできないロンギヌス物質なるものを、ミステリに導入することは、物語を破綻させかねないからである。なぜ作者は、SF的とも超論理的ともとれる、このような文学的装置を導入することにしたのだろうか。それは、ここに作者の言いたいことが含まれているからである。
 本書が終わったところから、近代日本文学のなかの事件性が問われることになる。桑潟幸一のぶつかる問題は、終始、近代日本文学の問題である。そこには高澤樹江なるポストモダン思想家も出てくれば、鍋直美とか鮭秀実だとか現実世界に実在する批評家を髣髴とされるような人物名が登場してくる。となれば、この物語を、近代日本文学という事件を問うメタ文学として読み替えても、間違いではないのではないか。
 ロンギヌス物質は、粘菌をもとに着想されている。個としての知的生命体を終焉させ、細胞を融合し、複数の核を持つ奇怪な化け物をつくり、「トータルな死の国」を志向する固体に変えること。これは、政治的には共同体への全面的帰属、日本型ファシズムへの志向を意味する。(これに対して、探偵小説の探偵たちは、個の論理で、集団の論理に対抗する。諸橋倫敦のロンドンは、シャーロック・ホームズのロンドン、個人主義のロンドンを連想させる。また、北川アキのフリー・ジャズは、文字通りフリーを連想させる。いずれにせよ、共同体への全面的帰属にそぐわない特性を持っている。)そして、近代日本文学もまた、本居宣長を論じつつ櫻に死の美学を見出すとか、『葉隠』に自刃の悦楽を見出すとか、要するに「死の日本文学史」の一環としてあるのであり、そこには「トータルな死の国」を志向する精神性があるのではないか。そして、情緒的なお涙頂戴の、内容的には無内容のベストセラー文学の多くが、純文学の「トータルな死の国」への志向に無批判・無反省であり、むしろそれを補完し、問題を見えなくさせるイデオロギー効果(いわば、感覚を麻痺させる注射のようだ)を果たしてきたのではないか。では、このような「トータルな死の国」への志向から、日本文学を救出することは可能だろうか。
 このような問題系に対して作者が重視するのは、春狂亭猫介の立場、駄洒落を重視する立場である。現実世界に置き換えると、柳瀬尚紀のような文体だろうか。なるほど、これならば意味を脱臼させ、「トータルな死の国」を志向する真面目な人々に、ぎゃふんと言わせることができるかも知れない。とはいえ、「トータルな死の国」を目指す強力な権力意志と比べると、この戦略はなかなか険しいように思われる。一体、この絶望の淵から逃れるすべはあるのだろうか。
No.405 - 2009/06/22(Mon) 23:40:59
「桜の花が咲いても」 / はらぴょん
新曲「桜の花が咲いても」は、以下のページで聴けます。
作詞:はらぴょん
作曲・編曲・歌:Goronyan
http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=234134

歌詞
T
桜の花が咲いても 一緒にいようね
二人が過ごした基盤が 揺らいでも
これまで築いた絆は それだけではないはず

壊れたのは 眼に見える繋がりだけで
今まで見てきた夢は 消えちゃったりはしない

桜の花が咲いても 一緒にいようね
まだまだ話し足りない ことばかりで
孤独がジリジリと 近付くようで

春の嵐が来て やがて雨となり
桜の花びらが 舞い落ちる
それでもなお それでもなお 胸の鼓動は 高鳴り続ける


U
桜の花が咲いても 二人でいようね
カレンダーが変わり 周りの顔も変わっても
心の中にあるものは 君以外にいないから

桜の花が咲いたら 別れなきゃならないなんて
そんな歌みたいに 対話を終わらせるなんて

桜の花が咲いても 二人でいようね
夜通し語り合いたい ことがあって
気持ちがザワザワと ざわめき続ける

春の嵐が来て やがて雨となり
櫻の花びらが 舞い落ちる
それでもなお それでもなお 胸の鼓動は 高鳴り続ける

春の嵐が来て やがて雨となり
櫻の花びらが 舞い落ちる
それでもなお それでもなお 胸の鼓動は 高鳴り続ける


◆ちなみに、私が書いた一番元の詞は以下の通り。
つまり、桜の花が咲く前ということは、2008年3月末ということになる。

http://ameblo.jp/le-corps-sans-organes/entry-10088913807.html
No.404 - 2009/05/17(Sun) 23:13:07
スティグマの恋人 / はらぴょん
薄氷のなかを 走り抜ける
堕ちることはわかっているのに
あの太陽に手が届きそうで
心が抑えきれなくなる

立ち止まると氷が溶ける
前だけを見て
風景が流れる線になるまで
ひたすら走り抜けるのよ

闇夜を突き破り
つたが螺旋を描きながら
太陽を覆ってゆく
張り裂けるような胸騒ぎ
もう 自分で自分を止められない
あなたを恋して 焼きついた こころのスティグマ
もう 自分で自分がわからないの

氷の下には 闇がある
奥底でシンバルが鳴り響く
あなたに恋焦がれて
心が暴れ始める

足元を見ると眩暈がする
自分を信じて
闇夜に光が射し込むまで
ひたすら駆け抜けるのよ

人目を忍んで
震える手で合鍵を盗み出し
あなたのもとに向かう
荒れ狂う嵐の予感
もう 自分で自分を止められない
あなたを恋して 焼きついた こころのスティグマ
もう 自分で自分がわからないの
No.403 - 2009/04/29(Wed) 23:05:24
チベット人2人の死刑執行停止を! / はらぴょん
http://www.sftjapan.org/nihongo:stoptheexecutions からの転載(一部加筆)
チベット人2人の死刑執行停止を!
ラサ市中級法院は4月8日、2008年3月の騒乱に関して放火の罪で起訴されていたチベット人4人に死刑判決を宣告しました。Phuntsok と Kangtsuk は、2年間の猶予(2年後に執行予定)となりましたが、残るLobsang Gyaltsen と Loyak はともに死の淵に立たされています。
今回の厳刑は、中国の統治に対して抗議の意思を示したチベット人への厳罰と見せしめとする中国政府のキャンペーンが急速に厳しさを増していることを示しています。
どうか死刑執行から彼らを救ってください!
死刑執行の停止と、独立機関による再調査とを求めるアクションを、あなたからも起こしてください。

◆オンライン署名
賛同される方は、ご署名ください。
ちなみに、私も署名しました。
http://actionnetwork.org/campaign/stoptheexecutions/

上記サイトの翻訳
http://www.excite-webtl.jp/world/english/web/?wb_url=http%3A%2F%2Factionnetwork.org%2Fcampaign%2Fstoptheexecutions%2F&wb_lp=ENJA&wb_dis=2&wb_submit=+%96%7C+%96%F3+

署名方法
(1)以下を入力
Eーmail:メールアドレス
First Name:名前
Last Name:姓
Address Line 1:住所
Address Line 2:(入力不要)
City:都道府県、市町村
State/ Province:(入力不要)
ZIP/Postal Code:郵便番号
Country:Japan

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No.402 - 2009/04/11(Sat) 00:07:56
世界が終わる前に / はらぴょん
新曲です。

作詞者 はらぴょん

楽曲制作(作曲・編曲・歌) MILKHOUSE

曲名 世界が終わる前に(music.MILKHOUSE)

以下のサイトで聴いたり、フリーダウンロードできます。

http://players.music-eclub.com/?action=user_song_words&song_id=230878

以下は歌詞です。


「世界が終わる前に」

何かが軋み始めている

バランスが壊れ 崩れ始めている

風が吹き荒れ 灼熱と氷結が……

緑は滅び 赤が散り 黒が覆う

世界が終わる前に

ぼくはきみを救い出せるのか

真実が欲しい (真実はチベットに)

真実が欲しい (真実はイタリアに)

真実が欲しい (真実はカリフォルニアに)

こころそのものに向かうがいい

光より速く 関心の翼をきらめかせ

こころそのものに

何かが始まろうとしている

内側の光が 世界を包んでゆく

自分を見つめ 呼吸を深く吸って……

鉄が砕け 鉛から放たれ 扉が開く

世界が崩れる前に

こころそのものに辿り着けるか

真実が欲しい (真実はきみの内側に)

真実が欲しい (真実はきみの魂に)

真実が欲しい (真実は壊されない)

こころそのものから発するがいい

無限の愛で 世界を包み

こころあるものへ

世界が終わる前に

世界が崩れる前に

ぼくはきみを救い出せるのか

真実が欲しい (真実はきみの内側に)

真実が欲しい (真実はきみの魂に)

真実が欲しい (真実は壊されない)

こころそのものから発するがいい

無限の愛で 世界を包み

こころあるものへ

こころあるものへ
No.401 - 2009/04/08(Wed) 16:50:18
ゾンビ戦隊デンジャラスのテーマ / はらぴょん
「ゾンビ戦隊デンジャラスのテーマ(music.Goronyan)」を、以下のサイトで公開開始いたしました。

http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=230373

作詞者  はらぴょん
作曲者+歌   Goronyan

【設定】
この曲は、西暦300X年、特撮専門チャンネル「PEE-PAR-POO TV」で放映された『ゾンビ戦隊デンジャラス』の主題歌である。
この特撮TV番組は、『蛇と虹』などの研究書にみられるゾンビに関する人類学的な知見、バイブルの逆読みによる降霊魔術などの妖しげなオカルト的知見などをふんだんにちりばめたB級ドラマで、そのチープさは勿論、毎週、正義のヒーローをなぎ倒してゆく異様な設定で、一部の戦隊ファンの間でカルト的な人気を集めた。
しかしながら、折りしも「正義のための粛清週間」を始めた当局に摘発され、制作者は残らず逮捕、『ゾンビ戦隊デンジャラス』のオリジナル・データは焼き捨てられてしまった。一説によると、逮捕された制作者たちは、正義の名のもとに当局による洗脳手術を受けたとされるが、その真偽は明らかでない。
事態の深刻さを見てとったHarapioooooon博士は、当局の検閲をかいくぐり、「ゾンピ戦隊デンジャラスのテーマ」を、タイムマシーンを使って、先祖の頭脳に転送することにした。博士によると、人間は時間の配列を変えることはできないが、頭脳への情報の転送は可能であるという。博士の願いは、未来を変えること。
Harapioooooon博士は言う。「人間は自由なのじゃよ。うほっほっほっほ。」


【歌詞】

T
(デンジャラス・ブラック参上!)
俺はゾンビだ 不死身の体
正義の味方を倒すため 今日も戦う ゾンビ戦隊デンジャラス
悪の聖書(バイブル) 逆回転で再生だ

GO! GO! ゾンビだ いつでもゾンビは蘇る
GO! GO! ゾンビだ ゾンビ戦隊デンジャラス

U
(デンジャラス・レッド参上!)
私はゾンビよ 永遠の女神
正義の味方を誘惑し 堕落させるわ ゾンビ戦隊デンジャラス
悪の堕天使 私のことだわ

GO! GO! ゾンビだ いつでもゾンビは蘇る
GO! GO! ゾンビだ ゾンビ戦隊デンジャラス

V
(デンジャラス・イエロー参上!)
私はゾンビだ 不眠の戦士
正義の味方を攻略し 実績上げるぞ ゾンビ戦隊デンジャラス
悪のマニュアル 私が立案

GO! GO! ゾンビだ いつでもゾンビは蘇る
GO! GO! ゾンビだ ゾンビ戦隊デンジャラス

W
(デンジャラス・パープル参上!)
アタシはゾンビよ 不敵の微笑
正義の味方をイカレさせ 毒牙にかけるの ゾンビ戦隊デンジャラス
悪の美学 アタシだけが知っている

GO! GO! ゾンビだ いつでもゾンビは蘇る
GO! GO! ゾンビだ ゾンビ戦隊デンジャラス

X
(デンジャラス・マルチカラー参上!)
ワシはゾンビじゃ 欲張りじゃ
悪の帝国打ち建てて 栄華を極める ゾンビ戦隊デンジャラス
悪の愉しみ ワシの脳を刺激する

GO! GO! ゾンビだ いつでもゾンビは蘇る
GO! GO! ゾンビだ ゾンビ戦隊デンジャラス
No.400 - 2009/03/30(Mon) 23:43:00
MySoundにて / はらぴょん
以下の楽曲を公開中です。いずれもリメイク版で、クォリティーが上がっています。特に、のりぴー46さんが歌う「ひなたぼっこ」は、要チェックです。

◆ひなたぼっこ
作詞:はらぴょん、作曲:Goronyan、歌:のりぴー46
http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=229091

◆荒野のヒーロー
作詞:はらぴょん、作曲+歌:Goronyan
http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=228510

◆この恋は加速する
作詞:はらぴょん+Goronyan、作曲+歌:Goronyan
http://players.music-eclub.com/?action=user_song_detail&song_id=229181
No.399 - 2009/03/18(Wed) 01:06:28
構造主義的フェミニズムの問題機制 / はらぴょん
 昔、上野千鶴子の『資本制と家事労働』を読んだ。とても切れ味のよい論文なのだが、そこにはマルクス主義フェミニズムとラディカル・フェミニズムとエコロジカル・フェミニズムしか紹介されていなかった。上野の立場は、マルクス主義フェミニズムである。しかし、ここで考えてみたいのは、実存主義的フェミニズムと構造主義的フェミニズムについてである。
 カール・ヤスパースは、「人間であることは、人間になることである」と語る。人間であるということは、本質であるが、これは後天的に獲得されるものである。人間は、まず「ある」。「実存する」。その上で、生きている上で、壁にぶつかったり、悩んだり、煩悶したりして、壁を乗り越えたり、自分を磨いたり、より高い価値に目覚めたりして、成長する。人間であるとは、その上で獲得されるものである、というのが彼の考えなのである。
 これと似たような言葉で、シモーヌ・ド・ボーヴォワールに「女は女に生まれない。女になるのだ。」という言葉がある。ヤスパースは有神論的、ボーヴォワールは無神論的という違いはあるが、実存が本質に先立つという点では、思考に共通点がある。どちらも実存主義的なのだ。まず、ボーヴォワールにおいても、人間存在は、まず「ある」。状況に投げ込まれて「ある」。その上で、本質が獲得される。女性であることは、ボーヴォワールにとっては、本質である。しかしながら、彼女は精神分析的(とはいえ、実存主義的な、であって、フロイト的ではないが)、マルクス主義的(とはいえ、実存主義的な、であって、パルタイ=党を第一にして自身を細胞に喩えるような立場とは異にしているが)分析によって、女性であるという本質は、男性社会によってつくられたものであって、男性によって都合の良い価値観に基づくとされ、女性であるとは、主体主義的ではないと批判される。こうして、ボーヴォワールは、男性社会によって規定された女性像を選択するか、否かを、世界の女性に突きつける。実存主義的=主体主義的なモラルからすれば、疎外態であるところの女性であることは拒否されなければならない。こうして、ボーヴォワールは、実存主義的フェミニズムを提唱する。
 ここで対極的な立場を確認しておこう。澁澤龍彦の『少女コレクション序説』のような立場である。澁澤のコスモロジーは、審美的な立場から完成しているが、それは外界を遮断した宇宙であり、彼の描く女性像は、基本的に自分に都合のいい見解といえる。彼は、四谷シモンらの人形を愛するが、これは完全な客体だからである。澁澤は、人形あるいは蒐集対象としての女性(澁澤には、ジョン・ファウルズの『コレクター』に関する文章がある。)を理想とする。澁澤にとって、ボーヴォワールのような立場は、男性になりたがろうとする野暮な女性なのである。彼の女性論は、彼のエロティシズム論のなかに組み込まれており、背景にバタイユの哲学がある。バタイユにとって、エロティシズムとは死に至るまでの生の高揚であり、禁制に対する侵犯として成り立つ。このようなバタイユ哲学は、ウィルヘルム・ライヒのような性解放の思想とは対極的であって、キリスト教的な禁制を必要とする。キリスト教的な厳しい倫理があって、その瀆神としての侵犯が成り立つ。ドゥルーズが、バタイユをヨーロッパのローカルな思想であるとしたのは、そういった性格の思想だからである。一見過激に見えるが、きちんとした倫理観を必要としており、そこに組み込まれた上で、叛逆が成り立つのである。
 ところで、実存主義的フェミニズム以外に、構造主義的フェミニズムといえる立場がある。正確にいえば、ポスト構造主義的というべきなのかも知れないが。このような立場を代表する論者として、ジュリア・クリステヴァがおり、この分野での彼女の立場を理解するためには、さしあたり『中国の女たち』を読んでおけば良い。『中国の女たち』は、彼女の中国旅行記である。とはいえ、哲学的・精神分析学的な見解がみられる旅行記である。ここで登場する悪玉は、中国の儒教道徳であり、これに対抗する善玉が中国女である。そして、中国の儒教道徳や理不尽な因習を見つめながら、そこに自身の問題系(ラカンの精神分析を継承しつつ、そのファロサントリズムを転倒させようとする立場)を重ね合わせようとする。ここには、「テル・ケル」的な中国趣味、マオイズムに対する親和性があるのだが、注目したいのはクリステヴァにおいては、(ポーヴォワールに見られた女性的なものの拒否に対し)フェミナンなものの再評価が見られることだ。
 これについて、クリステヴァは、戦略的にまず実存主義的フェミニズムが目指したような男女平等を目指したほうが良く、女性の自由と権利が確保されたことを確認した上で、愛や享楽を内在する女性の特性(フェミナン)を再評価したほうが良いと考えるのである。 
No.398 - 2009/02/03(Tue) 00:56:50
『GOTH モリノヨル』 / はらぴょん
 例えば、ある種の神秘体験を得て、それを言語化して、他者に伝えようとするケースを考えてみよう。言語化に成功した途端に、その体験のヴィヴィッドさは喪われ、ピンで留められた蝶のような空々しさが生まれるだろう。
 そこには、全宇宙を包み込むような拡大された意識の感覚もなければ、マクロコスモスとミクロコスモスが(ミクロコスモスの内に、マクロコスモスに繋がる法則性を含んでいるがゆえに)一致しているという感覚もない。勿論、事実性の地平を越える超越的なもの、絶対的なものへの希求も見出せない。あるのは、平版な事実の羅列だけといった状態になるだろう。
 このような言語化に成功した世界認識は、学問という知識体系に組み込むにはうってつけである。しかしながら、そこには生き生きとした世界の認識は失われてしまっている。
 ここで再び、鮮烈な神秘体験を得るためには、知のシステムの外部に向かうしかない。しかし、外部に出るためには、徹底的な削ぎ落としが必要である。知的体系を構築しようとする誘惑を切断し、世間的な評価を得ようとする欲望を切断し、さらには自分のエゴを否定し、それ以上削ぎ落とし不可能な底辺に堕ちることが必要である。
 しかしながら、再びその体験が甦っても、言語化とともにその体験は死ぬのであるから、外部に向かう運動は、不断の、敗戦覚悟の闘争でなければならない。
 さて、本筋に移る。この『GOTH モリノヨル』の主人公は、ある種の至高体験を得るために、犯罪に寄らずして到達できないという不幸な性向を持つ人物として設定されている。
 キーワードは、ロザリア・ロンバルドの死体写真と(球体関節)人形である。主人公にとって、ロザリア・ロンバルドの死体写真の如き美少女を被写体として選び、写真に撮るという行為が、ある種の至高体験に到達するための必須儀礼となっている。そこには、(嘘をついたり、虚勢を張ったりする)人間らしさとか、自己主張するおしゃべりな主体は不要であって、人形のように完全なる被写体とすべく、余分な挟雑物は取り除いてやらねばならない、というわけである。
 細かなことだが、作中に『眼球譚』の文庫本が出てくる。主人公が狙ったターゲットの落し物である。バタイユのこの本は、角川文庫ならば、表題が『マダム・エドワルダ 他四編』で、表紙は旧版は金子國義、新版は池田満寿夫。光文社古典新訳文庫ならば『マダム・エドワルダ、目玉の話』である。しかしながら、表題が『眼球譚』なのだから、講談社文庫の『眼球譚、マダム・エドワルダ』の可能性が高い。この現在絶版の講談社文庫の表紙は、ハンス・ベルメール!球体関節人形の作家である!
 私が考えるには、主人公は、美少女の死体写真を見ると、A10神経からドーパミンが出るように、条件づけ(プログラミング)されているのではないかと思う(殺人にではなく、あくまで写真を見ることで、快楽を得ているというわけだ)。
 主人公の犯罪は、一見ディオニュソス的狂乱とは遠くかけ離れており、終始クールであるようにみえる……が、主体性を喪った完全な客体としての写真にとり憑かれている彼の内部には、死とのせめぎあいのなか、静かな息遣いが起きているのではないか。
 犯罪にまで至る病的な内的世界を暴いた心理小説の傑作である、と同時に、後半の展開は論理的な駆け引きがみられ、ミステリの要素も隠し味として入っているように思う。 
No.397 - 2009/01/25(Sun) 03:40:51
安部公房とアンチ・ミステリー / はらぴょん
 安部公房の『燃えつきた地図』が、もろに探偵小説の構造をしていることは自明の理なのだが(この小説では、追うものが追われるものとなり、探偵は捜査の過程で自分を見失う危機に陥る)、それと同時に探偵が探偵でなくなるというアンチ・ミステリの極北を示している。
http://jp.youtube.com/watch?v=8igH12o2yYA&feature=related
 ところで、『他人の顔』とはなにか。この映像から連想するのは、『犬神家の一族』(『キング』1950年1月号〜1951年5月号)である。『他人の顔』に『犬神家の一族』が影響を与えているのだろうか。資料がないので、わからない。確か『犬神家の一族』は、寺山修司に『犬神』を書かせているはずである。『犬神家の一族』のことはともかく、『他人の顔』が「入れ替わり」トリックをモチーフにしたスリラーであることが重要である。しかも、そういう特徴を持っているにもかかわらず、探偵小説の形態をとることなく、存在論について考えさせるような内容になっている点で注目に値する。
http://jp.youtube.com/watch?v=_SbrETYUsfs&feature=related
 では『箱男』とはなにか。問題となっているのは、電波少年ではなくて、安部公房の仕掛けた罠である。『箱男』という存在自体が、ある主の事件性、犯罪性、反社会性を帯びているのはなぜなのか。これは究極の「密室」、独り密室なのではなかろうか。独り密室のなかでとぐろを巻くのは、得体の知れない実存である。
 安部公房の小説世界は、しばしばカフカ的と評される。倉橋由美子の小説の一部にもそのようなことが行われているが、安部公房の小説の主人公はしばしば何かに変身する。しかも、本人にとって不本意なモノに変身をする。そのことで、世界が変わってみえる。世界のなかに、フィットしていると見えない世界の構造が、何か異物に変身することで暴かれる。ここで描かれているのは、世界の構造であり、主人公はそれを暴くための変数なのである。
 しかし、安部公房のモチーフには、カフカ以外に本格ミステリがあるのではないか。しかも、それを反ミステリ的に使っているのではないか、とふと思ったのである。このことは重要かも知れないので、思いついた時点で書いておくことにする。
No.396 - 2009/01/04(Sun) 00:47:27
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