2012年07月15日

パンダの死とノミのサーカス


ノミのサーカスと聞いてピンとくる人は少ないと思います。
ノミのサーカスで検索してもどれも正しくありません。南米で行われている(た?)ノミのサーカスとはこういうものです。

お皿の上にノミを入れるとピョンピョンと飛び跳ねるが、お皿からは出ない。

これだけのことです。問題は「ノミがなぜお皿から外へ逃げないのか」という点にあります。その答えはこうです。

「皿に透明のふたをしてノミを放すと、最初は天井にぶつかるまで跳ねるが、ノミは学習し(痛さを覚える)ぶつからないようにピョンピョンと飛び跳ねるようになる」

熱帯魚のアロワナで同様な実験をした人がいます。最初、水槽の中を透明なガラスで仕切っており、後にガラスを外してもアロワナは仕切ってあった向こう側には行こうとしません。ガラスにぶつかった痛さが忘れられないのです。

私は、オリエンタルランド時代、部下に対しノミのサーカスの話をし、組織に飼いならされるなと指導してきました。小さな人間になるなと。

さて、パンダの死とノミのサーカスの話の共通点は何でしょうか。

ノミであっても、古代魚であっても「痛さ」を感じるのです。そして本来の自分の姿を見失ってしまうのです。
パンダも同様に常に「痛さ」を感じていると私は主張したいのです。

だから「観覧させるな」「野生に返せ」などとは言いません。「いたわる」とは「労わる」と書きますが、「痛みを割る」つまり、痛みを分かち合う「痛わる」のほうがより理性的な表現であると思い、今後使用していきます。(以前は「世論」と「輿論」はべつなものでしたが、いつのまにか理性的な「輿論」は使われなくなりました。官僚やマスメディアにとって都合のいい言葉ばかりが残っていく、すべてを疑ってみる必要があります。)

精神病も含めすべての病気は痛みを誰かと共有すると痛みが半分になると言われています。もちをん、私もそうです。
パンダも同じです。妊娠したときから痛みが始まっていると考え、「痛わる」必要があるのです。

ノミのサーカスが教えてくれるもの、それは「痛わる」ことの大切さだったのです。
posted by M.NAKAMURA at 11:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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