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虚無なる「匣の中の匣」

竹本健治ファンの評論連載の場として自由にお使いください
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洞窟とテラス / はらぴょん
中沢新一は、『狩猟と編み籠』のなかで「洞窟的」と「テラス的」という概念を作り出している。
一般活用できそうなので、ちょっと紹介しておきたい。
最近とりあげた『終末期の密教』は、どうしたって「洞窟的」。一家団欒の席で、声に出して読めない本は、「洞窟的」。
中沢新一は、今の人間の脳は、新石器時代から変わっていないと考えていて、ゆえに考えることや思うことも、新石器時代とさして変わっていないと考えるわけ。
で、新石器時代の男たちは、秘密の結社をつくって、洞窟にこもるわけ。そこで、宗教とか、芸術が発生するわけ。
洞窟では、コミュニケーションよりも、「自分を見つめる孤独な毎日」(戸川純「レーダーマン」)なわけ。
一方、日当たりのいいテラスでの、一家団欒の席という場もあって、ここでは女、子供、男、要するに家族全員がいて、コミュニケーションしているわけね。
これが、新石器時代に出来た基本。
で、時間の経過があり、映画が出来、テレビができる。
で、この映画は、暗闇で自分を見つめる洞窟での瞑想を引きずっているし、テレビはテレビで、現実を正しく伝え、コミュニケートすることを目的とする、いわばテラスでの明るい対話をひきずっているわけ。
意匠は変わっても、こころの本質は変わってないわけね。
洞窟とテラス。双方には役割があって、相補的に助け合ってあるべきなんだけど、現代においては洞窟的なものが暴走したりする、つまりテロとか、カルトとかだよね、があって、洞窟とテラスの調和を実現するための智恵が必要とされてするというのが、この本の、一番大きな枠組みなわけね。
No.367 - 2008/06/22(Sun) 20:30:12
後期高齢者医療制度に異議あり / はらぴょん
 後期高齢者を、ご長寿と言い直そうと、それが後期高齢者いじめの医療制度であることに変わりない。
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2006/10/dl/s1005-4c.pdf 

 後期高齢者医療保険の要点は、以下の通りである。
(1)75歳の誕生日を迎えた者全員と、これまで老人保険に加入している65歳以上の障害を持っている人は、強制的に後期高齢者医療保険のなかに組み込む。
(2)後期高齢者医療保険に組み込まれることによって、扶養家族から外され、保険料負担の義務が発生する。
(3)後期高齢者医療保険とは、医療費の10%を、加入者である後期高齢者が負担するというのが主旨である。そして、医療費が増大すると、保険料が値上げされるようになっている。この仕組みは、後期高齢者の受診抑制と、「後期高齢者の心身の特性に相応しい診療報酬体系」を大義名分とした医療内容の劣悪化と医療差別に結びつくようになっている。保険料は2年ごとに見直しがされるようになっており、2年後の値上げが予想される。
(4)後期高齢者医療保険では、都道府県の広域連合が保険者となる。広域連合では一般財源を持たないため、独自の保険料減免措置をとることが出来ない。

 さすがは、小泉(当時首相)である。小泉(当時首相)のオリジナルの政策は、単に郵政民営化だけなので、郵政民営化の理屈も含めて、他の政策も竹中平蔵が入れ知恵している可能性があるが、どの政策にも共通点があって、いのちの軽視、社会的弱者への優しさというものが、完全に欠落しているという点にある。
 『高齢者の医療の確保に関する法律』などの「医療改革法」を強行採決させたことの狙いは、入院医療費や終末期医療費が増加などを抱える後期高齢者という社会的弱者を切り捨てることにある。後期高齢者は、保険料の負担は増えるが、「後期高齢者の心身の特性に相応しい診療報酬体系」という別枠の差別された医療サービスしか受けられなくなるのだから。
 この政策は、姥捨て山より酷く(姥捨て山ではお金は取られない)、世界的にも例のない非道なものだと考える。
No.366 - 2008/04/17(Thu) 15:07:52
民族の壁という免疫機構を脱構築せよ / はらぴょん
初出:mixi 2008年03月20日00:37
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=749818306&owner_id=491648

要するに、自民族/他民族の境界線が、問題なのだ。
境界線を1歩でも外に出る。すると、自民族中心主義者たちにとっては、恐るべきカオスになる。
虐殺はそこから始まる。
自民族ではないから、それは異人であり、外部の人である。
そして、恐るべき暴力が発現する。
問題は、異なるものを異なるままに、許容するということがないことなのだ。
無理やり、同一化を迫り、拒否すれば生命すら奪う。
これは、歴史の初めから、あらゆる民族において見られる病理である。
この残虐性を、野獣のようだと形容するとしたら、まったくの間違いだ。
野生の生き物は、攻撃性を発動する際でも、ブレーキが効く様になっている。
際限のないジェノサイドに至るのは、本能の壊れた人間に特有の病理である。

この認識は、最近のチベットへの武力弾圧の問題についてもいえることだ。
しかしながら、ここに大きな矛盾がある。
中国によるチベット弾圧に反対する勢力には、政治的なタカ派が含まれていて、恐怖に焚きつけて、国境という免疫機構の強化に向かおうとしている。
チベットの次は台湾だ(然り、然り)。台湾の次は日本だ(本気でそんなことを言っているのか?)
その背景にあるのは、相も変わらず赤化への恐怖である。
しかし、赤いコミュニストも、黒いファシストも、ベクトルの方向性が違うだけで、国境という免疫機構を強化し、ほとんど鎧のようにして、他者を排除しようとする思考であることに変わりない。
こんなものは、赤かろうと黒かろうと、ダメだ。ぜんぜん、話にならないと思う。
恐るべきことに、今回中国が地上から抹殺しようとしているチベットの文化には、こうした自民族/他民族、コスモス/カオス、内/外の二項対立を解体する思考が含まれているのであり、そうした人類の未来を切り開くかも知れない思考を根絶やしにしようとしているという事実である。
さらにいえば、『毛沢東語録』の思考の根底の根底、マルクスの思考のうちには、国境という免疫機構を強化しようとする自称コミュニストとは決定的に異なる自民族/他民族、コスモス/カオス、内/外の二項対立を解体する思考の萌芽が含まれているのだが、それは地上に跋扈する新旧の左翼にはめったに見出せない思考なのだ。そこに到達するためには、スターリン主義批判だけでなく、他の党派を殲滅=殺戮することに正義を遂行するエクスタシーをかんじる回路を切断する必要がある。その回路を切断することがなければ、思考体系の外に出ることができず、殺人という絶対悪さえもが正義と認識されるのだ。
しかしながら、このありえないユートピアを地上に具現化してしまおうという奇蹟的な憲法があって、それは日本国憲法第9条と呼ばれている。
No.365 - 2008/04/17(Thu) 15:06:04
中国当局によるチベット武力弾圧に抗議する方法 / はらぴょん
■チベット武力弾圧に関する報道
http://www.phayul.com/news/Index.aspx

■以下のサイトから、PDFファイルをダウンロードし、FAXにて意思表明すべし。

http://www.geocities.jp/t_s_n_j/

FAXの送付先は、以下の通り。
(2段目にメールフォームも書き込みました)
・首相官邸
http://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken.html
・自民党本部
http://meyasu.jimin.or.jp/cgi-bin/jimin/meyasu-entry.cgi
・民主党本部
https://www.dpj.or.jp/header/form/contact.html
・外務省アジア大洋州局中国課
http://www.mofa.go.jp/mofaj/comment/index.html
・中国大使館
・インド大使館

■関連サイト
http://tsnj2001.blogspot.com/
http://dalailama.com/news.216.htm
http://www.youtube.com/watch?v=D5xrSB3hJR0
No.364 - 2008/03/18(Tue) 19:27:03
死なないための精神改造 / はらぴょん
 世の中に蔓延る貧困、格差、雇用不安、自殺増大……といった諸問題を抜本的に解決するためには、無論社会の改革が必要なのは言うまでもないことだが、それを改革には時間がかかるし、急激な革命を行おうとすればテロリズムの問題が伴い、ろくな結果にはならない。
 急激な革命を志向する者は、もともとは正義を目指してその思考を始めた人間が多いとは思う。しかし、どんな正義でも、目的は手段を浄化するだの、正義の理念を逸脱するものは排除・粛清すればいいと考えた瞬間に、権力という罠に絡め取られる。これは、今日のエコロジーについてもいえることだ。地球温暖化問題に呼応して、エコロジーを叫ぶ。よろしい。その主張自体は正しい。しかし、その思想にテロリズムを回避するための戦略や仕掛けがセットされていなければ、即座にエコファッシズムに転化するということを知っておかねばならない。
 依然として、急激な革命を好む人間は、目的が手段を浄化するとでも思っているのか、mixiのなかで素性を隠して、今度は文学系のコミュニティ(「ドストエフスキー」など)ではなく、宗教系のコミュニティ(「チベット密教」など)で、別の団体名を掲げて、オルグを続けているようだが、目下の問題はそうではない。即効性のある自殺をしないための精神構造づくりである。
 精神改造とはいっても、なにも感動しないし、自分で考えることもしないロボット人格をつくることではない。そういうロボット人格をつくることに対しては、私は常に反対してゆきたいし、そういうロボット人格を要請する社会には、それが右であれ、左であれ、抵抗を示してゆきたいと考える。そうではなく、つねにいろんなことに感動しながら、また自分で遅々としてであれ、考えるということを大切にしながら、かつ社会的に簡単に潰されない人格をつくるすべを知っておかねばならない。
 今日の社会、この一見平和な日本は、実は恒常的な静かな戦時下にある。それはアメリカの主導する世界戦略を現実としてバックで支えているということもあるが、国内を見渡せば、ネットカフェ難民に始まり、正規雇用を減少させ、いつでも使い捨てできる非正規雇用を増大させていこうという方向性があり、結果として自殺者という静かな戦争での戦死者が膨大に積み重ねられてゆくという現象がある。つまり、人間性を犠牲にする社会の方向性がどんどん進行してしまっているということだ。
 繰り返すが、今日考えて見たいのは、抜本的な社会変革ではなく(それについては、おいおい考えてゆくことになるだろう)、即効性のある簡単に権力に潰されない精神育成である。
 まず、ストレスをためない方法だ。ストレスが蓄積し、自信が喪失し、人格が潰される。この悪循環を断ち切る方法である。趣味など自分の好きななこと、没入できることをつくり、ストレスを明日に引きずらないようにするというのも有効だろう。しかし、単なる愉しみとしての趣味に加えて、知的武装するということも、この世の中をサバイバルするためには必要ではないかと思う。くじけそうなとき、へこたれそうなとき、自分を内側から励まし、目前の社会の執行人に対して、時には反論できるような言葉の組織化。
 自分の場合、思春期のころ、カミュの『反抗の論理』を読み耽り、そのロジックを頭のなかに叩き込んだ。いつもポケットに『反抗の論理』を忍ばせ、眠るときも枕の下に『反抗の論理』を隠し持っていた。『反抗の論理』は、カミュの創作ノートなのだが(正式名称は「カミュの手帖」)、その文章の断片の集積は初めから公開を想定して書かれており、その証拠にカミュはタイプライターで打ち直しをしていた。それは箴言集としても読める内容だったのである。
 論理とは言っても、それは論理学の論理ではなく、生命の論理であり、生きるという観点から人生や社会、そして世界をどのように捉えることができるかという問題を扱っていた。
 この『反抗の論理』は、私の内側で骨肉化した言葉であり、簡単に外部からの力に押しつぶされないように論理武装をさせるものであった。
No.363 - 2008/03/04(Tue) 01:05:02
サルトルとゲルニカ / はらぴょん
 昨日、放送された「美の巨人たち パブロ・ピカソ『ゲルニカ』」では、『ゲルニカ』が発表された当時、コルビジェは不快感をあらわし、サルトルは「彼は方法論をまちがえたのだ」と、これまた無理解であったと言っていた。
 パブロ・ピカソの『ゲルニカ』は、スペイン内乱中のフランコ将軍を支援するために、ナチスがみせしめして行った空爆を契機に描かれた作品であり、歴史上初の対民間人への無差別大量虐殺に対する怒りを、モニュメントとして普遍化して表現したものだと、私は捉えている。
 では、なぜサルトルは、『ゲルニカ』に対して無理解だったのか。番組の伝え方では、当時の知識人が無理解だったのは、ゲルニカの空爆の後、大規模な大量死の時代に突入することを、ピカソのように見通すことができなかったためであるという。
 第二次世界大戦中、カミュは『闘争(コンバ)』誌で、対独地下運動の最先端の論陣を張っていた。一方、サルトルは、兵役についたが、ドイツに捕虜として捕まったが、その捕虜収容所のなかで、ドイツ兵にハイデッガーの『存在と時間』を持って来させたり(ハイデッガーはナチス党員なので、このことでナチスに信用されたのではないかと思われる)、『蝿』の台本を書き、仲間うちで演劇をやって愉しんだ。そのあと、偽の身体障害証明書で釈放され、ボーヴォワールらと再会、どんちゃん騒ぎをしたという。
 サルトルの政治的センスは、ちょっとピントがずれている可能性はある。その後、ソ連の擁護者になってゆく過程を追っていくと、社会主義の理想に眼を眩まされて、収容所の問題を軽視しているように見える。
 だから、『ゲルニカ』の意味を理解しなかったという説明は、まんざら間違いではないと思う。しかし、サルトルが理解しなかった、というか理解したくなかったのは、まずキュビズムという方法論に対してであることを見落とすと、とんでもない間違いになる。仮に、サルトルがゲルニカの空爆以降、世界は第二次世界大戦の大量死の時代に向かっていると理解していたとしても、やはりキュビズムの手法に不快感を表わしただろうと思う。これは政治的センスの問題だけでなく、実存主義という原理と、キュビズムの方法論が合わないということに由来している。
 サルトルが理解できるのは、セザンヌのような絵画までである。特に、最晩年のセザンヌが、「肉」、というか存在の質感の追求に向かったことは、サルトル的実存主義の方向性と一致している。これに対して、あらゆる方向から見た世界を画面上に再構成しようとするキュビズムは、断片の集積であり、実存主義の方向性と一致しない。
 とはいえ、私自身はセザンヌも好きだが、ピカソはもっと好きだ。『ゲルニカ』を見ていると、全体主義への怒りがこみ上げてきて、こころが沸騰し始める。これに関しては、分からず屋のサルトルなど放っておけばいいと思う。
No.361 - 2008/01/13(Sun) 16:47:38
反権威的、反常識的サルトル / はらぴょん
 ちくま学芸文庫版の『存在と無』(全3巻)が完結した。文庫版になったので、ポータブルに持ち歩けるようになった。
 サルトルの哲学は、あらゆる権威をぶち壊しであり、既成道徳に疑問符を投げつけ、一切の価値観を破壊する哲学であり、自分の生き方くらい自分で決めろ、その代わり自分の行動は最後まで責任を持て、という自由の哲学であるから、これをポケットにしのばせて歩くのは、爆弾を抱えて歩行するに等しい。
 第二巻で、他者のまなざしによって石化し、「対他存在」という疎外態になってしまった人間存在について、ねちねちと粘液的な文体で分析したサルトルは、最終巻で人間の自由を説き、自由の裏にある責任について語る。そして「実存的精神分析」を提唱し、フロイトの無意識を撃破すると同時に、人間は即自にして対自、すなわち神をめざして決死の投企をするが、即自にして対自などというものはありようがなく、空しい受難で終わると説く。
 問題は、今日におけるサルトルの哲学の位置づけである。前述したように、サルトルはフロイトの精神分析なんてものは認めない。当然、精神分析に影響を受けたシュルレアリスムなんてものも認めない。即自にして対自を目指しての命がけの飛躍とか、魔術的綜合なんてものも認めない。さらには、実存主義の後に登場した構造主義とも対立する。
 ここで話題を変える。ニュートンの万有引力の理論の後に、アインシュタインの相対性理論が出てくる。さらには、統一場理論なんてものも出てくる。しかし、最先端の理論が出てきたとしても、リンゴと大地の間の関係だけを考える限りでは、ニュートンで必要十分である。ニュートンでは不十分になるのは、光は重力で曲がるか、といったレベルのことを考え始めたときである。
 別の事例を考えてみる。普通、平行線はどこまで延長しても交わらない。ユークリッドの世界ではそうだ。ところが、この前提条件をとっはらって、さらに広い視野で考えようとすると、非ユークリッド幾何学が必要になる。かといって、ユークリッド幾何学が無意味になったのかといえばウソで、これは、平行線はどこまで延長しても交わらないという条件下では有効なままだ。
 サルトルにしてもそうだ。サルトルは、行動しなければ、なんの価値もない。存在しないも同様だと考える。意識は、常になにものかについての意識である、ということは、なにものかに志向性を向けていない眠った意識なんてものは、まったくナンセンスである。こういう考え方ならば、例えば、選挙のとき、投票するとか、なんらかのアクションを起こすのが当然だということになる。なにもしないで、後で愚痴るのは、まったくナンセンスということになる。世の中のほとんどの行動様式は、サルトルの哲学だけで十分指針になる。それに同調するにせよ、反対するにせよだ。
 だが、物事を突き詰めて考えたあげく、この世界の事物に実体があると思い込んでいたのが、すべての錯誤の始まりだったと気づく。むしろ、関係論的に、すべては縁によって生成されるとみるべきではないかと考えはじめる。そうすると、サルトルの哲学では満足できなくなる。
 とはいえ、サルトルの哲学が無意味になったというわけでは、まったくない。対人、対物、対国家……人がなにかとぶつかるときには、かなり効力を有する哲学である。なにより、読むものを元気づける哲学であるという点が嬉しい。それは、権威や常識にとらわれず、零から根底的に考えようとする志向を持っているからである。実をいうと、このような破壊的な哲学は、めったにない。 
No.360 - 2008/01/13(Sun) 16:45:58
MANDALA [PSYCHEDELIC VERSION] / はらぴょん
I
It does not need the words
Close your eyes
Look to the center of the consciousness

There is the pipe in the center of the body
Energy of the life spreads in a pipe
The life energy rises like a snake slowly
It passes cakra and rises to the point of the head

Imagine it
You are Maitreya-bodhisattva
Please get rid of all deep attachment
You will pour into all living things with tears of the love

MANDARA
MANDARA
The lotus flower turns
Sweet honey pours into the ground

I will tell the truth to you
An agonized person is happy
The reason is because only an improving person is agonized
You do not have to worry
There is Maitreya-bodhisattva watching you
The Maitreya-bodhisattva is your true name

II
We cannot express the truth by the words
Meditate
You are supported in the love of people in the world and live

Unknown energy is unexploited in you
The power expresses oneself and is satisfied with what is recognized
The power finds joy in saving people before long

Imagine it
You are Maitreya-bodhisattva
Please get rid of all deep attachment
You will pour into all living things with tears of the love

MANDARA
MANDARA
The lotus flower turns
Sweet honey pours into the ground

I will tell the truth to you
The world is on the verge now
The material civilization let the world divide
It brought an economic difference and war
It destroyed environment
However, the hope is still left
You wake to oneself who is true and save the world
By MANDARA, the world becomes one again

マンダラ(意訳)
I
言葉はいらない
瞳を閉じて
意識の中心を見つめて

からだの中心に脈管がある
生命のエネルギーが、脈管を流れる
蛇のようにゆるゆると生命のエネルギーは上昇する
チャクラを通過し、頭頂に昇りつめる

想像してごらん
あなたは弥勒菩薩だと
どうかすべての執着を断ち切って
すべての生きとし生けるものへ慈しみの涙を降り注ぐがいい

マンダラ
マンダラ
蓮華の華が回転し
甘露が大地にしたたる

真実を告げよう
苦悩する人は幸せであると
なぜなら向上しようとする人だけが苦悩するのだから
心配することはない
あなたを見守る弥勒菩薩がいる
弥勒菩薩はあなたのほんとうの名前だ

II
私たちは言葉によって真実を表現できない
瞑想しなさい
あなたはこの世のなかで人々の愛に支えられ、生きていると

未知なるエネルギーがあなたのなかで眠っている
その力は自身を表現し、理解されることで満足する
その力はやがて人々を救うことに喜びを見出す

未知なるエネルギーはあなたのなかで眠っている
想像してごらん
あなたは弥勒菩薩なのだと
どうかすべての執着を断ち切り
すべての生きとし生けるものに慈しみの涙を……

マンダラ
マンダラ
蓮華の華が回転し
甘露が大地に注がれる

真実を告げよう
この世界は現在、危機に瀕している
物質文明は世界をバラバラにして
経済的格差と争いをもたらし
さらには環境をぶち壊した
しかしながら、希望はまだ残っている
あなたが真実の自分に目覚め、世界を救う
マンダラによって、再び世界をひとつに結びつける
No.357 - 2008/01/01(Tue) 10:10:38
謹賀新年 / はらぴょん
明けまして、おめでとうございます。

本年がここを訪れる人にとって、いい年でありますように
お祈りいたしております。

というか

「環境問題」を例にとれば判るように、
すべてが連動しているのですから、
「ここを訪れる人」に限定してはダメで、
「すべての人」とせねばなりません。

また、「お祈りいたしております」などと、
一歩離れたところから他人事のように言うのではなく、
「ともに努力してゆきましょう」と、
あくまでも「いい年」にするのが、
われわれ自身であることを強調せねばなりません。

というわけで、

本年がすべての人にとって、いい年でありますように
ともに努力してゆきましょう。
No.356 - 2008/01/01(Tue) 10:06:09
要約・見解 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 ミクシィでの一連の遣り取りについての要約・見解を示していきます。
No.315 - 2007/06/08(Fri) 22:16:25

要約・見解(14) / 杉澤鷹里
>明日になれば、貴方がなさったことは、すくなくともlainさんや淳さんや乱蔓さんには、自ずと知れてしまいます。

>実際、ほとんど動きのない、閲覧者のほとんどない、はらぴょんさんの掲示板である「虚無なる『匣の中の匣』」で、杉澤さんが意見表明をするというだけでは、杉澤さんの意見表明として、不自然に不徹底なのではないでしょうか。

 これらの発言は、とても不思議なものです。
 一体、はらぴょんさんがアレクセイさんとのマイミク関係を解除した、という事実にとって、それをlainさんや淳さんや乱蔓さんが知ってしまう、ということがどれほどの意味を持つのでしょう。
 私がアレクセイさんを批判している個々の内容にとって、閲覧者のほとんどない掲示板でそれを行っている、ということがどれほどの意味があるのでしょう。
 私は、この二つの発言に、アレクセイさんのヒトに見られるということへの過剰な意識を見出します。アレクセイさんにとって大事なのは客観的な・普遍の事実ではなく、ヒトにどう捉えられるか、ヒトにどう見られるか、だ、ということをまざまざと感じます。
 もちろんヒトにどう見られるか、ということを考えることは非常に大事なことです。けれど、アレクセイさんのその意識は、適切な行為へと結びついていかない。
 先に指摘した、事実を歪曲して「一言半句ふれてはいない」と私を批判した事柄は、ヒトに見られる(ヒトにこのように理解されたいという)ことだけを考えて、事実から逸脱した発言を平然とやってのけてしまう、という、不適切な行為の典型のように思います。
No.354 - 2007/09/08(Sat) 17:47:02

要約・見解(13) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 議論の旗色が悪いと、相手を悪し様に罵ることに終始する。アレクセイさんのその傾向を一連の議論の中にも見出すことが出来ます。
 議論のはじめから終着点に至るまで、私は一貫して、私が明らかに誤りであると感じられる部分を指摘してきました。はじめから辛辣と言えば辛辣であり、(アレクセイさんの過度の批判から)はらぴょんさんを弁護する立場であると言えばはらぴょんさんを弁護する立場でもあるわけでした。
 それなのに、私に対するアレクセイさんの評価は、著しく変化していきます。

「 何か、この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており、両者に益するところなく、互いの尻尾を追い掛け回すうちにバターへと溶解始める虎にも似た印象を受けます。
 まあ「どちらかが死に至るまで続く『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間どもには、その無様さ、滑稽さ、醜悪さこそ望んでいたところでしょうがね。うっけっけっけ。」という私の発言に対するアレクセイさんの評価は、

はじめは以下のようなものでした。

(以下引用 mixi(5)-4 )


『この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており』というご評価に、責任をもっていただけるのでしょうか? 
つまり、はらぴょんさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?

貴兄が、この「らしからぬ」コメントで何を狙ったかは、おおよそ想像ができます。
両者に対し、ここで「そんな議論をしても、お互いに益することはないんだから、お止めなさい」と言っても、少なくとも私の方は退かないだろうと正しく判断し、それならば両者引っ括めて『人格についての誹謗中傷の応報』扱いにし、『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』を喜ばせるだけだ、ということを強調することで、私のやる気を削ごうとお考えになったのでしょう。

そのために、わざわざご自分が『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』に近い位置にあるかのような「演技」をし、「汚れ役」まで引き受けられたというわけです。『うっけっけっけ。』というのは、その「殊更さ」を証すものでしょう。

(以下mixi(5)-7)

私は、人に操作されるのを、何より嫌う人間です。そして、そういう私は、相手が「書いていること」が、そのまま相手の「意図・狙い」だとも思いません。
例えば、「ぶっきらぼうな親切」というものもあれば「親切を装ったペテン」ということもあります。私が問題とするのは「見かけ(書かれたこと)」である「ぶっきらぼう」や「親切そう」ではなく、「意図(本性)」である「親切」や「ペテン」なんですね(洞察力のない、はらぴょんさんの場合には、おのずとその逆になります。つまり「見かけ」しか、問題にできない)。
だからこそ、私は杉澤さんの「失礼を装った書き方」に腹を立てなかったし、逆に、はらぴょんさんの「専門家のお節介を装った書き方」に秘められた「陰湿な嫌がらせ」に激怒したわけです。

(引用終わり)

私の言葉の汚さに対して、一定以上の高い評価をされていることと思います。ところが、私がアレクセイさんにとって不都合な事実を指摘し、議論の形勢が明らかにアレクセイさんにとって不利になりますと、議論の主題とはあまり関わりのないことまで含めた私への批判を、アレクセイさんは展開していきます。同じ発言についての見解が以下のような変化をします。

(以下引用 mixi(10)-4 )

> アレクセイさんのはらぴょん論において、明らかな逸脱を感じた箇所があります。それについて、語らせていただきます。
> 竹本さんに電話したくだり。
> これは、はらぴょんさんが「(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている。」ということの証左として、「竹本健治の公式ホームページである『玲瓏館』とのリンクが切れていたことを発見して「嫌われたんだ」と嘆い」たことがある、というエピソードがあり、さらにそのまた余談であるわけです。つまり、紹介する必要のないエピソードです。私はこれを読んだとき、顔が紅潮するのが分かりました。アレクセイさんが竹本さんに電話したのは、なぜか? 私はそこに友情を見出します。はらぴょんさんのことを心から心配した、情に厚いアレクセイさんの姿を見出します。そのエピソードは本来なら心温まる、エピソードです。はらぴょんさんに明かすことなく胸に秘めていたアレクセイさんの奥床しさもまた、好ましい。それなのに、そんな大事なエピソードをアレクセイさんは、はらぴょんさんを侮辱し、はらぴょんさんに対して精神的に優位に立ちたいがために(論理的には紹介する必要がないのに)、そのための道具として使ってしまった。はらぴょんさんを踏みにじり、二人の間にあった友情を踏みにじり、アレクセイさんが目指すのはただ、はらぴょんさんを傷つけること、自分の傷から目を背けること。私はとても悲しく思いました。

相変わらず「くっさい三文芝居」だなあー。これで読者が感涙してくれるとでも思っているんだったら、よっぽど杉澤さんは、読者を「舐めている」ということだ。アレクセイは友情を踏みにじる冷血漢で、ご自分は「優しい人間だ」と世間に向けてアピールするには、ちとお芝居が古すぎませんか?

> 2007年02月27日02:26 杉澤鷹里

> 何か、この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており、両者に益するところなく、互いの尻尾を追い掛け回すうちにバターへと溶解始める虎にも似た印象を受けます。
> まあ「どちらかが死に至るまで続く『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間どもには、その無様さ、滑稽さ、醜悪さこそ望んでいたところでしょうがね。うっけっけっけ。

とか、

> 2007年03月09日00:34 杉澤鷹里

> 私は正直者ですから(笑)、偽らざるはらぴょん論を展開していきます。
> はじまり、はじまり。
> はらぴょんさんについてはっきり言えるのは、鈍感だということです。二度も、三度も、「『キララ、』は私が先だ」などと、書き散らしてしまう点にもその鈍感さは明らかです。そしてホランドさんを引合いに出して滑稽だ、などと書けばおよそ事態がどう推移していくか分かりそうなものです。ぎょえー、はらぴょんそんなの書いて大丈夫なのかよ、とほとんどの読み手が思ったはずです。そういう、禁忌を難なく犯してしまう、この鈍感さは、真に救いがたい。

などと書いていた人と、同一人物だとは思えません。

(引用終わり)
「ぶっきらぼうな親切」と評価されていたはずの言葉が、ここでは不真面目な発言をする、「優しい人間」とはかけ離れたものの発言であるという具合に、否定的に扱われています。

「アレクセイの花園」から私を立ち入り禁止にした前後の発言にも、過剰な批判を見出すことができます。

>>  はらぴょんさんが謝罪の後、態度を豹変させるまでの時間の経過はいかにも奇妙です。その辺りの経緯を本人が言明していない以上、類推するしかないのですが、それは、ハタと冷静になるのに必要な時間であったのかもしれません。
>> 私がはらぴょんさんに、これまでどおりアレクセイさんとマイミクの関係を続けていくのが良いと思うのだけれど、もし耐えられずマイミク関係を解消するのであれば、面倒を避けるためマイミクの関係を断つのと同時に書込制限するのがよい、と助言したことを明言しておきます。


>等と書き、お馴染みの「曖昧節」を弄しながら、杉澤さんがはらぴょんさんに『助言』して、私を「マイミク」から外させた事実を、自供している。

>しかし、ここで注目すべきは、私の質問が「私信の無断公開」という「明らかな不適切行為」についてのものであるにも関わらず、杉澤さんは、そのことに関しては、またも「一言半句ふれてはいない」という、歴然たる事実だ。


杉澤鷹里という人(下)
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1525

これは、明らかに事実を歪曲した誹謗です。言論人としての良識、社会人としての常識から逸脱した行為です。

確認しましょう。私の発言の全体は、
「 はらぴょんさんが謝罪の後、態度を豹変させるまでの時間の経過はいかにも奇妙です。その辺りの経緯を本人が言明していない以上、類推するしかないのですが、それは、ハタと冷静になるのに必要な時間であったのかもしれません。
 私がはらぴょんさんに、これまでどおりアレクセイさんとマイミクの関係を続けていくのが良いと思うのだけれど、もし耐えられずマイミク関係を解消するのであれば、面倒を避けるためマイミクの関係を断つのと同時に書込制限するのがよい、と助言したことを明言しておきます。
 ミクシィというものが志向している方向性から考えて、面倒を起こす人間に対して書込制限することは決して、批判すべきことではないと考えます。
 残念ながらアレクセイさんははらぴょんさんからそのような人間であると認定されてしまったというわけです。そして、この遣り取りの実際を知るものとしては、その認定には、かなりの程度妥当性があると思っています。
 いずれにせよ、アレクセイさんが
>べつに私は、貴方のマイミクに戻りたいとは思いません。
とおっしゃっているのであれば、現実的な問題は特に無いように思います。
 メールの無断公開は、一般論としては、よろしくないことです。
 ですが、アレクセイさんも、はらぴょんさんとアレクセイさんとの関係も特殊であり、内容的なものを鑑みても今回の行為を「非常識で、仁義を欠き、手段を選ばない」とまでは言えないと思いますし、また、アレクセイさん自身が「べつに人に読まれて困るものではないから公開されても困りはしません」というのであれば、問題ないのではないでしょうか。
」ミクシィでの遣り取りの公開 http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1457

です。はっきりと「「私信の無断公開」という「明らかな不適切行為」」についての見解を述べています。「一言半句ふれてはいない」などと要約できることではない。全く事実に反しています。アレクセイさんは批判のために事実を歪曲し、その虚構にもとづいて私を批判しています。
 論争をするのもいい、相手を手厳しく非難するのもいい。だけれど、議論の形勢が自分に不利になったからといって、事実をねじ曲げて、相手を誹謗し、そして、反論の場を奪ってしまう。あまりの小卑怯さ、意気地のなさ、良識の欠如に、愕然とします。言論人としての信用を根本から奪い去ってしまう行為だと言えます。
No.349 - 2007/08/18(Sat) 23:44:15

要約・見解(12) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
藪木二郎さま、

 残念ながら、藪木さんの発言には、有意義で発展的な議論を進めていくことを困難にする、問題点がいくつかあるように思います。
 以下に、その点を示します。もし、私に対してメッセージを発することが今後もあるのであれば、その点の改善を望みます。

(1)批判の理由・根拠がクリアに示されていない点

>はらぴょん様は私のことを,一体どのように呼んでいるのでしょうか? ところで,「『オリエンタリズム』的」とボカした表現を用いたのは,一つには私自身は,誰かが西洋「と」東洋「に分け、」東「の側から」西「を批判する」といったような「イデオロギー批判」には,賛成できないからです)……。
>このような「考え」方を「面白い」などと言ってしまって、それで本当によろしいのでしょうか?

「はらぴょん様は私のことを,一体どのように呼んでいるのでしょうか?」という言葉の答えを私は、私が目にする範囲から容易には見出すことができません。次の文章とのつながりも明らかでなく、この疑問文によって何を藪木さんが示そうとしているのか、理解できません。
「一つには私自身は,誰かが西洋「と」東洋「に分け、」東「の側から」西「を批判する」といったような「イデオロギー批判」には,賛成できないからです」というのが藪木さんの立場というのは分かりましたが、「それはそうなのですか」としか言いようのない、ごく個人的な信条の表明です。例えば「ヒトを殺してはいけない」といったような、一般的妥当性を有する意見とは性質を異にします。
 ですから、「このような「考え」方を「面白い」などと言ってしまって、それで本当によろしいのでしょうか?」という発言については、額面通りの質問と受け取って、「はい、それでよろしいです」と、言うしかありません。
 けれど、ここには含意があるはずです。疑問ではなく、反語としての機能を書き手は意識している、と私は思います。「本当によろしいのでしょうか? いや、よくない」という批判だと理解します。しかし、それが適切な批判でないことは、先に示したとおりであり、藪木さんの主張したいところのものを私は受け取ることができません。批判的な言及をするのであれば、思わせぶりな印象批判をするのではなく、具体的で明確な批判をするべきであり、藪木さんの言葉にはその明確さが欠けていると考えます。

(2)論理的な飛躍がある点

>>「<A>は、自足的な自己同一性のゆえに<非A>から区別されるのではなく、<非A>と区別されるかぎりで、「対他−異立」的に、同一的な<A>とされるのである」という考えに即したものと考えます。[……]

> などといった「考え」方は、露骨に「オリエンタリズム」的ですよね?
> つまり、

>>「西洋は、自足的な自己同一性のゆえに東洋から区別されるのではなく、東洋と区別されるかぎりで、「対他−異立」的に、同一的な西洋とされるのである」、

> って訳ですから

ここには、論理的な誤りがあります。抽象的な構造を共有する別の具体的なことを、ある具体的なことを言っているときに、言っている、というのは誤っています。
 以下の例え話で論旨がわかり易くなると思います。「こちらの商品78円になります、100円お預かりしましたので、22円お返しします」と店員が言った。ここには100−78=22という引き算の構造があります。その引き算の構造を共有する別の具体的なものとして「こちらの商品78万円になります、100万円お預かりしましたので、22万円お返しします」と店員が言った、というものがあります。藪木さんの意見は、22円返そうとしている店員に対して、「22万円返すと言った」と言っているのと同じ事です。
 オリエンタリズムについては、私は何も言っていません。
 論理的な奇妙さ、というか考察のポイントのズレというかを他にもいくつか指摘できます。

>それなのになぜ「行為」が出て来たり「代数学」が出て来たりするのでしょうか?

「行為の代数学」という一つの著作名、固有名詞を、分割して討究しても意味を持ちません。

> あなた様の前回の投稿によって、ある文の中の言葉を「<A>」とか「<非A>」といったような記号に置き換えて検討することが、承認されたように思われます
 
承認されたも何も、論理学的な問題点をお尋ねになられたのは藪木さんです。論理というのは、記号に置き換えても損なわれることのない何かのことであり、論理学的な問題点は、記号に置き換えて検討する類のものです。

 もちろん、言葉というのはメタファーや含意によって通じる部分もありますから、藪木さんの言葉を全面的に否定する気はありませんが、あまりに論理的な逸脱が大きく、議論を行ううえで支障を来すものと判断します。

 以上、問題点を挙げました。
 
 最後に。以下の意見は、議論を重ねるに足るもののように思います。そのためコメントを加えておきます。

>するとやはり、はらぴょん様の主張はおかしいように思われます。なぜならば、「<非A>」は「<C>」かもしれないですし、「<D>」かもしれないではありませんか。

CもあるかもしれないしDもあるかもしれない、けれど、その中で、反実存主義が実存主義を形なすうえで主要な「対他−異立」的なものである、というのが、はらぴょんさんの主張と理解します。そこに、初歩的な論理学的誤りはない、というのが私の考えです。「いやCこそが実存主義を形なすうえで主要な物なのだ」というのは、論理学的な誤りに対する批判ではなく、事実認識の水準での批判です。
No.346 - 2007/08/11(Sat) 23:07:12

思考機械様からの投稿があったので保険をかけときますが… / 藪木二郎
>ところで、「観念論哲学」と「唯物論哲学」という観点から、「反唯物論哲学」の範疇に入るものは他にないか。

 そういえば私は、「唯心論」という言葉を聴いたことがあります(また,「実在論」という言葉も聴いたことがあります……)……。
 とはいえ、その「唯心論」などといった言葉は、恐らくはらぴょん様の「観点」によって「排除・隔離・隠蔽」されてしまうのでしょうね……。

 また、はらぴょん様は他の場所で以下のようなことも書いていますが、「面白い意見だと思います。」

>ベルイマン神父は、宗教学に詳しかったようだが、宗教学には大きく分けて二つあり、ひとつは自身の宗教の教義についての護教的な学であり、もうひとつはあらゆる宗教を平等に扱う比較宗教学もしくは宗教人類学である。[……]ところが、ベルイマン神父はキリスト教以外の宗教にも詳しかったということは、前者だけでなく、比較宗教学(ミルチャ・エリアーデ等)の著作にも親しんでいたということになる。[……]

>[……]このように、現在のキリスト教には納得しないが、それはあるべきキリスト教ではないからだと考えた人は、たくさんいる。[……]

 例えば、「『ポスト構造主義』」「の著作」「だけでなく、」「『反ポスト構造主義』」「の著作にも親しんでい」る人がいたとして、その人は果たして、「『ポスト構造主義者』」なのでしょうか? それとも「『反ポスト構造主義者』」なのでしょうか?
 例えば、「現在の」「『ポスト構造主義』」「には納得しないが、それはあるべき」「『ポスト構造主義』」「ではないからだと考え」る人がいたとして、その人は果たして、「『ポスト構造主義者』」なのでしょうか? それとも「『反ポスト構造主義者』」なのでしょうか?

 この「論考」は本当に「面白い」「論考」ですので、もう少しだけそこからの引用を続けてみましょう。

>ベルイマン神父は、異端者である。異端者を殺せ!

>殺せ!殺せ!ベルイマンを焼き殺せ!

>殺せるさ、殺せるはずさ。黒服に呪いの焦点を合わせるだけなのだから。
No.345 - 2007/08/10(Fri) 10:20:28

思考機械は考える / 思考機械
実存主義は、「実存は本質に先立つ」(サルトル)と考える。
反実存主義は、「実存は本質に先立つ」とは考えない。
本質主義は、「本質は実存に先立つ」と考える。これは、「実存は本質に先立つ」とは考えないのであるから、反実存主義の範疇に入る。
ここまでは、先行する哲学者たちが考えたことだ。

ところで、実存と本質という観点から、反実存主義の範疇に入るものは他にないか。
どちらかが先ではなく、「実存と本質は同時である」というのはどうか。
というか、実存主義も本質主義も、実存と本質に関係があるということを前提に、どちらが先立つのかを云っているので、この前提を取り払い「実存と本質は関係がない」というのはどうだろう。
あるいは、「あるのは無であり、実存も本質もなにもない」としたらどうなのか。
No.344 - 2007/08/07(Tue) 07:20:49

お話の途中に恐縮なのですが私への応答があったようなので… / 藪木二郎
○杉澤鷹里様

 あなた様の前回の投稿によって、ある文の中の言葉を「<A>」とか「<非A>」といったような記号に置き換えて検討することが、承認されたように思われます。
 であるならば、私が引用したはらぴょん様の文、

>「実存主義者」は、「反実存主義者、つまり本質主義者」に反対する主張をする人である。

 を、

>「<A>」は、「<非A>、つまり<B>」に反対する主張をする人である。

 と置き換えて表記し、その上で検討してみても、問題はないように思われます。
 するとやはり、はらぴょん様の主張はおかしいように思われます。なぜならば、「<非A>」は「<C>」かもしれないですし、「<D>」かもしれないではありませんか。

 杉澤様、私はあなた様に、

>[……]
>「『100+100=200』という算数」の初歩と同じようなレベルにおいても、おかしいような気がするのですが……。

 と問いかけ、あなた様も私に、

>[……]少なくともはらぴょんさんの意見が「『100+100=200』という算数」の初歩と同じようなレベルにおいておかしい、ということはないと思います。

 と応じたのではありませんか? それなのになぜ「行為」が出て来たり「代数学」が出て来たりするのでしょうか? しかもあなた様はこの「行為の代数学」なるものを「簡単に要約はできない」とし、そしてそれ以上の説明はしてはいない訳ですから、私はこの「行為の代数学」なるものを「クワス関数のようなもの」と見なします(当然その限りでは正しいとしてもいい,と言っている訳ですが…….なお,「クワス関数」に関してはソール・A・クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス──規則・私的言語・他人の心』黒崎宏訳,産業図書,1983年を御参照下さい,……などと書く必要はないでしょうね? はらぴょん様もアレクセイ様もしばしば引用しておられる柄谷行人先生の本でも触れられています)。

 それにしても、

>「<A>は、自足的な自己同一性のゆえに<非A>から区別されるのではなく、<非A>と区別されるかぎりで、「対他−異立」的に、同一的な<A>とされるのである」という考えに即したものと考えます。[……]

 などといった「考え」方は、露骨に「オリエンタリズム」的ですよね?
 つまり、

>「西洋は、自足的な自己同一性のゆえに東洋から区別されるのではなく、東洋と区別されるかぎりで、「対他−異立」的に、同一的な西洋とされるのである」、

 って訳ですから(そして「西洋」人はネイティヴ・アメリカンのことを,「インド人」などと呼んだのですよね? はらぴょん様は私のことを,一体どのように呼んでいるのでしょうか? ところで,「『オリエンタリズム』的」とボカした表現を用いたのは,一つには私自身は,誰かが西洋「と」東洋「に分け、」東「の側から」西「を批判する」といったような「イデオロギー批判」には,賛成できないからです)……。
 このような「考え」方を「面白い」などと言ってしまって、それで本当によろしいのでしょうか?
No.343 - 2007/08/06(Mon) 00:16:59

コメント / はらだです。
以下のことを前提に、コメントします。
◆アラン・ソーカルについて
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6

(1)アラン・ソーカルは、論文中に不正確な数学・科学用語を乱用した知の意匠を用いるポストモダニズムの哲学者を批判している。
(E=mc2 は性的等号というリュス・イリガライ(フェミニズム理論家)とか、勃起器官は、√-1 に等しいというラカン(精神分析学者)とかの発言を見ると、この批判は妥当であるということがわかる。比喩にせよ、適切とは思われない。)
哲学の議論が、明瞭・明晰になることは良いことであり、ソーカルの議論によって、不適切な数式や科学用語の使用にブレーキがかかることは歓迎すべきことだと考える。
(2)ソーカルの批判は、物理学者の立場からなされたものであり、現代思想の書物に、不適切な数式や科学知識がちりばめられていることに対してなされている。ソーカル自身も認めているように、この批判はポストモダンの哲学自体に対してなされたものではない。
ソーカルの批判によって、現代思想の書物を読む意義がなくなったと考えるのは早計である。この批判は、ポストモダンの難解ぶった書き方に対するものであって、その本質に対してではないのである。
(3)科学の擁護という観点からすると、アルチュセールのイデオロギー批判は、ますます重要性を帯びてくる。アルチュセールは、観念論哲学と唯物論哲学に分け、唯物論の側から観念論を批判する。この際、権力によるイデオロギーの利用という視点から、国家のイデオロギー装置ということを問題にする。さらには、科学者の自然発生的な哲学をも、新たな観念論の始まりとして批判する。例えば、ニューサイエンスと呼ばれるものは、科学者の自然発生的哲学の最たるものである。
(4)私は中沢新一氏の著作から多くのものを得ているが、同時に理論的整合性の観点からすると、浅田彰氏の方が整合性があると考えている。浅田彰氏の理論の根底には、アルチュセールのイデオロギー批判があり、観念論批判で貫かれている。そのため、整合性があり、ソーカルとブリックモンの批判も、彼には当たらないとみる。(ソーカルとブリックモンの論法で、山形浩生は、浅田彰のクラインの壺を批判しようとしたが、これは山形の理解力不足であると私は考える。理由は、資本主義というシステムが、外部からの侵犯をなし崩しにするということを、クラインの壺が言い表しているということが、よく理解されていないからである。)これに対して、最近中沢新一氏が提唱している三位一体モデルは、物事の説明には役立っても、新たに湧き出た観念論哲学のように思われて、私には釈然としない部分がある。
No.341 - 2007/08/05(Sun) 09:36:47

要約・見解(11) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 藪木二郎さま、

 議論の進みが遅く、申し訳ありません。

 私はポストモダニズムに与するものではありませんし、そうした思想的な内実において、はらぴょんさんと考えを同じにするものではないであろうということをお断りしたうえで、話を進めさせていただきます。
 ソーカル事件、については、つまり、ポストモダニズムの自然科学用語のいいかげんな使い方に対する否定的見解については、私も考えを同じくします。例えば、中沢新一さんの「雪辺曲線論」などを読みますと、あまりに感覚的に科学用語を使用しており、眉をひそめてしまうところがあります。
 
 とはいえ、私も、例えば青都探での諸論文において、異なる様々な体系の用語をかなり自由な解釈で使用しており、ポストモダニズムの自然科学用語の用い方と、どれだけ差異があるのか、クリアに説明するのは容易ではありません。
 体系に依拠して学ぶことと、体系を越え出て新しい知見へと到達していくこと、その兼ね合いは難しいものです。
 だけれど、この一連の遣り取りの中でのアレクセイさんの発言における誤りと、誤りを隠蔽しようとした行為は、そうした議論とは本質的に異なる水準のものであると思います。

>更にはらぴょん様の、「『実存主義者』は、『反実存主義者、つまり本質主義者』に反対する主張をする人である」といったような主張は、論理学的にいってどうなのでしょうか?

「<A>は、自足的な自己同一性のゆえに<非A>から区別されるのではなく、<非A>と区別されるかぎりで、「対他−異立」的に、同一的な<A>とされるのである」という考えに即したものと考えます。面白い意見だと思います。
 論理学的には、たとえば大澤真幸さんの『行為の代数学』において、考察が深められていて、それをちょっと簡単に要約はできないのですけれど、少なくともはらぴょんさんの意見が「『100+100=200』という算数」の初歩と同じようなレベルにおいておかしい、ということはないと思います。
No.340 - 2007/08/04(Sat) 22:50:44

まだお話の途中なのでしょうが投稿が休止しているようなので… / 藪木二郎
>「100+100=200」という算数の体系に与して、学んでこそ、「100+100=300」である、と突っぱねてしまっては到達できないような領域、「eのiπ乗は−1になる」というような領域に達することができるのだと思います。

ポストモダニズムに与する人がこういうことを書くのであれば、その前に、当然の手続きとして、ソーカル事件について何らかの見解を示しておくべきなのでは? と思っていたのですが、アレクセイ様がどこかで、同様の指摘をなさっているようですね? とはいえこの掲示板でも、上の事件を無視したままではマズいのではないでしょうか?

特にはらぴょん様は、「ジャック・デリダの脱構築(ディコンストラクション)の考え方とその政治的実践版であるドゥルーズ=ガタリのノマドロジー的戦争機械」などとサラッと書かれてらっしゃいますので、アレクセイ様も行ったと思われる Wikipedia に見られる以下の記述、

>ソーカルに批判されたのは、ジャック・ラカン、ジャン・ボードリヤール、ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ、ジュリア・クリステヴァ、ミッシェル・セール、ポール・ヴィリリオ、ジャン=フランソワ・リオタールなど多くがフランス人の思想家だった。
>なお、ポストモダン・ポスト構造主義の思想家であっても、ジャック・デリダやミシェル・フーコーは、自然科学用語は殆ど使用していないので、ソーカル事件においては直接批判対象になっていない。

という記述とも併せて、この事件についての見解を伺いたいと思います。

更にはらぴょん様の、「『実存主義者』は、『反実存主義者、つまり本質主義者』に反対する主張をする人である」といったような主張は、論理学的にいってどうなのでしょうか? 「『100+100=200』という算数」の初歩と同じようなレベルにおいても、おかしいような気がするのですが……。
No.338 - 2007/08/03(Fri) 09:21:04

要約・見解(10) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 ここまで、アレクセイさんがミクシィでした、「はらぴょん論」の内容に則し、それが妥当性を欠く批判であることを、(1)発言の内容そのものへの批判、(2)発言をするに至る経緯に対する批判、(3)そういう発言をしてしまう人格・物の考え方に対する批判、という三つの水準において確認してきました。
 そして問題は「はらぴょん論」の内容だけでなく、「はらぴょん論」を展開する、という行為にも、あると言えます。遣り取りの中で、私が述べた通りです。
(以下mixi(10)-3より引用)
 アレクセイさんのしているはらぴょん論は、「ホランドさんは浅田批判などしていない」という発言と同じく、自分の誤りを認めたくないがための欺瞞的隠蔽の一つに過ぎません。はらぴょんは卑小だ、はらぴょんは汚いと語ることによって、自分の不名誉から目を背けているわけです。
(引用おわり)

 そして、アレクセイの花園への転載においても、同様の問題があったと思います。はらぴょんさんからマイミク関係を解除された、ということを契機に、はらぴょんさんをあしざまにののしる文章を、アレクセイさんは自身の管理する掲示板に転載した。
 そのとき、アレクセイさんは己の不誠実さのゆえに、はらぴょんさんから拒絶された、という事実から目を背けようとして、はらぴょんさん批判を再び繰り返した、のだと言えます。
 その混乱ぶり、逆上ぶりは、
>私をマイミクに戻し、閲覧拒否を解除し、すべてを元の状態に戻すこと
>私は、貴方のマイミクに戻りたいとは思いません
http://d.hatena.ne.jp/dzogchen/20070428

>ご承知のとおり、私は「来る者を拒まず、去る者を追わず」という人間でございますから
http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1463

などと互いに相矛盾するような言葉が並ぶところに読み取ることができます。

きわめつけは、

>明日になれば、貴方がなさったことは、すくなくともlainさんや淳さんや乱蔓さんには、自ずと知れてしまいます。

という発言です。この発言は全く奇異に思われます。後に、この発言の問題点を、先頃、青都探においてアレクセイさんが私にした奇妙な要求の、その奇妙なロジックと、関連づけて検討することとします。

 はらぴょんさんがアレクセイさんとのマイミク関係を解除したことについて、少し触れておきます。
 はらぴょんさんは、時間の経過の中で、自分の意志で、アレクセイさんを拒絶するに至ったんです。少なくとも、その経過に私は関与していません。私がしたのは、はらぴょんさんからアレクセイさんをマイミクから外そうと思うのだけれど、どう思う? という相談をされたときに、返事をしたことだけです。
 はらぴょんさんがアレクセイさんを憎むに至った経緯は、私の与り知らぬものです。経緯は分からぬけれど、アレクセイさんのはらぴょん論に充ち満ちた欺瞞に、時が経ち冷静さを取り戻した人間が気づき、怒りや憎しみ、許せないという気持ちを抱くのは当然のことのように思います。
 そうした欺瞞を、それと感じさせず、圧倒的な圧力で相手を屈服させてしまう力量に驚きを隠せないけれど、結局のところそうして勝ち取った「勝利」がアレクセイさんにもたらす利益は何もないこと、そうした欺瞞的な論争能力はアレクセイさんの最大の欠点だということ、これらのことを深く認識してほしいと思います。
No.337 - 2007/07/16(Mon) 17:59:00

要約・見解(9) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 アレクセイさんは非常に引用を多用されます。それは、多くの場合巧みで適切だと思います。しかし、時として、その引用が己の脆弱性を隠蔽する鎧のようなものとして機能していると感じられることがあります。
 例えば、私とのアレクセイの花園での遣り取りの中で、「読解とは、どういうことなのか(上)」http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1516 というタイトルの投稿において、東 浩紀さんの文章を引用しているのですが、結局この引用によって、何を言っているのかというと、杉澤鷹里の発言の言葉尻を捉えて批判することがなかなかできないので、想像上の杉澤鷹里を批判するようになった、ということの言い訳なんです。
 東 浩紀という権威を持ち出して、とんでもない意見の鎧にしているわけです。
 ミクシィでの遣り取りでも、そうした権威による脆弱な自己の鎧とする行為の典型を見ることができます。
「浅田彰批判をしていない」ということが欺瞞だとする私の指摘を受けたアレクセイさんは、柄谷行人さんの文章

『 デカルトのコギトを思考主体とみなすのが通念であるように、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームを規則の大系(共同体)の先行といった観点からみるのも通念である。通念と通念を争わせるのも通念である。むろん私は、べつにデカルトやヴィトゲンシュタインは本当はこうなのだと主張するつもりはない。マルクスに関しても同じだ。私は私の考えをいっているだけだと考えてもらってかまわない。ただ、私のいうようなことが考慮されていない議論は、どんなに綿密であっても、たんに退屈なのだ。』

を都合3回も引用しています。「浅田彰だろうが、デリダだろうが、はたまた柄谷行人であろうが『本当はこうなのだと主張するつもりはない。』」という主張に、自信があるのなら、何も柄谷行人という権威を3度も引用する必要はないはずです。アレクセイさんはそれなのに、そうしてしまう。それは、アレクセイさんが表面的な強がりとはうらはらに、自分に自信がなく権威に縋る傾向があることを如実に示している事柄だとは言えないでしょうか。
 アレクセイさんは確かに権威を批判します。だけれど、それは、

>浅田彰は、日本における「ポスト・モダン思想」の先駆者にして、代表的な論客だ。その彼の意見に「ロゴス中心主義」を見るというのはかなり大胆なことだし、それをデリダで脱構築しようなんて、そう誰にでも思いつくことじゃないだろうな。

という発言に現れている通り、「権威だから」批判する、「権威だから」批判することに価値を見出す、倒錯した権威主義であると言えます。
No.335 - 2007/07/14(Sat) 17:00:32

要約・見解(8) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 アレクセイさんのアンチ権威主義が、権威というものを意に介さない、権威を超越し、権威が失効したような状態としてあるのではなく、むしろ逆にほとんど権威主義に寄り添うものとしてあること、権威に恋い焦がれ、求めて求めてやめず、それなのに到達できないがゆえに、反転した感情として生じたものであること、それを確認していきます。
No.334 - 2007/07/07(Sat) 17:02:27

要約・見解(7) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 アレクセイさんが一連の議論の中で、幾度か繰り返した奇妙な論法があります。それは以下のようなものです。

(以下引用)

知識が有るとか無いとか言っても、それは所詮相対的なものでしかなく、知識が無ければ「語る権利」が無いというのであれば、「語る権利」を有するのは、この世の中にたった一人の「もっとも知識を有した人だけ」ということになるでしょう。

(引用終わり)

 これは、はらぴょんさんの日記「批評におけるパラダイムの混在」で、ホランドさんの発言が間違った解釈に基づくものだとして「ただでさえ、小難しい現代思想の世界において、さらにわかったようなわからないようなことを言う魍魎が跋扈するという状況は宜しくない。」と、評したことに対する、反論です。
 まず、はらぴょんさんの発言に対する応答としての問題点があります。はらぴょんさんは「知識がなければ語るな」ということを言っているわけでないにも関わらず、そしてもっと繊細な議論をしているのにかかわらず、それを「知識がなければ語るな」という大雑把な意見として(アレクセイさんの好む言い方をすれば「矮小化」して)扱っています。
 この反論が一般性を欠くことは、同じ論法を別のことに適用させて見れば、よりクリアになります。
「100円のものと100円のもの、あわせて300円になる」と間違えた小学生がいて、「100円のものと100円のもの、あわせて200円でしょ。もっと算数勉強しなくちゃ。こんな程度の間違いするんなら、買い物の計算をまかせられないわ」と母親が言った。小学生が、「算数の計算能力が無ければ「計算する権利」が無いというのであれば、「計算する権利」を有するのは、この世の中にたった一人の「もっとも計算能力を有した人だけ」ということになる」と反論した。
 そういう話になるはずです。この反論に妥当性を見出すことは困難です。アレクセイさんの論法は、真理や、一般常識というものを、無視することによって、成り立っていることが分かります。
 コンセンサスのある事柄とそぐわないことをすること、「100+100=300である」と突っぱねるということ、それは余程の覚悟のいることです。
 何がコンセンサスのある事柄なのか、ということを知っていること、「100+100=200」というのが正しいことととしてある、ということを知っているということ、それは世界に圧倒的な力を持って広がっている有益な知識に触れるためにとても大事なことのように思います。「100+100=200」という算数の体系に与して、学んでこそ、「100+100=300」である、と突っぱねてしまっては到達できないような領域、「eのiπ乗は−1になる」というような領域に達することができるのだと思います。
No.332 - 2007/06/30(Sat) 23:08:29

要約・見解(6) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 アレクセイさんによるはらぴょんさん批判において、「竹本さんの小説に出てくる『かくかくしかじか』という表現についての指摘はアレクセイさんが先にしたものであるのに、はらぴょんさんがそれを先に自分が指摘したかのようなレトリックを行使した」、というものは、実に具体的で、そして執拗でした。
 ここでも原文を確認しておきましょう。
 
(以下引用)

そして、さらに、はらぴょんさんは、それに続く書き込みで、私が「アレクセイの花園」に書いた竹本の新刊『キララ、探偵す。』についての文章に言及して、私の文章を「一部」引用して、次のように指摘しています(上半分が、私の文章の引用。下半分が、それに関する、はらぴょんさんの見解)。


『例えば、
 『「どうしたんだよ、そんな顔して」
  (…)
  「いや、実はかくかくしかじか」』(P53)
という『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』でも使われた、「メタ・フィクション」的手法。

2007年02月01日 00:16の方が、先でしたね。
いや、実は「かくかくしかじか」を発見したとき、アレクセイさんの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューから判断して、これは着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りしたのです。(←いやな奴だねぇ。まったく。)』


ここで、はらぴょんさんは、この点についての指摘は、自分のほうが『先でしたね。』あるいは『アレクセイさんの(…)着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りした』と書いています。――しかし、これは「恥知らずなレトリック(意図的欺瞞)」です。

事実は次のとおり。
私が『キララ、探偵す。』について上のように指摘した『「メタ・フィクション」的手法』については、はらぴょんさんも紹介している、私の『狂い咲く薔薇を君に』評、

・ 「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」2006年04月26日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=123885033&owner_id=856746

において、『あのう、それはかくかくしかじか』 (『狂い咲く薔薇を君に』P230)というセリフを含む、同作の3箇所に見られる「同種の技法」を指摘した上での、


『と、作中人物のセリフのなかで、「小説文法からの逸脱」的な「省略」がなされます。

 むろんこれらが、凡百の作家においてなされたものであれば、単なる「無神経」だと理解することも可能なのですが、作品に「メタ」的視点を導入するのが常態だと言ってもよい竹本健治の場合、そのような無神経さは、ほとんど考えられないことなのです。そして、そうだとすれば、これらは故意になされた「不自然な描写」だと理解する方が、むしろ自然だと言えるはずです。 』


という「私の指摘(見解)」を踏まえたものです。――と言うよりも、この点に関する指摘と、その意味を指摘することが、拙論の「眼目」であり、拙論を読んだ者であれば、「誰」でも『キララ、探偵す。』における「同様の部分(まったく同じ言い回し)」の意味を理解できるし、その箇所を「指摘」するのも容易なのです。
つまり、私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」を読んだ後に、『キララ、探偵す。』における上記の箇所を指摘するのは、私の批評に対する『先回り』ではなく『後追い』であり、その観点がすでに私によって指摘されたものであるという「断りを入れないで」なされた指摘は、所詮は単なる『猿真似』でしかない、ということです。

はらぴょんさんは、

・ 「『キララ、探偵す。』補足」2007年01月29日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=331067408&owner_id=491648

で、自分の書いた、


『ただ、普通のミステリと違うのは、「いや、実はかくかくじかじか」(53ページ)のような表現があることで、同じことを何度も書くのは、書く方も読む方もめんどうだし、小説=虚構だからいいじゃないの、ということで書かれているのだと思いますが、そこが違うということです。
このことは、メタ化とかかわってくると思いますが、そんなことは気にせず、愉しめばいいと思います。』


という指摘が、私の『猿真似』でしかないということを重々自覚していたからこそ、私が『狂い咲く薔薇を君に』で指摘しておいた点を『キララ、探偵す。』でも指摘すると(もちろん、私の指摘はそれだけではないが、はらぴょんさんは、そこしか紹介しません)、読者の多くが私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」までは読まないだろうことを見込んで、


『いや、実は「かくかくしかじか」を発見したとき、アレクセイさんの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューから判断して、これは着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りしたのです。(←いやな奴だねぇ。まったく。)』


と書き、私の『着目しそうな箇所』だと暈して、私が遠の昔に着目し指摘しておいたという事実を、そうではなかったかのようにレトリカルに「隠蔽」した上で、さも自分が、私の「未指摘の論点」を見抜き、『先回り』して指摘したものであるかのように「装った(偽装した)」んですね。

もちろん、他人が指摘したことを、改めて指摘してもかまいません。それについて「この点については、すでに○○氏が指摘済みであるが」などという律儀な断りを入れろとも言いません。
しかし、自分が黙って、他人の『猿真似』をやっておいて、それが露見しそうになると、それを「第三者」に対してのみ、その「事実」を隠蔽しようとする「姑息な態度」は、さすがに「見苦しい」し「人間として卑しい」と感じたので、私は、先の、はらぴょんさんの日記ページ、

・ 2007年02月10日「『魔』」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648

に、


『それは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか(笑)。』


とだけ、警告的にたしなめるに止めてのです(2007年02月12日)。

しかし、はらぴょんさんは、こうした「忠告」すら、気に喰わなかったのでしょう。自分の行為を恥じるのではなく、逆に、

・ 「批評におけるパラダイムの混在」2007年02月15日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648

を書いて、『「江戸の敵を長崎で」というような、陰険姑息な、回りくどい批判』を行ったのです。

(引用終わり)

「私の『着目しそうな箇所』だと暈して、私が遠の昔に着目し指摘しておいたという事実を、そうではなかったかのようにレトリカルに「隠蔽」した」というのは、なんとアクロバティックな行為だろう、と、本当にそんなことをする人がいるのだろうか? と首をかしげてしまう話です。
 実際のところ、はらぴょんさんの主張は、最初から今に至るまで変わらず、「キララ」は私が先だ、ということであり、アレクセイさんの認識とは全く逆転した形で、はらぴょんさんはこの点について拘泥していたのでした。議論の終着点で、はらぴょんさんは、「キララ」について先に「かくかくしかじか」のことを言及していたのに、それをアレクセイさんに黙殺されてしまったことが、アレクセイさんへ批判的な発言をするきっかけとなったのだと告白しています。
「狂い咲く薔薇を君に」と「キララ」とは別の小説であり、はらぴょんさんが「たとえ話をふたつ」で、説明しているように、そしてそのたとえ話に、私が補足しているように、「狂い咲く薔薇を君に」で、あることを指摘することと、「キララ」で、あることを指摘することとは別のことです。アレクセイさんの「狂い咲く薔薇を君に」での指摘を踏まえて、「キララ」において、同様の指摘をしたからと言って、それが傑出した論考だとは言えませんが、それはそれとして一つの指摘であるわけであり、少なくとも「私が遠の昔に着目し指摘しておいた」と斬りつけられることではありません。アレクセイさんが「遠の昔に着目し指摘し」たのは、「狂い咲く薔薇を君に」のことであって、「キララ」についてではない、というのは、論理的な妥当性があるように思います。そして、それははらぴょんさんにとっての確信であるわけでした。
 ですから、今も変わらず「キララは自分が先」と言い続けている、そういうはらぴょんさんにとって、アクロバティックなレトリカルな隠蔽をする必要などどこにもなかったはずです。
 実際当人の告白においても、アレクセイさんの批判が、まったくの言いがかりであったと感じられたこと(逆に言論的な圧殺をされる感覚を覚えたこと)が述べられています。
 アレクセイさんとはらぴょんさんの物事の価値のウエイトの置き方が、まったく異なるがゆえに、アレクセイさんは見当違いの批判をしていたというわけです。
 見当違いでありながら、アレクセイさんの言葉は辛辣であり、「恥知らず」「姑息な態度」「見苦しい」「人間として卑しい」などと言葉を連ねてしまっています。これは「勘違いでしたね、すみません、だははー」と軽く謝罪するのを困難にする、決定的に人間関係を破綻させる類の誹謗のように思います。

 なぜ、アレクセイさんが、このように存在しないアクロバティックな隠蔽がある、と考え、それを批判してしまったのか?
 それは、この要約・見解(4)、要約・見解(5)を読んでこられた方には、十分お分かりいただけるでしょう。アレクセイさん自身がそのようなアクロバティックな隠蔽を試みようとしていたからです。
 自分のことを、架空のはらぴょんさんに重ねて、はらぴょんさんを批判していたというわけです。それがアレクセイさんの(徹底的に相手を攻撃しようと意図したときの)批判の基本的な姿です。
No.331 - 2007/06/23(Sat) 13:20:47

要約・見解(5) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 アレクセイさんの反論は以下に示すとおりです。

(以下引用)

ここで私は、浅田彰に関する「通説」を紹介しているだけであり、浅田彰が実際にどうか、あるいは、私(アレクセイ)が浅田をどう評価しているか、を語ったものではない。
なぜならば、私は、浅田彰をほとんど読んでいないし、浅田彰批判も笠井潔のものしか読んでいないため、実質的に「浅田彰そのもの」を語れる(どこかへ位置づけうる)立場にはない。端的に言えば「浅田彰を知らない」。つまり、ここに引用された私の発言は、「浅田彰は、一般にこう評価されているそうだが」という「世間の浅田彰評価」に関する話でしかない。
――したがって、この部分をして、私が「浅田彰そのもの」について語った「かのように」持っていくのは、杉澤さんお得意の「(レトリカルな)牽強付会」というやつです。

ちなみに、私の「実感」を説明した文章を、「アレクセイの花園」(3月9日(金)23時36分30秒)から引用しておきましょう。

> 柄谷行人が『探究2』の「註」のなかで、我が意を得た発言をしておりますので、ご紹介しておきたいと存じます。


>『 デカルトのコギトを思考主体とみなすのが通念であるように、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームを規則の大系(共同体)の先行といった観点からみるのも通念である。通念と通念を争わせるのも通念である。むろん私は、べつにデカルトやヴィトゲンシュタインは本当はこうなのだと主張するつもりはない。マルクスに関しても同じだ。私は私の考えをいっているだけだと考えてもらってかまわない。ただ、私のいうようなことが考慮されていない議論は、どんなに綿密であっても、たんに退屈なのだ。』(P155)


> つまり、柄谷行人は「世界を、自分の頭で考えたいだけだ」と言っているのでございます。ですから、彼にとって、先行する哲学者は、世界を考えるための「道具」でしかなく、決してそれ自体を珍重するような「権威」ではないのでございますね。したがって柄谷は、それらの哲学者が「実際にどうだった」というようなことには興味がなく、「彼が考えたことは、こうであったとも考えうるし、そう考えた方が、世界をより興味深く考察することができる」と言いたいのでございます。

> 当然、こうした態度は、「専門」であることが「正統」であり、「正統」であることが「権威」を保証するものだと考える「専門家」には、嫌われ疎まれざるを得ません。しかし「そんな俗なことは、どうでもいい」というのが柄谷行人の考え方であり、私の共感するところなのでございます。

つまり、私も、浅田彰だろうが、デリダだろうが、はたまた柄谷行人であろうが『本当はこうなのだと主張するつもりはない。』のですね。
そういうことは、そういうことが好きな「専門家」の方に委せておけばいいことで、私たち素人が、読み齧りの半端な知識であれこれ決めつけることではないし、また、いくら知識があったとしても、決めつけることそれ自体、愚かしい行為なのですよ。

> この点を今まで指摘できなかったのは、私の単純な見落としによるものであり、それにより、適切でない解釈をしてしまったことを深く反省しています。

いや、それは「見落とし」ではない。貴方が今回ご指摘なさった論点なんて、そもそも「存在しない」んですよ(笑)。 むしろ「恣意的に間違った解釈を、事ごとしく提示したこと」を反省すべきです。

> あらためて確認しますが、はらぴょんさんが言う、

>>> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。

>> というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例

> だという評価は、的外れではないんです。

やはり堂々回りですね。
はらぴょんさんの『滑稽な事例』だという判断は、(すでにご本人は理解しておられるとおり)ホランドくんの言葉が「kamuiさんの言葉に向けられたもの」であることを理解できなかったためになされた、「的外れ」なものなのです。
ちょうど、杉澤さんが、ここでした、

> 「浅田彰は、日本における「ポスト・モダン思想」の先駆者にして、代表的な論客だ」というとき、その浅田彰は、思想家の浅田彰であり、kamuiさんの意見を表す何かでないことは明らかです。

という、私の言葉への「誤解」と、まったく同質です。
はらぴょんさんの失敗から学ばなかったのは、杉澤さん貴方ですよ。
 
(引用終わり)

>私は、浅田彰をほとんど読んでいないし、浅田彰批判も笠井潔のものしか読んでいないため、実質的に「浅田彰そのもの」を語れる(どこかへ位置づけうる)立場にはない。 

「語れる立場にはない」のに、それを語ってしまったから、滑稽だと言われているわけです。

>ここに引用された私の発言は、「浅田彰は、一般にこう評価されているそうだが」という「世間の浅田彰評価」に関する話でしかない。

>私も、浅田彰だろうが、デリダだろうが、はたまた柄谷行人であろうが『本当はこうなのだと主張するつもりはない。』のですね。

 世間の一般常識(正しい思想についての知識)に基づいて発言をしているのだ、という、主張と、そんなものは関係ない、という主張。この二つの相矛盾する観点から話しをしていて、論理が破綻しています。
 私の指摘を受けるまでのアレクセイさんの主張は、

>「誰でも書きそうな断片」が「浅田彰」や『構造と力』にあった場合、はらぴょんさんにとっては、それは「kamuiさんの意見」ではなく、「浅田彰」や『構造と力』が占有するもの(意見)として扱われねばならないのです(ホランド氏は、そうしなかった。「kamuiさんの意見」として応接した)。 (mixi(6)-6)
 
>ホランド氏は「浅田彰」を批判してなどいないからです。ホランド氏は、あくまでも「kamuiさんの意見」に異論を唱えています。その意味で、ホランド氏の意見表明は、いたって堅実であり、そんなホランド氏とkamui氏の対話を「浅田彰論」と捉える、はらぴょんさんや杉澤さんのご意見の方が「危うさ」を通り越して、事実から「逸脱」しているんですよ。 (mixi(6)-7)

というものです。「『世間の浅田彰評価』に関する話」をしていない、と言っているんです。『本当はこうなのだと主張するつもりはない。』どころか、浅田彰はこうなのだ、と言っていないと、言っているんです。
 私の指摘を受けて、立ち位置をスライドさせて、新たな言い訳をしているわけです。
 
>そういうことは、そういうことが好きな「専門家」の方に委せておけばいいことで、私たち素人が、読み齧りの半端な知識であれこれ決めつけることではないし、また、いくら知識があったとしても、決めつけることそれ自体、愚かしい行為なのですよ。

 素人であることを言い逃れの根拠にはしない、という普段(他人に求めている)立場と隔たりのある意見です。アレクセイさんの行為とこの意見との関係が明らかではないわけですが、その愚かしい行為をアレクセイさんもしている、と、思えるから批判の対象に登っているわけです。 
 
>いや、それは「見落とし」ではない。貴方が今回ご指摘なさった論点なんて、そもそも「存在しない」んですよ(笑)。 むしろ「恣意的に間違った解釈を、事ごとしく提示したこと」を反省すべきです。

>私の言葉への「誤解」と、まったく同質です。
>はらぴょんさんの失敗から学ばなかったのは、杉澤さん貴方ですよ。

 内容的なものは何も言ってないに等しい言葉です。

>はらぴょんさんの『滑稽な事例』だという判断は、(すでにご本人は理解しておられるとおり)ホランドくんの言葉が「kamuiさんの言葉に向けられたもの」であることを理解できなかったためになされた、「的外れ」なものなのです。

「ホランドくんの言葉が『kamuiさんの言葉に向けられたもの』である」だけに止まらず、(わずか数行の文章に基づいて)一般論としての浅田彰を語っているのだ、ということを具体的に指摘しているのに、それを全く無視しています。
 以上、詳細にアレクセイさんの反論がナンセンスなものであることを見ました。
 
 話を根本のところに戻せば、浅田彰が何を言ったか、メルロ・ポンティが何を言ったか、こだわる立場もあれば、こだわらない立場もあると思います。だから、勘違いは勘違いで大した問題ではないと、思います。
 そんな些細なことなのに、アレクセイさんは、それを受容れられず、欺瞞的な隠蔽を重ね、言い訳を並べ、人を傷つける言葉を吐いてしまう。
 それは言論人としての、大きな逸脱行為であり、私はそれをどうしても容認することができません。是非改めていただきたい。そうすることで、絶対に、絶対に、アレクセイさんは一回りも二回りも大きくなると信じてます。
No.327 - 2007/06/17(Sun) 21:09:25

要約・見解(4) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 この一連の遣り取りにおいて、先に示した三つの水準のうち、「(1)発言の内容そのものへの批判」が、最も重要なのは言を俟たないでしょう。はらぴょんさんのその発言に問題があるとして開始された議論であるわけですから。
 そしてその議論において、「浅田彰批判をしていない」というアレクセイさんの意見(mixi(6)-2)は、きわめて説得的で妥当なもののように思われました。アレクセイさんが示した引用箇所だけを見れば確かに、kamui氏によって引用された文章に示された考え方への異論、という枠組みを逸脱してはいなかったからです。
 しかし、その引用はきわめて不十分なものであり、アレクセイさんの「浅田彰批判をしていない」という意見は、それによって辛うじて成り立っていた虚構の意見だったのでした。
 アレクセイの花園に1月24日、アレクセイさん(としてのアレクセイさんが)がホランドさん(としてのアレクセイさん)に向けてした、以下の内容の投稿を紹介しないことによって成り立っていた意見だったのでした。

以下引用

> ――というわけで、園主さまの文章(主に、「ミクシィ」のコミュ【柄谷行人】に発表なさっている文章)を読ませていただいたり、あれこれご教示いただいている「ジャック・デリダの思想」は、けっこう身についているようですね。
> もちろん、原典を読まずにやっていることだから、誤解している部分も少なくないでしょうが、ボクなりに刺激され、役に立っている、というのは間違いないようです(笑)。

いや、私より上手に、デリダを援用してるんじゃないか?(笑)


>  え〜っと、ちょっと意図が伝わらなかったみたいなんですが、端的に言いますと、ボクは前回、浅田彰さんの「自己と他者」という図式そのものを、否定しているんですよ。それって「わかりやすいけど、ホントにそうなの?」って。

> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。でも、ボクは、そもそも、この「自己(私=我)」という基底、つまり「我思うゆえに我あり」という「ロゴズ」。言い換えれば、「ロゴス」という「基底=根拠」を疑っているんですよ。だから、ジャック・デリダを持ち出してきて『ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』という話に持っていったんですね。


浅田彰は、日本における「ポスト・モダン思想」の先駆者にして、代表的な論客だ。その彼の意見に「ロゴス中心主義」を見るというのはかなり大胆なことだし、それをデリダで脱構築しようなんて、そう誰にでも思いつくことじゃないだろうな。
「発達心理学」的な考え方に対する、柄谷行人的な指摘(「逆算的な思考(遠近法的倒錯)」)も、かなり大胆なもので、おもしろいと思う。「混沌から秩序へ=混沌から自我へ(自我=秩序)」という図式を疑うというのは、かなりデリダ的なんじゃないかな

引用終わり

 この箇所は、「浅田彰批判をしている」ことをクリアに示しています。
 私は、アレクセイさんがこの箇所を遣り取りの中で伏せていたのは、意図的な隠蔽だったと判断しています。なぜなら、kamuiさんとホランドさんとの遣り取りに疑問を抱いた私に対して、アレクセイさんがご丁寧なことに関連部分を示した(mixi(6)-6)際の言葉が、
「ひとまず、関連部分をぜんぶ引用しておきましょう。」
だったからです。「ぜんぶ」というのは過剰な表現です。関連部分の引用が「ぜんぶ」でないことは明らかでした。ホランドさんの言葉をkamuiさんがどう受け取ったか、アレクセイさんの引用には示されていませんでした。(私は、示されなかった、kamuiさんの言葉を知りたくて、「アレクセイの花園」の掲示板を遡っていき、問題の発言を知ったわけです)。そのような不完全な引用をわざわざ行い、それについて敢えて「ぜんぶ」という過剰な表現をしたのは奇妙でした。引用箇所以外に目を向けさせたくなかった、と考えるのが最も適切なように思います。
 ここには、手法的な姑息さ、という問題点と、議論の内容の問題点が現れています。
 内容的な問題点というのは、この一連の遣り取りでの重要な論点、はらぴょんさんの言葉が言いがかりだというアレクセイさんの主張、思想家というラベルでなく思想の内実が問題なのだ、というアレクセイさんの主張が、議論の流れの都合によって丁稚上げられた、真実とは隔たった虚構であった、ということです。
No.326 - 2007/06/17(Sun) 20:13:25

要約・見解(3) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 アレクセイさんの一連の遣り取りにおける「はらぴょん論」に対する(内容面での)私の批判は、先に示した三つの水準それぞれにおいて、以下のように展開していく予定です。

(1)について、(mixi(8)-9)において既に指摘したことですが)アレクセイさんは、やはり「浅田彰批判をしている」ことを見ていきます。mixi(8)-10で、アレクセイさんは私の指摘について反論をしているわけですが、その反論がナンセンスなものであることも確認します。

(2)について、はらぴょんさんがアレクセイさんがした指摘を先に自分が指摘したかのようなレトリックを行使した、ということはなかった、ということを見ていきます。

(3)について、はらぴょんさんが権威主義的であるのであれば、それとほとんど同じ水準でアレクセイさんもまた(反権威主義という装いをした)権威主義であること。権威主義、としてアレクセイさんが糾弾しているところのものが、必ずしも糾弾すべきものではないこと。これらのことを述べていきたいと思います。
No.321 - 2007/06/10(Sun) 17:03:26

要約・見解(2) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 別の角度から概要を示します。

 はらぴょんさんのミクシィの日記「批評におけるパラダイムの混在」を巡っての討論、という形式で捉えて、見ていきます。

 はらぴょんさんのコメントをホランドさんを含む自分への誹謗と受け取ったアレクセイさんによる批判が、議論の主旋律となります。アレクセイさんの批判は多岐にわたります。(1)発言の内容そのものへの批判、(2)発言をするに至る経緯に対する批判、(3)そういう発言をしてしまう人格・物の考え方に対する批判、という三つの水準において展開されている、と理解すると論旨が見えやすくなります。

(3)そういう発言をしてしまう人格・物の考え方に対する批判とは、はらぴょんさんが、権威主義的であるということ、サインコレクションを自慢するのと同レベルにおいて哲学の知識の所有を自慢しているということなどです。

(2)発言をするに至る経緯に対する批判とは、以下の二つのことで、はらぴょんさんがアレクセイさんのことを憎み、それでお門違いの誹謗をしたのだ、とする批判です。はらぴょんさんがアレクセイさんを憎むに至ったことの一つ目は、(はらぴょんさんが好きな作家である)小森健太朗さんをアレクセイさんが批判したこと。二つ目は、竹本さんの小説に出てくる『かくかくしかじか』という表現についての指摘はアレクセイさんが先にしたものであるのに、はらぴょんさんがそれを先に自分が指摘したかのようなレトリックを行使した、ということをアレクセイさんが暴いてしまったこと。と、されます。
 
(1)発言の内容そのものの批判は、こうです。はらぴょんさんの発言は、ホランドさんが浅田彰を批判しようとして、浅田彰さんの意見ではないものをそれと勘違いして批判している、というものであるが、実際にホランドさんがしたのは、kamuiさんの引用した文章をして便宜的に浅田彰の意見と呼んだのであって、事の本質を外した見当違いな誹謗である、と。
No.319 - 2007/06/09(Sat) 10:28:48

要約・見解(1) / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 一連の遣り取りのあらましをごくコンパクトに示しておきます。

 まず、議論の着地点から事を眺めてみましょう。
 一連の遣り取りは、杉澤鷹里の無様な退場とアレクセイさんのまとめの言葉で終わります。
 ヒトによっては杉澤鷹里の無様な退場のあまりの無様さに、なんでこんなものを公開したがったのだろうと、首を捻られたかもしれません。
(私は無様さを愛します。無様さにこそ反省すべき課題がクリアに現れているし、それを越えてこそ向上が望めるからです。……と、まあそれは措くとして)
 
 なぜ、私が私の退場を無様だと感じるか? 
 それは、退場する直前に、「ほとんど議論は終わった。目的は達した」という達成感・満足感に浸っていたからです(ちなみに目的とは、(1)二人の争いをなるべく円満に終わらせること (2)著しく貶められたはらぴょんさんの名誉を回復すること (3)アレクセイさんの逸脱行動を少しでも改めてもらうようにすること でした。(1)の目的は達しえなかったにしても、(2)(3)についてはある程度目算がついた、と思ったのです)。その達成感をはらぴょんさんの「ある転落の記録」は根底から奪い去ってしまった。議論の土台を奪われた墜落感。達成から墜落へ、その落差はあまりに大きく、さすがにその日の夜は一睡もできませんでした。

 私がどうして達成感を感じていたのか? それは、
アレクセイさんの日記 続・杉澤鷹里氏との議論
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746にしたコメント(mixi(8)-9)において、アレクセイさんのしてきた議論の内容面でのきわめて重要な問題を指摘し、

 アレクセイさんの日記 杉澤鷹里流「アレクセイ論」 あるいは、アレクセイ流「杉澤鷹里論」 
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=369493150&owner_id=856746
にしたコメント(mixi(10)-3)において、アレクセイさんのしている議論の背景としての問題点(動機のレベルでの問題点)を的確に指摘し得た、と考えていたからです。それによって議論の趨勢は動かしがたいものになった、と、判断していたからです。
 議論の内容面での問題とは、重要な論点、アレクセイさんが繰り返ししていた「浅田彰批判をしていない」という主張が欺瞞的な隠蔽によって成り立っていた、ということです。
 議論の背景としての問題点とは、アレクセイさんが自分に自信が持てないがゆえに自分の誤りを認められず、自分の傷から目を背けるために相手を過剰に批判している、ということです。
 アレクセイさんの「はらぴょん論」編集は、こういう、私の指摘を省くための操作であり、そのために、全ログの紹介ではない要約となったのだ、というのが私の考えです。

 それにしても。議論の一切合切を根底から否定する行為。そんな行為をどうしてはらぴょんさんがし得たのか? 私は悩みました。どうしてだ? どうしてだ? 議論の流れからはどうしても理解できず、私は苦しみました。悪意を感じる行為よりも、意図が理解できぬ行為のほうがはるかに恐ろしいものです。
 ……虚無なる『匣の中の匣』での一連の遣り取りの紹介では、フォントの色にちょっと凝ったわけですけれども、それによって私が何を表現したかったのかと言うと、日記の持ち主の違いです。どうしたわけか、足あとを残すのを厭う習慣がミクシィにはある。日記の持ち主の違いは、誰がどの情報に触れたか、ということを知る手がかりとなるわけです。
 はらぴょんさんは、ある時期からアレクセイさんのページをまったく訪れなくなっていたのではないかと思います。アレクセイさんの日記で展開していた議論をはらぴょんさんは踏まえずに、発言をしていた。(足あとが残らないことでアレクセイさんははらぴょんさんが私の展開していた議論を読んでいないことを理解していたのだろうと思います。仲の悪い共犯者たちの姿はさぞおかしかったことでしょう。ともあれ)だから、はらぴょんさんは私には理解不能な全く時宜を得ない発言をしてしまった。
 批判されているものが、目を通すことさえ出来なくなるほど、アレクセイさんの批判は辛辣で攻撃的です。それは確かに類いまれで図抜けた能力ではあるけれども、それは同時にアレクセイさんの最大の欠点でもあると思います。多くのことで私はアレクセイさんを批判してしまっているから、そういう私の言うことは、それだけで拒絶され、説得力を失ってしまうだろうけれど、それでも、そうした攻撃的で辛辣な言葉を連ねることで、アレクセイさんが得るものは少なく、失うものが多いことを知ってほしい、と私は思います。攻撃的で辛辣な言葉を控えることで、アレクセイさんはずっとずっと今より評価されるであろうことを、知ってほしい、と私は思います。……アレクセイさんが私の「ぺてん」に引っ掛かるか、引っ掛からないかは、当然アレクセイさんの自由です。だけれど、アレクセイさんだって、理解しているはずです。私の言ってることが、ごくごく当たり前の、アレクセイさんを知るヒトだったら誰でも思うような、素朴な思いだということを。そしてそれが正しいであろうことも。

 さて。
「なぜ、はらぴょんさんが(ハタと冷静になったか何かして)アレクセイさんと絶縁したのか?
 なぜ、アレクセイさんが、(中略)、よく分からない逡巡の日々を過ごして「はらぴょん論」を公開してこなかったのか?
 なぜ、遣り取りそのものではなく、遣り取りを編集して公開したのか?
 なぜ、無様さ・滑稽さ・醜悪さを愛する私が、この一連の遣り取りの公開に積極的なのか?」

 という先に(アレクセイさんの掲示板に)提起した疑問の回答を簡単ではあるけれども、それなりに示したと思います。
 それぞれの論点について深めていく意志を私は持っています。まあ、急ぐことではないので、ゆっくりと議論を続けていきます。
 
No.316 - 2007/06/08(Fri) 22:17:35
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