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虚無なる「匣の中の匣」

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mixi(5) / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんの日記 齟齬の根底にあるもの 2007年02月24日 00:48

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=355680293&owner_id=491648
No.233 - 2007/05/16(Wed) 21:54:52

mixi(5)-9 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月04日 15:51

☆ 杉澤鷹里さま

> 「見解」においてはらぴょんさんが陳謝することができないと拒否を示したのは、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」という発言についてであって、それは自分の発言に誤りがないことを根拠としているわけです。その点は、議論の流れの中で、一貫しています。
> 「まだまだ幸せ者だと思わなくては」における「大馬鹿者」発言は激烈な批判を受け止めたうえで、激怒することもなく、卑屈になることもなく、泰然としている有り様が伺えました。場合によってはアレクセイさんの発言を受け流している態度とも考えられる(アレクセイさんにとって失礼な態度な)わけですが、少なくとも陳謝の類でないことは明らかであり、「土下座せんばかりの、卑屈な言葉」とは要約できるものではありません。「齟齬の根底にあるもの」においてアレクセイさんについて言及した発言は、少なくともアレクセイさんがはらぴょんさんについて論じたのと立場上同等の水準においてアレクセイさんについて言及したのであって、それを口汚い非難というならば、アレクセイさんのはらぴょんさんへの発言もまた口汚い非難であることになります。また前記の「見解」での「陳謝の拒否」、「まだまだ幸せ者だと思わなくては」での「大馬鹿者」発言と直接の関連がないわけですから、それをして一貫性がない、という評価はできないわけです。
> 互いに異なる三つの水準での発言を同一の平面において捉え、一貫性がない、と括るのは踏み込みすぎだと思いますがいかがでしょうか。


 この「はらぴょんさん擁護」には、はらぴょんさんと同じ、恣意的な「話題の限定」がなされております。
 つまり、話題を『「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」という発言について』に限定して、さも私の批判が、それに対してなされたものにしては「過剰である」と言わんばかりの構成になっている、ということですね。しかし、これは誤魔化しであり「欺瞞」であるとしか言い様がありません。

・ 「批評におけるパラダイムの混在」2007年02月15日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648

に書いた、私の「謝罪要求と警告」文とおり、私のはらぴょんさんへの批判は、最初から一貫して「専門話にことよせてなされる、隠見姑息な嫌がらせ」にあります。それは、次のように私が、最初から書いているとおりです。

> 専門話に持ち込めば「なんとかなる」なんて考えてるのなら、それはいつもどおりの大甘ですよ。私は、専門家ともプロとも喧嘩したことがありますが、そのいずれでも、決して負けてはいません。なぜなら、私は、素人の分際で、生半可な知識を自慢げにひけらかすなんて「みっともないこと」は、決してしないからです。つまり、私が喧嘩する時は、世間の常識に立脚して、相手の言動に表れた、その人の愚劣な人間性をそのまま真直ぐに批判します。だから、相手に付け入る隙を与えないんですよ。

> ここでなされたのも、所詮は、ちょっと専門的な知識を持っている人間が、専門家だと名乗ってもいなければ、誰が見ても明らかに素人でしかない者の文章に対し、その知識を鼻に掛けて、「粗探し」をし「ケチ」をつけた「だけ」でしかありません。こんなことは、「恥」さえ知らなければ、誰にでもできることですよ。
例えば、ミステリばかり読んでいる人が「○○も読んでいなきゃ、ミステリは語れない」などと言いたがる、あれとまったく同じ。自慢できることが少ないからこそ、ささやかなオタク的知識(本人の成長にはまったく寄与しない、知識のための知識)を最大限にひけらかす。その態度が、「品位」に欠け、「知性」にも欠けたものであるいうことにも、いい年をして気づかない、本質的な「暗愚」。

 杉澤さんのご意見も、この『専門話に持ち込めば』の類でしかなく、私とはらぴょんさんの「やり取りの全体」を押さえるものでもなければ、私が何を批判しているのかを故意に無視するものでしかありません。
 私は、上の文章で、

> 端的に言いましょう。私とホランドくんに対する、この無礼な仕打ちについて、率直に謝罪して下さい。
例によっての「泣き」が入っても、容赦はしません。私は、やるとなったら、相手がそれで自殺しても構わないという覚悟でやるんだから、泣いたの落ち込んだのといったことでは、金輪際、赦したりはしないから、その覚悟でいてください。
> 無論、逃げてもダメです。逃げれば、貴方が何を書いて、こうなったのかについて、貴方の文章を引用し、証拠を「世間」に曝して、批判するだけです。

> 例えば、こないだ『これは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか』と、暗にたしなめておいたことについても、はらぴょんさんのなさったことが、単なる「猿真似」であったということを、原文を紹介して論証し、それやこれやで内心面白くなかった貴方が、こんな陰険姑息な文章を書いたのだということを、公然と批判してあげましょう。あの人もこの人も見ている前で、呵責なく、貴方の卑小さを腑分けしてあげましょう。

と書いていますが、ここに示されているのは、はらぴょんさんが問題にしたがる、つまり、そこに話題を限定したがる『「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」という発言』は「結果」として現象したことでしかなく、私が批判しているのは、そういう(杉澤さんも認めている)「的外れな注文」を「いまここで、あえて」つけるに至った、はらぴょんさんの「心根」なのであり、それは私の一連の「はらぴょん論」を読めば、明らかなことのはずなのです。

 例えば、上の文章にも言及している『こないだ『これは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか』と、暗にたしなめておいたこと』について、私はその不当性を、

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

に書いた「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」で、縷々説明しておりますが、杉澤さんは、私のこうした「はらぴょん批判における根拠説明」をまったく無視して、話題を『「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」という発言について』に限定しておられます。しかし、これは、はらぴょんさんが、私の理を尽くした批判に対し、

・ 「まだまだ幸せ者だと思わなくては」2007年02月22日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

で、『いささか手の込みすぎた悪戯』だったなどと言い訳にもならない言い訳で、不誠実にお茶を濁す態度を、追認するものでしかありません。

 杉澤さんは、はらぴょんさんの「見解」について、

> 「見解」においてはらぴょんさんが陳謝することができないと拒否を示したのは、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」という発言についてであって、それは自分の発言に誤りがないことを根拠としているわけです。その点は、議論の流れの中で、一貫しています。

と書かれていますが、手前味噌に話題を限定して、『その点』に限って『議論の流れの中で、一貫』していることに、いったい何の意味があるのでしょうか? 嘘やデタラメでも、現実の状況に即さなければ『議論の流れの中で、一貫』している、ということにはなりえませんか?

> 「まだまだ幸せ者だと思わなくては」における「大馬鹿者」発言は激烈な批判を受け止めたうえで、激怒することもなく、卑屈になることもなく、泰然としている有り様が伺えました。場合によってはアレクセイさんの発言を受け流している態度とも考えられる(アレクセイさんにとって失礼な態度な)わけですが、少なくとも陳謝の類でないことは明らかであり、「土下座せんばかりの、卑屈な言葉」とは要約できるものではありません。

 たしかに、はらぴょんさんの「まだまだ幸せ者だと思わなくては」は、『陳謝の類でないことは明らか』です。つまりそれは『土下座せんばかりの、卑屈な言葉』をつらねることにより、さも「陳謝しているがごとき」効果を見込んでなされた「誤魔化し」でしかないからです。だから、はらぴょんさんは『土下座せんばかりの、卑屈な言葉』をつらねながらも、事実関係については、

> アレクセイ氏のコメントへのはらいせにやった嫌がらせと解釈されますが、確かに出来事の推移や私の表現の仕方からすると、確かにそう解釈されても仕方がないように思われます。ただ、前者に関しては、いささか手の込みすぎた悪戯

などと「否認」します。
 つまり、これは語の本来の意味での「陳謝」ではなく、「陳謝っぽいポーズ」に過ぎないということです。そして、それはちょうど「マンション耐震構造疑惑事件」において、そうしたマンションを売った会社の社長が、その事実を非難された際「皆様にご迷惑をかけたことに関しては、たいへん申し訳ないことをしたと思っておりますし、善後策に対しては誠実に対処させていただきます」などと平身低頭しながらも、自分がそうした犯罪行為を承知していたかという肝心な点については「私は知りませんでした。ただ、知らなかったということに関しては、責任を感じております」などと「陳謝っぽいポーズ」を取りながら、不誠実な「言い逃れ」をしていたのと、まったく同じだ、ということです。

 で、私はこのような「陳謝っぽいポーズ」を『土下座せんばかりの、卑屈な言葉』と評したのですが、杉澤さんはこれを『少なくとも陳謝の類でないことは明らかであり、「土下座せんばかりの、卑屈な言葉」とは要約できるものではありません。』『議論の流れの中で、一貫』しており、『激烈な批判を受け止めたうえで、激怒することもなく、卑屈になることもなく、泰然としている有り様が伺えました。』などと、評するのですね。「盗人猛々しい」態度も『(※ 批判されて)激怒することもなく、卑屈になることもなく、泰然としている有り様』と評することは可能でしょう。――しかし、これが「欺瞞」でなくて何なのでしょうか?

 私は、はらぴょんさんの「まだまだ幸せ者だと思わなくては」を、このような「見苦しい誤魔化し」と判断したから赦さなかったのですが、杉澤さんは、これが「謝罪ではなかった」から、私の評価が間違っていると注文をつけたいのでしょうか?
 ――しかし、ここには「全体を見ずに、恣意的に部分を強調する」という、今回の杉澤さんの議論に一貫した「倒錯」があるのではないでしょうか?

 結局のところ、杉澤さんは、なんとか、はらぴょんさんを救い出したいがために、結果としてご自分も、私の「はらぴょん批判」に「難癖」をつけることになっているのではないですか?

 今回の杉澤さんの議論に特徴的な、「一般的には」「ある意味では」「この点では」「についてであって」といった「恣意的な、話題の限定」は、結局のところ、今回の「議論そのものの現実」を無視するものでしかありませんし、それは、杉澤さんの「はらぴょん評価を語ることの回避」に発する「無理(ひずみ)」であることは、もはや明らかでしょう。

 私が、杉澤さんのご意見に対し、逆にお尋ねしたいのは、

・ 「『テロルの現象学』について」2007年02月27日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

のページの、2007年03月04日13:38付けのコメントに、次のように書いたこと以外にはありません。

>>  鍵となる点についてだけ。

> ということであれば、はらぴょんさんのそうした態度をどう評価するのか。この問題を避けて、今回のことに口出しをするのは、それこそ烏滸がましい行為だと言わねばなりません。
> そして、はらぴょんさん批判について、あれこれご注文をいただいた私ならば、杉澤さんに『はらぴょんさんのそうした態度をどう評価するのか。』を問う権利はあるはずですし、杉澤さんには、これに応答する義務があるのではないですか? すくなくとも「浅田彰をぜんぶ読んでから発言しろ」などという要求よりは、よほど真っ当であり常識的な、そくざに回答可能な質問だと思うのですが、いかがでしょうか?
No.259 - 2007/05/25(Fri) 07:17:02

mixi(5)-8 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月04日 02:35

 アレクセイさんのここでの発言において、私が歪みを感じた部分の第二弾です。前回は誹謗中傷ということと直接の関係を持たない箇所でしたが、今回はもう少し直接的な箇所です。
 
 アレクセイさんは「見解」から「齟齬の根底にあるもの」にいたるまでのはらぴょんさんの意見を「一貫性」の欠片もない、と要約していますが、それは粗雑な要約のように思います。

>『私が陳謝するのは納得いきませんで、致しかねます。』(「見解」2007年02月20日 )
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648


>と突っぱねた後、実際に相手から、事実分析に基づく批判(「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」)をされた途端、


>『 このように、私は大馬鹿者です。馬鹿は死ななきゃ直らないといいますが、たぶん死んでも直らないのではないかと思われます。この大馬鹿者の部分を克服しようとした時もありましたが、たぶん、しばらくすると失敗を忘れて、また醜態をさらすのでしょう。勝手なことをいえば、失敗を思い出させるために、断続的に(教訓を忘れたころに)苦よもぎのような「はらぴょん論・序説」の続きを読ませていただければと思いますが、無論、こんな大馬鹿者につき合っても、一文の得にもなりませんから、バッサリと斬り捨てていただいて結構です。』(「まだまだ幸せ者だと思わなくては」2007年02月22日)
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648


>などと「土下座せんばかりの、卑屈な言葉」は書けないでしょうし、それで赦してもらえなかったからといって、再び手のひらを返して、今回のように、


>『アレクセイさんは、憎しみの感情から文章を書かれている』

>『アレクセイさんは、自分にとって否定的な事柄の方が、真実を示しており、自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまうのではないでしょうか。』

>『その批評は、ルサンチマンから出発しており、人間を猜疑心で見つめ、自分にとって敵か味方かの二項対立で分類し、少しでも疑いのあるものは敵のレッテルを貼り、完全に叩き潰すまで、憎悪の言葉を連打するということです。つまり、アレクセイさんは反権力を標榜しつつ、権力と同じやり方で、人間を追い詰め攻めるという手法』


>などと、口汚い非難の言葉を書けるものでもないでしょう。

>この、およそ「一貫性」の欠片もない、まるで「百面相のような態度」に表れているのは、はらぴょんさんの文章には「仮面しかない」という事実です。

「見解」においてはらぴょんさんが陳謝することができないと拒否を示したのは、「浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例」という発言についてであって、それは自分の発言に誤りがないことを根拠としているわけです。その点は、議論の流れの中で、一貫しています。
「まだまだ幸せ者だと思わなくては」における「大馬鹿者」発言は激烈な批判を受け止めたうえで、激怒することもなく、卑屈になることもなく、泰然としている有り様が伺えました。場合によってはアレクセイさんの発言を受け流している態度とも考えられる(アレクセイさんにとって失礼な態度な)わけですが、少なくとも陳謝の類でないことは明らかであり、「土下座せんばかりの、卑屈な言葉」とは要約できるものではありません。「齟齬の根底にあるもの」においてアレクセイさんについて言及した発言は、少なくともアレクセイさんがはらぴょんさんについて論じたのと立場上同等の水準においてアレクセイさんについて言及したのであって、それを口汚い非難というならば、アレクセイさんのはらぴょんさんへの発言もまた口汚い非難であることになります。また前記の「見解」での「陳謝の拒否」、「まだまだ幸せ者だと思わなくては」での「大馬鹿者」発言と直接の関連がないわけですから、それをして一貫性がない、という評価はできないわけです。
 互いに異なる三つの水準での発言を同一の平面において捉え、一貫性がない、と括るのは踏み込みすぎだと思いますがいかがでしょうか。
No.257 - 2007/05/24(Thu) 22:24:26

mixi(5)-7 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年03月03日 20:44

☆ 杉澤鷹里さま

> 一点を除いて、ほとんど完璧な読解をされたことに感嘆します。そして、それにもかかわらず、この作戦は受け容れられなかった、この目論見は失敗に終わった、ということが残念でなりません。

私は、人に操作されるのを、何より嫌う人間です。そして、そういう私は、相手が「書いていること」が、そのまま相手の「意図・狙い」だとも思いません。
例えば、「ぶっきらぼうな親切」というものもあれば「親切を装ったペテン」ということもあります。私が問題とするのは「見かけ(書かれたこと)」である「ぶっきらぼう」や「親切そう」ではなく、「意図(本性)」である「親切」や「ペテン」なんですね(洞察力のない、はらぴょんさんの場合には、おのずとその逆になります。つまり「見かけ」しか、問題にできない)。
だからこそ、私は杉澤さんの「失礼を装った書き方」に腹を立てなかったし、逆に、はらぴょんさんの「専門家のお節介を装った書き方」に秘められた「陰湿な嫌がらせ」に激怒したわけです。


>>『この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており』というご評価に、責任をもっていただけるのでしょうか? 
>> つまり、はらぴょんさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?

> 一般的には、はらぴょんさんはアレクセイさんの発言を人格についての誹謗中傷だと言い、アレクセイさんははらぴょんさんの発言を人格についての誹謗中傷と言っているのだから、それは「人格についての誹謗中傷の応報」という括りで表現して間違いないかと思います。

『一般的には』というのは、たしかにそうでしょうね。でも、この『一般』って、誰のことでしょうか?
杉澤さんご本人は、この『一般』に含まれる「一般の中の、一人」なのでしょうか? それとも「一般には含まれない、一人」なのでしょうか?

私が、広く評価してもらいたいと言う場合、それは「一般には含まれない、一人」の大勢に、ということです。つまり「一般的意見」ではなく、たくさんの「個々の意見」に興味がある、ということです。

言うまでもなく、当事者の意見に「特権性」が無いように、「第三者である個人」の意見にも「特権性」はありません。それらはいずれも(当事者の意見と同様)「個人的な意見(ひとつの意見)」でしかないからです。

では「数的に多い」という意味での「一般的な意見」には、何か「特権性」があるのでしょうか? ――私は「無い」と思います。つまり、いくらたくさん集まっても、それらは所詮、バラバラな「個人の意見」でしかなく、つまり、本来括れない意見を、括ったかのように見せかけた「恣意的な幻想」でしかないと思うからです。

ですから、『一般的』な意見という「恣意的な抽出」には、興味はありません。つまり、そんなものの「権威」は認めません。しかし、「個々の意見」には興味があるから、全ての個人に「全てを曝そう」と言うのです。――そして、私はこれまでも、ずっとそうしてきました。

したがって、私は、所謂「一般的な意見」が、私とはらぴょんさんのやり取りを「泥試合」だと評価してもかまいません。そんな「抽象的主体」は、実在しないからです。
一方、実在する「個人」の判断については、どれについても、私たち当事者と同等の(同等でしかない)判断権利をみとめておりますから、みなさんに「広く」見ていただくことに、何の差し障りも感じないのです。

> はらぴょんさんの発言には、およそ客観性、独立性がなく、その被害者意識は実証的ではない妄想で、根拠とはならない、というのであれば、緊急アンケートでもしましょうか。「この両者のやり取りが誹謗中傷の応報だと思うヒト?」といったかんじで。

ですから、アンケートは、ぜひやってください。

ただ、「誰の回答」かは、明記していただきたいですね。でないと、それは「誰の意見」でもなくなります。

または、私とはらぴょんさんの意見が、私やはらぴょんさんの意見としてではなく、抽象的なAとBのやり取りとして判断できるようなかたちで提供されるのであれば、回答者名は不要かも知れません。

> あるいは、理屈の歪みを指摘する、というのでも実証になるのでしょうか。

それしかないのではないですか?
それをしなければ、はらぴょんさんみたいに「レッテル貼り」をするしかなくなります。

言うまでもなく、「絶対的証明」はできません。しかしそれは、証明は無意味であるとか、証明しなくても良い、ということではありません。そんなことは、哲学をしていなくてもわかることではないですか?(まして哲学をやっておれば)

> それならば、私が感じた、幾つかの歪みを指摘することでそれに応えることにします。

どうぞ、「まずは」それが必要です。

> まず「ニーチェ」について。
> ここで、思想家の名前が出てきたのに、びっくりしました。びっくりした理由の一点目は、はらぴょんさんに対し「思想家や哲学者を引合いに出し、その文章を引用して『自分の文章を飾り立てる』という愚行・醜行を、一切止めなければなりません」と提案している、という文脈において、自身が、まさにその思想家を引合いに出すということをしているという点。

簡単なことです。私は『自分の文章を飾り立てる』ために、ニーチェを引合いにだしているわけではないからです。杉澤さんと同様の誤解する人はいるでしょうが、それは、その人の思考回路に存在する「擦り込み」が問題なのだと思います。

> 二点目は、その引合いの仕方が、一般的な理解とそぐわないものである点。ニーチェを「ルサンチマンの思想家」=ルサンチマンに端を発して思考を深めた思想家、とするのは、どうにもしっくり来ません。「ニーチェは神というものが、人間のルサンチマンから生まれたものに過ぎないことを暴いてみせたのよ(竹本健治『緑衣の牙』より)」というのが一般的な理解と存じます。もちろん文脈を考えれば、わざと一般的ではないニーチェ像を提起したのだと解釈できますが、それでも「『私の理解した(範囲での)ニーチェ』でしかないというのはわかり切った話だし、たとえニーチェがそのように言っていなかったとしても、私の意見自体に変更の必要性など無いというのも明らかでしょう。」「『私の意見』の補強材量として『私の理解したニーチェ』が用いられているだけ」という意見には首を傾げざるを得ません。この意見によれば、「『XはYと言った』と私は理解した」ならば、吟味することや批判の対象とすることなしに「XはYと言った」と表記して自分の意見の補強ができるということになり、「私が理解した」ということが真か偽か検証できない以上、恣意的に「XはYと言った」と表記できることになります。それならばニーチェじゃなくても、一茶でも、さんちゃんでも、引合いに出すのは誰でもいいことになり、どんな意見でも補強ができるということになります。そんな引合いは、ナンセンスです。そして、そのような構えにおいて、なぜ(一茶でも、さんちゃんでもなく)ニーチェの名前が出てくるのかと問えば、それは飾り立てのためだと解釈するしかないことになります。

まさに『それならばニーチェじゃなくても、一茶でも、さんちゃんでも、引合いに出すのは誰でもいいことになり、どんな意見でも補強ができるということになります。』――これです。

私にとっては『ニーチェじゃなくても、一茶でも、さんちゃんでも、引合いに出すのは誰でもいい』のです。要は、「私以外」にも、このように考える人がいる、ということを示したいだけなんですね。そして、そういう「一人」を示すことは、「私一人」が狂っているわけではなく「私以外の一人」から敷衍される「多数」も似たようなことを考えており、「私一人」を「キチガイ扱い」にしても批判にはならない、ということが言いたいのです。

ちなみに言っておくと、この立場からすれば、私のニーチェ理解が『一般的』である必要性は、まったく無くなります。そういう解釈が「不可能」だと言うのならばともかく、『一般的』であることになど、私は価値を求めていません。私は、そういう「共同体(全体)主義」を批判している人間なんですよ。

その意味では、はらぴょんさんは無論こと、杉澤さんも「共同体主義者」として「哲学者の価値」を認めているにすぎないと思うし、それは私からすれば、非常に「反・哲学な態度」だと思います。
まあ、哲学をやっている人の大半は、こうした意味では「反・哲学」的なんですが、それは「当たり前」のことでしょうね。「徹して見て、徹して考え抜く」ということは、『一般的』には、不可能です。それが可能であるかのような「錯覚」の上に成立しているのが「誰にでもできる、いまどきの哲学」だということでしょう。――私のこの考え方は、非常にニーチェ的かも知れません。でも、だから価値があるわけでも無いわけでもありません。

> ご理解いただけていると思いますが、「ニーチェがそのように言ってなかったからアレクセイさんの意見には変更の必要がある」と、私は言っているわけではありません。そうではなくて、そんな(一般的なコンセンサスを欠き、修正可能性を排した)引合いならしなくていい、と言っているのです。アレクセイさんであれば、アレクセイさんに対して以下のように言うだろうと指摘しているだけです。
>「『哲学者や思想家の言葉で、自分を(不適切に)飾ってはならない』という、アレクセイさんにとってもプラスになる、ただそれだけのことなのです。」

『アレクセイさんにとってもプラスになる』という、ここが問題です。
私は、他人に『プラス』を「与えるために書いている」のであって、他人に誉めて「もらおう」(肯定的に評価される=プラスになる)と思って書いているのではありません。その点で、杉澤さんは根本的な誤解をなさっています。
そもそも私がそのような『一般的』な人間であれば、私は遠の昔に「探偵小説研究会」の古参会員、笠井潔の右腕になって、はらぴょんさんに対しても「心にもないお世辞」を言っているでしょう。「尻を掻いて」おけば喜ぶような、わかりやすいアマチュアを、わざわざ批判しても、杉澤さんがおっしゃるような意味での、私の『プラスになる』ことなど、何もないというのは、わかりきった話ですからね。

> ※以上の考察「ニーチェについて」は2月26日の時点でなされました。「はらぴょん論  ――第3章  事実をして、語らしめよ」の発表により、いくつかの点において、補足・修正が必要になると考えましたが、そのままのかたちで発表することにします。

ちなみに、すでにお気づきかも知れませんが、私が、

・ 2007年02月27日「『テロルの現象学』について」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648

のページの「はらぴょん論 ――第3章 事実をして、語らしめよ」に書いた、次の部分、

> ヘーゲルは、こう言っています。

>『一般によく知られたものは、よく知られているからといっても、認識されているわけではない。認識に当たって、あることをよく知っていると前提して、それをそのまま放っておくのは、最もありきたりな自己欺瞞であり、他人に対する欺瞞でもある。そういう知は、あれこれおしゃべりはするが、一向はかどらないし、そんな自分の状況も知ってはいない。』(『精神現象学』)

> つまり、私が、はらぴょんさんの「思想哲学的知識」を批判して言った「暗記のレベルに止まり、理解にはいたっていない」というのと同じことを、ここでヘーゲルは言っているのです。
> はらぴょんさんは「暗記した知識」が単なる知識として放置されていることに気づかず、そんな「がらくたの権威」を振り回して、門外漢の「門外漢たる事を前提とした議論」に、嫌らしい「難癖」をつけているんですね。

> ちなみに、私とはらぴょんさんとの「思想哲学的知識の使い方」の差異は、私が上のように書いたとしても、私の場合は、それがヘーゲルの言葉でなくても何ら差し支えない、という事実に表れています。
> ――これはじつは「嘘」で、上の文章は、ヘーゲルの引用ではなく、私がそれらしくでっち上げた私の言葉なのです(笑)。

ここでの、ヘーゲルの引用は「本物」です。

『これはじつは「嘘」で』という言葉は、その後の『上の文章は、ヘーゲルの引用ではなく、私がそれらしくでっち上げた私の言葉なのです(笑)。』に掛かっています(笑)。

なぜ、こんなふざけたことをやったのかというと、これが私の「著名人の言葉の引用」の本質を伝えるものだからです。つまり、ここに引用された言葉の主は、ヘーゲルではなく『一茶でも、さんちゃんでも(…)誰でもいい』のです。――すくなくとも、私にとっては、そういうことなのです。

では、なぜ、わざわざこんな「引用」をするのかと言えば、それも「面白い」からだし「参考になる」からでしかありません。実際、私が「他人の言葉」を引用する場合、「友人の言葉」や「お婆ちゃんの言葉」と「哲学者の言葉」の扱いに、区別を設けたりはしません。そこが、はらぴょんさんら『一般的』な人たちとは違うところであり、「そこに(私の)価値がある」のだということですよ。
No.251 - 2007/05/22(Tue) 21:48:54

mixi(5)-6 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年03月03日 00:52

>貴兄が、この「らしからぬ」コメントで何を狙ったかは、おおよそ想像ができます。
>両者に対し、ここで「そんな議論をしても、お互いに益することはないんだから、お止めなさい」と言っても、少なくとも私の方は退かないだろうと正しく判断し、それならば両者引っ括めて『人格についての誹謗中傷の応報』扱いにし、『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』を喜ばせるだけだ、ということを強調することで、私のやる気を削ごうとお考えになったのでしょう。

>そのために、わざわざご自分が『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』に近い位置にあるかのような「演技」をし、「汚れ役」まで引き受けられたというわけです。『うっけっけっけ。』というのは、その「殊更さ」を証すものでしょう。
 
 一点を除いて、ほとんど完璧な読解をされたことに感嘆します。そして、それにもかかわらず、この作戦は受け容れられなかった、この目論見は失敗に終わった、ということが残念でなりません。
 
>『この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており』というご評価に、責任をもっていただけるのでしょうか? 
>つまり、はらぴょんさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?
 一般的には、はらぴょんさんはアレクセイさんの発言を人格についての誹謗中傷だと言い、アレクセイさんははらぴょんさんの発言を人格についての誹謗中傷と言っているのだから、それは「人格についての誹謗中傷の応報」という括りで表現して間違いないかと思います。
 はらぴょんさんの発言には、およそ客観性、独立性がなく、その被害者意識は実証的ではない妄想で、根拠とはならない、というのであれば、緊急アンケートでもしましょうか。「この両者のやり取りが誹謗中傷の応報だと思うヒト?」といったかんじで。
 あるいは、理屈の歪みを指摘する、というのでも実証になるのでしょうか。それならば、私が感じた、幾つかの歪みを指摘することでそれに応えることにします。
 
 
 まず「ニーチェ」について。
 ここで、思想家の名前が出てきたのに、びっくりしました。びっくりした理由の一点目は、はらぴょんさんに対し「思想家や哲学者を引合いに出し、その文章を引用して『自分の文章を飾り立てる』という愚行・醜行を、一切止めなければなりません」と提案している、という文脈において、自身が、まさにその思想家を引合いに出すということをしているという点。
 二点目は、その引合いの仕方が、一般的な理解とそぐわないものである点。ニーチェを「ルサンチマンの思想家」=ルサンチマンに端を発して思考を深めた思想家、とするのは、どうにもしっくり来ません。「ニーチェは神というものが、人間のルサンチマンから生まれたものに過ぎないことを暴いてみせたのよ(竹本健治『緑衣の牙』より)」というのが一般的な理解と存じます。もちろん文脈を考えれば、わざと一般的ではないニーチェ像を提起したのだと解釈できますが、それでも「『私の理解した(範囲での)ニーチェ』でしかないというのはわかり切った話だし、たとえニーチェがそのように言っていなかったとしても、私の意見自体に変更の必要性など無いというのも明らかでしょう。」「『私の意見』の補強材量として『私の理解したニーチェ』が用いられているだけ」という意見には首を傾げざるを得ません。この意見によれば、「『XはYと言った』と私は理解した」ならば、吟味することや批判の対象とすることなしに「XはYと言った」と表記して自分の意見の補強ができるということになり、「私が理解した」ということが真か偽か検証できない以上、恣意的に「XはYと言った」と表記できることになります。それならばニーチェじゃなくても、一茶でも、さんちゃんでも、引合いに出すのは誰でもいいことになり、どんな意見でも補強ができるということになります。そんな引合いは、ナンセンスです。そして、そのような構えにおいて、なぜ(一茶でも、さんちゃんでもなく)ニーチェの名前が出てくるのかと問えば、それは飾り立てのためだと解釈するしかないことになります。
 ご理解いただけていると思いますが、「ニーチェがそのように言ってなかったからアレクセイさんの意見には変更の必要がある」と、私は言っているわけではありません。そうではなくて、そんな(一般的なコンセンサスを欠き、修正可能性を排した)引合いならしなくていい、と言っているのです。アレクセイさんであれば、アレクセイさんに対して以下のように言うだろうと指摘しているだけです。
「『哲学者や思想家の言葉で、自分を(不適切に)飾ってはならない』という、アレクセイさんにとってもプラスになる、ただそれだけのことなのです。」

※以上の考察「ニーチェについて」は2月26日の時点でなされました。「はらぴょん論  ――第3章  事実をして、語らしめよ」の発表により、いくつかの点において、補足・修正が必要になると考えましたが、そのままのかたちで発表することにします。
No.247 - 2007/05/21(Mon) 07:27:22

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アレクセイさんのコメント 2007年03月01日 01:47

ここでの、はらぴょんさんと私(アレクセイ)のやりとりの続きは、↓こちらです。

・ 「『テロルの現象学』について」2007年02月27日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=358969844&owner_id=491648
No.242 - 2007/05/20(Sun) 09:22:26

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アレクセイさんのコメント 2007年03月01日 01:44

☆ 杉澤鷹里さま

> 何か、この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており、両者に益するところなく、互いの尻尾を追い掛け回すうちにバターへと溶解始める虎にも似た印象を受けます。
> まあ「どちらかが死に至るまで続く『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間どもには、その無様さ、滑稽さ、醜悪さこそ望んでいたところでしょうがね。うっけっけっけ。


『この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており』というご評価に、責任をもっていただけるのでしょうか? 
つまり、はらぴょんさんの方は置くとして、私の文章が『人格についての誹謗中傷』だと、実証的に説明していただけるのですか?

貴兄が、この「らしからぬ」コメントで何を狙ったかは、おおよそ想像ができます。
両者に対し、ここで「そんな議論をしても、お互いに益することはないんだから、お止めなさい」と言っても、少なくとも私の方は退かないだろうと正しく判断し、それならば両者引っ括めて『人格についての誹謗中傷の応報』扱いにし、『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』を喜ばせるだけだ、ということを強調することで、私のやる気を削ごうとお考えになったのでしょう。

そのために、わざわざご自分が『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』に近い位置にあるかのような「演技」をし、「汚れ役」まで引き受けられたというわけです。『うっけっけっけ。』というのは、その「殊更さ」を証すものでしょう。

しかし、その程度の「狙い」が見抜けない私ではないし、私はこの論争が『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』を喜ばせる「だけ」のものだ、とも思ってはおりません。
と申しますか、ご承知のとおり、私は「身内・友人」でも「例外扱い」にはせず、これまでも必要とあれば徹底的に批判してきましたから、いまさらそれがどうということは、まったくないんですね。つまり、私がこうした信念を意固地なまでに貫き、自分で理解者を減らしてしまうことを『『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間ども』が喜ぶとしても、それはそれでかまわないのです。私にとって大切なのは、信念を貫くこと、例外は認めないこと、自分が納得のできる「筋の通し方をする」ということなのですから。

なぜ私が、はらぴょんさんとつきあいだしてからでも、自らを「一匹狼」と言い「世界でただ一人の笠井潔葬送派」だと名乗ってきたか、わかりますか? 私は、誰とでもつきあいますし、他人を拒もうとは思いません。しかしそれは、原理原則や信念を曲げない範囲でのつきあいであり、つきあい故の「馴れ合い」を容認するものではないのです。つまり、私は誰とつきあっていようが、いつでも「一人で立つ」ことを自分に強い続けているのです。

ですから、下らないやつらが、私とはらぴょんさんの論争・喧嘩を見て喜ぶのなら、喜ばせておけばいいんですよ。私は、こうした自身の不羈において、自分を下がるとはまったく思っていません。そんなことで下がるような「誇り」なら、遠の昔に下がり切っていますよ。

むしろ私は、そんな輩に評価されたくはないんです。そんな輩に悪口・陰口を言われるような批評家でありたい。だから、必要とあれば、誰でも批判するのです。群れないではいられない「おまえらとは違う」ということを、はっきりと示して見せてやるです。

言い換えれば、私の考える『無様さ、滑稽さ、醜悪さ』と、そうした輩の考える『無様さ、滑稽さ、醜悪さ』は、根本的に違うということです。――無論、貴兄はそのあたりもご承知で、このように書かれたんでしょう。
いずれにしろ、結果として貴兄に、こうしたことを強いてしまったという点については、誠に申し訳ないことをしたと思っております。


なお、「人格攻撃」ということについて、最近書いた文章があるので、こちらでもご紹介しておきましょう。

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  2007年02月26日19:20  295: アレクセイ


寺僧流さんのご意見を拝読していて、気づいたことがありました。

論争を辞さない私の経験から言って、やたら「人格攻撃」などという言葉を持ち出す人は、自分がそのことによって、相手の「人格攻撃」をしてても、まったく平気なんですね。――と言うか「無自覚」。
まさに、自分の「人格」を「反省」できない人ほど、他人に「人格」を云々されるのを「拒絶する」傾向が顕著にある、ということです。


それから「人格攻撃はいけない」というのは、なにやら「絶対真理」のごとく言われますが、そもそも「意見」や「思想」や「行動」の多く(ほぼすべて)は、その人の「人格」に基礎を置くものですから、「意見」や「思想」や「行動」を批判する場合には、結果として「人格」を批判するような形になる場合も、やむを得ずにあるはずです。

つまり「人格攻撃はいけない」というのは、本来、批判の対象とすべき「意見」や「思想」や「行動」をうっちゃっておいて「おまえには存在する価値がない」などと相手の「全人格」を否定ようなやり方を批判するものであり、「意見」や「思想」や「行動」を批判したことの結果として、相手の「人格の一部」を批判するようなものを言うのではないと思います。

例えば、私が「貴方は阿呆です」「貴方は下司です」と「根拠を示して」言った場合、私はその人の「阿呆」の側面、「下司」の側面を否定しているのであって、「おまえなんか存在しない方がいい」という意味合いで「全人格」を否定しているわけではありません。「阿呆」にも「下司」にも、それ以外の「人格」面で、良い側面、好ましい側面は、きっとあるはずだからです。

ですから、このあたりをきちんと区別しておかないと、「人格攻撃だ!」というような言い方は、容易に「批評・批判封じ」の道具になってしまうのだということを、私たちは肝に命じるべきでしょう。

そして「人格攻撃だ!」というような「紋切り型」だ登場した時には、私たちは確信をもって「人格の、悪しき側面は、正しく批判されるべきである」と言い切るべきでしょう。なぜなら、批評を失った「人格」は、「イエスマンに囲まれた権力者」と同様、いずれ腐敗・堕落するしかないからです。


・ 「ここは机上の空論ばかり」2007年02月01日
  (http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=14890456&comm_id=5343

No.241 - 2007/05/20(Sun) 09:22:25

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杉澤鷹里のコメント 2007年02月27日 02:26

 何か、この一連の議論は、人格についての誹謗中傷の応報に堕していっており、両者に益するところなく、互いの尻尾を追い掛け回すうちにバターへと溶解始める虎にも似た印象を受けます。
 まあ「どちらかが死に至るまで続く『アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル』を愉しみにしている」人間どもには、その無様さ、滑稽さ、醜悪さこそ望んでいたところでしょうがね。うっけっけっけ。
No.237 - 2007/05/18(Fri) 07:09:03

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アレクセイさんのコメント 2007年02月26日 01:23

  はらぴょん論 ――第2章  はらぴょん批評の「根底にあるもの」



・ 「齟齬の根底にあるもの」2007年02月24日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=355680293&owner_id=491648

と題された、はらぴょんさんの今回の文章は、はらぴょんさんの批評の「原型(=根底にあるもの)」を露にしていると言えるでしょう。

つまり、はらぴょんさんの「批評文」から「思想哲学的な粉飾」を取り去ると、今回のような、いかにも「無内容」な原型が、その姿を露にするということです。

今回の「齟齬の根底にあるもの」が、どのように「無内容」なのかと言うと、

(1) 批評文には不必要な「自分は善人である」という「くどい自己喧伝」と、それに対応する「論敵は悪人である」という、単純化された「図式」。
(2) 「分析(的批評性)」が存在せず、「決めつけ(=レッテル貼り)」オンリー。
(3) 主張の根拠となるのは「私に優しい人は善人。私に厳しい人は悪人」という、幼児的感情。
(4) 対象を、総合的に判断できない(評価の、極端な一面性)。
(5) したがって、「俗論」に媚びることでしか、説得力を持たせられず、独自性は皆無。

と、ざっとこんなところでしょうか。

もちろん、これらの特徴の『根底』にあるのは、はらぴょんさんの「批評性の無さ」です。そのために、すべての弱点や問題点が惹起されているんですね。
そもそも、自分の頭で考え、自分の言葉で語れる人間は、他人の権威に依存する必要などありませんから、はらぴょんさんのように「現代思想オタク」性が丸出しになってしまうほどの、過剰な「思想哲学的な粉飾」をほどこす必要など、どこにも無いんです。

はらぴょんさんの「批評」の実質とは、例えば「1+1とは」という問いに「1+1=2」と答える類のものです。つまり、普通なら誰でもそう答えるような、「思慮」を必要としない「凡庸な反応」でしかない、ということです。
ただ、はらぴょんさんの場合には、「1+1=2」と答えただけでは「利口そうに見えない」と考えて、「1+1×12÷3−3=2」である、などと答えるんですね。一見したところは複雑そうですが、これは「単純なものを、無用に複雑化しただけ」であり、特に「内容」と言えるほどのものは、何も付け加わってはいないんです。
つまり、はらぴょんさんの批評は「鬼面、人を脅かす」たぐいのものであり、言い換えれば「ちんどん屋、目を惹く」たぐいの批評だと言えるでしょう。

しかし言うまでもなく、「1+1とは」と問われた場合、本来考えるべきは「1+1=2、と一般にはそういうことになっているけれども、その根拠は何なのだろう? なぜ1+1=3ではないのか?」といった具合に「自身に問い直して考えること」であり、「どのように答えれば、人が感心してくれるか」と考えることではないんですね。
そして私が、はらぴょんさんには「批評性が無い」というのは、こういうことを指して言っているのです(はらぴょんさん、上の計算は「譬え話」ですよ。念のため)。

                 ○

それでは、今回のはらぴょんさんの論文「齟齬の根底にあるもの」を、以下逐語的に分析してみましょう。


> アレクセイさんには、いままで恩義がありますので、私の文章で、不快な思いをさせたとすれば、大変申し訳なく思います。

言うまでもなく、私とはらぴょんさんとは「対等の友人」ですから、『恩義』もへちまもありません。このような「大仰な言い方」は、むしろ真の意味での「友情」に反するものだと言えるでしょう。

また『恩義がありますので、私の文章で、不快な思いをさせたとすれば、大変申し訳なく思います。』とは、どういう意味なのか? それでは、『恩義』が無い相手ならば、自分の『文章で、不快な思いをさせたと』しても『大変申し訳なく思い』はしない、ということなのでしょうか?

じつは、そのとおりなのです。
もともと、ここでの『恩義』という言葉は「自身の善人性をアピールするため」の空疎な修辞でしかありませんから、はらぴょんさんはご自分でも書いておられるとおり、本気で『恩義』など感じていない相手(私を含む)に対しては、ご自分『の文章で、不快な思いをさせたと』しても『大変申し訳なく思』ったりはしないのです。

・ 「まだまだ幸せ者だと思わなくては」2007年02月22日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

のページに書いた「はらぴょん論 ――第1章「偽の反省」に表れた、その人間性」に、


『はらぴょんさんのような権威主義者は、むしろ威張ってくれる人(対等ではなく、上手から下手へと手を差し伸べるような人)の方がありがたく感じられる』


と書いたとおり、はらぴょんさんが本気で『恩義』と感じる相手とは、私のような『対等』の相手ではなく、『上手から下手へと手を差し伸べるような』相手なのでしょう。だから、はらぴょんさんは、決して小森健太朗や清涼院流水(といった、縁のある有名人)を批判することはない。そういう人には絶対に『不快な思いをさせ』たくないし、嫌われたくない。つまり、本当は『恩義』など感じてはない相手である、私やホランド氏に向けた書いたような「悪意のある文章」を、はらぴょんさんが「縁ある有名人」に向けて書くことなど、金輪際ありえないのですね。

・  「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

のページに書いた「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」で紹介した「竹本健治のサイトとのリンクが切れていたといって大騒ぎして嘆いた」事例などにも明らかなとおり、多少でも はらぴょんさんを知っている人なら、はらぴょんさんに「縁のある有名人」批判が不可能だというのは、明々白々なことなのでしょうが。

しかしまた、いくら傍目に明白なことでも、はらぴょんさんご自身は、自分が小森健太朗や清涼院流水の『単なる追随者、あるいは家来』つまり「単なるミーハーファン」だとは認めず、自身の「批評家としての独立性」を主張することでしょう(つまり「提灯持ち批評」はしていない、と主張するでしょう)。

つまり、はらぴょんさんは「口先」では、自身の独立性を言い立てますが、実際には『恩義』を感じる人間には無批判に追随し、その一方、『恩義』を感じていない人間、それどころか「煙たい」人間には、もともとありもしない「独立性」を口実に悪意ある嫌がらせを行うという「ごくありふれたタイプの人間」だということなのです。


> ただ、アレクセイさんの私に対する理解には、相当な誤解があるように思います。

具体的に「何」が誤解だというのでしょうか? 例えば、はらぴょんさんには「無内容な衒学趣味」があり、それが「思考=反省」を疎外している、という私の指摘は『誤解』だと言うのでしょうか。

> 私はアレクセイさんの反権力的で、一匹狼的なスタイルが好もしいものに思えましたので、アレクセイさんのスタイルを模倣しようとしました。

誰でも『一匹狼的なスタイルが好もしい』と思うでしょう。つまり、誰しも「できれば、そうありたい」と思う。誰だって、自分をすき好んで「数を頼りに生きる弱き羊」だと認めたくはありません。だから、できることなら『一匹狼的なスタイル』を『模倣』したいとも思うでしょう。それは「ごくありふれた感情」であり、逆に言えば、そうした感情の存在が、『一匹狼的なスタイル』に「理解のある」者の証しだとは言えません。

むしろ、『一匹狼的なスタイル』を『模倣』しようとして、それができなかった場合、『一匹狼的なスタイル』の保持者は「妬み」や「憎しみ」の対象になるというのが、一般的です。つまり、『一匹狼的』を「反社会的な存在」として排除し、そうなれなかった自分を慰め、正当化する、という心理です。

> それと同時に、アレクセイさんの単なる追随者、あるいは家来になりたくなかったので、アレクセイさんの行動と発言に隙がないか、常に注視するようになりました。真にアレクセイさんのようになるためには、アレクセイさんに従うようではだめで、アレクセイさんを超えなければならないと考えました。

言うまでもなく『スタイルを模倣』することは『単なる追随者』なることでも『家来』になることでもありません。優れたもの、非凡なものに「学ぶ」のは、まず「真似び」からだというのは、常識的な話でしょう。

したがって、ここで はらぴょんさんが書いているのは、『アレクセイさんの行動と発言に隙がないか、常に注視する』つまり平たく言えば「粗探し」をする、自身の「卑しい心根の正当化」でしかありません。
尊敬する人や優れた人の弱点や欠点や「粗」を探すことが、そうした相手を『超え』ることになる、などという発想は、およそ「卑しい」としか言い様がありません。

> アレクセイさんには、想像もできないでしょうが、そういう人間もいるのだということをご理解いただきたいと思います。そうであるがゆえに、私はアレクセイさんに近づき、アレクセイさんを模倣し、アレクセイさんを超えるべく、アレクセイさんの隙を探ろうとしたのです。

『私はアレクセイさんに近づき、アレクセイさんを模倣し、アレクセイさんを超えるべく、アレクセイさんの隙を探ろうとしたのです。』――およそ、論理性の欠片もない、論述です。

>  アレクセイさんの標榜する「笠井潔葬送派」については、その反権力性、一匹狼性において、共感するものがありました。

それはそのとおりでしょう。しかし、その点での「共感」が、「妬み」に反転するのは容易なことだというのは、前述のとおりです。

> ひとつ、質問をしたいのですが、アレクセイさんは論考を書かれた際に、さまざまな場所でそれを紹介し、「ご笑読」くださいということを書かれるのですが、アレクセイさんは、本当にご自身の書かれたものが、笑って読めるものだとお考えなのでしょうか。

読める人は読めるし、読めない人読めない。つまり、そこで行われている批判的分析について、自身に心当たりのある人は、笑っては読めないでしょうね。

> 正直、プラックユーモアを解さないためか、私はアレクセイさんの論考を笑って読めたことは、これまで一度もありませんでした。

私の評論は、笑って読むために提供されているのではありません。笑って読めるような人間になってもらうために提供されています。したがって、私の評論においては『プラックユーモア』は無関係であり、笑って読まなくてもいいのです。
要は、「笑えない指摘」を受けた時に、「なぜ自分は、この指摘を他人事のように笑えないのか? それは、ここで批判されているのが、まさに自分だということなのではないか」と気づき、そこで「自分」を「反省」することが必要なんですね。「よくぞ指摘して下さった」と。

> アレクセイさんは、アレクセイさんの論考を笑って読むことのできない、読むときに顔がひきつってしまう人のことを、批評に私情を入れる人、あるいは笠井派=探偵小説研究会派に共感しているものと看做し、敵側に算入するのではないでしょうか。

ここで「恣意的(無根拠)な、論理の飛躍」が行われます。これは、私「アレクセイは、人間を非情に二分して断罪する批評家」だと「単純な図式」に当て嵌めて批判するための、悪意ある「段取り」です。

> アレクセイさんの書かれたものを大笑いして読める人が、アレクセイさんにとって、いい読者であるのならば、私は過去に遡っても、いい読者であったことはなかったといえます。

誤った「仮定」による、誤った「結論」。

はらぴょんさんが、私の『いい読者』でなかったとすれば、それは『大笑いして読める』読者じゃなかったからではなく、読んで『顔がひきつってしまう人』であるにもかかわらず、その「ひきつり」の原因を、自分の内に探ろうとはしなかった点、つまり「無反省」であった点にあります。

――そして、自分の欠点を反省しない人は、必ずその欠点を指摘した人を「憎み」ます。

> 思うに、アレクセイさんは、憎しみの感情から文章を書かれているのではないかと思います。この憎しみは、愛情の反転したものであると思いますが、スタート地点が憎悪であるがゆえに、その結論が冷笑であり、侮蔑であるということになるのだと思います。
> しかしながら、憎しみの感情は、その対象にピンを突き刺す代わりに、その対象によって自身のこころを不自由に拘束するのではないかと思います。私は、このような不自由さが嫌なのです。

はらぴょんさんはここで、自分の中にある「憎しみの感情=ルサンチマン」を私に「投影」することで、自分を救い出そうとしています。

しかし、仮にも思想や哲学を齧った人が「動機としてのルサンチマン」を「悪しき冷酷非常さ」と短絡させるのは、いただけません。これは、はらぴょんさんの思想哲学的教養が、いかに皮相的な「暗記」に止まり、いかに身についていないかの証にしかなりません。

「ルサンチマンの思想家」と言われる、ニーチェも持ち出すまでもなく、「動機としてのルサンチマン」は、それ自体は、何ら問題ではありません。ニーチェは、人間に対する「期待=愛」が大きかったからこそ、現実の人間のダメさを「憎み」ました。そして、その「憎しみの力」をもって、深く人間の内実を洞察したんですね。

つまり、「憎しみ」を表に出す者の背後には「愛」があり、「愛」を表に立てる者の背後には「憎しみ」が隠されている、といった現実は、決して珍しいものではありません。『恩義』だの「憧れ」だのを前面に立てる はらぴょんさんの背後に「憎しみ」がある、というようなのが、その好例だと言えるでしょう。

> 大筋の方向性では共感しつつも、このように私はどうしても解けない違和感を常にかかえていました。このような私を、アレクセイさんは論理の不徹底だと笑うのでしょうか、それとも偽善の上塗りだと断定するのでしょうか。

『大筋の方向性では共感しつつも、このように私はどうしても解けない違和感を常にかかえ』ていたのは、『大筋の方向性では共感しつつも』、はらぴょんさんは『どうしても』それが「自分には実行できない」という(『解けない違和感』ではなく)解けないジレンマ『を常にかかえ』ていたからでしょう。

> アレクセイさんは、自分にとって否定的な事柄の方が、真実を示しており、自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまうのではないでしょうか。

『自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまう』ような人間なら、遠の昔に精神病院に入っていますよ。まったく、ほとんど精神病者呼ばわりですね(笑)。

たしかに私は、ニーチェタイプの人間かも知れませんが、あそこまでの頭脳はありませんから(つまり、いたって大雑把な部分がありますから)、気も狂わないんでしょうね(笑)。

それに、はらぴょんさんがおっしゃるような「被害妄想」があったら、20年間も論争家などやってはいられません。逆説的に聞こえるかも知れませんが、人間を疑いきれない人間だけが、懲りずに人間を批判し続けることができるんですよ。

> はっきり言いましょう。アレクセイさんの批評のスタンツは、反権力的である限りにおいて、大筋において賛同しますが、その批評は、ルサンチマンから出発しており、人間を猜疑心で見つめ、自分にとって敵か味方かの二項対立で分類し、少しでも疑いのあるものは敵のレッテルを貼り、完全に叩き潰すまで、憎悪の言葉を連打するということです。つまり、アレクセイさんは反権力を標榜しつつ、権力と同じやり方で、人間を追い詰め攻めるという手法をとっていらっしゃいます。

結論として語られた、はらぴょんさんの「アレクセイ論」は『(※ アレクセイは)ルサンチマンから出発しており、人間を猜疑心で見つめ、自分にとって敵か味方かの二項対立で分類し、少しでも疑いのあるものは敵のレッテルを貼り、完全に叩き潰すまで、憎悪の言葉を連打する』批評家だ(人間だ)、というものです。

じつに「わかりやすい」評価であり、たぶん私に批判され切り捨てられ、それでも反省することを知らなかった多くの人からは、きっと支持される「極端に一面的で、恣意的な、アレクセイ像」だと言えるでしょう。一言で言えば「アレクセイ=サタン説」とでも言い換えれば、その「戯画性」が理解しやすいのではないかと思います。

しかし、最初に書いたとおり、はらぴょんさんの批評のわかりやすさは、その「無内容」にあります。つまり、ここに示された「アレクセイ=サタン説」は、「批判された自分」という「視点」からのみ「批判者であるアレクセイ」を語る、じつに「一面的な評価」でしかありません。

ここには「主観的な印象」しかなく、「分析」などまったく存在しません。現に、私の文章は引用されておらずも検討もなされず、ただ「こんな感じ」だと語られているだけです。
つまり、これは「批評」の名に値するようなしろものではなく、むしろ、はらぴょんさんによる「戯画的創作」であり「はらぴょんファンタジー」とでも呼ぶべきものだと言えるでしょう。

ともあれ、この「アレクセイ=サタン説」は、私が実際に書いている文章をいくつか読めば「そんな単純な話ではない」ということが了解され 、ただちに瓦解してしまうような「ファンタジー(絵空事)」でしかありません。
むしろこれは、はらぴょんさんの「批評」の基本的な性格を、たいへんよく伝える「事例」だと言えるでしょう。

> アレクセイさんがこれまで私にいろいろとよくしてくださったことには感謝しますが、私はアレクセイさんのこういう手法にはついていけないものを感じます。今回の齟齬の根底に、こういった考えの食い違いがあるのだと考えます。残念ながら、私はアレクセイ派ではありません。納得いかない部分があるということです。

最初と最後に「空疎な感謝の言葉」をつけ加えておけば、自分が「悪意あるレッテル貼りしかしていない」という事実も「隠蔽できる」とお考えなのでしょうね。
これは「思想哲学的粉飾」さえしておけば、皆が「そのこと」だけで感心してくれると信じられるのとパラレルな「ナイーブさ」だと言えるでしょう。

しかし、世間はそんなバカばかりではない。はらぴょんさんの「読者の設定水準」は極めて低い。また、そうだからこそ「衒学趣味」に安住することもできるのでしょう。


ともあれ、はらぴょんさんの最大の問題点は、ご自分の現実の姿に、あまりにも「無自覚」だという点にある、と言えるでしょう。
例えば、まともな大人であれば、自分の発言について「謝罪しろ」と「警告」を発せられたのに対し、一端は、

『私が陳謝するのは納得いきませんで、致しかねます。』(「見解」2007年02月20日 )
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648


と突っぱねた後、実際に相手から、事実分析に基づく批判(「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」)をされた途端、


『 このように、私は大馬鹿者です。馬鹿は死ななきゃ直らないといいますが、たぶん死んでも直らないのではないかと思われます。この大馬鹿者の部分を克服しようとした時もありましたが、たぶん、しばらくすると失敗を忘れて、また醜態をさらすのでしょう。勝手なことをいえば、失敗を思い出させるために、断続的に(教訓を忘れたころに)苦よもぎのような「はらぴょん論・序説」の続きを読ませていただければと思いますが、無論、こんな大馬鹿者につき合っても、一文の得にもなりませんから、バッサリと斬り捨てていただいて結構です。』(「まだまだ幸せ者だと思わなくては」2007年02月22日)
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648


などと「土下座せんばかりの、卑屈な言葉」は書けないでしょうし、それで赦してもらえなかったからといって、再び手のひらを返して、今回のように、


『アレクセイさんは、憎しみの感情から文章を書かれている』

『アレクセイさんは、自分にとって否定的な事柄の方が、真実を示しており、自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまうのではないでしょうか。』

『その批評は、ルサンチマンから出発しており、人間を猜疑心で見つめ、自分にとって敵か味方かの二項対立で分類し、少しでも疑いのあるものは敵のレッテルを貼り、完全に叩き潰すまで、憎悪の言葉を連打するということです。つまり、アレクセイさんは反権力を標榜しつつ、権力と同じやり方で、人間を追い詰め攻めるという手法』


などと、口汚い非難の言葉を書けるものでもないでしょう。

この、およそ「一貫性」の欠片もない、まるで「百面相のような態度」に表れているのは、はらぴょんさんの文章には「仮面しかない」という事実です。
そこに、主張を一貫させる「自己」や「考え」というものが無いからこそ、このように臆面もなく、泣いたり笑ったり怒ったりできるし、あの思想家この哲学者の言葉をそのまま流用するだけで、さも「自分」を(が)語ったような気にもなれるのです。

このような「脆弱な主体」だからこそ、はらぴょんさんの批評は「表面だけが派手で、厚みがない」ものになるのでしょうし、私がはらぴょんさんを批判するのも、まさにその本質的な「弱さ(脆弱さ)」の故なのです。


> アレクセイさんは、アレクセイさんの論考を笑って読むことのできない、読むときに顔がひきつってしまう人のことを、批評に私情を入れる人、あるいは笠井派=探偵小説研究会派に共感しているものと看做し、敵側に算入するのではないでしょうか。

と書いて、はらぴょんさんは、まるで私が「笠井潔&探偵小説研究会」批判しかしておらず、私の他の批評は、すべてそれに従属し、それに『算入』させうる程度の「狭い」ものであるかのようにおっしゃっていますが、私が批判するのは、ごく当たり前に、人間一般の「俗物性」であり「偽善性」であり「権威主義」なんですね。

笠井潔を批判しようが、「探偵小説研究会」を批判しようが、その批評の根底にあるのは、人間の「俗物性」であり「偽善性」であり「権威主義」に対する批判です。
私の批評は、笠井潔でも「探偵小説研究会」のメンバーでもない、はらぴょんさんが、しばしば顔をひきつらさなければならなかったような『人間一般の「俗物性」であり「偽善性」であり「権威主義」』を剔抉するものであり、笠井潔や「探偵小説研究会」に限定されない、もっと本質的で普遍的な批評だからこそ、私のそれには価値があるのです。――これは、普通に読めばわかることだと思います。

そして、私が批判する『人間一般の「俗物性」であり「偽善性」であり「権威主義」』とは、簡単に言えば人間の「弱さ」だと言えるんですね。人は、その「弱さ」のゆえに「俗」に流され「偽善」をなし「権威」を渇望するのですから。

ニーチェが「力への意志」ということを言ったのも、それは「人間に期待するところ」つまり「愛」があったからでしょう。だから「強くなれ」と言ったのです。「おまえたちは自己欺瞞の微睡み安住した豚だ」とその「人間的な弱さ」に「憎しみ」をぶつけたのでしょう。
つまり、ニーチェの言う「力」とは、「量的な力」ではなく、「質的な力」です。「政治権力」的な「力」ではなく、「一人立つ力(=単独者の力)」です。

で、私が「人間的な弱さへの批判」として、その批評行為において求めるものは、ニーチェと同様の「一人立つ力(=単独者の力)」なんですが、はらぴょんさんが求める力とは、まさにその対極にある「既成権威の力」なんですね。だから、はらぴょんさんは人並み以上に「有名人好き」であり「衒学趣味者」なのです。
はらぴょんさんは、自分の足で立とうとはせず、つねに寄り掛かれる「杖としての権威」を求めている。だから、私にその「弱さ」を批判されるのです。


そして、こう書いた時に「哲学思想史的理解からすれば、アレクセイさんのニーチェ理解はデタラメだ」といった形で「粗探し的注文」をつけるのが、はらぴょんさんの「教養」であり「批評」です。

しかし、そのような評価に、いったい何の価値があるでしょうか? 
私がここで「ニーチェ」という場合、それは「私の理解した(範囲での)ニーチェ」でしかないというのはわかり切った話だし、たとえニーチェがそのように言っていなかったとしても、私の意見自体に変更の必要性など無いというのも明らかでしょう。

私のここでの論説では、「私の意見」の補強材量として「私の理解したニーチェ」が用いられているだけで、私は「ニーチェそのもの」を正確に語りたいわけではないし、その意味で「哲学思想史的理解」に義理立てしなければならない義務など無い。そもそも、テクストは一人歩きするものであり、解釈は前例に縛られるものでもない。テクストに対する著者の優位など存在しないし、まして著者ですらない「業界的理解」になど、何の拘束力も無い。また、読んでいない部分に対しては、配慮のしようがない。――これは、当たり前の話です。

はらぴょんさんは「公認の哲学思想史」を支持し、それに従属することで、自分もその「権威」に連なっているつもりであり、逆に私の場合には「そんな権威など、どうでもいい。私は、それらを参考にはしても、それらを前提として、そこに連なるつもりなどない」という(一匹狼的)態度がうかがえるからこそ、「権威従属者」であるはらぴょんさんは「お上に、無礼をはたらく狼藉者め」と、その「権威」を振り回さずにはいられなかったのでしょう。

しかし、それは「的外れな注文」でしかなければ、「動機の卑しい注文」でしかないとも言えましょう。
はらぴょんさんが、どのような「神」にひざまづこうと、それははらぴょんさんの勝手ですが、それを私までが誉めたり尊重したりしなければならない義務など、どこにも無いからです。

はらぴょんさんが、どうして私やホランド氏に「的外れな注文」をつけずにはいられなかったのか、どうしていったんは「土下座めいた謝罪」までしておきながら、「衒学趣味を捨てろ」と要求されると、一転、手のひらを返して攻撃に出たのか?
その原因はすべて、はらぴょんさんの本質的な「弱さ」と、その「弱さ」が呼び込んだ、薄っぺらな「教養信仰」にあります。要は、私の批評行動が、それらに抵触したということなのです。


私のように「行動」することができないという自身の「弱さ」を、いやというほど感じているはらぴょんさんは、だからこそ「思想哲学についてだけは、私はエキスパートである」という「依存的幻想としての自負」にかけて、私のような「門外漢」が横合いから口出しをして、その「聖域」を乱すことを看過しえず、「牢名主根性」あるいは「小姑根性」で、「嫌がらせ」のひとつもしないではいられなかったのでしょう。つまり、

「これ(思想・哲学)は、僕の(玩具)だぞ」というのが、はらぴょんさんの正直な感情だったのです。
No.235 - 2007/05/17(Thu) 23:20:54

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はらぴょんさんの日記 齟齬の根底にあるもの 2007年02月24日 00:48

アレクセイさんには、いままで恩義がありますので、私の文章で、不快な思いをさせたとすれば、大変申し訳なく思います。
 ただ、アレクセイさんの私に対する理解には、相当な誤解があるように思います。
 私はアレクセイさんの反権力的で、一匹狼的なスタイルが好もしいものに思えましたので、アレクセイさんのスタイルを模倣しようとしました。
 それと同時に、アレクセイさんの単なる追随者、あるいは家来になりたくなかったので、アレクセイさんの行動と発言に隙がないか、常に注視するようになりました。真にアレクセイさんのようになるためには、アレクセイさんに従うようではだめで、アレクセイさんを超えなければならないと考えました。
 アレクセイさんには、想像もできないでしょうが、そういう人間もいるのだということをご理解いただきたいと思います。そうであるがゆえに、私はアレクセイさんに近づき、アレクセイさんを模倣し、アレクセイさんを超えるべく、アレクセイさんの隙を探ろうとしたのです。
 アレクセイさんの標榜する「笠井潔葬送派」については、その反権力性、一匹狼性において、共感するものがありました。
 ひとつ、質問をしたいのですが、アレクセイさんは論考を書かれた際に、さまざまな場所でそれを紹介し、「ご笑読」くださいということを書かれるのですが、アレクセイさんは、本当にご自身の書かれたものが、笑って読めるものだとお考えなのでしょうか。
 正直、プラックユーモアを解さないためか、私はアレクセイさんの論考を笑って読めたことは、これまで一度もありませんでした。
 アレクセイさんは、アレクセイさんの論考を笑って読むことのできない、読むときに顔がひきつってしまう人のことを、批評に私情を入れる人、あるいは笠井派=探偵小説研究会派に共感しているものと看做し、敵側に算入するのではないでしょうか。
 アレクセイさんの書かれたものを大笑いして読める人が、アレクセイさんにとって、いい読者であるのならば、私は過去に遡っても、いい読者であったことはなかったといえます。
 思うに、アレクセイさんは、憎しみの感情から文章を書かれているのではないかと思います。この憎しみは、愛情の反転したものであると思いますが、スタート地点が憎悪であるがゆえに、その結論が冷笑であり、侮蔑であるということになるのだと思います。
 しかしながら、憎しみの感情は、その対象にピンを突き刺す代わりに、その対象によって自身のこころを不自由に拘束するのではないかと思います。私は、このような不自由さが嫌なのです。
 大筋の方向性では共感しつつも、このように私はどうしても解けない違和感を常にかかえていました。このような私を、アレクセイさんは論理の不徹底だと笑うのでしょうか、それとも偽善の上塗りだと断定するのでしょうか。
 アレクセイさんは、自分にとって否定的な事柄の方が、真実を示しており、自分に肯定的なことを言う人間は、なにか悪い魂胆を抱いていると考えてしまうのではないでしょうか。
 はっきり言いましょう。アレクセイさんの批評のスタンツは、反権力的である限りにおいて、大筋において賛同しますが、その批評は、ルサンチマンから出発しており、人間を猜疑心で見つめ、自分にとって敵か味方かの二項対立で分類し、少しでも疑いのあるものは敵のレッテルを貼り、完全に叩き潰すまで、憎悪の言葉を連打するということです。つまり、アレクセイさんは反権力を標榜しつつ、権力と同じやり方で、人間を追い詰め攻めるという手法をとっていらっしゃいます。
 アレクセイさんがこれまで私にいろいろとよくしてくださったことには感謝しますが、私はアレクセイさんのこういう手法にはついていけないものを感じます。今回の齟齬の根底に、こういった考えの食い違いがあるのだと考えます。残念ながら、私はアレクセイ派ではありません。納得いかない部分があるということです。
No.234 - 2007/05/16(Wed) 21:55:38
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 はらぴょんさんの日記 『魔』 2007年02月10日 00:37

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648
No.183 - 2007/05/10(Thu) 23:21:21

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アレクセイさんのコメント 2007年03月01日 13:32

ここでの議論が、↓こちらでの議論へとつながって、論争へと発展しております。

・ 「批評におけるパラダイムの混在」2007年02月15日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648
No.243 - 2007/05/20(Sun) 09:29:53

mixi(1)-7 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年2月14日 20:47

上に予告いたしました、文春文庫版『魔』に関する『ツッコミどころがいくつもありますが、ぜんぶ突っ込んでいると、また長くなりそうなので、そこは飛ばして、軽く頭を撫でて』やる論文を書きました。ご笑読いただければ幸いです。

・ 「笠井潔の「大量死理論」」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=346643582&owner_id=856746
No.215 - 2007/05/13(Sun) 13:03:38

mixi(1)−6 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年02月12日 18:49

それは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか(笑)。
ともあれ、『キララ、探偵す。』についても、「アレクセイの花園」に書いたものに手を入れて、短かめの論文にまとめる予定です。

それと、文春文庫版『魔』を読了しました。例によって、ツッコミどころがいくつもありますが、ぜんぶ突っ込んでいると、また長くなりそうなので、そこは飛ばして、軽く頭を撫でてやろうかなと思っております。乞うご期待。
No.190 - 2007/05/11(Fri) 21:09:09

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はらぴょんさんのコメント 2007年02月11日 08:52

さらに、「アレクセイの花園」http://8010.teacup.com/aleksey/bbsを読んでいたら、こんな箇所もありました。

このミクシィには、2007年02月01日 00:16に私が書いた『キララ、探偵す。』のレビューがあり、次のような文章があります。

>(2)53ページには「いや、実はかくかくしかじか」という表現がみられる。しかし、現実の会話では「かくかくしかじか」という端折った表現は、当然しない。これは、この物語が紙に書かれた虚構であることを前提にした省略法である。これは、作者のメタ・フィクション指向の現われと看做すことができるのではないか。

一方、「アレクセイの花園」2月11日(日)01時01分22秒の花園の園主氏の書き込みには、次のような文章が見られます。

>Keenさまやはらぴょんさまが指摘なさっているような、「意識とは何か」「生命とは何か」「恋愛とは何か(可能か)」といった哲学的な問題提示を別にしても、本書には『匣の中の失楽』以来、連綿と続いている、竹本健治ならではの「過剰性」「逸脱性」が見て取れます。
例えば、
 『「どうしたんだよ、そんな顔して」
  (…)
  「いや、実はかくかくしかじか」』(P53)
という『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』でも使われた、「メタ・フィクション」的手法。

2007年02月01日 00:16の方が、先でしたね。
いや、実は「かくかくしかじか」を発見したとき、アレクセイさんの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューから判断して、これは着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りしたのです。(←いやな奴だねぇ。まったく。)
No.189 - 2007/05/11(Fri) 20:54:11

mixi(1)−4 / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんのコメント 2007年02月11日 08:16

ところで、議論は脱線しますが、最近「アレクセイの花園」 1月21日(日)15時30分3秒のホランド氏の書き込みを読んでいて気になった箇所……。

>> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                    「構造と力」(勁草書房P134)
> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。

このP134ページの箇所は、浅田彰によるメルロ=ポンティの要約であり、メルロ=ポンティを批判するためにやっている箇所なので、これを浅田の主張と解すると、ミスリーディングに繋がるので、どうなのかな、と。
この『構造と力』は、いろんな説を紹介しては、段階的に否定してゆくという構成をとっているので、全体を見ないと敵側の要旨を引用してしまうことになるので。
(1)現象学・実存主義パラダイム批判
サルトル批判
メルロ=ポンティ批判(ここで、メルロ=ポンティより、サルトルの方が社会がわかっているという評価がなされます。ここが、134ページのあたりです。ワロンとセットで批判されています。)
(2)構造主義パラダイム批判
レヴィ=ストロース批判
(3)記号論批判
バタイユ批判
クリステヴァ批判
(4)構造主義のリミットとしてのラカン批判
(5)ドゥルーズ=ガタリの思想
だいたい、こんな構成になっているのです。批判しては、次の段階にステップアップするという構成です。
No.188 - 2007/05/11(Fri) 20:46:47

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はらぴょんさんのコメント 2007年2月11日 1:06

やはり、というべきか、この種の話題の時には、アレクセイさんのレスがつきます。
引用箇所と、リンク先も、想定内でした。
しかし、解説を外された佳多山大地氏は、『容疑者Xの献身』肯定派という観点は想定外で、眼から鱗が取れました。
次回のときは、あらかじめアレクセイさんの文体を模倣して、想定されるレスを書いておくのも一興かもしれません。
少なくとも「笠井潔」コミュのとくまるさん(じゃなかっでしょうか。急速に関心が薄れてしまって、すでに忘れつつありますが。最近、足あとにハンドルネームが残っていたので。)が、アレクセイ=はらぴょんの証拠を掴んだとして喜んでくれるでしょう。
まぁ、冗談はそのくらいにして……。

最近思うことは、笠井潔氏という人は、そのまま自然体でいれば、その作品によって尊敬されるのに、おそらくは尊敬されようと政治的に振舞うばかりに、それを台無しにしてしまっているのではないか、ということです。
この『魔』に収録された「追跡の魔」という作品は、ストーカーを扱った作品ですが、読み進めてゆくと非常に込み入った状況になり、恐怖感が沸き起こってくる作品です。
私は恐怖とかスリルとかがまずあって、恐怖を沈静化させるために、理知的な解決が要請される作品が好きで、その観点からすると、この作品は高評価ということになります。
(逆に単なる知識のひけらかしで、恐怖感やスリル感が減じる場合、減点となります。知的議論がドラマツルギーを加速させる場合は、加点されます。)
だから、この作品は、西尾維新氏への影響とかを云々しなくても、堂々とハードボイルド本格推理ということで勝負できる作品だと思うのです。
思うに、小森さんは(1)本格ミステリへの関心、(2)グルジェフ&ウスペンスキーを中心とする神秘哲学への関心、(3)ライトノベルやアニメなどおたく文化への関心という3つの偏愛傾向があり、今回の解説では(3)の傾向が全面に出たために、西尾維新氏への影響関係への言及に、かなりの文字数を費やす結果となったと考えますが、これはやりすぎると逆効果になってしまいます。
逆効果とは、読み手に「西尾維新氏に影響を与えたがゆえに、笠井潔氏は偉い。だから西尾維新氏の人気を、笠井氏にも分けてあげよう」ということなのかしらん、と思われてしまうことです。
やはり、この作品は、作品そのものによって勝負すべき作品であって、西尾氏云々は豆知識程度の話として捉えておくのが妥当だと思うのです。
それに、西尾氏が関心があるのは、笠井氏のミステリ作品であって、その政治性ではないはずです。

それにしても、まだ「東野圭吾」コミュの構成員の足あとがあることがあるのですが、アレクセイさんへの執拗な追跡と、一点集中の理解できないものへの封殺は、ストーカーや浮浪者への集団襲撃の心性と共通するものを感じます。
これは、大勢の人が集まると、大衆心理でこうなる(模倣の法則と、第三項排除効果によって)と考えるべきなのか、『容疑者Xの献身』を読んで感動するタイプの人間に、比較的多く見られる傾向なのか?

ところで、私の場合、「探偵小説」「推理小説」「ミステリ」の使い分けは、以下の通りです。
◆推理小説について
(1)登場人物による分類
探偵が登場するのが「探偵小説」、警察が登場するのが「警察小説」、スパイが登場するのが「スパイ小説」
(2)謎解きのタイプによる分類
謎解きのロジックを重視するのが「本格推理」、スリラーやアクションなど筋立てを重視するのが「変格推理」
(3)リアリズムによる分類
社会的な観点を持ったリアリズムによる文学作法に則るものが「社会派推理」、そのなかの一傾向を特化したものとして「冒険小説」「トラベル・ミステリー」などがある。「社会派推理」の多くには探偵が登場しない。だから「探偵小説」とは呼べない。それゆえ、「探偵小説」より広義の「推理小説」という言葉で「社会派推理」を指すこともある。松本清張らの「社会派推理」を指す「推理小説」は、「新本格派推理」より古い。「本格推理」は、反リアリズムもしくは論理を特化した抽象の傾向が見られることが多い。
(4)表記の問題
「推理小説」全般を、「ミステリ」とも呼ぶが、「本格推理」のみを「本格ミステリ」を省略して「ミステリ」と呼ぶこともある。「社会派推理」は、「ミステリー」と表記することが多い。
私が「探偵小説」と呼ぶときは、探偵が出てくる小説を意味し、別に「探偵小説研究会公認」の小説を示しているのではありません。誤解があるといけませんので、念のため。
No.187 - 2007/05/10(Thu) 23:42:00

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アレクセイさんのコメント 2007年02月10日 13:36

文春文庫版 『魔』、今日買いました。

この文庫で注目すべき点は、「小森健太朗の解説がついている」ことではなくて、「小森健太朗の解説に差し換えられている」という点でしょう。つまり、「『容疑者Xの献身』論争」で笠井潔に追従せず、結果として叛旗を翻すことになってしまった「佳多山大地による(親本での)解説とインタヴューが、きれいさっぱり消去されている」のです。

で、「小森健太朗の解説」はというと、当然のことながら「笠井潔に追従」する内容になっています。つまり、笠井潔がいちばん書いてほしいと思っていることを「その意を汲んで」書いた、「笠井潔は、西尾維新や奈須きのこに影響を与えた作家だ」というのを殊更に強調する解説になっているんですね。

しかしながら、こういう「人気作家の名前利用」に、どれだけの合理的かつ倫理的な妥当性があるのか。例えば、西尾維新の『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』には、『バイバイ、エンジェル』からの引用があるし、西尾が『バイバイ、エンジェル』に多大な影響を受けているというのは事実でしょう。しかし、私が、拙論、

・ 「さかしまのオマージュ
   ――西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』論」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=246292763&owner_id=856746

で、分析したとおり、西尾維新は「今や笠井潔を評価していない」可能性が非常に高い。にもかかわらず、そこには目を瞑って、西尾維新らの名前を利用するのは、批評家のすべきことではないはずです。しかし、小森健太朗は、事実それをやってしまっている。――権力者に媚びると、人間は覿面に堕落するという、これは端的な実例です。

小森健太朗のファンである はらぴょんさんにはつらい現実かも知れませんが、これは否定できない事実だろうと思いますし、たぶんはらぴょんさんも、なかば以上お気づきなんじゃないかとも思います。



『 シャーロック・ホームズを読んだことのある者なら、かの名探偵の印象的な振る舞いの一環として、虫眼鏡を使って部屋中を這い回るというあの行動を、挙げることができるだろう。あれこそまさに古きよき時代の探偵小説の象徴とでも表現するべき行いであって、今時の探偵小説で、そんなことをする名探偵は登場しない。大体、探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。探偵は推理なんかせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。推理という行動には、幾許かの努力という要素が含まれてしまうからだ。――天才は努力なんてしない。世界中で流行っている日本の少年漫画と同じだ。人気が出るためには主人公は超人の方がいい。』

 (西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』P48)


『 ここで、用語の不統一について、お断りしておきます。笠井さんは「探偵小説」とお呼びですが、私は「推理小説」を慣用しています。今回の意見交換については、この点、とりたてて指示する対象が異なっているわけでもないので、私の方はやはり「推理小説」を使うことにいたします。』

 (笠井潔『探偵小説と記号的人間』所収
          「本格ミステリ往復書簡」より、巽昌章の言葉・P246)
No.186 - 2007/05/10(Thu) 23:34:03

mixi(1)-1 / ☆ [ Mail ]
 はらぴょんさんの日記 『魔』 2007年02月10日 00:37

 笠井潔著『魔』の文春文庫版が出た。
 「本格ミステリ・マスターズ」の単行本として刊行された著作は、文庫化されたとき帯に「本格ミステリ・マスターズ」のマークがつくことに気づいた。(小森健太朗著『グルジェフの残影』の帯にもマークがついているので、間違いはない。)
 『魔』の解説は、小森氏である。解説の特徴としては、笠井氏からの西尾維新氏への影響を語っている点にある。この解説には書かれていないが、創元推理文庫版『バイバイ、エンジェル』の帯の推薦文を西尾維新氏が書いていること、『ロサンゼルスBB連続殺人事件』でも『バイバイ、エンジェル』からの引用が冒頭に見られることからも、この指摘は立証できるだろう。(どうやら、西尾維新氏の場合、矢吹駆シリーズでも、初期の、一作目の『バイバイ、エンジェル』の影響が強いようである。確かに、『バイバイ、エンジェル』における思想対決の緊張感は、凄かったし、自分にしてもあの本がなかったら、他の本に手を伸ばすこともなかったと思う。)
 ところで、『魔』を読む新規の読者(以前からの固定客を除く)として、どんな人が想定出来るだろうか?
 西尾氏のファン?
 で、あれば矢吹駆シリーズを読んでみるか可能性はありそうだと思う。特に『バイバイ、エンジェル』。しかし、飛鳥井シリーズまで関心を示す人は、あまりいないのではないか。
 とすれば、新規の読者は、ハードボイルドファンではないか。この文庫版の装丁も、ハードボイルドファン受けするデザインだと思うし。
No.184 - 2007/05/10(Thu) 23:23:05
mixi(4) / ☆
はらぴょんさんの日記 まだまだ幸せ者だと思わなくては 2007年02月22日 01:08

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648
No.228 - 2007/05/16(Wed) 00:23:51

mixi(4)-3 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年02月26日 01:26

この続きは、こちらです。↓

・ 「齟齬の根底にあるもの」2007年02月24日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=355680293&owner_id=491648
No.236 - 2007/05/17(Thu) 23:23:53

mixi(4)-2 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年02月23日 00:56

  はらぴょん論  ――第1章 「偽の反省」に表れた、その人間性



☆ はらぴょんさま

ぜんぜんですね。まだまだダメです。

拙論「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」での批判を受けて書かれた、

・ 2007年02月22日「まだまだ幸せ者だと思わなくては」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648

と題する、このご文章は冒頭、

> アレクセイ氏の「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648 でのコメント参照)を読みました。この文章は、私にとって痛い文章ですが、そうであるがゆえに、深い厚情を感じずにはいられない文章です。ひょっとして、私は幸せ者かもしれません。 
> ここで書かれた私の性格に関する分析、例えば、
>>(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている
>> 権威主義
>> 本人の見識らしき見識など、実際にはほとんど存在(しない)
>>(2) 批評が、恣意的であり、公正さ誠実さに欠け、感情的である。
> は、まったく的確な指摘だと思います。

等と書いて「一見謙虚に、自身の問題点を認め、反省しているかのように、装って」はおられますが、全文を通読すれば、この文章の目的が「自己正当化」のための「言い訳」にしかなく、私に対する「謝罪の言葉」が「欠片も見えない」のと同様、自身の問題点に対する「真摯な反省も無い」というのは、明らかです。

例えば、それに続けて、

> 強いて言えば、アレクセイ氏のはらぴょん批判は、まだまだ寛容すぎ、評価が高すぎるように思われます。
> 「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」ですと、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントに追い詰められて、「BBSアレクセイの花園」で、あら探しをしたように取れますが、実際のところはアレクセイ氏と近づきになった時から「BBSアレクセイの花園」の過去ログも含めて、あら探しをしていました。あら探しというと、マイナス面のみを探すととられるかも知れませんが、私の場合、もっとたちが悪く、プラスの面も盗むことを考えていました。だから、今以上に評価を落とさないと、真実とは言えないと思われます。

と書かれてますが、これは私の指摘した「粗探し根性」を否定するために、私がハッキリと指摘しなかった「パクリ根性」を、交換条件的に持ち出したにすぎません。しかし、後者を持ち出したから、前者が無かったということにはなりません。
結論から言うなら、はらぴょんさんには「粗探し根性」も「パクリ根性」も両方ありますし、後者についても私は、拙論「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」の中で、竹本健治作品における『「小説文法からの逸脱」的な「省略」』についての私の指摘を、はらぴょんさんが「パクっている」という事実を、


『もちろん、他人が指摘したことを、改めて指摘してもかまいません。それについて「この点については、すでに○○氏が指摘済みであるが」などという律儀な断りを入れろとも言いません。
しかし、自分が黙って、他人の『猿真似』をやっておいて、それが露見しそうになると、それを「第三者」に対してのみ、その「事実」を隠蔽しようとする「姑息な態度」は、さすがに「見苦しい」し「人間として卑しい」』


と指摘し、批判しております。
もちろん私は、はらぴょんさんによる「過去のパクリ」にも気づいてはいましたが、それをいちいち指摘したりはしなかっただけのことです。

> また、(1)の有名人好きということに関して、アレクセイ氏が、おそらくは見落としているであろう点があります。私にとって、アレクセイ氏自身もまた、有名人であり、その評価もまた恣意的かつ感情的評価になりがちであるということです。

これも、私にすれば先刻、想定済みの「言い訳」にすぎません。
たしかに私は、ささやかとは言え商業論文も書いているし、竹本健治の作品中にも登場した「ちょっとした有名人」ですが、実質的には「プロとアマとの境界的存在」だと言えるでしょう。

しかし、「プロの権威」というようなものが、大抵の場合は「勿体をつけることによって、意識的に醸成される幻想」でしかないという事実に鑑みるならば、私のような「中途半端な存在」が、自己を殊更に「権威化」することもなく、プロにもアマにも同じように接するというようなことをやっておれば、もともと「プロの権威=幻想」が大好きな はらぴょんさんが、私を「アマ=非権威者」としか見なくなり、その点で軽んずるようになる、というのは「理の当然」なのです。つまり、はらぴょんさんのような権威主義者は、むしろ威張ってくれる人(対等ではなく、上手から下手へと手を差し伸べるような人)の方がありがたく感じられる、一種の倒錯者だということなのです。
――しかし、残念ながら、反権威者である私には、そんな滑稽な「自己権威化」など、できる相談ではありませんでした。

> 例えば、アレクセイ氏の書かれた「さかしまのオマージュ――西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』論」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=246292763&owner_id=856746)では、
>『 シャーロック・ホームズを読んだことのある者なら、かの名探偵の印象的な振る舞いの一環として、虫眼鏡を使って部屋中を這い回るというあの行動を、挙げることができるだろう。あれこそまさに古きよき時代の探偵小説の象徴とでも表現するべき行いであって、今時の探偵小説で、そんなことをする名探偵は登場しない。大体、探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。探偵は推理なんかせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。推理という行動には、幾許かの努力という要素が含まれてしまうからだ。――天才は努力なんてしない。世界中で流行っている日本の少年漫画と同じだ。人気が出るためには主人公は超人の方がいい。』(西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』P48)の箇所が、西尾維新の笠井潔の探偵小説観との乖離を示す論拠として示されるわけですが、果たしてこの箇所が作者自身の考えを、ダイレクトに反映したものなのか、また文中の「探偵小説」と「推理小説」の区別が、笠井潔の探偵小説観と、そうでないミステリ観の差を踏まえた上での発言なのか、批評眼のない私には自信を持って判断できませんでした。ですから、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントに対して、(1)の有名人好きの傾向がある私は、小森氏とアレクセイ氏の双方を傷つけまいとするあまり、思考が二重拘束の金縛りになったということを告白せねばなりません。


『果たしてこの箇所が作者自身の考えを、ダイレクトに反映したものなのか、また文中の「探偵小説」と「推理小説」の区別が、笠井潔の探偵小説観と、そうでないミステリ観の差を踏まえた上での発言なのか、批評眼のない私には自信を持って判断できませんでした。』というのも、不誠実な、その場かぎりの「言い訳」でしかありません。――というのも、拙論、

・ さかしまのオマージュ 西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』論
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=246292763&owner_id=856746

において提示される「西尾維新は、かつては笠井潔の『バイバイ、エンジェル』にイカレ、笠井のファンとなったであろうけれども、この作品に示されているのは、そんなかつての憧れの的への、さかしまのオマージュなのである」という結論は、決して、上に引用された「作中人物のセリフ・のみ」によって導き出されたものではないからです。
つまり、拙論を通読しておれば「判断はできる」はずなのに、拙論を通読しているはずの はらぴょんさんは、ここに便宜上引用された「作中人物のセリフ・のみ」をもって『判断できませんでした。』と言い、それゆえに『小森氏とアレクセイ氏の双方を傷つけまいとするあまり、思考が二重拘束の金縛りになった』、というような嘘の『告白』をしているのです。

つまり、はらぴょんさんはここで、私が論文に示した「すべて判断材料」には言及せず、便宜的に示された一部資料だけに言及して、拙論全文を読んでいないであろう「多くの読者」に対してだけ、さも自分の「判断不能」が正当なものであったかのような「欺瞞」的なアピールをして、そのうえで自分の「人の良さ」までアピールするという「恥知らずな自己喧伝」を行って見せているのです。

> 『キララ、探偵す。』の「かくかくしかじか」の件と、『構造と力』P134の件を書いた件について、アレクセイ氏の「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648)では、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントへのはらいせにやった嫌がらせと解釈されますが、確かに出来事の推移や私の表現の仕方からすると、確かにそう解釈されても仕方がないように思われます。ただ、前者に関しては、いささか手の込みすぎた悪戯であり(ですから、これに関する言及は一度限りでひっこめました。)、後者に関しては『テロルの現象学』で批判の対象となった対極的な本であり、笠井潔の専門家であるアレクセイ氏ならば専門領域であると考え、再三にわたり、言及した次第です。「はらぴょん論・序説」を読むまでは、アレクセイ氏は神聖にして侵すべからずの無誤謬主義ではないかと義憤に駆られていましたが(これなども、感情的な判断しかできない証拠といえます。)、冷静になって自分の文章を改めて読み直してみると、悪意を持った中傷と受け止められて、批判を受けるのは当然の、つたない表現だと気づきました。

この部分は、多くの読者にとって、ほとんど「意味不明」だろうと思います。私にとってそれは同じで、はらぴょんさんには、さらに分かりやすい、筋の通った説明を要求したい。たとえ、それをすれば、さらに「ボロが出る」結果になろうとも、形式的にではあれ「自身の非」を一方的に認めている はらぴょんさんには、当然のことながら「伝わる説明をする義務」があり、私の当然の要求に応じる義務もあるからです。

ともあれ、ここにも、ご自身の「本質的な卑小さ=卑小な人間性」を『つたない表現』に還元し(摺り替えて)、自分を救い出そうという「セコい目論見」が、ハッキリと透けて見えるという事実を指摘しておかねばならないでしょう。

> このように、私は大馬鹿者です。馬鹿は死ななきゃ直らないといいますが、たぶん死んでも直らないのではないかと思われます。この大馬鹿者の部分を克服しようとした時もありましたが、たぶん、しばらくすると失敗を忘れて、また醜態をさらすのでしょう。勝手なことをいえば、失敗を思い出させるために、断続的に(教訓を忘れたころに)苦よもぎのような「はらぴょん論・序説」の続きを読ませていただければと思いますが、無論、こんな大馬鹿者につき合っても、一文の得にもなりませんから、バッサリと斬り捨てていただいて結構です。

そうです。はらぴょんさん、貴方は正真正銘の大馬鹿者です。しかし、貴方の大馬鹿さは、その「無自覚」にこそあり、その意味では、貴方はここでこのように語りながらも、すこしもその馬鹿さ自覚していないし、反省もしていません。まただからこそ、ぬけぬけと『たぶん死んでも直らないのではないかと思われます。』などという「甘ったれ」たことが言えるのだし、ことここに至っても『こんな大馬鹿者につき合っても、一文の得にもなりませんから、バッサリと斬り捨てていただいて結構です。』などと、私に「見逃して」もらおう、「寛大な措置を期待」しようなどとするのです。

しかしながら、はらぴょんさんもご承知のとおり、私は極めて「情の濃い」人間ですから、簡単に見捨てたり、切り捨てたりはしません。私が相手を斬るのは、その愛ゆえですから、私は徹底的に貴方の大馬鹿さをこそ、切ってあげたいのです。

で、はらぴょんさんが少しでも、その大馬鹿さから脱皮するための方法を、ここに具体的に示しておきましょう。

まず第一は、最初に要求しておいたとおり、私とホランド氏への「謝罪」を明確にすること。
当然、謝罪にあたっては、ご自身の「本質的な卑称さ=卑小な人間性」を直視して、それを公に認めなければなりません。つまり、表面的な「大馬鹿さ」や「文章の拙さ」に、問題を摺り替えたりせず、率直に「反省」し、それを公にして、成長を誓う、ということです。その場合、タイトルは「謝罪と誓い」が適当でしょう。

つぎは、拙論「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」でも指摘しているとおり、はらぴょんさんの、その度しがたい「無反省=大馬鹿さ」を支えているのは、「現代思想に関するオタク的知識の所有意識」つまり「コレクター的自尊心」なのだから、これを捨てないことには、はらぴょんさんの成長は、当然「望めない」ということになります。

ですから、本当に「反省」する気があるのであれば、はらぴょんさんは今後、ご自分の文章において、思想家や哲学者を引合いに出し、その文章を引用して「自分の文章を飾り立てる」という愚行・醜行を、一切止めなければなりません。そういう「虚飾」を脱ぎ捨てた後の、裸の貧相な自分を直視した時にこそ初めて、本当の「反省」も可能だからです(『バイバイ、エンジェル』での、矢吹駆の助言と同じです)。

無論、私は、哲学書や思想書を「読むな」と言っているのではありません。むしろ、それらをしっかり読んで消化し、身につけてほしい、と言っているのです。そうしたもので学んだことを、自分のものとして消化したかたちで表現するのなら、それは一向にかまいません。
私が、忠心からの助言として、そして誹謗中傷をされた被害者として、はらぴょんさんに要求したいのは「哲学者や思想家の言葉で、自分を(不適切に)飾ってはならない」という、はらぴょんさんにとってもプラスになる、ただそれだけのことなのです。

ちなみに、私は、曖昧な誤魔化しを許すような人間じゃありませんから、再度その点をご確認ご認識下さい。不誠実な「言い訳」を重ねれば重ねるほど、恥をかくのは、はらぴょんさん、貴方ご自身だということを、くれぐれもお忘れなく。

ホランド氏に対する誹謗も、近々、それが「誹謗」でしかなかったという事実を「論証」して差し上げる予定ですので、覚悟しておいて下さい。私は、やると言ったらやる男だし、いちばん嫌いなものが「言い訳」なのです。つまり、ぐずぐず言い訳する奴を優しく諭すほど、私は気の長い人間ではないんですよ。

No.230 - 2007/05/16(Wed) 07:20:32

mixi(4)-1 / ☆
はらぴょんさんの日記 まだまだ幸せ者だと思わなくては 2007年02月22日 01:08

アレクセイ氏の「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648 でのコメント参照)を読みました。この文章は、私にとって痛い文章ですが、そうであるがゆえに、深い厚情を感じずにはいられない文章です。ひょっとして、私は幸せ者かもしれません。 
 ここで書かれた私の性格に関する分析、例えば、
>(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている
>権威主義
>本人の見識らしき見識など、実際にはほとんど存在(しない)
>(2) 批評が、恣意的であり、公正さ誠実さに欠け、感情的である。
は、まったく的確な指摘だと思います。 
 強いて言えば、アレクセイ氏のはらぴょん批判は、まだまだ寛容すぎ、評価が高すぎるように思われます。
 「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」ですと、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントに追い詰められて、「BBSアレクセイの花園」で、あら探しをしたように取れますが、実際のところはアレクセイ氏と近づきになった時から「BBSアレクセイの花園」の過去ログも含めて、あら探しをしていました。あら探しというと、マイナス面のみを探すととられるかも知れませんが、私の場合、もっとたちが悪く、プラスの面も盗むことを考えていました。だから、今以上に評価を落とさないと、真実とは言えないと思われます。
 また、(1)の有名人好きということに関して、アレクセイ氏が、おそらくは見落としているであろう点があります。私にとって、アレクセイ氏自身もまた、有名人であり、その評価もまた恣意的かつ感情的評価になりがちであるということです。
 例えば、アレクセイ氏の書かれた「さかしまのオマージュ――西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』論」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=246292763&owner_id=856746)では、
『 シャーロック・ホームズを読んだことのある者なら、かの名探偵の印象的な振る舞いの一環として、虫眼鏡を使って部屋中を這い回るというあの行動を、挙げることができるだろう。あれこそまさに古きよき時代の探偵小説の象徴とでも表現するべき行いであって、今時の探偵小説で、そんなことをする名探偵は登場しない。大体、探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。探偵は推理なんかせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。推理という行動には、幾許かの努力という要素が含まれてしまうからだ。――天才は努力なんてしない。世界中で流行っている日本の少年漫画と同じだ。人気が出るためには主人公は超人の方がいい。』(西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』P48)の箇所が、西尾維新の笠井潔の探偵小説観との乖離を示す論拠として示されるわけですが、果たしてこの箇所が作者自身の考えを、ダイレクトに反映したものなのか、また文中の「探偵小説」と「推理小説」の区別が、笠井潔の探偵小説観と、そうでないミステリ観の差を踏まえた上での発言なのか、批評眼のない私には自信を持って判断できませんでした。ですから、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントに対して、(1)の有名人好きの傾向がある私は、小森氏とアレクセイ氏の双方を傷つけまいとするあまり、思考が二重拘束の金縛りになったということを告白せねばなりません。
 『キララ、探偵す。』の「かくかくしかじか」の件と、『構造と力』P134の件を書いた件について、アレクセイ氏の「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648)では、2007年02月10日「『魔』」(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648)でのアレクセイ氏のコメントへのはらいせにやった嫌がらせと解釈されますが、確かに出来事の推移や私の表現の仕方からすると、確かにそう解釈されても仕方がないように思われます。ただ、前者に関しては、いささか手の込みすぎた悪戯であり(ですから、これに関する言及は一度限りでひっこめました。)、後者に関しては『テロルの現象学』で批判の対象となった対極的な本であり、笠井潔の専門家であるアレクセイ氏ならば専門領域であると考え、再三にわたり、言及した次第です。「はらぴょん論・序説」を読むまでは、アレクセイ氏は神聖にして侵すべからずの無誤謬主義ではないかと義憤に駆られていましたが(これなども、感情的な判断しかできない証拠といえます。)、冷静になって自分の文章を改めて読み直してみると、悪意を持った中傷と受け止められて、批判を受けるのは当然の、つたない表現だと気づきました。
 このように、私は大馬鹿者です。馬鹿は死ななきゃ直らないといいますが、たぶん死んでも直らないのではないかと思われます。この大馬鹿者の部分を克服しようとした時もありましたが、たぶん、しばらくすると失敗を忘れて、また醜態をさらすのでしょう。勝手なことをいえば、失敗を思い出させるために、断続的に(教訓を忘れたころに)苦よもぎのような「はらぴょん論・序説」の続きを読ませていただければと思いますが、無論、こんな大馬鹿者につき合っても、一文の得にもなりませんから、バッサリと斬り捨てていただいて結構です。
No.229 - 2007/05/16(Wed) 00:24:33
mixi(2) / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんの日記 批評におけるパラダイムの混在 2007年02月15日 01:48

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648
No.216 - 2007/05/13(Sun) 13:05:05

mixi(2)-7 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年02月23日 20:15

上記のとおり、ここでの議論の続きは、こちらです。↓

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648
No.232 - 2007/05/16(Wed) 21:04:40

mixi(2)-6 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年02月21日 00:36

☆ 杉澤鷹里さま

お気づかい、恐縮です。しかし、

>  はらぴょんさんもまた、そう思ってきたのだろうと思います。そうしたアレクセイさんの批評に対する高い信頼があるからこそ、このような文脈の中で、ホランドさんの発言を引き合いに出し得たのだろうと思います。

というような「無難なきれいごと」では、私は納得しません。

「なぜ、はらぴょんさんは、あのようなアレクセイ批判をしたのか?」――その動機については、先ほど、

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

の方へ投稿した、拙論「よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説」の中でも縷々分析しておりますので、そちらを踏まえた上で、まだご異論がおありならば、ぜひ拝聴したいと思います。

ともあれ、はらぴょんさんが懲りない人だというのは、私もわかっていますし、その意味では決定的な批判を突きつけたところで、そんなものの効果もさほど長続きはせず、徒労に終わる公算の大きいことも、承知しております。
けれどもだからこそ、これまでは誰もやったことがないであろう徹底した批判を、批判になってしまう「はらぴょん論」を書こうと覚悟し、実行したのです。「ああ、とうとうやっちゃったのか……」とさぞ、ため息をおつきのことでしょうが、これが私の「例外なきやり方」であると、どうかお諦め下さい。こういう人間でなければ、やれないことだってあるんですよ。

ま、とにかく、あれほどあからさまな「警告」を与えておいたにもかかわらず、あの程度の誤魔化しに満ちた「見解」しか示さなかったということは、はらぴょんさんの愚かさの自己証明であると同時に、私への侮辱でもあるわけですから、はらぴょんさんには大人として、それ相応の痛いメを見てもらわなければなりません。ですから、そのあとで、フォローしてあげていただければと、最後にいささか勝手なお願いを申し上げます(苦笑)。


No.227 - 2007/05/14(Mon) 20:42:37

mixi(2)-5 / ☆ [ Mail ]
杉澤鷹里のコメント 2007年02月20日 22:11

 私も常々、クリアな議論をしている批評を読みたいと思っています。そういう批評が少ない、とも思っています。
 そして、アレクセイさんの批評は、クリアな議論をしており、読ませるものがあると、思ってきました。
 はらぴょんさんもまた、そう思ってきたのだろうと思います。そうしたアレクセイさんの批評に対する高い信頼があるからこそ、このような文脈の中で、ホランドさんの発言を引き合いに出し得たのだろうと思います。
No.225 - 2007/05/14(Mon) 20:05:03

mixi(2)-4 / ☆ [ Mail ]
lainさんのコメント 2007年02月20日 00:20

さあ、きましたね。大体予想された事態ですが。ということは、安易にはらぴょんさんに賛成するコメントを書いてしまった私も攻撃対象になるということですかね。うーむ、怖い怖い。浅田もメルロ・ポンティもろくすっぽ理解しておらず、安易なことを書いたlainがアレクセイさんに叩き潰されるということでしょうか。クリプトビオシス化して逃げようかなー。
No.223 - 2007/05/14(Mon) 07:48:29

mixi(2)-3 / ☆ [ Mail ]
アレクセイさんのコメント 2007年02月19日 19:20

今日まで見落としていたんですが、面白いことを書いてるじゃないですか、はらぴょんさん。
――これは、私に「喧嘩を売ってる」ということですよね?

専門話に持ち込めば「なんとかなる」なんて考えてるのなら、それはいつもどおりの大甘ですよ。私は、専門家ともプロとも喧嘩したことがありますが、そのいずれでも、決して負けてはいません。なぜなら、私は、素人の分際で、生半可な知識を自慢げにひけらかすなんて「みっともないこと」は、決してしないからです。つまり、私が喧嘩する時は、世間の常識に立脚して、相手の言動に表れた、その人の愚劣な人間性をそのまま真直ぐに批判します。だから、相手に付け入る隙を与えないんですよ。

ここでなされたのも、所詮は、ちょっと専門的な知識を持っている人間が、専門家だと名乗ってもいなければ、誰が見ても明らかに素人でしかない者の文章に対し、その知識を鼻に掛けて、「粗探し」をし「ケチ」をつけた「だけ」でしかありません。こんなことは、「恥」さえ知らなければ、誰にでもできることですよ。
例えば、ミステリばかり読んでいる人が「○○も読んでいなきゃ、ミステリは語れない」などと言いたがる、あれとまったく同じ。自慢できることが少ないからこそ、ささやかなオタク的知識(本人の成長にはまったく寄与しない、知識のための知識)を最大限にひけらかす。その態度が、「品位」に欠け、「知性」にも欠けたものであるいうことにも、いい年をして気づかない、本質的な「暗愚」。

・ 「千野帽子にうんざり――『CRITICA』創刊号のレベルや如何に?」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=208726762&owner_id=856746

で論じた千野帽子が、ちょうどそういう馬鹿でしたが、はらぴょんさんは、ああいう馬鹿に何も学ばず、あんなのに同情でもしていたんですか?

言うまでもないことですが、本物の専門家は、素人の粗探しなんか絶対にしませんよ。そういうことをやりたがるのは、世間に認めてもらいたくてしかたがない、実力のない「二流」です。ど素人を相手にして知識自慢をするか、専門家当人の見ていないところで、あてにならない知ったかぶりの批判をしてみせるか。――こういうのにかぎって、本物の専門家の前では、借りてきた猫みたいにおとなしくなるもんなんですがね。

また、こういう人にかぎって、若い時分から「知ったかぶりの講釈たれ」で、年長者が内心でそれに苦笑していたのにも気づかず、自分が年をとって知識だけは年相応に増えると、今度は若者の知識の少なさを云々して「知らないのなら語るな」などと、若い者には「語る権利」も無いかのようなことを言うんです。若い頃の自分の行いを、きれいさっぱり忘れてね。

例えば、西尾維新しか読んでいない若い読者が「ミステリとは」などと語れば、それはたしかに底の浅い「ミステリ」論になるでしょう。しかし、では彼にミステリを「語る権利」が無いのかと言えば、当然、そんなことはない。知識が有るとか無いとか言っても、それは所詮相対的なものでしかなく、知識が無ければ「語る権利」が無いというのであれば、「語る権利」を有するのは、この世の中にたった一人の「もっとも知識を有した人だけ」ということになるでしょう。しかし、「知識があれば、理解が深い」というわけでもない、というのも、わかりきった話です。だから、たしかに知識は大切だけれども、まともな「大人」なら、素人に対し「知識が無ければ語るな」みたいな「権威主義」的な物言いはしません。そういう、己が唇の寒くなる発言は「知識しかない・頭の悪い」人間しかしないんです。そして、このくらいの理屈は、高校生にでもわかるでしょう。

だいたい、誰に何を学んできたのかは知りませんが、批判するんなら、正々堂々と名指しでやったらどうですか? よくは知りませんが、ドゥルーズ=ガタリの思想に学ぶと、そういう態度を採るようになるんですか?(笑) 
それとも、これは「名指しの批判」も同然の、堂々としたものだとおっしゃるのか? それならば結構、私もいつもどおり、このやり取りを「花園」の方へも紹介して、お互い「公明正大」に、徹底的にやり合おうじゃないですか。
もちろん、ご承知でしょうが、私はやると言ったらやりますよ。実行する、ということです。そして、批判するとなったら、相手を叩き潰すつもりでやりますが、貴方にその覚悟がありますか? ――無いですよ。あるわけありません。無いからこそ「江戸の敵を長崎で」というような、陰険姑息な、回りくどい批判をするんです。

端的に言いましょう。私とホランドくんに対する、この無礼な仕打ちについて、率直に謝罪して下さい。
例によっての「泣き」が入っても、容赦はしません。私は、やるとなったら、相手がそれで自殺しても構わないという覚悟でやるんだから、泣いたの落ち込んだのといったことでは、金輪際、赦したりはしないから、その覚悟でいてください。
無論、逃げてもダメです。逃げれば、貴方が何を書いて、こうなったのかについて、貴方の文章を引用し、証拠を「世間」に曝して、批判するだけです。

例えば、こないだ『これは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか』と、暗にたしなめておいたことについても、はらぴょんさんのなさったことが、単なる「猿真似」であったということを、原文を紹介して論証し、それやこれやで内心面白くなかった貴方が、こんな陰険姑息な文章を書いたのだということを、公然と批判してあげましょう。あの人もこの人も見ている前で、呵責なく、貴方の卑小さを腑分けしてあげましょう。

言わないとわからないのなら、わかるまで教えてあげます。貴方も、子供じゃないんですから、文章を公にする以上は、その覚悟でいてください。
No.219 - 2007/05/13(Sun) 21:56:42

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lainさんのコメント 2007年02月15日 02:13

うーん、反省することしきり、といった感じですね。自分も現代思想の理論を現象学、フェミニズム、構造主義、ポスト構造主義、とつまみ食いしながら論の中にぶち込み、時には混戦を引き起こして遊んでいることもあるという不逞の輩なので、自分が書いたテキストに対してどこまで責任を持つのか、自分の中に並存する複数のパラダイムをいかに整理していくのか、そのあたりは真摯に、真剣にやらなきゃいけないのかな、という感じです。

ホランド氏の書き込みについては、はらぴょんさんの意見に賛成です。『構造と力』の該当箇所は浅田がメルロ・ポンティの要約を行い、後に出てくる自説への地ならしを行っている場所ではないでしょうか。ホランド氏の指摘がそのままメルロ・ポンティの現象学の一断面になってしまっている気がします。引っ張ってくるのであれば、もう少し適切な箇所があったのではないかと思います。

これも、別にホランド氏を責める意図のあるコメントではありませんので、誤解なきよう。
No.218 - 2007/05/13(Sun) 13:15:45

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はらぴょんさんの日記 批評におけるパラダイムの混在 2007年02月15日 01:48

 一体、何がいいたいのか、私にはわからない。
 なぜ、文化記号論者とポスト構造主義者が、並列に並べられるのか、私にはさっぱりわからない。
 どっちかが上位の価値基準で、もう片一方が下位の価値基準ならばわかる。しかし、並列に、対等の立場で並んでいるのだ。これをどう解せばいいのか。
 どっちかがオールマイティーに、全般的に通用し、片一方が部分的に、ある条件下でのみ適用されるというのならばわかる。しかし、そうではない。互いに両立しない理論を唱える論者の名前が、まったく対等に並んでいる。
 批評文を読んでいると、往々にしてこのような事態に直面する。何を言っているのかと、これはこうなのだと言いたい気持ちと、言っても無駄なことだ、現代は教養自体が崩壊しているのだ、ドストエフスキーの名前を知っているだけでも評価しておくべきだという気持ちが入り混じる。

1.現象学・実存主義のパラダイム
2.構造主義のパラダイム
3.文化記号論のパラダイム
4.ポスト構造主義のパラダイム

 同じパラダイムであっても、個々の思想家の思想の差異も、当然ある。
 だが、パラダイムが異なると、まず間違いなく、それ以上の思想の開きが出来る。
 これらパラダイムの異なる思想をどう整理をつけるか。
 例えば、私の場合、これらのパラダイムを、以下のように整理している。
 ポスト構造主義のパラダイムに属するドゥルーズ=ガタリの理論は、資本主義の動的な仕組みをも射程に収める理論を提出している。ドゥルーズ=ガタリは、社会モデルの理念型を提示し、コード化・超コード化・脱コード化ということを言っている。ところで、コード化社会、すなわち動的な変化の少ない未開社会に対しては、構造主義のパラダイムに属するレヴィ=ストロースの構造人類学でカバーできる。レヴィ=ストロースは熱力学の比喩を使って、未開社会を冷たい社会と名づけ、構造分析を展開した。だが、超コード化社会、すなわち専制君主社会の分析に、構造分析が役立つかといえば、無理がある。専制君主社会での王殺しや祝祭に関しては、文化記号論のパラダイムに属する山口昌男の「中心−周縁」理論の方が適している。が、これもまた万能ではなく、システムの解体をシステム化した資本主義の分析には、ドゥルーズ=ガタリのスキゾ・アナリーズの方が適している。つまり、下位のパラダイム(上の1〜4では、数字の小さいもの)に属する学問的成果は、ある限定条件のもとでは有効であるが、上位のパラダイムのようには適用できる範囲が広くないと考えるのである。
 だが、パラダイム違いの思想家を並置して書く批評家は、こうしたどちらのパラダイムを優先させるかとか、適用範囲の限定を行うかといった事柄には、まったく関心を持たないのだろう。そういう批評家の読んできた評論自体が、パラダイムの混線現象が起きていることが多い。二流の思想家のテクストばかり読むと、三流の思想家が生まれることになる。
 
 問題は、言っていることが、まったくわけのわからないものになることである。
 文化記号論では、内部/外部といった二項対立を基に、理論展開をすることが多い。これに対し、ポスト構造主義のパラダイムでは、内部/外部といった二項対立の外部に出ることを教える。つまり、外部/(内部/外部)ということになる。ポスト構造主義では、外部/(内部/外部)の最初の外部の方に力点が置かれている。
 ところが、パラダイムを混線させる論者は、ポスト構造主義の外部/(内部/外部)を、単純な内部/外部に置き換えてしまう。このほうが、物語として判り易いからである。
 こうして、山口昌男とジャック・デリダ、あるいは柄谷行人が並置されるといった喜悲劇が起きる。(別に山口昌男が悪いという意味ではなく、適材適所があるといっているだけである。)
 
 さらにテクスト全体を読まず、一部分だけを抽出して、著者の言いたいことを捕捉することに成功したとして、それを基に論ずる批評家も存在する。
 この手法でも、最初から最後まで一貫して、同じ事を言い続けるテクストの場合、何の支障も起きないかも知れない。
 だが、例えば浅田彰の『構造と力』のように、さまざまなパラダイムを取り上げては、それを斬り、より有効なパラダイムを目指すような本の場合、途中の一箇所だけを抽出すると、奇妙なことが起きてしまう。
 これは、「アレクセイの花園」で起きた事だが(これは既に書いたことのある例で、周知の事実かもしれないが、一番判り易い例なので取り上げることにする。別にホランド氏に悪意はないので、誤解なきよう。) 1月21日(日)15時30分3秒のホランド氏の書き込みで、

>> 成長に伴って潮が引いていくときその中から現れる島々が、個々の主体なのである。このプロセスにおいて重要な役割を果たすのが他者との鏡像的な関係である。・・・・・・実際、自他未分の混沌に埋没していた幼児は、鏡像ないし鏡像としての他者と関係することによってはじめて、自己の身体的なまとまりを獲得することができるのである。ただ、最初の段階では、幼児とそのつど相手とが、いわば磁石の両極のようにして、対として現れてくることに注意しなければならない。                   「構造と力」(勁草書房P134)
> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。

というのがあるが、つまり『構造と力』P134の記述を基に、浅田批判をしているわけだが、P134の記述は、浅田によるモーリス・メルロ=ポンティの思想の(やや乱暴な)要約であって、浅田説ではない。浅田説を攻撃しようと矢を放ったら、そこにはメルロ=ポンティがいたという滑稽な事例である。この場合、浅田批判をするのであれば、浅田説の表現されたところをピックアップして、やり直さないといけないことになる。
 上記は、まだ些細な事柄であるが、ただでさえ、小難しい現代思想の世界において、さらにわかったようなわからないようなことを言う魍魎が跋扈するという状況は宜しくない。また、文学を隠れ蓑に、曖昧なイメージ思考に終始するものもある。素人の私にもわかるようなクリアな議論をしている批評を読みたいのですが、なかなかそうはいかないようである。
No.217 - 2007/05/13(Sun) 13:06:11
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はらぴょんさんの日記 見解 2007年02月20日 00:18

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648
No.221 - 2007/05/14(Mon) 07:45:03

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アレクセイさんのコメント 2007年02月23日 20:13

この議論の続きは、こちらです。↓

・ 「まだまだ幸せ者だと思わなくては」2007年02月22日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=353822876&owner_id=491648
No.231 - 2007/05/16(Wed) 21:02:52

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アレクセイさんのコメント 2007年02月21日 00:17

 よだれに塗れた、おもちゃの勲章 ―― はらぴょん論・序説  


☆ はらぴょんさま

こんな見え透いた「余裕ぶり」で、第三者を誤魔化せると思っているんだから、本当に救いがたい人ですね、貴方は。――私が、こんなことを、曖昧に許すような人間だと思いますか? こんなことで「収まる」とでも思ったんだったら、貴方の読解力は「ゼロ」ですよ。

>  それにしても、アレクセイ氏の啖呵って、凄いですねぇ。しかしながら、これでは論争に強いアレクセイ氏の勝利の秘訣は、ヤクザ調の脅しのせいであったと勘違いされてしまうのではないか、と心配してしまいます。あくまで、脅しではなく、理で強いのですから、ね。折角の利点が相殺されてしまうように思えるのです。
>  ところで、ここの日記を見ている人は、どちらかが死に至るまで続く「アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル」を愉しみにしているのでしょうか。世紀末じゃないんですが、ねぇ。純粋なゲームとしては、なかなかの趣向だとは思うのですが、何分、はなはだ散文的な理由で申し訳ないですが、そんなバトルを継続して行えるほどの暇はないものですから、あまり望んでおりません。


そこまでわかっているんなら、私が『啖呵』において「警告」を与えているうちに、しかるべき謝罪をすべきでしたね。なぜなら、このあとに来るものは『理』であり、つまり『啖呵』で語ったことの論証であり実証しかないんだから。

言い換えれば、――これから私が語るのは「はらぴょん論」です。はらぴょんさんが、どんな人間かを、はらぴょんさんの言動に即して、論証していく。これは、批評としてはあくまでも「ごく当たり前の行為」だけれども、当たり前の行為だからこそ「救いがない」ということです。

例えば、以前、はらぴょんさんは、竹本健治の公式ホームページである『玲瓏館』とのリンクが切れていたことを発見して「嫌われたんだ」と嘆いておられました。そして、ご自分は、どうせ長く生きられない人間だとか何とか「詠嘆調」で書いておられました(はらぴょんさん、あれはいつでしたかね?)。
これは、はらぴょんさんが、オフで個人的に語ったのではなく、「ミクシィ」の日記としてアップされた「公式見解」だったからこそここで言及しているんですが、はらぴょんさんは「そういうことを書く人」だというのが、ここでハッキリとわかる。――つまり、自制心に乏しく、感情に流されて書くけれども、本人にその自覚は乏しい、ということです。

ともあれ、はらぴょんさんがこのように「思い込んだ」のは、竹本健治の作品について、多少なりとも「肯定的でない評価」を書いたからだったと記憶します(はらぴょんさん、どうでしたかね?)。それで、竹本健治に「嫌われて、切られた」んだと思い込んだんでしょう。
で、私は「そんなことはありませんよ。竹本健治はそんなことをいちいち気にする人じゃないし」と慰めました。たとえ、はらぴょんさんの「思い込み」がで当たっていたとしても、批評行為によって作家に嫌われたことを「公に向けて嘆く」などという感覚は、そもそも批評家としての自覚と覚悟に欠けた「情けない態度」だと言えるでしょう。が、ともあれ、こんな「小心」な はらぴょんさんが書く程度の「及び腰の批判的批評」で嫌われるのなら、私は遠の昔に、竹本健治に縁を切られていただろうという確信がありましたので、竹本に電話して「はらぴょんさんが、こんなこと書いてるけど、確認してあげてくれませんか」と依頼し、竹本は覚えのないことながら確認してみると、事実リンクが切れていたので、管理者に連絡して、再度つないでもらうように手配した、ということがありました(ちなみに、私が竹本健治に電話することなど、事務連絡的なことを除けば、年に一度もないことです)。
無論、このことは、はらぴょんさんも今回ここで、初めて知らされる事実です。

で、こうした「事実」をなぜ公にするのかと言えば、はらぴょんさん自身のことについては、ご本人が進んで公にしたことですし、私の行為については、今までは公にする気も無かったし、する必要も無かったけれど、ここに来て、はらぴょんさんという人の「本質」を明らかにする上では、たいへんわかりやすい「事例」だと考えたからです。

さて、この事実から、合理的に引き出せる「はらぴょん像」とは、如何なるものか?

(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている。

という事実が、まず挙がられます。
「有名人好き」というのは、べつに問題はありません。誰でも、多かれ少なかれそうだからです。ただし、はらぴょんさんは「批評」をなさっていますから、そこには「批評家としての公正さ」でなければならない。つまり、「好きなもの」を語る時は、相手を怒らせないか嫌われないかと「及び腰の批評」になったり「お追従批評」になるのに、「そうでないもの」に対してなら遠慮会釈なく批評して「それが当たり前の態度」だなど自慢するような、そんな「不公正」は許されない、ということです。

しかし、竹本健治に対する「過剰な反応」からも明らかなとおり、はらぴょんさんは「自分の感情を殺してでも、公正に徹する」ということができません。それができる人ならば、そもそも大の大人が「嫌われてしまった」などという「泣き言」を公にして、他人や(もしかすると竹本健治の)同情を惹こうとするわけがない。そんな醜態は、批評家と言わず、自制心や矜持のある人間には、到底できることではないからです。

したがって、はらぴょんさんには「個人的な感情」を殺した、「公正な批評態度」は不可能です。つまり、「感情に流され」た「不公正な批評」しかできない、ということです。
そのため、はらぴょんさんは「好きなもの」について語る時は、自ずと「お追従批評」あるい「及び腰の批評」になります。具体的に言えば、清涼院流水、小森健太朗、竹本健治などについては、公正な批評ができない、ということです。

で、はらぴょんさんのこうした「わかりやすさ」は、例えば「作家と直接やりとりができた」というような「経験」が加わると、ほとんど決定的なものになります。平たく言えば、せっかく「お近づきになれた」という「幸運」に「しがみついてしまう」ということです。

今回の、私やホランドくんの文章に対する「搦手の悪口」も、それは私が、はらぴょんさんの日記、

・ 2007年02月10日「『魔』」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648

へのコメントとして、はらぴょんさんがコミュの管理人を勤める「小森健太朗」に関して、


『分析したとおり、西尾維新は「今や笠井潔を評価していない」可能性が非常に高い。にもかかわらず、そこには目を瞑って、西尾維新らの名前を利用するのは、批評家のすべきことではないはずです。しかし、小森健太朗は、事実それをやってしまっている。――権力者に媚びると、人間は覿面に堕落するという、これは端的な実例です。

小森健太朗のファンである はらぴょんさんにはつらい現実かも知れませんが、これは否定できない事実だろうと思いますし、たぶんはらぴょんさんも、なかば以上お気づきなんじゃないかとも思います。』


と書いたからでしょう(2007年02月10日13:36 )。
はらぴょんさんは、この書き込みにつづくコメントの中で、この話題とはまったく関係のない、「アレクセイの花園」でのホランド氏の書き込みについて、いきなり否定的な言及を始めています(2007年02月11日08:16 )。

そして、さらに、はらぴょんさんは、それに続く書き込みで、私が「アレクセイの花園」に書いた竹本の新刊『キララ、探偵す。』についての文章に言及して、私の文章を「一部」引用して、次のように指摘しています(上半分が、私の文章の引用。下半分が、それに関する、はらぴょんさんの見解)。


『例えば、
 『「どうしたんだよ、そんな顔して」
  (…)
  「いや、実はかくかくしかじか」』(P53)
という『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』でも使われた、「メタ・フィクション」的手法。

2007年02月01日 00:16の方が、先でしたね。
いや、実は「かくかくしかじか」を発見したとき、アレクセイさんの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューから判断して、これは着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りしたのです。(←いやな奴だねぇ。まったく。)』


ここで、はらぴょんさんは、この点についての指摘は、自分のほうが『先でしたね。』あるいは『アレクセイさんの(…)着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りした』と書いています。――しかし、これは「恥知らずなレトリック(意図的欺瞞)」です。

事実は次のとおり。
私が『キララ、探偵す。』について上のように指摘した『「メタ・フィクション」的手法』については、はらぴょんさんも紹介している、私の『狂い咲く薔薇を君に』評、

・ 「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」2006年04月26日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=123885033&owner_id=856746

において、『あのう、それはかくかくしかじか』 (『狂い咲く薔薇を君に』P230)というセリフを含む、同作の3箇所に見られる「同種の技法」を指摘した上での、


『と、作中人物のセリフのなかで、「小説文法からの逸脱」的な「省略」がなされます。

 むろんこれらが、凡百の作家においてなされたものであれば、単なる「無神経」だと理解することも可能なのですが、作品に「メタ」的視点を導入するのが常態だと言ってもよい竹本健治の場合、そのような無神経さは、ほとんど考えられないことなのです。そして、そうだとすれば、これらは故意になされた「不自然な描写」だと理解する方が、むしろ自然だと言えるはずです。 』


という「私の指摘(見解)」を踏まえたものです。――と言うよりも、この点に関する指摘と、その意味を指摘することが、拙論の「眼目」であり、拙論を読んだ者であれば、「誰」でも『キララ、探偵す。』における「同様の部分(まったく同じ言い回し)」の意味を理解できるし、その箇所を「指摘」するのも容易なのです。
つまり、私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」を読んだ後に、『キララ、探偵す。』における上記の箇所を指摘するのは、私の批評に対する『先回り』ではなく『後追い』であり、その観点がすでに私によって指摘されたものであるという「断りを入れないで」なされた指摘は、所詮は単なる『猿真似』でしかない、ということです。

はらぴょんさんは、

・ 「『キララ、探偵す。』補足」2007年01月29日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=331067408&owner_id=491648

で、自分の書いた、


『ただ、普通のミステリと違うのは、「いや、実はかくかくじかじか」(53ページ)のような表現があることで、同じことを何度も書くのは、書く方も読む方もめんどうだし、小説=虚構だからいいじゃないの、ということで書かれているのだと思いますが、そこが違うということです。
このことは、メタ化とかかわってくると思いますが、そんなことは気にせず、愉しめばいいと思います。』


という指摘が、私の『猿真似』でしかないということを重々自覚していたからこそ、私が『狂い咲く薔薇を君に』で指摘しておいた点を『キララ、探偵す。』でも指摘すると(もちろん、私の指摘はそれだけではないが、はらぴょんさんは、そこしか紹介しません)、読者の多くが私の「『狂い咲く薔薇を君に』を読む」までは読まないだろうことを見込んで、


『いや、実は「かくかくしかじか」を発見したとき、アレクセイさんの『狂い咲く薔薇を君に 牧場智久の雑役』のレビューから判断して、これは着目しそうな箇所だと判断し、先回りして書いておこう(笑)と、小躍りしたのです。(←いやな奴だねぇ。まったく。)』


と書き、私の『着目しそうな箇所』だと暈して、私が遠の昔に着目し指摘しておいたという事実を、そうではなかったかのようにレトリカルに「隠蔽」した上で、さも自分が、私の「未指摘の論点」を見抜き、『先回り』して指摘したものであるかのように「装った(偽装した)」んですね。

もちろん、他人が指摘したことを、改めて指摘してもかまいません。それについて「この点については、すでに○○氏が指摘済みであるが」などという律儀な断りを入れろとも言いません。
しかし、自分が黙って、他人の『猿真似』をやっておいて、それが露見しそうになると、それを「第三者」に対してのみ、その「事実」を隠蔽しようとする「姑息な態度」は、さすがに「見苦しい」し「人間として卑しい」と感じたので、私は、先の、はらぴょんさんの日記ページ、

・ 2007年02月10日「『魔』」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=342180103&owner_id=491648

に、


『それは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか(笑)。』


とだけ、警告的にたしなめるに止めてのです(2007年02月12日)。

しかし、はらぴょんさんは、こうした「忠告」すら、気に喰わなかったのでしょう。自分の行為を恥じるのではなく、逆に、

・ 「批評におけるパラダイムの混在」2007年02月15日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648

を書いて、『「江戸の敵を長崎で」というような、陰険姑息な、回りくどい批判』を行ったのです。

で、これには、さすがの私も堪忍袋の緒が切れ、同コメント欄に、はらぴょんさんのこの日記も所詮は、まともな反論ができない「腹いせ」に行われた、


『所詮は、ちょっと専門的な知識を持っている人間が、専門家だと名乗ってもいなければ、誰が見ても明らかに素人でしかない者の文章に対し、その知識を鼻に掛けて、「粗探し」をし「ケチ」をつけた「だけ」でしかありません。こんなことは、「恥」さえ知らなければ、誰にでもできる』


筋違いの「嫌がらせ」でしかなく、そちらがそんな「不誠実な態度」を採るのであれば、私も容赦はしないと、次のような「最後通牒」を突きつけることになったのです。


『端的に言いましょう。私とホランドくんに対する、この無礼な仕打ちについて、率直に謝罪して下さい。
例によっての「泣き」が入っても、容赦はしません。私は、やるとなったら、相手がそれで自殺しても構わないという覚悟でやるんだから、泣いたの落ち込んだのといったことでは、金輪際、赦したりはしないから、その覚悟でいてください。
無論、逃げてもダメです。逃げれば、貴方が何を書いて、こうなったのかについて、貴方の文章を引用し、証拠を「世間」に曝して、批判するだけです。

例えば、こないだ『これは「先回り」なのか「後追い」なのか、それとも「ウロボロス」なのか』と、暗にたしなめておいたことについても、はらぴょんさんのなさったことが、単なる「猿真似」であったということを、原文を紹介して論証し、それやこれやで内心面白くなかった貴方が、こんな陰険姑息な文章を書いたのだということを、公然と批判してあげましょう。あの人もこの人も見ている前で、呵責なく、貴方の卑小さを腑分けしてあげましょう。

言わないとわからないのなら、わかるまで教えてあげます。貴方も、子供じゃないんですから、文章を公にする以上は、その覚悟でいてください。』


しかし、それでも、はらぴょんさんは「知らぬ存ぜぬ」で誤魔化そうと、この、

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

というページに示された、誤魔化しと不誠実に満ちた「見解」を明らかにしました。
――こうなっては、もう容赦はできない。こんな人間に「私はあたりまえに、批評や思想の話をしただけです」みたいな「専門家づら」をさせておくことは、「批評」のためにも「思想・哲学」のためにも、そして、はらぴょんさんご本人のためにもならないと判断し、こうして本格的な批判を「開始した」というわけです。


はらぴょんさんとは、一体どういう人なのか? その一点目は、前記のとおり、

(1) 有名人好きであり、好きな有名人から嫌われることを、極度に怖れている。

という点にあり、この点を分析してわかるのは、前述のとおり、

(2) 批評が、恣意的であり、公正さ誠実さに欠け、感情的である。

という点でしょう。
また、はらぴょんさんが「現代思想に関する知識」を振り回したがるというのも、(1)の権威主義に由来しており、ご本人の見識らしき見識など、実際にはほとんど存在せず、はらぴょんさんの「博識」は、「公正な判断のための参照事項」ではなく、もっぱら自分の「好み」の「箔づけ」にしかなっていない、ということがわかってきます。

例えば、日記、

・ 「『キララ、探偵す。』」2007年01月28日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=329902598&owner_id=491648

で、長々と書かれているご意見も、これは作者自身が作中人物の口を借りて、作中で語っていること(P100〜101)について、それをそのまま「衒学趣味的に飾り立て」「追認するもの」でしかなく、はらぴょんさんの「独自の考え」といったものは、まったく見あたりません。

これは、はらぴょんさんのテクスト全般に言えることで、書いている「内容」そのものは、別に目新しくもなく、個性的でもない。そこには、単なる「趣味的な肯定・否定」でしかないのですが、それを「思想哲学」に関する「知見」で飾り立てているために、「その部分」に幻惑されて、「なんだかすごいことを書いている」かのように「素人には見える(誤解される)」に過ぎないのです。
ですから、はらぴょんさんのテキストから、そんな「権威主義的レトリック」を取り除いたら、いったいどれだけのものが残るでしょう? ――その答は、誰の目にも明らかです。

だからこそ私は、はらぴょんさんへの今回の「警告」において、


『ここでなされたのも、所詮は、ちょっと専門的な知識を持っている人間が、専門家だと名乗ってもいなければ、誰が見ても明らかに素人でしかない者の文章に対し、その知識を鼻に掛けて、「粗探し」をし「ケチ」をつけた「だけ」でしかありません。こんなことは、「恥」さえ知らなければ、誰にでもできることですよ。
例えば、ミステリばかり読んでいる人が「○○も読んでいなきゃ、ミステリは語れない」などと言いたがる、あれとまったく同じ。自慢できることが少ないからこそ、ささやかなオタク的知識(本人の成長にはまったく寄与しない、知識のための知識)を最大限にひけらかす。その態度が、「品位」に欠け、「知性」にも欠けたものであるいうことにも、いい年をして気づかない、本質的な「暗愚」。』


と書いたのです。
つまり、はらぴょんさんの「思想哲学」に関する考え方は、常に「下向き」であり、「自分より知識の少ない者に向けて」書かれた、志の低い「自己権威化指向」に貫かれたものでしかない、ということなんですね。

はらぴょんさんの「思想哲学」的な知見は、所詮は「素人」「趣味人」の域に止まるものであり、その範囲においてのみ、「素人」や、あるいは「プロ」からも「すごいですね」と煽ててもらえる類のものでしかありません。
人は、相手の知識がいかに浅薄なものであるかを知っていても、「素人のそれ」をいちいち挙げつらったり、批判しようとはしません。そんなことをすれば、それが自分に返ってくるのは見えた話なんですから、幼稚児のお遊戯を誉める時の大人と似たような態度で「すごいですねえー」と無難に誉めて見せるものなのです。

で、こんなことは、はらぴょんさんが、ご自分の「教養」について客観的でありうるのならば、わかりきった話だと言えるでしょう。しかし、はらぴょんさんは、(1)権威主義的であり、(2)感情的ですから、誰よりも「自分のこと」については「客観視」できません。むしろ、誉めてもらえば、それをそのまま信じようとするでしょうし、その「お愛想」にすがって、「本質的自信を欠いた、ひ弱な主体」を支えようとするでしょう。そして、その結果、そうした「逃避的な幻想としての自負」を揺るがしてくるような、私のような存在、つまり、「知識など何ほどのものか」と言い切り、それを実証してしまうような存在を、内心で「憎み」つづけるのです。

でも、はらぴょんさんも、まんざらバカではありませんから、と言うか人並みの頭はありますから、私に対して手出しするのがいかに危険かということに、気づいていないわけではありません。だから、できれば、事を荒立てたくはない。
けれども、そのように、物事を曖昧にしておきたいのならば、私について言いたいことがあったとしても、それを我慢するのが「理性的な態度」であり「自制心」というものなんですが、はらぴょんさんは(2)感情的な人間で自制心に欠ける上に、はらぴょんさんにとっての私は「何の権威もない人間」、つまり「嫌われるだけなら」かまわない人間(けれども、攻撃されるのは困る、という中途半端な存在)だから、はらぴょんさんは、つい自制が利かなくなったというわけなのです。

はらぴょんさんの「自制心の無さ」は、その「文体」に表れた「衒学趣味」にも明らかですし、「コレクション自慢」に止まらない「自慢好き」ぶりにも、明らかでしょう。
はらぴょんさんの場合、「思想哲学」的な教養は、他人に向けての「ひけらかしの道具」であり「自慢のコレクション」であって、ご自分の「思想」や「思考」や「意思」や「批評性」を「鍛えるもの」ではありません。むしろ、そのブクブクと膨らんでいく「着ぐるみ」の厚みによって、その内側に秘められた「素肌」は、どんどん「脆弱さ」を増していっているとも言えるのです。

この、日記、

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

における、「見せかけだけの強がり」と「明示されない本音」は、次の「結論部分」に明らかです。


『 それにしても、アレクセイ氏の啖呵って、凄いですねぇ。しかしながら、これでは論争に強いアレクセイ氏の勝利の秘訣は、ヤクザ調の脅しのせいであったと勘違いされてしまうのではないか、と心配してしまいます。あくまで、脅しではなく、理で強いのですから、ね。折角の利点が相殺されてしまうように思えるのです。
 ところで、ここの日記を見ている人は、どちらかが死に至るまで続く「アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル」を愉しみにしているのでしょうか。世紀末じゃないんですが、ねぇ。純粋なゲームとしては、なかなかの趣向だとは思うのですが、何分、はなはだ散文的な理由で申し訳ないですが、そんなバトルを継続して行えるほどの暇はないものですから、あまり望んでおりません。』


――『そんなバトルを継続して行えるほどの暇はない』などという「言い訳」は、「バトル」とやらを「やったことのある人間」にだけ許されるものであり、


『ど素人を相手にして知識自慢をするか、専門家当人の見ていないところで、あてにならない知ったかぶりの批判をしてみせるか。――こういうのにかぎって、本物の専門家の前では、借りてきた猫みたいにおとなしくなる』


などと私に当て擦られて、それには反論できないような人間の言うことではない、というのも明らかでしょう。

そもそも、自分から進んで他人を批判しておいて、それについて相手が反論してきたことに対し『そんなバトルを継続して行えるほどの暇はない』と言う権利など無いというのは、批評家ならば常識として弁えていることでしょう。つまり「責任を取ることのできないような批判なら、初めからするべきではない」ということです。

無論、こんなことは、はらぴょんさんだって先刻ご承知なんですが、『バトル』をやりたくない人間、やる自信のない人間は、それを正直に表明するかわりに、その「時間がない」ということで誤魔化そうとするものなんですね。つまり、「時間がない」という「言い訳」は、「逃げ口上」の最たるもの、ありふれたものなのです。

さらに指摘しておくと、

・ 「批評におけるパラダイムの混在」2007年02月15日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648

に書き込まれた、私の「批判、および謝罪要求」に対し、どうして、わざゎざこの日記、

・ 「見解」2007年02月20日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=351850005&owner_id=491648

を立てて、そこで返答したのかも、この本質的な「逃げ腰」に、その「意図」は明らかです。
つまり、はらぴょんさんは、先のページに書かれた、私による「批判、および謝罪要求」をできるかぎり、「第三者」に読ませないようにし、自分の文章だけを読ませ、その「印象」だけで、ご自分を「第三者の嘲笑」から救おうとしたのです。

これは、先に書いた「竹本健治作品におけるメタフィクション的記述」に関する、はらぴょんさんの「書き方」にも明らかです。
はらぴょんさんは、私が「先に指摘したおいて事実」においては、しごく「曖昧」にしか言及しませんし、もちろん、この私の文章のように、リンクを張って明示することもしません。つまり、できるかぎり「自分に不都合なものは、読者に対して隠蔽しようとする体質」をお持ちなんですね。そして、それをここでも実行している。

そしてこれは、はらぴょんさんの「衒学趣味」の裏返しとして、充分に納得できるところでしょう。
つまり、自分の「箔づけ」になることなら「不必要なまでに喧伝する」一方、自分に不都合な事実については「不公正(アンフェア)なまでに隠蔽する」というわけです。

言い換えれば、はらぴょんさんの「文章」とは、常に「自分を、実際以上のものに見せよう」とするための、「第三者の目」だけを意識した「客観性に欠ける記述」のみ、なのです。
そして、そこには、自分が論じている「対象=相手」への「公正な配慮」が欠落しています。そのようなものが有るかに見える時も、それは自分が「公正な人間であるということの自己喧伝」にかぎられ、その効果が見込めない時には、そういう「当然の配慮」もしないのが、はらぴょんさんの「素の態度」だということです。



このように見ていけば、はらぴょんさんという「アマチュア批評家」が、いかにも「アマチュアらしい動機」によって動き、その範囲を一歩も出ていないか、というのが明らかになるでしょう。こうした「動機と行動」においては、はらぴょんさんがひけらかしたがる「現代思想的知見」は何の役にも立ちませんし、事実、役に立ってもいません。――と申しますか、むしろその度しがたい「ひ弱な自己愛病」を「膏肓」にいたらしめる、悪しき要因にしかなっていないというのは明らかです。
つまり、はらぴょんさんが「依存」する、ご自身の「博識」とは、その程度のものであり、所詮は、その胸に麗々しく飾られた「おもちゃの勲章」でしかない、ということです。


そして、ここまで、長々と綴ってきた「はらぴょん論」での指摘は、あたりまえに文章を読める人間にとっては、「何を今さら」といった「わかりきった話」でしかありません。しかし、だれも、それをあえて指摘することはしなかった。なぜなら、三十を過ぎた大の大人に対し、今さらそんなことをしても「改まらないであろう」ことは、ほぼ明白なことだったからです。

しかし、そうした「放置」だの「甘やかし」だの「黙殺」によって、自制心に欠けるはらぴょんさんは、ご自分に対する「過大な逃避的幻想としての自己像」を、なんとかここまで守って(保って)きました。で、その挙げ句、その「肥大した自意識」によって、私に対し「無礼」を働くことにもなったのです。

私とて、いかにも「現代思想オタク的な博識」が自慢の、ただ「アマチュア批評家」を、積極的に批評・批判したいとは思いません。しかし、この甘え掛かる「火の粉」は払わねばならないし、「鬱陶しい」にも限度があろうというものなのです。


私の「はらぴょん論」は、今日はひとまずこれくらいにしておきましょう。しかし、「予告」したとおり、なすべき「謝罪」もできない甘ったれに、かける情けはありませんから、これからもまだまだ「その態度」について、分析・批評・批判を加えていく予定です。つまり、順次その言及・発言の範囲を「拡大」していきます。

もちろん、「アレクセイの花園」での、私やホランド氏の発言に対する「的外れな批判」については、まずあちらで明らかにし、その上で、こちらでも同様の報告をすることになるでしょう。そして、この文章も、いずれあちらでも公開することになるでしょう。

したがって、読者諸兄には、はらぴょんさんが、そうした私の文章を読んでいるということを前提にして、彼の反応を観察していただきたいと思います。たとえ「時間が無いので、アレクセイさんの文章はフォローできません」などと誤魔化そうとしても、それができるほどの自制心が、はらぴょんさんには無い、ということを踏まえておいていただきたいと思います。

私は、だてに十五年にもわたっての「笠井潔批判」を、実行してきた人間ではありません。つまり「無視黙殺すれば、それでいずれは飽きて黙るだろう」などという期待を持つべき相手ではない、ということです。

私が望んでいることは、いたって単純です。要は、はらぴょんさんの書いたことが正しいのか、それへの私の反論が正しいのか、それをハッキリさせたいだけです。「暇がない」などという、いい加減な言い訳を認めて、それで事実の究明を「曖昧」にしたくはないし、するつもりもない、ということです。

したがって、はらぴょんさんが自分のなした「発言」に対するこの批判に対し、今後も今回のような「誤魔化しにみちた、不誠実な態度」を採るのであれば、私の批判は、さらに拡大します。隠蔽は、断じて許しません。
ともあれ、私には、批判された者としての「反論する権利」があり、はらぴょんさんには「批判した者」としての「応答義務」があるんですから、お互いアマチュアとは言え、批評をやっている人間として、いい加減なことでは済まされない。自分自身に関わることだからこそ、白黒ハッキリさせて、その襟をきちん正さなければならない、ということです。

さあ、はらぴょんさん、私の「反論」第1号は、ここに放たれました。どのような態度で、これに「応答」してくれますか? はらぴょんさんの反応を楽しみに拝見したいと思います。
No.226 - 2007/05/14(Mon) 20:09:05

mixi(3)-2 / ☆ [ Mail ]
lainさんのコメント 2007年02月20日 00:53

傍観している(?)lainでございます。
はらぴょんさん、アレクセイさんのやりとりについてあまり精査もしないまま、安易に突っ込むようなコメントをしてしまったことはお二人に謝罪しなければならないと思います。申し訳ありません。
私個人としてはデスゲームを望んでいるわけでも何でもありませんが。どちらかが死に至る前にどこかバランスの取れたところに収斂してくれると一番いいんでしょうけど、そうはならないかもしれません。
しかし、酒を飲みながらこんなコメントを書いている私が最も小ざかしい浅知恵の人間であり、矮小な人間ですな、うーむ。
No.224 - 2007/05/14(Mon) 07:49:50

mixi(3)-1 / ☆ [ Mail ]
はらぴょんさんの日記 見解 2007年02月20日 00:18

 私の理解することころでは、アレクセイ氏は、「批評におけるパラダイムの混在」http://mixi.jp/view_diary.pl?id=347184234&owner_id=491648で私が提示した分類、すなわち

1.現象学・実存主義のパラダイム
2.構造主義のパラダイム
3.文化記号論のパラダイム
4.ポスト構造主義のパラダイム

でいえば、地に足のついた"1あるいは合理主義"に沿って発言する人であって、2〜4に属する思想家について発言するときも、"1あるいは合理主義"から納得のいく領域だけを限定的に評価して利用しているおり、自分の納得のいかないことには言及しないことが、アレクセイ氏の強みであると考えてきました。
 ですから、「批評におけるパラダイムの混在」に関して云えば、アレクセイ氏に「批評におけるパラダイムの混在」が起こりようがなく、文中指摘した『構造と力』に関するどうみてもミスリーディングの箇所を、同居人(なのかな。まぁ、そこのところはよくわかりませんが。)のホランド氏に伝えて、問題のテキストを確認された上で、部分的に軌道修正すればいいだけの話であって、こんなところで怒ると「あれれ、どこかで批評におけるパラダイムの混在をやっている自覚があるんだろうか。」と邪推してしまいます。
 (ちなみに、この箇所の指摘は、「批評におけるパラダイムの混在」より前の日記ですでに書いていますが、見事に無視されましたので、だんだんくどく指摘しております。原文を読めば納得いただける箇所だと思いますので、ご検証をお願いします。なお、この箇所に見られるような適切でない批判は、今回、ホランド氏が原文全体を読んでいなかったためだと考えますので、訂正するのはホランド氏の方であり、私が陳謝するのは納得いきませんで、致しかねます。)
 「批評におけるパラダイムの混在」を読んだら、「そうそう、バタイユ主義者の笠井氏は、<栗本は○で、山口は×>の原則だったのに、なぜか『空の境界』の巻末解説では、山口評価をしてますからねぇ」といったようなコメントが返ってくると思ったのですが、的中しませんでした。
 それにしても、アレクセイ氏の啖呵って、凄いですねぇ。しかしながら、これでは論争に強いアレクセイ氏の勝利の秘訣は、ヤクザ調の脅しのせいであったと勘違いされてしまうのではないか、と心配してしまいます。あくまで、脅しではなく、理で強いのですから、ね。折角の利点が相殺されてしまうように思えるのです。
 ところで、ここの日記を見ている人は、どちらかが死に至るまで続く「アレクセイ氏 VS はらぴょん 世紀末バトル」を愉しみにしているのでしょうか。世紀末じゃないんですが、ねぇ。純粋なゲームとしては、なかなかの趣向だとは思うのですが、何分、はなはだ散文的な理由で申し訳ないですが、そんなバトルを継続して行えるほどの暇はないものですから、あまり望んでおりません。
No.222 - 2007/05/14(Mon) 07:45:49
そもそも「著者」概念を批判していた人達が? / 藪木二郎 [関東]
メルロ・ポンティ→吉本隆明→(岸田秀)。

これはいわゆる「日本のポストモダン」の、一つの大きな流れでしたよね? ……と言っても現代思想をやっている人達は、かつて自分が言っていたことに関して、すぐに「スッ呆け」ますからね……。

さて上の系譜にあって岸田秀が括弧に入っているのは、「彼の『唯幻論』からは『対幻想』が抜け落ちている」などといった批判が定番だったからでありまして、「『自己幻想』も『共同幻想』も中心は一つ。『対幻想』だけが中心が二つ。故にオタクにもならないしナショナリズムにも巻き込まれない」、などと言われていました。なんでも、「『対幻想』だけが『他者』との関係を含んでいる」、ということなのだそうで……。

ところがこの「対幻想」が、ある面で「近代主義的」な「商品交換」の論理を帯びてきてしまうところがあるわけでして、「『近代主義』を攻撃する人ほど『近代主義的』なんだよなぁ……」という結果にもなり勝ちだったわけです。

こうした人達にしても、メルロ・ポンティや岸田秀を使って「自説への地ならしを行ってい」たのでしょうし、「それでもやはり……、結果的に……」ということだったのだと思います。

> 浅田さんの議論の基底は「自己(私=我)」であり、それに対応する「非・自己=他者」だと思うんです。だから、「自己」が確立されているならば(前提条件)、「他者」との『相互交換』も可能であろう、というような議論になっているんですね。

「浅田さんの議論も……、結果的に……」ということは大いにあり得ることですし、実際に、「浅田によると……」などとも言っていてた人達が、上の話をしてくれたわけです。因みに上の話、『構造と力』とほとんど同じ装丁の本からのパクリなわけですし、セットにして読んでいた人も、結構いたのではないでしょうか?
No.220 - 2007/05/13(Sun) 22:26:11
ミクシィでの一連の遣り取りについて / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 これから、ミクシィではらぴょんさんアレクセイさんを中心に、2月中旬から3月中旬になされた一連の遣り取りを、11のスレッド、91の投稿というかたちで再現してまいります。

 ミクシィの形式になじみのない方に、若干の説明をしておきます。
 ミクシィは、各人が日記を公開することが出来ます。日記には、本人を含め、日記閲覧者がコメントを寄せることができます(ブログの形式に近いものです)。
 マイミク(という親密さの証明のような関係があり)の方の日記が書かれるとそれが(自分のトップページにタイトルが表示されるというかたちで)知らされます。自分がコメントを寄せた日記に新たにコメントが寄せられると、それも知らされます。マイミクの方の日記にコメントが寄せられても、自分がコメントを寄せていない限り、それは知らされることはありません。
 他の人が自分のページを訪れますと、「足あと」というかたちで、それが(自分にだけ)知らされます。「足あと」が残るので、あるヒトが自分のページを訪れたか訪れていないのかは分かります。足あとを残していったヒトのページを訪れるのは(ワンクリックで済み)容易なことです。そして、問題のあるヒトのページに「足あと」を残すのを厭う風潮があります。

 ここでは、スレッドを各日記に対応させることとします。フォントの色相の違いによって投稿者の違いを、フォントの明度の違いによって日記の主の違いを表現し、直感的な理解の補助とすることにします。実際の投稿の順番に従って、投稿していきます。投稿の間隔は残念ながら正確なものではありません。
No.182 - 2007/05/10(Thu) 22:00:51

mixi(0-1)からmixi(0-4)について / ☆
 mixi(0-1)からmixi(0-4)は、mixi(1)より前に発表されたものです。
No.214 - 2007/05/13(Sun) 01:48:09

投稿者名について / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 この場への投稿者と、mixiでの投稿者との間での混乱を避けるため、この場への投稿者名を☆で表すこととします。
 ですので、mixi関連の投稿での☆は、杉澤鷹里のこととご理解ください。
No.185 - 2007/05/10(Thu) 23:27:28
mixi(0-4) / ☆
はらぴょんさんの日記 『キララ、探偵す。』補足 2007年01月29日 07:03

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=331067408&owner_id=491648
No.208 - 2007/05/13(Sun) 01:28:23

mixi(0-4)-5 / ☆
はらぴょんさんのコメント 2007年01月31日 02:19

名古屋のジュンク堂には、3冊ありました。
背表紙だけが見えるかたちでおいてありました。

アニメショップに置いてあるかは、まだ未チェックです。
No.213 - 2007/05/13(Sun) 01:32:20

mixi(0-4)-4 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年01月30日 13:22

『キララ、探偵す。』が売れている、かも知れません。

昨日、通勤の途上で立ち寄った「ブック・ファースト」には、5冊くらいが面陳で置かれていました。「明日、仕事を終えてから買おう」と先ほど立ち寄ったところ、売り切れだという……。

本当か、本当なのか? ――と自問しつつも、別の書店で無事購入。
しかし、あの装丁だからこそ、売れているのかも知れません。

竹本健治も知らずに買った、君。
そりゃあ、かまわないけど、わかりやす過ぎだよ……(-_-;)。
No.212 - 2007/05/13(Sun) 01:31:40

mixi(0-4)-3 / ☆
はらぴょんさんのコメント 2007年01月30日 00:46

『果実』10割読了。
これについては、明日以降言及します。
No.211 - 2007/05/13(Sun) 01:30:59

mixi(0-4)-2 / ☆
はらぴょんさんのコメント 2007年01月29日 23:30

現在時点で、『果実』は9割読了。
前半、ストーリー展開の面で単調さが否定できませんでしたが(その代わり、凝った文体とか、引用とその換骨奪胎は、並の水準を遥かに越えていますが)、6割目移行はストーリーの面(推理合戦)でも結構楽しめました。
というわけで、これについてはしばし時間をください。
No.210 - 2007/05/13(Sun) 01:30:20

mixi(0-4)-1 / ☆
はらぴょんさんの日記 『キララ、探偵す。』補足 2007年01月29日 07:03

先日の日記で、小難しいことを書きましたが、この本はエンターテイメント作品です。
各章ごとに謎解きのあるストーリーなので、ネタバレを回避しようとすると、どうしても先日のように重箱のふちをつつくようなことになります。
ということで、小難しいことが苦手な方も、安心してお読みください。

ただ、普通のミステリと違うのは、「いや、実はかくかくじかじか」(53ページ)のような表現があることで、同じことを何度も書くのは、書く方も読む方もめんどうだし、小説=虚構だからいいじゃないの、ということで書かれているのだと思いますが、そこが違うということです。
このことは、メタ化とかかわってくると思いますが、そんなことは気にせず、愉しめばいいと思います。

ということで、キララは読了したので、再度『果実』に戻ります。(あと4割残っています。)
2月になると、『パーフェクト・ワールド2』が出るので、今月中に読み終えたいところです。
ところで、『果実』は、昨日の新聞に載っていたトーハンの週間売り上げランキングで、9位でした。1位は、森博嗣の新作。
No.209 - 2007/05/13(Sun) 01:29:34
mixi(0-3) / ☆
はらぴょんさんの日記 『キララ、探偵す。』 2007年01月28日 00:32

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=329902598&owner_id=491648
No.201 - 2007/05/13(Sun) 01:18:48

mixi(0-3)-6 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年01月28日14:43

はらぴょんさんの日記と、私の上の(長い)コメントを、「アレクセイの花園」(http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html)の方へ、「思考の代補」と題して、紹介させていただきました。
No.207 - 2007/05/13(Sun) 01:27:09

mixi(0-3)-5 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年01月28日 14:21

はらぴょんさんのご意見に触発された、いくつかの点について。

> 「つじつまあわせ」という言葉は、『闇に用いる力学[赤気篇]』にも出てくる重要なキーワードである。私は『闇に用いる力学[赤気篇]』に出てくる「つじつまあわせ」という言葉が、『匣の中の失楽』に出てくる「不連続線」と深いところで繋がっており、さらには人間の意識=魂が「ユーザー・イリュージョン」であるという考えと接点があると考えている。
>  つまり、人間の脳の中ではデジタル処理が為されており、認識の「不連続線」が発生するが、自己欺瞞の技術としての「つじつまあわせ」によって、「不連続線」が見えなくなり、隠蔽されるわけである。
(ここで、自己欺瞞の技術ということから、コリン・ウィルソンの新実存主義との接点を考えることも可能だろう。)

私が引っ掛かりを覚えるのは、「意識」が「つじつまあわせ」による「ユーザー・イリュージョン」だと考えるのなら、人間の意識を「不連続線以前の、デジタル的状態」と「不連続線以後の、意識化状態」とに分割する「不連続線」なるものもまた、「つじつまあわせ」による「ユーザー・イリュージョン」だとは言えまいか、ということです。つまり、そのような「線」や「点」は、「不可能なもの」としてしか存在しない。だとすれば、「意識」というものもまた「不可能なもの」として存在する、とも言えるのではないか、というようなことです。


>(2)キララは、日本の最先端テクノロジーとおたく文化の融合から生まれた。ミス・キャンベルは、日本のおたく文化について、多神教=アミニズム文化という観点から評価を与えている。ミス・キャンベルが批判するのは、西欧の一神教文化であり、そのなかにはキリスト教や資本主義も含まれている。そして、西欧の一神教文化へのアンチとしての精神世界至上主義をも、一神教文化のヴァリエーションとして否定する。
ミス・キャンベルの主張は、日本文化の全面肯定へと繋がるが(彼女の説は、中沢新一の『ポケットの中の野生〜ポケモンと子ども』を連想させる。)、多神教化の路線を現代思想のなかで考え直してみるとどうだろうか。一神教に対して、零神教化路線をとったモーリス・プランショ。一神教に対して、反・一神教路線をとったジョルジュ・バタイユ(彼は、過激な叛逆者のポーズを取りながら、叛逆者たるべく逆説的にキリスト教の価値体系を温存したのではなかろうか。その意味で、一神教のヴァリエーションというミス・キャンベルの皮肉は、バタイユに対してこそふさわしい)。そして、最後に一神教に対して、多神教路線をとったピエール・クロソウスキー。ともすれば、予定調和的な美しい国・日本に回帰しがちな多神教肯定論に対して、クロソウスキー路線もあることを強調せねばなない。
> (3)キララのモード・チェンジについて。昼間の意識と夜の意識の差異について。クララの状態の方が、推理力が増すというのは、興味深い。性的なエネルギーが、意識状態を開くということを暗示しているのだろうか。
> なお、昼/夜の対比は、『闇のなかの赤い馬』におけるミッション系スクールの尖塔/『ウロボロスの純正音律』における地下の対比とリンクしている。昼の意識は、サンボリックな秩序が支配する世界であり、夜の意識はカオスに満ちた欲動がうずまく世界である。
ここに多神教肯定論を導入すれば、多神教的世界こそ、この欲動の渦巻く世界に対して、抑圧の少ない世界ということになる。

この点については、うちの掲示板「アレクセイの花園」でも、いわゆる「後期クイーン的問題」として、ここのところ議論の対象となっています。
『西欧の一神教文化へのアンチとしての精神世界至上主義をも、一神教文化のヴァリエーション』というのがまさにそれで、エラリー・クイーンに象徴される「本格ミステリ」の「ロジック主義」とは、柄谷行人が『隠喩としての建築』で語った西欧における「建築的思考」の謂いであり、「最終根拠としての神」の代役としての「ロゴス中心主義=西欧理性主義」そのものなんですね。でも、そうした「ロゴス的理性」を根底で支える「幾何学」が、数学基礎論の世界で、ゲーデルによって否定されてしまう。つまり、エラリー・クイーンで言えば、「論理」を支える根拠の根拠という形で、最終根拠を問い詰めていくと、論理というものの「底が抜けている」という事実が明らかになってしまう。そこで、エラリー・クイーンは、その無底性に恐怖して、「ロジック」というものの背後に存在した、本尊としての「神」に、思わず平伏してしまったのではないか、――というような話です。つまり、「西欧理性主義=ロゴス中心主義」とは、所詮「唯一絶対神信仰」の「ヴァリエーション」であり「代補」でしかなかったという議論です。

で、うちの掲示板でも「私たち日本人に、はたして西欧人における唯一絶対神の重みが理解できるのか」という話から「日本人は八百万の神だからなあー」という話になり、そこでKeenさんから「しかし、八百万の神を有り難がる意識には、ご都合主義が働いているのではないか」という指摘がありました。つまり、『一神教に対して、多神教路線を』という行き方も、そう甘いものではなかろうということです。それは、多神教国家である日本の歴史を見てもあきらかでしょう。日本では、責任が上へ上へと登っていった果てに、最終責任者である「天皇」は無責任者であったという「逆向きの底抜け」が準備されていました。
絶対根拠としての唯一絶対神は「絶対に誤らない」という点において、実質的な拠り所にならず、責任はすべて個人へと送り返されます。逆に、『抑圧の少ない』、物わかりの良さそうな日本的多神教は、責任の所在をうやむやにして、だれも責任を取らないという「無底性」を露呈します。だから、多神教を、アンチ一神教として捉えるだけでは、ぜんぜん不十分なんですね。


> (3)キララのモード・チェンジについて。昼間の意識と夜の意識の差異について。クララの状態の方が、推理力が増すというのは、興味深い。性的なエネルギーが、意識状態を開くということを暗示しているのだろうか。

という点については、あちらでは下のような議論もなされており、関連があるように思われます。

> 特に素晴らしいのは『お茶しながら『幻影城』を読んでいて、ふと気付きました。』という部分にございます。つまり、これは「ためにする思考」ではなく、「ごく自然なかたちで、ほとんど無意識下での思考がなされている」証拠だからでございます(ユレイカ!)。こういう思考がなぜ素晴らしいのかと言えば、それは自意識が持ちがちな「はったり(ケレン)」の介入が無く、自然で真っ当な思考だからでございます。


つまり、意識的な理性が解除された状態においてこそ、むしろ「自然な理性」が機能するのではないか、というような仮説です。
No.206 - 2007/05/13(Sun) 01:26:15

mixi(0-3)-4 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年01月28日 13:16

『エロエロモード全開』ですか。でも、エロにはエロなりに、好みというものもありますし、竹本さんの好みと私の好みが合致するかは、なかなか微妙なところ。
事実、表紙画・挿絵を担当なさった安森然さんの絵は、うまいとは思うものの、好みとは言えませんからねえー。世間一般の傾向としても、「萌え」を喚起するには、ちょっと生々し過ぎるような……。
まあ、べつに竹本健治にエロを期待しているわけではないので、そっちは好みに合致していなくても構わないんですが(笑)。
No.205 - 2007/05/13(Sun) 01:25:22

mixi(0-3)-3 / ☆
はらぴょんさんのコメント 2007年01月28日 12:38

いっそのこと、メイド服のコスプレ写真集と『萌える英単語もえたん』に挟んでレジに持ってゆくとか……コレデハ、対策ニナラナイデハナイカ(冷汗)。

まぁ、2章目からエロエロモード全開になりますから、表紙は内容と合致していますが。
No.204 - 2007/05/13(Sun) 01:24:19

mixi(0-3)-2 / ☆
アレクセイさんのコメント 2007年01月28日 11:36

うーん、これは買う時に、かなり照れてしまう「装丁」だなあー。
これじゃあ、エロ本の方が、よほど買いやすいよ……。
No.203 - 2007/05/13(Sun) 01:21:54

mixi(0-3)-1 / ☆
はらぴょんさんの日記 『キララ、探偵す。』 2007年01月28日 00:32

 キララが最先端のAI(人工知能)を搭載したアンドロイドだとすると、キララについて考えるということは、人間の精神の機能について、これを<外>に取り出し、対象化して考えるということだ。
 このような操作がなぜ必要かといえば、人間が人間の精神について考えるにあたって、さまざまなドクサがまとわりついているからである。
 キララについて、益子博士は「キララには魂はない」と言っている。「キララに魂を感じているのは君の主観だ」とも。
 キララが人間そっくりだとしたら、それは情報を取り入れ、これを処理し、外に出す過程が、人間に似ているからだ。
 つまり、キララについて考えることは、人間の精神をシミュレーションして考えることである。
 では、キララそっくりである我々人間には、魂はないということなのだろうか。作者が語っているのはキララについてだけであって、人間自身についてではない。だが、有力な仮説として成り立つことを暗に示しているのではないか。
 例えば、トール・ノーレットランダーシュの「ユーザー・イリュージョン」という考え方によれば、人間の意識とは「ユーザー・イリュージョン」であって、0.5秒のタイムラグのうちに脳のなかで意識という仮象が形成され、その上で意識に基ずく反応が為される。
 「ユーザー・イリュージョン」について、次のように考えるとわかりやすいだろう。今、私が操作しているパソコンのデスクトップには「ゴミ箱」があるが、これは本物の「ゴミ箱」ではなく、「ユーザー・イリュージョン」である。そこに「ゴミ箱」があるわけではないが、幾つかの機能を束ねて「ゴミ箱」と名づけることで、操作がし易くなる。
 トール・ノーレットランダーシュによると、意識という「ユーザー・イリュージョン」が形成されるのは、現実世界に生きるために我々が「つじつまあわせ」を行っているからであるという。
 「つじつまあわせ」という言葉は、『闇に用いる力学[赤気篇]』にも出てくる重要なキーワードである。私は『闇に用いる力学[赤気篇]』に出てくる「つじつまあわせ」という言葉が、『匣の中の失楽』に出てくる「不連続線」と深いところで繋がっており、さらには人間の意識=魂が「ユーザー・イリュージョン」であるという考えと接点があると考えている。
 つまり、人間の脳の中ではデジタル処理が為されており、認識の「不連続線」が発生するが、自己欺瞞の技術としての「つじつまあわせ」によって、「不連続線」が見えなくなり、隠蔽されるわけである。
(ここで、自己欺瞞の技術ということから、コリン・ウィルソンの新実存主義との接点を考えることも可能だろう。)

 それはさておき、『キララ、探偵す。』には、他にも考えるべきテーマが含まれている。
(1)ここで、キララのキャラクター設定は、男性にとって望まれる女性像である。つまり、客体としての女性像である。(そうであるがゆえに、萌えキャラとしてのメイド・スタイルとなっている。)この設定について、女性はどう思うのか。さらにいえば、フェミニズムとの関連で、どう評価されるのか。
(2)キララは、日本の最先端テクノロジーとおたく文化の融合から生まれた。ミス・キャンベルは、日本のおたく文化について、多神教=アミニズム文化という観点から評価を与えている。ミス・キャンベルが批判するのは、西欧の一神教文化であり、そのなかにはキリスト教や資本主義も含まれている。そして、西欧の一神教文化へのアンチとしての精神世界至上主義をも、一神教文化のヴァリエーションとして否定する。
ミス・キャンベルの主張は、日本文化の全面肯定へと繋がるが(彼女の説は、中沢新一の『ポケットの中の野生〜ポケモンと子ども』を連想させる。)、多神教化の路線を現代思想のなかで考え直してみるとどうだろうか。一神教に対して、零神教化路線をとったモーリス・プランショ。一神教に対して、反・一神教路線をとったジョルジュ・バタイユ(彼は、過激な叛逆者のポーズを取りながら、叛逆者たるべく逆説的にキリスト教の価値体系を温存したのではなかろうか。その意味で、一神教のヴァリエーションというミス・キャンベルの皮肉は、バタイユに対してこそふさわしい)。そして、最後に一神教に対して、多神教路線をとったピエール・クロソウスキー。ともすれば、予定調和的な美しい国・日本に回帰しがちな多神教肯定論に対して、クロソウスキー路線もあることを強調せねばなない。
(3)キララのモード・チェンジについて。昼間の意識と夜の意識の差異について。クララの状態の方が、推理力が増すというのは、興味深い。性的なエネルギーが、意識状態を開くということを暗示しているのだろうか。
なお、昼/夜の対比は、『闇のなかの赤い馬』におけるミッション系スクールの尖塔/『ウロボロスの純正音律』における地下の対比とリンクしている。昼の意識は、サンボリックな秩序が支配する世界であり、夜の意識はカオスに満ちた欲動がうずまく世界である。
ここに多神教肯定論を導入すれば、多神教的世界こそ、この欲動の渦巻く世界に対して、抑圧の少ない世界ということになる。
No.202 - 2007/05/13(Sun) 01:21:11
mixi(0-2) / ☆
アレクセイさんの日記 さかしまのオマージュ 2006年10月17日 23:40

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=246292763&owner_id=856746
No.195 - 2007/05/12(Sat) 23:40:49

mixi(0-2)-5 / ☆
アレクセイさんのコメント 2006年10月19日 12:59

そうですね。笠井潔の失敗は、どうも自信「過剰」にあるようです。

私もそうですが、やりたいようにやる人間というのは、基本的に嫌われるのだという自覚が必要であり、その意味で「一匹狼」でやるのが一番いいんですね。

ところが、政治は一人では出来ません。なのに笠井潔は、体質的に向いてもいないのに政治を、やれると思っているところがダメだし、そのためにせっかくの才能まで、泥に塗れさせることになっていると思います。
No.200 - 2007/05/13(Sun) 01:09:22

mixi(0-2)-4 / ☆
lainさんのコメント 2006年10月18日 03:32

「くだけちった思い」という意味では今年の笠井を象徴するような面もありますね。敵を本格ミステリ界から消すためのノートがあれば、うまくいったんでしょうけどねー。
No.199 - 2007/05/12(Sat) 23:54:28

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アレクセイさんのコメント 2006年10月18日 03:02

私が拙論で言いたかったのは、西尾維新が『アナザーノート』で書きたかったこともまた、やはり「くだけ散った想い」だとか「届かぬ夢」を生きざるを得ない者の「悲哀」なんじゃないかということですね。
で、そういう観点から、西尾維新は笠井潔を見てもいたのだろう、ということです。

「叙述トリック」に関しては、肯定するにしろ否定するにしろ、わかりきった問題であるだけに、それをどうこう言っても、さほど意味があるとは思えないんですね。
No.198 - 2007/05/12(Sat) 23:53:27

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lainさんのコメント 2006年10月18日 02:36

愛憎半ばする、といったところですかね。あるいは惜別を込めていたのか。いずれにせよ、このノベライゼーションが西尾のきわめて周到な計算の上に作られていたことは疑いなく、作品世界を壊さずストレートなミステリにし、かつギミックまで仕掛けてきた西尾の力量を素直に賞賛すべきでしょう。笠井がらみはどうでもいいし、読者層を考えれば重厚なミステリにする必要なんかまるでないんだし。小学生に理解できる叙述トリックを仕掛けたことがまずえらい。
No.197 - 2007/05/12(Sat) 23:44:44

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アレクセイさんの日記 さかしまのオマージュ 2006年10月17日 23:40

  さかしまのオマージュ
   ――西尾維新『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』論



                          アレクセイ(田中幸一)


(※ 本稿では『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』のネタを割っています。未読の方はご注意下さい)




 本作『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』(以下『アナザーノート』と記す)の冒頭には、笠井潔の推理小説『バイバイ、エンジェル』から、主人公の探偵矢吹駆の、次のようなセリフが掲げられている。


『「第三は、少し微妙な問題だ。事件が終局に達するまでのあいだ、僕はひとつの抽象的なまなざしに還元される。抽象的な目が、かりに僕という肉体を外套のように着けて歩いていると考えてもらいたい。そんな存在にたいして、なにか社会的な責任だとか人間的な反応だとか、そうした種類のものを期待しても無駄だ」』


 いかにも矢吹駆らしい(あるいは、笠井潔らしい)セリフだと言えるだろう。

 西尾維新の『アナザーノート』は、大場つぐみ(原作)・小畑健(作画)のマンガ『DEATH NOTE デスノート』(全12巻)のパスティーシュ小説であり、この原作の中で言及される過去の事件(藁人形殺人事件)を描いた「外伝」的作品である。
 原作マンガ『デスノート』と笠井潔の『バイバイ、エンジェル』との間には、基本的には何の関連もなく、笠井や『バイバイ、エンジェル』と関係するのは、パスティーシュ『アナザーノート』の作者である西尾維新である。
 そこでこう問うてみたい。――なぜ西尾維新は、『デスノート』へのオマージュ作品たる『アナザーノート』の冒頭に、『バイバイ、エンジェル』の引用を掲げたのであろうか。


 ミステリ界の事情に詳しいマニア的読者ならば、笠井潔が評論家として、近年、新本格ミステリ作家から、ライトノベル系若手作家へと評価の重点をシフトし、若者にカリスマ的な人気を誇る美少女ゲーム作家TYPE-MOONが「奈須きのこ」名義で作家デビューを果たした伝奇小説『空の境界』(講談社ノベルス)に、上下2巻にわたる破格の長編解説を寄せ、奈須きのこのデビューをバックアップしたという事実(「空虚に巣食う魔―― 笠井潔と『空の境界』」参照・http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_nasu.html)や、西尾維新・佐藤友哉・舞城王太郎などライトノベルの洗礼を受けた若手ミステリ作家を絶賛し、従来の「本格ミステリ」から逸脱しがちな彼らの世代的個性に否定的な従来の本格ミステリ作家を、「本格原理主義者」と呼んで批判した事実も知っているかも知れない。

 そのようなわけで、西尾維新が、自分たち若手作家の「擁護者」を任じ、高い評価を与えてくれる評論家笠井潔を、その意味において「好意的に見ている」という可能性はあろう。また、笠井の作家デビュー作である『バイバイ、エンジェル』に始まる本格ミステリ「矢吹駆シリーズ」は、少なくとも『サマー・アポカリプス』『薔薇の女』を含む「初期3部作」として、すでに評価の定まった古典的傑作であるから、その点で、先輩小説家である笠井潔に尊敬の念をもっていたとしても、なんの不思議もないのである。

 しかしながら、笠井潔はたいへん癖のつよい人物であり、笠井の言動には常に「文壇政治」色がつきまとうため、そこが反感を招くことも珍しくはない。斯く言う私自身、もともとは笠井潔の熱心なファンであったが、いつしか笠井の現実に失望し、可愛さ余って憎さ百倍で「笠井潔葬送派」を名乗り、十数年にわかって笠井を批判しつづけることになってしまった。――まあ、私個人のことは置くとして、ミステリ界において、笠井潔への反発を最初に明確にしたのは、舞城王太郎であった。舞城は、清涼院流水の「JDCシリーズ」のパステーシュでありオマージュ作品である『九十九十九』(講談社ノベルス)で、笠井潔の「大量死と本格ミステリ」論を名指しで批判した。この背景には、西尾維新・佐藤友哉・舞城王太郎ら、ライトノベル系ミステリ作家の「源流」となった清涼院流水への、笠井潔による全否定的評価があったと見てよい。いまでこそ「ライトノベル系ミステリ」を『脱格系』ミステリと名づけて高く評価している笠井も、清涼院流水のデビュー当時には、他の本格ミステリ作家と共に、いや、その先陣に立って「清涼院流水バッシング」を行っていたのである。
 しかし、後に笠井潔は、西尾維新・佐藤友哉・舞城王太郎などの「ライトノベル系ミステリ=脱格系ミステリ」が広く人気を集め、高く評価されるようになると、それへの高評価にあわせて、清涼院流水への評価を修正してみせた(『探偵小説と記号的人間』)。しかし、このような態度が、はたして「ライトノベル系ミステリ=脱格系ミステリ」作家たちの目に、どのように映ったであろう。「三島由紀夫賞」の授賞式にも代理人を立てて姿を見せなかった舞城王太郎を別にすれば、彼らは今時の若者らしく、露骨に本音を語って「ことを荒立てる」ようなことは好まない。乙一の「あとがき」芸に典型的に示されるとおり、彼らは巧みな保身的「韜晦」術を身につけているのである。

 したがって、西尾維新の笠井潔への思いも、一筋縄ではいかない。何を隠そう、西尾維新もまた清涼院流水ファンで、舞城の『九十九十九』よりも先に、「JDCシリーズ」のパステーシュでありオマージュ作品である『ダブルダウン勘繰郎』(講談社ノベルス)を書いているのだ。当然、西尾維新は、笠井潔による清涼院流水批判の事情も、ほぼ同期と呼んでよい舞城王太郎による笠井潔批判も、大筋で承知しているはずなのである。――では、西尾維新はどのような思いで、本作『アナザーノート』の冒頭に笠井潔の『バイバイ、エンジェル』からの引用を置いたのであろうか。少なくとも、単純な「笠井潔」讃嘆の意図だけであったとは思えない。そうした観点から見ていくと、本作は一般に理解されているところとはすこし違った相貌を、私たちに覗かせ始めるのである。


                  ○


 原作のファンが、『アナザーノート』の冒頭に掲げられた「矢吹駆のセリフ」を読んだ場合、それは原作に登場する名探偵Lの立場を代弁するものだと理解するだろう。Lは、基本的には、自分の足で事件を捜査する探偵ではなく、現場に姿を現さない探偵、捜査機関を指揮して事件を解決する「バックシートドライバー」型の「安楽椅子探偵」の変種なのである(もちろん、原作『デスノート』で描かれる「キラ事件」では、この原則が崩され、結果としてLは死ぬことになる)。
 本作『アナザーノート』でも、Lはその原則を守り、FBI捜査官南空ナオミを指揮して(前面に立てて)「ロサンゼルスBB連続殺人事件」の捜査にあたる。――だから、本作の冒頭に笠井潔からの引用がある理由は、それが「たまたま内容的に重なったから」だと考えることも充分に可能であろう。しかし、それだけならば、わざわざ笠井潔の『バイバイ、エンジェル』である必要はない、とも言える。やはり、この起用には、作者西尾維新の、笠井潔なり『バイバイ、エンジェル』なりへの、何らかの「思い」があったと見るのが、自然なのではなかろうか。


 『バイバイ、エンジェル』からの引用をもって、そこに西尾維新の笠井潔および『バイバイ、エンジェル』への「好意」を読み取るというのは、しごく当然なことである。しかし、『アナザーノート』の作中には、それを裏切るような記述が存在してもいる。


『 シャーロック・ホームズを読んだことのある者なら、かの名探偵の印象的な振る舞いの一環として、虫眼鏡を使って部屋中を這い回るというあの行動を、挙げることができるだろう。あれこそまさに古きよき時代の探偵小説の象徴とでも表現するべき行いであって、今時の探偵小説で、そんなことをする名探偵は登場しない。大体、探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。探偵は推理なんかせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。推理という行動には、幾許かの努力という要素が含まれてしまうからだ。――天才は努力なんてしない。世界中で流行っている日本の少年漫画と同じだ。人気が出るためには主人公は超人の方がいい。』(P48)


 日本のミステリ史に詳しい人ならば『探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。』というセリフが、笠井潔を揶揄するものであることに、すぐに気づくはずだ。
 本来「探偵小説」という言葉は、いったんは死んだ「古い」言葉なのだ。その昔、つまり戦前までは「探偵小説」という言葉が、今で言う「ミステリ」を指す一般的な用語だったのだが、松本清張に始まる「社会派ミステリ」のブームが巻き起こると、「(名)探偵」というアナクロ(時代錯誤)で古くさいイメージのつきまとう言葉を冠した「探偵小説」という用語は、いつしか「推理小説」という言葉にとって替わられてしまった。しかし、「社会派ミステリ」の凋落と「新本格ミステリ」ブームによる「古きよきミステリ」の再評価の気運に乗って、「探偵小説」という古い用語を復活させたのが、笠井潔その人なのである。

 それは、笠井潔がリーダーシップをとって組織したミステリ評論家集団「探偵小説研究会」の名称にも、ハッキリと刻印されている。この集団は、建前上は「全員平等」ということになっているが、この集団が、笠井潔・法月綸太郎・巽昌章と、この3人を選考委員とした「〈創元推理〉評論賞」の受賞者を中心に組織されたという創立経緯を知っておれば、「建て前」と「実質」の違いは自ずと明らかになろう。
 実際、「探偵小説研究会」のメンバーで、それ以前に「探偵小説」という「古い用語」をつかっていた者は、ほとんどいない。巽昌章は終始「推理小説」と慣用しているし、法月綸太郎は「ミステリ」「本格ミステリ」を常用している。つまり、ほとんど使う者がいなかった「探偵小説」という言葉を、集団の名称に掲げえたという事実が、笠井潔の特権性を、明白に証し立てているのである。


『 ここで、用語の不統一について、お断りしておきます。笠井さんは「探偵小説」とお呼びですが、私は「推理小説」を慣用しています。今回の意見交換については、この点、とりたてて指示する対象が異なっているわけでもないので、私の方はやはり「推理小説」を使うことにいたします。』

(『探偵小説と記号的人間』所収「本格ミステリ往復書簡」より、巽昌章の言葉・P246)


 ともあれ、『今時の』ミステリ業界で「探偵小説」という言葉を積極的につかっている人物といえば、笠井潔をおいて他にはいない。したがって、「探偵小説」という用語を復活させ、再び一般化せしめようと考えた笠井の立場からすれば、『探偵小説という言い方自体が既に古臭い――推理小説、あるいは、パズル小説などと言うのが、今時だ。』などという言い方は、笠井の業績を否定する、真っ向からの批判だと言えるのである。

 また『探偵は推理なんかせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。』という言葉には、明らかに清涼院流水の「JDCシリーズ」の主人公、名探偵九十九十九の存在が意識されている。
 清涼院流水の「JDCシリーズ」に登場する、多数の名探偵の特徴は、それまでの名探偵のような「論理的な謎解き」はせず、超能力的・必殺業的な「推理」で、いきなり真相に到ってしまう点である(その意味では京極夏彦の「京極堂シリーズ」に登場する「名探偵」榎木津礼二郎も意識されているだろうが、清涼院流水の「JDCシリーズ」とは違い「京極堂シリーズ」の方には、論理的な謎解きをする探偵役の主人公が、べつに存在しており、本作『アナザーノート』の記述者であるメロの意見が、そのまま通る作品だとは言えない)。
 多くの「本格ミステリ」作家たちが、清涼院流水の登場に違和感と反発を覚えたのも、この「論理的解明」が無いという点にあった。従来、名探偵の登場する「本格ミステリ」とは「論理(ロジック)」が命であり、そこに「謎の詩美性」だの「トリックの斬新性」だの「登場人物の魅力」だのが「付け加わえられ(総合され)る」形で書かれるものだという了解があった。ところが、清涼院流水の作品からは「本格ミステリの核」とも言うべき「論理(ロジック)」が捨て去られていたため、先輩「本格ミステリ作家」たちは「いくら名探偵が登場したって、いくら密室殺人が起ったって、論理的な謎解きのない作品を、本格ミステリの範疇に入れるわけにはいかない。あれは、本格ミステリもどきのキャラクター小説である」と反発的な評価を下したのである。

 前述のとおり、笠井潔による清涼院流水評価も、当初はこれとまったく同種のものであった。しかし、後には清涼院流水を「脱格系」ミステリの先行者として肯定的に評価しようとする文脈から、「論理(ロジック)の放棄を批判するよりも、記号的人間に込められた新しさを評価すべきである」との立場に移行した。しかしまた、この意見は「論理(ロジック)の放棄」を積極的に肯定するものではなかったので、笠井潔も、清涼院を含む「脱格系」ミステリの作家たちに、「謎―論理的解明」という「本格ミステリ」の基本軸の充実を期待する、としたのである。


『もともと近代小説の臨界点に出現した探偵小説だから、清涼院という個性を引き寄せたのだろう。「謎―論理的解明」をめぐる形式的支柱さえ省いてしまえば、探偵小説は無限に流水大説を産出できる。「大きな非物語」の沃土に変貌する。自覚的にか無自覚的にか、探偵小説様式をデータベース化するために、清涼院は探偵小説形式を解体した。』(『探偵小説と記号的人間』P235)


『二〇世紀小説=探偵小説の最終形態としての第三の波(※ 新本格)は、二一世紀的な脱格系を生みだすために存在した、と評価するジャンル外の立場もありうるだろう。しかし、それに同ずるわけにはいかない。深いところでジャンルXや脱格系と二一世紀的な時代精神を共有しながら、しかも「謎―論理的解明」の骨子において探偵小説以外のなにものでもない作品が登場することを期待しよう。』(前同書 P236)


 つまり、『探偵は推理なんかせずに、いきなり真相を言い当ててしまうのがもっともスマートだと思われている。』という意見は、笠井潔の意見を否定して、清涼院流水的な作風を全面肯定するものであるから、この言葉も、笠井にとっては、充分に挑発的なものになっていると言えるのだ。

 しかしながら、『探偵は推理なんかせずに(…)』という言葉は、作者自身の言葉ではなく、Lの崇拝者であり「アナザーノート」の記述者(非・作者)である、作中人物メロのものである。だから、この言葉をそのまま作者の考えの表明だとするわけにはいかないのだが、――それでも笠井潔に対して、充分に挑発的な記述であるという事実に変わりはない。
 ともあれ、西尾維新が笠井潔に対し、どのような感情を抱いているのか。これは一筋縄ではいかない問題だということになるのである。

(※ ちなみに、その後の『容疑者Xの献身』問題において、有栖川有栖などから批判された笠井潔が、新本格ミステリ作家との決別を宣言したこともあって、笠井がいつまで「謎―論理的解明」という「本格ミステリ」の基本軸にこだわり続けるかは、いささか疑わしくなってきた)


                  ○


 さて、そろそろ『アナザーノート』そのものの分析に移ろう。

 本作は、一般にどのような作品だと評価されているだろうか。原作『デスノート』のファンとして「楽しく読んだ」とか、西尾維新ファンとして「西尾維新小説として楽しめた」とかいった意見を別にすれば、かなり多くの読者の語った典型的な評価は「メイントリックが、原作漫画ファンには通用しても、ミステリマニアには通用しない、あまりにも有名なものだった」という評価であろう。つまり「ミステリとしては、あまり高く評価できない」という評価である。――しかし、これで済ませてしまって、果たしてこの作品を評価したことになるのだろうか? この作品は、原作の世界(設定)を下敷きに、ミステリの世界ではあまりにも有名なトリックをそのまま使って、原作ファンであり尚且ミステリ初心者の読者向けて書かれた「軽い作品」だと評価して、それで充分だと言えるのであろうか?

 もちろん、私はそうは思わない。作者西尾維新が書きたかったのは、そんな半端な推理小説ではなく、もっと「人間的な小説」だったと考える。

 西尾維新は「あとがき」で、


『当初の予定ではこのノベライゼーション、サブタイトルを『Lにメロメロ!』にしようと思っていたのですが、現場の空気が思ったより真面目だったのでやめました。』


と、冗談めかして書いている。
 だが、『アナザーノート』に描かれたL像を見れば、『Lにメロメロ!』という表現も、あながち大げさなものではなかったことがわかる。


『「犯人が知り合いでも、関係ありませんか?」
 それは。
 南空ナオミにとって、(※ 犯罪者として生きるしかなかった)子供相手に引き金が引けるか――という問いかけにも似ていた。
「関係ありません」
と、Lは言った。
「正確に言えば、Bは私の知り合いではなくただ単に知っている人間だというだけですが――だからと言って私の推理が鈍るというようなことはありません。確かに、私がこの事件に興味を持ち、この捜査に乗り出したのは、最初から犯人を知っていたからです。しかしそれが、私の捜査方針に影響を与えるということはありません。南空ナオミさん、私は、悪というものが許せないんですよ。許せないんです。だから、知り合いだろうがなんだろうが、関係ありません。私が興味があるのは、正義だけですから」
「正義だけ」
 南空は、その返事に、息を呑む。
「じゃあ……それじゃあ、Lは、正義以外は、どうでもいいというんですか?」
「そうはいいませんが、優先順位は低いです」
「悪はどんなものでも、許せないんですか?」
「そうはいいませんが、優先順位は低いです」
「でも――」
 十三歳の被害者のように、
「正義で救えない人達も、たくさんいます」
 十三歳の加害者のように、
「悪で救われる人達も、たくさんいます」
「いますね。しかし、それでもなお」
 Lは、まるで口調を変えないままで言う。
 南空ナオミを、ゆっくりと諭すように。
「正義は他の何よりも、力を持っています」
「力? 力っていうのは、強さですか?」
「違います。優しさです。」
 あまりにもあっけないその口振りに。
 南空は、電話を取り落としそうになった。
 L。
 世紀の名探偵、L。
 正義の名探偵、L。
 ありとあらゆる難事件を解決してきた――
「……あなたのことを誤解していたようです、L」
「そうですか。誤解が解けて何よりです」
「捜査に戻ります」
「はい。では」』(P142〜143)


 じつにカッコいいLである。原作では、ここまでカッコよく描かれてはいなかった。――しかし、Lが原作以上にカッコよく描かれているという点に、『アナザーノート』評価のポイントがあったのである。


     (※ ネタを割ります。ご注意下さい。)


 『アナザーノート』のメイントリックとは、「叙述トリック」である。アガサ・クリスティーが某作で編み出し、ジョン・ディクスン・カーの某作、綾辻行人の諸作、折原一の諸作、貫井徳郎の某作、歌野晶午の某作などなど現在にいたるまで多数の作例があり、高度に発展してきた読者欺瞞の技法である。

 要は、作中「竜崎」を名乗って登場する人物が、その名前や容貌や行動の「描写」から「じつはLその人なんだろう」と読者に誤認させる欺瞞が仕掛けられるのだが(したがって、原作を読んでいない読者には効果がない)、じつはこの人物は、Lに憧れ、Lを継ぐという夢を果たせなかった絶望から、狂気の連続殺人犯になってしまった、「藁人形殺人事件=ロサンゼルスBB連続殺人事件」の犯人BB(ビヨンド・バースディ)であったいう衝撃に事実が、終盤に明かされるのである。つまり「探偵」だと思って読んでいたら、じつはその人物こそが「犯人」だったというトリック。Lの特徴(容姿・言動)を「文章で表現する」ことで逆手にとった「叙述トリック」なのである。

 クリスティー以下の諸作に親しんできたミステリファンの目からすれば、『アナザーノート』のトリック(主人公の探偵だと思われていた人物が、じつはべつの人物であり、犯人であった)は、わりあい叙述トリックとしてはストレートなものであり、たとえ引っ掛けられたとしても、種を明かされれば「なんだそのパターンか。あんまりシンプルすぎて、かえって騙されてしまった」などと思ってしまうくらいに、斬新さに欠けるものであった。しかも、この「メイントリック」には、決定的な難点があった。すなわち、冒頭ちかくに置かれた、


『あれ(※ ロサンゼルスBB連続殺人事件)こそ、Lが初めて竜崎と名乗った事件なのだから。』(P10)


というメイントリックの伏線となる文章の「不備」である。

 メイントリックの種明かし後にハッキリするのだが、『Lが初めて竜崎と名乗った』のは「ロサンゼルスBB連続殺人事件」の終結後であり、おのずと『Lが初めて竜崎と名乗った事件』とは、それ「以降の事件」ということになる。
 したがって、「あれこそ、Lが竜崎と名乗る切っ掛けとなった事件なのだから。」と書けば、まんざら「嘘」にはならなかったのだが、原文のままでは、叙述トリックの文章として「致命的な難点」があったと言わざるを得ない。まただからこそ、この「メイントリック」に注目する読者は、おおむね本作をさほど高くは評価しなかったのである。


 しかし、繰り返して言うが、本作『アナザーノート』は、決してそれだけの作品ではない。作者西尾維新が「あとがき」で『サブタイトルを『Lにメロメロ!』にしようと思っていた』と書いていたとおり、じつは本作のテーマは、『Lにメロメロ!』になったが故の「Bの悲劇」を描くところにあったのだ。
 『Lにメロメロ!』というのは、作者西尾維新本人のことではなく、犯人B(BB=ビヨンド・バースディ)のことだったのである。


 さて、先にもすこし触れておいたが、「藁人形殺人事件=ロサンゼルスBB連続殺人事件」の犯人Bは、ニアやメロと同様「Lを継ぐ者」の候補者の一人として育てられ、B自身、Lに憧れ、Lを継ぐという夢を追い求めて、挫折し夢やぶれた人物である。そんな彼が、Lになれなかったという絶望の乗り越えるために見つけた「生きる目的」とは、Lにも解けない完全犯罪の達成であった。
 「解けない謎」は、当然のことながら、生涯Lの心を捉え続けるだろう。つまり、自分の作り上げた「謎」がLの心を捉えつづけるということは、彼にとっては「Lとの勝負に勝つ」ということと同時に「Lの気持ち(注目)を、ずっと自分に惹きつけておける」ということを意味したのである。

 そして、そんな彼が構想した完全犯罪とは、最後に犯人である彼自身が、被害者として犯人に殺されてしまうという連続殺人事件であった。
 つまり、この犯罪の動機は「Lには解けない完全犯罪の構築」という極個人的に特殊なものであり、しかも最終的には犯人自身が「犯人に殺された」という自作自演の自殺を敢行することにより、犯人はこの世に存在しなくなってしまう。したがって、犯人の逮捕は不可能となり、密室殺人に見せかけた最後の「自殺」によって、それまでの3つの密室殺人(他殺)の謎も、永遠に解けなくなってしまう。これらを4つの事件を、連続した(同種の)密室殺人事件だと考えるかぎり、この密室トリックは解読不能になってしまうよう、じつに巧みに構成されていたのである。

 しかしながら、密室殺人の謎は、最後の最後で南空ナオミによって解読され、自らに火を放ったBBは重傷を負いながらも、生きたまま逮捕されてしまう。

 ――この結末を、記述者メロは次のように綴る。


『 実際のところ、Lがことの真相をどの時点でどこまで把握していたかというのは今となっては永遠の謎だ。最初からわかった上で南空を動かしていたのかもしれないし、最後まで何もわからず南空に助けられたのかもしれない。どうとでも考えられそうなところではあるが、まあ、そんな野暮なことを考えるのはよそう。Lはそんな低レベルな次元で語れるような存在ではない。はっきりしていることが一つあれば、それでいい。
 Bは南空ナオミに負けた。
 即ち、Lにも負けた。』(P163〜164)


 メロが言うとおり、たしかに『Lがことの真相をどの時点でどこまで把握していたかというのは今となっては永遠の謎』である。しかし、Lが、Bやメロ自身も含む後継候補者の誰も遠く及ばない、およそ桁違いの天才であるとするならば、Lがことの真相を見抜いたのは、第三の殺人が発生して、この連続殺人事件の犯人が、Lの後継者育成機関の出身者であるという点に注目した直後だったと考えるのが、妥当なのではないだろうか。
 Lは、南空が「密室の謎」を解く以前に、南空に「あらゆる手段を使って――この事件の犯人を捕まえて下さい」と指示しているが、この言葉を穿って読めば「自殺させないで、生きて捕まえてください」と読めないこともない。犯人に死なれては、たとえ犯人が特定できたとしても「捕まえる」ことはできないし、死なれてしまうことは、BがBの主観において「完全犯罪を成立させてしまう」ことにもなるからである。

 もちろん、Lはそのようなことを許しはしない。たとえ、Bの犯行が、Lへの歪んだ愛情に発するものだとしても、3人もの罪もない人の命を奪った以上、Bはその罪を生きて購わなくてはならないからである。
 そして、Bを一連の殺人事件の犯人として逮捕する唯一のタイミングが、Bが第4の事件を敢行する、その瞬間だった。だからこそ、Lは、Bと思しき「神崎ルエ」を名乗る探偵に南空ナオミを張りつかせ、最後の最後で南空が「密室の謎」を解いて、Bの野望を完膚なきまでに叩きつぶすことに期待した……というよりも、南空の能力を適切に評価して、そのような事件解決までの流れを「読んでいた」のであろう。

 つまり、所詮Bは、Lの手のひらの上で踊っていたにすぎない。南空による逮捕は、それがLの代理人でしかないだけに、Bの歪んだプライドを完膚なきまでに叩きつぶしたことだろう。LのBに対する処遇は、徹底的に残酷であったと言えるかもしれない。

 しかし、LはBに対して、本当に残酷だったのだろうか?

 ――そんなことない。事実、Lは本件「ロサンゼルスBB連続殺人事件」の後、仮名として「神崎」を使用するようになった。


『 南空ナオミは――そんな風に、青年に名前を訊く。
 青年は、それを受けて。
 答えた。
「竜崎と呼んで下さい」
 飄々とした口調だったけれど。
 それは、誰かを偲ぶような名乗りだったと言う。』(P168)


 Lにとって「正義」は、最優先事項だった。それがすべてではないけれど、それが最も大切なものだった。だから、LはBに対しても容赦はなかった。Bは逮捕され、罪を購わなければならなかった。たとえBの犯罪が「それ無くして生きられない(止むに止まれぬ)もの」であったとしても、である。Lにとって「正義」とは、「力」であり「優しさ」であったからこそ、それはBのためにも貫徹されないわけにはいかなかったのだ。

 だから、こう考えてみてはどうだろうか。
 Lは、全力で挑戦してきたBを、代理人によって退けた。これは、L自らが直接手を下すまでもない挑戦だという意思表示であり、事実、Bは、Lの代理人である南空ナオミに敗れてしまった。これはとても残酷な処遇だと言えよう。
 ――しかし、南空に逮捕された時、はたしてBはどう考えただろうか。結局はLの足下にもおよび得なかったことに歯噛みする思いだっただろうか? 私はそうは思わない。心の底からLに憧れていたBであればこそ、彼がどんなに努力しても、爪痕ひとつ残すことのできない高みにLがいるという「Lの完璧性」を、自分が自分の手であらためて証明できたという事実は、Lのナンバーワンファンを自認するであろうBにとって、むしろ「喜び」だったのではないだろうか。「やっぱり、俺のLは完璧だ……」――南空に手錠をかけられた時のBの思いは、むしろそうしたものだったのではなかったろうか。

 だからこそ、Lの「優しさ」も、そこにあった。Bに対して「圧倒的な力量の差を見せつける」ことが、その「残酷さ」が、何よりもBの期待に沿うことであり、Bへの何よりの贈り物だと知っていたからこそ、LはBの期待どおり「歯牙にもかけない」対応を、最後の最後まで演じ切ったのではないだろうか。


                  ○


 さて、ここで話を『アナザーノート』の冒頭に掲げられた『バイバイ、エンジェル』の一節の意味へと差し戻そう。なぜ、あるいは、どのような感情を持って、作者西尾維新は、笠井潔のそれを、作品の冒頭に掲げて見せたのであろうか?

 ここでヒントとなるのが、笠井潔による次のような分析である。
 笠井は、西尾維新の『クビシメロマンチスト』に登場する巫女子というキャラクターの特異性を、次のように論じている。


『 しかし西尾はまた、『クビシメロマンチスト』の巫女子のような特異なキャラクターを創造してもいる。脱格系では佐藤友哉『水没ピアノ』の伽耶子も同様だ。(中略)彼女たちは萌え要素の束以外のなにものでもないのに、どうしてか哀切なものを喚起させる。人間的な要素を残しているぶん、萌えキャラとして不徹底だから哀切さを感じさせるのではない。それは、萌えキャラの徹底化の果てに出現する謎めいたなにかという以外ない。
 巫女子には人間的な内面性が皆無だ。したがって人間的な欲望も欠いている。巫女子が片思いの相手に抱くのは、必要と充足が直結する動物的な欲望にすぎない。動物が食物を必要とするように、「彼」が必要だから単純に邪魔者を排除した巫女子なのに、結末では、自殺という「人間」的な場所に追いやられてしまう。繰り返すが、巫女子のキャラ性が不徹底だから、最後に人間性に目覚めて自殺するのではない。動物以上でも以下でもないのに、どうしてか巫女子は「必要―充足」という円環的な回路の外に逸脱してしまうのだ。』

                (『探偵小説と記号的人間』P235〜236)


 勘のよい読者なら気づいたことであろう。
 そう。『アナザーノート』のBは、『クビシメロマンチスト』の巫女子と同型のキャラクターなのである。その「愛のゆえ」に犯罪を犯し、自死して果てる、あるいは自死しようとする「痛ましい犯罪者」。
 さらに、Bの注目すべき特性は、探偵Lとの「双生児」性にある。

 「双生児」「自殺」とならべれば、『アナザーノート』がいかに『バイバイ、エンジェル』に似ているかに、気づく読者もいるはずだ。
 『バイバイ、エンジェル』の犯人は、名探偵矢吹駆をして「双生児」と呼ばしめるほどの人物だった。その人物は、世界への徹底した憎悪の感情において、かつての矢吹駆(あるいは、笠井潔)その人にそっくりだったのである。だから、ラストにおける、犯人であるその人物との直接対決において、矢吹駆は犯人が彼を毒殺しようとして用意した毒杯をすりかえ、犯人を殺害してしまう。しかし、もしかすると犯人の死は、世界への憎悪の故に自身に歯止めが利かなくなった犯人が、同類として尊敬しうる矢吹駆の助けを借りることで「自殺」したと理解することも可能だろうし、矢吹駆としてもその犯人を「もうひとりの自分」とまで思えるからこそ、犯人の「自殺」を幇助したとも言えるのではないだろうか。その意味では、犯人の「自殺」は、探偵矢吹駆の「過去の自身」を葬送する「自殺」だったと理解することも可能なのである。

 『バイバイ、エンジェル』のこうしたラストシーンと比較すると、『アナザーノート』のラストは、見事に転倒した形で「逆しまに対応」している。犯人は「偽の双生児」であり、「自殺」は探偵によって妨害される。『バイバイ、エンジェル』のラストでは、探偵の犯人への思いが強く印象を残すが、『アナザーノート』の実質的ラストである犯人B逮捕の場面では、B(犯人)のL(探偵)への思いの深さが強く印象を残す、という具合である。

 つまり、西尾維新の『アナザーノート』は、ある意味で『バイバイ、エンジェル』へのオマージュ作品だったとも言えるのである。だからこそ、作品の冒頭に『バイバイ、エンジェル』の一節が掲げられた。

 しかし、そのオマージュは「逆しま」の、どこか「歪んだ」オマージュであった。だからこそ作中には、笠井潔批判としか思えない文言が書きつけられる結果となったのであろう。

 なぜ『アナザーノート』の冒頭に『バイバイ、エンジェル』の一節が掲げられたのかと言えば、それは「愛憎」と「肯定・否定」の絡まりあった感情を、作者西尾維新が、笠井潔に、そして『バイバイ、エンジェル』に持っていたからであろう。そして、穿って言うならば、その複雑な感情を精算するものとして、『アナザーノート』は『バイバイ、エンジェル』と笠井潔に捧げられたのではないだろうか。

 私自身がそうであったように、西尾維新にとっても憧れの的であったろう『バイバイ、エンジェル』の頃の「今は亡き笠井潔」の思い出に捧げられたのが、『アナザーノート』だったのではないだろうか。
 Lは最後までBの期待に応えた「完璧なカリスマ」であったけれど、現身の笠井潔は今や「堕ちた偶像」である。だからこそ、西尾維新は笠井潔にこの『アナザーノート』を捧げた。「貴方にも、Lのように完璧であってほしかった」という思いを込めて、この『アナザーノート』は、笠井潔への「決別の書」として捧げられたのではなかったろうか。



  2006年10月17日


 初出: BBS「アレクセイの花園」 2006年10月17日
     (http://www80.tcup.com/8010/aleksey.html

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【関連論文】

・ 「笠井潔葬送派:笠井批判論文集」
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=200283859&owner_id=856746


・ 「二つの「正義」 ――『デスノート』私論」2006年3月24日
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・ 「『デスノート』の自死」2006年7月18日
  (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=178132664&owner_id=856746
  (http://mixi.jp/view_item.pl?reviewer_id=856746&id=512453
No.196 - 2007/05/12(Sat) 23:42:20
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