40810

虚無なる「匣の中の匣」

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記録 / はらぴょん
Namkhai Norbu
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3588757
開設日 2008年08月14日
(運営期間137日)

チベット密教ニンマ派に伝わるゾクチェン(大円満)の教え。
本コミュニティでは、現代において最も独創的なゾクチェン思想の継承者ナムカイ・ノルブを取り上げ、単にゾクチェン思想の研究にとどまらず、実践的な具体的な瞑想法、夢ヨーガの方法などに迫ります。

【ナムカイ・ノルブ Namkhai Norbu】
1938年12月8日、東チベット、デルゲ、チョンラ郡ゲウ村生まれ。
1940年、ペニユル・カルマ・ヤンシ・リンポチェとシェチェン・ラプジャム・リンポチェにより、20世紀初頭の偉大なゾクチェンのラマであるアゾム・ドゥクパの転生化身に認定される。
1946年、カルマパ十六世とペルプン・シトゥ・リンポチェにより、ロ・ドゥク・シャプドゥン・リンポチェの意密の転生者と認定される。
1958年、中国人民軍の侵攻に伴い、チベットから亡命。1960年までシッキム政府開発省にてチベット語教科書の著者兼編集者として勤務。
1960年〜1964年、イタリア中東極東研究所の研究助手として勤務。
1964年以降、ナポリ大学東洋研究所教授となり、チベット語、モンゴル語、チベット文化史を講義。
1979年以降、アメリカ合衆国等で、ゾクチェン、ヤントラヨーガ、チベット医学、占星術を伝授、世界各国にゾクチェン・コミュニティが形成される。
現在、ナポリ大学名誉教授。

【主要著作】
『虹と水晶〜チベット密教の瞑想修行』(邦訳:永沢哲訳、法蔵館、1992年刊行)
『ゾクチェンの教え〜チベットが伝承した覚醒の道』(邦訳:永沢哲訳、地湧社、1994年刊行)
『チベット密教の瞑想法』(邦訳:永沢哲訳、法蔵館、2000年刊行)
『夢の修行〜チベット密教の叡智』(邦訳:永沢哲訳、法蔵館、2000年刊行)
『叡智の鏡〜チベット密教・ゾクチェン入門』(邦訳:永沢哲訳、大法輪閣、2002年刊行)

【関連サイト】
http://en.wikipedia.org/wiki/Namkhai_Norbu
http://www.bluedolphinpublishing.com/norbu.htm
http://www.tashi.org/
http://www.dzogchencommunity.org/schedule.html
http://lightmind.com/ImpBooks/buddhism/norbu-01.html
No.390 - 2008/12/29(Mon) 17:25:04

記録 II / はらぴょん
このコミュニティは、現在存在しません。
No.395 - 2008/12/29(Mon) 17:35:49

2008年09月04日 15:08 / はらぴょん
P27  第二章 顕教と密教

・ダルマ……自己の真のありよう
・ダルマ・カーヤ(法身、ほっしん)……ダルマの境地
・タントラ……存在の真のありよう

顕教の中心的な考え方
・空性(シューニャター)……実体がないこと、無自性であること

大乗仏教の場合
勝義諦……絶対的な真実→ダルマ・カーヤを目指す
世俗諦……相対的な真実→生きとし生けるものへの慈悲と菩提心

二元論(主客二元論、認識する主体=わたし、もしくはわたしたちと、認識される対象との二元論)的な顕現は、幻影であるが、悟りを得ていない生きとし生けるものは、それに捕われる。そのことによって、輪廻の苦しみから脱出できなくなる。
大乗仏教においては、勝義諦、あるいは空性を悟ったニルヴァーナ(涅槃)の境地から、未だ解脱できていない生き物への慈悲がなされ、それを救い出そうとする。この場合、救済は欲望の放棄あるいは止滅によってなされる。

密教と顕教(大乗仏教を含む)との違い
・密教には、プラーナ=(生命)エネルギーに関する理解がある。顕教にはそれに関する理解がない。
・顕教の修習は、静謐な場所で、沈黙を守り座る(座禅する)ことにある。密教の修習では、真言(マントラ)や行法次第を唱え、儀式や供養(プジャ)のためにたくさんの法具を使い、心の中で観想を行う。

密教の側からみた顕教批判
「一切は空であると考え、その境地にとどまる。それは空性の体験であっても、三昧の境地からは、はるかに遠く隔たっている。」(P33)
「本来の境地は、ただ空性のみではなく、運動の側面をも含みつつ、両者を越えている。だから、運動のなかにあって、それを三昧の境地に統合すること、あるいは、その運動のなかにとどまりつづけることができなければ、また自己の真の本質からは遠く隔たっているのである。」(P33)
「真に密教を理解しているなら、運動のなかにありながら、同時に三昧の境地にとどまるとはいかなることか、わかる。一日中踊っていようが、一日中動くことなく座っていようが、何の違いもない。」(P34)
「マンダラを観想する本尊の修行の究極の目的は、明知(リクパ)の境地にありながら、空性からあらわれでる光明のなかにとどまることだ。」(P35)
No.394 - 2008/12/29(Mon) 17:30:45

2008年08月20日 14:06 / はらぴょん
●ゾクチェン(大円満)

ゾクチェン……[チベット語]「完全なる境地」を指す。(私ならば「大いなる完成」と訳すのだが。)
サンティ・マハー……[ウッディヤーナ語]意味はゾクチェンと同じ。
マハー・サンティ……[サンスクリット語]意味はゾクチェンと同じ。

ゾクチェンは、自分自身の心そのものを深く知ること、心のなかにある潜在的なエネルギーや力能を知り、自己をコントロールすることから始まる。

P24
「いずれにせよ、個人の存在の三つの側面に対応して、三つの特徴をもった教えが存在する。」
”いずれにせよ”と言われても、唐突に”個人の存在の三つの側面”と出て来てしまい、その前後に三つの側面が具体的になんなのかの説明がない!
やはり、日本での編集の際にカットされた部分が、この前あたりにある気がする。
しかし、推察は可能である。
法身のブッダ・報身のブッダ・応身のブッダ、それぞれが別のタイプの仏教を説いたというのではないか。

前項で、報身のブッダが密教を説いたとなっている。
では、
a 法身のブッダ
b 応身のブッダ
1 顕教
2 ゾクチェン
abと12、つながりの深いものを線で結べ。
まぁ、こんな問題が発生してくるわけだ。

ところで、日本では、チベット密教ニンマ派に伝わるゾクチェンの教え、という言い回しが使われている。
要するに、ゾクチェンは密教である。
しかし、ナムカイ師の分類では、顕教・密教・ゾクチェンで、ゾクチェンと密教は別物として捉えられているようだ。
ダルマに関する教え、これが顕教・密教・ゾクチェンという三つの形態で表されているということのようだ。

歴史豆知識
7世紀 チベットに仏教伝来。この業績を成し遂げたのは、ダルマ・ラージャ(法王)であり、彼はインドの顕教の学僧シャーンタラクシタを招いた。
この際に、チベットには古代からのボン教がすでにあったので、仏教導入には困難がつきまとった。
No.393 - 2008/12/29(Mon) 17:29:19

2008年08月20日 00:41 / はらぴょん
P21〜
●密教

ナムカイ・ノルブ師によると、密教(タントラ)。
通常の用法では、密教=タントラとは限らないように思えるのですが、では、日本の真言宗はタントラなんでしょうか。
兎も角、まずはナムカイ師による、タントラの定義を確認しておきましょう。

タントラ……[サンスクリット語]連続体、連続を指す。仏教においては、真のありようを指す。エネルギーのレヴェルについての認識・理解があるがゆえに、真の本質が連続しているという見解を示す仏教を「密教」と呼ぶ。ヒンドゥー教でも、タントラという用語が使われるが、仏教での意味と同じではないので、注意のこと。

ここで、ナムカイ先生は、ヒンドゥー教における定義をしていませんが(それは畑違いなのでしないのでしょう)、ヒンドゥー教での意味とごっちゃになっているので、密教即タントラというと、なにかそうではないものがあるような気がするのでしょう。
エネルギーのレヴェルについての認識・理解があるという点では、空海(真言宗の祖)もその条件を満たしていると思います。尤も、私の家は、道元禅師ですが。

今日の豆知識
ダルマ・ダートゥ=法界(ほっかい)
うーん、私だったらダルマ・ダーツと表記しますが、永沢さんはこう訳すのですね。

法界の意味なんですが、ネット検索で出てきませんね。
出てくるのは、事々無礙法界の意味。
そうでなくて、ここで知りたいのは法界の意味。もっと基礎的なこと。
そのなかで、割とこのページが、求めている答えに近いかな。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/houkai.html
仏教には、宗派によって、多少定義づけのカラーが違うので、標準的な定義づけを探すのが難しいです。
要するに、この世界を、個々の事象ではなく、法、すなわちダルマから見た場合、この世界を法界と呼ぶ、と。物事の因縁の法則で繋がり、それによって生成する世界を、物事の理(ことわり)から見た世界、こういう解釈でよいのではないかと思います。

「すべての事物の真のありようは、空性なのである」(ナムカイ・ノルブ師)

P22〜23で、ひとつの思考に続いて、次から次へと別な思考が浮かんできてというような話が出てきますが、これと同じような話をウスペンスキーもしていたと記憶します。ひとつの思考に集中して、そこに留まろうとしてもできない、人のなかには複数の私がいるのだと。ウスペンスキーが、グルジェフから学んだことのひとつです。
ナムカイ師は、こういった次々と沸き起こる思考の根源には、潜在的なエネルギーの動きがあり、それを捉えるのが、密教の教えであるとします。

ナムカイ師は、密教は、報身の本尊の姿をとったブッダが伝授した教えだと言います。
報身が出てきたので、法身・報身・応身をセットで意味を理解しないといけません。

こんなところで、どうでしょうか。

法身……宇宙の法(ダルマ)とそれを悟る智慧がひとつになったもの。色も形もない、時空を超越した理法。
報身……法身の仏はかたちがないが、衆生を救おうとする願行が基となり、この世にかたちをとって現れたもの。礼拝の対象として具現化された彫刻や仏教画における仏など。
応身……仏が、人々を救うために、この世に人(その他の生き物の場合もある)の姿を取って生まれ、出家・成道をして、人を導くケースを指す。具体的な活動態。

参考
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E8%BA%AB

読むだけですと、さらさらと進みますが、一字一句、理解を確かめながらですと、時間がかかります。
でも、このほうが身につくのではないかと。
学習したことが、少しでも役にたてばいいのですが。
No.392 - 2008/12/29(Mon) 17:28:06

2008年08月18日 23:52 / はらぴょん
第一部 見解
第1章 すべての現象の真実のありよう

ナムカイ・ノルブ師は、まず仏教の基礎から説明していますが、時折、大胆なことを言っています。
「釈尊は、いかなる種類の宗教も、創らなかった。釈尊は完全に悟りを得た存在であり、すべての狭い限界や見解を、超えていたのである。」(8ページ)
宗教という形式や制度にこだわらず、まずは悟りの内実が大切なんだと、悟りの内実を知ってしまえば、宗教という形式や制度は二の次なんだと、そういう解釈でいいでしょうか。

また、知的な学問にとどまることに関しても、警告を出しています。
「知的な学問をすればよいということにはならない。そういうやり方は、主体・客体の分離のなかで、自分の外部にある何かについて判断を下し、思考をめぐらすことにほかならないからだ。」(9ページ)
まず、主体があり(コギト・エルゴ・スム!)、外界に認識の対象があり、自分自身と切り離されたものとして、この対象を認識するというのは、イヌマエル・カントの図式であり、科学者が日常的にやっている実験と観察の図式です。しかしながら、われわれがここでやろうとしていることは、客観的に、よそよそしい、取り澄ました態度で、取り扱えるような真実ではなくて、この私、この私の意識が変容してしまうような、そういう真理なのだということです。

今日の豆知識 その1
ダルマ(法)……すべての現象のこと。

9ページの「仏教には、三つの乗り物がある。」の解釈。
普通は小乗と大乗と秘密金剛乗なんですが、この後に続く説明からすると、顕教・密教・ゾクチェン(大円満)のことなんでしょうか。
勿論、一輪車とオートバイと自動車という答えは、間違いですよ。(ああ、つまらない冗談でした。)

●苦しみ〜●カルマ〜●滅すること〜●煩悩〜●道

四聖諦=苦諦+集諦+滅諦+道諦

このあたりは、日本の仏教と同じですね。
まず、世界が苦に満ちていることを知ること。
次に、苦の原因について知ること。ここで、原因があるところに、結果が生じるという考えが示される。カルマ(業)の考え方ですね。これは、因縁論ですから、苦があるとしても、原因を取り除けばよいという考え方です。ナムカイ・ノルブ師は、宿命論的な考え方を否定しています。
続いて、苦しみの原因である煩悩を滅却することが説かれます。煩悩というのは、執着から来ていますね。執着は、執着する対象を実体視するところから来ています。しかし、冷静に考えれば、実体と考えられたものも、なにか因縁から生じているのであって、他と関連せずに存在しているわけではないわけで、実体論から関係論へ、要するに事物の空性を知ることが、苦の止滅につながるわけです。
そして、最後に人生の苦から始まった問題系が、それを解決する道があるというところまで来るわけです。

今日の豆知識 その2
チベット医学やアーユル・ヴェーダで考えられている身体の三つの構成要素……ルン+ティーパ+ペーケン
No.391 - 2008/12/29(Mon) 17:26:12
Rose&Rosaryの1st アルバム「Rose Of Misery」 / はらぴょん
Rose&RosaryのMySpace
http://www.myspace.com/roseandrosary
をみると、Rose&Rosaryの音楽ジャンルは、Gothic / Rock だという。
Gothic / Rockで検索すると、
http://en.wikipedia.org/wiki/Gothic_rock
のようなサイトが引っかかり、有名なところではパプリックイメージリミテッドやコクトーツインズの名前がみられるが、Rose&Rosaryの音楽性を考えるにあたり、さりあたり海外の音楽からの影響関係のことは忘れておいていいように思う。(無論、Gothic_rockのウィキペディアには、ゴシックホラーやロマン主義、ニヒリズムとのつながりに言及しており、深いところでは共通項もあるのだろうが)とりあえず、Rose&Rosaryがヴィジュアル系の、それも日本のゴシック・ロリータ文化の土壌から生まれてきたバンドであることを押さえておけばいい。
ところで、ヴィジュアル系というのは、その言葉自体に音楽の傾向性を指し示す意味を含まないから、さまざまな音楽の実験が許されるジャンルといえる。

Rose&Rosaryの1st アルバム「Rose Of Misery」には、6曲が収録されており、MARSの作詞・作曲によるものが、表題作「Rose Of Misery」と「Patient」と「Rose Of Misery(INS)」の3曲であり、SIONの作詞・作曲によるものが「Zodiac」と「Raisondetre」と「Sanctuary」の3曲である。メンバーのもうひとり、ZILLは全曲のミキシングを担当している。
まずMARSの作品から見ていこう。アルバム表題作の「Rose Of Misery」だが、Rose&Rosaryの名刺代わりとなる代表曲といえる。恋愛における至高性への高まりを表現したノリのいい、ポップなナンバーである。ここで、薔薇は恋愛の対象としての女性を指すと同時に、絶対的な至高点を象徴しているといえる。
「Patient」は、神のいる世界を背景に、しかしながら、ここで語られる主人公の神への信仰はぐらついており、苦悩のなかにいるが、そのなかで絶対的なしるしを、そして一筋の愛を求めずにはいられない姿を描いている。Rose&Rosaryの音楽世界は、概してグノーシス主義的である。
続いて、SIONの作品に移る。どちらかというと、メロディアスで、ノリのいいのが、MARSの楽曲の特徴であったが、SIONの作品になると、<劇的なるもの>が介在してくるように思われる。
「Zodiac」に散りばめられた言葉は、陰鬱なロマン主義、あるいはニヒリズムを感じさせるものが多い。血液が入っているとおぼしい赤色のガラス管は、犬神サーカス団の「エナメルを塗られたアポリネール」に出てくる注射器のイメージを連想させる。そのなかでも鮮烈なのは、願望を充足させようとすればするほど、生は過酷さを強めるというペシミスティックな認識である。これは、歌詞からは判断できないのだが、音楽全体からの印象からすると、この主人公はこの過酷さを味わう限りにおいて、生きている実感を得ているのではないかとすら思われる。
SIONの歌詞は、晦渋なものが多い。その晦渋さは、生命の不条理性を言い表しているように思われる。「Raisondetre」にも、否定的な言葉が散見されるが、そこから眼を離しては、真の意味で前に進むことができない性質のものである。この世界は生きづらさに満ち満ちているが、それでも存在根拠を求めずにいられない、それが人間というものだと言っているのだ。
「Sanctuary」は、禁忌としての大切な領域を示している。それは、城壁のなかの世界であり、母親によって守られた不可侵の領域、幼年期の記憶のなかにある失われた世界である。この世界が破れた地点から、「Zodiac」や「Raisondetre」は始まっており、Rose&Rosaryの冒険が始まっているのだ。
このように、個々の作品についてみてゆくと、作家性の違いが浮き彫りになってくる。この個性の違いが、Rose&Rosaryの魅力の厚みに繋がっている。
願わくば、2nd アルバムでは、ZILLの楽曲も含まれますように。そうすることによって、さらにRose&Rosaryの魅力が増大すると思われるからである。
No.389 - 2008/12/18(Thu) 01:37:37
『オイディプス症候群』について 1 / はらぴょん
(未読の方は、この記事は読まないでください。)

 『オイディプス症候群』を因数分解すると、本格ミステリの部分と哲学的な議論の部分と古代ギリシア文明(神話・文学・歴史)を巡る話題の部分に分けることが出来る。ミケーネ文明に関して、笠井潔は『巨人伝説』で取り上げたことがあり、現地に滞在したこともある。『オイディプス症候群』において、その舞台がクレタ島周辺となり、ホメーロスの『オデュッセイア』から、ジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』(これは20世紀の『オデュッセイア』である)の話題が多くのページを占めるようになったのは、この物語が隔絶した状況下で起きる連続殺人を扱った「孤島」ものであるという物語上の要請があったからであり、テーマとして取り上げた晩年のミシェル・フーコーに、著作『セクシュアリテの歴史』があり、古代ギリシアにおける自己管理、自己への配慮を取り上げており、ギリシア文明の話題と関連しており、フーコーをモデルとするミシェル・ダジールがギリシア文明を語ることに違和感がないということもあると思われる。
 笠井潔による矢吹駆シリーズは、本格ミステリの部分と哲学的な議論の部分を兼ね備えており、ドストエフスキー的な思想小説の特徴を持ちつつ、探偵小説的枠組みを堅持するというものだが、本書においては古代ギリシアの神話・文学・歴史の話題が加わり、さらに過剰なデコレートが為されている。
 ところで、本書に登場するミシェル・ダジールは、晩年のフーコーをモデルにしている。『監獄の誕生』や『セクシュアリテの歴史』、さらにはエイズに感染し死亡するという最後のフーコーが念頭にあって、ダジールのキャラクター設定が為されたとおぼしい。本書において、「外の思考」について言及される部分はあるのだが、『言葉と物』のように通時性ではなく、共時性を重視する立場や、『知の考古学』のように、アルケオロジーを重視する立場(ここには、後付けの理屈で歴史主義のストーリーを描く立場への批判が含まれている)は、本書では取り上げられることはない。これらの初期フーコーの話題が取り上げられたならば、笠井のマルクス葬送の立場といかにリンクするかという興味が喚起されると思われるのだが。
 つまり、本書で取り上げられているのは、晩年のフーコーの視線の政治学であり、パノプティコンを巡る思想なのである。『セクシュアリテの歴史』になると、「性的なもの」が抑圧されているという図式が否定され、むしろ権力装置は欲望をかきたて、そのエネルギーを一定方向に流すということで社会システムが維持されているという見解が示され、いかに効率的に、エコノミーの原則に合うように、社会システムの維持と再生産が為されているかが考察されるようになるのだが、本書で取り上げられているのは、それより前の『監獄の誕生』の時期、すなわちマルクス主義には賛成しかねるが、微温的な左翼感情はあるという人をひきつけているフーコーの思想に多くのページが割かれている。
 ダジールの展開する視線の政治学に対して、矢吹駆(そして、彼を代弁者とする笠井潔)は、視線の現象学を対置する。ここで登場するのが、「ならびみ」「むきあい」「わたしみ」の区別であるが、その区別に関して矢吹(および笠井)に独創性は感じない。というのは、吉本隆明の術語では、「ならびみ」「むきあい」「わたしみ」は、「共同幻想」「対幻想」「自己幻想」に変換され、さらに『テロルの現象学』の笠井潔の術語では、その「幻想」という言い方が「観念」に置き換えられるからである。つまり、矢吹駆の視線の現象学とは、吉本隆明の『共同幻想論』および『心的現象論』をベースに、サルトルの『弁証法的理性批判』の言い回し(バスを待つ列の事例などは、ここから来ていると思われる)に影響を受けた表現でいい表したものであると、私は考える。
 しかしながら、矢吹の視線の現象学は、ダジールの視線の政治学に対抗して併置されるだけで、それ以上のことは行われない。例えば、先行する矢吹駆シリーズ『サマー・アポカリプス』の場合、矢吹はシモーヌ・ヴェイユをモデルとして造型された登場人物を、哲学的に追い詰めるために物語中で起きている事件を使用し、自殺に近いが、自殺ではないかたち(それがどのようなものであるかは、実際に読んで確認していただくしかない。)にまで追いやり、『哲学者の密室』では、20世紀最大の哲学者にして存在論の権威という人物に、破廉恥でスキャンダラスな最期を与えているのだが、本書においては、そういうことは起きていない。その代わりに、本書では別の思想家がターゲットとなる。それは誰なのか。
No.388 - 2008/12/05(Fri) 02:08:48
中沢新一著 『鳥の仏教』 / はらぴょん
 中沢新一著 『鳥の仏教』(新潮社)は、チベットの仏教経典「鳥のダルマのすばらしい花環」の翻訳と、その解説「人間圏の仏教から生命圏の仏教へ (のど青鳥の物語、カッコウの飛来、今日のアミニズム)」の二部構成でできています。
 「まえがき」を読むと、「鳥のダルマのすばらしい花環」は、20世紀にインドで復刻出版されたチベットの仏教経典だそうで、インドにはそれに対応する原典はなく、チベットで創られたと考えられるが、原著者や成立過程は一切不明で、書かれた年代も17世紀から19世紀の比較的新しいテキストであると考えられる。 つまり、文献学的には、幾分怪しげなテキストということになります。
 しかしながら、このテキストがなぜ素晴らしいかといえば、そこにチベット仏教のエッセンスが詰め込まれており、しかも民衆によくわかる説話となっているからです。
 1959年に、中国によるチベット侵攻で、多くのチベット人がインドに亡命し、そこで流通していた「鳥のダルマのすばらしい花環」というテキストに、初めて(笑)出会う。ところが、そのテキストに盛り込まれている内容は、チベット仏教を正しく伝えており、なおかつ、童話のようなストーリーで、難しい学術用語なんてものはなく、誰にでもよくわかる内容だ。中国による侵略で、物質的のみならず、精神文化までも危機にさらされていた亡命チベット人にとって、「鳥のダルマのすばらしい花環」は、自分たちの信条を伝えるのに、格好のテキストとなる。(なにしろ、カッコウが仏教のエッセンスを語るのですからね。カッコウだけに、格好のテキストとなるのは当たり前です。)
 「鳥のダルマのすばらしい花環」は、鳥たちが仏教の教えを語るという創作童話のような世界なのですが、そこで説かれている教えは、チベット密教を正しく伝えており、決して妥協した表現はしていません。
 例えば、本書の65ページには、「心ははじめから完全な完成をとげていますから」と、さりげなく書かれていますが、この考えはゾクチェンの教えと一致します。
 中沢新一氏による翻訳は、当初ゾクチェン研究所通信「セム」第8号に、『鳥のダルマ』として、チベット語の原典とともに発表されました。そのときの翻訳ですと、冒頭は「昔、多くのブッダたちが出現した「よき時代」のこと、」(10ページ)となっていましたが、新潮社版の単行本では「昔々、この世にたくさんの覚醒者たちがあらわれた「よき時代」のことでした。」(16ページ)というように、昔話のような語りに書き換えられています。そして、木部一樹さんによるすばらしい鳥の挿絵が、ふんだんに掲載されています。
 本書は、いつも鞄のなかに携帯して、繰り返し読んで、こころの糧にするようなタイプの本だと思います。仏教徒は勿論ですが、童話や昔話、フォークロアの好きな人、それから博物画の好きな人にも読んでもらいたい本です。
No.387 - 2008/11/28(Fri) 00:47:09
『探偵小説論III 昭和の死』 / はらぴょん
笠井潔の『探偵小説論III 昭和の死』(東京創元社)について考えてみよう。
 小説『バイバイ、エンジェル』と評論『テロルの現象学』に、テロリズム批判という主題面で対応関係が見出せるように、小説『青銅の悲劇 瀕死の王』と評論『探偵小説論III 昭和の死』の間にも、昭和の終焉という主題面の対応関係を見出すことが出来る。つまり、小説『青銅の悲劇 瀕死の王』は、「探偵小説論」を内包した探偵小説なのである。
 しかしながら、性急な読者は、矢吹駆シリーズ日本篇と銘打たれた『青銅の悲劇 瀕死の王』に、肝心の矢吹駆がなかなか出てこないのに苛立つかも知れないし、探偵小説論と銘打たれた『探偵小説論III 昭和の死』に出てくるのは、昭和文学の書き手たちであることに苛立つかも知れない。(確かに坂口安吾は『不連続殺人事件』を、そして大岡昇平は『事件』を書いているとはいえ、三島由紀夫や大江健三郎に至っては探偵小説とのつながりは皆無である。)
初期・笠井は、観念批判論序説である『テロルの現象学』を皮切りに、芸術、エロティシズム、革命という領域において、観念批判論を全面展開しようとしていた。結果的には、『テクストの現象学』に着手しようとした段階で(『秘儀としての文学〜テクストの現象学へ』参照)、この計画は中断される。というのは、『テロルの現象学』が覆そうとしていたソヴィエトの強制収容所国家が、観念批判論の完成を待たずして崩壊したからである。
 後期・笠井になると、評論のフィールドが、探偵小説分野に移動する。そして、新本格派ブーム(探偵小説の第三の波)の理論的支柱としての役割を担おうとする。この段階での評論におけるライフワークは、観念批判論から探偵小説論にシフトしている。笠井は、探偵小説論において、これまでの評論活動の集大成をしようとする。
 そこで、「昭和の死」と題されて書かれてきた坂口安吾論・大岡昇平論・三島由紀夫論・大江健三郎論が、探偵小説論に接収されることになる。これらの仕事は、『物語のウロボロス〜日本幻想作家論』や、大江健三郎論である『球体と亀裂』を継承するものであるが、あくまで探偵小説論の枠組みのなかで捉えなおされることになる。
 笠井潔の探偵小説論をどう捉えるか。実存主義的現象学のマトリックスを通じて捉えられた大量死、その裏返しとして表裏一体を成す大量生の現実認識が基底としてあり、それに抗する精神的営戯として、さまざまな思潮や文学がある。探偵小説の形式は、それを突き詰めたかたちとしてあるのだ、ということだ。ここで、大量死理論から、独自の笠井史観へのシフトが発生する。この際に、ある種の体系化への願望が働いているというのが、私の見立てである。体系化への意志において問題となるのは、ともすれば誠実さを欠く結果になることである。実存主義的現象学から、マクロ的な史観に飛び移る段階で、笠井の考える理想の探偵小説の理念型が与えられる。この場合、大量死または大量生に抗する文学的想像力が、それにあたる。この理念型に適合する作品は評価され、適合されない作品は、ふるい落とされる。かつて吉本隆明が、文学を評価するに際して、最高綱領で行うか、最低綱領でやるかを問うたことがある。吉本の場合、最高綱領による選別に接近すればするほど、(ソフト)スターリン主義化することになる。だから、なにか倫理的なものを振りかざして、文学の良し悪しを決めることに、疑義が示されるわけだ。吉本に影響を受けている笠井はどうなのか。
 昭和文学論もまた、大量死理論と独自の笠井史観に沿って、議論が進められる。初期・笠井と比較して、巨視的なパースペクティヴからの精神史が描かれ、理論体系的には格段の進化を遂げたといえる。しかし、そのことで、初期・笠井にあったものの一部が喪われたということはないだろうか。
 初期・笠井の議論については、賛否両論あるだろう。しかし、観念の倒錯による抑圧がなされている状況下において、これ以上否定できない存在の基底にまで遡って、根底的に強制収容所国家観を覆そうとした態度には、精神の解放に向かうすがすがしさがある。しかしながら、マクロ的に歴史を俯瞰し、上からの視点で、自身のものさしに適合する作品だけを評価してゆく(ゆえに、笠井の水準を超える作品は、基準点を満たさない作品とされる)態度はどうなのか。ルカーチ経由でもたらされたヘーゲルの影はないのだろうか。この点、よく吟味しながら、読み進めてゆかなければならない。
No.386 - 2008/11/05(Wed) 01:04:26
『インドへ』 / はらぴょん
横尾忠則の『インドへ』(文春文庫)を久しぶりに再読する。
 ビートルズは、1965年インドに行き、マハリシ・マヘシュ・ヨーギのもとで、瞑想修行を行っている。このことを初めて知ったのは、ジュリアス・ファストによる伝記『ビートルズ』(角川文庫)によってである。ジュリアス・ファストは、ジョージ・ハリスンがこのときを契機に、シタールを使った楽曲(Within You Without Youなど)をつくるようになったと書いていた。
 横尾は、このエピソードに影響を受けている。
 この本を読むと、横尾はインドに旅立つ前に、交通事故に遭っているようだ。この危機との遭遇が、彼をインドに向かわせたのだろうか。
 三島由紀夫とのエピソードも興味深い。横尾は、三島の自決の3日前に電話で会話を交わしており、そこで細江英公による三島の写真集『薔薇刑』のなかに含まれる横尾による三島の絵を、三島が自分の涅槃像として捉え気に入ってくれたといい、さらに「君はいつインドに行ってもいいようだ」と言ってくれたという。三島は、インドを旅したことがあり、ベナレスでの荼毘の光景などを詳細に横尾に語り、「インドへは、人それぞれに行く時期が必ず自然に訪れる」と言っていたという。横尾がインドへ行こうと決心したのは、三島が自決した1970年11月25日と同一日であった。
 横尾によるインド旅行は、60年代から70年代にかけて、世界中で同時多発的に起きていたエゴの解体やリアリティーの解体のテーマの一形態なのではないだろうか。この時期の文化現象を見てゆくと、政治的レベルでは社会主義にまつわる幻想の解体があり、精神的レベルでは、サイケデリックの文化や、オカルトへの関心の高まりといった日常意識の解体が起きている。
 ちなみに、ジュリア・クリステヴァの『セメイオチケ』(日本では分冊の1巻めが、「記号の解体学」として翻訳されている)の原書が出たのが、1969年である。『セメイオチケ』は、政治と精神分析の世界での解体を背景に生まれてきた理論のように思われる。
 そして、わたしたちがどこにいるかといえば、これらの解体がベーシックになった地点を出発点として考えているということになる。
No.385 - 2008/11/04(Tue) 00:40:58
『熾天使の夏』 / はらぴょん
笠井潔著『熾天使の夏』(創元推理文庫)を入手する。
講談社文庫版の解説(竹田青嗣氏による)に加えて、小森健太朗氏による解説がさらに付け加えられ、資料としてはより充実した内容となっている。
竹田氏は現象学の立場からの解説を加え、小森氏はヴァン・ダインとコリン・ウィルソンとの比較文学的視点からの解説を加え、あと何を付け加えればいいのだろう。
と逡巡しながら、ここで、大江健三郎の『われらの時代』(新潮文庫)を紐解いてみることにする。267ページには、本文のなかにゴシック体の太字で、次の文章が強調されている。
「おれは自殺できる」
「おれにとって唯一の<行動>が自殺だ。」
今度は、笠井潔の『熾天使の夏』(創元推理文庫)9ページを開いてみる。本文のなかにゴシック体の太字で、次の文章が強調されている。
「完璧な自殺それが問題だ。」
『バイバイ、エンジェル』になると、現象学や吉本隆明の幻想論が顕著になるが、くりかえし現れる「完璧な自殺それが問題だ。」という言葉を読んでいると、大江健三郎経由のサルトル的実存主義の影響が顕著で、実存的選択=決断や実存的なジャンプ(超越)が強調されているように思われる。
そして、創元推理文庫版の210ページあたりから繰り返されるゴシック体太字の「すべてよし」は、ドストエフスキーの『悪霊』に出てくるキリーロフの台詞である。キリーロフは、奇妙な自殺の観念にとりつかれていて、神を殺すことは神になることであり、各人が神になる(自由になれる)ことを、世界中に告知するために自殺を企てる。
大江健三郎の「おれにとって唯一の<行動>が自殺だ。」は、深い絶望の表現だが、キリーロフになると一種異様な至福感と自殺という行為が重ね合わされる。キリーロフについては、カミュが『シーシュポスの神話』のなかで、その不条理な自殺の考えを取り上げているが、カミュもまた、キリーロフの自殺を厭世自殺ではなく、喜悦に満ちたものとして捉えようしている。キリーロフにおけるこの絶望から至福への転換のなかに、コリン・ウィルソンの至高体験の考えを重ね合わせ、これを普遍化することによって、後に笠井が『テロルの現象学』で展開する集合観念論が生まれたのではないか、というのが私の見立てである。
『熾天使の夏』は、矢吹駆シリーズの第0作という位置づけであり、未だテロリズムと切れていない状態を描いている。精神の階梯から言えば、小説『バイバイ、エンジェル』と対応関係にある評論が『テロルの現象学』であり、小説『熾天使の夏』は、評論『テロルの現象学』を生み出す契機となった個人的な体験を、虚構に移し変えたものといえる。つまり、『テロルの現象学』の前哨戦がここで行われているのであり、『熾天使の夏』の主人公は、未だ評論「日本革命思想の転生」を書いた黒木龍思(後の笠井潔)と同じ水準にあり、ニヒリズムによるこころの荒廃を抱えて生きているといえる。
No.384 - 2008/10/01(Wed) 00:55:50
後期バタイユの問題 / はらぴょん
 浅田彰の『構造と力〜記号論を超えて』では、ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分〜普遍経済学の試み』を取り上げ、これを構造(コスモス)とその外部(カオス)の弁証法に分類し、システムが内部と外部に峻別されるような社会ならまだしも、資本主義というものは、外部からの侵犯をなし崩しにし、内部化するようなクラインの壷の如きシステム、システムの解体自体をシステム化したようなシステムなのだから、このようなカオスの叛乱は、歴史を変える動因にはなりえないのだと批判した。
 これは、バタイユを経済人類学に取り入れ、『幻想としての経済』を上梓していた栗本慎一郎への批判ととることができる。
 当初、中沢新一の理論構成も、浅田彰のそれと対応していた。浅田が社会システム論でやったのと同等のことを、宗教現象に対してやろうとしていたと考えてよい。まず、コスモスの構造分析をする構造主義的アプローチがあり、次にコスモスとカオスの弁証法を説く文化記号論が取り上げられるが、最後に来るのは世界をマシーンとして一気に捉えるようなポスト構造主義的アプローチである。そして、浅田が『ヘルメスの音楽』でクリナーメンの問題を取り上げると、中沢も『雪片曲線論』で同等の問題を取り上げるというように。
 しかしながら、その『雪片曲線論』において、すでに中沢は浅田のように、レヴィ=ストロース批判を行っていない。また、浅田彰の『20世紀文化の臨界』に収められたバタイユをテーマにした浅田・中沢対談では、共同戦線を張るようにバタイユ、そしてバタイユと同路線の岡本太郎に批判的な発言をしているのだが、やがてオウム真理教問題があり、さらには愛知万博への中沢のコミットがあると、浅田は中沢に批判的になってゆく。(オウム問題直後に、浅田は中沢と対談し、擁護をする発言をするが、その後田中康夫との対談では、愛知万博は環境破壊との意見も含め、批判的な発言になってゆく。)
その後、中沢は岡本敏子さんとの交流も含め、岡本太郎に高い評価を与えるようになる。また、バタイユの『宗教の理論』や『ラスコーの壁画』など、宗教現象の起源を問う問題意識から、バタイユを再評価するようになる。現在では、バタイユは、レヴィ=ストロースとともに、中沢の芸術人類学にとって、重要なキーとなる思想家として位置づけられている。
 浅田は、あくまでバタイユを社会システム論の観点からしか読んでいない。宗教現象の起源や、人間の大脳皮質の作り出した文明とはなにか、という観点から読んでゆく対称性人類学・芸術人類学という学問体系を打ち出した中沢は、今や別の観点からバタイユを再評価することができる。
No.383 - 2008/09/26(Fri) 23:48:22
わたしは花火師です いえ、爆破技師です / はらぴょん
ミシェル・フーコー著、中山元訳『わたしは花火師です〜フーコーは語る』(ちくま学芸文庫)とフランツ・カフカ著、平野嘉彦編、柴田翔訳『カフカ・セレクションII 運動/拘束』(ちくま文庫)を入手。
『わたしは花火師です』とは、妙なタイトルである。訳注をみると、アルティフィシェ(artificier)の訳だそうで、「爆破技師」にすべきか迷ったという。「爆破技師」であれば、フーコーの思想が見えてくる気がするが、「花火師」では比喩に終わってしまう気がする。というのはなぜかというと、例えばフーコーの大著『狂気の歴史』であるとか『監獄の誕生』を読み通したとして、それが、読む前の自分のままでいられる類いの毒にも薬にもならない書物あるとは思われないのであって、個人によって影響度は違うだろうが、必ずや思考の改変が行われるであろうことは間違いない。いわば、フーコーの大著自体が、現実を改変するニュータイプを生み出す危険書庫なのであって、フーコーの仕事がそれまでの常識的思考を吹き飛ばす「爆破技師」のそれであることに気づくのである。
フーコーとカフカ。実は、この二人は似通ったところがあると思っていて、『カフカ・セレクション』は掌編集なのだが、そうではなくて『審判』や『城』になると、カフカが権力装置という主題にとり憑かれていたことがわかるのである。そして、フーコー。『狂気の歴史』『監獄の誕生』『セクシュアリテの歴史』と並べると、やはり局外者の立場から見た権力装置を描いたものと映るのである。局外者?というといぶかしがる人もいるかもしれない。フーコーにおいて、この私の思考は、エビステーメーに規定されているのであって、権力装置をめぐる記述のなかには、主体は出てこない。しかしながら、精神病院の内と外、監獄の内と外、あるいはセクシュアリテにおける正常者と異常者の差異を析出させようという意図には、やはりある種の観点があると言わなければならない。
初期のフーコーは、自身の同性愛傾向に悩み、時には死の誘惑に駆られることもあったという。フーコーが勇気を持ったのは、ニューヨークで、ハードゲイに目覚めたから、らしい。そういう視点から、社会の正常と異常の境界線の虚構性を暴き出す仕事に手を染めるようになったのではないか。
『言葉と物』などを読むと、フーコーの書法が、博物学のそれであるということがわかる。膨大なデータを処理し、それらが集積されるとき、まるでマシーンのように、書物が読む人と一体化し機能し始めるのであり、そのマシーンはやがて読む人の意識を変え、さらには世界を見る視点を改変するのである。だから、フーコーの多くの著作が、人間の思考の歴史を扱っているのだが、客観的なスタイルを装おうとする通常の歴史学の本とは大いに傾向を異にしている。
もうひとつの傾向は、ニーチェとの共振性である。フーコーは、人間の思考の歴史を考える上で、通時性よりも、共時性を重視した。従来の歴史観(例えばマルクス主義史学のそれ)を、羊羹(ようかん)のようなものに喩えるとする。羊羹の端が過去で、もう一方の端は未来である。過去と未来は、一続きにつながっていて、唯物史観のような立場だと、生産力が伸びてきて、社会的諸関係がそぐわなくなると、それにふさわしい諸関係にシフトが起きるとする。しかし、ニーチェのような立場だと、歴史学者の考えるような連続した歴史などというものは、後付けの虚構に過ぎず、後から都合の良い出来事だけを取り上げ、連続しているかのようにつじつまあわせをしているに過ぎないということになる。そこで、フーコーになると、歴史は羊羹ではなくて、バームクーヘンのようなものになる。(ちなみに、羊羹とか、バームクーヘンと言っているのは、私であって、彼らが言っているわけでないので、間違えないように!)つまり、地層の積み重ねのように、過去から現在までの間に、ところどころに断層が入っているのである。横との繋がりは密接だが、時系列で見ると不連続線が入っているのである。
つじつまあわせに、不連続線。なんだか、別の話にずれてきたので、この辺で小休止。
No.382 - 2008/09/17(Wed) 00:26:13
事故米と農水省の責任 / はらぴょん
日本政府が、事故米を中国、米国、タイ、豪州、ベトナムから購入するのは、ウルグアイラウンドで、外国から米を輸入することが決まっており(年間総計77万トン)、そのなかの一部(2000トン)としてであるという。
そのなかで、中国産のもち米から、メタミドホスが検出されたことがあり、サンプル検査で基準値を上回ったこともあるという。
また、カビ毒の一種で、肝臓ガンを引き起こす発ガン性物質アフラトキシンが付着している事故米も出回っているという。
農水省は、事故米を工業用ののりなど、非食料用として使用すれば問題ないとして民間に売却していたというが、事故米かそうでないか、一目見て判るものでもなく、米袋や取引書類を偽装すれば、容易に普通の米として流通できるという危険性があることくらい、初めからわかっていたはずなのだ。
農水省の最大の責任は、(1)原産国も食べないような毒性のある米を輸入して、国内に流通させようとしたこと。まだ、事故米に付着したアフラトキシンやメタミドホスによる健康被害は報告されていないが、仮に報告されたとしても、疫学的検査が必要であるとかで、国はなかなか責任を認めないであろうが、これが食料品に紛れ込んだ場合、健康被害が出ることは未然にわかっており、いわば未必の故意の殺人(未遂)なのであるということ、(2)食品偽装による転売の懸念があった(事故米と普通米の価格差から、偽装が行われる動機があり、前述したように偽装方法も容易であったこと)にも関わらず、農水省は流通ルートに関して所轄官庁としての監督責任を怠ったことにあると思う。
一体、農水省は、日本国民の生命と健康を何だと考えているのだろう。国民の生命を危機に晒してでも、諸外国の利益(あるいは面子)を優先したかったのだろうか。
現在の日本の公務員のなかには、日本国民に関しての暗黙の二分法を持っている人がいるのではないか。ひとつは、知識と権限を独占的に持つ官僚であり、もうひとつはガンになろうと腹痛を起こそうと知ったことではない一般市民である。そういう見下した意識が、今回のことに露呈されているように思える。しかしながら、公務員は、日本国民全体の公僕であらねばならない。仮に、そのような一般市民に対する見下した意識を持つ公務員がいたとしたら、その人は公務員としての資質を欠いた人間であるということになる。
No.380 - 2008/09/15(Mon) 17:43:12

再び、事故米について / はらぴょん
先ほど、日本政府は事故米を、工業用の糊をつくるのに使えば支障がないと考え、輸入したようだということを書いたのだが、どうやら工業用の糊をつくる業界では、事故米を使う慣習はないようだ。いくら、食品に使わないとはいえ、安全性第一にモノをつくる観点から原材料を考慮するのは、当然のことである。
となると、日本政府はなにを想定して、事故米を輸入することにしたのだろうか。売却先の目星もつけないうちに、後先考えずに輸入したとでも言うのだろうか。
事故米をどう消費するかについて、安全なルートが確保されないままに、国民の税金を使って、大量に危険な米を輸入し、民間に売り払い、その後のルートに関して、所轄官庁として充分な管理を行ってこなかったことは、間違いなく重大な犯罪である。
なにが目的かはわからないが、農水省は日本人の生命を危機に陥れようとする行動をしてきたことになる。いつから農水省は、反日的な殺人集団になったのだろうか、これでは毒薬を上水道に流し込むような行為ではないか、と皮肉を言いたくなる。(竹新製菓は、1年半前からノノガキ穀販から事故米と知らずに仕入れていたという。竹新製菓の製品は、私の住む地域では、相当ポビュラーに流通している。1年半前からずっと竹新製菓のあられを食べずに来たかどうか、実に自信がない。私が不審死を遂げたとすれば、農水省が犯人だと思って欲しい。)
もうひとつ、最近のニュースで見えたきたことがある。事故米を食用に転売した三笠フーズの社長らは、農林水産省近畿農政局大阪農政事務所の消費流通課長(当時)を、大阪市内の飲食店で接待していたことがわかった。この接待の目的とはなにか。この中身について、確かなことは調査がさらに進むのを待つしかないが、三笠フーズにしてみれば、通常の食用米と事故米の価格差を利用して、偽装による転売で莫大な利益を得ようと、確実に事故米が調達でき、かつ農政事務所による検査によって、偽装転売が阻止されないことを期待して行動したであろうことは、想像できる。しかし、この仮説を裏付けるためには、警察による本格的捜査が必要になるだろう。
No.381 - 2008/09/16(Tue) 00:13:24
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