観念3
観念形成の自由度という視点からすれば、現代人は大変不幸な状況であるとも考えられる。その理由は、情報の洪水に翻弄されているからである。現代では、自分でわざわざ経験しなくとも、様々な情報メディアを通して情報を得、擬似的に体験することができる。しかしそれらの情報・知識は、観念形成の自由度を阻害する要因となる。
喩えるならば、数学の問題があったとして、問題を見て考えることもなく、すぐ解答と解法を見るようなものである。それによって即座に問題を解く道筋をなぞり解答をしることはできる。しかしながらこれではいつまで経っても、自分で考えて問題を解く力はつかない。問題を見て分からない状態からあれこれ試行錯誤することにより、問題を解く力は身につくもの。そしてもう一つ重要な点だが、悩みに悩んだ末に解答に辿り着いた時の「おお!解けた!!」という歓喜を味わうことができない。
私などもそうだったが、数学が好きな人間は、エレガントな解法に辿り着いた時に一種の喜びを感じるものだ。エレガントな解法に辿り着いた時の喜び・感激は、問題が難しければ難しいほど大きい。それは悩み抜いた末だからこそ味わえるものである。エレガントな解法を見つけて喜ぶ、というのは、数学が好きではない人にとっては全く無縁の奇人変人趣味の世界かもしれない。だが重要なのは次の点である。
この喜びは、数学好きにとって次の難問に挑む原動力となるものであり、自分自身の中に数学の世界を構築する為に必要な原動力となる。この動機付け・モチベーションがなければ、一つの世界を構築することはできない。若い頃から便利なものに囲まれ、情報過多の環境で育った現代の若者は、その情報の多さ故に動機付けを生み出し難い。別の喩えで言うなら、推理小説があって、その事件のシナリオ・トリック・真犯人が最初から分かっているようなもの。それで推理小説を読みたくなる人がどれだけいるだろうか。
日本における伝統的な職人技は、マニュアルというものを作らない。その一つに宮大工という職業がある。神社仏閣の建築や補修に携わる大工のことである。そこに弟子入りした人達は、最初何も教えてもらえないで雑用ばかりやらされる。一通りの道具を揃えて、カンナなどの刃の研ぎ方は教えてもらっても、実際にそれを使って木を削ることはなかなかやらせてもらえない。師匠はその新入りが、やりたくてやりたくてしょうがない「うずうず」してくるのを待ってから、実際にやらせてみるという。
師匠によれば、人を育てる要諦は、「教えないこと」。手取り足取り教えるのではなく、「なぜこうやるのだろう」と弟子がやってみたくてうずうずしてくるのを待つのが大事だという。「うずうず」状態でやらせて教えると、弟子は乾いた土が水を吸収するように技術習得する。弟子もやりたくてしょうがなかったところを経験してみて、「面白いな」と感じる。このじらされた「うずうず」後にやってみて感じる「面白いな」は、次なる修行過程のモチベーションとなる。
ではこれを現代の企業が真似できるか、という問題である。経費削減・効率優先で、目先のマニュアル化した対応をさせるしかない。マニュアル化した対応は、結果だけかいつまんでいるので、「なぜそうするのか」という思考過程もなければ、意味合いも不明で、モチベーションも当然下がる。「やり甲斐」も感じづらく、「生き甲斐」ともなりづらい。
情報過多は、このようにモチベーション形成の阻害要因となる。過程を経ずに結果だけ知ってしまうことは、その経験への意味付け価値付けを不能にし、その意味付け不能はニヒリズム・シニシズムへといたる。これは現代の政治不信の要因にもつながる。
確かに一個一個の経験を見るならば、たかがカンナ削り、たかが数学のエレガントな解法、たかが推理小説、である。しかし人間の一生とは、そのような一つ一つの経験に意味合いを見いだし、生き甲斐とし、死んでいくもの。カンナ削りに価値を見いだすのか、お金に価値を見いだすのか、それだけの違いだが、そのお金すら得られない貧困層が大量に排出されつつある。いずれの価値観にも見放され、かつ新たなモチベーションすらもてない人達を、小生は生活保護対象者を中心に沢山みてきた。
(つづく)
コメント
「サイエンス」は知る作業を意味するようですね
その知る作業(左脳)に続き莫大な理解する作業(前頭葉)が本来は残されてます
ちなみに霊感で知るスピリチュアルな作業(右脳)のあとも理解が必要だが
データの過多は、確かに理解の基になる思考力を弱める
というのは考えなくても憶えれば答案は書けるし、検索すれば知識を得ます
ヒトが調和できないのも理解力低下によるのでしょう
野田さん数独とか得意そうな感じがします。