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虚無なる「匣の中の匣」

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脳死について / 杉澤鷹里 [ Mail ]
 脳死について。
─ ・ ─
 移植医療、再生医療ということに、私はずっと興味を抱いてきました。
 また、一方で、「脳」ということにも興味を抱いてきました。

 ですから、脳死について考えるということは、とても重要なこととしてあったわけです。
 
No.14 - 2004/11/07(Sun) 20:08:21

「脳死」考について(1) / 杉澤鷹里
T.Haradaさま、
 興味深い意見ありがとうございます。

>人の死を、心臓死から脳死に切り替えようとする動きは、臓器移植のために起こってきたということである。

 大筋では賛同します。つまり逆の言い方をすれば、脳死からの臟噐移植を凌駕する医療技術があるのであれば、脳死という概念が法整備される必要はほとんどなかった、ということです(ほとんど、という留保をつけた理由はあとで説明します)。
 ただ。細かいことですが。死の定義づけが変わってきた、というのは適切ではないと思います。脳死判定基準はあくまで、脳死者からの臟噐移植が医師の犯罪にならないための条件である、というのが一点。法律で死は心臓死とする、と以前に定義されていたわけではない、というのが一点です。

>チベット密教では、死後、人の身体から魂が抜け出るのに時間を要する。

 チベット密教でなても、死体が(遺族にとって)死を受け容れる過程において必要であり、従って死後しばらく身体を傷つけることは出来ない、という考え方は広く在ると思います。そのような立場があっていいと思うし、今後も主流であると思います。

>心や感情のありかに関して、三木成夫らは、感情は内臓の働きと関係があるということを言っている。果たして脳に、心や感情のありかを局在化して考えるのはどうなのか、疑問がある。

 重要な視点だと思います。現代社会は確かに、脳に対する過剰な信仰がある(少なくともマスコミレベルでのその信仰の過剰さに、私は知識の貧困と考察の欠落を見出します)。そのアンチテーゼとして、感情は内臓の働きと関係がある、ことを主張するのは妥当なことだと思います。
 では、メガネはどうなのか? 杖はどうなのか? 私はそれらにも感情と密接な関係を認めます。世界すべてが私の精神を構成している要素の集合だ、と言うことだって可能です。だけれど、メガネを外したり、杖をヒトに与えることは可能です。より密接に私の精神を構成している要素であるはずの、腎臓や肝臓をヒトに与えることも(状況が極端に限定されるとはいえ)可能です。つまり精神の構成要素を切り捨てる、ということを私たちは、程度の問題はあるけれど、許容しているわけです。

>日本人のメンタリティーは、他の民族と比べれば、死の問題に晒されてきたように思う。神道にせよ、仏教にせよ、武士道にせよ、死の問題が大きな比重を占めてきた。

 千年、数百年連綿と続く民族という安易な実体化に、私は強い抵抗を覚えます。もちろん「私たちの社会」という未定義で危険な用語を使い、明らかに日本社会を前提とした議論を行っている私自身、批判されなければならないと思いますが。
 宗教が死を扱うのはある意味普通のことで、だから、提示された神道・仏教・武士道において死の問題が大きな比重を占めてきたかどうか、ということよりもむしろ、それら宗教と日本(の法律が有効となる)社会で生活する人々の関わりの度合いが問われなければならないでしょう。おまけに仏教は国際宗教ですから、仏教が死の問題に大きな比重が置いていたとしても、そこから日本人のメンタリティーが他の民族と比べて死の問題に晒されてきたという結論を導くことは出来ません。
「私たちの社会」=(さしあたって日本社会ということで御理解ください)が、死のない社会だということはどのような意味でか、ということの議論はまた立ち戻ってしたいと思います。

 とはいえ脳死者からの臟噐移植と神道・仏教・武士道との関係というのは、とても魅力的なテーマです。
 私の貧困な知識では、結論はどの宗教をとってもかなり好意的なものになるのではないか・親和性が高いのではないかと、思ってしまいます。
 たとえば武士道を考えれば、脳死者からの臟噐移植は「ハラキリ」としてなされるのではないかと思うのです。生き恥をさらすよりも、死ぬことで社会に対して申し開きをするという論理構造です。

 T.Haradaさんの議論に触発されて、ここまで見てきたことから、私は二つの日本社会の(近)未来予想図を描きました。
 一つは、再生医療などをはじめとする医療技術の発展により脳死からの臟噐移植を基本的に必要としなくなる、という未来であり、そしてもう一つはある時点でブレークスルーが起こり、脳死者からの臟噐移植がアメリカ並の件数実行されるようになる未来です。
No.28 - 2004/12/09(Thu) 20:09:25

「脳死」考 2 / T.Harada [ Home ]
ここで考えておかねばならないことは、
(1)脳死した人から移植のために臓器を摘出する際には、筋弛緩剤やガス麻酔が使われることがよくあるということ。
(2)人間の生命を司るのは、脳幹の部分であるが、脳死患者の脳幹がまだ活動を停止していないことはざらにあるということである。脳幹の死を判別する水準には、医学は到達していないということである。
No.17 - 2004/11/08(Mon) 19:56:40

「脳死」考 / T.Harada [ Home ]
脳死を人の死とし、他人に自分の臓器を提供するとした人は、利他行という観点から尊敬に値すると思う。
しかしながら、脳死に関しては、いくつかの疑問がある。
まず、人の死を、心臓死から脳死に切り替えようとする動きは、臓器移植のために起こってきたということである。生とはなにか、死とはなにか、魂や感情のありかについて、認識の深まりがあったわけではなく、臓器移植という目的のために、死の定義づけが変わってきたのである。しかも、脳死の判定に関しては、専門家でないとわからないから、生死の判別が専門医の管轄下に置かれることになる。
チベット密教では、死後、人の身体から魂が抜け出るのに時間を要する。仮にこの考えを採用するとすると、完全に魂が抜け出る前に、身体を解体することになる。
また、心や感情のありかに関して、三木成夫らは、感情は内臓の働きと関係があるということを言っている。果たして脳に、心や感情のありかを局在化して考えるのはどうなのか、疑問がある。
最近考えているのは、魂は高次元多様体であり、立体に対する面、面に対する線のように、脳は四次元以上の魂のありかを映し出しているのではないかということであるが、仮説の粋を出ないので、これ以上の言及は避ける。

もう一点。日本人のメンタリティーは、他の民族と比べれば、死の問題に晒されてきたように思う。神道にせよ、仏教にせよ、武士道にせよ、死の問題が大きな比重を占めてきた。日本人が自己を形成する際には、自身の死と向き合ってきたということである。物質万能のアメリカ文化の影響で、表面的には、そういう日本人は消滅したかに見えるが。
自身の死の問題と向き合うものにとっても、ご都合主義的な死の定義の変更にうさんくささを感じているということだ。
No.16 - 2004/11/07(Sun) 23:50:29

死のない社会 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
「臓器の移植に関する法律」が97年に施行されてから7年、脳死者からの移植は120件(30人)に達するか達しないかである。これは三千から八千とも言われる年間脳死者数に比して、また年数千件の脳死者からの移植が行われるアメリカに比して、圧倒的に低い値であると言える。

 仮に脳死からの臓器移植について、否定的な意見が主流であるとしても、それだけではこれほど、低い値にはならないであろう。(仮に1%のヒトが脳死からの臓器移植に賛成だとしても、この値を凌駕する。家族との意見の相違というものがあり、脳死者・家族がそれぞれ独立した意見を持っていると想定する場合ですら、臓器移植賛成者の比率を10%に変更するだけで議論の妥当性は保たれる)

 私はここで推測する。我々の社会は「脳死」をヒトの死と認めていない社会などではなく、そもそもそのような議論がなされることがない、「死」そのものが隠蔽されている、主題化されることがない社会だと。
 
No.15 - 2004/11/07(Sun) 21:11:23
プロテスト・ソング / T.Harada [ Home ]
反戦歌「プロテスト・ソング」をつくりました。

作詞:はらぴょん、作曲:ごろにゃん

完成作品は、ごろにゃんさんのHP「Harmony Field」
http://goro4259.web.infoseek.co.jp/  
「Music」-「コラボレーション」で聴けます。

みなさま、感想をお聞かせください。
No.25 - 2004/11/18(Thu) 06:19:23

Re: プロテスト・ソング / 影姫 [外国] [ Home ]
わたしが過去に聞いたプロテスト・ソングで最も好きな曲は
マルタ・グビショバの『ヘイ・ジュード』です。

この曲はチェコスロバキアにソ連が侵攻した際に民族の抵抗歌として広く国民に愛されました。はらぴょん様も未聞でしたら御一聴をお薦めします。
No.26 - 2004/12/01(Wed) 04:10:04
戦争前夜? / T.Harada [ Home ]
自民党憲法調査会(会長・保岡興治元法相)は、2004年11月17日、憲法改正大綱の原案を発表した。そのポイントは、以下の通りである。
(1)自衛軍を創設する。集団的自衛権を認める。国際貢献活動での武力行使を認める。国民の責務として、国防を位置づける。
(2)天皇を元首とする。女性天皇を認める。
(3)プライバシー権、知る権利を基本的人権に加える。
(4)改憲手続きを簡略化する。
まず、国防についてであるが、この原案では徴兵制は施行しないということになっている。しかしながら、改憲手続きの簡略化を加えていることから、改憲後の次のステップで、徴兵制を政治課題に載せるというプログラムになっていると考えてよいだろう。国民の責務として国防を位置づけることは、必然的に徴兵制を要請することになるだろう。
自衛隊が、自衛軍となることで、この組織は完全に軍となる。自衛のためとか、国際貢献活動のためという限定がついているとはいえ、いかなる時代によっても戦争は自衛や国際貢献活動という大義名分のもとに遂行されたということを忘れてはならない。先の第二次世界大戦に日本が参戦した際に、日本は大東亜共栄圏の防衛のためという大義名分をつけた。自衛や国際貢献活動という名目の下に、帝国主義的侵略や植民地政策、大量殺人が正当化されるのである。この大義名分は、単なる大義名分で終わらず、国民を騙し、国民をマインド・コントロールして戦争の道具に仕立て上げることに機能するだろう。しかも、集団的自衛権を許容することで、米英との共同作戦が可能になる。
元首とは、国家の首長を指す概念であり、君主制のもとでは君主、共和制のもとでは大統領が首長とされる。元首は現行の日本国憲法の規定にない概念である。明治憲法(大日本国憲法)は、明白な立憲君主制であり、天皇が君主となっていた。日本国憲法では、象徴天皇制を取っており、国民の統合のシンボルとして天皇を位置づけている。象徴天皇制は、明治憲法における立憲君主制と、天皇制がない状態との中間に位置づけられる。現行の日本国憲法での元首に相当するのは、存在しないという説、内閣にあるという説、内閣総理大臣にあるとする説、天皇であるという説などがある。ここで、天皇を元首と明白に規定することは、明治憲法に近づけることを意味する。
女性の天皇を認めることについては、男女同権の原則からいっても当然のことであり、日本の歴史をひもといても推古天皇らの例があり、皇室典範の規定こそ男性至上主義的な、当時の帝国主義、富国強兵的政策とリンクした異常な規定であったことがわかる。
現行の象徴天皇制では、天皇は政治的権能を持たない。現行の象徴天皇制で問題となるのは、皇室の人権が制限されており、普通の生活が出来ないことである。天皇が元首とされ、明白に立憲君主制にシフトしてしまえば、今度は国民の基本的人権が制限されることになるだろう。
プライバシー権、知る権利といった新しい人権が加わることは良いことだが、その代わり、全体的に日本国憲法は、明治憲法(大日本国憲法)に近いものに戻されようとしている。
見えないテロリズムの脅威や、北朝鮮による拉致の問題、中国や韓国との国境をめぐる論争……これらが、短絡的に過去の軍国主義・全体主義・帝国主義・植民地主義の亡霊を呼び覚ますために、利用されようとしている。この亡霊を実体化させてしまえば、より大きな悲惨を招くことは必至である。
テロリズムに関して言えば、犯罪として扱わず、戦争としてとらえる段階で、憎悪のエスカレーションが起きているのだ。理性的な行為とは、いたずらに恐怖を煽ることではなく、これらを醜い卑劣な犯罪として扱うことである。
日本は、先の世界大戦における広島・長崎の原爆投下や、敗戦の体験を通じて、しばらく平和な時代が続いていたが、再度、戦争準備を始めようとしている。改憲論者は、そのようなことは意図していないと主張するかも知れないが、結果として戦争準備をしていることは間違いないだろう。
私たちは、戦争を知らないことだけで安住していてはいけない。戦争を知り、最悪の悲惨に陥らない方向を探ることが必要なのである。
No.24 - 2004/11/17(Wed) 14:48:48
「匣の中の匣」からの再録 / T.Harada [ Home ]
Googleに、「匣の中の匣」のキャッシュが残っていましたので、めぼしい文章を再録します。

再録:憲法問題 / 江藤蘭世 [ Home ] [ Mail ] 引用

薔薇十字制作室に掲載されていたものの再録です。

 第二次世界大戦後、連合国側は、日本が再度軍事大国化しないように、日本国憲法のなかに、戦争放棄の条項を入れた。だから、「おしつけ憲法」とするのは、ある意味で正しい。だが、連合国側は、そのとき彼らの国家観に従って、主権の制限をした列国よりプレ・モダンな国家に日本をしたのだが、日本の戦後世代がそこに見出したのは、まったく新しい平和主義的な国家観にとって、日本が他国にないポスト・モダン国家を具現化してしまったという奇跡的な事実であった。私たちは、戦後世代のその発見を忘れるわけにはいかないのである。  実際、日本のような徹底した戦争放棄と平和主義の条項の含まれた憲法を持つ国家は、今のところ存在しない。少数の文学(トルストイやロマン・ロラン等)や音楽(ジョン・レノンの"イマジン"等)だけが、想像的にその水準を獲得しているだけである。
  ところが現在(湾岸戦争後、特に)強まってきている傾向は、日本国憲法はおしつけ憲法だから、特に第9条を修正して、自衛隊を明白に軍隊に格上げすべきだとか、アメリカが反テロのための戦争を展開している時に、何らかの軍事的協力をできるようにすべきだとか、国連の平和維持活動に積極的に関与できるよう、軍隊の海外派遣をできるようにすべきだとか、といった方向の議論ばかりなのである。
  特に、日本では象徴界の秩序維持の力が弱まり、moral hazardが起き、残虐な犯罪のニュースも耐えないことから、新しい保守派(ゴーマニストを名乗る人物など)が、再度、大東亜戦争当時の日本の大義を評価したり、国家(公のモラル)に殉ずる美徳を称揚する風潮が生まれつつある。
  だが、このような状況だからこそ、日本国憲法を読み直し、日本国憲法が世界に先駆けて創り上げた徹底した平和主義の水準を、再認識すべきではないだろうか?
実際、真の勇気とは、「反テロのための戦争」といった言葉に、大勢が踊らされる中で、「ちょっと、待て。反テロのためであっても、それもまた巨大なテロではないの?」と単独者として発言することではないか、と発言すらタブーになりつつある時代に抗して思うのである。

                                                 (2002.9.21)

<参考>有事法制について考えたい人のためのサイト WHO IS YUJI?


<付論1>戦争の予感
 国連によるイラクの大量破壊兵器の開発の有無に関する調査が進行中であり、イラクはこれに対して全面否定を行い、査察への全面協力も行っている。一方、アメリカはイラクの全面否定に関して、重大な事実の隠匿があるとして、対イラクの戦争準備を着々と進めている。また、アルカイダの背後にイラクがあることも、アメリカは疑っているようだ。
 正確にいえば、アメリカは公表できる証拠を所有していないがゆえに、犯罪ではなく、戦争として処理しようとしているということだ。対タリバンの時がそうであったがゆえに。                  (2003.1.10)

<付論2>ニーチェVSニーチェ
 イラク戦争や北朝鮮問題を契機に、有事法制の法整備が完了した現在、反動勢力の次なるステップは、過去の歴史の改ざん・プルトニウムの再利用による戦略核の保持・徴兵制であろう。
 ここで、私の立場を明確にしておこう。
 まず、北朝鮮における貧困や、核開発、個人崇拝と全体主義的圧政に私は抗議するが、さりとて日本のナショナリズムや自民族中心主義、排他的選民思想、国家主義、ファシズムに組しているわけではなく、反対に北朝鮮を斬る刀で、日本のナショナリズムや自民族中心主義、排他的選民思想、国家主義、ファシズムをも斬ろうというのが、私の立場である。
 第二に、護憲平和の観点からすれば、現在、政権を握っている小泉純一郎氏よりは、野中広務氏のほうがはるかにましと考えているということだ。(自民党は、一枚岩ではないというのが、私の見解である。)野中氏はイージス艦派遣に関して疑念を表明したし、イラク戦争終結後の自衛隊派遣の法整備問題に関しても「初めに自衛隊派遣ありき」ということに疑念を表明したからである。
第三に、これまでの歴史教科書を「自虐史観」として批判し、「自由史観」を主張する「新しい歴史教科書をつくる会」の新保守主義的立場にも反対であるということだ。彼らは、現在の日本の混迷を、公のモラルの解体にあるとして、その復権を企てる。彼らの公のモラルとは、第二次世界大戦中、国のために殉じた人々が抱いていた美徳である。しかし、私の信じる倫理(エテック)は、彼らの説く道徳は、死のモラルであり、真のエテックはそれらのモラルを踏み潰すことにあると告げている。
 「新しい歴史教科書をつくる会」を構成する人々をみると、西尾幹二・西部邁とニーチェの専門家がそろっていることに気づく。そして、ニーチェの専門家と、新しいファシズムの担い手という符合に、次のような図式を思い浮かべる。
 (1)ニーチェの妹エリザベートは、ニーチェの遺稿を整理して「権力の意志」を編集する。ところで、エリザベートは、反ユダヤ主義者である。そのため、ニーチェが国家主義や反ユダヤ主義を毛嫌いし、侮蔑している言葉は、編集によりカットされ、隠蔽されるにいたる。いずれにせよ、ここでエリザベート版ニーチェ像が誕生した。エリザベート版ニーチェ像は、ヒットラーによりムッソリーニにニーチェの著作集が贈呈され、全体主義者のバイブルとして愛好され、ユダヤ人虐殺を正当化する理論に仕立て上げられた。この解釈からすると、超人とはナチのSSの如き、死を恐れない戦士のことであり、徹底的な強者のことである。
 (2)このエリザベート版ニーチェ像が、捏造であることを明らかにしたのが、バタイユやクロソウスキーの雑誌「アセファル」である。アセファルは、無頭人であり、神の首を切断することと、国家総統の首を切断するという意味が込められていた。これは、ファシストからニーチェを奪還する試みであり、理論的レベルでのレジスタンスであった。クロソウスキーの『ニーチェと悪循環』、ドゥルーズの『ニーチェと哲学』は、この延長線上にあり、いかにして人はファシストになることなく、生きることができるかというエテックを追求している。この解釈からすると、超人とはレトロウィルスによって内と外の境界のなくなった身体の如き、徹底した弱者である。ここでは国家的アイデンティティを作り出す境界線は、完全に解体している。
 要するに、「新しい歴史教科書をつくる会」を支えるニーチェ学者とは、(1)の後継者か、(1)と(2)の差異に鈍感か、どちらかである。いずれにせよ、彼らは<現在>以前なのである。                      (2003.6.13)


No.159 - 2003/08/16(Sat) 21:33
No.18 - 2004/11/11(Thu) 21:15:36

「匣の中の匣」からの再録 / T.Harada [ Home ]
Googleに、「匣の中の匣」のキャッシュが残っていましたので、めぼしい文章を再録します。

日本国憲法を読む / 江藤蘭世 [ Home ] 引用

前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

第2章 戦争の放棄
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


No.245 - 2004/05/03(Mon) 19:26

日本国憲法を読む II / 江藤蘭世 [ Home ] 引用

本日の読売新聞は、テレビ欄以外に読むところがなかった。
ほとんどが、読売新聞の唱える改憲案の記事ばかりであり、唯一何を間違えたか読売新聞の方から掲載を依頼したという角川書店の広告(これは、護憲派の大塚英志による<憲法前文を書くシリーズの広告)だけが、一点の清涼感を与えた。
今日の観点から、個人情報保護や環境問題に対する新しい人権を憲法レベルで規範化することは真剣に検討されていいだろう。
しかし、読売新聞を筆頭とする改憲派のターゲットは、日本国憲法前文であり、第2章第9条の法改正にあることはいうまでもない。
大日本帝国憲法→日本国憲法という流れでみるならば、自民党の改憲派や、読売新聞のねらっていることは、歴史的後退であり、平和主義の観点からも、基本的人権の観点からも後退を意味することはまちがいない。
彼らはナショナリストであり、国軍を持つことが、まともな国家の条件であると信じている。
現在の日本国憲法は、先の敗戦の体験による反省、特に日本の場合、世界史上最初の被爆国であるという体験の反省から生まれてきた。
歴史的経緯をみるならば、GHQによって用意されたものであるかも知れないが、二度と戦争を起こさないように連合国によって、彼らの考える国家の条件である陸海空軍その他の戦力の保持を骨抜きにされることで、逆説的に国際的平和主義の最先鋭の憲法となった。
戦後、アメリカの都合により、政府により解釈改憲が行われ、警察予備隊ができ、さらにこれが自衛隊となり、国外にまで派兵されるにいたってしまったが、日本国憲法前文および第2章第9条を読む限り、これが憲法の精神の正反対の方向性を持つことは疑いようがない。
確かに、憲法は他の法律に対して上位に立つことから、ある程度の解釈を許すように曖昧に書かれているかも知れない。しかし、憲法のいわんとするところと180度正反対の事柄(戦力をもつ自衛隊の海外派兵)までも許容するものではない。
古今東西、国家や集団(カルトなど)が、人間に大量殺戮を実行させる際には、殺戮こそ善であると教え込むのが普通である。
今日をいきる私たちは、第二次世界大戦当時の日本軍が、植民地主義と帝国主義の悪であったことがわかる。しかし、その当時の生きていた多くの当事者は、大東亜共栄圏を欧米諸国から自衛することが、愛国につながるというイデオロギーに染まりきっていたのではなかったか。その当時を生きつつ、イデオロギーの外部を、つまりそのイデオロギーでも説明のつかない現実のアジアの民衆の人権に対する冒涜や生命の剥奪が見えていた人は、少数にすぎなかったのではなかったか。
未だ戦争状態の続くところに派兵することは、紛争にまきこまれるリスクが高くなることは眼に見えている。彼らの正当防衛、彼ら自身を守るための自衛権が、交戦に発展する可能性が高くなるだろう。正義と信じたものが、ある条件下で悪に転化することはよくあることである。
ましてや、今回のイラク戦争で、米英の戦争の正当化に使われた大量破壊兵器が見つからない現在、米英のとった行為は正義とするロジックは成り立たない。
また、フセイン政権が倒れた後、今尚続く戦火は力で宗教をねじ伏せようとする行為であると看做すことができよう。今回のイラク戦争で、フセインとバース党一派だけではなく、まったく罪のない多数の人々、そのなかにはフセインの民族主義的全体主義の体制の犠牲者だった者や子どもも含まれる、が殺害されたのだ。それも、アメリカの石油利権と兵器の蕩尽だけのために。このことが、途方もない負のエネルギーを生んでいる。
ところが、人間の精神を、力でねじふせ、世界中の物質的な幸福を独り占めしようとする勢力を、後方から支援し、その政策を補完し、おこぼれを貰うという行為を、日本政府は行っているのである。
今こそ、読売新聞と自由民主党は、日本の恥辱であると言おう。そして、一刻も早く、イラクがイラク人民のものになることを願わずにいられない。


No.246 - 2004/05/03(Mon) 20:30
No.23 - 2004/11/11(Thu) 21:30:00

「匣の中の匣」からの再録 / T.Harada [ Home ]
Googleに、「匣の中の匣」のキャッシュが残っていましたので、めぼしい文章を再録します。

システムから遠く離れて / 江藤蘭世 [ Home ] 引用

システムは、常にそれ自身において完結することがない。システムがシステムとして存立するためには、システムの外部を必要とする。
ゲーデルの不完全性原理、もしくはハイゼルベルクの不確実性原理を見よ。
たとえば、資本主義は、その外部としての社会主義があって、資本主義として存立し得た。これは、システムが持つ本質的パラドックスである。
しかしながら、ソ連という外部を失った資本主義は、新たな外部を要求する。それはイスラムという外部である。

本格ミステリは、常にそれ自身において完結することがない。『闇のなかの赤い馬』をめぐるわたしたち周辺の異論・異説等、さまざまな解釈は、汎虚学研究会の入手した推理の根拠となるデータの、さらなる根拠を求めたことによる。
本格ミステリにおいては、その小説の中で得られるデータのみから、推理が組み立てられる。データには過不足がないのが望ましく、伏線もまた、最後の結末に流れ込むように仕組まれているのが望ましい。
本格ミステリは論理学的にみても、他ジャンルと比べて、より形式化されているといえる。
その小説の中で得られる証拠の証拠、根拠の根拠を求めるとき、人は必然的に本格ミステリという論理体系の外部に導かれる。

量子力学において、観測者の位置によって、観測対象が変容する。
それと同じように、本格ミステリにおいても、探偵の関与によって、事件は影響を受ける。
探偵は常に、本格ミステリのアルゴリズムに沿って推理を展開する。顔のない死体が登場すれば、被害者と加害者の入れ替わりがあるのではないか、最後のどんでんがえしという点から、犯人は意外な犯人であり、絶対に犯人と思われないものが犯人ではないか、と。
犯人は、この探偵の推理の裏をかくことができる。
こうして、本格ミステリは本格ミステリというシステムを本質的に逸脱する。本格ミステリは、自己言及的なシステムであり、先行作品の触れ得なかった新しいトリックの創出を求める。
この特質が、本格ミステリを、常に別のかたちに移動させる原動力となっている。
言及に次ぐ言及は、必然的に倒錯的で畸形的な構築へと向かわせる。
本格ミステリは、最終的にアンチ・ミステリという奇妙な建築、建築ならざる建築へと向かわせる。


No.241 - 2004/04/13(Tue) 23:30
No.22 - 2004/11/11(Thu) 21:27:58

「匣の中の匣」からの再録 / T.Harada [ Home ]
Googleに、「匣の中の匣」のキャッシュが残っていましたので、めぼしい文章を再録します。

再録:癌とアトポーシス、進化論について / 江藤蘭世 [ Home ] [ Mail ] 引用

薔薇十字制作室に掲載されていた原稿の再録です。

<仮説1>がんはアトポーシス不全症候群として捉えることができる。

<解説>がん細胞自体は、寿命がなく、無限に(生態の形態を無視して)増殖するがゆえに、生態の形態を考慮して増殖する正常細胞を傷つけ、結果的に死に至る性質をもっている。アトポーシスは、たとえばカエルの足が成長の段階で分化するにあたって、指と指の間のまくのような細胞が自死することによって、指が出てくるというように、DNAに組み込まれた自死プログラムである。がんにはこれがない。ということは、がんの本質とは、アトポーシスをつかさどる遺伝情報になんらかの欠陥があることが推定できる。
がんは不死への欲望の具現化が暴走したものとして捉えることができる。だが、DNAの選択した方法は、よりリスクの少ない道であった。地上で永遠に不死であるならば、生存中に遺伝情報が傷つく可能性が高い。だから、傷つく前に、DNAは次世代の生体に乗り換えるのである。しかも、性の分化と、次世代のハイブリッド化で多様な配列の塩基配列の生体が誕生することで、いかなる環境下でもいずれかの生体がサバイバルできるようになっている。クローンのように、単一の遺伝配列であると、ある環境化では一挙に絶滅することになりかねない。しかも、優性遺伝によって、よりサバイバルの可能性のある次世代には、より高い掛け金がかけられているというわけだ。このように、生物の死は、性の分化とともに生まれたのである。

<仮説の立証>1ヒトゲノムの解読によって、ヒトのアトポーシスをつかさどる遺伝子の塩基配列が特定できる。2がん細胞におけるアトポーシスの塩基配列調べる。

<仮説2>アトポーシス不全症候群の原因としては(1)放射線障害、(2)発がん性物質(化学物質によるもの)、(3)がんウィルスによるもの、(4)遺伝的要素が考えられる。
<解説>(1)放射線障害は、重度であればアトポーシス遺伝情報の破壊、軽度であれば遺伝情報の組み換えがおこなわれる。(2)うさぎの耳にコールタールを何度でも塗ると皮膚がんになるように、化学物質によってもがんとなる。この場合、細胞内に化学物質が浸透し、膜状に包むために、アトポーシスの発現ができなくなるケースのほかに、次の可能性が考えられる。ヒトの感覚系のレセプターに、脳内麻薬物質と間違えて、麻薬成分がつき、離れなくなるように、発がん性物質はアトポーシスの塩基配列に、うまく結合してしまうような分子配列をしている可能性である。(3)レトロウィルス(RNAウィルス)は、逆転写によって、生物の遺伝情報の書き換えを行う。マウスでがんウィルスの働きは確認されている。(4)遺伝的にアトポーシスの塩基配列にバグが入り込みやすい家系があることは、十分可能性がある。なお、習慣的な食生活によるものは、(3)として分類できる。

<仮説の立証>(1)放射線を使った実験で確認可能である。この場合、遺伝情報との因果関係の立証は難易度が高い。(2)分子生物学はもちろん、疫学的調査も研究手段として利用すべきだろう。さまざまな物質について追跡調査が必要である。(3)エイズ(免疫不全症候群)の研究が応用できる。(4)人権に十分配慮した疫学的調査と、脆弱な塩基配列とは何かを追求すべきである。これにはアトポーシス以外の塩基配列が関与している可能性がある。

<仮説3>臨床の対象としてのエイズ(免疫不全症候群)には、強烈な薬剤を掛け合わせたカクテル療法が有効だが、これには肝障害などのリスクがつきまとう。これとは別に進化論の観点からすると、エイズはレトロウィルス(RNAウィルス)であり、生体のDNAを書き換えて、自分たちを複製して、増殖するという性格をもち、このレトロウィルスは進化の鍵を握っているともいえる。レトロウィルス自体も、他の生物より遥かに進化のスピードが高いので、エイズ自体もそのうち学習して、いまのままでは宿主が死んで、自分たちも住む場所を失うから、うまく共生できるように進化するのではないか。

<仮説の立証>この仮説は、われわれの寿命のうちには立証不可能である。しかしながら、このレトロウィルスを自由にコントロールできれば、神に等しく(この場合、悪魔に等しく、と同義である。)進化をコントロールできることは疑いない。
                                                           (2002.11.5)


No.156 - 2003/08/16(Sat) 21:28
No.21 - 2004/11/11(Thu) 21:19:16

「匣の中の匣」からの再録 / T.Harada [ Home ]
Googleに、「匣の中の匣」のキャッシュが残っていましたので、めぼしい文章を再録します。

再録:平和問題について / 江藤蘭世 [ Home ] [ Mail ] 引用

薔薇十字制作室に掲載されていたものの再録です。

 ドストエフスキーは「大審問官」の章で、イワン・カラマーゾフに<罪のない子供の死>を例にあげさせ、もし仮に将来人類に無限の幸福が約束されていても、そのために<罪のない子供の死>が必要ならば、喜んで未来の幸福への切符をつきかえそうではないか、といわしめたのだが、今、アメリカはイラク攻撃を正当化する根拠として、「イラクの自由」をもたらすためといっている。そんなアメリカに<罪のない子供の死>が必要ならば、そんな自由など拒絶すると宣言する必要があるだろう。
 そもそも、自由とは、イェーリングによると<権利のための闘争>であって、他人から与えられるものではないはずである。
 わたしの行動原則は「犠牲者も否、死刑執行人も否」(カミュ)ということである。殺されるのも嫌だし、殺す側になるのも嫌だということである。そして、「我反抗す、ゆえに我等あり」(カミュ)、これは不条理な死が覆う現実世界に反抗する者は、立場を超えてひとつになれるということである。
 アメリカが今回の爆撃に踏み切ったのは、イラクは大量破壊兵器を持っているという判断からである。だが、アメリカは穿ってみれば見れなくはない状況証拠を握っているのみで、推量の域を出ず、査察による物的証拠は発見されていない。
 9・11の報復の時もそうであったが、単なる犯罪を大掛かりな戦争で処理するのは、証拠不十分であるからである。そして、大量破壊兵器の所有は「かもしれない」だが、戦争によってもたらされる大量死は「絶対確実」なのである。
 つまり、この戦争には、国際世論を説得するだけの正当な理由はないのである。
 今回、ブッシュやブレア、そして小泉は、国連や国際世論を無視して暴走を始めたが、このような大衆蔑視は、大衆によって自分たちが棄てられる日が来ることを知っておくべきだ。彼らの暴走は、強国は弱国の国民の生殺与奪を自由にできるという驕りがある。
 ブッシュの背後には、巨大な軍需産業と石油産業があり、さらに狂信的な聖書ファンダメンタリズムが見え隠れする。この<罪のない子供の死>をなんとも思わない悪魔が、イラクを攻撃したのは、イラクがイスラムであり、石油があるからだ。つまり、これは21世紀の植民地戦争なのである。
 無論、フセインという男も冷血な民族主義的専制君主であり、クルド人を化学兵器で殺す人間だが、その虐殺の背後にはアメリカとイギリスがいたこと、イラクがテロ国家なら、アメリカは世界最大のテロ国家であることを忘れてはならない。アメリカは大量破壊兵器の棄却を迫る前に、自国の大量破壊兵器を始末すべきではないか。(注)
 また、わが日本の首相には、どんな権力のもとでも、自分の下した判断がどのような結果をもたらすか、正常な理性的判断能力を停止させることなく、考え抜いてもらいたい。日本はアメリカの植民地でも、属国でもなく、対等な立場なのだから、間違っているときには、間違っているといわなければ、国際社会の一員として恥ずかしいということを肝に銘じることである。特に、日本国憲法第九条の意義と、日本が被爆国であることの意味について、熟考すべきなのである。果たして、米英の帝国主義戦争に加担し、<罪のない子供の死>を肯定することが、正しいことなのか、真実を直視するものには判るはずである。それが判らないとしたら、強いものに巻かれることで、自分の保身に走っているといわれても仕方ないであろう。
                                            (2003.3.20)

(注)かつて冷戦下における反核運動について、吉本隆明は『「反核」異論』を書き、進歩的知識人の動きに異義申し立てを行ったが、その主張はアメリカの核に対する対抗運動は、冷戦下においてはソ連の利益に直結するというものであった。但し、その著書の中での吉本隆明の主張は、アメリカとソ連の両方の核に反対する立場の否定ではなかった。
現在、冷戦の終焉とともに、民族紛争と宗教戦争の時代に突入したが、ここでも「非戦」運動は、ブッシュとフセインの両方に対する対抗する運動でなければ、もう一方の立場を利することになることを指摘しておかねばならない。つまり、イラク国民のための闘争は、二つの戦線にまたがる必要がある。ひとつはアメリカの帝国主義機械であり、もうひとつはフセインの専制君主機械である。このふたつの国家装置とそれを補完する国家のイデオロギー装置を、F・ガタリ流のミクロ・ポリティックスによる分析にかける必要がある。そこに見出されるのは、権力に依存する主体というアポリアである。


<附論1>ノーム・チョムスキーによる「アメリカ=テロ国家」の証明
                  
ノーム・チョムスキーは、生成変形文法理論を説くデカルト派言語学者として評価されているが、ベトナム戦争以降、積極的なアメリカ批判を展開している。平和のための政治的発言としては、ラッセル卿や、サルトルに通ずるものがあると思う。
(1)「アメリカの対外援助は、市民に対して拷問を行っているラテン・アメリカ各国、西半球において甚だしい基本的人権の侵害を行っている国に偏っている」(ノースカロライナ大学のシュルツ教授によるラテン・アメリカにおけるアメリカの援助に関する研究から。)
(2)アメリカの対外援助対象国は、アムネスティ・インターナショナルなどの記録によると拷問などの人権侵害の件数が高い。(ペンシルベニア大学ワートン校の経済学者ハーマン名誉教授の研究から。)
(3)アメリカの対外援助と投資環境の好転との間には、強い相関関係がある。(同じくハーマン名誉教授の研究から。)チョムスキーは、投資環境の好転が、対外投資の隠れた動機と推理する。
(結論)第三世界における投資環境の好転のためには、労働組合、農民のリーダー、宗教者、農民を拷問・虐殺し、社会保障のプログラムを破壊することが必要である。こうして、投資環境の好転のために、アメリカは基本的人権の侵害や拷問を必要とする。

以下は、その実証データの数々。(詳細はチョムスキーの著作や、映画「チョムスキー9・11」をご覧ください。)
(1)ニカラグアの事例
ニカラグアのなかに米国のためにテロを実施してくれる軍隊がなかったため、アメリカは直接攻撃をした。何万の人々が死に、国が崩壊した。
ニカラグアは国際司法裁判所に訴え、国際司法裁判所は違法な武力行使と国際条約違反を認め、アメリカに多額の弁償金を支払うよう判決した。それに対して、アメリカは即座に攻撃を激化させ、診療所や農業協同組合も攻撃した。(攻撃は親米派の大統領誕生まで続いた。)
ニカラグアは、次に国連の安全保障理事会に訴えたが、アメリカが拒否権を発動し、否決された。
(2)エルサルバドルやグアテマラの事例
エルサルバドルとグアテマラの軍隊をアメリカの支配下に置き、国民にテロを実施させた。
エルサルバドルでの攻撃目標は「解放の神学」であり、貧しい人々の救済を説いたために、まず大司教が殺されたことから攻撃の口火が切られ、最後にイエスズ会神父六人が殺害され計画は終了した。
(3)1982年イスラエルによるレバノン侵攻
アメリカがゴーサインを出し、武器を与え、安保理で拒否権を振りかざし、レバノン侵攻は実現した。さらに占領地域の諸協議からPLOを排除した。
この戦争は、話し合いによる解決を、アメリカもイスラエルも望まなかったために実施したことであった。
他にもアメリカとイスラエルの共謀によるテロとして、チョムスキーは1985年のチュニス爆撃やレバノン南部でのアイアンフィスト作戦を挙げている。
(4)トルコの事例
アメリカのトルコへの援助額が、1984年以降極端な増大。トルコ軍の武器の8割(戦車・ジェット機等)を供給。トルコ軍を使って、トルコ国民の約4分の1を占めるクルド人に向かってテロを実施。推定で300万人の難民と5万人の死者を出している。
(5)コロンビアの事例
1999年にアメリカの援助国として、トルコを抜き、第一位となる。ここでは人権擁護活動家やその支持者が、1日平均20人殺害されているという。ここでは軍隊の民営化によって、テロの民営化が実現している。また、アメリカ軍は直接「燻蒸(くんじょう)作戦」を実施。作物も家畜も死に、子供たちも全身かさぶたに覆われて死んでいったという。
(6)イラクの事例
サダム・フセインは自国の国民に対して、毒ガスを使うという究極の悪を犯した、とチョムスキーはいう。だが、サダム・フセインが十万人ものクルド人を殺害するために、大量破壊兵器を開発しているとしっていながら、支援していたのはアメリカであり、イギリスであった。
イラクが当時アメリカにいかに気に入られていたかを示す事例として、チョムスキーは次の例を挙げている。イラクのミサイルがアメリカの駆逐艦に命中し、37名の死者が出たが、1988年にアメリカはイラクを免責している。同じようなミスを免責した事例としては、1967年のイスラエルの事例があるだけである。
                                             (2003.3.23)

<附論2>メディアと戦争〜思考システムの外側へ
現在、批評の力が衰退している。
なぜなら、批評を書く際に、骨肉の痛みを持たない専門家が増えているからである。
ところが、現在ほど評論の力が求められている時はないというのも事実なのだ。
人間を殺戮することが正義と称され、悪を制するのに、より巨大な悪が要請されるというパラドキシカルな時代において、なにが正しく、なにが間違っているか、時流に抗して腑分けするのが、批評の本分である。
大量虐殺を行う人間は、自分の行為を悪だとは思っていない。
自己の行為を、正義だと倒錯して考えているから、大量虐殺が可能なのだ。
大量虐殺をする人間は、自分の行為を正義と考える思考のシステムの中にいて、外をみようとしない。
たとえば、フランクルの『夜と霧』(みすず書房)の旧訳を見てみよう。巻末にナチスの行った犯罪の証拠を示す写真が掲載されている。(新訳ではあまりにも残酷と考えたのか削除されている。)
ユダヤ人の死体の山が築かれていたり、死体の皮膚からつくったランプシェードのかさとか、奇怪な写真が連続している。
思考システムのなかで陶酔し、最終的に快楽の中で殺人を行う人間とはちがって、写真は冷めている。
湾岸戦争の際に、ボードリヤールは『湾岸戦争は起こらなかった』といった。
メディアが映し出すゲームのような画像に、人の死が隠蔽されたことをシニカルに表現したのだ。
そして、今回のイラクの戦争では、テレビは打ち上げ花火を移し、自由のための戦いというスローガンを垂れ流しただけだ。
無論、言論の自由を民族主義=自民族中心主義の名のもとに封殺し、反対者の処刑を行い、クルド人虐殺を行ってきたサダム・フセインは糾弾され、断罪されるべきだ。そのことに異論はない。
しかし、自由のための戦いの中で、罪なき人間の死があったことを忘れるべきではない。
http://www.robert-fisk.com/iraqwarvictims_mar2003.htm
確かに専制君主制の悪は倒された。しかし、全員が歓喜の声を上げているわけではない。上記URLに写された者やその身内が、喜んでいるとは思えない。
専制君主の悪を倒したものは、罪あるものと罪なきものを大雑把にまとめて始末するグローバリズムの悪である。
決して崇高な目的だけのためになされたものではないことを知るべきである。グローバリズムは、ただ一点、利潤追求のためだけに、世界を単一の価値体系にまとめあげてゆく。
自由とは、権利のための闘争であるとイェーリングはいった。
はたして、自分たちの手で自由を獲得したわけでなく、強制的に高い代償つきで自由を与えられた彼らに、ぬるま湯のような大量死の陰画としての大量生以外のなにがあるのか、問うてみるべきだ。
(2003.4.17)

<附論3>イラク特措法について
イラク特措法が、国会を通過したが、この法律は次の二面性を持っている。
まず、第一に戦争で壊滅したイラクへ救援物資を運ぶなどの人道上の意味合い、第二にイラクを占領しているアメリカの後方支援部隊として、武器や弾薬を運ぶ軍事的意味合いである。
無論、政府の本音は、後者にウェイトがかかっていることはいうまでもない。
イラクとの戦争の大義名分は、イラクが大量破壊兵器を所有しているというものであった。しかし、現在、イラクから大量破壊兵器も、それを処分した痕跡も発見されていない。
今回の戦争は、軍需産業と結びついたアメリカとイギリスの都合によるものであり、戦争の理由は捏造してでもつくりあげねばならなかったのである。
フセイン政権のクルド人虐殺を問題にするならば、下手人(フセイン政権)だけでなく、当時、そのバックにいて筋書きを書いていた悪の枢軸(アメリカとイギリス)をも問題にせねばならない。
罪なき人間の死という観点からすれば、フセイン政権の排他的民族主義、全体主義も悪だが、自国の利益のために生命の尊厳を何度でも踏みにじってきた大国をも、糾弾されねばならない。
今回のイラク特措法によって、憲法第九条の空洞化が、なお一層進んでしまい、戦前の状況に近づいてしまった。
正義のための派遣だからいいというが、その正義が疑わしい。その正義は、アメリカによって虐殺された罪のない子供の死を隠蔽している。その事実に、虐殺者自身、無自覚で、見えていないことが問題なのだ。
イラク特措法を通過させた自由民主党、公明党、保守新党の罪は、はなはだ大きいと言わねばならない。
(2003.7.27)


・イラク攻撃反対について考え、行動するために

反戦プロジェクト VIDEO ACT! http://member.nifty.ne.jp/atsukoba/vact/war/

CHANCE ! 平和を創る人々のネットワーク http://give-peace-a-chance.jp/

爆弾はいらない 子供たちに明日を http://homepage2.nifty.com/mekkie/peace/iraq/

NGO非戦ネット http://www.ngo-nowarnet-jp.org/

WORLD PEACE NOW もう戦争はいらない〜わたしたちはイラク攻撃に反対します。
     http://www.worldpeacenow.jp/

反戦・平和アクション http://peaceact.jca.apc.org/

アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名運動 
     http://www.jca.apc.org/stopUSwar/

さぁ、力を合わせて戦争を止めよう! イラQウェブへようこそ
     http://nowariraq.jca.apc.org/

今こそ平和を!5・3アクション http://act0503.jca.apc.org/top.html


No.157 - 2003/08/16(Sat) 21:30
No.20 - 2004/11/11(Thu) 21:18:08

「匣の中の匣」からの再録 / T.Harada [ Home ]
Googleに、「匣の中の匣」のキャッシュが残っていましたので、めぼしい文章を再録します。

再録:北朝鮮問題 / 江藤蘭世 [ Home ] [ Mail ] 引用

薔薇十字制作室に掲載されていたものの再録です。

現段階では、データが少なく、推測の域をでないが…(であるがゆえに、慎重にせねばならないが)次の疑念を晴らすことができない。
<疑念1>北朝鮮による「拉致事件」「不審船事件」は、一部の軍部の英雄主義・妄動主義によって行われたのではなく、国家の意思(=故金日成、金日正の意思)で行われた公算が大きいのではないか?
<疑念2>その諸犯罪は、北朝鮮独自の主体思想(マルクス主義の北朝鮮型変形。)によっておこなわれたのではないか?
<疑念3>「拉致」の被害者は、あまりにも死亡率が高すぎる、死亡年月日が一致している被害者がいる、等の不審な点があり、それは党により拷問・虐殺されたのではないか?
<疑念4>「拉致」の被害者は、工作員もしくは工作員の教育係となるべく、洗脳教育を受けたのではないか?
<疑念5>死亡した拉致被害者と存命している拉致被害者の違いは、国家中枢がこの事件に関与したことを知っていたか否か、もしくは洗脳教育がうまくいったか否か、によるのではないか?
<疑念6>工作員の指名は、主体思想の布教と北朝鮮のシンパづくり、覚醒剤の売買にあったのではないか?
現在時点で望まれる政治判断は、
<1>国交正常化交渉は、慎重に進めるべきである。(場合によっては、凍結も致し方ない。)
<2>事件全容の解明が、国交正常化に際して不可欠である。
<3>事件の主犯格の人間は、適正な法的手続きに沿って、裁かれなければならない。
<4>北朝鮮国内のマス・メディアで、これら一連の事件は報道される必要がある。
<5>北朝鮮は核査察の受け入れを認めるとともに、兵器開発を止める必要がある。
<6>日本が第二次世界大戦当時の補償を国家に対して行うにしても、それら補償が国家全土(特に飢餓地域)に浸透するかどうかを見極めないといけない。その補償が党の存続のためや軍事拡大に転用されることかあってはならない。
<7>アジアの平和と安定のために、北朝鮮をアメリカの軍事的標的にすることは回避せねばならない。
<8>将来的に北朝鮮の国家体制は解体されなければならない。(その犯罪国家哲学とともに。)
今、言えるのはこれだけだ。

                                                 (2002.9.21) 


<付論1>洗脳と歴史主義的恫喝
ティモシー・リアリーの『神経政治学』には、洗脳の方法を述べた部分がある。
まずブラックルームに入れるなどをして、外部からの情報を遮断する(感覚遮断)。そして、その人物が生後学習して獲得したデータを消去する。コリン・ウィルソンも『黒い部屋』(新潮社・絶版)で、このブラックルームを材料にしたスパイ小説を書いている。また、生存のために、X(この場合、北朝鮮労働党の犯罪者ども)に依存せざるを得ない状況をつくる。Xの望むタイプの人間になるしか存命の道がない、というふうに導く。
さらにマルクス主義的欺瞞は、歴史主義的倫理で、人間を縛るという手段を使用する。<君は確かに手を汚したかもしれない。だが君の現在の受難が、未来の労働者の明るい未来の礎になるとしたら、なにを迷うことがあるだろう。>という具合に。
無論、それを言う人間は、永遠に労働者のバラ色の未来など来ないことを知っているし、来たとしても土足で踏み潰す気でいることは間違いない。
<自由を失うほど、人間的レベルを超えて、善なるものになるだろう>と。
                                                 (2002.10.7)

<付論2>社民党の限界・自民党の限界
旧社会党の右派は民主党に、左派が社民党に流れており(より左派は新社会党に)、社民党は現在「社会民主主義」を標榜しているとはいえ、それは旧社会党の社会主義をソフトにしたものにすぎない。その問題点は、北朝鮮労働党の思想と、ソフトとハードの差はあれ、全く無縁とは言い切れないところにある。だから、つい最近まで拉致事件をまともに取り上げてこなかったのである。そこが社民党の限界点である。唯一ともいえる護憲政党が、北朝鮮の思想と完全に峻別できないという点は、護憲的な意見を持っている国民にとっての政治的選択が極めて厳しいということだ。したがって、こういう層は無党派層に流れこむしかない。
ところで、北朝鮮の核兵器の所有が明らかになった現在、最も危惧されることは、現在帰国している拉致被害者の5人が北朝鮮に戻った後で、アメリカがイラクに続く次の標的に北朝鮮を選び、爆撃を加える可能性があることである。このとき、現在北朝鮮との国交正常化をさぐっている自民党はどういう対応を強いられるだろうか。周辺事態ということで、なんらかの形で戦争に加担することになるのではないか。[こういったケースでもアメリカにNOと言えないのが自民党の限界点である。]そうした時、日本国民と自民党は完全に政治選択の意思の上でねじれを生じてしまうだろうと予想できる。そうなる前に、より真剣に北朝鮮との国交正常化を日本はさぐらなければならない。
                                                (2002.10.20)   

<付論3>北のメディア=情報戦略に気をつけろ
帰国者5名を永住帰国させる方針を、日本政府が固めたことで、上記の危惧は半減したといえる。いくら長期にわたるとはいえ、誘拐者に誘拐されていた人を返すというのは、理に合わないだけに、この決定は当然といえる。だが、彼らの家族、特に子供を取り戻すことができるか、が次の課題となってきた。
キム・ヘギョンを日本の一部マスコミに取材させたのは、北の次のような戦略を示しているといえる。彼らの家族、子供は、北朝鮮の最後の切り札であり、いざとなれば盾に使うこともできるということ、そして日本に帰国したものに、家族と離れ離れでいいのかという隠されたメッセージ。いずれにせよ、北のメディア=情報戦略に気をつけないと、道を誤ることにもなりかねないだけに注意が必要だ。 
                                                (2002.10.27)

<付論4>報道における説話的磁場とは何か
『遠野物語』をはじめとするさまざまなフォークロアでは、山人もしくは鬼にさらわれた人間が故郷に帰ってきた場合を描いている説話のパターンがあり、今回の帰還者をめぐるメディア報道もそういう説話のパターンをなぞっている。逆からいうと、そういう筋書きをわかりやすくするために、筋書きから外れるエピソードがあっても、意識的もしくは無意識的に語られない磁力が働くということだ。
それにしても、日本が帰還者を北朝鮮に帰さない決定をしたということで、約束を破ったとして、家族と政治的に断絶させたり、死亡者とされる(たぶん嘘だ。)人の調査をストップさせ、これで拉致の問題は終わったというのは、なんというふてぶてしいロジックだろう。
拉致問題の終結は、この事件の主犯格の男(いうまでもなく、あれだ。)の逮捕と処罰によってしか終結しない、と改めて主張しておこう。
この場合、アメリカに登場してもらうのだけは結構だ。彼らは味方だろうが、敵だろうが、おおざっぱに爆弾を落とすだけのデリカシーのない連中だからだ。
(2002.10.31)

<付論5>北朝鮮の核開発について
北朝鮮は核をちらつかせて、対米的に有利な話を引き出そうとしているようだ。いずれにせよ、これで韓国の太陽政策は破綻したし、日本の国交正常化交渉も見通しがつかなくなったといえる。これにより、帰国した拉致被害者の家族との再開は、ずっと先になってしまった。家族との再会の前に、北朝鮮の崩壊が必要不可欠に思えてきた。
                                (2002.12.13)

<付論6>北朝鮮工作員の国際手配について
先ごろ、日本政府は北朝鮮工作員のひとりを国際手配したが、なぜ主犯格の男を国際手配にかけないのか?
(2003.1.10)

<付論7>中国は北朝鮮難民を難民として認定せよ
中国は、北朝鮮難民を犯罪者として送り返しているが、このような北朝鮮との取り決めは、難民条約締結以降ということで、条約違反であり、また人権軽視といわれてもしかたがない(そもそも天安門といい、チベット侵攻といい、誰も中国が人権を尊重する国だとは思ってはいないが。)といわねばならない。
また、公然と核兵器開発を表明するような国の片棒を担ぐとしたら、中国も同じ穴のむじなといわねばならない。
(2003.1.14)


No.158 - 2003/08/16(Sat) 21:31
No.19 - 2004/11/11(Thu) 21:16:49
教養の不在 / T.Harada [ Home ]
薔薇十字制作室の方向性は、基本的に堅苦しい教養を解体し、自由になるということにある。そのため、提示されているコンテンツも、少々毒性のあるものになっている。
しかしながら、破壊の対象となる教養が、すでにない、不在であるという事態が起きている。共有する知の財産の欠落は、他ジャンルとの対話が成り立たなくさせる。これは、文化の終わりである。
どうやら、文明の解体を叫ぶ側にあるものが、同時にそういった基本を裏で整えねばならないということなのだろうか。
No.11 - 2004/11/03(Wed) 23:46:58

西洋文学の基本図書 / T.Harada [ Home ]
薔薇十字制作室内の「現代を読み解くための推薦ブックリスト」
http://www.geocities.jp/le_corps_sans_organes/page009.html
は、基本を押さえた人がさらにもう一歩突っ込んだ世界を探求する際に必要になるリストである。
基本について、私は文学全集や文庫本をあたればよいと考えてきた。
しかしながら、個人の全集は別として、現在世界の名作をまんべんなく押さえた文学全集というものは流行らないのか、あまり刊行されていない。百科事典や世界文学全集といった家具のようにかさばるものは、日本の住宅事情に合わないということもあるだろう。一方、文庫本については、新刊の冊数は物凄いが、その大半は流行作家のものであり、ずっと恒久的に出し続ける名作については、それらに比較的力を入れている岩波文庫や新潮文庫ですら、結構、重要な本が刊行されていないという状態になってきた。
こういった現象は、偏った知を生み出すこととなる。基本となる名作の類は知らないが、ベストセラーは読んでいるという人、あるいは大学で特定の作家について、未発表の異文や日記・書簡に至るまで学んだが、他の作家についてはあまりよく知らないという人……その結果、日常会話には支障はないが、なにか突っ込んだ話をしようとすると、会話が成り立たないということになってくる。
そこで、基本図書のガイドのようなものが必要になってくる。いろいろネット検索をした結果、理想的なサイトが見つかったので紹介したい。
京都大学文学部西洋文化学系編「西洋文学この百冊」である。
http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/wl/index.html
これから読む人には、参考になるであろうし、ある程度読んでいる人には、未読分野を知ることができる。
日本や東洋の文学・思想、科学論文などについても、このようなサイトはないかと現在探している。ご存知の方がいらっしゃいましたら、お教えください。
No.13 - 2004/11/04(Thu) 20:59:04
いのちの値打ちが暴落している / T.Harada [ Home ]
イラクでの日本人人質事件は、最悪の結末を迎えた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041031-00000028-kyodo-pol

犯人グループは、アブムサブ・ザルカウィが率いる「一神教聖戦団」であり、このグループは2004年10月17日に、「われわれは、一神教聖戦団がビンラディン氏に忠誠を約束したことを発表する」と表明しており、アルカイダの協力関係にあるグループである。
http://www.reuters.co.jp/newsArticle.jhtml?type=worldNews&storyID=6522031
アブムサブ・ザルカウィはヨルダン中部ザルカ生まれであり、90年代アフガニスタンで当時のソ連軍を撃破するために各国から集結したムジャヒディン(イスラム戦士)のひとりであった。帰国後、ヨルダンで王政打倒を図り、投獄される。この獄中で、ザルカウィはイスラム原理主義への傾倒を強め、イスラム集団「タウヒード(神の唯一性)」を結成し、神を自称する国王への不信と、社会への怒りを表明し、百人ほどのグループをつくり、刑務官と衝突を繰り返したという。この「タウヒード(神の唯一性)」が「一神教聖戦団」の母体である。ザルカウィのグループは、反シーア派(反イラン)であり、反アメリカである。
つまり、ザルカウィは、獄中で先鋭化した党派観念を持つに至ったのであり、その温床となったのは社会へのルサンチマン(恨み)である。その精神は、イスラム原理主義以外には、教条主義的に固く閉ざされている。
今回、このグループは24時間以内の自衛隊のイラクからの撤退を要求した。日本政府は、なんらかの交渉窓口(前回のイスラム聖職者協会のような)を持とうとしたようだが、このヨルダン人の率いるグループとの交渉窓口は持つことができなかったようである。また、持てたとしても、交渉の余地のない相手で、中間的な着地点など認めるはずのないグループであった。
No.7 - 2004/10/31(Sun) 11:36:44

アメリカ大統領選挙の結果をめぐって / T.Harada [ Home ]
アメリカ大統領選挙は、ケリー(民主党)との接戦にもつれこんだが、最終的にジョージ・ウォーカー・ブッシュ(共和党)の再選という結果に終わった。
http://www.asahi.com/special/usaelection/TKY200411040067.html
上下両院とも共和党が多数派を維持することとなった。
http://www.asahi.com/special/usaelection/TKY200411030245.html
今後の政局運営は、ブッシュの国連をないがしろにした一国中心主義が継続され、「テロとの戦争」が続行されるということになる。

ただ、今回の選挙結果から、イラクとアフガニスタンでの戦争をめぐって、アメリカ世論はほぼ二分していることがわかった。戦争肯定派の多くは、ブッシュに、戦争に懐疑的な人々の多くはケリーに投票していたのである。しかし、ブッシュの勝利によって、強硬路線が継続されることになるだろう。

ブッシュのやっていることは、テロという「犯罪行為」を「戦争」として受け取り、テロリスト集団のいる可能性のある国全体を攻撃し、罪のない子供たちのいのちまで奪い、さらには自分の気に入らない国に対し、テロリストに資金援助したり、大量破壊兵器を持っているだろうと、十分な証拠もなく、いいがかりをつけ、大量殺戮を行い、すべては民主主義のために必要な行為だったと言い直ることなのである。こうして、兵器産業が潤い、石油の利権を獲得し、親米政権をつくり、自身の傘下におさめることができるというわけである。

ブッシュは自力制裁による大量殺人(無差別殺人も含む)のリーダーであるが、犯罪者とされない。
金正日(キム・ジョンイル)は誘拐と監禁の実行犯のリーダーであるが、犯罪者とされない。
No.12 - 2004/11/04(Thu) 07:45:53

いのちの値打ちが暴落している(2) / T.Harada [ Home ]
ところで、イラク復興支援特別措置法に基づく基本計画によるイラク南部サマワへの自衛隊の派遣期間は、12月14日で切れる。これに対し、政府は派遣期間を平成17年12月31日まで延長し、派遣人数を50名増の650名ににし、対迫レーダーを2005年1月派遣の第5次隊から配備し、軽装甲機動車を増やすなどの措置を考えている。
無論、この延長は現地の治安状況をみて考えることになっている。最近、サマワの陸上自衛隊宿営地内にロケット弾が着弾した事件や、香田さんの事件が起きているが、このことは治安状況の悪化とは判断されないのだろうか。小泉総理の答えは、初めから決まっている。<悪化とは判断されない。自衛隊の撤退など微塵も考えていない。>この答えは、なにが起きようと変更されることはない。

イラクでのアメリカ兵の戦死者は、開戦から数えてほぼ1000人に達したという。
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/mideast/news/20040908k0000e030018000c.html
これだけの戦死者が出ても、ブッシュ支持者はアメリカの約半分を占める。
大量破壊兵器は見つからず、戦争の大義は失われた。
それでもなお、ブッシュ支持が多いのは、戦争もののスペクタクル映画のヒーローにブッシュを見立てているからだ。現代社会は、物語に憑かれて、正常な判断が出来なくなっている。
果たしてアメリカ大統領選挙は、いかなる結果が出るのだろうか。
No.8 - 2004/10/31(Sun) 12:09:37
生命の論理〜私たちは平和を希求する / T.Harada [ Home ]
1980年にケイト・ブッシュが発表した「呼吸(Breathing)」は、核戦争後の世界の中で、それでも呼吸せざるを得ない私たちの生命のあり方を歌っている。
そこで繰り広げられる悪夢の世界は、核爆発の後のプルトニウムの粒子が撒き散らされた世界である。ケイトは、生命とは呼吸することであり、呼吸なしで、私たちは一体何ができるのかと、生命を蔑ろにする愚か者たちに異議申し立てをする。それは、うねるような狂気の歌である。
イデオロギーからではなく、生命という根底から、核時代を撃つこの姿勢は重要である。イデオロギーからなされた反権力の言葉は、いつしか権力に変容し、われわれを抑圧するものに転化することがあるからである。
全面核戦争は、それが起きた時には、すでに手遅れであるという性格を持っている。それゆえ、大江健三郎は「核時代の想像力」の必要性を説いた。それが起きる前に、どうなるかを考えるということである。
No.10 - 2004/11/01(Mon) 21:14:52
祝・開設 / 杉澤鷹里 [ Mail ]
「匣の中の匣」の復活、おめでとうございます。

 まあ、虚無なる掲示板ですから、予め読者の無反応が約束されているようなものですが、余力ある限り私も文章を書いていきたいと思います。
No.6 - 2004/10/31(Sun) 11:04:47

Re: 祝・開設 / T.Harada [ Home ]
管理人を除くと、初書き込みは杉澤鷹里さんということになります。いつも書き込みありがとうございます。
おそらくここの書き込みは、私と杉澤さんが書かないと途絶えてしまいますから、ぜひぜひ宜しくお願いいたします。
それにしても、カウンターの数字が増えてますが、私はこんなに訪問した覚えがありません。
黙って観ている人が居るのでしょうか。
それを思うと、照れたりして……。
No.9 - 2004/10/31(Sun) 13:11:25
ゲーム殺人事件 / T.Harada [ Home ]
竹本健治の「ゲーム殺人事件」三部作について考える。以下は、そのたたき台。

◆狂気の捉えかたについて
『囲碁殺人事件』……物的世界観的な狂気の捉えかた。
『将棋殺人事件』……理的世界観的な狂気の捉えかた。
『トランプ殺人事件』……事的世界観的な狂気の捉えかた。
物的世界観では、狂気はそれ自体として実体としてあるとされる。
事的世界観では、狂気は実体としてあるわけではなく、関係論的にあるかのごとく析出される。
理的世界観は、物的世界観から事的世界観への認識の深まりの過程としてある。

◆ミステリの形式について
この場合、形式は狂気を入れる器としてある。
『囲碁殺人事件』……ストイックな本格ミステリ
『将棋殺人事件』……極めつけの変格ミステリ
『トランプ殺人事件』……世界を反転させる反ミステリの序章
『囲碁』から『トランプ』へは、メタ化への生成過程がみてとれる。あたかも溢れ出る狂気を受け止めるためのように、器は複雑化の一途を辿る。
No.5 - 2004/10/30(Sat) 23:51:03
ポストモダン再考 / T.Harada [ Home ]
ポストモダニズムは、現在以下のような批判に晒されている。

(1)ポストモダニズムに含まれている科学の言説が、「当世流行馬鹿噺(ファッショナブル・ナンセンス)」であるという批判
アラン・ソーカル,ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞―― ポストモダン思想における科学の濫用 ―― 』(岩波書店)
http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/6/0056780.html

しかしながら、ポストモダニズムにおける科学のディスクールは、主として哲学的なメタファー、たとえ話として用いられており、それはポストモダニズムに始まったことではなく、スピノザ、ライプニッツ、ベルクソンといった人々が既にそのようなことをしていたのである。例えば、ドゥルーズは哲学史の研究家でもあり、スピノザ、ライプニッツ、ベルクソンといった哲学者について独自の読み直しをしている。そういう哲学的文脈の中で発言しているのであるから、それを押さえずに、表面だけをなぞって皮相な見方になっても、浅はかとしか言いようがない。

(2)マインドは肉に埋め込まれており、分離はできないにもかかわらず、ポストモダニズムは、肉体の存在を忘れているという脳科学からなされた批判。
G・レイコフ、M・ジョンソン 著 計見一雄 訳『肉中の哲学――肉体を具有したマインドが西洋の思考に挑戦する』(哲学書房)
http://www.tetsugakushobo.com/book/092.html

<肉>という言葉から、メルロ=ポンティの晩年の思想を思い出してしまった。それにしても、精神が肉体から分離はできないというのは本当か?どうも疑わしい。
No.4 - 2004/10/30(Sat) 22:19:13
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