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茶屋町と能勢街道と中国街道

2011年03月28日 08:00

茶屋町に菜の花街道


「上方」の表紙より
jusotutumi.jpg
三世長谷川貞信の「十三堤摘草之図」、
明治中頃と思われる大阪近郊の十三堤の風景です。
まだ新淀川が出来ていない時代なので中津川の堤防のようです。
山菜摘みの家族と蒸気機関車に手を振る少年、凌雲閣も描かれている。
土手の下に広がる黄色は菜の花畑でしょうか。ピンクはレンゲ畑かも。
この辺りは、江戸時代より菜種油を取るための菜の花畑が広がっていたそうで
春になると大阪の町から多くの人が訪れたといいます。

「明治18年の地図と現在の地図を重ねてみた」
nosecyugoku.jpg
ピンク色の道が中国街道。十三堤は旧十三の堤防の辺りでしょうか。
オレンジ色の◯は、中国街道と能勢街道が分岐する場所。
ここには萩之橋という橋が架かっていました。
茶屋町の集落近く、旧街道沿いに凌雲閣がありました。

IMG_8938_3.jpg
茶屋町の旧街道です。

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街道沿いに菜の花が咲いていました。

IMG_8944_2_20110327182336.jpg
菜の花の散歩道」というイベントの一環のようです。

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茶屋町のあちこちに菜の花が咲いる。

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街中が華やかになってとてもいいアイデアですね。

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茶屋町の風景もずいぶん変わりました。

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昔の佇まいはほんのわずかに残るのみ。
近年、茶屋町ほど激変した街も大阪では珍しいのではないかな…

で、
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旧街道近くの梅田東生涯学習ルーム体育館の前に
凌雲閣跡の石碑があります。

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明治の中頃、この地に「有楽園」というボート遊びもできる大きな公園があって、
その中心となる施設が木造九階建の凌雲閣です。
いわゆる「北の九階」「北野の九階」と言われた建物です。

「上方」より「北野の凌雲閣(九階)」
ryounkaku.jpg
「上方」によると、明治22年3月に上棟式を行い、
明治末年ころまで残骸が残っていたと書かれています。

キタの九階・凌雲閣2008.04.04

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それがあったのがこの辺り。


さて、
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ここは萩之橋があった場所。

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左は中国街道、まっすぐは能勢街道。

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まっすぐ行ってみよう。

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おっ、EF66-30!

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線路をくぐるとお地蔵さんが。
昔からここで旅人を見守っていたのかな。

IMG_9069_2_20110327191326.jpg
少し行くと右手に富島神社、左手にカンテグランデが。

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富島神社の境内には樹齢400年の楠がある。
江戸時代からずっとここにある巨樹だ。

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昔から有名なカンテグランデ。学生時代に数回ここに来ているけど、
もしかしたらトータス松本さんがいたのかもしれないな…

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堤防までやってきた。
堤防に行くには古い歩道橋を歩く。

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おっ、運動三兄弟…

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堤防には土筆がいっぱい出てました。

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今年の土筆はいつもより少し遅めかな…


より大きな地図で 能勢街道・中国街道 を表示



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うめきた・梅北(梅田北ヤード)の歴史

2011年02月21日 08:00

うめきた・梅北(梅田北ヤード)
文教地区から貨物ヤードに、
そして、森へ。


大阪駅北地区(梅田北ヤード)の新名称が
「うめきた・梅北」に決まりましたね。
ところでこの地域に貨物ヤードが出来る前は
どういう場所だったかご存知でしょうか。

また、平松市長は「早く親しんでもらえるように
住居表示の変更も考えたい」と話されていますが、
この土地の地名についても簡単にまとめておこうと思います。


1. 大阪駅が出来る前
大阪駅が開業したのは明治7年です。
当時は、辺り一面が田んぼで水路がいたる所に通っていて、
畑がポツポツ点在する田舎の風景が広がっていました。
その一角には 梅田墓 (梅田三昧)と言われる古い墓地もありました。

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現在もコンテナヤードの一角に
掘り起こされた墓石を集めた場所があります。


2. 地名のこと
(日文研より)
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これは明治36年の地図です。
この地域の大部分は北野村の字地で、
芝田、牛丸、大フケ(大深)、
サトウ(佐藤)、松ケ本(松本)
と、
旧曽根崎村の 北條(北梅田)から構成されていました。
ちなみに現在の北ヤード地域のほとんどが大深(おおふか)町になっています。

僕の持論なのですが、地名というのはその土地が持つ記憶であり、
文化遺産だと思っています。地名をなくしてはいけない。

現在も残っている大深町という地名、
それも開発と共に無くしてしまうのでしょうか?
新たな街が「梅北」になるのはいいのですが、
既存の地名を無くしてしまうようなことだけは避けて欲しいと思っています。


3. 文教地区だった時代
(日文研より)
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大正7年の地図です。
コンテナヤードが出来る前の地図ですが、
よく見ると学校がたくさんあるのが分かります。
余談ですが、梅田入堀の上に成恩寺という寺がありますが、
その辺りが、梅田墓があった場所です。


まず一番大きいのが 大阪市立大阪工業学校
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これは当時の全景です。場所は北野牛丸町でした。

その北側にあるのが 大阪府立北野中学校
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「北野百二十年」より
これは北野芝田町、校舎正門の写真です。

左下に赤文字で記されているのが 大阪府立梅田高等女学校
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「大手前百年史-資料集」より
当時の校門と校舎です。

そして、それと隣接する 私立金蘭会高等女学校
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「金蘭会学園八十年史」より
当時の梅田校舎です。

大阪駅北側の地域はコンテナヤードが出来る前、
通学に便利な文教地区だったのです。
その後、鉄道省は大阪駅拡張用地として各学校の用地を買収していきます。


4. 梅田北ヤードの時代
umekitamap_04.jpg
大正13年発行の大阪市パノラマ地図には
北野中学校以外の学校はすべてなくなっています。
区域を東西に横切る道がありますね。

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昭和4年の地図です。
学校移転から数年でまったく違う風景になってしまった。
東西に地下道ができているのもわかりますね。

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この地下道は昭和3年に竣工しています。
北ヤードが出来るまでは地上に東西を結ぶ道があったのですが、
その名を梅北道路と言っていたようで、
プレートの最後には梅北道路復活期成同盟会となっています。

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地下道の名前は北梅田地下道のようです。

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現在のうめきたは、先行開発区域の開発が進行中。
大型クレーンや鉄骨が建ち上がり出しました。

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JR大阪駅の大阪ステーションシティーも5月4日に開業します。

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梅田北ヤードはディーゼル車が頻繁に貨物車を動かしているので
見ていて飽きない面白い場所でした。

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たまに、はるかもやってくるし。

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梅田北ヤードは
再び新たな姿に生まれ変わろうとしています。


森へ UMEDA GREEN!
2期開発区域は、大阪市も「緑地構想」を軸に検討に入りました。
広大な緑地の中に企業や大学の研究施設やホールなど
環境に配慮した文化創造拠点を設けるという提案も出ています。
区域内には森が生まれるかもしれない。

どういう街になるか楽しみだ。
世界に誇れる街になってほしいと思っています。


(関連記事)
『大阪駅ができる前は墓地があった』 2008.03.01
『初代大阪駅の場所』 2008.03.03
『大坂七墓巡り(梅田・南浜・葭原)』 2008.10.22
『梅田北ヤードができる前 1 文教地区篇』 2008.03.05
『梅田北ヤードができる前 2 工業学校篇』 2008.03.06
『梅田北ヤードができる前 3 北野中学篇』 2008.03.09
『梅田北ヤードができる前 4 梅田高女篇』 2008.03.12
『梅田北ヤードができる前 5 金蘭女学篇』 2008.03.14
『梅田北ヤードができる前 6 移転先篇』 2008.03.17


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Time Lapse - 微速度撮影動画の作り方

2011年01月18日 08:00

梅田北ヤード・工事現場の
微速度撮影動画


3月19日(土)20日(日)21日(祝)に
「大阪キタヤード・アートフェスティバル 2011 春祭 」という
とても長いタイトルのイベントが「中津芸術文化村 ピエロハーバー」という
これまたとても変わった空間で行われます。
私も参加するのですが、今回は微速度撮影動画を上映する予定です。

で、
今まで試行錯誤しながら作ってきた未熟な微速度撮影動画を
少しずつ見直しながら、現在微調整の作業を行っています。
その中からひとつだけ再アップしました。

kitayard_01.jpg

以前にもアップしていた工事現場の作品ですが、
カット割りの編集をやめて80秒間の作品にまとめました。
人の動きが結構チャーミングなので、フルスクリーンで観ると面白いです。


で、問い合わせがちょこちょこある
微速度撮影動画の作り方を簡単に。

今回の撮影はインターバル撮影で1秒間隔でシャッターを切っています。
撮影機材はCANON EOS 7DとSIGMA 17-70mm F2.8-4、
タイマーリモートコントローラーTC-80N3。
1分間に約60枚、それを約1時間続けたので、
約3600枚の写真を撮っています。画像サイズはS。
ちなみに、撮ってる間は何もしていません。
アングルと露出さえ決めてしまえば、撮影中はとても暇です。

その写真を映像ソフトで読み込むのですが、
私の場合は、Adobe After Effects というソフトを使っています。
かなり高価なソフトなので、「そんなソフト持ってるか!」って怒られそうですが
フリーのソフトでPhotoLapseというのもあります。
チルトシフトスタジオ FREE EDITIONも面白そうなソフトです。

1秒間に表示するフレーム数を30コマで読み込むと
3600枚の写真の場合、単純に120秒のムービーが出来ます。
Adobe After Effectsの場合、エフェクトがかけれるので
ミニチュア風にしたりズームもできたりする訳です。
さらに、ムービーに書き出すのにかなりの時間がかかります。
数時間かかるのはよくあることです。

最後は、音楽やカット割りの編集を
動画編集ソフトで行います。というのが僕の作り方です。
ここだけの話、実は結構時間のかかる
めんどくさい作業をやっているのです ^^;


約40分間の出来事を1分20秒で見るとこうなるのだ。↓






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