正式団体名 宗教法人 世界救世教 立教 1935(昭和10)年
開祖・教祖 岡田茂吉(おかだ・もきち) (=明主様) 現指導者 四代教主 岡田陽一
聖典・教典 本拠地(聖地) 静岡県熱海市
崇拝対象 大光明主神(みろくおおみかみ) 信徒数概算 84万人
分派教団 神慈秀明会 浄霊教会 関連団体 MOA美術館
黎明教会 救世主教 ほか多数 MOA International
派生教団 世界真光文明教団 崇教真光 ほか多数
教団の特色

大本の幹部だった岡田茂吉(1882-1955)が立教した教団です。宗教ウォッチャーの間では「手かざし系」「真光系」などというカテゴリーが存在するほど、世界救世教の分派・派生教団は数多く存在します。

教義は大本の影響を受けながらも、岡田独自の手かざしによる「浄霊」(日本医術)がこの系統の宗派最大の特徴です。信者は「おひかり」という教祖の念(魂)が入ったお札みたいなものを所持し、これを首からぶらさげることにより誰でも手かざしによる浄霊儀式ができるようになるそうです。
世界救世教とその分派・派生教団では、おひかりを身に付けた人が行う手かざしによって、手のひらからでる光の玉(もちろん目に見えない)が魂を浄化し、悪い病気を退治できると本気で信じています。病気は魂の汚れからくるのであり、これを治す唯一の方法は魂を浄化する行為、すなわち浄霊(日本医術)であるとする考えから、西洋医学による薬害・薬禍に警鐘を鳴らし、医者にかかることや薬の服用は教義上禁止されています。また化学肥料・農薬といった人為的な物質は魂を汚すということで、自然栽培による農業が実践されています。

「芸術は宗教の母である」という岡田茂吉の思想(元は大本教祖・出口王仁三郎の思想である)から、文化芸術活動にも力を入れています。熱海市にあるMOA美術館と箱根町強羅にある箱根美術館は世界救世教(とMOA財団)が運営母体で、MOA美術館のすぐそばに世界救世教の聖殿があります。

世界救世教の関連団体である「MOA財団」は、岡田茂吉の死後、河合輝明・世界救世教総長により1980年に設立されました。MOA は Mokichi Okada Association の頭文字をとったもので、岡田茂吉の思想と実践を宗教団体の枠組みを超えて世界に伝え、その活動の母体となることが財団の設立主旨です。MOA美術館は財団により1982年に建設されたものです。

ちなみに、「救世軍」と教団名が似てますが、それとはまったく由来の異なる教団です。救世軍はキリスト教の一派ですが、世界救世教は上述のとおり大本の流れを汲む神道系の教団です。

教団の発祥

教祖・岡田茂吉は明治15(1882)年に東京浅草の古美術商の家に生まれ、画家を志し東京美術学校(現・東京芸大)に進んだが病弱のため中途退学、その後装身具(アクセサリー)製作業に乗り出す。美術の才能と商才に恵まれ事業は順調であったが、大正8(1918)年、世界恐慌がおこり取引先銀行が倒産、あおりを受け事業は資金繰りが行き詰まり破産。莫大な借金を背負う。また同年妻子を失うという不幸に見舞われ、これが影響したのか翌年の大正9(1919)年、岡田は38歳のとき大本の信者となった。おりしも第一次大本事件(大正10年)の頃である。この時期、政府は大本に対して弾圧を加えていたが岡田は地道に活動し、同時に事業の再建を図るが大正12年の関東大震災により事業は縮小せざるを得なくなった。また、岡田は生来病弱であったためこの間も様々な病気にかかり、このときの体験から薬には害があるという思想を持つに至った。

この頃を境に岡田はよりいっそう心霊研究に没頭するようになり、大正15(1925)年には神の啓示により「神智と神力」(浄霊法)を授かった。昭和に入ると、事業を番頭に任せて自らは大本の布教と浄霊法の研究に熱中するようになった。
その後、昭和6年に千葉にある鋸山にて修行中に天啓を受け、「夜昼転換」を知ることとなる。すなわち、今世の中は長い夜が終わろうとしている時代に差し掛かっており、これからの時代は昼に向かうので、悪事不正は太陽の下すぐに暴露されるであろうとする独自の史観であり、現代を末法とする仏教とは逆の思想である。
岡田は、昼の時代に差し掛かるにあたり、これまでの物質偏重主義をあらため、宇宙創造神とのつながりを重んじ、精神世界とのバランスのとれた新しい文明を創造することを自らの使命として宗教活動に身を投じることとなった。

こうして形成された独自の思想を実践すべく、昭和9(1934)年になって岡田はついに大本を脱退し、翌10(1935)年「大日本観音会」を設立した。教団の目的は、病、貧、争の三大苦を根絶した「地上天国」をこの世(対霊界)に建設することにおかれており、そのためには物質偏重の現代文明を正しい方向へ戻すことが第一であるとした。すなわち、人類の不幸の原因は神を信じず、自然界の生命活動を無視したところからきているのであり、これを正すために浄霊、自然農法、芸術活動、真理を具現化する社会作りがその活動主体であるとした。しかし、時代背景により当時の政府当局より幾度となく弾圧されることとなる。特に浄霊法はインチキ医療行為として岡田は二度も医師法違反により検挙されるが、ひそかに浄霊による治療を続けたという。また、岡田はこの頃に「おひかり」(半紙に“光”と書いたお札)を考案し、戦時中はこの「おひかり」が弾除け、空襲除けになるとして評判になり、飛ぶように売れたという。商売に長けた人物だったようだ。

戦後になり宗教の自由が認められるようになると、岡田は「おひかり」で儲けた資金を元手に、本拠地を東京から箱根町強羅に移し「日本観音教団」を設立(昭和22年)、宗教活動を再開する。昭和25(1950)年には宗教法人の認可がおり、「世界救世(メシヤ)教」と改称して再出発することとなった。その間、岡田は地上天国の雛型となるべく、本拠地強羅の「神仙郷」、熱海の「瑞雲郷」建設を計画し、実行する。神仙卿は昭和22(1947)年の「観山亭」(岡田の活動主体となる住居)の建設にはじまり、昭和27(1952)年の「箱根美術館」落成で完成した。その後、岡田は瑞雲郷の実現に向け邁進する。

岡田は計画の実現をみずに昭和30(1955)年に他界するが、その後教団は昭和32(1957)年に「世界救世(きゅうせい)教」と再度改称、岡田の遺志を継ぎ瑞雲郷を完成させ、昭和36年には瑞雲郷に、同46年には神仙郷に、それぞれ神殿を完成させている。しかし残念なことに、岡田が昇天した後教団は分裂を繰り返し、いくつもの派生教団が誕生した。昭和40年代、教団の運営方針が変更されたことに異を唱えた支部・教会が別の教団として分離独立、その数は20団体に及ぶという。派生教団としては神慈秀明会、黎明教会、浄霊教会などがあり、いずれも岡田茂吉を明主様と仰ぎ、浄霊をはじめとする教義もほぼそのまま継承されている。

なお世界救世教は現在、傘下に3つの宗教法人(いずのめ教団、東方の光教団、主之光教団)を擁するということだが、詳細は情報が不足しているため不明である。

参考リンク
Okada Mokichi World 岡田茂吉研究と医学革命 岡田茂吉研究会 Okada Mokichi Network
岡田茂吉リンク集 古美術 洛南