◆木蓮寺村から根岸村までが「金子地区」です。
へたくそな写真で申し訳ありません。テーマは元狭山村を中心とした「狭山の地」「牟佐志の地」、つまり天領元狭山村が「管理」した地域はどの範囲なのかを知り、現在の「狭山の地」はどの範囲が正しいかの議論に決着をつけるための資料であるので、新旧の地名が入り交じったこの地図の使用が欠かせません。
私がまだ、答えに行きついていない問題は、東村山市の府中街道西側地域は含まれるのかどうかです。志村けんさんの方言は狭山丘陵南側の現在の瑞穂町、武蔵村山市、東大和市と共通性があります。
鎌倉幕府から徳川幕府まで、時の権力者は道と宿を中心に天領の地、民の地を「管理」してきたことは当たり前のことです。
そう考えると、府中街道までとも考えられるのですが、所沢市の山口地区(西部ライオンズ球場より東)には、鷹の羽家紋ではない、別の「中村氏」の集団墓地があり、この地域から西側は「狭山地域」「牟佐志の地」ではなかったと考える方がリーズナブルです。これを答えにすべきであると考えているところです。
鎌倉幕府は八幡神社と八幡神社間を一つの「管理区域」としていたようです。天領地元狭山村の東は八幡神社のある東大和市であり、そこからまっすぐ北へ向かう道路(当然狭山湖、多摩湖はなかった。狭山湖、多摩湖は「溜池」として活用されていたのではないかと考えられる)を経て、所沢市三ヶ島地区から入間市の藤沢地区、そこから加治丘陵南の東金子、金子地区の木蓮寺までが「狭山の地」「牟佐志の地」であり、「牟佐志の国」づくりの中心であった可能性が高いと考えられます。これが使用していた言葉と鎌倉幕府の法則性から導き出した私の出した結論であり、現在の狭山市は「牟佐志の国」の「入間の地」に属していたものと勘案されます。
こう考えると、牟佐志国造御社の碑が元狭山村の隣村の宮寺村にあるのも納得できます。(元狭山村は臨済宗であり、宮寺村や三ヶ島村は曹洞宗であり天領地ではなく民の地であったと考えられる)
西の青梅地域は何も研究していませんが、禅宗用の梅をつくらせた梅郷地区か現在の青梅市中心部なのか分かりませんが、元狭山村同様な天領地があり、幕府から派遣された「五人組」がその支配地を管理していたのでしょう。そして、桑粥にするための桑葉茶を元狭山村の二本木宿に届けた秩父地方同様に青梅の天領の民も生産品の梅を二本木宿に届けたのでしょう。その証拠として元狭山村の方言を秩父地方同様に青梅地域が共有していることがあげられます。
青梅市の方言で検索
http://blog.goo.ne.jp/grenc/e/844955d173947e0dc61cf065bec6a0b7
ひゃっこい(冷たい)、おっぺす(押す)、「だんべー」言葉は元狭山村の方言そのものです。
さて、面白い見方を披露します。地名の件です。鎌倉幕府から派遣された【中村家】を中心とした「五人組」は、元狭山村を中心に時をかけ東へ北へとその支配地を拡大していったことは間違いありません。
もちろん支配地といっても幕府の命令により民を大事にする「管理」でした。
2012年07月01日
日本史を変えるか、元狭山村の「五人組」と坂本龍馬暗殺@
二本木村では、明治2年8月に「御請書連印帳」を韮山県に提出した。これは品川県から韮山県に支配が変わったが、五人組帳の掟を堅く厳守し、親子兄弟夫婦をはじめ諸親類が相親しくし、また下人を憐れみ、農業を怠らず、全ての面で分限を守り、年貢も滞りなく納付することを誓約したもので韮山県の支配に忠誠を誓うものであった。
http://dream333.seesaa.net/article/278309441.html
入間市最西部の金子地区は金子の十郎家忠から来ていると地域の神社には書かれていますが、明らかに間違っています。
「狭山の地」「牟佐志の地」は北条家支配地の小田原からの発想でないと理解できません。中村原の北方には今でも「金子」という地名や「相模金子」という駅名が残っています。相模金子氏の領地だったのでしょう。入間市の金子地区には根岸という地域がありますが、相模の金子地区にも根岸という交差点名が残っています。
小田原から見て東北東に位置するのが藤沢市です。同様に元狭山村から東北東に位置するのが入間市の藤沢地区です。
さらに元狭山村の南端の狭山神社から南を見ると箱根ヶ崎、拝島、昭島、そして八王子へと続きます。
面白い見方をしてみましょう。狭山神社を小田原と考え南に目を向けます。箱根ヶ崎は伊豆半島の箱根下の崎(みさきの意)、その先に大島(拝む島 拝島)、特定はできませんが伊豆七島の島(昭島)、はるか遠くの八丈島と考えられませんか。つまり、「ハチジョウ」が「八王子信仰」と相交わり八王子に変化したという新説です。ちなみに小田原市には八王子神社がありますが、八王子市には八王子神社はありません。
八王子神社
http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/jinjya/hachiouji_a.html
鎌倉幕府は、この、天領元狭山村を中心とした「狭山地方」と「牟佐志の地」から広域な「牟佐志の国(武蔵の国)」づくりと、本家小田原を中心とした「相模の国」づくりに丁寧に取り組んでいたのでしょう。
小田原市役所に近い寿昌寺は曹洞宗です。元狭山村二本木の寿昌寺は公家や武家の禅寺である臨済宗です。私には、元狭山村には「源」を受け継いだ北条家の政務官たちが通いつめ、村民となった【中村家】や「五人組」たちと力を合わせて「1192良い国」づくりに励んでいたと思えてなりません。
元狭山村の方言と高尚な文化については、まだまだ書いていきたいと思いますが、そろそろ「鎌倉幕府の政策と元狭山村」「【中村家】と五人組」「狭山茶とは」「狭山の地とは」「残された史跡」などをとりまとめ、世間にリリースしていくつもりです。
歴史が楽しくなって欲しい、日本人の過去を知ることにより、映画などの文化活動に役立てて欲しい、そう願ってやみません。