40810

虚無なる「匣の中の匣」

竹本健治ファンの評論連載の場として自由にお使いください
ここではノンフィクションが扱われます
各自の責任でこれらの情報をご利用ください

なお管理人が掲示板の運営に支障をきたすと判断した投稿については
予告なく削除することがあります
ご了承下さい

HOME | お知らせ(5/4) | 記事検索 | 携帯用URL | フィード | ヘルプ | 環境設定 | ロケットBBS
『ナショナリズムの由来』 / 杉澤鷹里
 大澤真幸著『ナショナリズムの由来』が刊行されている!
 掛け値なしに、十年待ちました。

(刊行から一ヶ月遅れの衝撃ですが、それでも衝撃は衝撃なので、ここに表明します)
No.353 - 2007/09/04(Tue) 22:57:31
どんだけ〜 / 田宮 [関東] [ Home ]
パイズりしてるのに潮吹いてたwwwちゃんとお金ももろたよ。
No.348 - 2007/08/18(Sat) 07:36:00
「ぬらりひょんの謀」について / 杉澤鷹里 [ Mail ]
ぬらりひょんの謀――杉澤鷹里論

というアレクセイさんのコメントの要旨は、私の議論がだらだらと長く続いている、ということであるようです。
 既に結論については示している、というのが私のそれに対する答えです。
 私が何を問題視しているかは、十分述べているわけであり、詳細な検討を待たずとも、それがどのような意味を持つか理解可能であろうし、それに対する反論をするなら、することが出来るはずです。「思わせぶり」に止まった根拠のない誹謗ではないことは、明らかです。

 議論の進みがゆっくりなのは、それは反省すべきことですけれども、ネットへの書き込みへ潤沢に時間を費やすことができない状況であって、その中で、一週間に一度程度は、議論を進めていっているわけですから、多めに見てほしいです。
 二十年という時間をかけて議論をしたってアレクセイさんとしては問題ないはずです。はらぴょんさんに、そうしたお付き合いを呼びかけていた以上は。

>杉澤さんについては、「はらぴょん論」の「補助線」として言及するに止める予定でいました。

いや、ですから、

「私と杉澤さんの全ログを、世に問うことになるでしょう」とアレクセイさんは宣言しているんです。
No.322 - 2007/06/17(Sun) 02:10:22

エラーについて / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 アレクセイさんが、アレクセイの花園「謎」http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1542
で述べているエラーに私も遭遇しましたが、リンクを全て外すことで、エラーを回避できたのは、このスレッドに示したとおりです。アレクセイさんはきっと全てのリンクを外すことはせずに、再投稿されたのだと思うのですが、いかがでしょうか? 

 アレクセイさんが、『中井英夫――虚実の間に生きた作家』 いよいよ刊行!http://8010.teacup.com/aleksey/bbs?BD=6&CH=5&M=ORM&CID=1545 2007年 6月18日(月)23時22分3秒 において、「まあ、あのような「遁走」ぶりを見せたはらぴょんさんから、説明のなされることは金輪際ございませんでしょう」と述べていますが、はらぴょんさんは2007/06/17(Sun) 08:39:18の時点で既にこのスレッドにおいて、見解を述べており、アレクセイさんの言葉は事実に反した誹謗である、と存じます。
 
 いずれシステム上の問題に過ぎないものを、相手を非難する、拠り所にしてしまうところに、アレクセイさんの議論の展開の仕方の姑息さという問題点が現れていると思います。また、私が示したアレクセイさんの一連の遣り取りでの逸脱行動についての発言に、アレクセイさんが正面から取り組むことの出来ない現状を如実に表しているとも思います。
No.330 - 2007/06/21(Thu) 01:13:52

エラー対策 / はらぴょん
現在時点での「虚無なる「匣の中の匣」」の設定。

セキュリティの設定 (ヘルプ)
スパム対策機能
続投稿検知システム 有効
ブラックリスト 有効
スパムトラップ 有効
スパムフィルタ 使用する(既定)
証明書機能 無効 (有料版専用)
タイムスタンプ機能  使用する(既定)
投稿キー 使用しない(既定)
同一ホストからの連続投稿の許容時間 30秒(既定)
コメント欄のURL投稿限度数 0(既定)
検索ロボット避けタグ 挿入しない(既定)
投稿者のホスト名を表示 表示しない(既定)
投稿者のブラウザ情報を表示 表示しない(既定)
逆引き出来ないホストの投稿拒否 使用しない
国外のホストからの投稿拒否  使用する(既定)
国外のホストからの投稿拒否 使用する(既定)
日本語の含まれないメッセージの投稿拒否 使用する(既定)
………以下、省略

コメント欄のURL投稿限度数 0(既定)というのが、問題がありそうでしたので、とりあえず10に設定を変えてみました。
最大50にできますが、商売目的の人が来そうですので、やめておきます。
No.329 - 2007/06/20(Wed) 22:36:42

Re: / はらぴょん
>エラー回避のためにリンクを外しました。

アレクセイ氏が借りているところと、この掲示板の貸し出し業者が競争関係にあるがために、エラーが生じるのだと思います。
No.325 - 2007/06/17(Sun) 08:39:18

エラー回避のために / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 エラー回避のためにリンクを外しました。
No.323 - 2007/06/17(Sun) 02:18:23
論争をザッと読ませて頂き… / 藪木二郎 [関東]
ある場所ではらぴょん様御自身が、「リゾームとは、ありとあらゆる方向に、コンセントを繋ぐことであり、それによって情報を混戦させ、スパークさせることなのである」、なんて仰ってますよね?
「ありとあらゆる方向に、コンセントを繋」いでいれば、「文化記号論者とポスト構造主義者が、並列に並べられる」事態だって、生じ得ますよね?
「何がいいたいのか、私にはわからない」としても、それは正に、「それによって情報を混戦させ、スパークさせ」られた結果な訳ですから、もって瞑すべし! って所じゃないですか?
No.191 - 2007/05/12(Sat) 02:46:13

Re: / はらぴょん
「俎板の鯉」になるつもりでしたが、ひとことだけ。

・基本的に「○○主義者」は、「反○○主義者」に反対する主張をする人を指します。
例:「実存主義者」は、「反実存主義者、つまり本質主義者」に反対する主張をする人である。
ゆえに、「ポスト構造主義者」もまた、「反ポスト構造主義者」に反対する主張をする人です。
逆からいえば、「反ポスト構造主義」に反対することによって、「ポスト構造主義者」になるのです。


直接は関係ありませんが、藪木二郎さんの議論を読んでいて、連想したことは、民主主義者とネオ・ナチについてです。
ドイツの民主主義者の中には、ナオ・ナチを排除するのが民主主義と考える人と、ナオ・ナチもひとつの考え方として、許容するのが民主主義であると考える人がいるという話を聞いたことがあります。
この問題は、社会情勢を加味して考えないといけませんから、ここで挙げるべき例としてはふさわしくありませんが。
No.324 - 2007/06/17(Sun) 08:30:28

戦わない戦い / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 同様の問題を私もまた抱えているように思います。
 戦わない戦いを戦ってしまう、という矛盾が(この一連の遣り取りでの)私の目標にはあって、それは初めから敗北を約束づけられたような、目標であったのだと思います。
No.318 - 2007/06/09(Sat) 09:21:58

ポストモダニズム / 杉澤鷹里 [ Mail ]
藪木二郎さま、
 感想ありがとうございます。議論の全体像を示すことを優先したために、お返事が遅れてしまったことをお詫びします。申し訳ありません。
 

>「ありとあらゆる方向に、コンセントを繋」いでいれば、「文化記号論者とポスト構造主義者が、並列に並べられる」事態だって、生じ得ますよね?
>「何がいいたいのか、私にはわからない」としても、それは正に、「それによって情報を混戦させ、スパークさせ」られた結果な訳ですから、もって瞑すべし! って所じゃないですか?「何がいいたいのか、私にはわからない」としても、それは正に、「それによって情報を混戦させ、スパークさせ」られた結果な訳ですから、もって瞑すべし! って所じゃないですか?

私もそのように思います。ポストモダニズム原理主義、ってのは語義矛盾であるわけで、積極的に何かを主張しない、という(積極的な)主張という難しさを孕んでいるのだと思います。


 
No.317 - 2007/06/09(Sat) 05:42:53
mixi(10) / ☆
アレクセイさんの日記 杉澤鷹里流「アレクセイ論」 あるいは、アレクセイ流「杉澤鷹里論」 2007年03月10日 16:07

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=369493150&owner_id=856746
No.295 - 2007/05/28(Mon) 21:47:29

mixi(10)-7 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月15日 19:19

☆ みなさま

見てのとおり、杉澤鷹里氏がここで書いているのは、「お見物衆」に向けた「逃げ口上」だけです。
いかに「第三者に笑われないように、退場するか」――それしか考えていません。

> はらぴょんさんの「ある転落の記録」の衝撃ものすごく、三日間打ちひしがれていました。
> いつだって、はらぴょんさんは私の理解から逃れていく。……だからこそ、この奇妙な関係をやめられないんですけどね。

杉澤さんとしては、要は、はらぴょんさんに「梯子をはずされた」形になって、立ち往生してしまったということ。――しかし、これは杉澤さんの勝手な言い分であって、現実には、はらぴょんさんは、自分の態度を自分を決めたにすぎません。

杉澤さんとしては、はらぴょんさんに、もっともっと逃げ回ってもらわないと困るんですね。でないと、自分と「共依存=もたれあい」関係にある「仲間」あるいは「引き立て役」である、はらぴょんさんが「自立」することになり、自分の立場が宙に浮く。
だからこそ、杉澤さんは「客観的な調停者」を装いながらも、私の批判から、はらぴょんさんを救い出そうとした。「救う」とは、はらぴょんさんを「そのままにしておく」「成長させない」という意味合いであり、決してこれは、はらぴょんさんの「ため」を思ってなされたものではない。徹頭徹尾、杉澤さん本人の都合であり、そのための、はらぴょんさんの「現状留め置き措置」でしかなかったのです。

しかし、はらぴょんさんは、ついに「覚悟」を決めて、半歩踏み出した。もちろん、まだまだ不十分だとは言え、はらぴょんさんとしては、相当な覚悟が必要であったろうことは想像に難くありません。
しかしまた、はらぴょんさんは、覚悟を決めて「反省」し、それを「言葉にした」ことで、今は一種の安心を感じられていると思います。

・ 「ある転落の記録」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=371050869&owner_id=491648

と題したように、はらぴょんさんは、今回のことを「転落」と形容した。これは、客観的には、必ずしも正しい形容ではありませんが、はらぴょんさんの主観としては、まさにそうだったと思います。そして、この「主観」にそって言うならば、人がもっとも「恐怖」を感じ、いたたまれない状態にあるのは「転落するかしないかの瀬戸際で、ふらふらしている時(=不安定状態)」であり、実際に転落してしまえば、多少のけがをしたところで、案外「なんだこの程度のことだったのか」と安心できるものなのです。まただからこそ、はらぴょんさんは、きっと今回の決断を「良かった」と思っていると、私は思うんですね。

しかし、そうなると、取り残される形になった、杉澤さんの立場がない。杉澤さんとしては、本当は、はらぴょんさんに「せっかく擁護してやったのに、私の立場はどうなるんだ」と文句のひとつも言いたいところなのでしょうが、所詮は「自分の都合による、勝手な干渉」でしかなかったのですから、はらぴょんさんに「恨み言」を言うのは、それこそ「恥の上塗り」にしかならない。また、さすがにそのあたりのことには気づいていますから、ここでは、『だからこそ、この奇妙な関係をやめられないんですけどね。』なんて「しらじらしいセリフ(負け惜しみ)」を吐いてみせます。――まさに「誠実さ」の欠片も感じられない、杉澤鷹里流の「ベタ演技」だと言えるでしょう。

>「ある転落の記録」以降の議論の立脚点やゴールをどこに定めればいいのか悩みました。発話者から切り離されたテキストそれ自体に基づいて、若干の修正を加えて今の議論を続けていく道も十分にありだと考えましたが、理解できなくはない、という程度の主張を、それによって代弁する誰もいない状況で、繰り広げるのも奇妙な話です。

まわりくどい書き方ですが、杉澤さんがここで言いたいのは「撤退する。でも、負けたわけではないよ」ということです(笑)。

> アレクセイさんに表面上は私の主張は受け入れられず、メッセージは届いていないことになっていますが、私の主張の妥当性が半ば容認され、メッセージが届いたということを、含意として見、確信を得ています。それで十分です。それが不満な読み手は、「裸だ!」と自らの声を上げたらいい。

杉澤鷹里は、徹頭徹尾「裸だ!」。――それは、あえて声を上げるまでもない、事実です。

しかし、声を上げないなら、杉澤鷹里を「裸だ!」とは評価していないことになる「かのように」、話を摺り替えるところが、杉澤鷹里お得意の「レトリック=ペテン」だとも言えるでしょう。

いずれにしろ、表面上はご自身「まったくやましいところはない」と主張する杉澤さんの、その「見せかけの自信」に免じて、私と杉澤さんの全ログを、世に問うことになるでしょう。それは、杉澤さんとしても(建て前としては)「望むところ」であるはずだからです(笑)。

> この一連の議論は、私にとって「ウロボロスの摂動論」以来の胸躍る一大ネットイベントでした。議論を重ねることで、ただ一人で思考するだけでは到達できないような、斬新な考え、洗練された技法を得ることができる。その有益性を噛みしめています。ロジックもレトリックも本質直観も私は愛してやまないのだとつくづく思いました。

いかにも「負け惜しみ」です。
ここにも、杉澤鷹里という人の「決して本音は語らない=状況対応(場当たり)の言葉しか語らない」という、本質的な「不誠実さ」が、ハッキリと刻まれています。

私は、言い訳に言い訳を重ね、相手を攻撃することで、かえって自らの首を絞めることになっていった はらぴょんさんに、「現実を直視する(反省する)ことです。それしか自分を救う方法はない」と呼びかけつづけ、ついにはらぴょんさんは、そのことによって自らを救いました。
しかし杉澤さんは、そうした再生への道程を眼前に見ながら、ついに何も学ぶことができなかったのです。その意味で、杉澤さんは、はらぴょんさんよりも、ずっと「バカ」です。無論これは、「勉強ができる」とか「世渡り上手」といった意味ではなく、人間として「低劣」であり、その意味で「愚か者」だということです。だから、杉澤さんは、このような「恥の上塗り」を、なおも重ねなければならないのです。

> アレクセイさんの突きつけた被害者の問題は、なかなかに難しい問題であり、今後も検討を重ねていきたいと思います。

『被害者の問題』について『今後も検討を重ねていきたい』と言うのであれば、はらぴょんさんが、杉澤さんの「被害者」であったという点をこそ、検討すべきでしょう。杉澤さんは、決して、はらぴょんさんの「親友」でもなければ「擁護者」でもなかった。まさに、文字どおりの「悪友」だった。

杉澤さんの、はらぴょんさんに対する「物わかりの良さ」「追認」とは、例えば「万引きして捕まった友人」に対し「大した度胸だ。私にはできない」と言ったり、「捕まって、取り調べを受けても、しばらくは否認し続けたこと(=単なる「往生際の悪さ」)」について「すごいな。私ならすぐに口を割っていただろう。それは反権力・反良識闘争だとも言える!」などと「煽てる」のと、なんら違いはありません。

何度か指摘したとおり、ここには「被害者」の存在が、完全に不問にふされており、杉澤さんの言葉は、はらぴょんさんを「仲間=同類」として「縛りつけておくこと」だけに集中しています。

そして、ここには、口先三寸で、はらぴょんさんを「コントロール(操作)」できると自負する「傲慢」と、はらぴょんさんへの本質的な「見下し(軽蔑)」が、ハッキリと見て取れるのです。

無論、はらぴょんさんとしては、友と信じてきた人を疑うのは苦痛でしょうし、その意味で、それは困難なことでしょう。しかし、そういう「感情的評価」が正しいのであれば、この世に「(文字どおりの)悪友」など存在しないし、「友人だと信じていたのに!」と言って嘆く人も、存在しないのです。
そして、ここでハッキリと言えることは、「ペテン師」は「甘言」を弄することで、他人を「篭絡」しようとするものであり、決して「厳しい現実」に眼を向けさせようとはしない、ということなのです。


☆ 杉澤鷹里さま

杉澤さん、こんな幼稚な「負け惜しみの言い訳」が通用するほど、人は、あるいは竹本健治読者は、バカではない、ということに気づくべきですよ。そして、こんな言い訳を重ねる、自身の愚かしさに、早く気づくべきです。私は、「偽りの反省や謝罪」はそれと見抜いて赦さない一方、「心からの反省」には、いつでも応じることのできる人間であるつもりです。だから、自らの本性を「自供」なさい。

貴方は、アマチュアとは言え、小説を書いて出版までしている人間なんだから、「書く」ということの厳しさを、しっかりと直視すべきです。
人格的に浅薄な人間が、小手先のレトリックで何をどう書いたところで、そんなものは「三流」の域を出ることはない。「子供だましの読み捨てもの」ならばともかく、まぐれで傑作が書けるほど、文章というものは、いい加減なものではないんですよ。――文章とは、善かれ悪しかれ、その人の「人格」と「器」を反映するものなのです。

だから、ご自分を直視し、そのお粗末な現状から再出発することです。すでに中年に達した貴方には、それが極めて困難なことのように思えるかも知れません。しかし、少なくとも、今よりはマシになれるし、成長もできるのだ、ということに気づくべきです。
あれこれ言い訳を重ねて現状を「自己肯定」しても、だれもそんな基準で評価はしてくれないし、現状に執着するかぎり、貴方はそこから一歩も成長することができないんだということを、ここで肝に銘ずるべきなのです。
No.312 - 2007/06/01(Fri) 07:33:39

mixi(10)-6 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月15日 09:26

 はらぴょんさんの「ある転落の記録」の衝撃ものすごく、三日間打ちひしがれていました。
 いつだって、はらぴょんさんは私の理解から逃れていく。……だからこそ、この奇妙な関係をやめられないんですけどね。
 
「ある転落の記録」以降の議論の立脚点やゴールをどこに定めればいいのか悩みました。発話者から切り離されたテキストそれ自体に基づいて、若干の修正を加えて今の議論を続けていく道も十分にありだと考えましたが、理解できなくはない、という程度の主張を、それによって代弁する誰もいない状況で、繰り広げるのも奇妙な話です。
 アレクセイさんに表面上は私の主張は受け入れられず、メッセージは届いていないことになっていますが、私の主張の妥当性が半ば容認され、メッセージが届いたということを、含意として見、確信を得ています。それで十分です。それが不満な読み手は、「裸だ!」と自らの声を上げたらいい。

 この一連の議論は、私にとって「ウロボロスの摂動論」以来の胸躍る一大ネットイベントでした。議論を重ねることで、ただ一人で思考するだけでは到達できないような、斬新な考え、洗練された技法を得ることができる。その有益性を噛みしめています。ロジックもレトリックも本質直観も私は愛してやまないのだとつくづく思いました。
 アレクセイさんの突きつけた被害者の問題は、なかなかに難しい問題であり、今後も検討を重ねていきたいと思います。
No.311 - 2007/06/01(Fri) 07:32:57

mixi(10)-5 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月13日 20:42

一連の「はらぴょんさんと私とのやりとり」に連なる、はらぴょんさんの最新の日記、

・ 「ある転落の記録」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=371050869&owner_id=491648

がアップされました。
この日記にも、すでに私はコメントを付しています。ぜひご確認下さい。

No.310 - 2007/06/01(Fri) 07:32:14

mixi(10)-4 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月12日 00:49

☆ 杉澤鷹里さま

何を書くのかと思ったら、ずいぶん自分勝手な言い分(決めつけ)ですね。

でも、いいでしょう。「これが、杉澤鷹里という人である」というのを、「解説」的に剔抉してあげましょう。

> 私は、ただ伝えたいんです。
> 私がここでどんなに言葉を重ねても、それは換骨奪胎され、批判され、ホランドさんとの遣り取りの中で、嘲笑されるでしょう。私はそれでも構わない。ただ伝えたいんです。

『私は、ただ伝えたいんです。』――誰だって、文章を書く時はそうですよ。言いたいことを伝えるために、「理を尽くす」という面倒な段取りも踏むんですよ。それが、他人に伝える努力というものです。

『私がここでどんなに言葉を重ねても、それは換骨奪胎され、批判され』――それも、お互いさまですよ。
むしろ周知のとおり、私ほど、論敵の言葉をすべて引用し、逐語的に厳密に批判検討する者は、ちょっといません。
これまでの杉澤鷹里さんのログと比較したって、それは明白な事実です。

『ホランドさんとの遣り取りの中で、嘲笑されるでしょう。』――ホランドくんは、遠に静観していますよ。「また、始まった……」ということでね(笑)。

『私はそれでも構わない。』――また始まった「見え透いた善人ぶり」。
『換骨奪胎され、批判され、(…)嘲笑される』ても構わないんだったら、だれもこんな「決めつけ」を連ねて、相手を攻撃したりはしないですよ。貴方の書き方は、いつでもこういう「姑息な搦手」です。


> この一連のアレクセイさんの議論はあちこちで破綻しており、話を噛み合わせていくのが困難です。普段はそのようなことはなく、論理的で怜悧であるわけですから、現在、非常に感情的になり激怒しているがゆえに歪んでいるとしか解釈できないんです。

また「決めつけ」。
『普段は(…)論理的で怜悧である』私が、杉澤さんに「不都合なことを言ってる時だけ」非論理的で非怜悧だなんてという「ご都合主義的な評価」は、普通ならそんな杉澤さんの評価の方が、疑われるでしょうね。
それに、なにしろ私の場合は、始終「激怒」し「喧嘩」していながら、それでいて『論理的で怜悧で』、論戦では到底勝てないと、プロも避けて通るという実績があるんですから(笑)。


> どうして、激怒しているのか。
> 答えはご自身が巧みに表現しています。
>「例えば、西尾維新しか読んでいない若い読者が「ミステリとは」などと語れば、それはたしかに底の浅い「ミステリ」論になるでしょう。しかし、では彼にミステリを「語る権利」が無いのかと言えば、当然、そんなことはない。知識が有るとか無いとか言っても、それは所詮相対的なものでしかなく、知識が無ければ「語る権利」が無いというのであれば、「語る権利」を有するのは、この世の中にたった一人の「もっとも知識を有した人だけ」ということになるでしょう。しかし、「知識があれば、理解が深い」というわけでもない、というのも、わかりきった話です。だから、たしかに知識は大切だけれども、まともな「大人」なら、素人に対し「知識が無ければ語るな」みたいな「権威主義」的な物言いはしません。そういう、己が唇の寒くなる発言は「知識しかない・頭の悪い」人間しかしないんです。そして、このくらいの理屈は、高校生にでもわかるでしょう。」

> つまりご自身をミステリを語る「西尾維新しか読んでいない若い読者」に位置づけ、「「知識が無ければ語るな」みたいな「権威主義」的な物言い」をされたと、そう感じたからこそ怒っているわけです。はらぴょんさんの指摘が、アレクセイさんに向けられた、実に的確なものであったと感じられたから怒っているわけです。

論理的に破綻していますね。
私が、西尾維新ファンの例を挙げて言っているのは「マニア(たくさん読んでいる人)の評価の方が、正しいなどという保証はない。だから、賢い人なら、知識を嵩に着て、威張ったりはしない」ということですよ。つまり、私は「思想哲学マニア」であるはらぴょんさんの見方が、思想や哲学に詳しくない私の見解より「正しい」などとは、少しも思っていない。まただからこそ、

・ 2007年3月07日「続・杉澤鷹里氏との議論」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746

の「2007年03月11日20:01」付けのコメントに、「アレクセイの花園」(2007年3月9日(金)23時36分30秒)に書いた、次のような文章を引用しておいたんじゃないですか。

> 柄谷行人が『探究2』の「註」のなかで、我が意を得た発言をしておりますので、ご紹介しておきたいと存じます。


>『 デカルトのコギトを思考主体とみなすのが通念であるように、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームを規則の大系(共同体)の先行といった観点からみるのも通念である。通念と通念を争わせるのも通念である。むろん私は、べつにデカルトやヴィトゲンシュタインは本当はこうなのだと主張するつもりはない。マルクスに関しても同じだ。私は私の考えをいっているだけだと考えてもらってかまわない。ただ、私のいうようなことが考慮されていない議論は、どんなに綿密であっても、たんに退屈なのだ。』(P155)


> つまり、柄谷行人は「世界を、自分の頭で考えたいだけだ」と言っているのでございます。ですから、彼にとって、先行する哲学者は、世界を考えるための「道具」でしかなく、決してそれ自体を珍重するような「権威」ではないのでございますね。したがって柄谷は、それらの哲学者が「実際にどうだった」というようなことには興味がなく、「彼が考えたことは、こうであったとも考えうるし、そう考えた方が、世界をより興味深く考察することができる」と言いたいのでございます。

> 当然、こうした態度は、「専門」であることが「正統」であり、「正統」であることが「権威」を保証するものだと考える「専門家」には、嫌われ疎まれざるを得ません。しかし「そんな俗なことは、どうでもいい」というのが柄谷行人の考え方であり、私の共感するところなのでございます。

つまり「知識はあるに越したことはないが、知識のあることが正しさの保証になるなどと思って、嵩に掛かって偉そうなことを言うなよ、このバカ者たちが」というのが、私の昔から一貫した主張なんですよ(ちなみに私は、ミステリを読みはじめて間もない二十過ぎの頃には、すでにSRの会の会誌上で「マニア批判」をやっていました)。
――これくらいのことも読めないのでは、話になりません。


>「哲学上の誤りを指摘されたアレクセイが逆上して誹謗中傷を繰り返している」と、読み手の多くは事態を把握していることと思います。

「そういうことにしたい」んでしょうね(笑)。
しかし、こんなこと、貴方自身信じていないから、こうやって「決めつけ」ばかり書いているんでしょう? こういう「誘導」は、いかにも「レトリックに憑かれた人」たる、杉澤鷹里にふさわしいと思います。
はらぴょんさんも、貴方の、

> 2007年03月10日12:15 杉澤鷹里

> はらぴょんさま、

> 逃走することも黙殺することも、「あの浅田はやはりこの浅田だ」と反証を重ねることも可能であったのに、それをせずに謝罪されたということにはらぴょんさんの誠意を感じます。
> 不適切な発言は不適切な発言として認め、正せる襟は正す。理想ですが実行することはなかなかに難しく、ましてや激烈な批判を浴びている中、それをするというのは、私にはほとんど不可能事のように思われます。はらぴょんさんに敬意を表します。

といった、古い友人の言葉とはとても思えない「歯の浮くような甘言」で、これまで上手にコントロールされてきたんでしょうね。
「直言居士」である私の対極にあると言ってよい、こんな「理解者」しか持てなかったとは、はらぴょんさんに心から同情しますよ。


> アレクセイさんのしているはらぴょん論は、「ホランドさんは浅田批判などしていない」という発言と同じく、自分の誤りを認めたくないがための欺瞞的隠蔽の一つに過ぎません。はらぴょんは卑小だ、はらぴょんは汚いと語ることによって、自分の不名誉から目を背けているわけです。だけれど、実際のところ、はらぴょんさんのことを口汚くののしることで、第三者に卑小に見えるのはアレクセイさん自身のその姿です。自分の弱さから目を背ける、その姿です。

「決めつけ」ばっかりだなあー。
でも、こんな解釈、誰に説得力があると思って、書いてるんだろう? 一度、竹本健治さんとかその周辺の人にも読んでもらおうかな? 竹本さんに「田中くん、こりゃズバリ当たってますよ」って言われたりして。――でも、そう言われたら「傍若無人で、人を人とも思わないで、喧嘩している時が一番いきいきしている」という描写を撤回せよ、って言い返しますが(笑)。


> 私はアレクセイさんの、自分の意見を肯定する発言を喜ぶ姿と、自分の意見を否定する発言に過剰に反発する姿とに、自信のなさを見出します。他人の評価を気にし、他人の評価に傷つく小さなアレクセイさんの心を感じます。

ほほう、それはすごい。私が自信家ではないと、おっしゃる(笑)。
そうなんですよね、私はじつは、非常に繊細で、他人の評価を気にする人間なんです。しかし、そんな「繊細な神経」を持っているにもかかわらず、杉澤さんみたいに「善人ぶって」世間に媚びようともせず、大勢に抗って、二十数年間、たゆまず論争を続けてきたんですから、これはもうタダモノではありません(笑)。


> アレクセイさんのはらぴょん論において、明らかな逸脱を感じた箇所があります。それについて、語らせていただきます。
> 竹本さんに電話したくだり。
> これは、はらぴょんさんが「(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている。」ということの証左として、「竹本健治の公式ホームページである『玲瓏館』とのリンクが切れていたことを発見して「嫌われたんだ」と嘆い」たことがある、というエピソードがあり、さらにそのまた余談であるわけです。つまり、紹介する必要のないエピソードです。私はこれを読んだとき、顔が紅潮するのが分かりました。アレクセイさんが竹本さんに電話したのは、なぜか? 私はそこに友情を見出します。はらぴょんさんのことを心から心配した、情に厚いアレクセイさんの姿を見出します。そのエピソードは本来なら心温まる、エピソードです。はらぴょんさんに明かすことなく胸に秘めていたアレクセイさんの奥床しさもまた、好ましい。それなのに、そんな大事なエピソードをアレクセイさんは、はらぴょんさんを侮辱し、はらぴょんさんに対して精神的に優位に立ちたいがために(論理的には紹介する必要がないのに)、そのための道具として使ってしまった。はらぴょんさんを踏みにじり、二人の間にあった友情を踏みにじり、アレクセイさんが目指すのはただ、はらぴょんさんを傷つけること、自分の傷から目を背けること。私はとても悲しく思いました。

相変わらず「くっさい三文芝居」だなあー。これで読者が感涙してくれるとでも思っているんだったら、よっぽど杉澤さんは、読者を「舐めている」ということだ。アレクセイは友情を踏みにじる冷血漢で、ご自分は「優しい人間だ」と世間に向けてアピールするには、ちとお芝居が古すぎませんか?

> 2007年02月27日02:26 杉澤鷹里

> 何か、この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており、両者に益するところなく、互いの尻尾を追い掛け回すうちにバターへと溶解始める虎にも似た印象を受けます。
> まあ「どちらかが死に至るまで続く『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間どもには、その無様さ、滑稽さ、醜悪さこそ望んでいたところでしょうがね。うっけっけっけ。

とか、

> 2007年03月09日00:34 杉澤鷹里

> 私は正直者ですから(笑)、偽らざるはらぴょん論を展開していきます。
> はじまり、はじまり。
> はらぴょんさんについてはっきり言えるのは、鈍感だということです。二度も、三度も、「『キララ、』は私が先だ」などと、書き散らしてしまう点にもその鈍感さは明らかです。そしてホランドさんを引合いに出して滑稽だ、などと書けばおよそ事態がどう推移していくか分かりそうなものです。ぎょえー、はらぴょんそんなの書いて大丈夫なのかよ、とほとんどの読み手が思ったはずです。そういう、禁忌を難なく犯してしまう、この鈍感さは、真に救いがたい。

などと書いていた人と、同一人物だとは思えません。
――でも、演技の「わざとらしさ」は、たしかに「杉澤鷹里」印だとも言えるでしょうね。

で、私はというと、迷える友人を眼を醒まさせるためなら、多少は傷つくような厳しい「現実」も、あえて突きつける(ぶっ叩く)、そんな覚悟をもって批評を書いている、ある意味で「非情な人間」なのです。また、だからこそ「自分の批評で、相手が自殺することも覚悟の上でやっている」なんて公言するんですよ(だいたい、大の男が「傷つく」なんて大騒ぎすること自体、けっと思いますが)。

ともあれ、私は、杉澤鷹里さんのように、他人を扱き下ろしながら、自分の「善人さ」をアピールするような、そんな「恥ずかしいこと」はできない人間なのです。


> アレクセイさんは誤っています。その誤りとは何か。アレクセイさんの哲学や思想の理解が西尾維新しか読んでいない若いミステリ読者に類するものではない、ということです。その理解力の高さ、洞察の深さは舌を巻くものがあります。

『西尾維新しか読んでいない若いミステリ読者』の言うことが正しい、とは私は言っていません。私が言っているのは『しか読んでいない』人の評価だからといって、それが誤っているとはいえない、と言っているんですよ。つまり、私も、その意味で『西尾維新しか読んでいない若いミステリ読者』と同じなんです。


> そしてアレクセイさんの評論は、相当に高い水準にあるということ。もっともっとアレクセイさんは自信を持っていい。だから、「「知識が無ければ語るな」みたいな「権威主義」的な物言い」はアレクセイさんにとってどうでもいいことであり、浅田がどうしたメルロ=ポンティがどうしたということもアレクセイさんにとってどうでもいいことであり、アレクセイさんの評価にとってどうでもいいことなのです。

どうでもいいことではありません。私にとって、権威を嵩に着るやつは、プロであろうとアマチュアであろうと、生涯の「敵」なのです。


> いっときの激情に駆られて、相手を口汚く罵ろうとするとき、問うてみてください。そこで守ろうとするプライドは本当に守らなければならないものなのか? その言葉を吐くことによって傷つくであろう二人の関係は本当に傷つけて良いものなのか? そして、そこに疚しい気持ちが少しでも湧き上がるのであれば、その言葉を発するのを自制するのが、二人の関係のためであり、そして何より自分のプライドのためなのだと、そう私は思います。

『相手を口汚く罵ろうとするとき』って、もうそれが私にかんする「自明の事実(論証不必要な事実)」であるかのように書いているでしょう。これが、「杉澤鷹里のレトリック(ペテン)」です。

この「誠実な愁訴」というのも、もちろん「レトリック」であり「三文芝居のポーズ」です。
ほとんど「病、膏肓」にいたってはいますがね。
No.305 - 2007/05/30(Wed) 08:39:25

mixi(10)-3 / ☆
杉澤鷹里のコメント 2007年03月11日 21:32

 私は、ただ伝えたいんです。
 私がここでどんなに言葉を重ねても、それは換骨奪胎され、批判され、ホランドさんとの遣り取りの中で、嘲笑されるでしょう。私はそれでも構わない。ただ伝えたいんです。

 この一連のアレクセイさんの議論はあちこちで破綻しており、話を噛み合わせていくのが困難です。普段はそのようなことはなく、論理的で怜悧であるわけですから、現在、非常に感情的になり激怒しているがゆえに歪んでいるとしか解釈できないんです。
 どうして、激怒しているのか。
 答えはご自身が巧みに表現しています。
「例えば、西尾維新しか読んでいない若い読者が「ミステリとは」などと語れば、それはたしかに底の浅い「ミステリ」論になるでしょう。しかし、では彼にミステリを「語る権利」が無いのかと言えば、当然、そんなことはない。知識が有るとか無いとか言っても、それは所詮相対的なものでしかなく、知識が無ければ「語る権利」が無いというのであれば、「語る権利」を有するのは、この世の中にたった一人の「もっとも知識を有した人だけ」ということになるでしょう。しかし、「知識があれば、理解が深い」というわけでもない、というのも、わかりきった話です。だから、たしかに知識は大切だけれども、まともな「大人」なら、素人に対し「知識が無ければ語るな」みたいな「権威主義」的な物言いはしません。そういう、己が唇の寒くなる発言は「知識しかない・頭の悪い」人間しかしないんです。そして、このくらいの理屈は、高校生にでもわかるでしょう。」

 つまりご自身をミステリを語る「西尾維新しか読んでいない若い読者」に位置づけ、「「知識が無ければ語るな」みたいな「権威主義」的な物言い」をされたと、そう感じたからこそ怒っているわけです。はらぴょんさんの指摘が、アレクセイさんに向けられた、実に的確なものであったと感じられたから怒っているわけです。
「哲学上の誤りを指摘されたアレクセイが逆上して誹謗中傷を繰り返している」と、読み手の多くは事態を把握していることと思います。
 アレクセイさんのしているはらぴょん論は、「ホランドさんは浅田批判などしていない」という発言と同じく、自分の誤りを認めたくないがための欺瞞的隠蔽の一つに過ぎません。はらぴょんは卑小だ、はらぴょんは汚いと語ることによって、自分の不名誉から目を背けているわけです。だけれど、実際のところ、はらぴょんさんのことを口汚くののしることで、第三者に卑小に見えるのはアレクセイさん自身のその姿です。自分の弱さから目を背ける、その姿です。
 私はアレクセイさんの、自分の意見を肯定する発言を喜ぶ姿と、自分の意見を否定する発言に過剰に反発する姿とに、自信のなさを見出します。他人の評価を気にし、他人の評価に傷つく小さなアレクセイさんの心を感じます。

 アレクセイさんのはらぴょん論において、明らかな逸脱を感じた箇所があります。それについて、語らせていただきます。
 竹本さんに電話したくだり。
 これは、はらぴょんさんが「(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている。」ということの証左として、「竹本健治の公式ホームページである『玲瓏館』とのリンクが切れていたことを発見して「嫌われたんだ」と嘆い」たことがある、というエピソードがあり、さらにそのまた余談であるわけです。つまり、紹介する必要のないエピソードです。私はこれを読んだとき、顔が紅潮するのが分かりました。アレクセイさんが竹本さんに電話したのは、なぜか? 私はそこに友情を見出します。はらぴょんさんのことを心から心配した、情に厚いアレクセイさんの姿を見出します。そのエピソードは本来なら心温まる、エピソードです。はらぴょんさんに明かすことなく胸に秘めていたアレクセイさんの奥床しさもまた、好ましい。それなのに、そんな大事なエピソードをアレクセイさんは、はらぴょんさんを侮辱し、はらぴょんさんに対して精神的に優位に立ちたいがために(論理的には紹介する必要がないのに)、そのための道具として使ってしまった。はらぴょんさんを踏みにじり、二人の間にあった友情を踏みにじり、アレクセイさんが目指すのはただ、はらぴょんさんを傷つけること、自分の傷から目を背けること。私はとても悲しく思いました。

 アレクセイさんは誤っています。その誤りとは何か。アレクセイさんの哲学や思想の理解が西尾維新しか読んでいない若いミステリ読者に類するものではない、ということです。その理解力の高さ、洞察の深さは舌を巻くものがあります。
 そしてアレクセイさんの評論は、相当に高い水準にあるということ。もっともっとアレクセイさんは自信を持っていい。だから、「「知識が無ければ語るな」みたいな「権威主義」的な物言い」はアレクセイさんにとってどうでもいいことであり、浅田がどうしたメルロ=ポンティがどうしたということもアレクセイさんにとってどうでもいいことであり、アレクセイさんの評価にとってどうでもいいことなのです。
 いっときの激情に駆られて、相手を口汚く罵ろうとするとき、問うてみてください。そこで守ろうとするプライドは本当に守らなければならないものなのか? その言葉を吐くことによって傷つくであろう二人の関係は本当に傷つけて良いものなのか? そして、そこに疚しい気持ちが少しでも湧き上がるのであれば、その言葉を発するのを自制するのが、二人の関係のためであり、そして何より自分のプライドのためなのだと、そう私は思います。
No.304 - 2007/05/30(Wed) 08:37:18

mixi(10)-2 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月11日 20:07

当ページを立てた後の、杉澤鷹里氏の最初の書き込みは、

・ 2007年3月07日「続・杉澤鷹里氏との議論」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746

のページの方に、「2007年03月11日15:21」になされました。
もしかすると、当分は上ページでやりとりが展開されるかも知れませんので、そちらをご覧下さい。
No.303 - 2007/05/30(Wed) 08:36:32

mixi(10)-1 / ☆
アレクセイさんの日記 杉澤鷹里流「アレクセイ論」 あるいは、アレクセイ流「杉澤鷹里論」 2007年03月10日 16:07

「はらぴょんさんと私(アレクセイ)との間のやりとり」について、杉澤鷹里氏がコメントなさってくれていましたが、はらぴょんさんの日記、

・ 「たとえ話をふたつ」2007年03月03日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648

の方で、私が、

> ☆ 杉澤鷹里さま

>> あまり深追いせぬほうがよろしいかと思います。
>> 「私もこの議論の中で、人格のレベルまで踏み込み善処を求めるということを試みなければ、との思いを抱くに至りました。」
>> という私の発言の意味することを、アレクセイさんはお分かりでしょう? それは私にとっても痛みや労力、リスクを伴うことですから、避けることができるなら避けたいと思ってもいるんです。


> 貴方の気持ちも、わからないではありません。しかし、現実には、貴方のような方が、貴方ご自身の弱さを肯定するために、はらぴょんさんのような人を無責任に甘やかして、「大人として筋を通す」ことのできない「(同類としての)甘ったれに育てあげた」とも言えるという事実を、ご理解なさっていますか?

> 貴方ご自身、「誠実ぶりながら、誤魔化しを弄する」という「不誠実」をくりかえしながらも、はらぴょんさんの無責任さを容認することで、自分自身の「不誠実」を、「寛容」に摺り替えている。これが現実です。
> 自分の欠点を認めるのに『痛みや労力、リスク』が伴うというのは、当然です。でも、それで死ぬわけではない。
> 前にも指摘しましたが、貴方のご意見はいつでも「加害者の痛みだけ」であり、「被害者の痛み」には、まったく目がとどいていない。だから、可能な謝罪ですら、『痛みや労力、リスク』を理由に「しないで済ませられれば、それに越したことはない」もの扱いにできるのです。
> つまり、貴方のなさっていることは、はらぴょんさんの肯定に見せかけた、「自己肯定」であり「自己のアリバイ作り」でしかありません。

> したがって、はらぴょんさんをどうこう言う前に、貴方自身がそうした「自身への甘やかし」を、反省すべきことでしょう。そうでなければ、貴方には、はらぴょんさんを批判する権利もなければ、むろん擁護する権利も無いのです。
> 「寛容」を語る人間が、誰よりも自分自身に「寛容」だなどというのは、あまりにも露骨な欺瞞(ご都合主義)です。そのことを、貴方自身が反省してから、他人のことにも口出しすべきです。

>> はらぴょんさんに敬意を表します。

> と、ここで使われた『敬意』という言葉の、なんと腐りきり弛みきっていることか。こんな言葉では、どんな真実も伝えられなしないでしょう。こんな「偽の言葉」では。

> はらぴょんさんは、たしかに「愚か者」です。でも、貴方のように「狡猾」ではないところが、救いと言えば救いでしょう。

と杉澤氏を批判したところ、杉澤氏から、

> 2007年03月10日15:26  杉澤鷹里

> アレクセイさま、

> なるほど、良く分かりました。
> はらぴょんさんという被害者のためにも、アレクセイ論を展開することにします。

というコメントがあり、杉澤鷹里流「アレクセイ論」が書かれることになりました。

私自身、どのような「アレクセイ批判」が展開されるのか(それは多少とも目新しい論点を持つものなのか)、とても興味があるところですし、私のページをご覧いただいているみなさまも同様かと思いますので、杉澤氏にその論文を、このページに書いていただくよう依頼すべく、当ページを立てました。

これは、あちこちにバラバラに書かれたのでは論旨が追いづらいということと、「アレクセイ論」はどこよりも、私のページに発表されるべきものだと考えたからです。

もちろん、的外れな批判には容赦なく反論しますので、反論をゆるさない引き締まった「アレクセイ批判」を期待したいところです。そうでないと、「アレクセイ批判」が「杉澤鷹里批判」にならないとも限らないからです。

ともあれ、杉澤氏には、ここでの論文発表をお願いしましょう。むろん、杉澤氏のページを始め、どこで「連載の宣伝」をしても、一向にかまいません。やるのであれ、杉澤鷹里流「はらぴょん論」のように、第1回でお終いなどという腰砕けにならないことを期待したいと思います。

               ○

なお、杉澤鷹里氏と私の議論のテーマとなっている『私(アレクセイ)と はらぴょんさんとのやり取り』については、現時点では、次の(はらぴょんさんの日記)ページをご覧下さい。

杉澤さんのコメントは、下の日記(2)(5)(6)(7)のコメント欄と、(6)の続きを掲載すべく私が立てた、

(6-2) 2007年3月07日「続・杉澤鷹里氏との議論」
     (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746

で、ご覧いただくことができます。日記のコメント欄への書き込みのために、日記順に読んでいくと、書き込み日時が前後しますが、(1)〜(8)+(6-2)を通読していただければ、議論の流れは、充分にご理解いただけるはずです。


(1) 2007年2月10日「『魔』」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、4つ

(2) 2007年2月15日「批評におけるパラダイムの混在」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、3つ
    (最初(2月19日)の無題コメントは「謝罪要求と警告」とでも題すべきもの)

(3) 2007年2月20日「見解」
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」他

(4) 2007年2月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第1章 「偽の反省」に表れた、その人間性」他

(5) 2007年2月24日「齟齬の根底にあるもの」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=355680293&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第2章 はらぴょん批評の「根底にあるもの」」他

(6) 2007年2月27日「『テロルの現象学』について」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第3章 事実をして、語らしめよ」他

(7) 2007年3月03日「たとえ話をふたつ」
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第4章 逃避による逃避のための逃避的な逃避」他

(8) 2007年03月09日「後続の走者」
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=368183173&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、3つ

No.296 - 2007/05/28(Mon) 21:48:43
mixi(9) / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんの日記 後続の走者 2007年03月09日 00:53

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=368183173&owner_id=491648
No.277 - 2007/05/27(Sun) 09:46:29

mixi(9)-7 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月13日 20:39

当ページのコメント欄における、私の問いかけに対する応答と理解できる、はらぴょんさんの最新の日記、

・ 「ある転落の記録」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=371050869&owner_id=491648

がアップされました。
すでに私は、この日記にもコメントを付しています。ぜひご確認下さい。

No.309 - 2007/06/01(Fri) 07:30:11

mixi(9)-6 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 19:48

☆ はらぴょんさま

すでにご承知かも知れませんが、

・ 2007年03月07日「続・杉澤鷹里氏との議論」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746

・ 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)

などでのやりとりを経て、貴方の「覆面弁護人」でしかなかったと判定するにいたった杉澤鷹里氏とは、今後、そちらはそれとして個別に対応しますので、貴方は、貴方自身の判断と責任において、私の告発に対応して下さい。

言うまでもありませんが、杉澤さんの当初の「仲裁者」を装った発言が、その後、二転三転するに及んで、杉澤さんの発言の客観性は、極めて信憑性に乏しいものとなっておりますし、まもなく私は、その事実を、杉澤さんの発言の変遷を整理することで、はっきりと論証してみせるでしょう。

したがって、貴方が、事ここに至っても、杉澤さんの、

> 2007年03月10日12:15  杉澤鷹里

> はらぴょんさま、

> 逃走することも黙殺することも、「あの浅田はやはりこの浅田だ」と反証を重ねることも可能であったのに、それをせずに謝罪されたということにはらぴょんさんの誠意を感じます。
> 不適切な発言は不適切な発言として認め、正せる襟は正す。理想ですが実行することはなかなかに難しく、ましてや激烈な批判を浴びている中、それをするというのは、私にはほとんど不可能事のように思われます。はらぴょんさんに敬意を表します。

といった「間違いがあっても、それを率直に反省できないのは、当然」とするような「甘言」に惑わされるのは、百害あって一利なしです。
どうか、状況の厳しさをしっかりと直視して、覚悟を決めて反省して下さい。謝ったり撤回したり、認めたり撤回したりといった、腰の定まらない態度こそが、世間の物笑いの種になるのだということを、しっかり自覚していただきたいと思います。最後に責任を取るのは貴方自身であり、杉澤さんは貴方の責任までは取ってくれないんですからね。

No.300 - 2007/05/28(Mon) 22:13:50

mixi(9)-5 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 00:42

☆ はらぴょんさま

> 私の場合、笠井氏・日下氏・アレクセイ氏らの評論を読んでいますから、新作の『キララ、探偵す。』を読んで、そのメタ・フィクション的傾向に気づいたとしても、当たり前のことで、決して凄い事ではありません。
> ことさら、過剰に騒ぎ立てるような事をいたしまして、誠に申し訳なく思っております。

> 従って、『キララ、探偵す。』について同様のことを言うためには、やはりそれなりの作業をせねばなりません。確かに、まったく土台のないところから行うよりは、遥かに安易であり、先行者の業績と比較すると、その価値は遥かに劣るわけですが、それでも零ではないというのが私の考えです。
> 心証の悪い私については、価値は零ということでかまいませんが、私のことで前例を作ったがために、その後、私以外の人が今後刊行される竹本作品のメタ・フィクション性の指摘をして、「『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを見ましたね」という非難を受けたとしたら、あまりにも理不尽と思われます。


まだ、こんな「的外れな」ことを言っているのですか?

竹本健治作品に関する貴方の指摘が、さほどの価値を持たないことなど、初めから明白なことであり、それは杉澤鷹里氏も認めているとおりです。

したがって、私が、最初から、問題としているのも、貴方がご自分のなさったことを「第三者の目にだけ誤魔化そうとしたこと。その姑息さ、その心根」なんですよ(私に対して、そういう態度を採るということは、そのまま「友人への裏切り」ということにもなります)。


たぶん、気弱な貴方の事ですから、私の批判論文をまともに読むこともできずに、だらだらと同じような「言い訳」を連ねているのでしょうが(事実ここのところは、私のページを覗けずにいる)、本当に納得ができないというのであれば、私の批判をきちんと読んで下さい。読まなければ、理解できないのも納得できないのも、理の当然です。

ひとまず、私の「はらぴょん論」を、

・ 2007年02月20日「見解」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

のページに書いた「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」から読んで下さい。
ここには、私が、貴方を「なぜ批判したのか」、貴方の「何を批判したのか」が、論理的に示されています。つまりそこに書かれているのは、貴方が繰り返し書いている「どっちが先か(後には価値が無いのか)」というような下らない話ではなく、「何がどう誤魔化されたのか」という事実です。

「申し開き」をしたいのなら、私が何を批判しているのか、それを押さえた上で、申し開きして下さい。そうでなければ「話にならない」というのは、あたりまえの常識でしかありません。
No.287 - 2007/05/28(Mon) 16:05:48

mixi(9)-4 / ☆
はらぴょんさんのコメント 2007年3月10日 0:08

アレクセイさま

 おっしゃる通り、私はアレクセイさまの書かれた竹本健治著『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを、『キララ、探偵す。』刊行前に読んでおります。
 アレクセイさまの書かれた『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューには、『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のメタ・フィクション的傾向を示す部分の指摘があり、これを読むことにより、読まないよりも、同じ著者の別の作品についてのメタ・フィクション的傾向についても、気づくようになると思います。
 また、竹本健治氏のメタ・フィクション的傾向を指摘した評論は、アレクセイさまのレビュー以前にも、前述の笠井氏・日下氏などがあり、これらを読むことにより、やはりメタ・フィクション的傾向に敏感になります。
 私の場合、笠井氏・日下氏・アレクセイ氏らの評論を読んでいますから、新作の『キララ、探偵す。』を読んで、そのメタ・フィクション的傾向に気づいたとしても、当たり前のことで、決して凄い事ではありません。
 ことさら、過剰に騒ぎ立てるような事をいたしまして、誠に申し訳なく思っております。

 ただ、依然として釈然としない事があります。
 確かに、アレクセイさまの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを読むと、竹本作品のメタ・フィクション性に敏感になりますが、レビューが書かれた時点で未刊行であった『キララ、探偵す。』のことは、当然書かれていません。
 従って、『キララ、探偵す。』について同様のことを言うためには、やはりそれなりの作業をせねばなりません。確かに、まったく土台のないところから行うよりは、遥かに安易であり、先行者の業績と比較すると、その価値は遥かに劣るわけですが、それでも零ではないというのが私の考えです。
 心証の悪い私については、価値は零ということでかまいませんが、私のことで前例を作ったがために、その後、私以外の人が今後刊行される竹本作品のメタ・フィクション性の指摘をして、「『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを見ましたね」という非難を受けたとしたら、あまりにも理不尽と思われます。
 「お前の危惧は妄想で、そんなことはない。失礼な言いがかりだ。」と言われれば、私はこの件に関して安心して退場することができます。   
No.285 - 2007/05/28(Mon) 15:53:29

mixi(9)-3 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月09日 20:31

☆ みなさま

明記されてはおりませんが、はらぴょんさんの当日記、

・ 2007年03月09日「後続の走者」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=368183173&owner_id=491648

は、その前の日記である、

・ 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648

を受けて、一連の日記の続きとして書かれたものです。


当「後続の走者」で、はらぴょんさんは、

> 一発見者だからどうのこうのといった権利を主張するつもりは全くない。

とされていますが、しかし現実には、前記「たとえ話をふたつ」では、次のように書かれていました。

> たとえ話をしよう。
> 200X年、科学者Aが、化粧品Bの中に、人体に有害物質が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
> その翌年、科学者Cが、化粧品Dの中に、人体に有害物質が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
> その後、科学者Aが、自分の次の仕事の予定は、化粧品Dの分析であったとし、化粧品Dにおける有害物質の発見についても、当然、功績は自分にあるとのコメントを出した。
> 私は、化粧品Dにおける有害物質の発見者は、科学者Cであると思う。

はらぴょんさんは、『科学者C』にあたるご自分の立場を、このように「説明」していたわけです。

この「自己弁明」に対し、私は同日記のコメント欄に書いた「はらぴょん論 ――第4章 逃避による逃避のための逃避的な逃避」で、この「たとえ話」の欺瞞性を、次のように論駁しております。

> ここには、2点の「語り落し」があります。

> 1つ目は、「化粧品B・化粧品D」と書くと、一見無関係な、別の会社が製作した「化粧品」のように見えますが、実際には、それらは共に、竹本健治という作家の『狂い咲く薔薇を君に』『キララ、探偵す。』という作品であり、正確な「たとえ」を期するのなら「研究者Tによって開発された化粧品B1・化粧品B2」とでもすべきでしょう。
> 2つ目は、 科学者C(はらぴょん)が「科学者A(アレクセイ)の先行論文を読んでいたという事実」です。

> つまり、「研究者Tによって開発された化粧品B1」に「特有の毒性」があり、「そのひとつは『かくかくしかじか』という要素に表れている」という科学者A(アレクセイ)の先行論文を読んでいる者であれば、同じ「研究者Tによって開発された化粧品B2」のなかに「『かくかくしかじか』という要素」を見つければ、「化粧品B2」に「研究者Tによって開発された化粧品に特有の毒性」があるを見るのは必然であり、それは「発見」でも何でもなく、単に先行論文の「適用(流用)」でしかない、ということです。

> そして単なる「適用(流用)」をした 科学者C(はらぴょん)が、科学者A(アレクセイ)に対し「私の方が先でしたね」「たぶん、貴方も指摘すると思って、先回りしたんです」などと言う行為が失礼千万であることは論を待たず、それを科学者A(アレクセイ)に非難されて、科学者C(はらぴょん)が「化粧品B2に関する、研究者Tによって開発された化粧品に特有の毒性の発見は、私が先だ。貴方にとやかく言われる筋合いではない」などと言うのは「盗人猛々しい態度」でしかないのも、言うまでもないことなのです。

> ともあれ、はらぴょんさんの「たとえ話」には、このような「重要なポイントの語り落し(欺瞞)」がある、ということです。

このような、事実に基づいた論駁を無視し、はらぴょんさんは尚も、

> 一発見者だからどうのこうのといった権利を主張するつもりは全くない。

などという「あからさまな嘘」を重ねておられるということです。
つまり問題は、はらぴょんさんが「発見者」かどうかではなく、事実無根の「嘘を書く」人であり、そのことで「他人を誹謗する」人である、という事実にあるのです。

なお、はらぴょんさんの今回の日記「後続の走者」は、あまりにも「幼稚な嘘」が、懲りずに重ねられているだけの内容であり、はらぴょんさんのそうした属性については、もはや拙稿「はらぴょん論」で、くりかえし論ずるには値しないものと判断し、このような別枠で、事実を指摘するに止めました。

夢野久作に「少女地獄」という「嘘に嘘を重ねながら生きていく少女の生き地獄」を描いた作品がありますが、はらぴょんさんの現状は、まさに「はらぴょん地獄」とでも形容すべきものであり、まことに痛ましいかぎりだと思います。


☆ はらぴょんさま

はやく目覚めて、更正して下さい。
No.284 - 2007/05/28(Mon) 15:50:27

mixi(9)-2 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月09日 12:49

☆ はらぴょんさま

『後続の走者』とか『精神のリレー』などという「きれいな言葉」で、ご自身の「俗物的な言動」を飾るのは、よくありません。――というか、貴方の「悪い癖」です。

貴方のマイミクであり、長い友人であり、良き理解者であるはずの杉澤鷹里氏でさえ、次のように書かれていますよ。


> 2007年03月09日00:34  杉澤鷹里

> 私は正直者ですから(笑)、偽らざるはらぴょん論を展開していきます。
> はじまり、はじまり。
> はらぴょんさんについてはっきり言えるのは、鈍感だということです。二度も、三度も、「『キララ、』は私が先だ」などと、書き散らしてしまう点にもその鈍感さは明らかです。そしてホランドさんを引合いに出して滑稽だ、などと書けばおよそ事態がどう推移していくか分かりそうなものです。ぎょえー、はらぴょんそんなの書いて大丈夫なのかよ、とほとんどの読み手が思ったはずです。そういう、禁忌を難なく犯してしまう、この鈍感さは、真に救いがたい。


全文は、下の日記ページをご覧下さい。杉澤氏の見解に対する、私のコメントもあります。

・ 「続・杉澤鷹里氏との議論」2007年03月07日
  http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746

No.281 - 2007/05/27(Sun) 09:53:16

mixi(9)-1 / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんの日記 後続の走者 2007年03月09日 00:53

 某国立大の理系の院生から、指導教官のもとで論文を書いて、いい出来であると、指導教官が自分の名前に書き換えて、学会に論文を提出してしまうという話を聞いた事がある。指導教官の研究成果を踏まえ、指導教官のメソッドを使って、研究を推し進めたというわけである。
 ミクシィで、2007年02月01日 00:16に私が書いた竹本健治氏の小説『キララ、探偵す。』のレビュー中に、53ページの「かくかくしかじか」から、作者のメタ・フィクション指向を指摘する記述が含まれている件が、先般からアレクセイ氏との間のトラブルの火種のひとつになっているが、この件に関して、私はアレクセイ氏による2月11日(日)01時01分22秒の「BBSアレクセイの花園」での同様の指摘よりも、時間が早いという事実確認が行ったが、特に第一発見者だからどうのこうのといった権利を主張するつもりは全くない。
 この種のメタ・フィクション性の指摘は、アレクセイ氏によって書かれた竹本健治氏の『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューで(これが掲載されたのは、私の『キララ、探偵す。』のレビューに先立っている)すでに為されており、ここで竹本作品においては、『匣の中の失楽』や『ウロボロス』シリーズなど通常誰もがメタ・フィクション性を認める作品以外でも、メタ・フィクション性が認められることもあるという<一般解>が確立された。したがって、その後の『キララ、探偵す。』でメタ・フィクション性が認められることもあるという私の指摘は、前述した<一般解>に含まれる<特殊解>に過ぎず、すでに前作『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』の段階で、アレクセイ氏によって予見されていた、ということでよい。そもそも、このような発見の類いは、文芸評論家であるアレクセイ氏にとっては意味があることだが、公正な判断も出来ず、偏向した放言に終始している一介の市民に過ぎない私には、何の意味もないことである。
 とはいえ、竹本健治氏のコアな読者は、「少年回廊」だけでなく、「アレクセイの花園」もチェックする可能性は高く、そういった中から、私とは違って文芸評論家を目指す高い志のある人が出てくるかも知れない。そういった人が、竹本作品の新作を読んで、この箇所は作者のメタ・フィクション性を示すものだと指摘することもあるかも知れない。その場合も、すでに『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』の段階で、アレクセイ氏が<一般解>として示したものであり、アレクセイ氏の予見の後に登場した二番煎じであるということになるのだろうか。
 『匣の中の失楽』や『ウロボロス』シリーズなど通常誰もがメタ・フィクション性を認める作品というと、どこまでを指すのか、境界線が私には判らない。ミステリは、メタ化傾向の強いジャンルであり、ことに竹本作品では顕著であるといえる。だから、『トランプ殺人事件』の文庫解説で、笠井潔氏がメタ・ミステリ談義をしているし、確か日下三蔵氏も『兇殺のミッシング・リンク』でのメタ・フィクション的遊戯について指摘したことがあるはずである。
 思うに、ミステリとミステリ評論は、その愛好家によって、精神のリレーを引き継ぐように書き綴られてきた趣味的なジャンルである。果たして、アレクセイ氏による『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューの後で、後続の走者はいるのだろうか。
No.278 - 2007/05/27(Sun) 09:47:58
mixi(11) / ☆
はらぴょんさんの日記 ある転落の記録 2007年03月12日 01:19

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=371050869&owner_id=491648
No.306 - 2007/05/31(Thu) 09:09:43

mixi(11)-2 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月13日 20:35

☆ はらぴょんさま

・ 「ある転落の記録」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=371050869&owner_id=491648

ざっと拝見しました。かなり自己分析の努力をなさっているとは感じましたが、私にすれば、まだまだ不十分に思えます。
だから、はらぴょんさんを赦さない、と言うのではありません。ここまでしか自覚できないのであれば、つまり、これが現時点での、はらぴょんさんの自己分析の限界なのであれば、ここでこれ以上を求めても仕方がないということです。
しかし、これは、物事をうやむやに済ませるということではないし、私の意見の公表を差し控えるということでもありません。はらぴょんさんに、ご自分ではどうしても自覚できないところがあるのであれば、それを私が補助しよう、ということです。


今回お書きになられた日記は「ある転落の記録」と題されていますが、私に言わせれば、はらぴょんさんは、今回の事で、ことあらためて『転落』したわけではなく、「前から今のまま」だった、ということでしかありません。ただ、それをハッキリと指摘する者がおらず、そのために、はらぴょんさんは、ご自身の現状に無自覚だった、というだけのことです。

例えば、はらぴょんさんを「現代思想オタク」だと言って、嘲笑する人は少なくなかったはずです。しかし、そういうことを書く人間の大半は、他人のことを嘲笑する権利などない、つまらない匿名人間がほとんどだったのではないでしょうか? 彼らは「匿名」であればこそ、他人を攻撃することもできたけれど、責任主体としての自分を曝して、他人を批判できるような人間ではなかった。まただからこそ、はらぴょんさんは――そういう人間の言うことを「完全否定」することもできた。所詮は無知な輩の「誹謗中傷」でしかないと、その一切合切をゴミ箱に放り込むこともできた。
しかし、彼らの「人間性」や「批判の意図」が下劣・論外だとしても、はらぴょんさんを「現代思想オタク」だとする評価が間違っているとまでは言えません。むしろ、その点だけは「正しい評価」だったと言えるではないですか?

・ 2007年2月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

のページに投稿した「はらぴょん論 ――第1章 「偽の反省」に表れた、その人間性」で、私が、はらぴょんさんに、

> 本当に「反省」する気があるのであれば、はらぴょんさんは今後、ご自分の文章において、思想家や哲学者を引合いに出し、その文章を引用して「自分の文章を飾り立てる」という愚行・醜行を、一切止めなければなりません。そういう「虚飾」を脱ぎ捨てた後の、裸の貧相な自分を直視した時にこそ初めて、本当の「反省」も可能だからです(『バイバイ、エンジェル』での、矢吹駆の助言と同じです)。

> 無論、私は、哲学書や思想書を「読むな」と言っているのではありません。むしろ、それらをしっかり読んで消化し、身につけてほしい、と言っているのです。そうしたもので学んだことを、自分のものとして消化したかたちで表現するのなら、それは一向にかまいません。
> 私が、忠心からの助言として、そして誹謗中傷をされた被害者として、はらぴょんさんに要求したいのは「哲学者や思想家の言葉で、自分を(不適切に)飾ってはならない」という、はらぴょんさんにとってもプラスになる、ただそれだけのことなのです。

と要求した際に、はらぴょんさんは、これに応じなかったばかりか、それ以降、この要求を「拒絶する理由」すら明確にしなかったことに、はらぴょんさんの「知のあり方」の現状はあきらかでしょう。

実際、はらぴょんさんが、真に「思想・哲学」といったものを「学び」、それによって「自身の見識や人格を高める」つもりがあるのであれば、もとより「衒学趣味」など、まったく不用なのです。しかし、それが、はらぴょんさんにとって「虚飾(外見的表面)として価値を有するもの」であればこそ、その「虚飾」が捨てられないんですね。

こうした、はやぴょんさんには、そういう「自分の現実の直視」を、どうしても避けてしまう「弱さ」がある。そして、その「弱さ」の故にこそ、「知識が骨抜き」にされて「虚飾」と化し、他人に批判された時は、(それが「2ちゃんねるの匿名雀」であれ、私であれ)そうした「自分に固有の問題」を、「相手との関係性」に還元して、逸らして(うやむやにして)しまおうとするんです。
例えば、今回の日記「ある転落の記録」では、

> [現在の観点からの批判]
> 「思想の適用範囲について」や「批評におけるパラダイムの混合」の枠組みに流し込んだとしても、同じ現代思想の言語ゲームを共有している人ならば兎も角、共有していない人には全く無効で、説得力がなく、ただ思想家の名前やテクニカル・タームを振りかざすだけで、(それがいかに反権力の側に立つ文化的ヒーローであっても)権威主義的な印象を与え、反感を買うだけであるということが判りました。
> 現代思想は、まったくローカルな、同じ関心を共有する人だけに通じる符牒で出来ており、こんなもので誰でも斬れると考えていた私が愚かであり、傲慢であったと思います。

という、一定の評価を与えられるべき「気づき」が語られています。

しかし、これは、ある意味で「当たり前」のことであり、こんなことにも気づけないでいた「これまでの自分」の奉じていた「現代思想」とは、いったい何なのか、という本質的な反省(自問)には、はらぴょんさんは未だ至っておりません。

つまり端的に言えば、「パラダイム」云々を賢しらに語るはらぴょんさん自身が「ごく狭い(田舎の)パラダイム」を振り回していたわけなのですが、もともと「パラダイム」というのも「現代思想」用語であれば、「現代思想」とは本来「自らがパラダイムの内にあって、それを自覚しながら思考し抜こうする営為」であるはずなんですね。
ところが、はらぴょんさんのここでの「反省」は、「現代思想を知っている人のパラダイム」と「それ以外の人のパラダイム」という具合に、「それ以外の人」を排除することで、自身が所属してきた「狭い(田舎の)パラダイム」を温存し、「これまでの自分」を延命させることにしかなっていないのです。

言うまでもなく、世界最高の頭脳たちによって追求展開されたきた「思想・哲学」というものは、(自分たちの権威を妄信してくれない、という意味において)不都合な「それ以外の人のパラダイム」を排除し、「現代思想を知っている人の(仲間内の)パラダイム」に限定したような「狭い場所」で行われてきた、そんな「ひきこもりのマスターベーション」のようなものではありえません。こんなことは「現代思想に無知な人」にだって、当たり前にわかることなのです。

しかし、「現代思想を知っている人のパラダイム」の側にあると自認しているはらぴょんさんには、なぜか、そんなこともわからない。――なぜわからないのか? その答は、はらぴょんさんが、そういうものだと思い、そういうものとして語っている「思想・哲学」は、本来の「思想・哲学」とは「似て非なるもの」、本来のそれに「外見」だけはそっくりな、「思想・哲学のはく製」という「死物」だった、ということなんですよ。

>  かつて、アレクセイ氏は「はらぴょんさんは確かにおたくだけれども、ともだちだと思っているよ。」という主旨のことを書かれたのを覚えています。それなのに、私は早とちりを連発して、アレクセイ氏を疑い、アレクセイ氏を傷つけてしまいました。今はただ、平謝りに陳謝するしかありません。
> なぜ、アレクセイ氏を信じることができなかったのか。今の私には、それが恥しくてなりません。

という言葉を、8割がたは信じます。まだ、自己救済的な自己欺瞞としての「きれいごと」のニュアンスは残っているから、百パーセントとは言いませんが、今それを求めても無理でしょう。

私は「字面の謝罪」なんか求めていません。そんな欺瞞など「読めばわかる」ものであり、私はこれまで、だてに「文学」を読んできたのではないんですよ。だから、これまでの「ポーズだけの謝罪」は容認しませんでしたが、今回の「不完全ながら、誠意あらんとする謝罪」は受け入れましょう。そのうえで、私の「はらぴょん論」を、貴方への最大級のプレゼントとして、完成させたいと思っています。

はらぴょんさんも、私に批判された多くの人が、自分自身を救うために、どういう失敗をし(悪手を打ち)、それによって「自滅」していったかを、よくご承知のはずです。
誰だって、欠点や問題点はあるんです。そして、それをそのまま指摘され、「改めよ」と要求されるようなことも、当然ある。そして、それが真っ当な要求であるにも関わらず、あるいは真っ当な要求であればこそ、なかなか改められないこともある。――しかし、そこで大切なのは、その真っ当な批判を、そこで拒絶するのか、それに誠意をもって精一杯応ずるのか、という「差」なのです。そこで、その人の「人間性が試される」んですよ。

先日、ホランドくんが、瀬名秀明の『第九の日』から、ロボットであるケンイチくんと、その保護者的存在であるレナとの、次のような会話を紹介していました。

『「レナ、それが人間の本性(ネイチャー)だとしたら、ロボットの本性は何なの?」
「ケンイチくん」
 レナがぼくに顔を向けた。
「覚えておいて。ケンイチくんはいま、そうやって考えている。私たちは考えることができる。自分のことを考えて、行動を自分で決めることもできる。これを理性というの。私たちには生まれつき備わったものがある。中にはどうしても変えられない特質もあるかもしれない。でもそんな特質でさえ、私たちは理性の働きで自らを検証することができる」
「悪いところは理性で克服しろってこと? 『アフリカの女王』のオルナットさんみたいに?」
「変わらないものがあり、変える理性がある。いい? その両者を持つこと、それこそが私たち人間の本性なのよ」
「じゃあロボットの本性は? もしぼくに変わらないものと変える理性があったら、ぼくも人間だってこと?」
「それはとても大切な質問ね。たぶん人間の本性という言葉は、人間と他のものを区別するためのものじゃない。ケンイチくんの本性(ネイチャー)は、私たちの本性(ネイチャー)と変わらない。それだけのことかもしれない」
「……レナにもわからないことがあるの?」
「ええ。たくさんあるわ。ケンイチくん、あなたは人間社会の中に生まれ育った。それはあなたが人間としての環境を与えられたことになるのかもしれない。でもあなたは私たちとは異なる機構を持っている。あなたはロボットなの。そしてロボットだからこそ、人間とは違う人間観を築いていける。ケンイチくん、いまあなたが抱いた疑問を大切にしなさい。ロボットの本性を考えていきなさい。そして何かを知ったら、私にも教えて」
「ぼくもレナに教えられるようになるのかな」
「いつか必ずね」』

            (『第九の日』P179〜180、「モノー博士の島」より)

そして、ホランドくんは、この会話を、竹本健治の『キララ、探偵す。』に関連させて、こう語っていました。

> ロボットは、「人間になる」必要なんかない。「ロボット」は「ロボットの本性(ネイチャー)」において、「ロボットらしく自立した存在」になればいいんじゃないか。そして、そうした「他者性」を認めることこそが、本当の「愛」なんじゃないか。――ボクにはそう思えるんです。

おわかりでしょうか? 「知性」とは、「自分を変える力」ではなく、「自分を変えようとする力(=メタ意識)」なのですよ。そして「愛」とは、「変えようとして変えられない」他人の「他者性」を承認し、時にはそれに魅せられることなのです。

ですから、はらぴょんさんにとって大切なことは、そうした「知性」を働かせることです。たとえ、それで変われなくて、あいかわらず「困った現代思想オタクのはらぴょんさん」に止まることになったとしても、はらぴょんさんが、そういう「知性」を働かせ続けるかぎり、私は、はらぴょんさんに、一定の尊敬と友情を持つことができるでしょう。私が求めるのは、いつだって「誠実な人間性という、知性=態度」なのです。


ちなみに、はらぴょんさんが、再度検討すべき問題点が、ハッキリと表れている箇所を指摘しておきましょう。

> 「BBS アレクセイの花園」での私の文章の一部引用。引用については、最初の引用の際に、アレクセイ氏から許可を求めるメッセージがあり、文章は読まれてなんぼの世界なので、その文章は引用してもいいですよ、という回答をしたつもりだったのですが、その後も引用が続き、全文引用とは違い、一部引用だと印象が違うなぁ、これでは引用がアレクセイ氏の引き立て役になっているなぁ、でも仕方ないかと思っていました。

この文章の「不自然さ」は、『引用』というものが、基本的には『一部引用』であって、『全文引用』などというものは「極端な例外」でしかないという「事実」を無視し、「私のすべてを、正確に紹介せよ」と「無理な要求」をしている点にあります。

なぜ、引用の際「出典」が示されるのか? それは「全文」を確認できるようにするためです(確認可能性の担保)。「引用」とは、所詮「一部引用」でしかありえないからこそ、「出典」が明記される。もし「全文引用せよ。そうでなければ、私は正しく理解されない」と要求するほど、「正しく理解されること」を他人に要求するのであれば、正直に「(一部)引用は、許可しない」と言えばいいのです。
しかしまた「一部引用」は、他者に認められた権利ですから、そう要求することは、実際にはできません。そこで、要求できないことを要求して「けちなやつ」と思われるだけなのは嫌だから、「どんどん引用して下さい」と気前の良いふりをして見せておきながら、内心ではそれを不満に思う。――これが、はらぴょんさんの現実です。

この、人並みはずれて「私を正しく評価せよ」という感情は、言うまでもなく、実際には「私を、私の思っているとおりに評価せよ」ということでしかなく、実際には「実際以上に評価せよ」ということにしかなりません。また、そんな「過剰な欲望」に振り回されているから、

> これでは引用がアレクセイ氏の引き立て役になっているなぁ

などと思ってしまうのです。

「引用」文とは、はらぴょんさんの文章がまさにそうであるように、大抵の場合は「引用」者の『引き立て役』にしかなりません。なぜなら、「主役」は、その文章の書き手である「引用」者だから、なのです。
そして、こんな当たり前のことにも不満を抱くのは、はらぴょんさんが「欲をかき過ぎている」ためであり、そうであるからこそ、他人を妬んだり、やっかんだりすることにもなるんですよ。

誰が「主役」で、誰が「引き立て役」かは、読者が決めることで、書き手が決めることではありません。例えば、書き手が、自分を引き立てるために、権威者の言葉を引用したとしても、読者が評価するのは、その引用文の原著者であって、引用者ではない、などということは、いくらでもあるでしょう。
つまり、私が、はらぴょんさんに「他人の権威で自分を飾り立てず、自分の文章を書け」というのも、結局は「自分で主役になれ」ということでしかないんですね。それができなければ、はらぴょんさんはいつまでたっても「私は、引き立て役の損な役回りばかり、押しつけられている」という「被害妄想のルサンチマン」に身を焼かなければならないでしょう。

他人の自分に対する評価をどうこう言う前に、評価できない他人を心から哀れむことのできる、自信ある主体を作ることが先決であり、それができなければ「内省」としての「思想・哲学」なんて、できる道理がない。そのことに早く気づくべきなのです。
No.308 - 2007/06/01(Fri) 07:28:47

mixi(11)-1 / ☆
はらぴょんさんの日記 ある転落の記録 2007年03月12日 01:19

(1)砂上の楼閣
[事実確認1]
アレクセイ氏との意見対立は、「討論・笠井潔について」
http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html の頃からありました。
「虚無なる「匣の中の匣」」という掲示板には、2004/10/29に書かれた「討論・笠井潔について」http://www5.rocketbbs.com/151/bbs.cgi?id=yurufra2&page=4 という文章があり、そこには当時感じた意見のズレが書き残されています。
併せて、その下にある「思想の適用範囲について」http://www5.rocketbbs.com/151/bbs.cgi?id=yurufra2&page=4 という文章を読んでいただければ、今回書いた「批評におけるパラダイムの混合」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648 という文章が、内容面で重複しているところが多々あるということがわかります。
「討論・笠井潔について」http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_giron_1.html をやっていた当時、「思想の適用範囲について」で書いたような枠組みに流し込めば、笠井潔の思想を克服することができると考えていました。
「虚無なる「匣の中の匣」」に書いたこのふたつの文章が、今回、表面化した。「虚無なる「匣の中の匣」」は、誰でも見れる場所なので、その段階で表面化させたといえますが、見る人が少なかったのだと思います。

[現在の観点からの批判]
「思想の適用範囲について」や「批評におけるパラダイムの混合」の枠組みに流し込んだとしても、同じ現代思想の言語ゲームを共有している人ならば兎も角、共有していない人には全く無効で、説得力がなく、ただ思想家の名前やテクニカル・タームを振りかざすだけで、(それがいかに反権力の側に立つ文化的ヒーローであっても)権威主義的な印象を与え、反感を買うだけであるということが判りました。
現代思想は、まったくローカルな、同じ関心を共有する人だけに通じる符牒で出来ており、こんなもので誰でも斬れると考えていた私が愚かであり、傲慢であったと思います。

[事実確認2]
 ミクシィにおいて、私のマイ・ミクシィは、ありえない組み合わせであることが、すぐさまわかります。
 私とアレクセイ氏の間で、共通点もあれば、相違点もあることは上述の確認でわかります。
 さらに、アレクセイ氏は「笠井潔葬送派」で、反探偵小説研究会の立場であり、小森健太朗氏は探偵小説研究会に属している。アレクセイ氏が、清涼院流水氏の小説をあまり評価していないということも知っていました。
 また、他にも「合理主義VS精神世界」などの対立軸を見出すことができます。
 同じタイプの人間ばかりであれば対立は起きにくいといえます。それに対し、私の周りは何が起きても不思議ではない人間関係といえます。
 うまく機能すれば、本当の意味でのコミュニケーション=意見交換の場が出来たかも知れませんが、それを実現するだけの器が私にはなかったといえます。
 ちなみに、小森コミュをつくるにあたって、まず小森健太朗氏をミクシィに招くということを行いましたが、このとき自分でしなかったのは、小森氏と直接マイ・ミクシィになることで、複雑な人間関係になるので、自分からは遠慮したいという気持ちがあったのは事実です。ちなみに、現在、マイ・ミクシィとなっているのは、小森氏からの申し出によるもので、ミクシィに入会されてから時間を経てからでしたから、すべてを承知されているものとして快諾することにいたしました。

(2)出来事の経緯
 笠井潔著『魔』(文春文庫)の解説を、小森氏が書いたということで、アレクセイ氏が私の日記に、否定的な批評を書きました。http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648 この批評は、アレクセイ氏の立場からすると、当然のものであったといえます。
 この書き込みに対し、配慮が働いたのは事実です。争いは起こしたくないが、されど議論は無視はできない。両者の間をうまくくぐりぬけられないか、と。
 その後、私はアレクセイ氏の批評に関してコメントをし(アレクセイ氏の立場からは中途半端ととられるかもしれませんが)、一応はくぐりぬけたつもりだったので、『魔』の件で、立場的に追い詰められたから、その後の暴発的な書き込みを行ったかというと、その理由は弱いというのが事実です。
 ちなみに、この機会ですから、私が小森文学についてどう考えているか、少しだけコメントしておきましょう。『グルジェフの残影』の文庫版が出たときに、巻末の対談でニーチェとか、コリン・ウィルソンとかを題材にした場合、ミステリを喰ってしまうので、そういうテーマを避けるという主旨のことを小森氏が語っており、その直後、小森氏自身に自分としては、ニーチェとか、コリン・ウィルソンとか、小森さんが本当に書きたいものを書いてほしいし、そういう内発的な理由で膨れ上がって、ミステリという形式が壊れるときに、むしろ問題作が生まれるんじゃないでしょうか、という主旨のことを言ったことがあります。小森氏の評論をみますと、必ずといっていいほど笠井説への言及がありますが、このまま行くと笠井説を補完するだけになってしまいますから、もっと独自性を出してもらいたい、とすればニーチェとか、コリン・ウィルソンとか、本当に小森氏の好きなものを題材にして、多少優等生の枠をはみ出てもよいというような気概で書くのがいいのではないか、と思っています。(これは勝手な希望なので、小森氏がどう考えられるかはわかりませんが。)
 話を元に戻します。『魔』のことを書く前から、ふたつの事柄に悩まされていました。
 ひとつは、清涼院流水氏と西尾維新氏との対談 http://www.amazon.co.jp/gp/feature.html/ref=amb_link_22568806_2/249-2495434-4041908?ie=UTF8&docId=1000029266 の末尾の方に出てくる「笠井潔」という名前が、ふたりの間でどう位置づけられるかという問題。(これをどう考えるかは、未だによく判断がつきません。)
 もうひとつは、「BBS アレクセイの花園」での私の文章の一部引用。引用については、最初の引用の際に、アレクセイ氏から許可を求めるメッセージがあり、文章は読まれてなんぼの世界なので、その文章は引用してもいいですよ、という回答をしたつもりだったのですが、その後も引用が続き、全文引用とは違い、一部引用だと印象が違うなぁ、これでは引用がアレクセイ氏の引き立て役になっているなぁ、でも仕方ないかと思っていました。
 暴発の引き金となったのは、
「アレクセイの花園」2月11日(日)01時01分22秒に書かれた

>Keenさまやはらぴょんさまが指摘なさっているような、「意識とは何か」「生命とは何か」「恋愛とは何か(可能か)」といった哲学的な問題提示を別にしても、本書には『匣の中の失楽』以来、連綿と続いている、竹本健治ならではの「過剰性」「逸脱性」が見て取れます。
例えば、
 『「どうしたんだよ、そんな顔して」
  (…)
  「いや、実はかくかくしかじか」』(P53)
という『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』でも使われた、「メタ・フィクション」的手法。

という文章で、2007年02月01日 00:16に私が書いた『キララ、探偵す。』のレビューを、アレクセイ氏は見ているにも関わらず、それをないかのように故意に事実を隠蔽したのだと思ったのです。
 私はアレクセイ氏の『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューを先に見ていますから、アレクセイ氏が『キララ、探偵す。』を読めば、「メタ・フィクション」的手法に気づくことは確信していましたが、自分の名誉を引き立てるために、私のレビューはないことにしようと図ったと思ったのです。(無論、私のレビューは、アレクセイ氏や他の人によるこれまでの竹本作品の書評を読んでのことですから、オリジナリティは無に等しいと思っていました。)
 そのため、この部分に日記で触れたのですが、アレクセイ氏は、この件について私を黙らせようとする雰囲気が見られましたので、ますます疑惑を深めてしまったのです。
 さしたる準備も詳細な事実確認もないままに、旧来の自論に、その場のトピックス(『構造と力』の件)を散りばめて、アレクセイ氏批判を開始したのは、それが第一原因でした。
 しかしながら、旧来の現代思想を適用した自論は、現代思想の心棒者にしか効かず、『構造と力』の件も、その場の会話では文章が話者の意見の表象代理として機能しており、『構造と力』の著者が言いたかったこととは別に流れていることが判明した現在、この暴発の第一原因についても、認識の修正を図らねばなりません。
 アレクセイ氏が私を黙らせようとしたのは、事実の隠蔽のためでも、権威主義傾向でもなくて、私の主張がまったく見当ハズレで、迷惑だったからであると。そして、2月11日(日)01時01分22秒より前に、2007年02月01日 00:16に私が書いたレビューを見たというのは、大きな誤解であったのだと。そうでなかったら、あんなに自信をもった私への反論ができないはずです。
 かつて、アレクセイ氏は「はらぴょんさんは確かにおたくだけれども、ともだちだと思っているよ。」という主旨のことを書かれたのを覚えています。それなのに、私は早とちりを連発して、アレクセイ氏を疑い、アレクセイ氏を傷つけてしまいました。今はただ、平謝りに陳謝するしかありません。
 なぜ、アレクセイ氏を信じることができなかったのか。今の私には、それが恥しくてなりません。
No.307 - 2007/05/31(Thu) 09:13:09
mixi(8) / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんの日記 続・杉澤鷹里氏との議論 2007年03月07日 21:41

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746
No.272 - 2007/05/26(Sat) 21:59:38

mixi(8)-10 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月11日 20:01

☆ 杉澤鷹里さま

>私やホランド氏に、的外れ且つ下らない嫌がらせをしたのは、かねてからはらぴょんに、私に対する妬みややっかみの感情があり、それが憎しみに近いものとなっていたからこそ、私に好きな小森健太朗を批判され、かつ、はらぴょんさんの小森健太朗評価の甘さを指摘されたことが切っ掛けとなって、専門知識を振りかざすかたちでの嫌がらせにおよんだのであろう」ということです

> 文意が読み取れず、失礼をしました。つまり、「江戸の仇を長崎で」ということではなく「日本全国の仇を長崎で」ということですね。

いいえ。「江戸の仇を長崎で討つ」という言葉は、もともと「江戸(などの、一箇所)」に限定した言葉ではないんですよ(笑)。

> そうであるならば、

>>「ルサンチマンの思想家」と言われる、ニーチェも持ち出すまでもなく、「動機としてのルサンチマン」は、それ自体は、何ら問題ではありません。

> ということではなかったでしょうか。そうした憎しみから出発しても、提起した議論の妥当性があれば、アレクセイさんとしては、それで良いのではないのでしょうか。

そうはなりません。なぜなら、はらぴょんさんのご意見の本質(狙い)は、「提起された(一般的な)議論」つまり「見せかけ」の側には無い(=嘲笑という目的にある)からです。
――大西巨人曰く「私怨は公憤に高められなければならない」。
私が『「動機としてのルサンチマン」は』と断っているのを、正確に読んでほしいですね。

そして、この程度のことがわからないのは、「江戸の仇を長崎で討つ」という言葉の解釈と同様、杉澤さんが物事を「自分の都合」でしか語らない人だからです。

>「浅田彰批判」批判について再考します。

> (※ アレクセイが)「浅田彰は、日本における「ポスト・モダン思想」の先駆者にして、代表的な論客だ」というとき、その浅田彰は、思想家の浅田彰であり、kamuiさんの意見を表す何かでないことは明らかです。それと「その彼の意見に「ロゴス中心主義」を見るというのはかなり大胆なことだし、それをデリダで脱構築しようなんて、そう誰にでも思いつくことじゃないだろうな。」という考えは、思想の内容ではなく、思想家が大事である観点からなされた発言であることも明らかです。(アレクセイさんとホランドさんとを切り離し、ホランドさんは浅田彰批判をしていない、という議論をされることはないと信じています)

最後の部分なんか、杉澤さんの本質をよく表わす、じつに「けちな注文」ですね。
「2ちゃんねる」あたりの人も、議論になると、必ずそこを問題にしたがる(笑)。

ともあれ、いずれにしろ、ご指摘のようなことにはなりません。
ここで私は、浅田彰に関する「通説」を紹介しているだけであり、浅田彰が実際にどうか、あるいは、私(アレクセイ)が浅田をどう評価しているか、を語ったものではない。
なぜならば、私は、浅田彰をほとんど読んでいないし、浅田彰批判も笠井潔のものしか読んでいないため、実質的に「浅田彰そのもの」を語れる(どこかへ位置づけうる)立場にはない。端的に言えば「浅田彰を知らない」。つまり、ここに引用された私の発言は、「浅田彰は、一般にこう評価されているそうだが」という「世間の浅田彰評価」に関する話でしかない。
――したがって、この部分をして、私が「浅田彰そのもの」について語った「かのように」持っていくのは、杉澤さんお得意の「(レトリカルな)牽強付会」というやつです。

ちなみに、私の「実感」を説明した文章を、「アレクセイの花園」(3月9日(金)23時36分30秒)から引用しておきましょう。

> 柄谷行人が『探究2』の「註」のなかで、我が意を得た発言をしておりますので、ご紹介しておきたいと存じます。


>『 デカルトのコギトを思考主体とみなすのが通念であるように、ヴィトゲンシュタインの言語ゲームを規則の大系(共同体)の先行といった観点からみるのも通念である。通念と通念を争わせるのも通念である。むろん私は、べつにデカルトやヴィトゲンシュタインは本当はこうなのだと主張するつもりはない。マルクスに関しても同じだ。私は私の考えをいっているだけだと考えてもらってかまわない。ただ、私のいうようなことが考慮されていない議論は、どんなに綿密であっても、たんに退屈なのだ。』(P155)


> つまり、柄谷行人は「世界を、自分の頭で考えたいだけだ」と言っているのでございます。ですから、彼にとって、先行する哲学者は、世界を考えるための「道具」でしかなく、決してそれ自体を珍重するような「権威」ではないのでございますね。したがって柄谷は、それらの哲学者が「実際にどうだった」というようなことには興味がなく、「彼が考えたことは、こうであったとも考えうるし、そう考えた方が、世界をより興味深く考察することができる」と言いたいのでございます。

> 当然、こうした態度は、「専門」であることが「正統」であり、「正統」であることが「権威」を保証するものだと考える「専門家」には、嫌われ疎まれざるを得ません。しかし「そんな俗なことは、どうでもいい」というのが柄谷行人の考え方であり、私の共感するところなのでございます。

つまり、私も、浅田彰だろうが、デリダだろうが、はたまた柄谷行人であろうが『本当はこうなのだと主張するつもりはない。』のですね。
そういうことは、そういうことが好きな「専門家」の方に委せておけばいいことで、私たち素人が、読み齧りの半端な知識であれこれ決めつけることではないし、また、いくら知識があったとしても、決めつけることそれ自体、愚かしい行為なのですよ。

> この点を今まで指摘できなかったのは、私の単純な見落としによるものであり、それにより、適切でない解釈をしてしまったことを深く反省しています。

いや、それは「見落とし」ではない。貴方が今回ご指摘なさった論点なんて、そもそも「存在しない」んですよ(笑)。 むしろ「恣意的に間違った解釈を、事ごとしく提示したこと」を反省すべきです。

> あらためて確認しますが、はらぴょんさんが言う、

>>> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。

>> というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例

> だという評価は、的外れではないんです。

やはり堂々回りですね。
はらぴょんさんの『滑稽な事例』だという判断は、(すでにご本人は理解しておられるとおり)ホランドくんの言葉が「kamuiさんの言葉に向けられたもの」であることを理解できなかったためになされた、「的外れ」なものなのです。
ちょうど、杉澤さんが、ここでした、

> 「浅田彰は、日本における「ポスト・モダン思想」の先駆者にして、代表的な論客だ」というとき、その浅田彰は、思想家の浅田彰であり、kamuiさんの意見を表す何かでないことは明らかです。

という、私の言葉への「誤解」と、まったく同質です。
はらぴょんさんの失敗から学ばなかったのは、杉澤さん貴方ですよ。

>>『私が遠の昔に着目し指摘しておいたという事実を、そうではなかったかのようにレトリカルに「隠蔽」した上で、さも自分が、私の「未指摘の論点」を見抜き、『先回り』して指摘したものであるかのように「装った(偽装した)」んですね。

>> しかし、自分が黙って、他人の『猿真似』をやっておいて、それが露見しそうになると、それを「第三者」に対してのみ、その「事実」を隠蔽しようとする「姑息な態度」は、さすがに「見苦しい」し「人間として卑しい」と感じたので

>というふうに(実証困難なのにも関わらず)アレクセイさんははらぴょんさんを批難されています。
> kamuiさんの意見をして浅田彰の意見と表現しただけでなく、思想家浅田彰というものを念頭においていて発言した事実を、そうではなかったように隠蔽した上で、さも的外れな批判をされたというように偽装した、とは言えないのでしょうか。ご自身が思想の内容だけが大事なのではなく、思想家というラベルも大事である気持ちを抱いていながら、それを隠蔽したとは言えないのでしょうか。それは「姑息な態度」ではないでしょうか。

最初の「為にする、間違った前提」から導き出された「為にする、間違った結論」としての「為にする、断罪」。

――姑息なのは、杉澤さん、貴方ですよ。
「おふざけ」を演じたり「真面目」を演じたりして、初手からまったく「事実」を語ろうとはしない、「レトリックに憑かれた人」たる、杉澤鷹里の方です。

> アレクセイさんのここでの意見の多くは、ご自身に対しても向けられてしかるべきものです。既に何点か指摘させていただいておりますが、他にも、はらぴょんさんのたとえ話を「主題(元となる事実)を正確に反映するものではなく、実質的には、タチの悪いデマゴギーにしかなっていません。」と批判している議論の流れがある状況において、私に対して向けられたたとえ話「ここには「略奪・虐殺・強姦」された、中国民衆をはじめとする東アジア数十万人の戦争被害者への配慮が、まったく欠けています」はまさしく、そうした類のものだと言えます。ここで言う被害者(とアレクセイさんが念頭においているの)はアレクセイさんのことであり、略奪も虐殺もされておらず(そう解釈するのが非常に妥当な指摘をされただけであり)、また自分できちんとスジを通して発言する能力と機会とを持っています。
> 他人と自分とで、批判の水準が変わることは止むを得ないとは思いますが、あまりにご自身のことを棚に上げて他人のことを批判する傾向が強く、ご注意申し上げたく思います。

相変わらずここには「私はこういう意味で言った」という自己主張しかありません。つまり、私の示した、

> 「日本が大東亜戦争を始めたから、東南アジア諸国は、列強の植民地政策から独立することができたのだ。日本の戦争とは、そういう悠久の大義において、行われたものである」といった議論

という譬喩と、まったく同質の「現実無視の議論」です。

杉澤さんのここでの議論には、私の譬喩が『タチの悪いデマゴギー』にしかなっていないという「論証」が無く、私が、はらぴょんさんの議論について「論駁・論証」的しめした「結論」だけを、「おうむ返し」しているに過ぎない。これはまったく「無内容な告発」です。

しかし、これが杉澤鷹里の実力であるならば、それも仕方のないことでしょう。
杉澤さんにあるのは「ロジック」ではなく、初手から終始、演技過剰の「レトリックだけ」です。

したがって、私はオリジナルの発言者として言っておきましょう。
杉澤鷹里さん、貴方は『あまりにご自身のことを棚に上げて他人のことを批判する傾向が強く、ご注意申し上げたく思います。』。

例えば、私とはらぴょんさんのやりとりを「どちらにも益するものではなく不毛」とか「人格を批判しても無駄」などと「悟ったような態度」を採っていた、あの杉澤鷹里はどこに行ったのか?

ご自分が批判された途端、上のような批判にもならない批判をぐずぐずと列ねるようでは、貴方が最初に示した「寛容を旨とする実際家」というスタンスも、所詮は「はらぴょんさんの覆面弁護人」の「世をいつわる仮の姿」でしかなかったことを、自己暴露するようなものですよ。

貴方の「一貫性」の無さは、はらぴょんさんが辿った経過と同様に、客観的には「致命的」なのです。
ご自分が、はらぴょんさんよりは、状況も見え、弁も立つなんて思ってたら、それは大きな間違いです。
No.302 - 2007/05/30(Wed) 08:32:55

mixi(8)-9 / ☆
杉澤鷹里のコメント 2007年03月11日 15:21

>私やホランド氏に、的外れ且つ下らない嫌がらせをしたのは、かねてからはらぴょんに、私に対する妬みややっかみの感情があり、それが憎しみに近いものとなっていたからこそ、私に好きな小森健太朗を批判され、かつ、はらぴょんさんの小森健太朗評価の甘さを指摘されたことが切っ掛けとなって、専門知識を振りかざすかたちでの嫌がらせにおよんだのであろう」ということです

文意が読み取れず、失礼をしました。つまり、「江戸の仇を長崎で」ということではなく「日本全国の仇を長崎で」ということですね。
そうであるならば、

>「ルサンチマンの思想家」と言われる、ニーチェも持ち出すまでもなく、「動機としてのルサンチマン」は、それ自体は、何ら問題ではありません。

ということではなかったでしょうか。そうした憎しみから出発しても、提起した議論の妥当性があれば、アレクセイさんとしては、それで良いのではないのでしょうか。
「浅田彰批判」批判について再考します。

>>>> ですから、それははらぴょんさんの立場からすれば、粗雑ではなく、妥当なものであったのだ、という内容の文章を既に書かせていただいております。
(中略)
>堂々回りです。

議論の流れに沿って、ご理解いただけるよう説明しようと思いましたが、根本的に立論をしなおします。

 アレクセイの花園に1月24日、アレクセイさんがなされた投稿です。ホランドさんに向けられたものです。

以下引用

> ――というわけで、園主さまの文章(主に、「ミクシィ」のコミュ【柄谷行人】に発表なさっている文章)を読ませていただいたり、あれこれご教示いただいている「ジャック・デリダの思想」は、けっこう身についているようですね。
> もちろん、原典を読まずにやっていることだから、誤解している部分も少なくないでしょうが、ボクなりに刺激され、役に立っている、というのは間違いないようです(笑)。

いや、私より上手に、デリダを援用してるんじゃないか?(笑)


>  え〜っと、ちょっと意図が伝わらなかったみたいなんですが、端的に言いますと、ボクは前回、浅田彰さんの「自己と他者」という図式そのものを、否定しているんですよ。それって「わかりやすいけど、ホントにそうなの?」って。

> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。でも、ボクは、そもそも、この「自己(私=我)」という基底、つまり「我思うゆえに我あり」という「ロゴズ」。言い換えれば、「ロゴス」という「基底=根拠」を疑っているんですよ。だから、ジャック・デリダを持ち出してきて『ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』という話に持っていったんですね。


浅田彰は、日本における「ポスト・モダン思想」の先駆者にして、代表的な論客だ。その彼の意見に「ロゴス中心主義」を見るというのはかなり大胆なことだし、それをデリダで脱構築しようなんて、そう誰にでも思いつくことじゃないだろうな。
「発達心理学」的な考え方に対する、柄谷行人的な指摘(「逆算的な思考(遠近法的倒錯)」)も、かなり大胆なもので、おもしろいと思う。「混沌から秩序へ=混沌から自我へ(自我=秩序)」という図式を疑うというのは、かなりデリダ的なんじゃないかな

引用終わり

「浅田彰は、日本における「ポスト・モダン思想」の先駆者にして、代表的な論客だ」というとき、その浅田彰は、思想家の浅田彰であり、kamuiさんの意見を表す何かでないことは明らかです。それと「その彼の意見に「ロゴス中心主義」を見るというのはかなり大胆なことだし、それをデリダで脱構築しようなんて、そう誰にでも思いつくことじゃないだろうな。」という考えは、思想の内容ではなく、思想家が大事である観点からなされた発言であることも明らかです。(アレクセイさんとホランドさんとを切り離し、ホランドさんは浅田彰批判をしていない、という議論をされることはないと信じています)
 この点を今まで指摘できなかったのは、私の単純な見落としによるものであり、それにより、適切でない解釈をしてしまったことを深く反省しています。あらためて確認しますが、はらぴょんさんが言う、

>> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。

>というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例

だという評価は、的外れではないんです。

>『私が遠の昔に着目し指摘しておいたという事実を、そうではなかったかのようにレトリカルに「隠蔽」した上で、さも自分が、私の「未指摘の論点」を見抜き、『先回り』して指摘したものであるかのように「装った(偽装した)」んですね。

>しかし、自分が黙って、他人の『猿真似』をやっておいて、それが露見しそうになると、それを「第三者」に対してのみ、その「事実」を隠蔽しようとする「姑息な態度」は、さすがに「見苦しい」し「人間として卑しい」と感じたので

というふうに(実証困難なのにも関わらず)アレクセイさんははらぴょんさんを批難されています。
 kamuiさんの意見をして浅田彰の意見と表現しただけでなく、思想家浅田彰というものを念頭においていて発言した事実を、そうではなかったように隠蔽した上で、さも的外れな批判をされたというように偽装した、とは言えないのでしょうか。ご自身が思想の内容だけが大事なのではなく、思想家というラベルも大事である気持ちを抱いていながら、それを隠蔽したとは言えないのでしょうか。それは「姑息な態度」ではないでしょうか。
 
 アレクセイさんのここでの意見の多くは、ご自身に対しても向けられてしかるべきものです。既に何点か指摘させていただいておりますが、他にも、はらぴょんさんのたとえ話を「主題(元となる事実)を正確に反映するものではなく、実質的には、タチの悪いデマゴギーにしかなっていません。」と批判している議論の流れがある状況において、私に対して向けられたたとえ話「ここには「略奪・虐殺・強姦」された、中国民衆をはじめとする東アジア数十万人の戦争被害者への配慮が、まったく欠けています」はまさしく、そうした類のものだと言えます。ここで言う被害者(とアレクセイさんが念頭においているの)はアレクセイさんのことであり、略奪も虐殺もされておらず(そう解釈するのが非常に妥当な指摘をされただけであり)、また自分できちんとスジを通して発言する能力と機会とを持っています。
 他人と自分とで、批判の水準が変わることは止むを得ないとは思いますが、あまりにご自身のことを棚に上げて他人のことを批判する傾向が強く、ご注意申し上げたく思います。
No.301 - 2007/05/28(Mon) 22:19:10

mixi(8)-8 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 17:55

☆ 杉澤鷹里さま

「2007年03月10日15:30」付けのお書き込みを見落としておりましたので、ここでレスポンスさせていただきます。

> (※ はらぴょんさんは)救いがたい鈍感さですが、それはそれとして一つの個性として楽しめるわけです。やすやすと禁忌を踏み破るはらぴょんさんの鈍感さがあってこそ、少年回廊に小説が投稿され、破壊者の幻想譜が生まれ、ウロボロスの摂動論が生まれた。常人では切り開けない領域を切り開く可能性をはらぴょんさんは秘めていると思うのです。

要は、『鈍感』で「無神経」な人間なら、まともな人間が自制するような「無茶」もできるし、それが「ごく稀に」好結果を呼ぶようなこともあるから、それ以外で、はらぴょんさんに迷惑をかけられた人は「我慢すべき」である。私(杉澤鷹里)も、はらぴょんさんのそんな『鈍感』さや「無神経」さの可能性に憧れるし、被害者のことは脇へ置いておいても、はらぴょんさんの特性を、高く評価したい――ということですね? まったく論外です。

> また、その鈍感さは幼さにも相通ずると思うのですが、例えばホランドさんとの遣り取りで言えば、「王様は裸だ」と告げる子供にも似て、これもまた、常人では切り開けない領域を切り開いていると言えると思います。ホランドさん、アレクセイさんを良く知る人は、面倒を避けて、「裸だ」と言ってあげないからです。

『裸』であるという指摘が正しければ、無用な『面倒』にはなりませんよ。私が真に『裸』であったなら、はらぴょんさんも、追いつめられ謝罪することにもならなかっただろうということです。

つまり「裸の王様」とは、はらぴょんさん自身であり、その事実を「見え透いたレトリック」で隠蔽しようとしているのが、他でもない、杉澤さん貴方です。 ――まったく、貴方らしい「小説家的なレトリック」だと評すべきですね、これは(笑)。
 
> アレクセイさんから意見の提出を要求されている論点はあとは、はらぴょんさんが、好きな作家を悪し様に言われ、「猿真似」を指摘されたことから、、『「江戸の敵を長崎で」というような、陰険姑息な、回りくどい批判』を行ったという解釈が的確かどうかということでした。
> まあ、ふつうに考えれば、噴飯ものの「一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は『愕然』あるいは『呆然』とします」で終わる話ですが(初めて読んだとき、どうしてそんなことではらぴょんさんは、怒らなければならないのだと頭を捻りました)、検討をしていきます。
>「猿真似」の指摘によって、アレクセイさんを恨んで意趣返しした、ということはないだろうという考えを、その鈍感さを理由に私は表明しています。
> 小森批判がはらぴょんさんの不興を買った可能性を私は否定できません。熱狂的なファン心理というものをはらぴょんさんが持っていることを証左する事例を私はいくつか頭に思い浮かべることができます。そしてその詳細をここでお伝えすることは出来ませんが、熱狂的なアレクセイファンであるがゆえに、アレクセイ批判と捉えられるような発言をした私に対して、筋違いの嫌がらせを、はらぴょんさんはしたのではないか、という事例について、アレクセイさんのご指摘を受けて、初めて思い至ったことを告白します。
>(あれはそういうことであったか。おのれはらぴょん、こんなに長い密な付き合いのある俺よりも、アレクセイのほうを取るとは! 許せん、プンプン)
> で、江戸の仇を長崎で討ったと。うむむ。それを一概に否定できないと私が思うのは、「パラダイムの混在について」をあの時点で発表する契機が何だったのか明らかでないからです。ちなみに私は、「パラダイムの混在について」の初読時、てっきり、私どもが普段話題にしているような評論家が、思想家を並べ立ててカンカン踊りを踊らせる類の評論を(比較的注目されるかたちで)発表したものとばかり思っていました。
> そういうことがなければ、別の解釈が必要となり、実は噴飯もののアレクセイ仮説が意外にも当を得ているのかもしれない、と否定しきれていない次第です。
>(敢えて悪意を見出すなら)「典型的な誤り(と思われるもの)を発見したことから、それを嬉々としてあげつらった」のが主要因ではないかと、私は思ってますけどもね。

これが『ふつうに考えれば、噴飯もの』と評価をする、私の「はらぴょん批判」への『検討』結果ですか?
――『ふつうに考えれば』、ここでは何も証明されていないじゃないですか。

そもそも私の議論は、私の「小森健太朗批判」が『切っ掛け』になったのであろうというものであり、それが「主因」だなどとは、どこにも書いておらず、杉澤さんの議論は「事実に基づかないフィクション」です。

私が、一連の「はらぴょん論」、特に、

・ 2007年02月20日「見解」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

のコメント欄所収の「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」で書いたのは、「はらぴょんさんが、私やホランド氏に、的外れ且つ下らない嫌がらせをしたのは、かねてからはらぴょんに、私に対する妬みややっかみの感情があり、それが憎しみに近いものとなっていたからこそ、私に好きな小森健太朗を批判され、かつ、はらぴょんさんの小森健太朗評価の甘さを指摘されたことが切っ掛けとなって、専門知識を振りかざすかたちでの嫌がらせにおよんだのであろう」ということです。
そして、この指摘は、はらぴょんさん自身が、

・ 2007年02月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

で自供した「私に対する過剰な興味」の裏返しとして、立証されたも同前でしょう。

それなのに、杉澤さんは、そういう事実にすべて目を瞑り、例によって「おふざけ文体」による「レトリック」で、真面目な批判を「相対化」しようとしています。

これは、杉澤鷹里という文章家の「本質的性格」を考えるうえで、無視できない「顕著な特徴」だと言えるでしょう。

つまり、相手が如何に大真面目に論じていても、自分の都合だけで「おふざけ」を書いたり、かと思えば「真面目」ぶったりする。――これは、相手の議論を「軽く扱う」ことで相対化しようとする時には「おふざけ文体」が選択され、「おふざけ」が過ぎると自分の言葉の信憑性を疑われかねない局面だと判断すると、いきなり「あれは演技でした。じつは」と「真面目」ぶって語りだす、徹頭徹尾「自己中心的」な態度に由来するものだと言えるでしょう。
また、そうでなければ、真剣に怒り、真剣に批判している人に対し、ころころ態度を変えることなど、誠実な人間にはできることではないからです。

杉澤さんは、はらぴょんさんを私の「被害者」として「アレクセイ批判」を書くのだそうですが、

> (※ はらぴょんさんは)救いがたい鈍感さですが、それはそれとして一つの個性として楽しめるわけです。やすやすと禁忌を踏み破るはらぴょんさんの鈍感さがあってこそ、少年回廊に小説が投稿され、破壊者の幻想譜が生まれ、ウロボロスの摂動論が生まれた。常人では切り開けない領域を切り開く可能性をはらぴょんさんは秘めていると思うのです。

などという「トンデモな評価」に象徴されるように、杉澤さんの目線は、徹頭徹尾「被害者には向いていない」というのが、実際です。
ここでの議論も「日本が大東亜戦争を始めたから、東南アジア諸国は、列強の植民地政策から独立することができたのだ。日本の戦争とは、そういう悠久の大義において、行われたものである」といった議論と、なんら選ぶところはありません。つまり、ここには「略奪・虐殺・強姦」された、中国民衆をはじめとする東アジア数十万人の戦争被害者への配慮が、まったく欠けています。――そして、杉澤鷹里さんの議論は、まったくこれと「同質」なのです。

したがって、杉澤さんが「はらぴょんさんを被害者として」などと、例によっての「きれいごと」を書いても、その実際は、自分が勝手に介入した結果、今度は自分が批判されるはめになったことへの、単純反応でしかないというのは、もはや明らかでしょう。
つまり、杉澤さんが、誰かを私(アレクセイ)の「被害者」として「アレクセイ(批判)論」を書くとすれば、その「被害者」とは、杉澤さん本人に他ならず、はらぴょんさんは態のよい「道具」でしかない、ということです。

また、そういう杉澤さんであったればこそ、自身の都合に応じて、

>  私は正直者ですから(笑)、偽らざるはらぴょん論を展開していきます。
>  はじまり、はじまり。
> はらぴょんさんについてはっきり言えるのは、鈍感だということです。

などと書く一方で、

> 2007年03月10日12:15  杉澤鷹里

>はらぴょんさま、

> 逃走することも黙殺することも、「あの浅田はやはりこの浅田だ」と反証を重ねることも可能であったのに、それをせずに謝罪されたということにはらぴょんさんの誠意を感じます。
> 不適切な発言は不適切な発言として認め、正せる襟は正す。理想ですが実行することはなかなかに難しく、ましてや激烈な批判を浴びている中、それをするというのは、私にはほとんど不可能事のように思われます。はらぴょんさんに敬意を表します。

などと、無責任に、何とでも書けるのです。

こんな杉澤さんにとっては、中国で「略奪・虐殺・強姦」を行った人が、戦犯として捕らえられ、法廷に引き出されて、なおもあれこれ言い訳した結果、それでも追いつめられて、やっと「あれは私の間違いでした。勘弁して下さい」と謝罪する態度は、『誠意を感じ』るものであり『敬意を表』すべきものとなるのです。

つまり、杉澤鷹里という人にとっては、「略奪・虐殺・強姦」を行ったような人は、精一杯逃げまわり、頬かむりをして沈黙し、バレたら「知らぬ存ぜぬ」で否認するのが、「当たり前だ」ということになるんですね。無論、その際、杉澤さんの念頭には、「被害者」の味わった苦痛など、欠片も存在しない、ということです。
No.299 - 2007/05/28(Mon) 22:10:59

mixi(8)-7 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 16:36

☆ 杉澤鷹里さま

以下にご紹介する文章は、はらぴょんさんの日記ページである、

・ 2007年02月27日「『テロルの現象学』について」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

のコメント欄に、貴兄が

・ 2007年03月07日17:55
・ 2007年03月07日20:14
・ 2007年03月07日21:02

に投稿された文章に対する、レスポンスです。

ご承知のとおり、かのページが重くなりすぎたため、そこでの議論を継続するために立てた、この、

・ 2007年03月07日「続・杉澤鷹里氏との議論」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746

のページに書き込む予定でしたが、その前に、

> 私は正直者ですから(笑)、偽らざるはらぴょん論を展開していきます。
> はじまり、はじまり。

とのことで、貴兄の「はらぴょん論」の開幕をつげる書き込み(2007年03月09日00:34)がありましたので、まずは「お手並み拝見」ということで投稿を控えておりました。

しかし、貴兄の「はらぴょん論」が実質的に、開幕早々頓挫したと判断せざるをえない現状となりましたので、この段階で投稿させていただくことにいたしました。

なお、私は下のレスポンスの末尾部分で、

> 今のままでは、杉澤さんは、第三者には「覆面をした、はらぴょんさんの弁護人」にしか見えないはずですよ。
> いくら「人格に踏み込まない」とか「誹謗中傷だけを問題にする」と繰りかえしたって、はらぴょんさんの問題点については、やむなく認めざるを得ない場合を除いては、自分からは積極的な発言を一切せず、ただただ私の発言の「部分」についてのみ、あれこれ注文をつけるだけの現状では、杉澤さんがそうした『手法・対処法』で、問題の「相対化」を図り、はらぴょんさんに不利な状況を「お互いさま」にまで持っていこうとしている、ようにしか見えないし、その意味で、杉澤さんの自己紹介は、第三者には絶対に説得的には映らないはずなのです。

と指摘していますが、残念ながらこれは、的を射ていたようですね。

---------------------------------------------------------

☆ 杉澤鷹里さま

>>> ですから、それははらぴょんさんの立場からすれば、粗雑ではなく、妥当なものであったのだ、という内容の文章を既に書かせていただいております。

>> ユダヤ人の立場からすれば、ホロコーストを不当なものとする弾劾は『妥当なもの』であり、かつ、ナチスの立場からすればホロコーストは『妥当なもの』だった、ということなのでしょうね。戦中、日本軍に「虐殺・強奪・陵辱」された中国民衆の立場からすれば、日本軍の行為を「非人間的蛮行」だとする非難は『妥当なもの』であり、一方、日本軍の立場からすれば、戦中の中国における「虐殺・強奪・陵辱」も『妥当なもの』だったということになるのでしょう。

>> でも、こんな「判断」は、何も言っていないに等しく、態の良い「判断回避の責任逃れ」の「誤魔化し」でしかありません。――まさに、これこそが「悪しきレトリック」です。

> 当該箇所は、「その一方で、ある程度、現代思想的布置を意識した立場から、「デリダを援用しつつ、議論の基底が「自己(私=我)」である点について浅田を批判する」という構えに危ういものを感じる、ということも十分に妥当性があると思います。
> 大体の方向性の正しさがなければ、切り取られた一断面は、まったく理解不能であったり、逆の意味を見出してしまうことにもなりかねないからです。」です。
> ちょっと繊細な議論になっており、論旨が見えにくいと思いますが(そして一部アレクセイさんの批判もいただいており、そのための補足も必要ですが、方向性の正しさは受け容れられていることもあり)、何も言っていないわけではないことを取り敢えずご確認のほどを。

堂々回りです。また「そこに限って言えば」ですか?
要は、一見「正しい意見」も、それが語られた「文脈」を無視しては、誤りになる、ということです。

例えば、一般論としては「祖国を愛することは良いことです」とは言えるでしょう。でも、祖国が戦争の最中にあり「祖国を愛すること=戦場で敵国人を殺すこと」という文脈が出来上がっている時に、その文脈を意図的に無視して、さも一般論であるかのように「祖国を愛することは良いことです」と「だけ」いうのは、間違いである、ということです。

そして、ここでの杉澤さんによる、はらぴょんさんの意見の「切り出し」方も、まったく同じことだということですよ。
つまり、これは「方向性が正しい」ということですらないんです。むしろ、はらぴょんさんのご意見は、字面こそ「正論」だけれど、その意図したところ(方向性)は、そうしたものではなく、むしろ「方向性を誤ったもの」であった、ということです。


>>『程度』の問題でも、「結果」の問題でもありません。「意図」の問題です。

>>> したがって、アレクセイさんの立場として、はらぴょんさんの解釈は粗雑であり、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」にはあたらないことから、修正を求める、というのは納得できます。
>>という理解を示した杉澤さんならば、どうしてはらぴょんさんが、そんな『粗雑』な解釈をしたのか、それなりのお考えはあるのでしょう? また、私の当然の『修正』要求を無視して、さらに私を、
>>> 自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏
>>などと「事実無根」の誹謗を重ねるはらぴょんさんについて、何らかのお考え(評価)はお持ちなのでしょう?
 
> ここには、レトリックがあります。アレクセイさんの要求が妥当になった(と私が考えたの)は、「この浅田は、あの浅田ではない」という主旨のアレクセイさんの発言を踏まえてのことです。一方、はらぴょんさんの「パラノ」発言は、それより前のものです。「妥当な要求」を受けてもなおアレクセイさんをはらぴょんさんが「パラノ」だと非難しているかのような錯認を読み手に与えるレトリックを駆使し、「相手を必要以上に貶めようとする陰険な意図」を感じます。


なるほど、そこは前後関係が混乱していますね。でも、それは、本質的な「間違い」ではありません。なぜならば、私はその部分での「前後関係」には誤認がありましたが、はらぴょんさんそのものの評価は、その部分に拠ったものではなく、無論、誤認でもないからです。
つまり、はらぴょんさん本人に関して言うならば、私の「妥当な要求」を待つまでもなく、もともと私が、

> アレクセイさんは、自分にとって否定的な事柄の方が、真実を示しており、自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまうのではないでしょうか。
                     (「齟齬の根底にあるもの」より)

> 自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏
                     (「『テロルの現象学』について」より)

と評しうるような人間でないことを「知っていながら」、それでも、こんなこと(誹謗中傷)を書いたという「事実」があるからです。
つまり、はらぴょんさんは、私の「妥当な要求」によって、初めて気づく気づかないというレベル(段階)で、私を「誹謗」していたのではありません。なぜなら、 はらぴょんさんは、私のサイトにアップされた私の評論を、事前に隈なく読んでおられるのですから、私の指摘を待つ(突きつけられる)までもなく、本来ならば、上に例示したような「事実に反する評価=誹謗」を語ることは、事の初めからできなかったはずなのですよ。しかし、はらぴょんさんは現実には、それをヌケヌケと実行してみせたのです。

つまり、杉澤さんが『アレクセイさんの要求が妥当になった(と私が考えたの)は、「この浅田は、あの浅田ではない」という主旨のアレクセイさんの発言を踏まえてのこと』だったとしても、それと、はらぴょんさんの認識とは、関係がないんです。杉澤さんは、私の論文を、はらぴょんさんほどお読みではないから、私の『「この浅田は、あの浅田ではない」という主旨のアレクセイさんの発言』を待って、初めて私のはらぴょんさん批判の妥当性を理解したのでかも知れませんが、はらぴょんさんについては、初めから理解した上でやっていたことなんですから、私の「妥当な要求」を受けてもなお、パラノ呼ばわりや「発見独占者」呼ばわりをする人だと考えるのは、理の当然であり、事実そうなってもいます。

つまり、私が、読者に対し、わざわざ『錯認を読み手に与えるレトリックを駆使』するまでもなく、はらぴょんさんは、もともとそういう人だというのが、事実に即した、妥当な評価だということなのですよ。


>> すくなくとも「浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ」などという要求よりは、よほど真っ当であり常識的な、そくざに回答可能な質問だと思うのですが、いかがでしょうか?

> あたかも誰かが(私かはらぴょんさんかが)「浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ」と(アレクセイさんに)言ったかのような印象を与えます。「相手の発言・論旨を歪曲しようとする姑息な意図」を感じます。……などと、悪しき意図を、発言の背景に読み手は無数に恣意的に読み取ることができます。そうした点を含めて、「誰しも大なり小なり使用している」と表現させていただきました。


では、浅田彰を批判するのは『構造と力』だけを読めばできる、というのですか? はらぴょんさんの注文は、自分に都合の良い、自分に可能な範囲内でのみ語られています。だから、悪質なのです。

『構造と力』を読んでいなければ、そこからの「引用文」についても評価し得ないとか、『構造と力』を読んでいなければ、笠井潔の思想を理解しているとは言えない、と言ったのは、はらぴょんさんです。そして、そうした指摘に「一定の正当性」を認めたのは、杉澤さん、貴方です。
しかし、その論法で言えば、本来なら『浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ』という方が「まだマシ」ではないですか。自分の読んでいる部分だけを「特権視」する、はらぴょんさんの「ご都合主義的論法」の方が、よほど悪質だということにはなりませんか? 「原著を読んでなければ、そこからの引用文についても論ずるな」という論法は、自ずと「その作家のぜんぶ読んでから発言しろ(1冊読んだくらいで、わかったようなことを語るな)」につながるし、つながらない方が、論理的一貫性の問題として、むしろおかしい。

つまり、はらぴょんさんの要求を「浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ」と「要約」することは、決して『錯認を読み手に与えるレトリックを駆使』などではなく、「本質抽出的要約」でしかありません。それとも、杉澤さんは「つまり、こういうことだ」「簡単に言うと、こういうことだ」という「要約」が、即ち『錯認を読み手に与えるレトリック』だとでもおっしゃるのでしょうか?
私の「要約」が間違っていれば、それは批判してもいいし、すべきです。しかし、「要約」そのものが「悪しきレトリック」だというような杉澤さんの言い方こそ、「悪しきレトリック」でしょう。

杉澤さんだって、「要約」や「喩え」といった「レトリック」無しに、文章を書いたりはしないでしょう。つまり、レトリックは必要なものであり、だからこそ、杉澤さんのように、何でもかんでも「相対化」して『誰しも大なり小なり使用している』などと言ってはならず、そのレトリックの是非を、個々に問うていかねばならないんですよ。


>> たいがいの現象的難点は『「人格」「思想」(※「作者」)』に由来するものであり、そこに言及し、そのレベルでの善処を求めずしては、何の変化もない、とも言えるのです。

> それは重要な視点です。私も常々自分の取り得る手法、対処法の限界を思っています。

う〜ん、「嘘くさい」言い方だなあー。「私は、人格評価には踏み込まない」とあれだけ明言し、その「建て前」によって、はらぴょんさんの「人格」評価を語らない、ご自分の態度を「正当化」していたのに、あれは、そんなに確信の持てない『手法・対処法』であり、あれは「あの場合は」そうした『手法・対処法』に拠っていた、というだけのことだったんでしょうか。

> ですから、確認すれば、私自身が私に求めている「人格批難をしない」ということをアレクセイさんに求めるつもりはなく、私がアレクセイさんとはらぴょんさんとの遣り取りについて、批判したのは、それが人格についての遣り取りだから、という点ではなく、誹謗中傷である点についてであり、実際、人格についての遣り取りではない部分において具体例を見ています。

これなんか、完全に「嘘」でしょう。本当に、私に「(はらぴょんさんに対する)人格批判の停止」を求めず、ただ『誹謗中傷である点について』だけ語りたかったのなら、どうして、はらぴょんさんの明白な「誹謗中傷」については、すこしも批判しなかったんですか? ――ここで語られていること(自己説明)は、どう見たって、場当たり的なものであり、主張が少しずつスライドさせられている、としか思えません。

> (さらに確認すれば、その具体例では、「互いに異なる三つの水準での発言を同一の平面において捉え、一貫性がない、と括るのは踏み込みすぎ」ということが論理的骨子であったわけですが、それについての反証はされておらず、現在のところ、二人の遣り取りが誹謗中傷の応報である、ということをスジを通して説明できているものと思っています。)

『反証』されていますよ。
はらぴょんさんの『互いに異なる三つの水準での発言』などというものは、「人格」に踏み込んだ私の評価では『互いに異なる三つの水準での発言』でも何でもなく、単に「表層的(字面の)な違い」にすぎません。それを『反証はされておらず』と主張しえたのは、杉澤さんが「人格に踏み込まない手法・対処法」の正しさを、「完全に信じている」という前提に立った場合であり、それがもともと「確信」的なものではなかったということが 判明した今となっては、『反証はされておらず』という主張は、成立しないんです。


> それにしても、こうして、突きつけられますと、

>> たいがいの現象的難点は『「人格」「思想」(※「作者」)』に由来するものであり、そこに言及し、そのレベルでの善処を求めずしては、何の変化もない、とも言えるのです。

> ということは真にそうであると思います。私もこの議論の中で、人格のレベルまで踏み込み善処を求めるということを試みなければ、との思いを抱くに至りました。

つまり、ここで語られているのは「やっぱり、私も人格のレベルまで踏み込みことをすることにしました」ということです。となれば、これまでの私の「人格に踏み込んだ」意見についても、「認められない」と言って、評価そのものを拒否したまま放置するのではなく、「人格に踏み込む」ことも是とした「新たな立場」から、改めてきちんと是々非々で、杉澤さん個人の評価を語ってもらわなければなりません。この場合「今までは」とか「これからは」という「恣意的な限定」をご都合主義的に利用して「これからの自分の権利だけ確保しようとすること」は許されない、ということです。


したがって、杉澤さんに求めたいことは、私とはらぴょんさんのやり取りについて、あちこち「切り出し」てきて「文脈無視」であれこれ注文をつけるのではなく、事の発端である「竹本健治作品評価問題」から順を追って、はらぴょんさんは「何を(何ゆえに)誤り」「何を反省すべき」なのかを明確にした上で、私のはらぴょんさん批判の「何が行き過ぎ」であるかを明確にしていくことです。

「それは行き過ぎだ」とか「それは正確ではない」と、「部分」だけを上げつらって注文をつけるという、これまでの杉澤さんのやり方は、ここで人格に踏み込むことも辞さない「全面的な批評行為」に踏みだした以上、もはや許されるものではありません。つまり、ここで自身の判断基準を明示し、「全体」を押さえた上で、是々非々で論じ直さなければならない、ということです。

でなければ、今のままでは、杉澤さんは、第三者には「覆面をした、はらぴょんさんの弁護人」にしか見えないはずですよ。
いくら「人格に踏み込まない」とか「誹謗中傷だけを問題にする」と繰りかえしたって、はらぴょんさんの問題点については、やむなく認めざるを得ない場合を除いては、自分からは積極的な発言を一切せず、ただただ私の発言の「部分」についてのみ、あれこれ注文をつけるだけの現状では、杉澤さんがそうした『手法・対処法』で、問題の「相対化」を図り、はらぴょんさんに不利な状況を「お互いさま」にまで持っていこうとしている、ようにしか見えないし、その意味で、杉澤さんの自己紹介は、第三者には絶対に説得的には映らないはずなのです。

もちろん、ご自身ではそうはお考えでないから、そのように主張なさるんでしょうが、本人がどう思おうと、第三者はそんな「形式論理」だけを都合良く見て、評価してくれるわけではありません。それは、はらぴょんさんのご意見が、ご本人が期待するように読まれるどころか、むしろ私の批判を裏づける「証拠」にしかなっていないという事実と類比的な事実なんですね。
No.298 - 2007/05/28(Mon) 21:54:53

mixi(8)-6 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 15:41

☆ 杉澤鷹里さま

はらぴょんさんの日記、

・ 「たとえ話をふたつ」2007年03月03日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648

の方に、

> 2007年03月10日12:27  杉澤鷹里

>アレクセイさま、

> あまり深追いせぬほうがよろしいかと思います。
>「私もこの議論の中で、人格のレベルまで踏み込み善処を求めるということを試みなければ、との思いを抱くに至りました。」
> という私の発言の意味することを、アレクセイさんはお分かりでしょう? それは私にとっても痛みや労力、リスクを伴うことですから、避けることができるなら避けたいと思ってもいるんです。

と、コメントしておられましたが、これは、杉澤鷹里的「はらぴょん論」は、これでもう「幕引き」だということでしょうか? 

> 私もこの議論の中で、人格のレベルまで踏み込み善処を求めるということを試みなければ、との思いを抱くに至りました。

というお言葉は、当然それにともなう『痛みや労力、リスク』を承知の上で「それでも必要である」との認識に至られた結果だと理解したのですが、どうやらそうではなく、私が、

> 杉澤さんの「はらぴょん論」は、これからまだまだ続くものと期待しますし、この程度でお茶を濁すのなら、やはり杉澤さんは「はらぴょんさんの覆面弁護人」だということになるでしょう。

と、釘を刺しておかねばならないと考えた、「危惧」の方が適中していた、ということのようですね。
つまり、貴方の何度目かの「方針転換」は、場当たり的な『方法・対処法』、つまり「誤魔化し」でしかなかったということです。

言うまでもないことですが、批評というのは、自分が傷つくことを怖れていては、できません。人を傷つけるかもしれない行いを、自分が絶対安全圏にぬくぬくとおさまりながら、やれると思う方が厚かましい(厚顔な)んですよ。――その覚悟がないのなら、「フィクション」だけを書いていて下さい。批評の世界では、お呼びではありません。
No.294 - 2007/05/28(Mon) 16:15:25

mixi(8)-5 / ☆
杉澤鷹里のコメント 2007年03月10日 15:30

 救いがたい鈍感さですが、それはそれとして一つの個性として楽しめるわけです。やすやすと禁忌を踏み破るはらぴょんさんの鈍感さがあってこそ、少年回廊に小説が投稿され、破壊者の幻想譜が生まれ、ウロボロスの摂動論が生まれた。常人では切り開けない領域を切り開く可能性をはらぴょんさんは秘めていると思うのです。
 また、その鈍感さは幼さにも相通ずると思うのですが、例えばホランドさんとの遣り取りで言えば、「王様は裸だ」と告げる子供にも似て、これもまた、常人では切り開けない領域を切り開いていると言えると思います。ホランドさん、アレクセイさんを良く知る人は、面倒を避けて、「裸だ」と言ってあげないからです。
 
 アレクセイさんから意見の提出を要求されている論点はあとは、はらぴょんさんが、好きな作家を悪し様に言われ、「猿真似」を指摘されたことから、、『「江戸の敵を長崎で」というような、陰険姑息な、回りくどい批判』を行ったという解釈が的確かどうかということでした。
 まあ、ふつうに考えれば、噴飯ものの「一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は『愕然』あるいは『呆然』とします」で終わる話ですが(初めて読んだとき、どうしてそんなことではらぴょんさんは、怒らなければならないのだと頭を捻りました)、検討をしていきます。
「猿真似」の指摘によって、アレクセイさんを恨んで意趣返しした、ということはないだろうという考えを、その鈍感さを理由に私は表明しています。
 小森批判がはらぴょんさんの不興を買った可能性を私は否定できません。熱狂的なファン心理というものをはらぴょんさんが持っていることを証左する事例を私はいくつか頭に思い浮かべることができます。そしてその詳細をここでお伝えすることは出来ませんが、熱狂的なアレクセイファンであるがゆえに、アレクセイ批判と捉えられるような発言をした私に対して、筋違いの嫌がらせを、はらぴょんさんはしたのではないか、という事例について、アレクセイさんのご指摘を受けて、初めて思い至ったことを告白します。
(あれはそういうことであったか。おのれはらぴょん、こんなに長い密な付き合いのある俺よりも、アレクセイのほうを取るとは! 許せん、プンプン)
 で、江戸の仇を長崎で討ったと。うむむ。それを一概に否定できないと私が思うのは、「パラダイムの混在について」をあの時点で発表する契機が何だったのか明らかでないからです。ちなみに私は、「パラダイムの混在について」の初読時、てっきり、私どもが普段話題にしているような評論家が、思想家を並べ立ててカンカン踊りを踊らせる類の評論を(比較的注目されるかたちで)発表したものとばかり思っていました。
 そういうことがなければ、別の解釈が必要となり、実は噴飯もののアレクセイ仮説が意外にも当を得ているのかもしれない、と否定しきれていない次第です。
(敢えて悪意を見出すなら)「典型的な誤り(と思われるもの)を発見したことから、それを嬉々としてあげつらった」のが主要因ではないかと、私は思ってますけどもね。
No.293 - 2007/05/28(Mon) 16:13:38

mixi(8)-4 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月09日 14:04

☆ 杉澤鷹里さま

(どうでもいい)補足です。

> そしてホランドさんを引合いに出して滑稽だ、などと書けばおよそ事態がどう推移していくか分かりそうなものです。ぎょえー、はらぴょんそんなの書いて大丈夫なのかよ、とほとんどの読み手が思ったはずです。そういう、禁忌を難なく犯してしまう、この鈍感さは、真に救いがたい。


これを、はらぴょんさんお得意の「たとえ話」にしてみましょう。

「アレクセイの花園」に、ホランド地蔵という美少年を象ったお地蔵さまがあったそうな。園主のアレクセイは、そのお地蔵さまをたいそう大事にしていたんじゃが、ある時、知恵自慢のはらぴょんが「僕は、祟り神と言われているアレクセイなんか恐くないよ」と言って、アレクセイが大切にしているホランド地蔵に小便をひっかけたそうじゃ。それを知ったアレクセイは激怒して、はらぴょんのちんちんを使いものにならないくらいに腫上がらせ「ことによったら、腐って落ちるまで勘弁せぬぞ」と恫喝したそうじゃ。
――ええか、おまえらも、人の大切にしているものに、遊び半分で手を出したりするもんじゃねえぞ。
No.283 - 2007/05/27(Sun) 10:02:19

mixi(8)-3 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月09日 12:33

☆ 杉澤鷹里さま

>  私は正直者ですから(笑)、偽らざるはらぴょん論を展開していきます。
>  はじまり、はじまり。
> はらぴょんさんについてはっきり言えるのは、鈍感だということです。二度も、三度も、「『キララ、』は私が先だ」などと、書き散らしてしまう点にもその鈍感さは明らかです。そしてホランドさんを引合いに出して滑稽だ、などと書けばおよそ事態がどう推移していくか分かりそうなものです。ぎょえー、はらぴょんそんなの書いて大丈夫なのかよ、とほとんどの読み手が思ったはずです。そういう、禁忌を難なく犯してしまう、この鈍感さは、真に救いがたい。


まさか、これで終りではないですよね? これじゃあ立派な、はらぴょんさん「弁護」です(笑)。

なぜなら、はらぴょんさんが「鈍感」なのは「紛れもない事実」だとしても、それが「すべて」ではないからです。
つまり、「鈍感である」と認めることが、「はらぴょんさんは公明正大でなく、清廉潔白でもない」「陰険姑息な隠蔽もする」「江戸の仇を長崎で討ったりもする」「一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が(はらぴょんさんの脳髄に)生じ、このような嫌がらせをしようなどと考えるものか、僕は『愕然』あるいは『呆然』とします」などの批判を、否定するものにはならないからです。

「鈍感」ということなら、多くの犯罪者が、ある意味では「鈍感」だと言えるでしょう。例えば、ユダヤ人虐殺収容所の所長だったルドルフ・アイヒマンも、「鈍感」だったと言えば言えるし、それは間違いのない事実ですからね。――でも、それだけじゃあないんです。

というわけで、杉澤さんの「はらぴょん論」は、これからまだまだ続くものと期待しますし、この程度でお茶を濁すのなら、やはり杉澤さんは「はらぴょんさんの覆面弁護人」だということになるでしょう。したがって、

> 私は正直者ですから(笑)

という自称も、おのずと「例によっての嘘偽り(手法・対処法)」でしかないということになり、今度は「杉澤鷹里論」を書かなくてはならなくなるでしょう(笑)。

ちなみに「鈍感」だという評価は、ほとんど「批評家失格」の言い渡しも同然である、という事実も申し添えておきましょう。
杉澤さん、この調子で、正直に「これまでの思い」を語って下さい(笑)。
No.280 - 2007/05/27(Sun) 09:51:23

mixi(8)-2 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月09日 00:34

 さて、アレクセイさんお待ちかねの、はらぴょん論を展開していきます。これまで、はらぴょん論を披露しなかったのは、論理展開上の都合もありますが、はらぴょん論を展開することで自分がお笑いに走ってしまうのではないか、という恐れもあったからであり、はらぴょんさんを救いたいがためなどではなかったことを申し添えておきます。
 ちなみに、はらぴょんさんを弁護する立場であれば、ここのところは非常に簡単に済ませることが出来ます。「はらぴょんさんは公明正大であり、清廉潔白である」「陰険姑息な隠蔽などしていない」「江戸の仇を長崎で討ったりしていない」「一体、どんな思考回路からこのような妄想と邪推が生じるものか、僕は『愕然』あるいは『呆然』とします」などと書き連ねたらいいわけですから。
 私は正直者ですから(笑)、偽らざるはらぴょん論を展開していきます。
 はじまり、はじまり。
 はらぴょんさんについてはっきり言えるのは、鈍感だということです。二度も、三度も、「『キララ、』は私が先だ」などと、書き散らしてしまう点にもその鈍感さは明らかです。そしてホランドさんを引合いに出して滑稽だ、などと書けばおよそ事態がどう推移していくか分かりそうなものです。ぎょえー、はらぴょんそんなの書いて大丈夫なのかよ、とほとんどの読み手が思ったはずです。そういう、禁忌を難なく犯してしまう、この鈍感さは、真に救いがたい。
No.276 - 2007/05/27(Sun) 09:42:26

mixi(8)-1 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんの日記 続・杉澤鷹里氏との議論 2007年03月07日 21:41

当ページは、はらぴょんさんの日記ページである、

・ 2007年02月27日「『テロルの現象学』について」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

の「コメント欄」において、杉澤鷹里氏と私との間で交わされた「私(アレクセイ)と はらぴょんさんとのやり取り」に関する議論の続きを掲載するために立てられました。
これは、上の「『テロルの現象学』について」のページのログが増えすぎて重くなり、私の旧式なパソコンでは、うまく表示されなくなってしまったという、純粋にシステム的な問題からです。


なお、杉澤氏と私の議論のテーマとなっている『私(アレクセイ)と はらぴょんさんとのやり取り』については、いずれまとめる予定でおりますが、現時点では次の(はらぴょんさんの日記)ページでご覧いただけます。



(1) 2007年02月10日「『魔』」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、4つ

(2) 2007年02月15日「批評におけるパラダイムの混在」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、3つ
    (最初(2月19日)の無題コメントは「謝罪要求と警告」とでも題すべきもの)

(3) 2007年02月20日「見解」
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」他

(4) 2007年02月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第1章 「偽の反省」に表れた、その人間性」他

(5) 2007年02月24日「齟齬の根底にあるもの」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=355680293&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第2章 はらぴょん批評の「根底にあるもの」」他

(6) 2007年02月27日「『テロルの現象学』について」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第3章 事実をして、語らしめよ」他

(7) 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第4章 逃避による逃避のための逃避的な逃避」

(8) 2007年03月09日「後続の走者」(※ 2007年03月10日追補)
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=368183173&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、3つ
No.273 - 2007/05/26(Sat) 22:01:09
mixi(7) / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんの日記 たとえ話をふたつ 2007年03月03日 00:00

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648
No.245 - 2007/05/21(Mon) 07:09:13

mixi(7)-14 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 16:15

☆ 杉澤鷹里さま

> なるほど、良く分かりました。
> はらぴょんさんという被害者のためにも、アレクセイ論を展開することにします。


ええ、結構です。「アレクセイ論」を書いていただけるとは、私としても本望ですからね。楽しみに読ませていただきます。

なお、ご論文は、第三者の通読に便利なよう、次のページへの連載をお願いしたいと思います。しかし、ご自身の日記ページで連載をしたいということであれば、そのページへのリンクを、このページに張りますので、その点はお気づかいなく。

・ 「杉澤鷹里流「アレクセイ論」あるいは、アレクセイ流「杉澤鷹里論」」
   2007年3月10日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=369493150&owner_id=856746
No.297 - 2007/05/28(Mon) 21:52:45

mixi(7)-13 / ☆
杉澤鷹里のコメント 2007年03月10日 15:26

アレクセイさま、

 なるほど、良く分かりました。
 はらぴょんさんという被害者のためにも、アレクセイ論を展開することにします。
No.292 - 2007/05/28(Mon) 16:12:12

mixi(7)-12 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 15:12

☆ 杉澤鷹里さま

>  あまり深追いせぬほうがよろしいかと思います。
> 「私もこの議論の中で、人格のレベルまで踏み込み善処を求めるということを試みなければ、との思いを抱くに至りました。」
> という私の発言の意味することを、アレクセイさんはお分かりでしょう? それは私にとっても痛みや労力、リスクを伴うことですから、避けることができるなら避けたいと思ってもいるんです。


貴方の気持ちも、わからないではありません。しかし、現実には、貴方のような方が、貴方ご自身の弱さを肯定するために、はらぴょんさんのような人を無責任に甘やかして、「大人として筋を通す」ことのできない「(同類としての)甘ったれに育てあげた」とも言えるという事実を、ご理解なさっていますか?

貴方ご自身、「誠実ぶりながら、誤魔化しを弄する」という「不誠実」をくりかえしながらも、はらぴょんさんの無責任さを容認することで、自分自身の「不誠実」を、「寛容」に摺り替えている。これが現実です。
自分の欠点を認めるのに『痛みや労力、リスク』が伴うというのは、当然です。でも、それで死ぬわけではない。
前にも指摘しましたが、貴方のご意見はいつでも「加害者の痛みだけ」であり、「被害者の痛み」には、まったく目がとどいていない。だから、可能な謝罪ですら、『痛みや労力、リスク』を理由に「しないで済ませられれば、それに越したことはない」もの扱いにできるのです。
つまり、貴方のなさっていることは、はらぴょんさんの肯定に見せかけた、「自己肯定」であり「自己のアリバイ作り」でしかありません。

したがって、はらぴょんさんをどうこう言う前に、貴方自身がそうした「自身への甘やかし」を、反省すべきことでしょう。そうでなければ、貴方には、はらぴょんさんを批判する権利もなければ、むろん擁護する権利も無いのです。
「寛容」を語る人間が、誰よりも自分自身に「寛容」だなどというのは、あまりにも露骨な欺瞞(ご都合主義)です。そのことを、貴方自身が反省してから、他人のことにも口出しすべきです。

> はらぴょんさんに敬意を表します。

と、ここで使われた『敬意』という言葉の、なんと腐りきり弛みきっていることか。こんな言葉では、どんな真実も伝えられなしないでしょう。こんな「偽の言葉」では。

はらぴょんさんは、たしかに「愚か者」です。でも、貴方のように「狡猾」ではないところが、救いと言えば救いでしょう。


☆ はらぴょんさま

ということで、私は「深追い」はしません。貴方のなさったことについて「大人のけじめ」をつけてくれと言っているだけで、これはオフの社会では当たり前のことです。そしてこれは、社会人として会社勤めしている貴方なら、とうぜん知っているはずのことですよ。

「甘い言葉」に寄りかかるのは、新興宗教の教祖の甘言によりかかって「現実感を喪失する妄信者」、あるいは「疲れがとれますよ」という甘言のままに「覚醒剤中毒になってしまう人」と、なんら選ぶところはありません。現実に自分のやったことは、最後まで自分で責任を取る。これは、大人として当たり前のことです。

そして本来ならば、私が求めなくても、貴方が進んでやるべきことでさえあったのです。それを、ここまで懇切丁寧に説明され、事実を明らかにしてもらいながら、それでもきちんとけじめを取れないのであれば、それは貴方が、甘ったれの無責任男であるということを、自ら世間に証明することになるだけです。

自分の醜さを全面的に認めたって、他人は笑ったりはしません。他人が笑うのは、見え透いた醜さや愚かさを、自分の主観だけにすがって、みっともなく自己肯定する態度の愚かしさなんだという事実を、この際よく理解して下さい。
No.291 - 2007/05/28(Mon) 16:11:32

mixi(7)-11 / ☆
杉澤鷹里のコメント 2007年03月10日 12:27

アレクセイさま、

 あまり深追いせぬほうがよろしいかと思います。
「私もこの議論の中で、人格のレベルまで踏み込み善処を求めるということを試みなければ、との思いを抱くに至りました。」
という私の発言の意味することを、アレクセイさんはお分かりでしょう? それは私にとっても痛みや労力、リスクを伴うことですから、避けることができるなら避けたいと思ってもいるんです。
No.290 - 2007/05/28(Mon) 16:10:28

mixi(7)-10 / ☆
杉澤鷹里のコメント 2007年03月10日 12:15

はらぴょんさま、

 逃走することも黙殺することも、「あの浅田はやはりこの浅田だ」と反証を重ねることも可能であったのに、それをせずに謝罪されたということにはらぴょんさんの誠意を感じます。
 不適切な発言は不適切な発言として認め、正せる襟は正す。理想ですが実行することはなかなかに難しく、ましてや激烈な批判を浴びている中、それをするというのは、私にはほとんど不可能事のように思われます。はらぴょんさんに敬意を表します。
No.289 - 2007/05/28(Mon) 16:08:41

mixi(7)-9 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月10日 01:04

☆ はらぴょんさま

この点についての陳謝は、受け入れましょう。

しかし、より根本的な「どうして、そんな下らないことを、わざわざ、あの段階になって、やったのか?」という問題についても、答えてもらわなければなりません。私やホランド氏が、思想哲学について特に詳しいわけではないということくらい、ずっと前からご存じでありながら「なぜ今さら」あんなことをしたのか、ということです。

つまり、貴方が、私から説明を求められているのは、今回の問題は、貴方の「私への妬みややっかみに由来する、秘められた憎悪が、私の小森健太朗批判を切っ掛けとして噴出し、専門知識を振りかざすというかたちで、私にぶつけられたのではないか」という点にあります。

当然、この問題は、貴方に、貴方の心の「暗い部分」についての、内省と剔抉を強いるものです。しかし、それなくしては、私の今回の批判は、何の意味もなさないし、貴方にとっても本質的な反省とはならず、やがて「喉元すぎれば」で忘却され、杉澤氏曰くの『鈍感さ』に回帰することになるでしょう。

だから、問題は「読み違いであったかどうか」ではなく、「なぜ、そんな読み違えをし、しかもそれを自制もなく書いたのか」ということです。そのあたりをじっくり考えて、お答え下さい。

杉澤氏にも書きましたが、私は「幕引きのための幕引き」など、これっぽっちも求めてはいません。
なぜならば、私は「政治家」ではなく「批評家」だからです。
No.288 - 2007/05/28(Mon) 16:07:44

mixi(7)-8 / ☆
はらぴょんさんのコメント 2007年03月10日 00:35

 『構造と力』の引用部分は、浅田彰の自説ではなく、メルロ=ポンティの説の浅田彰による要約であり、「アレクセイの花園」におけるホランド氏の浅田彰氏の批判は的外れという批判は、ホランド氏とkamui氏の対話という元の文脈では、kamui氏が自説をうまくいい現したものとして、『構造と力』を引用しており、ホランド氏は、kamui氏の自説を批判するために、この部分を攻撃しているということがわかりました。したがって、的外れなのは、元の文脈に即して考えなかった私のほうであり、ホランド氏の方ではありません。
 大変な錯誤があったことに深く陳謝いたします。 
No.286 - 2007/05/28(Mon) 15:55:16

mixi(7)-7 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月09日 13:42

☆ 杉澤鷹里さま

毎度おきづかい、恐縮です(笑)。

私も、はらぴょんさんの意図が奈辺にあるかは理解していましたが、「曖昧な妥協」など「批評家のすべきことではない」ので、きっちり「峻拒」させていただきました。

それにしても、はらぴょんさんは学習能力が無さすぎますよ。ついこないだ「謝罪もどき」(2007年02月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」)をして批判されたばかりなのに、またぞろ、こんないい加減な態度を採る。

はらぴょんさんには、批判においても謝罪においても、「覚悟」というものが無さすぎます。特に、謝罪というのは、相手に自分の首を差し出すくらいの覚悟がなければならないものなのに、はらぴょんさんの謝罪には「ねっ、これくらいで勘弁してよ」という「甘え」が見え見えなんですね。で、「おまえ、いったい誰に甘えてるんだ?」って、ことです。

だから、親切な私としては、はらぴょんさんに「社会人の謝罪の仕方」を教えてあげるつもりなんです。もちろん、謝罪したくないならしなくてもいいけれど、そのかわり「二十年殺し」につきあう覚悟をしていただきたい。こういったことは、最初にぜんぶ「警告」しておいたことなんですからね。
No.282 - 2007/05/27(Sun) 09:55:07

mixi(7)-6 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月07日 22:07

 いまだ喩えレベルであれ、歩み寄りの一歩が示されましたね。と、書こうとした矢先に。トホホ。
No.275 - 2007/05/26(Sat) 22:05:50

mixi(7)-5 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月07日 21:23

  はらぴょん論 ――第4章  逃避による逃避のための逃避的な逃避



 はらぴょんさんによる今回の日記、

・ 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)

は、明示こそされていないものの、

・ 2007年02月27日「『テロルの現象学』について」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

のページにつづく、私(アレクセイ)と、はらぴょんさんの「議論」の延長線上にあるものです。


 これまでの流れをご紹介すると、

(1) 2007年02月10日「『魔』」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、4つ

(2) 2007年02月15日「批評におけるパラダイムの混在」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648

  ・ アレクセイによる無題のコメントが、3つ
    (最初(2月19日)の無題コメントは「謝罪要求と警告」とでも題すべきもの)

(3) 2007年02月20日「見解」
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」他

(4) 2007年02月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第1章 「偽の反省」に表れた、その人間性」他

(5) 2007年02月24日「齟齬の根底にあるもの」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=355680293&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第2章 はらぴょん批評の「根底にあるもの」」他

(6) 2007年02月27日「『テロルの現象学』について」
    (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第3章 事実をして、語らしめよ」他

(7) 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
   (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)

  ・ アレクセイ「はらぴょん論 ――第4章 逃避による逃避のための逃避的な逃避」(本稿)


ということになります。

 以上の「経緯」であり「やり取り」が、「議論」の名に値するものだとは思いませんが、これは便宜的な呼称とご理解下さい。

                    ○

 さて、今回のはらぴょんさんの日記、

・ 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)

ですが、端的にいえば、これは私とホランド氏への「間接的な誹謗」です。
(※ もちろん、 真の標的は私(アレクセイ・田中幸一)ですし、いちいち『私とホランド氏』とするのは、書くのも読むのも煩瑣になるだけなので、以降この「議論」においては、『私とホランド氏』という意味で「私」という風に便宜的に表記したいと思います)

 さて、はらぴょんさんはこの「たとえ話をふたつ」で、どうして「名指し」を避け、具体的な反論として提示することを避けているのでしょうか?

 その理由のひとつは、こうした手法が、はらぴょんさんの常套手段だという側面があります。
 これは「誰を」批判しているのかを明確にしないことにより、その相手からの反論を躱すためではなく、相手を限定しないことにより、批判している相手(この場合は私)の意見について、「明確な説明」なり「限定」なりをする「義務」を曖昧にしようとする意図から来ています。
 つまり、このように書けば、批判者であるはらぴょんさん自身が、「私(アレクセイ)に対する批判」としては、不十分・不適切な説明しかしていなくても、読者が勝手に、何となく「アレクセイのことを書いているのだろう」と理解してくれ、ひとまず『不十分・不適切な説明』で済ませることができるからです。

 たとえば、コメント欄に、杉澤鷹里氏が、

> 今回のケースで言えば、「科学者Aが、化粧品Bの中に、未知の有害物質Xが含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。その翌年、科学者Cが、化粧品Dの中に、既知となった有害物質xが含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
> そして科学者Aは有害物質Xの発見とそのことの重要性を主張しているのであって、化粧品Dにおける有害物質の発見者は、科学者Cであることを否定しているものではない」というのが近いかと思います。

とコメント(2007年03月03日01:20)しているとおりで、もしもこうした指摘がなければ、この『たとえ話』が、いかに恣意的であり的外れであったとしても、これは一般には「アレクセイ批判」として、機能する(「レッテル貼り」になる)ようになっているのです。

 一連の議論について、はらぴょんさんが、途中からその継続性を示す「リンク」を張らなくなったのも、同じ意図に発するものだと言えるでしょう。はらぴょんさんには「やり取り全体を読んでもらって、その上でどちらが正しいかの判断を読者に任せよう」などという発想は欠片もなく、いかに読者を誘導し、自身の恣意を読者に植えつけるか、ということしかないのですね。


 しかし、こうした「目先の誤魔化し」は、はらぴょんさんの「逃避癖」の表れでしかないことも明白で、それはもしも、はらぴょんさんに本当に「読者は、どう読むか?」というのが見えていれば、こういう姑息な誤魔化しは選ばなかったであろうことに明らかでしょう。

 これまでの一連の議論を見ればわかるとおり、はらぴょんさんの意見は、どんどん応答性を欠き、具体性を欠き、独白性を強め、抽象的なものへと変化していきます。

 つまり、最初に「非難」され「謝罪を求められた」際はこれを「拒否」し、「具体的・論証的な批判」がなされると、その「内容」についてはスルーしながらも、「謝罪めいたポーズ」だけを示してみせた。しかし、それが通用しないとなると、今度は「具体的・論証的な批判」の内容については無視して、一方的な「誹謗」する。すなわち、

> アレクセイさんは、自分にとって否定的な事柄の方が、真実を示しており、自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまうのではないでしょうか。
                     (「齟齬の根底にあるもの」より)

> 自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏
                     (「『テロルの現象学』について」より)

といった「精神病者扱い」です。
 そして、こうした「誹謗」に対し、私が「事実を示して反論」すると、その反論には沈黙を持って応じ、今度は、

> しかしながら、こうした議論に、アレクセイ氏は、今尚、沈黙したままである。
                 (「『テロルの現象学』について」より)

と、私がまだ具体的には論破していなかった「瑣末な部分」を強調して、さも「反論できないんだろう?」と言わんばかりの「読者アピール」をします。しかし、これにも反論されると、今度は「たとえ話」に逃避する、といった具合です。

 つまり、はらぴょんさんの態度は、一貫して「内向的逃避」とでも呼べるものです。
 当然、はらぴょんさんの「思想哲学的知識」も、こうした「現実逃避」の道具という性格を帯びたものであり、だから「実践」には役立たない一方、「逃避」の役には立っているから、それを捨てることができないのです。


 今回の「たとえ話」も、主題を「わかりやすくするため」のものではなく、主題そのものを「回避・逃避」するために用いられたものでしかなく、当然すこしもわかりやすくはなっていません。


『たとえ話をしよう。
200X年、科学者Aが、化粧品Bの中に、人体に有害物質が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
その翌年、科学者Cが、化粧品Dの中に、人体に有害物質が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
その後、科学者Aが、自分の次の仕事の予定は、化粧品Dの分析であったとし、化粧品Dにおける有害物質の発見についても、当然、功績は自分にあるとのコメントを出した。
私は、化粧品Dにおける有害物質の発見者は、科学者Cであると思う。

もうひとつ、たとえ話をしよう。
第1場面.200X年、科学者Aは、科学者Eと某所で会話をしていた。
科学者Eは、「Fさんが、その著書『G』の中で、『○○は××である』と言っていますよ。」と語った。
科学者Aは、『G』という本は読んだことはなかったが、その場の会話から「○○は××という説は、△△だからありえないよね。Fは間違ってるよ。」と返答した。
第2場面.その後、科学者Bは、科学者Aと科学者Eの対話を知り、お節介にも「Fの『○○は××である』という箇所は、Fの説でなく、Fの論敵の説なんですよ。」と、科学者Aに告げた。
科学者Aは、「自分が批判したのは、会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F自体ではないよ。お前は、私を愚弄するのかね。」といった。
さて、考えてみなければならないのは、第2場面で、科学者Aは「自分が批判したのは、会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F自体ではないよ。」と言っているが、それは「Fの『○○は××である』という箇所は、Fの説でない」ということを学習した上での発言であるということである。
第1場面で、「○○は××という説は、△△だからありえないよね。Fは間違ってるよ。」と発言した時には、「○○は××という説」は、科学者AはFの説ではないということを知らなかったのであり、当然「間違ってるよ。」という言葉は、Fによって語られた他人の説である可能性が頭の片隅にあったかも知れないが、Fにも向けられたものであることは間違いない。』 (以上、「たとえ話ふたつ」全文)


 ここで示された2つのたとえ話を、(たとえ話1)(たとえ話2)としておくと、(たとえ話1)は『狂い咲く薔薇を君に』『キララ、探偵す。』という竹本健治作品に秘められた特性に関する、私とはらぴょんさんの指摘の関係を、(たとえ話2)ではホランド氏とkamui 氏の議論に関するはらぴょんさんのコメントの問題を、それぞれ「たとえ話」として語っていることになっています。

 しかし、この「たとえ話」は、主題(元となる事実)を正確に反映するものではなく、実質的には、タチの悪いデマゴギーにしかなっていません。
 例えば(たとえ話1)の「仮名」に、対応する現実の名称を当て嵌めてみましょう。

200X年、科学者A(アレクセイ)が、化粧品B(『狂い咲く薔薇を君に』)の中に、人体に有害物質(竹本健治作品に秘められた特性)が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
その翌年、科学者C(はらぴょん)が、化粧品D(『キララ、探偵す。』)の中に、人体に有害物質(竹本健治作品に秘められた特性)が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
その後、科学者A(アレクセイ)が、自分の次の仕事の予定は、化粧品D(『キララ、探偵す。』)の分析であったとし、化粧品D(『キララ、探偵す。』)における有害物質の発見についても、当然、功績は自分にあるとのコメントを出した。
私は、化粧品D(『キララ、探偵す。』)における有害物質の発見者は、科学者C(はらぴょん)であると思う。

 ここには、2点の「語り落し」があります。

 1つ目は、「化粧品B・化粧品D」と書くと、一見無関係な、別の会社が製作した「化粧品」のように見えますが、実際には、それらは共に、竹本健治という作家の『狂い咲く薔薇を君に』『キララ、探偵す。』という作品であり、正確な「たとえ」を期するのなら「研究者Tによって開発された化粧品B1・化粧品B2」とでもすべきでしょう。
 2つ目は、 科学者C(はらぴょん)が「科学者A(アレクセイ)の先行論文を読んでいたという事実」です。

 つまり、「研究者Tによって開発された化粧品B1」に「特有の毒性」があり、「そのひとつは『かくかくしかじか』という要素に表れている」という科学者A(アレクセイ)の先行論文を読んでいる者であれば、同じ「研究者Tによって開発された化粧品B2」のなかに「『かくかくしかじか』という要素」を見つければ、「化粧品B2」に「研究者Tによって開発された化粧品に特有の毒性」があるを見るのは必然であり、それは「発見」でも何でもなく、単に先行論文の「適用(流用)」でしかない、ということです。

 そして単なる「適用(流用)」をした 科学者C(はらぴょん)が、科学者A(アレクセイ)に対し「私の方が先でしたね」「たぶん、貴方も指摘すると思って、先回りしたんです」などと言う行為が失礼千万であることは論を待たず、それを科学者A(アレクセイ)に非難されて、科学者C(はらぴょん)が「化粧品B2に関する、研究者Tによって開発された化粧品に特有の毒性の発見は、私が先だ。貴方にとやかく言われる筋合いではない」などと言うのは「盗人猛々しい態度」でしかないのも、言うまでもないことなのです。

 ともあれ、はらぴょんさんの「たとえ話」には、このような「重要なポイントの語り落し(欺瞞)」がある、ということです。

 (たとえ話2)の方では、こうです。

第1場面.200X年、科学者A(ホランド)は、科学者E(kamui)と某所で会話をしていた。
科学者E(kamui)は、「F(浅田彰)さんが、その著書『G』(『構造と力』)の中で、『○○は××である』と言っていますよ。」と語った。
科学者A(ホランド)は、『G』という本は読んだことはなかったが、その場の会話から「○○は××という説は、△△だからありえないよね。Fは間違ってるよ。」と返答した。
第2場面.その後、科学者B(はらぴょん)は、科学者A(ホランド)と科学者E(kamui)の対話を知り、お節介にも「F(浅田彰)の『○○は××である』という箇所は、F(浅田彰)の説でなく、F(浅田彰)の論敵(メルロ=ポンティー)の説なんですよ。」と、科学者Aに(ホランド)告げた。
科学者A(ホランド)は、「自分が批判したのは、(科学者E=kamui)会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F(浅田彰)自体ではないよ。お前は、私を愚弄するのかね。」といった。
さて、考えてみなければならないのは、第2場面で、科学者A(ホランド)は「自分が批判したのは、会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F(浅田彰)自体ではないよ。」と言っているが、それは「F(浅田彰)の『○○は××である』という箇所は、F(浅田彰)の説でない」ということを学習した上での発言であるということである。
第1場面で、「○○は××という説は、△△だからありえないよね。F(浅田彰)は間違ってるよ。」と発言した時には、「○○は××という説」は、科学者A(ホランド)はF(浅田彰)の説ではないということを知らなかったのであり、当然「間違ってるよ。」という言葉は、F(浅田彰)によって語られた他人メルロ=ポンティー)の説である可能性が頭の片隅にあったかも知れないが、F(浅田彰)にも向けられたものであることは間違いない。

 ここにも、2つの「語り落し」と、1つの「デタラメな説明」があります。
 まず1つ目の「語り落し」は、

> 科学者E(kamui)は、「F(浅田彰)さんが、その著書『G』(『構造と力』)の中で、『○○は××である』と言っていますよ。」と語った。

の部分で、kamui氏は、ホランド氏に、単に「浅田彰の言葉」を紹介したのではなく、「自身の考えを代弁するもの」として「引用」した、というのが、事実です。つまり、ホランド氏は、それをkamui氏の考えを「代弁するもの」としてコメントしており、この時点ではそれが、浅田彰の言葉か、メルロ=ポンティーの言葉か、はたまた実はkamuiのオリジナルかはわからないのだから、「浅田彰の思想」は問題にならない(できない)のだ、ということです。

 そして2つ目「語り落し」は、

> 第2場面.その後、科学者B(はらぴょん)は、科学者A(ホランド)と科学者E(kamui)の対話を知り、お節介にも「F(浅田彰)の『○○は××である』という箇所は、F(浅田彰)の説でなく、F(浅田彰)の論敵(メルロ=ポンティー)の説なんですよ。」と、科学者Aに(ホランド)告げた。
>科学者A(ホランド)は、「自分が批判したのは、(科学者E=kamui)会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F(浅田彰)自体ではないよ。お前は、私を愚弄するのかね。」といった。

という部分です。
 科学者B(はらぴょん)が科学者A(ホランド)に告げたのは、「F(浅田彰)の『○○は××である』という箇所は、F(浅田彰)の説でなく、F(浅田彰)の論敵(メルロ=ポンティー)の説なんですよ。」という「事実だけ」ではありません。はらぴょんさんは、ここ事実を告げることによってホランド氏の「浅田彰批判」が的外れであると、専門家ぶって、その無知を上げつらったのです。この事実が、ここでは「故意に」語り落されています。
 それに、そもそも、知らなかった事実を指摘されただけなら「ああそうなんですか、ご教示ありがとう」となっていたはずで、そうならなかったのは「事実の教示」が、はらぴょんさんの主眼ではなかった、ということです。

 ホランド氏に代わって私が、はらぴょんさんに対し『お前は、私を愚弄するのかね。』と激怒したのは、はらぴょんさんが「事実を指摘したから」ではなく、「的外れな事実認定(=ホランド氏が浅田彰批判をした)」に基づいて「的外れな愚弄行為(=『構造と力』も読んでいないくせに浅田彰を語るな、という愚弄)」を「本質的ではない(瑣末な)事実の指摘(=「当該部分は、浅田彰の意見ではなく、浅田によるメルロ=ポンティーの要約である」という指摘)」によって行ったからです。
 つまり、「たとえ話」で言えば、「おまえの母さん、でべそ(だから、おまえも出来損ない)!」と言って愚弄した場合、仮に母親が事実「でべそ」であったとしても、その愚弄行為が正当化されるものではなく、逆に非難されるべきものだ、ということです。

 そして、「デタラメな説明」とは、無論『さて、考えてみなければならないのは〜』以下の部分です。

> 第2場面で、科学者A(ホランド)は「自分が批判したのは、会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F(浅田彰)自体ではないよ。」と言っているが、それは「F(浅田彰)の『○○は××である』という箇所は、F(浅田彰)の説でない」ということを学習した上での発言であるということである。
> 第1場面で、「○○は××という説は、△△だからありえないよね。F(浅田彰)は間違ってるよ。」と発言した時には、「○○は××という説」は、科学者A(ホランド)はF(浅田彰)の説ではないということを知らなかったのであり、当然「間違ってるよ。」という言葉は、F(浅田彰)によって語られた他人メルロ=ポンティー)の説である可能性が頭の片隅にあったかも知れないが、F(浅田彰)にも向けられたものであることは間違いない。

 まったく意味不明です。ここで問題となっているのは、はらぴょんさんの言う『第1場面』における、kakui氏が「自分の考えを代弁するもの」として「浅田彰の言葉として引用した文章」に対する、ホランド氏の否定が、「kamui氏の考え」への反論か、「浅田彰の考え」への反論か、ということです。だからこそ、私は、ホランド氏が、引用元である浅田彰の『構造と力』は読んでいないと「事前に断っている」事実を指摘し、したがってホランド氏の「kakui氏による引用文」への反論は、「kamui氏への反論」ではあったも「浅田彰への反論」ではありえない。だから、はらぴょんさんの批判(愚弄)は「的外れ」だとしたんですね。

 ここでの議論では、はらぴょんさんの都合によって、科学者E(kamui)の存在が、早々に「消されて」います。問題となったホランド氏の意見(発言)は、kakui氏とのやりとりで、「kamui氏の意見」に向けて語られたものなのに、はらぴょんさんは、自分の都合によって、kamui氏の存在を隠蔽して、ホランド氏の言葉を、選択の余地なく、残る「浅田彰」(F)と結びつけようとしているのです。


 以上のように、はらぴょん氏の「たとえ話」は、事実を「わかりやすくするため」ではなく「事実を隠蔽して、読者を誤誘導するため」に採用された「欺瞞」だと言えるでしょう。

 ですから、はらぴょんさんの今回の日記、

・ 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)

の問題点は、杉澤鷹里氏が指摘するような「譬喩が適切ではない」というようなことではなく、「事実をそのまま論ずることを避けるために、たとえ話に逃げて誤魔化している」という点に見い出されるべきなのです。



 なお、はらぴょんさんは、後日(2007年03月05日23:33)、次のような「補足」的コメントを付しています。


『たとえ話のその2が、うまく出来ていない。
そこで、もうひとつ付加条件を加えてみる。
科学者Eは、『○○は××である』という意見に共感を覚えたので、科学者Aに、「Fさんが、その著書『G』の中で、『○○は××である』と言っていますよ。」と語った、とする。
すると、『○○は××である』は、とりあえずこの場では、科学者Eの立場を代弁するものとなる。
科学者Aは、科学者Eとの対話の場において、『○○は××である』を否定する。これは、Fの著書『G』よりも、科学者Eの立場を代弁するという働きの方が、この場においては重要になったということを意味する。
科学者Bは、後日「Fの『○○は××である』という箇所は、Fの説でなく、Fの論敵の説なんですよ。」と、科学者Aに告げるが、これは科学者Aと科学者Eの間で、Fの著書『G』よりも、科学者Eの立場を代弁するという働きの方が、この場においては重要になるという特殊な状況が生じていることを読み取れていないことを意味する。
これは、科学者Bの読解力というより(それもあるが)、人間関係力の欠如を意味する。』(全文)


 多少マシにはなっているものの、ここにも「たとえ話」ゆえの、欺瞞があります。例えば、

> 科学者Eは(…)科学者Aに(…)と語った、とする。

の部分ですが、はらぴょんさんが『語った、とする。』と仮定しなくても、これは現実には「語った」のです。また、

> すると、『○○は××である』は、とりあえずこの場では、科学者Eの立場を代弁するものとなる。

の部分の『とりあえず〜代弁するものとなる。』も、現実には『とりあえず』ではなく、事実『代弁するものとな』ったのです。

 つまり、はらぴょんさんは、「事実」を「たとえ話」に置き換え、さらにその「たとえ話」を「仮定の話」へとズラしてしまっている。「事実」が、いつのまにか「仮定の話」にされてしまっている、ということです。――これは「二重の逃避」による「朦朧化」とでも呼べる所作でしょう。
 また、

> 科学者Aは、科学者Eとの対話の場において、『○○は××である』を否定する。これは、Fの著書『G』よりも、科学者Eの立場を代弁するという働きの方が、この場においては重要になったということを意味する。

 科学者Aは(ホランド)F(浅田彰)の著書『G』(『構造と力』)を読んでいないのですから、『この場においては』という「留保」はまったく(それしかないから)無意味であり、この留保は「はらぴょんさんの誤読」の「言い訳のための担保」にしかならないのです。したがって、

> 科学者Bは、後日「Fの『○○は××である』という箇所は、Fの説でなく、Fの論敵の説なんですよ。」と、科学者Aに告げるが、これは科学者Aと科学者Eの間で、Fの著書『G』よりも、科学者Eの立場を代弁するという働きの方が、この場においては重要になるという特殊な状況が生じていることを読み取れていないことを意味する。
> これは、科学者Bの読解力というより(それもあるが)、人間関係力の欠如を意味する。

という結論も、「事実」に「いやいや妥協した(せざるを得なかった)」ものにしかなっていません。だから、ここでも、科学者B(はらぴょん)が科学者A(ホランド)に、事実を『告げ』ただけではなく、そのことによって「愚弄した」という「事実」には言及されません。つまり、肝心の部分は「隠蔽したまま」だということです。

 そして『人間関係力の欠如』などという意味不明な言葉で、「自身の過誤」を「説明」していますが、事ここにいたっても、まだ「謝罪」しようとはしないところが、何よりも、はらぴょんさまの「逃避」の底なしさ、つまり「反省(内省)不能」性を、よく語っていると言えるのでしょう。
No.271 - 2007/05/26(Sat) 21:53:27

mixi(7)-4 / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんのコメント 2007年03月05日 23:33

たとえ話のその2が、うまく出来ていない。
そこで、もうひとつ付加条件を加えてみる。
科学者Eは、『○○は××である』という意見に共感を覚えたので、科学者Aに、「Fさんが、その著書『G』の中で、『○○は××である』と言っていますよ。」と語った、とする。
すると、『○○は××である』は、とりあえずこの場では、科学者Eの立場を代弁するものとなる。
科学者Aは、科学者Eとの対話の場において、『○○は××である』を否定する。これは、Fの著書『G』よりも、科学者Eの立場を代弁するという働きの方が、この場においては重要になったということを意味する。
科学者Bは、後日「Fの『○○は××である』という箇所は、Fの説でなく、Fの論敵の説なんですよ。」と、科学者Aに告げるが、これは科学者Aと科学者Eの間で、Fの著書『G』よりも、科学者Eの立場を代弁するという働きの方が、この場においては重要になるという特殊な状況が生じていることを読み取れていないことを意味する。
これは、科学者Bの読解力というより(それもあるが)、人間関係力の欠如を意味する。
No.264 - 2007/05/26(Sat) 17:01:30

mixi(7)-3 / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんのコメント 2007年03月03日 06:57

有害物質Xが、化粧品の中にも含まれていることを、世界で初めて科学雑誌に発表した科学者Aは、大発見の手柄。一方、科学者Bが、科学者Aが研究していなかった他の事例もあることを発見したというのは、小発見という理解でよいと思います。
No.249 - 2007/05/21(Mon) 21:21:29

mixi(7)-2 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月03日 1:20

 今回のケースで言えば、「科学者Aが、化粧品Bの中に、未知の有害物質Xが含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。その翌年、科学者Cが、化粧品Dの中に、既知となった有害物質xが含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
そして科学者Aは有害物質Xの発見とそのことの重要性を主張しているのであって、化粧品Dにおける有害物質の発見者は、科学者Cであることを否定しているものではない」というのが近いかと思います。
No.248 - 2007/05/21(Mon) 21:20:08

mixi(7)-1 / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんの日記 たとえ話をふたつ 2007年03月03日 00:00


たとえ話をしよう。
200X年、科学者Aが、化粧品Bの中に、人体に有害物質が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
その翌年、科学者Cが、化粧品Dの中に、人体に有害物質が含有されていることを発見したことを、科学雑誌に発表した。
その後、科学者Aが、自分の次の仕事の予定は、化粧品Dの分析であったとし、化粧品Dにおける有害物質の発見についても、当然、功績は自分にあるとのコメントを出した。
私は、化粧品Dにおける有害物質の発見者は、科学者Cであると思う。

もうひとつ、たとえ話をしよう。
第1場面.200X年、科学者Aは、科学者Eと某所で会話をしていた。
科学者Eは、「Fさんが、その著書『G』の中で、『○○は××である』と言っていますよ。」と語った。
科学者Aは、『G』という本は読んだことはなかったが、その場の会話から「○○は××という説は、△△だからありえないよね。Fは間違ってるよ。」と返答した。
第2場面.その後、科学者Bは、科学者Aと科学者Eの対話を知り、お節介にも「Fの『○○は××である』という箇所は、Fの説でなく、Fの論敵の説なんですよ。」と、科学者Aに告げた。
科学者Aは、「自分が批判したのは、会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F自体ではないよ。お前は、私を愚弄するのかね。」といった。
さて、考えてみなければならないのは、第2場面で、科学者Aは「自分が批判したのは、会話で出てきた、『○○は××である』という箇所についてであって、F自体ではないよ。」と言っているが、それは「Fの『○○は××である』という箇所は、Fの説でない」ということを学習した上での発言であるということである。
第1場面で、「○○は××という説は、△△だからありえないよね。Fは間違ってるよ。」と発言した時には、「○○は××という説」は、科学者AはFの説ではないということを知らなかったのであり、当然「間違ってるよ。」という言葉は、Fによって語られた他人の説である可能性が頭の片隅にあったかも知れないが、Fにも向けられたものであることは間違いない。
No.246 - 2007/05/21(Mon) 07:09:59
mixi(6) / ☆
はらぴょんさんの日記 『テロルの現象学』について 2007年02月27日 07:22

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648
No.238 - 2007/05/19(Sat) 09:39:53

mixi(6)-21 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月07日 21:48

☆ 杉澤鷹里さま

ログの増加により当ページが重くなり、私の旧式なパソコンでは、うまく表示されなくなってきましたので、 議論の続きを掲載するために、下のページを立てました。

・ 2007年03月07日「続・杉澤鷹里氏との議論」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=366926386&owner_id=856746

以降は、こちらにお書き込みいただければ幸いです。
No.274 - 2007/05/26(Sat) 22:02:50

mixi(6)-20 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月07日 21:02

>たいがいの現象的難点は『「人格」「思想」(※「作者」)』に由来するものであり、そこに言及し、そのレベルでの善処を求めずしては、何の変化もない、とも言えるのです。

それは重要な視点です。私も常々自分の取り得る手法、対処法の限界を思っています。
 ですから、確認すれば、私自身が私に求めている「人格批難をしない」ということをアレクセイさんに求めるつもりはなく、私がアレクセイさんとはらぴょんさんとの遣り取りについて、批判したのは、それが人格についての遣り取りだから、という点ではなく、誹謗中傷である点についてであり、実際、人格についての遣り取りではない部分において具体例を見ています。(さらに確認すれば、その具体例では、「互いに異なる三つの水準での発言を同一の平面において捉え、一貫性がない、と括るのは踏み込みすぎ」ということが論理的骨子であったわけですが、それについての反証はされておらず、現在のところ、二人の遣り取りが誹謗中傷の応報である、ということをスジを通して説明できているものと思っています。)
 
 それにしても、こうして、突きつけられますと、

>たいがいの現象的難点は『「人格」「思想」(※「作者」)』に由来するものであり、そこに言及し、そのレベルでの善処を求めずしては、何の変化もない、とも言えるのです。

ということは真にそうであると思います。私もこの議論の中で、人格のレベルまで踏み込み善処を求めるということを試みなければ、との思いを抱くに至りました。
No.270 - 2007/05/26(Sat) 17:24:28

mixi(6)-19 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月07日 20:14

>『程度』の問題でも、「結果」の問題でもありません。「意図」の問題です。

>> したがって、アレクセイさんの立場として、はらぴょんさんの解釈は粗雑であり、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」にはあたらないことから、修正を求める、というのは納得できます。
>という理解を示した杉澤さんならば、どうしてはらぴょんさんが、そんな『粗雑』な解釈をしたのか、それなりのお考えはあるのでしょう? また、私の当然の『修正』要求を無視して、さらに私を、
>> 自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏
>などと「事実無根」の誹謗を重ねるはらぴょんさんについて、何らかのお考え(評価)はお持ちなのでしょう?
 
ここには、レトリックがあります。アレクセイさんの要求が妥当になった(と私が考えたの)は、「この浅田は、あの浅田ではない」という主旨のアレクセイさんの発言を踏まえてのことです。一方、はらぴょんさんの「パラノ」発言は、それより前のものです。「妥当な要求」を受けてもなおアレクセイさんをはらぴょんさんが「パラノ」だと非難しているかのような錯認を読み手に与えるレトリックを駆使し、「相手を必要以上に貶めようとする陰険な意図」を感じます。

>すくなくとも「浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ」などという要求よりは、よほど真っ当であり常識的な、そくざに回答可能な質問だと思うのですが、いかがでしょうか?

あたかも誰かが(私かはらぴょんさんかが)「浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ」と(アレクセイさんに)言ったかのような印象を与えます。「相手の発言・論旨を歪曲しようとする姑息な意図」を感じます。……などと、悪しき意図を、発言の背景に読み手は無数に恣意的に読み取ることができます。そうした点を含めて、「誰しも大なり小なり使用している」と表現させていただきました。
No.269 - 2007/05/26(Sat) 17:23:14

mixi(6)-18 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月07日 17:55

>> ですから、それははらぴょんさんの立場からすれば、粗雑ではなく、妥当なものであったのだ、という内容の文章を既に書かせていただいております。

>ユダヤ人の立場からすれば、ホロコーストを不当なものとする弾劾は『妥当なもの』であり、かつ、ナチスの立場からすればホロコーストは『妥当なもの』だった、ということなのでしょうね。戦中、日本軍に「虐殺・強奪・陵辱」された中国民衆の立場からすれば、日本軍の行為を「非人間的蛮行」だとする非難は『妥当なもの』であり、一方、日本軍の立場からすれば、戦中の中国における「虐殺・強奪・陵辱」も『妥当なもの』だったということになるのでしょう。

>でも、こんな「判断」は、何も言っていないに等しく、態の良い「判断回避の責任逃れ」の「誤魔化し」でしかありません。――まさに、これこそが「悪しきレトリック」です。

当該箇所は、「その一方で、ある程度、現代思想的布置を意識した立場から、「デリダを援用しつつ、議論の基底が「自己(私=我)」である点について浅田を批判する」という構えに危ういものを感じる、ということも十分に妥当性があると思います。
 大体の方向性の正しさがなければ、切り取られた一断面は、まったく理解不能であったり、逆の意味を見出してしまうことにもなりかねないからです。」です。
 ちょっと繊細な議論になっており、論旨が見えにくいと思いますが(そして一部アレクセイさんの批判もいただいており、そのための補足も必要ですが、方向性の正しさは受け容れられていることもあり)、何も言っていないわけではないことを取り敢えずご確認のほどを。
No.268 - 2007/05/26(Sat) 17:21:17

mixi(6)-17 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月07日 16:50

☆ 杉澤鷹里さま

> 私の意見は少々異なります。「人格」というのは、ある人の「意見」「思想」「行動」という個々の営為を生み出すような「何か」として想定されるもの、だと言えると思います。人格を批判するということが良くないのは、人格は個々の「意見」「思想」「行動」に比べて、圧倒的に変更困難であり、それへの批判は不毛な争いを帰結しがちだからです。編集者が小説を推敲し、小説を良くすることはできますが、それに比べて編集者が小説家のあり方を批判し、結果として小説を良くすることはほとんど奇跡的な事柄です。日常のいさかいが、宗教の対立になるとき、それはきわめて困難な問題となります。
> 私は紛争解決を目指しますので、個々の事例の個々の解決を志向していきます。


なるほど、貴兄の基本的なスタンスが、見えてまいりました。要は、「批評」というものを、「小説家」などの「人間」に向けられたものとの関連で、位置づけておられるのですね。「人格」に由来する欠点を指摘されても、それはほとんど変更不可能だから、あくまでの技術面への否定・批判に限定すべきである、と。
――つまり、ここでは、はらぴょんさんの「性格的な問題」は、それが明白な事実であったとしても、いや、明白な事実であれば尚更、批判はしない、しても意味はない、ということなんですね。

しかし、そうした「現実的方法論」は、「創作家」向けには一定の妥当性も持つでしょうが、「創作」そのものに向けられた、そして、その「ついで」として「創作家への助言」の意味合いも含むものとしての「批評」には、無効です。
そしてまた、杉澤さんのご意見の決定的な弱点は、問題を産出する送り手(作者)をことしか考えられておらず、被害者(読者)の視点が、完全に欠如している点です。つまり、杉澤さんの議論では、「作者」は肯定されることが前提となっている。しかし、それはあくまでも被害者(読者)との兼ね合いにおいて「可能であれば」ということであり、時には「作者」は完全否定され(切り捨てられ)てもかまわない、というのが、批評における「客観的な立場」なのだと言えるでしょう。

「批評」というのは、まず『「意見」「思想」「行動」(※「作品」)』に向けられます。そして、そこから、それを生み出す「作者」にも向けられ、作者の「人格」「思想」というものが問題となり、そこへの言及がなされます。つまり、批評においては、『「意見」「思想」「行動」(※「作品」)』が主であり、『「人格」「思想」(※「作者」)』は従、だということです。ですから『「人格」「思想」(※「作者」)』が、その批評によって改変可能か不可能かは主たる問題ではなく、あくまでも『「意見」「思想」「行動」(※「作品」)』を深く正しく評価することが、批評の目的なんですね。だからこそ、批評は『「ついで」として「創作家への助言」の意味合いも含むもの』なんです(しかも、「テクスト」に、特権的な「作者」は存在しないとすれば、ここで言及される「作者」とは、そのテクストの「書き手」のことではない。したがって、作品批評を「書き手」がどう思おうと、そんなことはもともと関係ない、ということになります)。

つまり、杉澤さんは「創作家」であるご自身の立場、言い換えれば「そんなことを言われても、性格は変わらないよ」という実感を敷衍することで、「人格の問題一般」についても「そんなことを言われても、性格は変わらないよ」と考えておられる。だから、人格に論及し、その問題点を指摘し、そこを「改めよ」と求めるような批評を「無効」なものと考え、批評を「改変可能な範囲内で論及するもの」に限定し、本質的指摘を避けることで、現実的トラブルを避けようとなさっているんです。その方が現実的であり、効率的だと。

しかし、これは間違いです、批評とは本来、そうした「悪しき現実主義や効率主義」に従属するものではありません。それが現実に対して何らかの効果を発揮するか否かは、「ついで」であり「おまけ」の問題であって、批評の本質ではない。杉澤さんは、ご自分の狭い了見において、批評を矮小化しているにすぎません。

なぜなら、もし批評をそのようなものだと考えるなら、「悪」を批判することはできない、からです。つまり、「悪」は絶対に変わらない。だから批判するのは無駄だ(全面容認するか、消去するしかない)、ということになるんですね。そして、「悪」から出た『「意見」「思想」「行動」(※「作品」)』も、実質的には批判不能となる。なぜなら「作者としての悪」は、それらの現象面をどう批判されようと、それを改めたりはしないからです(イスラエルのパレスチナ政策を見よ)。

結局、杉澤さんの論法は「性格は変わらないけど、技術的難点なら訂正可能だ」という、ごく限られた現実だけを問題となさっていますが、たいがいの現象的難点は『「人格」「思想」(※「作者」)』に由来するものであり、そこに言及し、そのレベルでの善処を求めずしては、何の変化もない、とも言えるのです。

で、杉澤さんのような限定的・消極的リアリズムの難点は、「悪」つまり「積極的な悪」にはまったく無効であり、そこに関しては「だんまりを決め込む(か、殺す)しかない」ことになる、ということです。つまり、「訂正をしてくれそうな人には言うけれど、そうでない人には言わない」ということになってしまう。だから、訂正しそうにない人から被害を受けた人には「泣き寝入りをしなさい。その方が現実的です」と奨めることにもなる。

例えば、「イスラエルのパレスチナ政策」と同様、旧日本軍による「従軍慰安婦問題」などについて、いまだにこれを誤魔化そうとしている人たちは、間違いなく確信犯であり、いくら事実を指摘しても、あれこれ言い逃れをして、結局は自分の主張を改めはしないでしょう。では、こういう人たちの問題を論ずる場合、こういう人たちの『「人格」「思想」(※「作者」)』に論及するのは、無駄なのか? 「本人に改める気が無いんだから、言っても無駄」なのか? ――そんなことはありません。たとえ本人は改めなくても、その批評は、批評としての意味も価値も有するでしょう。なぜなら、批評は、批評対象を論じて、「批評対象のみ」に語りかけているわけではなく、個を論じて普遍的本質を語ろうとするものだからです(批評の読者は、批評対象および、その送り手=作者だけではない)。

ですから、はらぴょんさんの「人格」を論じても無駄だという論法は、間違いです。それは、ご自分が創作家として「人格を批判されても改められない」という「卑近な実感」に限定されたものでしかありません。
担当の編集者は、それが「実利に直結した仕事」なのかも知れませんが、批評家の仕事はそんな狭いものではありません。極論すれば、その作家が変わらなくても(つぶれても)一向にかまわない。変わる変わらないは本人の問題であって、批評家の問題ではないからです。

杉澤さん的な考え方の難点は、例えばそれは「今さら、過去の話を掘り返しても、建設的じゃないよ。新たなケンカの火種にしからならない」と言って、「南京虐殺」「従軍慰安婦」あるいは「絶滅収容所」の問題を忘却しようという態度に直結するところです(そうした態度が、歴史修正主義を呼び込みます)。

杉澤さんが、「無益なトラブル」を好まない穏健な人柄だというのは、よくわかります。しかし、必要なトラブルなら、それは必要なものであり、無益ではない。むしろそれを避けることこそが、欺瞞という「反・益」につながってしまうのです。

そもそも杉澤さんの論法でいけば、「思想・哲学」なんて非常に効率の悪い「無駄」だということにはなりませんか? ――「批評」だって同じですよ。「思想・哲学」や「批評」といったものは、もともと「効率」なんかは二の次として、徹底的に「原理」や「本質」を追求する(遡行する)ところに発し、そこに価値を見い出すものなのです。
そして、そのようなものに反対するからこそ、杉澤さんの批評は、批評の本質とは正反対の「回避・忘却主義」にしかならないんです。
No.267 - 2007/05/26(Sat) 17:20:28

mixi(6)-16 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月07日 16:46

☆ 杉澤鷹里さま

>> 関連の日記ページに書き込まれた、杉澤さんのコメントを拝見するかぎり、『誹謗中傷の応報になって』いるとか『人格の否定的な側面をあげつらう』などおっしゃるだけで、はらぴょんさんのこうした具体的な発言の是非については論評せず

> それは、

>> つまり、はらぴょんさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?

> というアレクセイさんの発言に応じたからです。はらぴょんさんが誹謗中傷を行っているのは自明であり、実証するまでもない、らしいのでそれをしなかったわけです。

『実証するまでもない、らしい』のは、(杉澤さんから見た)私個人にとっての話であり、杉澤さんご本人や、はらぴょんさんや、読者にとって、そうであるとは言えません。つまり、公に発言をなさるのなら、杉澤さんの理解を、必要に応じて「読者に語る」のは、当然の事です。


> アレクセイさんに応じている結果として、今の現状があるわけです。はらぴょんさんが私の意見に「アレクセイさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?」とコメントしていたら、また違っていたのかもしれません。
> ともあれ私は、二人の争いがなるべく円満に終わるようしたい、と苦心してきたつもりです。

貴兄の『苦心』はよくわかっておりますし、「お気持ち」は有難いと感謝してもおります。
しかし、動機が正しければ、筋を通さない言動も許容されるというわけではありません。発言するからには、発言者としての(一人前の)責任を、完全に果たす義務が生じるのです。そしてそこでは、私(個人)が説明を求めたか否かなど、問題にはなりません。


>> やはり、ここでも『狂い咲く薔薇を君に』『キララ、探偵す。』問題は、スルーなんですね。

> という問題については、すでに、「たとえ話をふたつ」のほうで見解を述べさせていただいています。そして、それにはある程度、はらぴょんさんの理解を得ているものと思います。
> 『狂い咲く』のアレクセイさんの意見を踏まえ、『キララ、』に同様の内容を見出しても、オリジナリティの高い仕事とは思えず、それを「先に見つけた!」と自慢する類のものではないと存じます。

そんなことはわかりきっていますし、私の問題設定は、そこにはありません。
つまり、ここでも肝心の「問題」は、スルーされています。

私が 繰り返し言っているのは、はらぴょんさんが自分の「猿真似」(自体はかまわない)がバレそうになった時に、それは「知っててやったんだよ」と「逃げ」をうつ「批評家としての不誠実さ(欺瞞)」です。それを私は、問題視しているんですよ。そのあたりを、もう一度、ちゃんと読んでいただきたいと思います。

なお、はらぴょんさんの日記

・ 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648

での、杉澤さんの議論は、本質的に的をはずしています。そもそもあれは、あの「たとえ話」が適当かどうかが問題なのではなく、「なぜ、たとえ話なのか?」というのが問題なんですね。

同様に、『狂い咲く薔薇を君に』『キララ、探偵す。』問題は、「オリジナリティー」の問題ではなく、「欺瞞的隠蔽」の問題なのです。なのに、杉澤さんは、そこをはずしておられる。
杉澤さんの、はらぴょんさんへの注文は、いつでも「殺人行為の是非が論議されている時に、殺し方を論じているようなもの」なのですよ。つまり「そこを刺したら、相手は楽に死ねないですよ」と注文をつけているようなものだ、ということです。


> はらぴょんさんがレトリックを駆使して、隠蔽したのかどうかは分かりませんが(そんなことで隠蔽できるとは思えませんし)、その程度のレトリックは誰しも大なり小なり使用しているのではないでしょうか。

『程度』の問題でも、「結果」の問題でもありません。「意図」の問題です。
レトリックそのものには「良いも悪いもない」というのは、自明の前提でしょう。こうした「はずし方」にも、貴兄の物の見方の、根本的な「ズレ」が表れていると言えるでしょう。


>>> したがって、アレクセイさんの立場として、はらぴょんさんの解釈は粗雑であり、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」にはあたらないことから、修正を求める、というのは納得できます。

>> という理解を示した杉澤さんならば、どうしてはらぴょんさんが、そんな『粗雑』な解釈をしたのか、それなりのお考えはあるのでしょう?

> ですから、それははらぴょんさんの立場からすれば、粗雑ではなく、妥当なものであったのだ、という内容の文章を既に書かせていただいております。

ユダヤ人の立場からすれば、ホロコーストを不当なものとする弾劾は『妥当なもの』であり、かつ、ナチスの立場からすればホロコーストは『妥当なもの』だった、ということなのでしょうね。戦中、日本軍に「虐殺・強奪・陵辱」された中国民衆の立場からすれば、日本軍の行為を「非人間的蛮行」だとする非難は『妥当なもの』であり、一方、日本軍の立場からすれば、戦中の中国における「虐殺・強奪・陵辱」も『妥当なもの』だったということになるのでしょう。

でも、こんな「判断」は、何も言っていないに等しく、態の良い「判断回避の責任逃れ」の「誤魔化し」でしかありません。――まさに、これこそが「悪しきレトリック」です。
No.266 - 2007/05/26(Sat) 17:19:36

mixi(6)-15 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月05日 22:19

>私とはらぴょんさんのやり取りが『誹謗中傷の応報になって』いるおり『人格の否定的な側面をあげつらう』ものだとおっしゃいますが、そのことについては、私はすでに、そうした捉え方自体がおかしいのではないかと、論理的に反論しております

失礼しました。

>「人格攻撃はいけない」というのは、本来、批判の対象とすべき「意見」や「思想」や「行動」をうっちゃっておいて「おまえには存在する価値がない」などと相手の「全人格」を否定ようなやり方を批判するものであり、「意見」や「思想」や「行動」を批判したことの結果として、相手の「人格の一部」を批判するようなものを言うのではない

という箇所のことですね。拝聴するに値するものです。ただし私の意見は少々異なります。「人格」というのは、ある人の「意見」「思想」「行動」という個々の営為を生み出すような「何か」として想定されるもの、だと言えると思います。人格を批判するということが良くないのは、人格は個々の「意見」「思想」「行動」に比べて、圧倒的に変更困難であり、それへの批判は不毛な争いを帰結しがちだからです。編集者が小説を推敲し、小説を良くすることはできますが、それに比べて編集者が小説家のあり方を批判し、結果として小説を良くすることはほとんど奇跡的な事柄です。日常のいさかいが、宗教の対立になるとき、それはきわめて困難な問題となります。
 私は紛争解決を目指しますので、個々の事例の個々の解決を志向していきます。
No.265 - 2007/05/26(Sat) 17:03:15

mixi(6)-14 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月05日 20:33

>> したがって、アレクセイさんの立場として、はらぴょんさんの解釈は粗雑であり、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」にはあたらないことから、修正を求める、というのは納得できます。

>という理解を示した杉澤さんならば、どうしてはらぴょんさんが、そんな『粗雑』な解釈をしたのか、それなりのお考えはあるのでしょう?

ですから、それははらぴょんさんの立場からすれば、粗雑ではなく、妥当なものであったのだ、という内容の文章を既に書かせていただいております。
No.263 - 2007/05/25(Fri) 23:53:27

mixi(6)-13 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月05日 13:24

>関連の日記ページに書き込まれた、杉澤さんのコメントを拝見するかぎり、『誹謗中傷の応報になって』いるとか『人格の否定的な側面をあげつらう』などおっしゃるだけで、はらぴょんさんのこうした具体的な発言の是非については論評せず

それは、

>つまり、はらぴょんさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?

というアレクセイさんの発言に応じたからです。はらぴょんさんが誹謗中傷を行っているのは自明であり、実証するまでもない、らしいのでそれをしなかったわけです。
 アレクセイさんに応じている結果として、今の現状があるわけです。はらぴょんさんが私の意見に「アレクセイさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?」とコメントしていたら、また違っていたのかもしれません。
 ともあれ私は、二人の争いがなるべく円満に終わるようしたい、と苦心してきたつもりです。

>やはり、ここでも『狂い咲く薔薇を君に』『キララ、探偵す。』問題は、スルーなんですね。

 という問題については、すでに、「たとえ話をふたつ」のほうで見解を述べさせていただいています。そして、それにはある程度、はらぴょんさんの理解を得ているものと思います。
『狂い咲く』のアレクセイさんの意見を踏まえ、『キララ、』に同様の内容を見出しても、オリジナリティの高い仕事とは思えず、それを「先に見つけた!」と自慢する類のものではないと存じます。
 はらぴょんさんがレトリックを駆使して、隠蔽したのかどうかは分かりませんが(そんなことで隠蔽できるとは思えませんし)、その程度のレトリックは誰しも大なり小なり使用しているのではないでしょうか。
No.262 - 2007/05/25(Fri) 23:50:45

mixi(6)-12 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月05日 0:58

☆ 杉澤鷹里さま

>> 杉澤さんが、正直な「はらぴょん評価」を語った上で、私の「はらぴょん評価」について注文をつけるのなら、それは正当なものですが、「(はらぴょんさんに関する)本音」を語らないことによって、ご自分の「安全」を確保した上で、すべてを曝して発言している人間に対し意見をするのは、人として恥ずべきことです。当然、私にすれば「(背中に)隠している、その手を見せてみろよ」(ザ・ブルーハーツ)ということになるでしょう

> 申し訳ありませんが、どうしてそうなるのか、理解が及ばないのですが。
> もし話が、「はらぴょんさんをどれだけ的確に表現できるか」ということに価値があり、私がアレクセイさんのはらぴょん論を「全然的確に表現できてないぞ、ひきき」などと言っているのであれば、そういう要求がされるのも分かりますが、ここまで私が述べてきたのは、「両者の争いが誹謗中傷の応報になっており、醜悪であると感じたということ」「アレクセイさんの発言が誹謗中傷になっている根拠としてのその発言の歪みについて」「思想は誰が言ったかではなく、どういう考えかということこそ大事だということ。けれどどういう考えか、ということを理解するために文脈(あるいは誰が言ったか)も大事だと思うということ」であり、はらぴょん論の内容を批判したわけではなく、だったらお前はどうなのだ、と言われても困ります。

はあ、それでは杉澤さんは、私の「はらぴょん論」が、はらぴょんさんの人格を「適格に評価している」と認めた上で、「人格に言及すること」そのものを否定したいだけだ、とおっしゃるのでしょうか?

> むしろ、人格の否定的な側面をあげつらうということ、そのものに批判的なわけであり、それなのに、ここではらぴょん論を私がやらかしたら、それこそ不誠実な態度だと思います。

『はらぴょん論を私がやらか』すこと、つまり杉澤さんが、はらぴょんさんを評価することは、それがそのまま『人格の否定的な側面をあげつらうということ』になると、こうおっしゃるのですね。
――でも、それはつまり、杉澤さんが、はらぴょんさんの人格を「否定的に評価している」ということを意味することになるんですよ。なにしろ杉澤さんの「はらぴょん論」は、はらぴょんさんの人格否定である必要はないんですから。

私とはらぴょんさんのやり取りが『誹謗中傷の応報になって』いるおり『人格の否定的な側面をあげつらう』ものだとおっしゃいますが、そのことについては、私はすでに、そうした捉え方自体がおかしいのではないかと、論理的に反論しております。ところが、杉澤さまは、ご意見に対する私のこの反論はスルーして、ご自分の意見を繰り返すばかり。これでは、もともと私たちに説得的な意見をするのではなく、ご自分の意見(「見苦しい」という主観)を押しつけたいだけ、だとしか思えません。私の今の杉澤さん理解は、例えば、つぎのようなものと、まったく同じです。


『(…)自分ごときを(※ 斎藤環が)批判するのは時間の無駄、ということ以外にも、斎藤さんの考え方にいくつか疑問があります。まず、彼が最後に肯定的に引用した僕の文章は結局浪花節になっていて、知里(※ 真志保)本人が読んだら一笑に付したでしょう。もう一つは、斎藤さんが最近の僕の仕事を人格攻撃だと思っていることです。多分彼は、『重力』02 や地域通貨QのWEB上で僕が書いた文章(「京都オフライン会議議事録・西部柄谷論争の公開」)を読んでいて、もう柄谷批判やNAM会員批判はやめろ、理論的考察だけをやれ、と言いたかったんじゃないですか。でも、僕は相手の発言や行動に異議を述べているだけで、人格なんか元から当てにしていません。外部の組織や第三者を傷つける大騒動を起こした以上、公開の場でそれを総括する義務を免除はできないですが、僕が書く前にNAM会員が自主的にやる勇気があれば、それが一番よかったんです。
 もう少しいうと、僕が標的にしているのは物書きとその消費者、一般的には知識人と大衆がもたれ合っている相互依存的構造です。柄谷さんでも誰でも、大衆批判をやる人はたくさんいますが、それだけで自分が読者と癒着していない保証にはならない。ゴダールや柄谷が好きで自分も大衆批判者だと錯覚している連中こそ、今日の典型的な「大衆」だからです。デマを広めたり、扇動をやる時に彼らを頼るんなら、結局自分が一番色目を使っていることになる。周辺にいた文化人も相変わらずで、浅田(彰)さんが典型ですが、状況を打開する義務がある人が都合よく傍観者を気取ってゆく。相手が誰でも、暴走する連中がどんなに多くても、ここ一番で自分の勉強を無意味にする黙認は僕にはできません。だから、知里真志保を直接扱って感傷的になるより、今の自分の文章の方が知里や大西さんの仕事を本当の意味で生かせていると思います。』
      (大西巨人『未完結の問い』における、インタビュアー鎌田哲哉の発言、P212〜213)


何度も申しておりますとおり、それが正当な批判行為か、それともおっしゃるような単なる『人格の否定的な側面をあげつらうということ』かは、やり取りの「一部」ではなく、その「きっかけ以降の全て」でもって判断しなければなりません。
ところが、杉澤さんはどうしても、はらぴょんさんが話題を限定したがる部分しか問題にしたがらず、故意に問題を矮小化して、無理にでも終結に向かわせようとしているとしか思えません。

もちろん、杉澤さんは最初からそういう意図で、しかも搦手で介入を始められたのですから、客観的な態度を期待したのは、私の間違いだったのかも知れませんが、これはいささか残念なことだとは言わざるを得ません。

>>> 鍵となる点についてだけ。
>> ということであれば、はらぴょんさんのそうした態度をどう評価するのか。この問題を避けて、今回のことに口出しをするのは、それこそ烏滸がましい行為だと言わねばなりません。

> そうした態度、が何を表すか分かりませんが、専門家風をふかす、ということでしょうか。少なくとも私は、はらぴょんさんもアレクセイさんも同じ土俵に乗っていると思っており、哲学思想について、はらぴょんさんのほうが詳しい、という認識はありませんでしたけど。
> 何か、ここ最近の議論の流れでおかしいことになっていますが、アレクセイさんも自身で「私の文学趣味とも当然からんでくるのですが、私は人文科学系のものは概ねすべて興味があります。特に興味があるものはと言うと「哲学」「思想」「倫理学」「心理学(全般)」「宗教(学)」「神秘学」「民俗学」「文化人類学」「社会学」など。近年(「9.11」以降)は「政治」や「社会問題」にも重きを置いています。」と述べられているように、博覧強記であり、実際、それらの理解の質は高く、だからこそ一本スジの通った批評を多方面にわたり展開しているのだな、と私は思ってました。
> だから、私には、はらぴょんさんがアレクセイさんに対し専門家風をふかしているという印象はなく、ただ一冊『構造と力』のことが引っかかったのだ、というふうに思ってます。

やはり、ここでも『狂い咲く薔薇を君に』『キララ、探偵す。』問題は、スルーなんですね。

私が言っているのは、私やはらぴょんさんの「客観的な現実」ではなく、はらぴょんさんがご自分をどのように位置づけ、私をどのように位置づけて、その上で私をどう思い、私に対し「何をしたか」ということです。その「結果責任」を問うているんですよ。
つまり、杉澤さんが、2人をどう評価なさっているかではなく、私たちの「やり取りの中味」を(印象ではなく)どう評価するのか、という話をしているのです。
――しかし、そうした回答しかなさるつもりがないのであれば、あるいは何を言っても無駄でしょう。

しかしながらそれでも、

> したがって、アレクセイさんの立場として、はらぴょんさんの解釈は粗雑であり、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」にはあたらないことから、修正を求める、というのは納得できます。

という理解を示した杉澤さんならば、どうしてはらぴょんさんが、そんな『粗雑』な解釈をしたのか、それなりのお考えはあるのでしょう? また、私の当然の『修正』要求を無視して、さらに私を、

> 自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏

などと「事実無根」の誹謗を重ねるはらぴょんさんについて、何らかのお考え(評価)はお持ちなのでしょう?

関連の日記ページに書き込まれた、杉澤さんのコメントを拝見するかぎり、『誹謗中傷の応報になって』いるとか『人格の否定的な側面をあげつらう』などおっしゃるだけで、はらぴょんさんのこうした具体的な発言の是非については論評せず、はらぴょんさんには話し掛けることもなさっていないようですが、これは、はらぴょんさんに直接コメントする気はない、ということなのでしょうか? それとも、個人的に助言なさっているということなのでしょうか?

問うても詮無きことかも知れませんが、疑問は疑問として表明しておきたいと思います。
No.261 - 2007/05/25(Fri) 23:49:57

mixi(6)-11 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月04日 20:13

アレクセイさま、

>杉澤さんが、正直な「はらぴょん評価」を語った上で、私の「はらぴょん評価」について注文をつけるのなら、それは正当なものですが、「(はらぴょんさんに関する)本音」を語らないことによって、ご自分の「安全」を確保した上で、すべてを曝して発言している人間に対し意見をするのは、人として恥ずべきことです。当然、私にすれば「(背中に)隠している、その手を見せてみろよ」(ザ・ブルーハーツ)ということになるでしょう

 申し訳ありませんが、どうしてそうなるのか、理解が及ばないのですが。
 もし話が、「はらぴょんさんをどれだけ的確に表現できるか」ということに価値があり、私がアレクセイさんのはらぴょん論を「全然的確に表現できてないぞ、ひきき」などと言っているのであれば、そういう要求がされるのも分かりますが、ここまで私が述べてきたのは、「両者の争いが誹謗中傷の応報になっており、醜悪であると感じたということ」「アレクセイさんの発言が誹謗中傷になっている根拠としてのその発言の歪みについて」「思想は誰が言ったかではなく、どういう考えかということこそ大事だということ。けれどどういう考えか、ということを理解するために文脈(あるいは誰が言ったか)も大事だと思うということ」であり、はらぴょん論の内容を批判したわけではなく、だったらお前はどうなのだ、と言われても困ります。
 むしろ、人格の否定的な側面をあげつらうということ、そのものに批判的なわけであり、それなのに、ここではらぴょん論を私がやらかしたら、それこそ不誠実な態度だと思います。

>> 鍵となる点についてだけ。
>ということであれば、はらぴょんさんのそうした態度をどう評価するのか。この問題を避けて、今回のことに口出しをするのは、それこそ烏滸がましい行為だと言わねばなりません。

 そうした態度、が何を表すか分かりませんが、専門家風をふかす、ということでしょうか。少なくとも私は、はらぴょんさんもアレクセイさんも同じ土俵に乗っていると思っており、哲学思想について、はらぴょんさんのほうが詳しい、という認識はありませんでしたけど。
 何か、ここ最近の議論の流れでおかしいことになっていますが、アレクセイさんも自身で「私の文学趣味とも当然からんでくるのですが、私は人文科学系のものは概ねすべて興味があります。特に興味があるものはと言うと「哲学」「思想」「倫理学」「心理学(全般)」「宗教(学)」「神秘学」「民俗学」「文化人類学」「社会学」など。近年(「9.11」以降)は「政治」や「社会問題」にも重きを置いています。」と述べられているように、博覧強記であり、実際、それらの理解の質は高く、だからこそ一本スジの通った批評を多方面にわたり展開しているのだな、と私は思ってました。
 だから、私には、はらぴょんさんがアレクセイさんに対し専門家風をふかしているという印象はなく、ただ一冊『構造と力』のことが引っかかったのだ、というふうに思ってます。
No.260 - 2007/05/25(Fri) 23:48:07

mixi(6)-10 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年3月4日 13:38

☆ 杉澤鷹里さま

>  鍵となる点についてだけ。

> 私がここで言いたいのは、正しい浅田彰理解などということではなく、kamuiさんの書いている多様な解釈が可能なコンパクトな文章を理解するために、原文の文脈(現代思想的布置)に目を配ることは有益なことだということです。もちろんkamuiさんが一般的な解釈ではない読み方をしている可能性だってありましょう。結果として二人の間で成り立つ破綻のない会話ができていれば、いい、という立場だってありましょう。私自身は、自分で作った概念と、自分で作った用語で、自分の王国に住んでしまう傾向がありますから、そういう立場に近いのかもしれません。
> だけれど、より多くのヒトに開かれた、一般常識と照らし合わせて破綻のない、破綻を指摘された場合に修正可能なありようを望む考えだってあっていいと思います。


『原文の文脈(現代思想的布置)に目を配ることは有益なことだ』『より多くのヒトに開かれた、一般常識と照らし合わせて破綻のない、破綻を指摘された場合に修正可能なありようを望む考えだってあっていい』というご指摘には、全面的に同意します。
しかし、今回の場合(ホランド氏とkamui氏の対話)においては『一般常識と照らし合わせて破綻』はありません。むしろ『一般常識』的な「(非・学術的)対話」を、「哲学思想」という「限定された専門領域の常識」に従属させようと無理な注文(「浅田彰に関しては、半端な知識で語るな」という注文)をつけたというのが、はらぴょんさんの行ったことの実際です(しかし言うまでもなく、「何ごと」においても、完全な知識はありえません)。

杉澤さんのおっしゃるような「それをやれれば、それに越したことはない」「そういう考えだって、あって良い」という話ならば、わかります。しかし、そうしたご意見ならば、それは はらぴょんさんによる「原批判」とはまったくの別物であり、実質的には、はらぴょんさんの批判の「筋違い」性を認めるものとなるでしょう。つまり、はらぴょんさんの批判は「任意に求められるべきものを、義務であるかのように語った、難癖」でしかなかった、ということです。

杉澤さんのおっしゃるとおり、もちろん「理想」は求められるべきですし、「当たれる資料」があるのなら当たった方が良いに決まっています。しかし、人間に与えられた「時間」は有限であり、一方「資料」は無限に開かれています。ですから、「会話」や「発言」の現場では、ひとまず「手持ちの知識」でそれを遂行するしかなく、いちいち関連資料を当たっていたのでは、「会話」や「発言」は実質的に不可能となるでしょう。また、その先、無限に多様な選択の中から、あえてその議論を深める方向の選択するか否かは、当事者に任されるしかありません。なぜならば、有限な時間の中では、何かを選ぶということは、何かを捨て犠牲にするということに他ならないからです。したがって、こうした誰もが知っている「現実」を無視して、抽象的な「理想」論を語るのは、むしろ無責任(非理想)というものなのではないでしょうか?

例えば、杉澤さんは、ホランド氏とkamui氏の対話についてコメントする際、ホランド氏の過去の発言に、すべて当たりましたか? そこに彼の真意を了解する鍵が無かったと、どうしていえるでしょう。
また、ニーチェや浅田彰やメルロ=ポンティーを語る時、杉澤さんは、そしてはらぴょんさんは、彼らの「著作をすべて」読んだ上で、あるいは、彼らに関する「評価」をすべて読んだ上で、彼らへのご自分の評価を語ったり、彼らへの『一般常識』的な評価を語ったりなさっているのでしょうか? ――そんなことは不可能です。実際には、(アマチュアである)自分に可能な、ささやかな範囲でそれらに当り、その範囲内で語っているにすぎません。そんな自分の「限定性」を棚に上げて、他人の限定性という「現実の不十分さ」を云々するのは、端的にいって「身の程知らず」というものでしょう。
たしかに、はらぴょんさんは「哲学思想」に詳しい。しかし、それは「アマチュアの間では」という限定句つきでしかなく、はらぴょんさんが「専門家」気取りなのは「身の程知らず」であり、端的に言って「滑稽」です。だからこそ、私は、はらぴょんさんのそうした「心性」を鑑みて、適切に「哲学思想オタク」でしかないと評価するのですよ。

>  鍵となる点についてだけ。

ということであれば、はらぴょんさんのそうした態度をどう評価するのか。この問題を避けて、今回のことに口出しをするのは、それこそ烏滸がましい行為だと言わねばなりません。
そして、はらぴょんさん批判について、あれこれご注文をいただいた私ならば、杉澤さんに『はらぴょんさんのそうした態度をどう評価するのか。』を問う権利はあるはずですし、杉澤さんには、これに応答する義務があるのではないですか? すくなくとも「浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ」などという要求よりは、よほど真っ当であり常識的な、そくざに回答可能な質問だと思うのですが、いかがでしょうか?
No.258 - 2007/05/25(Fri) 07:10:47

mixi(6)-9 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月04日 02:21

 鍵となる点についてだけ。
「その一方で、ある程度、現代思想的布置を意識した立場から、「デリダを援用しつつ、議論の基底が「自己(私=我)」である点について浅田を批判する」という構えに危ういものを感じる、ということも十分に妥当性があると思います。
 大体の方向性の正しさがなければ、切り取られた一断面は、まったく理解不能であったり、逆の意味を見出してしまうことにもなりかねないからです。」
で、一続きの文章です。ここで言う「浅田を批判する」は、ホランドさんがkamuiさんの引用についてした「浅田彰さんの「自己と他者」という図式そのものを、否定している」ということです。大体の方向性の正しさによって明らかにされるものとは、kamuiさんの言いたいこと、です。
 ホランドさんの「自己と他者の区別があって、それを乗り越えるというのではなく、初めからそんなものはない」ということは、引用(1)*******
主体は世界を《いま・ここ》の自己を中心とするパースペクティヴへと編成しているものとされるが、他者と共に生きる中で、他者もまたもうひとつのパースペクティヴの中心であるとき、パースペクティヴの相互交換が可能になる。   「構造と力」(勁草書房P132)
******
ということに対する批判としてはいいのですが、引用(2)
******
成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                    「構造と力」(勁草書房P134)
*******
にほぼ対応しているのであり、kamuiさんがこの引用によって示したかったことは、そのあたりのことだった可能性があります。つまり意図は正しく伝わっていた可能性があります。(本当のところはどうなのか、それはご本人に確認せねばなりませんが)
 私がここで言いたいのは、正しい浅田彰理解などということではなく、kamuiさんの書いている多様な解釈が可能なコンパクトな文章を理解するために、原文の文脈(現代思想的布置)に目を配ることは有益なことだということです。もちろんkamuiさんが一般的な解釈ではない読み方をしている可能性だってありましょう。結果として二人の間で成り立つ破綻のない会話ができていれば、いい、という立場だってありましょう。私自身は、自分で作った概念と、自分で作った用語で、自分の王国に住んでしまう傾向がありますから、そういう立場に近いのかもしれません。
 だけれど、より多くのヒトに開かれた、一般常識と照らし合わせて破綻のない、破綻を指摘された場合に修正可能なありようを望む考えだってあっていいと思います。
No.256 - 2007/05/24(Thu) 22:21:28

mixi(6)-8 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年3月3日 23:08

ここでの議論は、こちら↓に続いています。

・ 2007年03月03日「たとえ話をふたつ」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=362252031&owner_id=491648)
No.255 - 2007/05/24(Thu) 22:19:35

mixi(6)-7 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月03日 23:04

☆ 杉澤鷹里さま

>> 私にとっては問題なのは「誰が言ったか(名義)」ではなく、それが「どういう考えか(中味)」ということ

> この意見に私も共感します。「吐き気がするくらい哲学学が俺は嫌い(『ナチュリストの日』より)」です。そして、
> 
>> kamui氏が、浅田彰の『構造と力』からの「引用」として紹介した引用文について、それが仮に浅田彰の意見だと仮定した上で、ホランド氏がそれに異論を唱えたに過ぎません

> という意見についても妥当性があるように思います。したがって、アレクセイさんの立場として、はらぴょんさんの解釈は粗雑であり、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」にはあたらないことから、修正を求める、というのは納得できます。
> このことが一番初めに提起されておれば(というかこの点についてのみ議論を進めておれば)、妥協点も見出しやすく、早くに労力も少なく、この一連の議論も収束していただろうと思います。


いや、私は『妥協点』を見い出すために、はらぴょんさんを批判したのではありません。はらぴょんさんの「明白な(心根の)誤りを正す」ために批判したのです。だから、最初から「それの、どこがなぜ誤りなのか」の説明はせず、謝罪を要求したのです。

つまり、はらぴょんさんの「誤り」は、はらぴょんさんが「自分の胸に手を当てて考えれば」すぐにわかることであり、反省する気があるのなら、私が「証拠を突きつける前」に、自分からそれを語って反省し、謝罪することもできたからです。
「証拠を突きつけられてから」謝罪しても、それは本心からの謝罪ではない可能性が高い。つまり、自分が傷つかないために、中味のない謝罪という欺瞞を演じてるにすぎない可能性が高い。だから、私は、最初から証拠を突きつけたりはせず、主体的な反省のチャンスを与えたのです。

しかし、証拠を突きつけられた はらぴょんさんは、私の予想どおり、

・ 2007年02月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

で、「偽の謝罪」を提示しました。これは赦されないことです。

そして、私の批判は、はらぴょんさんのこういう「心根」にこそ、向けられているのです。ですから、そこには、『妥協点』も『収束』も無関係なのです。
 
> その一方で、ある程度、現代思想的布置を意識した立場から、「デリダを援用しつつ、議論の基底が「自己(私=我)」である点について浅田を批判する」という構えに危ういものを感じる、ということも十分に妥当性があると思います。

ありません。なぜなら、前述のとおり、ホランド氏は「浅田彰」を批判してなどいないからです。ホランド氏は、あくまでも「kamuiさんの意見」に異論を唱えています。その意味で、ホランド氏の意見表明は、いたって堅実であり、そんなホランド氏とkamui氏の対話を「浅田彰論」と捉える、はらぴょんさんや杉澤さんのご意見の方が「危うさ」を通り越して、事実から「逸脱」しているんですよ。

> 大体の方向性の正しさがなければ、切り取られた一断面は、まったく理解不能であったり、逆の意味を見出してしまうことにもなりかねないからです。

そのとおりですね。だからこそ、上のように書いたのです。
つまり、事態の方向性を読み誤っているのは、はらぴょんさんであり、杉澤さんの方である、ということです。

> それに関連して、はらぴょんさんが思想についてではなく、思想家の名前だけを語っているように見える点についてもある程度、了解できます。思想に詳しくなると、思想家の名前を使うことが、思想の内実を効率よく圧縮することができる手法となるからです。誰が言ったかということが、何を言ったか、ということにかなりの程度対応するようになるからです。
>(もちろん圧縮することにより損なわれる情報があるということ、圧縮されたものは、受信する側によって再構成されなければならず、その再構成について用いられるコードが同じものでなければ情報が届かないということ、この二つの点への注意は必要になります。)
> といったところで、両者のスタンスの違いは違いとしてあるとしても、どちらか一方でなければならない、ということはなく、抵触した個々の事例、について修正を重ねていけばいいのだと思うのです。

杉澤さんのご意見は、徹頭徹尾「ことなかれ」であり「総花的」としか言い様がありません。

ここに見えるのは、単なる「一般論」で、「いまここ」の現実(ホランド氏とkamui氏の対話)問題を、「一般論」に還元して逸らしたい、という気分でしかありません。その意味では、杉澤さんがここでなさっていることは、はらぴょんさんのそれと五十歩百歩です。

> それに関連して、はらぴょんさんが思想についてではなく、思想家の名前だけを語っているように見える点についてもある程度、了解できます。

なぜ、ここで『ある程度』という「限定」が付されるのか? それは『はらぴょんさんが思想についてではなく、思想家の名前だけを語っている』ことの正当性は、『それに関連して』の場合に限定され、それ以外については『了解』できないものであるという「現実」を、杉澤さんご自身がよくご存じだからです。

つまり、杉澤さんは、はらぴょんさんの「思想哲学的知見」が、大筋において『思想についてではなく、思想家の名前だけを語っている』ものでしかないこと、つまり、権威主義的な「哲学思想オタク」的なそれでしかないことを承知している、ということです。
そして、それを承知していながら、そこへは触れないかたちで、なんとか、はらぴょんさんを救い出そうとするから、「この場合に限れば、はらぴょんさんの語り方も、一般的なそれと同じものとして、許容されうる」というような、極めて限定的かたちでの「肯定」を語ることになるんですね。でも、これは「欺瞞」です。


私の見解について注文をつけるのであれば、杉澤さんもご自分の見解を「正直」に語って下さい。それをせずに、他人の意見に「ご都合主義的な注文」をつけるのは、不誠実な行いでしかなく、他人にとやかく言えた立場ではない、ということになるでしょう。

杉澤さんが、正直な「はらぴょん評価」を語った上で、私の「はらぴょん評価」について注文をつけるのなら、それは正当なものですが、「(はらぴょんさんに関する)本音」を語らないことによって、ご自分の「安全」を確保した上で、すべてを曝して発言している人間に対し意見をするのは、人として恥ずべきことです。当然、私にすれば「(背中に)隠している、その手を見せてみろよ」(ザ・ブルーハーツ)ということになるでしょう。

はらぴょんさんにしろ杉澤さんにしろ、「哲学」がどうとかとおっしゃいますが、この程度の理屈を弁えなくて、いったい何の「哲学」であり「思想」なのでしょうか?

・ 2007年02月24日「齟齬の根底にあるもの」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=355680293&owner_id=491648

のコメント欄に、私が、

> その意味では、はらぴょんさんは無論こと、杉澤さんも「共同体主義者」として「哲学者の価値」を認めているにすぎないと思うし、それは私からすれば、非常に「反・哲学な態度」だと思います。
> まあ、哲学をやっている人の大半は、こうした意味では「反・哲学」的なんですが、それは「当たり前」のことでしょうね。「徹して見て、徹して考え抜く」ということは、『一般的』には、不可能です。それが可能であるかのような「錯覚」の上に成立しているのが「誰にでもできる、いまどきの哲学」だということでしょう。――私のこの考え方は、非常にニーチェ的かも知れません。でも、だから価値があるわけでも無いわけでもありません。 (2007年03月03日20:44)

と書いたことの意味を、これは充分に裏づける事実ではないでしょうか?

杉澤さんの議論は、ある意味で「一般論」に呪われています。「一般論」で満足できるのであれば、「哲学」や「思想」を学ぶ必要性は、「知的な見栄」以外には、どこにもないと思います。
No.254 - 2007/05/22(Tue) 22:00:47

mixi(6)-6 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月03日 21:51

☆ 杉澤鷹里さま

>  何度読んでも、よく分からないのですが、もともとの出発点となったkamuiさんとホランドさんのやり取りで、ですね、ホランドさんのしている主張は、否定していると取り上げているところのkamuiさんが二度目に引用している箇所と同じものですよね。lainさんもたぶん、同じことを言われていると思いますが。
> kamuiさんの議論の運びにクセがあって、少し見通しが立ちにくくありますが、一度目の引用と二度目の引用とはまったく質の違うもので、その質の違う二つの引用について、ちょっとホランドさんが混同されているのかな、という印象を受けていますが、いかがでしょうか。


ひとまず、関連部分をぜんぶ引用しておきましょう。

========================================================

浮遊するシニファン 投稿者:kamui 投稿日: 1月 9日(火)22時36分47秒


ホランドさん、はじめまして。

>言い換えれば、のびのびと咲き誇ってほしい。それが園主さまやボクの望みな
>んですよ。――まあ実際は、園主さまが、なにしろあの個性派ですから、なか
>なかそう思いどおりにはいかないんですけどね。「敷居が高い」なんて、よく
>言われちゃう・・・(^-^;)。

寛容なお心遣い有難うございます。古くからの友人に語りかけるようにリラックスできて、なおかつ、ざっくばらんな話題で盛り上がるのもいいですね。堅い話ばかりでは息が詰まってしまいますし、そう言ってもジョークで場の雰囲気を和ませる技量は持ち合わせていませんので、うまくリードしていただければ幸いです。

以下に浅田彰から引用させていただきます。

*******
主体は世界を《いま・ここ》の自己を中心とするパースペクティヴへと編成しているものとされるが、他者と共に生きる中で、他者もまたもうひとつのパースペクティヴの中心であるとき、パースペクティヴの相互交換が可能になる。   「構造と力」(勁草書房P132)
******

上記を踏まえた上で、自己を拘束する鎖から解き放たれたような書き込みができればいいなと思っています。

それから、ご紹介していただきました、ウロボロスの基礎論』ですが、機会があれば読んでみます。
それでは、今後とも宜しくお願い致します。

------------------------------------------------------

至福の読書(2) 投稿者:ホランド 投稿日: 1月18日(木)10時59分2秒


◆ kamuiさま

> 主体は世界を《いま・ここ》の自己を中心とするパースペクティヴへと編成しているものとされるが、他者と共に生きる中で、他者もまたもうひとつのパースペクティヴの中心であるとき、パースペクティヴの相互交換が可能になる。   「構造と力」(勁草書房P132)


 浅田彰さんは、『逃走論』は読みましたが、『構造と力』は難しそうだったので、まだ読んでいませんでした。でも、この部分は、とてもよくわかります。

 で、ここに、園主さまが最近ハマっておられるジャック・デリダの議論を援用しますと、ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない、というのが、ここ「花園」の論理だということになりますよね。つまり「私は、他人でもある」というわけです(笑)。

------------------------------------------------------

re:至福の読書(2) 投稿者:kamui 投稿日: 1月18日(木)21時17分1秒


ホランドさん。

>で、ここに、園主さまが最近ハマっておられるジャック・デリダの議論を援用
>しますと、ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」
>と同様に截然と切り離されたものではない、というのが、ここ「花園」の論理
>だということになりますよね。つまり「私は、他人でもある」というわけです>(笑)。

そうですね。ただし、浅田を紹介したところの内容は自己と他者に境界ができた後での相互交換という意味で引用させていただきました。その前段階としての自己と他者が混合している状態のことではありません。浅田は以下のように述べています。

******
成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                    「構造と力」(勁草書房P134)
*******

つまり、ここでは自己が他者と人称的に存立する前に、自己と他者の区別がない状態があり、その後、幼児の発展過程にしたがってパースペクティヴを交換することができると語っています。

------------------------------------------------------

私って何?(3) 投稿者:ホランド 投稿日: 1月21日(日)15時30分3秒


◆ kamuiさま

>>で、ここに、園主さまが最近ハマっておられるジャック・デリダの議論を援用
>>しますと、ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」
>>と同様に截然と切り離されたものではない、というのが、ここ「花園」の論理
>>だということになりますよね。つまり「私は、他人でもある」というわけです>(笑)。

>そうですね。ただし、浅田を紹介したところの内容は自己と他者に境界ができた後での相互交換という意味で引用させていただきました。その前段階としての自己と他者が混合している状態のことではありません。浅田は以下のように述べています。

> ******
> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                    「構造と力」(勁草書房P134)
> *******

> つまり、ここでは自己が他者と人称的に存立する前に、自己と他者の区別がない状態があり、その後、幼児の発展過程にしたがってパースペクティヴを交換することができると語っています。

 え〜っと、ちょっと意図が伝わらなかったみたいなんですが、端的に言いますと、ボクは前回、浅田彰さんの「自己と他者」という図式そのものを、否定しているんですよ。それって「わかりやすいけど、ホントにそうなの?」って。

 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。でも、ボクは、そもそも、この「自己(私=我)」という基底、つまり「我思うゆえに我あり」という「ロゴズ」。言い換えれば、「ロゴス」という「基底=根拠」を疑っているんですよ。だから、ジャック・デリダを持ち出してきて『ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』という話に持っていったんですね。

 浅田さんの議論は、「自己(私=我)」に基底を置き、その派生物として「他者」を規定しています。だからこそ、「自己」をいうものを大前提(基底)として「それがどのような形で、形成されたのか?」という「逆算的な思考(遠近法的倒錯)」に基づいて、「自己と他者という截然とした区別がなかった時代」つまり「混沌としての幼時(=原始時代)」という「発達心理学的な仮説」を採用しているんだと思うんです。でも、「渾沌」が最初にあって、それが細胞分裂的に発達していき「自己と他者」、つまり「天と地」に分かたれたとするような発想には、わかりやすくとも、無理があります。その無理が『鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができる』という説明なんです。

 でも、『自他未分』の「渾沌」が、『鏡像ないし鏡像としての他者』に「反応する」ことなんて、あり得ない。なぜなら、「渾沌」にとっては、『鏡像』とか『他者』とかいったものも、認識不能だからです。つまり、聖書では「外部の絶対者」である「神」の一撃によって、「渾沌」は分かたれていくので、その意味では合理的なんですが、『鏡像ないし鏡像としての他者と関係すること』なんてヌルイ働きかけでは、とうてい「渾沌」が整序化し始める(自己組織化を開始する)なんて、ボクには信じられないんですよ。

 ですから、そんなボクは、当然「最初は自他未分の混沌であった」という発達心理学の「仮説」、つまり浅田彰さんも採用している「仮説」を、疑うんです。「最初から、自他は、一個の生命の中に存在した。それがやがて、実用的に整序された(変形された)にすぎない」のではないか、と考えるんですね。

 したがって、ボクが『「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』と言う場合、それはkamuiさまがご指摘下さったような『前段階としての自己と他者が混合している状態のこと』でもなければ、浅田彰さんのおっしゃる『自他未分の混沌に埋没していた幼児』の状態でもないんです。ボクが言いたいのは、「幼時」も「今(成人時)」も、人の中には「自己と他者」が存在しており、それが「発達心理学的な観念」によって「自己は自己だけ」だと思い込まされているだけ、「錯覚」しているだけなんじゃないか、ということなんですね。
 ですから、そうした立場から言うと、ボクの意見は「今も、自己の中にある他者を働かせることは可能なのだ」ということであって、浅田さんのおっしゃる「自己が確立されているからこそ、他者とも相渡ることができるのだ」というのとは、根本的に「違う」んです。

 ボクの言っているのは、そういう「ロゴス中心主義」ではありません。「自己と他者」は、「階層秩序的二者」なのではなく、区分・決定の「不可能なもの」であり、まただからこそ「在りうるもの」だということなんですよ。

 例えば、園主さまは『中井英夫全集12 月蝕領映画館』(創元ライブラリ)の月報「眠り男の迷宮・迷宮の夢」で、中井英夫の「過剰な演技性」ということを論じて、


『 多くの読者、あるいは直接つきあいのあった人それぞれに、中井英夫とはこのような人であったという中井英夫像なり中井英夫観があるだろう。それが、それぞれに微妙な違いを見せるのも、「観察者」が別人ならば「観察像」が変化するのも、理の当然である。しかし、中井英夫の場合、ことはそれほど単純ではない。中井英夫とは、いわば〈私〉の「演出家」であり、「演出家」である〈私〉もまた、べつの〈私〉に演技をつけられる「演技者」であった。つまり、中井英夫には、特権的な「本来の私」など存在しなかった。――私には、そのように思えてならない。「本当の中井英夫」という〈現実〉を求めてみても、それは無限後退のあげく、いつの間にか最初の〈私〉たる中井英夫に戻っていて、実像探究の旅は堂々回りに終わらざるを得ない。』


と書いています。でも、これは、何も中井英夫ひとりに限定された話ではないんですね。これは、「内省的」な人なら、誰もが感じることなんじゃないでしょうか。つまり「私はああいう人間でもあれば、こういう人間でもあり、そういう人間でもある。さて、ホントの私とは、いったいどれなんだろうか?」と。でも、そんな「自分探し」が虚しいというのは、言われて久しいことですよね。つまり「本当の自分=特権的自分=決定的自分」なんて「存在しない」んです。つまり、「私」とは、ついに「決定・到達不可能なもの(=差延)」であり、言い換えれば「私はすべての私であり、他者はすべての他者である。したがって、私は他者でもある」ということなんです。

 だから、ボクは『「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』、「私」の中には「他者」が在り、「私」は「私という他者」でもあるのだ、ということを言いたかったんです。「私は決して、単なる私(に決定され、固定された)私ではない」ということを言いたかったんですよ。そして、ここ「花園」は、「私は私でしかない」という「観念的呪縛」から解放される「場所」だと言いたかったんです。

========================================================

つまり、ここでホランド氏の「言いたい」のは「自己と他者の区別があって、それを乗り越えるというのではなく、初めからそんなものはない」ということではないかと思います。
ここでの対話の文脈で言うなら、「主催者とお客さん」が「同等」ということではなく、もともと「同じ」であり、その区分は「事後的・便宜的」なものでしかない、といったようなことではないかと、私は読みました。
もちろん、kamuiさんの意図を、ホランド氏が、あるいは私が、「正しく」理解しているという保証はありません。

ともあれ、ここでホランド氏が「言いたい」のは「ここでは、世間的な形式への配慮は抜きにしましょう」ということであり、「浅田彰の思想」がどうのという話ではない、ということです。
ホランド氏の意見は、あくまでも「kamuiさんの意見」に向けられたものであり、そこで引用された「浅田彰の言葉」は「kamuiさんの意見の代用品」でしかないということです。kamuiさんもそのつもりだし、ホランド氏もそのつもりで応接しているんですね。

ですから、この「2人の対話」において有効に働いている「kamuiさんの意見の代用品」としての「浅田彰の言葉」を、「他の浅田彰の言葉(浅田彰の思想)」とむすびつけるのは、的外れです。なぜなら、「kamuiさんの意見」は、必ずしも「浅田彰の思想」と一致しないからですね。

「全体」から切り離されて引用された「部分」としての「浅田彰の言葉」は、そもそも「kamuiさんの意見(の代用品)」でしかなく、「浅田彰の思想」に還元できるものではない(どこへでも還元できるものである)というようなことです。そこでの「浅田彰」とか『構造と力』という「名義」は、その「部分」の示す内容と「一致(同じ)」するものではありません。「部分」は「部分」であって「全体」ではない。あくまでもそれは、「所有」を示すための世俗的な「レッテル」でしかないでしょう。

はらぴょんさんには、そうした「レッテル」しか見えないし、だからこそ「レッテル」が重要なんですね。

つまり、はらぴょんさんの場合には、まったく同じ内容が書かれた本が、片側は著名哲学者の「名義」で刊行され、片側がお笑いタレントの「名義」で刊行された場合、その評価は大きく違ってくるでしょう。

だから、ある「誰でも書きそうな断片」が「浅田彰」や『構造と力』にあった場合、はらぴょんさんにとっては、それは「kamuiさんの意見」ではなく、「浅田彰」や『構造と力』が占有するもの(意見)として扱われねばならないのです(ホランド氏は、そうしなかった。「kamuiさんの意見」として応接した)。
むろん、メルロ=ポンティが原著者だという、はらぴょんさんの指摘も、同じ価値観に基づくもので、それが「誰の意見でもあり得る」ということを踏まえて発せられたものではありません。そんな考えを認めたら、はらぴょんさんの「現代思想コレクション」は「価値」を失ってしまいますからね。
No.253 - 2007/05/22(Tue) 21:59:00

mixi(6)-5 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里 2007年03月03日 10:35

>私にとっては問題なのは「誰が言ったか(名義)」ではなく、それが「どういう考えか(中味)」ということ

 この意見に私も共感します。「吐き気がするくらい哲学学が俺は嫌い(『ナチュリストの日』より)」です。そして、
 
>kamui氏が、浅田彰の『構造と力』からの「引用」として紹介した引用文について、それが仮に浅田彰の意見だと仮定した上で、ホランド氏がそれに異論を唱えたに過ぎません

という意見についても妥当性があるように思います。したがって、アレクセイさんの立場として、はらぴょんさんの解釈は粗雑であり、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」にはあたらないことから、修正を求める、というのは納得できます。
 このことが一番初めに提起されておれば(というかこの点についてのみ議論を進めておれば)、妥協点も見出しやすく、早くに労力も少なく、この一連の議論も収束していただろうと思います。
 
 その一方で、ある程度、現代思想的布置を意識した立場から、「デリダを援用しつつ、議論の基底が「自己(私=我)」である点について浅田を批判する」という構えに危ういものを感じる、ということも十分に妥当性があると思います。
 大体の方向性の正しさがなければ、切り取られた一断面は、まったく理解不能であったり、逆の意味を見出してしまうことにもなりかねないからです。
 それに関連して、はらぴょんさんが思想についてではなく、思想家の名前だけを語っているように見える点についてもある程度、了解できます。思想に詳しくなると、思想家の名前を使うことが、思想の内実を効率よく圧縮することができる手法となるからです。誰が言ったかということが、何を言ったか、ということにかなりの程度対応するようになるからです。
(もちろん圧縮することにより損なわれる情報があるということ、圧縮されたものは、受信する側によって再構成されなければならず、その再構成について用いられるコードが同じものでなければ情報が届かないということ、この二つの点への注意は必要になります。)
 といったところで、両者のスタンスの違いは違いとしてあるとしても、どちらか一方でなければならない、ということはなく、抵触した個々の事例、について修正を重ねていけばいいのだと思うのです。
No.252 - 2007/05/22(Tue) 21:57:17

mixi(6)-4 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月03日 00:48

 何度読んでも、よく分からないのですが、もともとの出発点となったkamuiさんとホランドさんのやり取りで、ですね、ホランドさんのしている主張は、否定していると取り上げているところのkamuiさんが二度目に引用している箇所と同じものですよね。lainさんもたぶん、同じことを言われていると思いますが。
 kamuiさんの議論の運びにクセがあって、少し見通しが立ちにくくありますが、一度目の引用と二度目の引用とはまったく質の違うもので、その質の違う二つの引用について、ちょっとホランドさんが混同されているのかな、という印象を受けていますが、いかがでしょうか。
No.250 - 2007/05/22(Tue) 21:47:25

mixi(6)-3 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月01日 15:21

  はらぴょん論  ――第3章  事実をして、語らしめよ (追補)



はらぴょんさんの、

・ 「『テロルの現象学』について」2007年02月27日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

について、いくつか補足的に論じておきたいと思います。


「『テロルの現象学』について」と題されたこの文章で、はらぴょんさんは、笠井潔の『テロルの現象学』について、次のように論じております。

> ところで、アレクセイこと田中幸一氏は、「笠井潔葬送派」を標榜する文芸評論家ということになっている。ということは、笠井潔氏の事柄に関しては、専門家であるということになる。
> 私の見るところ、笠井氏の代表的著作は、ミステリでは『バイバイ、エンジェル』であり、評論では『テロルの現象学』であると思う。批評では『探偵小説論』があるのではないか、という論者がいるかも知れないが、基本的な思考のパターンは『テロルの現象学』に現れていると考える。
> 『テロルの現象学』は、連合赤軍事件を契機とするマルクス主義的テロリズム批判を思考した著作である。だから、第一の批判対象は、マルクス主義の弁証法的権力である。しかし、笠井潔氏は、マルクス主義の党派観念を内部から粉砕するために、ジョルジュ・バタイユの考えからヒントを得た集合観念を持ってきた。だから、バタイユは、笠井潔氏にとって重要な思想家であった。
> しかしながら、『テロルの現象学』が発表された1984年は、ニューアカデミズム全盛期であり、浅田彰氏の『構造と力』は、バタイユを「終局=目的なき弁証法過程」(117ページ)として、構造とその外部の弁証法のパターンとして批判していた。
> そうであるがゆえに、笠井潔は『テロルの現象学』の「第七章 観念の対抗」で、バタイユを「弁証法を廃滅する弁証法」(ちくま学芸文庫版231ページ)、つまり反弁証法として捉え直し、『構造と力』への異議を唱えたのである。
> 『テロルの現象学』で取り上げられている他の文学作品や哲学書は、笠井説の例証や補強材料であるが、『構造と力』は違っている。つまり、第二の批判対象は、『構造と力』ということになる。
> ちなみに、『テロルの現象学』に続いて笠井潔氏が刊行した批評集は、『「戯れ」という制度』であり、ここでは蓮實重彦氏への批判を主題とした表題作のほか、当時のニューアカデミズム=日本型ポストモダニズムへの批判がなされている。つまり、『テロルの現象学』の第二の批判対象が、評論二冊目で主題に浮上しているということになる。
> 笠井潔氏のその後のミステリ評論は、『テロルの現象学』での浅田彰氏が占めていた位置xに、竹本健治氏、清涼院流水氏(なお、清涼院氏に対する批判を、最近の笠井潔氏は取り下げている。)を代入することで、図式が出来上がると私は考える。
> したがって、笠井潔氏の代表作である『テロルの現象学』を、真の意味で理解するためには、その批判対象である『構造と力』も、押さえておく必要があると考える。逆からいえば、そこを理解しなかったら、『テロルの現象学』で笠井氏が言いたかったことを充分押さえるには至っていないということになる。


上の引用文の冒頭部で、

> ところで、アレクセイこと田中幸一氏は、「笠井潔葬送派」を標榜する文芸評論家ということになっている。ということは、笠井潔氏の事柄に関しては、専門家であるということになる。

と書いているとおり、はらぴょんさんは、私が「笠井潔の事情通」ではあっても、その「思想」面を充分に「理解していない」と言いたいわけです。そして、自分の方がよく「理解している」と言いたくて、このような文章を書いているんですが、――これは、笑止としか言い様がありません。
なぜなら、ここで、はらぴょんさんが書かれているような「笠井潔の思想的理解」は、笠井潔を読んでさえおれば、誰にでも可能な「事実の列記」でしかないからです。

つまり、

> 私の見るところ、笠井氏の代表的著作は、ミステリでは『バイバイ、エンジェル』であり、評論では『テロルの現象学』であると思う。批評では『探偵小説論』があるのではないか、という論者がいるかも知れないが、基本的な思考のパターンは『テロルの現象学』に現れていると考える。

などというのは、笠井読者には「常識」に類する話であり、『私の見るところ』などと「私」の手柄のように言うことではない、ということです。

また、それ以外についてもまったく同じで、「笠井潔が、バタイユの影響を受けている」とか「『戯れという制度』が、ニューアカブーム当時に書かれた」とか「笠井は、ニューアカを代表する人物として浅田彰を敵視した」とか「笠井は、竹本健治や清涼院流水を、ニューアカ=ポストモダン的小説の作者として敵視した」などということは、すべて「笠井潔本人が書いていること、そのまま」であり、ここに「はらぴょんさんの理解」など、ひとかけらの無い、のですね。
つまり、これは、単なる「まとめ(要約)」であり、「理解」などではありません。「理解」などしていなくても、「読んでいれば=知っていれば」誰にでも可能な「まとめ(要約)」でしかない、ということです。まただからこそ、はらぴょんさんの論文は「ネットでコピペの、大学生の卒論」みたいなものになってしまうのです。
したがって、このような文章を「理解」を示すものであると思って提出する はらぴょんさんは、「思想」にかぎらず、何ごとにおいても、「理解」と「暗記」の区別がついていないということになるのです。


そして、このように「暗記」しかない はらぴょんさんの「批評」は、山ほど「思想哲学書」を読んではいても、当然のことながら「幼稚」なものに止まらざるを得ません。つまり、「理解」されなかった「思想哲学書」は、はらぴょんさんに何も資するところなかったということです。その実例が、次の部分です。


> この指摘に対して、現在のところホランド氏あるいはアレクセイこと田中幸一氏からの見解表明はなされていない。
> では、今日まで至る論争の中身はなにかといえば、私の人格や、今回の行動に至る動機への攻撃や罵倒の類いばかりである。
> アレクセイこと田中幸一氏は、常日頃から自分の敵と味方の二分法を駆使しており、敵は笠井潔氏であり、笠井派である探偵小説研究会であるということになる。私は、ミクシィで探偵小説研究会に属する小森健太朗氏ともマイミク関係(「コリン・ウィルソン情報」というサイトで知り合ったのである)あることから、私の行動の背景には探偵小説研究会への配慮が働いたというのである。自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏に対しては、いかなる議論も水掛け論に終わり、アレクセイ氏の考えを変えさせることはできないであろう。アレクセイ氏が一旦思い込んだものは、未来永劫、悪の勢力であるということになる。
> 問題は、論戦の火種となった浅田彰の『構造と力』の解釈問題が、一向に取り上げられないことにある。


冒頭の『現在のところホランド氏あるいはアレクセイこと田中幸一氏からの見解表明はなされていない。』という点については、すでに本「はらぴょん論 ――第3章 事実をして、語らしめよ」(本編)で書いております。

で、問題は、はらぴょんさんの私への批判が『アレクセイこと田中幸一氏は、常日頃から自分の敵と味方の二分法を駆使して』という「馬鹿のひとつ憶え」でしかない、ということです。

例えば、私が、笠井潔に関連して「探偵小説研究会」全員を批判するのは、「探偵小説研究会」の全員には、その「肩書き」において、笠井潔の言動についての「共犯」責任があるからであり、そこに「一部例外扱い」はなされるべきではなく、はらぴょんさんのように「知り合いだけは、個人的に免責する」などという態度は、批評家として赦されない、と考えるからにすぎません。

私は、以前に「探偵小説研究会」のメンバーの「共犯責任」について、その例外を認めない理由を、次のように記しています。


『(※ 私の笠井潔、および「探偵小説研究会」批判が)お笑いいただけたと確信する半面、やっぱり「いやな感じ」も残ったでしょう? どうしてだか、わかりますか?
それは私が、「探偵小説研究会」とひと括りにして、巽昌章・法月綸太郎・千街晶之などの才能のある人も「例外」にはしなかったから、ではないでしょうか。――私が彼らを「例外」扱いにしないのは、才能があろうとなかろうと、彼らは笠井潔の「共犯」者であり、そこから目を背けることは、私たち自身の自己欺瞞であり、批評的な不徹底でしかないからです。
譬えて言えば、ユダヤ人の虐殺を知っていながら、それを黙認した者(しかも、そのナチス党員であった者)は、直接手を下さなくても「共犯」であると評価・断罪せざるを得ないし、そう評価・断罪しない者もまた「共犯」たらざるを得ないからです。
これは「批評」という行為の「形式」を徹底するならば、当然避けられないところなんですね。でも、「ミステリ界」という村中に止まるかぎり、「形式の不徹底」は、むしろ村の誰からも歓迎されるんです。巽昌章・法月綸太郎・千街晶之などの評論が喜ばれるのも、貧困な「村の土地」を耕してくれるからで、彼らが「外」へと開く「開墾」という危険な行為には手をつけないからでしょう。』
   (http://blog.taipeimonochrome.ddo.jp/wp/markyu/index.php?p=1038


ここで語られている「共犯」性とは、例えば「この度、笠井潔は探偵小説研究会の特別会員になった。特別会員とは、権利はあるが義務は負わないという立場であり、いわば一線を退いたかたちである」というような「欺瞞的な説明」を「探偵小説研究会」名義で公表した点などにも明らかでしょう(ちなみに、巽昌章と千街晶之は、彼らが評論家デビューする前からの知り合いです)。

ともあれ、私の批評は、はらぴょんさんが私に貼ろうとしているレッテルである『ニ分法』などという、単純なものではありません。つまり、批評する対象を「敵・味方」の2つに分けて、「敵は何があっても批判し、見方は何があっても誉める」というような、単純なものではないということです。そして、これはむしろ、私の話ではなく、小森健太朗や清涼院流水や竹本健治を批判することのできない、はらぴょんさんご自身の話でしょうし、それは、

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

のページに書いた「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」で紹介した、

> 以前、はらぴょんさんは、竹本健治の公式ホームページである『玲瓏館』とのリンクが切れていたことを発見して「嫌われたんだ」と嘆いておられました。そして、ご自分は、どうせ長く生きられない人間だとか何とか「詠嘆調」で書いておられました

という「事実(エピソード)」にも明らかなことでしょう。
要は、そんなことでいちいち「泣き言」を言う男が、「つながりのある、好きな有名人」を批判できるわけがない、ということです。


ちなみに、私の方はと言いますと、事実としてそんなことはありません。
私は、ものごとを是々非々で評価しますから、誉める時もあれば批判する時もある。

例えば、私は竹本健治の大ファンですが、『風刃迷宮』は評価しませんでした。

・ 楽古堂主人・大内史夫「アニムスの物語 書評 竹本健治『風刃迷宮』 」(末尾付録の議論を参照)
  (http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/ohuti_fuujin.html

『闇の中の赤い馬』や『狂区の爪』『妖夢の舌』『眠れる森の惨劇』などといった作品についても評価しておらず、その事実は竹本健治本人にも伝えられております。

また、私は中井英夫の大ファンですが、中井英夫の生き方を全面肯定したわけでもありません。

・ 「中井英夫の「晩年」――「幻想文学者」という生」
  (http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/nakai_gessyoku.html

作品についても、駄作・失敗作が多いという事実は、公に認めております。


これらは、私が、ものごとを「ニ分法」で評価するような人間ではないということを示す「事実」の、ほんの一例であり、はらぴょんさんにも「既知の事実」です。

しかし、はらぴょんさんは「アレクセイはニ分法だ」という「幼稚なレッテル貼り」しかできないので、故意に、こうした「数々の事実」を無視しているんですね。
つまり、はらぴょんさんの上のような批判は、「批判」の名に値しない、単なる「レッテル貼り=決めつけ」であり、事実を故意に無視した「誹謗中傷」でしかないということです。

そして、追いつめられると、反省することもせず、相手を誹謗するしか能がないというのは、はらぴょんさんが単に「批評家として無能」であるばかりではなく、自身の「弱さ」を直視できない「愚か者」だという事実を示す、これはなによりの証拠なのです。
No.244 - 2007/05/20(Sun) 09:34:11

mixi(6)-2 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年03月01日 00:52

  はらぴょん論  ――第3章  事実をして、語らしめよ



 タイトルどおりです。まったく「強弁」するにもほどがあると思うのですが、……論理的・実証的に反駁できない以上、こうなるしかないのでしょうね。


 例によって今回も、はらぴょんさんの文章、

・ 「『テロルの現象学』について」2007年02月27日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

について、逐語的に分析していきましょう。


> アレクセイこと田中幸一氏との論戦は、次のような経過から始まった。

> (1)ミクシィで、2007年02月01日 00:16に私が書いた竹本健治氏の小説『キララ、探偵す。』のレビュー中に、53ページの「かくかくしかじか」から、作者のメタ・フィクション指向を指摘する記述を行った。
> これに対し、アレクセイこと田中幸一氏は、自身の運営する「BBSアレクセイの花園」にて、2月11日(日)01時01分22秒に、同様のことを指摘する記述を行った。
> このことを、私はミクシィでの私の日記(2007年02月11日08:52)に書いたところ、アレクセイこと田中幸一氏の反感を買った。
> 時間の流れからすれば、私が書いたのが先であり、これに関してとやかく言われる筋合いはない。
> また、「かくかくしかじか」は、読めば誰でも気づくところであり、私の指摘もたいしたことはない。人によっては「スボラ流省略の極意」という人もあれば、「メタ・フィクション」傾向を見出す人もいるだけだと思う。また、アレクセイ氏の指摘が遅れたのも、単に『キララ、探偵す。』の表紙のメイドの絵に、羞恥を覚えて購入が遅れただけだと思う。
> アレクセイ氏によると、アレクセイ氏の書いた『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューでも、「メタ・フィクション」的手法を指摘した部分があり、私がそれを読んだがゆえに、このような指摘が出来たのだという。
> ちなみに、アレクセイこと田中幸一氏と私は、現在のところミクシィでマイミク(友人)関係にあり、各自が日記やレビューを書くと、自身のページにも表示されるようになっている。
> しかし、『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューの件をいうのならば、アレクセイこと田中幸一氏が『キララ、探偵す。』を読む前に、私のレビューを読んで「メタ・フィクション」傾向を示す「かくかくしかじか」という箇所が53ページにあることを知りえたわけで、先に述べたように、私の方が先に書いたのであるから、これについてとやかく言われる筋合いはないのである。
> それとも、アレクセイこと田中幸一氏は、竹本健治氏の本については、自分が先に言う権利があるとでも考えているのだろうか。とすれば、批評家として、なんたる傲慢なことであろうか。


 この件については、はらぴょんさんの日記、

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

のコメント欄に書き込んだ、拙論「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」に書いたとおりである。
 しかし、はらぴょんさんは、私がここで書いたことを、まったく無視し、論旨を歪めて、ここで「恣意的なまとめ」を提示(事実に反する報告を)し、それに基づいて、私を誹謗しているに過ぎません。――問題は、次の部分です。

> アレクセイ氏によると、アレクセイ氏の書いた『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューでも、「メタ・フィクション」的手法を指摘した部分があり、私がそれを読んだがゆえに、このような指摘が出来たのだという。
> ちなみに、アレクセイこと田中幸一氏と私は、現在のところミクシィでマイミク(友人)関係にあり、各自が日記やレビューを書くと、自身のページにも表示されるようになっている。
> しかし、『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューの件をいうのならば、アレクセイこと田中幸一氏が『キララ、探偵す。』を読む前に、私のレビューを読んで「メタ・フィクション」傾向を示す「かくかくしかじか」という箇所が53ページにあることを知りえたわけで、先に述べたように、私の方が先に書いたのであるから、これについてとやかく言われる筋合いはないのである。


 ここでは「曖昧に記述されている」のですが、『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』は、私のレビュー

・ 「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」2006年04月26日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=123885033&owner_id=856746

の日付けが「昨年(2006年)」の4月にもなっているとおりで、今年(2007年)の1月末に刊行された『キララ、探偵す。』に先んずること、十ヵ月も前の作品です。
 私は、上の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」において、『狂い咲く薔薇を君に』の『あのう、それはかくかくしかじか』 (P230)というセリフを含む、同作の3箇所に見られる竹本健治の『「メタ・フィクション」的手法』について紹介しています。つまり、はらぴょんさんが上に書いているとおり、はらぴょんさんが『キララ、探偵す。』のレビューで『「メタ・フィクション」傾向を示す「かくかくしかじか」という箇所が53ページにあること』を指摘したとしても、それは言うまでもなく、私の指摘のずっと「後」でしかありません。

 それに、私の指摘は、『狂い咲く薔薇を君に』が一見したところ「メタ・フィクション」的な作品ではなかったからこそ意味のあった指摘であり、それは『キララ、探偵す。』についても、まったく同じなのですね。だから、はらぴょんさんが、私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」を知らずに『キララ、探偵す。』に秘められた「メタ・フィクション」性を指摘したのなら、それはそれで意味もあったでしょうが、はらぴょんさんは拙論を読んでおり、しかも『キララ、探偵す。』には『狂い咲く薔薇を君に』とまったく同じ『かくかくしかじか』という「特殊な表現」が出てくるのですから、いまさらそこに『キララ、探偵す。』に秘められた「メタ・フィクション」の可能性を指摘するのは、私の「猿真似」でしかない、ということなのです。

 ちなみに、はらぴょんさんが悪質なのは『現在のところミクシィでマイミク(友人)関係にあり、各自が日記やレビューを書くと、自身のページにも表示されるようになっている。』とは書いても、ここでは、私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」を読んだとは、明言していないところです。――当然これは、「読んだ」と認めれば、前後関係が明らかになるからでしょう。しかし、ご自身の日記、

・ 2007年02月10日「『魔』」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648
(2006年)
に、

『いや、実は(※『キララ、探偵す。』に)「かくかくしかじか」を発見したとき、アレクセイさんの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューから判断して、これは着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りしたのです。(←いやな奴だねぇ。まったく。)』


と書いておられるとおり、はらぴょんさんは私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」を読み、そこで私が『あのう、それはかくかくしかじか』 (P230)というセリフを含む、同作の3箇所に見られる竹本健治の『「メタ・フィクション」的手法』について紹介しているのを読んだ上で、私が『キララ、探偵す。』における『「かくかくしかじか」という箇所が53ページにある』という点にも『着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう』と思い、書いたのだ、とそうハッキリ、しかも欺瞞的に証言しているのです(『着目しそう』も何も、『狂い咲く薔薇を君に』の段階ですでに着目している、ということ)。

 つまり、はらぴょんさんの『キララ、探偵す。』における指摘は、ご自身、私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」を読んでの上だ認めているにもかかわらず、ここでは『キララ、探偵す。』については『私の方が先に書いたのであるから、これについてとやかく言われる筋合いはない』などと開きなおっているんですね。――『キララ、探偵す。』に「ついて」だけ言っても、まったく無意味なのにです。

 さらに、はらぴょんさんが悪質なのは、

> それとも、アレクセイこと田中幸一氏は、竹本健治氏の本については、自分が先に言う権利があるとでも考えているのだろうか。とすれば、批評家として、なんたる傲慢なことであろうか。

と、私の見解を無視した、事実に反する「レッテル貼り」に勤しんでいる点です。
 私は、「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」で、事実の前後関係を明確にした上で、次のように書いています。


『私が遠の昔に着目し指摘しておいたという事実を、そうではなかったかのようにレトリカルに「隠蔽」した上で、さも自分が、私の「未指摘の論点」を見抜き、『先回り』して指摘したものであるかのように「装った(偽装した)」んですね。

もちろん、他人が指摘したことを、改めて指摘してもかまいません。それについて「この点については、すでに○○氏が指摘済みであるが」などという律儀な断りを入れろとも言いません。
しかし、自分が黙って、他人の『猿真似』をやっておいて、それが露見しそうになると、それを「第三者」に対してのみ、その「事実」を隠蔽しようとする「姑息な態度」は、さすがに「見苦しい」し「人間として卑しい」と感じたので、私は、先の、はらぴょんさんの日記ページ、

・ 2007年02月10日「『魔』」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648

に、 『それは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか(笑)。』 とだけ、警告的にたしなめるに止めたのです(2007年02月12日)。 』


 つまり、問題は「前後」関係ではなく、はらぴょんさんの「パクリの隠蔽工作」なんですね。
 それをここでは、さも私が「優先権」を問題にしているかのように「事実をねじ曲げて報告」する。これが、はらぴょんさんの、ここでの悪質さだと、私は指摘しているのです。


> (2)前述の『キララ、探偵す。』を巡って起きた不協和音は、私が「批評におけるパラダイムの混在」という文章を、2007年02月15日01:48、ミクシィにアップしたことから激化して、今日に至るまでの議論となった。
> 「批評におけるパラダイムの混在」には、次のような記述がある。

> ※以下は、引用です。

>> 例えば浅田彰の『構造と力』のように、さまざまなパラダイムを取り上げては、それを斬り、より有効なパラダイムを目指すような本の場合、途中の一箇所だけを抽出すると、奇妙なことが起きてしまう。
>> これは、「アレクセイの花園」で起きた事だが(これは既に書いたことのある例で、周知の事実かもしれないが、一番判り易い例なので取り上げることにする。別にホランド氏に悪意はないので、誤解なきよう。) 1月21日(日)15時30分3秒のホランド氏の書き込みで、
>>>> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                   「構造と力」(勁草書房P134)
>>> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。
>> というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例である。この場合、浅田批判をするのであれば、浅田説の表現されたところをピックアップして、やり直さないといけないことになる。
> この指摘に対して、現在のところホランド氏あるいはアレクセイこと田中幸一氏からの見解表明はなされていない。
> では、今日まで至る論争の中身はなにかといえば、私の人格や、今回の行動に至る動機への攻撃や罵倒の類いばかりである。
> アレクセイこと田中幸一氏は、常日頃から自分の敵と味方の二分法を駆使しており、敵は笠井潔氏であり、笠井派である探偵小説研究会であるということになる。私は、ミクシィで探偵小説研究会に属する小森健太朗氏ともマイミク関係(「コリン・ウィルソン情報」というサイトで知り合ったのである)あることから、私の行動の背景には探偵小説研究会への配慮が働いたというのである。自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏に対しては、いかなる議論も水掛け論に終わり、アレクセイ氏の考えを変えさせることはできないであろう。アレクセイ氏が一旦思い込んだものは、未来永劫、悪の勢力であるということになる。
> 問題は、論戦の火種となった浅田彰の『構造と力』の解釈問題が、一向に取り上げられないことにある。


 この問題について、今日まで論じなかったのは、単にその時間が無かっただけであり、いつでも論じられるほど「初歩的な問題」に過ぎなかったからにです。したがって、この「鬼の首でもとった」かのようなおっしゃり方に応えて、これについて書くことにしましょう。

 まず、ここで、はらぴょんさんは、「アレクセイの花園」において、さもホランド氏が、浅田彰の『構造と力』の一節を引用し、それに異論を唱えた「かのように報告」なさっていますが、これは事実ではありません。

 事実は、「アレクセイの花園」に書き込みに来られている、kamui氏が、浅田彰の『構造と力』からの「引用」として紹介した引用文について、それが仮に浅田彰の意見だと仮定した上で、ホランド氏がそれに異論を唱えたに過ぎません。つまり、ホランド氏は、


(引用1)『

至福の読書(2) 投稿者:ホランド 投稿日: 1月18日(木)10時59分2秒

◆ kamuiさま

> 主体は世界を《いま・ここ》の自己を中心とするパースペクティヴへと編成しているものとされるが、他者と共に生きる中で、他者もまたもうひとつのパースペクティヴの中心であるとき、パースペクティヴの相互交換が可能になる。   「構造と力」(勁草書房P132)


 浅田彰さんは、『逃走論』は読みましたが、『構造と力』は難しそうだったので、まだ読んでいませんでした。でも、この部分は、とてもよくわかります。

 で、ここに、園主さまが最近ハマっておられるジャック・デリダの議論を援用しますと、ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない、というのが、ここ「花園」の論理だということになりますよね。つまり「私は、他人でもある」というわけです(笑)。』


(引用2)『

 私って何?(3) 投稿者:ホランド 投稿日: 1月21日(日)15時30分3秒

◆ kamuiさま

>>で、ここに、園主さまが最近ハマっておられるジャック・デリダの議論を援用
>>しますと、ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」
>>と同様に截然と切り離されたものではない、というのが、ここ「花園」の論理
>>だということになりますよね。つまり「私は、他人でもある」というわけです>(笑)。

>そうですね。ただし、浅田を紹介したところの内容は自己と他者に境界ができた後での相互交換という意味で引用させていただきました。その前段階としての自己と他者が混合している状態のことではありません。浅田は以下のように述べています。

> ******
> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                    「構造と力」(勁草書房P134)
> *******

> つまり、ここでは自己が他者と人称的に存立する前に、自己と他者の区別がない状態があり、その後、幼児の発展過程にしたがってパースペクティヴを交換することができると語っています。


 え〜っと、ちょっと意図が伝わらなかったみたいなんですが、端的に言いますと、ボクは前回、浅田彰さんの「自己と他者」という図式そのものを、否定しているんですよ。それって「わかりやすいけど、ホントにそうなの?」って。

 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。でも、ボクは、そもそも、この「自己(私=我)」という基底、つまり「我思うゆえに我あり」という「ロゴズ」。言い換えれば、「ロゴス」という「基底=根拠」を疑っているんですよ。だから、ジャック・デリダを持ち出してきて『ここでいう「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』という話に持っていったんですね。

 浅田さんの議論は、「自己(私=我)」に基底を置き、その派生物として「他者」を規定しています。だからこそ、「自己」をいうものを大前提(基底)として「それがどのような形で、形成されたのか?」という「逆算的な思考(遠近法的倒錯)」に基づいて、「自己と他者という截然とした区別がなかった時代」つまり「混沌としての幼時(=原始時代)」という「発達心理学的な仮説」を採用しているんだと思うんです。でも、「渾沌」が最初にあって、それが細胞分裂的に発達していき「自己と他者」、つまり「天と地」に分かたれたとするような発想には、わかりやすくとも、無理があります。その無理が『鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができる』という説明なんです。

 でも、『自他未分』の「渾沌」が、『鏡像ないし鏡像としての他者』に「反応する」ことなんて、あり得ない。なぜなら、「渾沌」にとっては、『鏡像』とか『他者』とかいったものも、認識不能だからです。つまり、聖書では「外部の絶対者」である「神」の一撃によって、「渾沌」は分かたれていくので、その意味では合理的なんですが、『鏡像ないし鏡像としての他者と関係すること』なんてヌルイ働きかけでは、とうてい「渾沌」が整序化し始める(自己組織化を開始する)なんて、ボクには信じられないんですよ。

 ですから、そんなボクは、当然「最初は自他未分の混沌であった」という発達心理学の「仮説」、つまり浅田彰さんも採用している「仮説」を、疑うんです。「最初から、自他は、一個の生命の中に存在した。それがやがて、実用的に整序された(変形された)にすぎない」のではないか、と考えるんですね。

 したがって、ボクが『「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』と言う場合、それはkamuiさまがご指摘下さったような『前段階としての自己と他者が混合している状態のこと』でもなければ、浅田彰さんのおっしゃる『自他未分の混沌に埋没していた幼児』の状態でもないんです。ボクが言いたいのは、「幼時」も「今(成人時)」も、人の中には「自己と他者」が存在しており、それが「発達心理学的な観念」によって「自己は自己だけ」だと思い込まされているだけ、「錯覚」しているだけなんじゃないか、ということなんですね。
 ですから、そうした立場から言うと、ボクの意見は「今も、自己の中にある他者を働かせることは可能なのだ」ということであって、浅田さんのおっしゃる「自己が確立されているからこそ、他者とも相渡ることができるのだ」というのとは、根本的に「違う」んです。

 ボクの言っているのは、そういう「ロゴス中心主義」ではありません。「自己と他者」は、「階層秩序的二者」なのではなく、区分・決定の「不可能なもの」であり、まただからこそ「在りうるもの」だということなんですよ。

 例えば、園主さまは『中井英夫全集12 月蝕領映画館』(創元ライブラリ)の月報「眠り男の迷宮・迷宮の夢」で、中井英夫の「過剰な演技性」ということを論じて、

『 多くの読者、あるいは直接つきあいのあった人それぞれに、中井英夫とはこのような人であったという中井英夫像なり中井英夫観があるだろう。それが、それぞれに微妙な違いを見せるのも、「観察者」が別人ならば「観察像」が変化するのも、理の当然である。しかし、中井英夫の場合、ことはそれほど単純ではない。中井英夫とは、いわば〈私〉の「演出家」であり、「演出家」である〈私〉もまた、べつの〈私〉に演技をつけられる「演技者」であった。つまり、中井英夫には、特権的な「本来の私」など存在しなかった。――私には、そのように思えてならない。「本当の中井英夫」という〈現実〉を求めてみても、それは無限後退のあげく、いつの間にか最初の〈私〉たる中井英夫に戻っていて、実像探究の旅は堂々回りに終わらざるを得ない。』

と書いています。でも、これは、何も中井英夫ひとりに限定された話ではないんですね。これは、「内省的」な人なら、誰もが感じることなんじゃないでしょうか。つまり「私はああいう人間でもあれば、こういう人間でもあり、そういう人間でもある。さて、ホントの私とは、いったいどれなんだろうか?」と。でも、そんな「自分探し」が虚しいというのは、言われて久しいことですよね。つまり「本当の自分=特権的自分=決定的自分」なんて「存在しない」んです。つまり、「私」とは、ついに「決定・到達不可能なもの(=差延)」であり、言い換えれば「私はすべての私であり、他者はすべての他者である。したがって、私は他者でもある」ということなんです。

 だから、ボクは『「自己と他者」という「対立的二者」は、「内部と外部」と同様に截然と切り離されたものではない』、「私」の中には「他者」が在り、「私」は「私という他者」でもあるのだ、ということを言いたかったんです。「私は決して、単なる私(に決定され、固定された)私ではない」ということを言いたかったんですよ。そして、ここ「花園」は、「私は私でしかない」という「観念的呪縛」から解放される「場所」だと言いたかったんです。』


 以上、ホランド氏の「原文」を読めば、ホランド氏が「浅田彰批判」をしているわけではなく、「kamui氏によって引用された文章に示された考え方」に異論を唱えているだけだ、というのは明白でしょう。

 なにしろ、ホランド氏は『『構造と力』は難しそうだったので、まだ読んでいません』と明言しているのですから、この引用文が誰の「考え」を語ったものなのか、自分がそれを正確には特定できない立場にあるというのは承知しているのです。まただからこそ、ホランド氏にとっては、この「引用文」に示された考えの持ち主は、浅田彰であろうとメルロ=ポンティであろうと、そんなことは問題ではありません。つまり、ホランド氏の異論は、あくまでもkamui氏の「引用文に示された考え方」に対するものであったということなのですね。

 けれどもまた、この文章が、浅田彰の『構造と力』から引かれたものだと紹介されており、kamui氏が『浅田は以下のように述べています。』と紹介している以上、あそこでの議論においては、仮にそれを浅田彰の考えだとし、便宜的に「浅田」を主語にして語るというのは、しごく常識的なことだと言えるでしょう。
 例えば、Aが、貴方に「Bが、貴方のことをペテン師だと言っていましたよ」と告げたとします。その場合、貴方は「Bがそう言ってたんなら、それはBの勝手だけど、僕はペテン師なんかじゃないよ。Bは嘘つきだ」と答えたとします。そして、それを横合いで見ていたCが「貴方のことをペテン師だと言っていたのはDで、Bはそれを伝聞として語ったにすぎません。貴方のB批判は、とんだお門違いです」と、注文をつけたとします。さて、貴方はいつ、Bを批判したでしょうか? ――というような話と同じなんですね。
 貴方はあくまでも「Aの言ったことが、事実だったとすると」という「仮定」のもとに「B評価」を語っているのであって、これは「仮の話」でしかありません。つまり、Cは「仮の話」と「事実」の区別がつけられずに、したり顔で「知ったかぶり」しているだけなんですね。

 話を戻すと、こんな明らかなことについて「あれは浅田彰の文章ではなく、浅田がメルロ=ポンティを要約したものだ」などという指摘をするのは、はらぴょんさんにとって、こうした話題では「内容が問題ではなく、作者が問題である」と認識されている証拠だと言えましょう。要は、はらぴょんさんにとっては「考え方(思想)の中味」が問題なのではなく、「誰がそれを言ったか(名義)」が問題だということです。
 そして「誰が言ったか」ということをはらぴょんさんが問題にするのは、お得意の「思想哲学」に関することだけだという点にも、はらぴょんさんの「権威主義」「思想哲学オタク」(「これは(思想哲学)は、僕の(オモチャ)だ」)ぶりが表れていると言えるでしょう。
 なにしろ、ご自分は、

・ 「まだまだ幸せ者だと思わなくては」2007年02月22日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

において、ご自分で、

『実際のところはアレクセイ氏と近づきになった時から「BBSアレクセイの花園」の過去ログも含めて、あら探しをしていました。あら探しというと、マイナス面のみを探すととられるかも知れませんが、私の場合、もっとたちが悪く、プラスの面も盗むことを考えていました。』

と書いて、私のマイナスの面についての『あら探し』をする一方、『プラスの面も盗むこと』をしていたと自供して、ご自分が「誰が言ったか(作者は誰か)」の問題を、自分ではいい加減にする人間であることを認めているのですから。

 ともあれ、はらぴょんさんが、私やホランド氏の文章に、このような「難癖」をつけた理由が、私への「妬み」や「やっかみ」や、それに発する「憎しみ」にあったというのは、上のはらぴょんさんの自供にも明らかでしょう。

 ここで念のために説明しておくと、はらぴょんさんの「思想哲学的知識」を利用した、私やホランド氏に対する今回の「批判」が、なぜ批判の名に値しない「難癖」なのかと言えば、それは次のような譬え話によって、その論点がハッキリするでしょう。

 ここに、童話『桃太郎』の物語について、議論している二人がいるとします。で、一方が「この物語には、作者の、アメリカ的な単独主義、問答無用の先制攻撃主義が表れているね」と言ったとします。そこへ「民話・伝承」に詳しい人が横合いから出てきて「君たちは、童話『桃太郎』の元となった民話や伝承がどういったものかを知った上で、作者の思想を云々しているのか? 童話『桃太郎』には、原・作者の考え方など反映されておらず、むしろ後代の者の思想が反映されているのだ」などと言ったとします。――さて、この「横合いからの注文」は、最初の二人の議論に関する「適切な注文」だと言えるでしょうか?

 言うまでもなく、最初の二人は『桃太郎』の成立仮定など知らないことを前提として、ごく常識的『桃太郎』理解において議論しており、決して「専門的」な話をしているわけではありません。それなのに、そうした議論を「専門の領域」に回収して、議論する権利を独占しようとするような「専門家気取り」の態度が、はたして正しいと言えるでしょうか?
 ――もちろん言えません。こういう、的外れな「専門家気取り」は、「マニア」や「オタク」の世界では、どこででも見られる、幼稚な悪弊に過ぎないのです。

 ヘーゲルは、こう言っています。

『一般によく知られたものは、よく知られているからといっても、認識されているわけではない。認識に当たって、あることをよく知っていると前提して、それをそのまま放っておくのは、最もありきたりな自己欺瞞であり、他人に対する欺瞞でもある。そういう知は、あれこれおしゃべりはするが、一向はかどらないし、そんな自分の状況も知ってはいない。』(『精神現象学』)

 つまり、私が、はらぴょんさんの「思想哲学的知識」を批判して言った「暗記のレベルに止まり、理解にはいたっていない」というのと同じことを、ここでヘーゲルは言っているのです。
 はらぴょんさんは「暗記した知識」が単なる知識として放置されていることに気づかず、そんな「がらくたの権威」を振り回して、門外漢の「門外漢たる事を前提とした議論」に、嫌らしい「難癖」をつけているんですね。

 ちなみに、私とはらぴょんさんとの「思想哲学的知識の使い方」の差異は、私が上のように書いたとしても、私の場合は、それがヘーゲルの言葉でなくても何ら差し支えない、という事実に表れています。
 ――これはじつは「嘘」で、上の文章は、ヘーゲルの引用ではなく、私がそれらしくでっち上げた私の言葉なのです(笑)。

 つまり、私にとっては問題なのは「誰が言ったか(名義)」ではなく、それが「どういう考えか(中味)」ということであり、それは先のホランド氏の議論でも同じだ、ということです。
 ホランド氏は、kamui氏との議論において、あくまでも「kamui氏が引用した文章の中味」に対し異論を唱えたのであり、読んだこともないと認めている『構造と力』や浅田彰(ましてやメルロ=ポンティ)の「考え」への異論表明などではなかったというのは、常識があればわかりきった話だ、ということなのですね。


 したがって、以下につづく、はらぴょんさんの「半可通の知ったかぶり」の議論も、根本的なところで「的外れ」であり、単なる「難癖」でしかありません。

 しかし、「思想哲学的知識」にアイデンティティを依存している はらぴょんさんとしては、現実を直視して反省することをせず、こういう無内容な『一向はかどらない』『おしゃべり』に明け暮れるしかないのでしょう。――まあ、私は義理堅いので、最後までおつき合いしましょう。


> ところで、アレクセイこと田中幸一氏は、「笠井潔葬送派」を標榜する文芸評論家ということになっている。ということは、笠井潔氏の事柄に関しては、専門家であるということになる。
> 私の見るところ、笠井氏の代表的著作は、ミステリでは『バイバイ、エンジェル』であり、評論では『テロルの現象学』であると思う。批評では『探偵小説論』があるのではないか、という論者がいるかも知れないが、基本的な思考のパターンは『テロルの現象学』に現れていると考える。
> 『テロルの現象学』は、連合赤軍事件を契機とするマルクス主義的テロリズム批判を思考した著作である。だから、第一の批判対象は、マルクス主義の弁証法的権力である。しかし、笠井潔氏は、マルクス主義の党派観念を内部から粉砕するために、ジョルジュ・バタイユの考えからヒントを得た集合観念を持ってきた。> だから、バタイユは、笠井潔氏にとって重要な思想家であった。
> しかしながら、『テロルの現象学』が発表された1984年は、ニューアカデミズム全盛期であり、浅田彰氏の『構造と力』は、バタイユを「終局=目的なき弁証法過程」(117ページ)として、構造とその外部の弁証法のパターンとして批判していた。
> そうであるがゆえに、笠井潔は『テロルの現象学』の「第七章 観念の対抗」で、バタイユを「弁証法を廃滅する弁証法」(ちくま学芸文庫版231ページ)、つまり反弁証法として捉え直し、『構造と力』への異議を唱えたのである。
> 『テロルの現象学』で取り上げられている他の文学作品や哲学書は、笠井説の例証や補強材料であるが、『構造と力』は違っている。つまり、第二の批判対象は、『構造と力』ということになる。
> ちなみに、『テロルの現象学』に続いて笠井潔氏が刊行した批評集は、『「戯れ」という制度』であり、ここでは蓮實重彦氏への批判を主題とした表題作のほか、当時のニューアカデミズム=日本型ポストモダニズムへの批判がなされている。つまり、『テロルの現象学』の第二の批判対象が、評論二冊目で主題に浮上しているということになる。
> 笠井潔氏のその後のミステリ評論は、『テロルの現象学』での浅田彰氏が占めていた位置xに、竹本健治氏、清涼院流水氏(なお、清涼院氏に対する批判を、最近の笠井潔氏は取り下げている。)を代入することで、図式が出来上がると私は考える。
> したがって、笠井潔氏の代表作である『テロルの現象学』を、真の意味で理解するためには、その批判対象である『構造と力』も、押さえておく必要があると考える。逆からいえば、そこを理解しなかったら、『テロルの現象学』で笠井氏が言いたかったことを充分押さえるには至っていないということになる。


 要は「浅田彰の『構造と力』を読んでいなければ、笠井潔の思想を理解しているとは言えないし、それでは笠井潔批判は行い得ない」と、『構造と力』を読んでいる はらぴょんさんは、そう言いたいのですね。
 いかにも『よく知られているからといっても、認識されているわけではない。』ということを理解していない、「読書量・自慢」のはらぴょんさんらしい言い方です。

 しかし、私の何倍もの「思想哲学書」を読んでいるはらぴょんさんご自身が、こんな「幼稚な意見」しか言えないという事実からしても、「読んでいる」と「理解している」は「比例しない」というのは明らかでしょう。無論、読んでいるに越したことはありませんが、はらぴょんさんのように、読んではいても「知っているだけ」では話になりません。

 どっちにしろ、ここで示されているのは「車を20台所有している者の方が、車を1台しか主有していない者よりも、車のことを知っている」とするような、極めて幼稚な議論であるのは言うまでもないでしょう。


> アレクセイ氏の件に話を戻そう。『構造と力』の解釈に関する私の疑問に、すぐ即応できず、論点をそらして、口汚い罵倒ばかり繰り返しているアレクセイ氏とは、一体何者なのか。本当に「文芸評論家」と呼べるに値するのか。

 この「強弁」には、心底あきれてしまいます。

 私は、はらぴょんさんの意見を分析して、実証的に、はらぴょんさんの「幼稚さ」を証明しており、これは『すぐ即応できず、論点をそらして、口汚い罵倒ばかり繰り返している』などと言われる筋のものではありません。それどころか、拙論を読んでいただければお分かりのとおり、はらぴょんさんの方が「事実に反する報告」をし、それに基づいて『すぐ即応できず、論点をそらして、口汚い罵倒ばかり繰り返している』などと私を口汚く断定しているだけなのですから、『すぐ即応できず、論点をそらして、口汚い罵倒ばかり繰り返している』のは、いったいどちらでしょうか。こんなことは、ログを読み返せば、誰にも明白なことなのに、よくもまあヌケヌケと書けるものです。


> あるいは、本当に笠井潔氏の思想を充分理解した上で、笠井潔氏批判をしているのだろうか。(ちなみにこののような議論をミクシィで始めてから、私のページに笠井潔氏の足あとが数回あった。だから、笠井氏はアレクセイ氏が議論のきっかけとなった『構造と力』解釈に、すぐさま反論しないという奇妙な事実を認識した可能性がある。)『構造と力』は、一昔前とはいえ、ブームとなった本であり、批評の上でベーシックな本である。批判するにせよ、肯定するにせよ、仮にも評論家を名乗る以上、一応は押さえておくべき本であると思う。しかしながら、こうした議論に、アレクセイ氏は、今尚、沈黙したままである。


 『構造と力』を読んでいない私には、反論が不可能であると、安易に前提した上での「先走り」ですが、これは前述の論証において、すでに無効です。
 私にしろ、ホランド氏にしろ、読んでもいない『構造と力』を批判したり、浅田彰を批判したりするほど、馬鹿ではありません。ホランド氏の書いた文章を、『構造と力』批判であるとか、浅田彰批判であるなどというのは、所詮は、はらぴょんさんの歪んだ自尊心(「思想哲学」に関する専門家意識)の見せた「妄想」に過ぎなかったということです。

 また、少なくとも笠井潔は、はらぴょんさんほど非論理的ではないから、実際には、せいぜい「内輪もめ」を確認しに来た程度のことでしょう。前提が間違っていると、結論も当然間違ったものになってしまいます。――それが、論理的な推論であれば、の話ですが。


 ともあれ、この調子で行けば、はらぴょんさんは今後も、ホランド氏の文章が『構造と力』批判であるとか、浅田彰批判であるなどと「強弁」するでしょう。しかし、そうした「強弁」は、事実が、その「事実無根の強弁」性を告発することになります。
 だから、せいぜい、一連の議論に関し、「削除」による「証拠湮滅」など謀らないように、と忠告しておきたいと思います。

 はらぴょんさんが、この「『テロルの現象学』について」という文章でおっしゃっているのは、簡単に言えば「私(はらぴょん)は、笠井潔批判に必要な『構造と力』を読んでいるが、アレクセイはそれも読まずに笠井潔批判をして、笠井潔葬送派などと名乗っている。そんなのは、ちゃんちゃらおかしい」というようなことです。つまり、――「思想哲学オタク」の「それもこれも読んでるぞ」という自慢話にすぎない、ということです。
No.240 - 2007/05/19(Sat) 09:42:13

mixi(6)-1 / ☆
はらぴょんさんの日記 『テロルの現象学』について 2007年02月27日 07:22

アレクセイこと田中幸一氏との論戦は、次のような経過から始まった。

(1)ミクシィで、2007年02月01日 00:16に私が書いた竹本健治氏の小説『キララ、探偵す。』のレビュー中に、53ページの「かくかくしかじか」から、作者のメタ・フィクション指向を指摘する記述を行った。
これに対し、アレクセイこと田中幸一氏は、自身の運営する「BBSアレクセイの花園」にて、2月11日(日)01時01分22秒に、同様のことを指摘する記述を行った。
このことを、私はミクシィでの私の日記(2007年02月11日08:52)に書いたところ、アレクセイこと田中幸一氏の反感を買った。
時間の流れからすれば、私が書いたのが先であり、これに関してとやかく言われる筋合いはない。
また、「かくかくしかじか」は、読めば誰でも気づくところであり、私の指摘もたいしたことはない。人によっては「スボラ流省略の極意」という人もあれば、「メタ・フィクション」傾向を見出す人もいるだけだと思う。また、アレクセイ氏の指摘が遅れたのも、単に『キララ、探偵す。』の表紙のメイドの絵に、羞恥を覚えて購入が遅れただけだと思う。
アレクセイ氏によると、アレクセイ氏の書いた『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューでも、「メタ・フィクション」的手法を指摘した部分があり、私がそれを読んだがゆえに、このような指摘が出来たのだという。
ちなみに、アレクセイこと田中幸一氏と私は、現在のところミクシィでマイミク(友人)関係にあり、各自が日記やレビューを書くと、自身のページにも表示されるようになっている。
しかし、『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューの件をいうのならば、アレクセイこと田中幸一氏が『キララ、探偵す。』を読む前に、私のレビューを読んで「メタ・フィクション」傾向を示す「かくかくしかじか」という箇所が53ページにあることを知りえたわけで、先に述べたように、私の方が先に書いたのであるから、これについてとやかく言われる筋合いはないのである。
それとも、アレクセイこと田中幸一氏は、竹本健治氏の本については、自分が先に言う権利があるとでも考えているのだろうか。とすれば、批評家として、なんたる傲慢なことであろうか。

(2)前述の『キララ、探偵す。』を巡って起きた不協和音は、私が「批評におけるパラダイムの混在」という文章を、2007年02月15日01:48、ミクシィにアップしたことから激化して、今日に至るまでの議論となった。
「批評におけるパラダイムの混在」には、次のような記述がある。

※以下は、引用です。

>例えば浅田彰の『構造と力』のように、さまざまなパラダイムを取り上げては、それを斬り、より有効なパラダイムを目指すような本の場合、途中の一箇所だけを抽出すると、奇妙なことが起きてしまう。
>これは、「アレクセイの花園」で起きた事だが(これは既に書いたことのある例で、周知の事実かもしれないが、一番判り易い例なので取り上げることにする。別にホランド氏に悪意はないので、誤解なきよう。) 1月21日(日)15時30分3秒のホランド氏の書き込みで、
>>> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                   「構造と力」(勁草書房P134)
>> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。
>というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例である。この場合、浅田批判をするのであれば、浅田説の表現されたところをピックアップして、やり直さないといけないことになる。
この指摘に対して、現在のところホランド氏あるいはアレクセイこと田中幸一氏からの見解表明はなされていない。
では、今日まで至る論争の中身はなにかといえば、私の人格や、今回の行動に至る動機への攻撃や罵倒の類いばかりである。
アレクセイこと田中幸一氏は、常日頃から自分の敵と味方の二分法を駆使しており、敵は笠井潔氏であり、笠井派である探偵小説研究会であるということになる。私は、ミクシィで探偵小説研究会に属する小森健太朗氏ともマイミク関係(「コリン・ウィルソン情報」というサイトで知り合ったのである)あることから、私の行動の背景には探偵小説研究会への配慮が働いたというのである。自分の味方でないものは、すべて笠井派であると妄想してしまうパラノであるアレクセイ氏に対しては、いかなる議論も水掛け論に終わり、アレクセイ氏の考えを変えさせることはできないであろう。アレクセイ氏が一旦思い込んだものは、未来永劫、悪の勢力であるということになる。
問題は、論戦の火種となった浅田彰の『構造と力』の解釈問題が、一向に取り上げられないことにある。

ところで、アレクセイこと田中幸一氏は、「笠井潔葬送派」を標榜する文芸評論家ということになっている。ということは、笠井潔氏の事柄に関しては、専門家であるということになる。
私の見るところ、笠井氏の代表的著作は、ミステリでは『バイバイ、エンジェル』であり、評論では『テロルの現象学』であると思う。批評では『探偵小説論』があるのではないか、という論者がいるかも知れないが、基本的な思考のパターンは『テロルの現象学』に現れていると考える。
『テロルの現象学』は、連合赤軍事件を契機とするマルクス主義的テロリズム批判を思考した著作である。だから、第一の批判対象は、マルクス主義の弁証法的権力である。しかし、笠井潔氏は、マルクス主義の党派観念を内部から粉砕するために、ジョルジュ・バタイユの考えからヒントを得た集合観念を持ってきた。だから、バタイユは、笠井潔氏にとって重要な思想家であった。
しかしながら、『テロルの現象学』が発表された1984年は、ニューアカデミズム全盛期であり、浅田彰氏の『構造と力』は、バタイユを「終局=目的なき弁証法過程」(117ページ)として、構造とその外部の弁証法のパターンとして批判していた。
そうであるがゆえに、笠井潔は『テロルの現象学』の「第七章 観念の対抗」で、バタイユを「弁証法を廃滅する弁証法」(ちくま学芸文庫版231ページ)、つまり反弁証法として捉え直し、『構造と力』への異議を唱えたのである。
『テロルの現象学』で取り上げられている他の文学作品や哲学書は、笠井説の例証や補強材料であるが、『構造と力』は違っている。つまり、第二の批判対象は、『構造と力』ということになる。
ちなみに、『テロルの現象学』に続いて笠井潔氏が刊行した批評集は、『「戯れ」という制度』であり、ここでは蓮實重彦氏への批判を主題とした表題作のほか、当時のニューアカデミズム=日本型ポストモダニズムへの批判がなされている。つまり、『テロルの現象学』の第二の批判対象が、評論二冊目で主題に浮上しているということになる。
笠井潔氏のその後のミステリ評論は、『テロルの現象学』での浅田彰氏が占めていた位置xに、竹本健治氏、清涼院流水氏(なお、清涼院氏に対する批判を、最近の笠井潔氏は取り下げている。)を代入することで、図式が出来上がると私は考える。
したがって、笠井潔氏の代表作である『テロルの現象学』を、真の意味で理解するためには、その批判対象である『構造と力』も、押さえておく必要があると考える。逆からいえば、そこを理解しなかったら、『テロルの現象学』で笠井氏が言いたかったことを充分押さえるには至っていないということになる。

アレクセイ氏の件に話を戻そう。『構造と力』の解釈に関する私の疑問に、すぐ即応できず、論点をそらして、口汚い罵倒ばかり繰り返しているアレクセイ氏とは、一体何者なのか。本当に「文芸評論家」と呼べるに値するのか。あるいは、本当に笠井潔氏の思想を充分理解した上で、笠井潔氏批判をしているのだろうか。(ちなみに、このような議論をミクシィで始めてから、私のページに笠井潔氏の足あとが数回あった。だから、笠井氏はアレクセイ氏が議論のきっかけとなった『構造と力』解釈に、すぐさま反論しないという奇妙な事実を認識した可能性がある。)『構造と力』は、一昔前とはいえ、ブームとなった本であり、批評の上でベーシックな本である。批判するにせよ、肯定するにせよ、仮にも評論家を名乗る以上、一応は押さえておくべき本であると思う。しかしながら、こうした議論に、アレクセイ氏は、今尚、沈黙したままである。
No.239 - 2007/05/19(Sat) 09:40:42
以下のフォームに記事No.と投稿時のパスワードを入力すれば
投稿後に記事の編集や削除が行えます。
143/200件 [ ページ : << 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 >> ]

- HOME - お知らせ(5/4) - 記事検索 - 携帯用URL - フィード - ヘルプ - 環境設定 -

Rocket Board Type-LS (Free) Rocket BBS