二話
桜と会った最後の日の短い記憶。それは胸のどこかへ、大切に……とても大切に仕舞い込まれていて、決して忘れる事は無い。
けれどもそれは思い出される度、ズキズキとした鈍い痛みを発し、いつまでもオレの心を傷つけ続ける。でも、その痛み、……どうしようもないその悲しみこそが、医者になりたてだった自分を支えてくれたのだと、今ならわかる。
――季節は春、医師になったばかりのオレが、無謀にもNGOに参加する為、アフリカへと出発する当日の朝。
真っ白な病室に差し込む春の柔らかな陽射し、風に舞う薄紅色の破片……幼馴染と同じ名前の花びらが、開け放たれた窓から入り込み、フワリと桜の横たわるベッドへ舞い落ちる。あい変わらず穏やかな寝息を立てている、美しく成長した幼馴染。
彼女の鼓動に合わせ、ピッ、ピッ、と規則正しく音を発しているベッドサイトモニタへも、薄紅色の花びらが一枚ひらひらと舞い落ちた。
「桜、ちょっと診るからな。その、やましい気持ちなんかじゃないぞ。オレ、ちゃんと医者になれたんだぜ。すげーだろ?」
真っ白なベッドに横たわったまま、あい変わらず瞳を閉じたままの幼馴染へと向かい、ことさら大きく声をかけた。返事は無い。が、少しだけ桜の浴衣をはだけさせて、右鎖骨下に刺さっているIVHのカテーテルを点検。
Intravenous Hyperalimentation 略してIVH――中心静脈栄養法、長期に渡り自分で食事を摂取できない患者の中心静脈(体内を走る太い静脈)へ直接、管――カテーテルを挿入し、栄養価の高い輸液を補充させる術式。
ここのドクターの技術は名医と評判が高く、オレなんかよりずっと経験もある。オレごときがこんな事をしても意味が無い……とわかっているけれど、それでも桜の為に何かをしてあげたかった。
「痛くないか、桜?」
明るく話しかけるが返事は無い。幼馴染の華奢な体つき、骨が浮いた皮膚、真っ白な肌へ太い針が刺さっている部分が瞳に焼きつき、不意にこぼれそうになる涙を無理矢理に我慢した。深呼吸を一つ行なって気持ちを落ち着かせ、モニターでバイタルをチェック。大丈夫……全て問題なく安定していた。
いや、それは当たり前。桜はオレのような外科のひよっこじゃなく、何年も前からベテランの内科医に診てもらっているんだから。
だから桜のカラダを誰にも見せたくない……と思ってしまうのは、オレの単なる我儘に過ぎない。まあ、そもそも、そんな事を思える資格なんて無いのだけれど。
妹同然の幼馴染と、かつて交した約束などすっかり忘れはて、自分の事だけを考えて医師へ駆け抜けたオレ。
そんな冷たいオレへ、それでもついて来ようとしていたのか? それとも偶然なのか? 看護士の資格を得る為に東京の看護学校へ入学していた桜。しかし数年前……。
「桜、オレも頑張るから。お前も、頑張れ」
小さく囁き、手土産である桜の大好物……アレルーヤのロールケーキを冷蔵庫へ入れておこうと動く。コイツが目を覚ました時、すぐに食べられるように。
冷蔵庫の中にある、先週にオレが見舞いに来たときに入れた同じケーキ――当然、食べられた形跡などあるはずも無い――を取り出して、ゴミ箱へと捨てた。
「桜、早く起きろよ。ケーキ、また……腐っちまうだろ。甘いものが好きだったお前らしくねーよ」
喉の奥からあふれ出しそうになる叫び……それを無理やりに押さえ込んで、幼馴染の指を触る。綺麗に整えられた爪――看護士さんがキチンと手入れしてくれているんだろう――をゆっくりと撫で、寝息を立てている桜を見つめ続けた。
NGOに行くと決めた事を、幼馴染は怒るだろうか? それとも応援してくれるだろうか? 小さな頃から妹同然に育った桜。だが、どんなに会話をしたくとも、今の彼女と言葉を交すことは誰にも出来ない。
「じゃ、行って来る。アフリカはきっと辛いだろうけど……少しでも、スキルを磨いて、人の役に立ちたいんだ」
医学はどんどん進歩を続ける、桜は将来、必ず目を覚ますと信じてる。その時、オレが立派に医者として頑張っていられるように、今、出来る事をしようと思う。
ここで医者として桜を治療できるなら、ずっと残ったっていい。が、残念ながら、母と同じ外科の道を進んだオレには出来る事は無かった。なら、自分に出来る事を……少しでも経験を積み、技術を磨く事を。
――きっとそれは、桜も喜んでくれるだろうと、オレは信じている。
開け放たれた窓から、次々と舞い込んで来る桜の花びら。そっと一枚、その薄紅色の欠片を握り締め、病室から廊下へと躊躇わずに出た。アフリカ――貧富なき医療団で、精一杯頑張ってみる為に。
◆◆
頬を涙が伝い落ちていく……その感触でボクは覚醒した。ハッキリとした理由の分からない、けれど言葉に出来ないほど悲しい気持ちのまま、ゆっくりと目を開いていく。
まず飛び込んできたのは、お風呂上りで裸のままのボクの胸にしがみ付き、泣きじゃくってる桜の姿。バスタオルでボクのカラダを包みこみ、小さな両手でしがみ付いている。嗚咽を繰り返しながら、華奢な全身をブルブルと震わせて、まるで子猫のように。
「桜、痛い。痛いから爪を立てるなっ」
「に、兄さんッ!? 起きた!? もうっ、バカ、バカッ! バカッ!!」
痛いって言っているのにも関わらず、余計に爪を立てる幼馴染。その両目は真っ赤に充血し、泣いた所為なんだろう……鼻水まで出ていたが、指摘する勇気はボクには無い。
「桜、ボクはどれくらい気を失って?」
周囲を見渡せば、ここは浴室の外にある廊下。深呼吸をしながら、手を伸ばして桜の真っ黒な髪を触る――まだ湿り気があって体も温かい――この様子なら精々五分程度だろう。ゆっくりと身を起こし、グスグスと鼻をすすっている桜の手を引っ張る。
「う……、ちょっとだけ、五分くらいだよ。でも、何度話しかけてもずっと私の名前を叫んでるだけで……」
「――ッッ!? 痛いっ、爪、爪が痛いって言ってるだろ、バカ桜」
握ったままの桜の指が、ボクの手の甲へグリグリと押し当てられる。血が出るほど強くは無いけど、十分すぎるほど痛い。ジト……とした目つきで下方向からボクを見上げつつ、恨みがましい声を出す桜。
「先生を呼びに電話をしようと思ったら、ずっと桜、桜、って叫ぶから側を離れられなくって。兄さんの顔を見たら泣いてるし……すごく、怖かった」
「ちょっとのぼせたみたいだ……心配かけてごめん」
桜の手を離し、ふくれっ面のままの顔めがけてバスタオルを放り投げる。
「――――!? し、心配なんかしてないッ!」
桜の狼狽した声、そして、視線を避けるように背を向けて、考えをまとめ始める。今の自分の状況、一体ボクはどうしてしまったのか? をだ。
意識はハッキリとしていて、お風呂上りみたいな混濁は無い。しっかり小学生の『ボク』だって自覚がある。けど、知識が違う。頭のどこかが変わってしまった。
目を閉じて、しっかりと集中すれば、人間の体の構造……臓器がどうなっていて、主要な血管はどれで、循環器はどうなっているのか。そんな事が次々と脳裏にあふれ出す。――そしてなによりも、救急医学に対する知識。これは、どういうことなのか全然見当もつかない。
しかし、まるで未来の『ボク』から現在の『ボク』に医療と知識のデータが送り込まれたみたいだ。だが、記憶……というか思い出は全然無かった。ただ一つの例外が、桜が将来……『植物状態』になってしまったという記憶。
桜と母さんを大切に想う気持ちに何一つ変わりは無い。桜と母さんを大切に想う気持ち……それが、『ボク』と『オレ』を結び付けているような気がする。――恐怖は無い。不思議だと思うけど、家族……桜と母さんを想っているなら、それは何歳だろうと『ボク』だから。
そして、桜があんな事になる未来を絶対に防いでみせるという、強い意志があった。守る……ボクの状態がどうなのか? それは解らないけれど、ただ幼馴染を守りぬく、とシンプルに考えていこう。
「――桜、約束する。これからもずっと一緒だから」
「…………ッッッ!!!」
振り返り、桜の瞳を見つめ、強い決意を表明するように言い切る。医者として、桜の兄のような存在として……。病室のベッドで眠ったまま、華奢なカラダにいくつものカテーテルを挿入され、モニタに監視されている幼馴染の姿は絶対に見たくない。
ボクの突然の宣言に驚いたのか、大きな瞳をまん丸に見開き、きょとんとした表情を見せる桜。その柔らかそうな頬っぺたが、一気に真っ赤に染まっていく。
「え、えっ、え……!? そ、それって……兄さんっ、その……えっと…………プ、プ……だめっ、う、嬉しいけど……恥ずかしくって言えない」
「桜は家族、妹みたいなもんだからな。母さんとオレと桜……ずっと健康でいて欲しいよ」
顔を真っ赤に染め、何かを小声でごにょごにょ呟いている桜。が全然聞き取れない。しかしまあ、いくら家族同然でも、こんな事を言うのは変だったか? と自分でも少し照れてしまい、ボクは言い訳のように大声で話し、桜の横を通り過ぎてキッチンへと駆け出す。
「――えぇ!? 家族ッ!? いもうと!? ちょ、ちょっと待ちなさいよ、兄さん、何よそれっ!」
何故か怒ったような桜の大声を聞き流してキッチンへ辿り着き、冷蔵庫の中身をチェックする。
――牛乳、小麦粉、バター、鶏肉のモモ肉、人参、タマネギ、ジャガイモ。さすがは母さん、一通り以上の食材は揃っていた。ドスドスとかけてくる幼馴染の足音を聞きながら、手早く材料をザルに入れていく。
「兄さん、もう、馬鹿、馬鹿ッ、馬鹿ッッ!! どういう事? 説明してよ」
顔を真っ赤に染め、キッチンで怒鳴る桜。お気に入りのピンクの水玉がプリントされたパジャマを着ているけど、慌てて着用した為なのか……、ズボンが前後逆だ。――そもそも、どうして桜がこんなに怒ってるのか、全く意味が解らない。
材料を入れたザルをいったんテーブルに置き、意味が解らないなりにどうにか桜を宥めようと、ボクは何かを言おうとしたが……。
「すっげー顔が赤い。桜、猿みたいだ。それにパジャマも逆」
つい口から素直な感想がこぼれ落ちる。無言のまま、ブルブルと全身を震わせている幼馴染。そして次の瞬間、ビュンッという音を立て飛んでくるジャガイモ。
「ちょっ、待て、桜。落ち着け、落ち着けって」
「うるさいっ、兄さんのバカっ、死ねっ! 死んでしまえっ!」
黒髪をサラサラとなびかせ、全力でジャガイモを投球してくる桜。美しい瞳はつり上がり、キリッとした視線でボクを睨みつける。ドゴンッという音と共に、壁にぶち当たるジャガイモ。
「や、やめろよ、バカ桜っ! 家族だろ、仲良くしようぜ」
「――ッッ!! 知らないッ! 兄さんのバカっ!」
ジャガイモが終わった後はタマネギ、人参を放り投げてくる幼馴染。壁や冷蔵庫に当たったそれらがゴロゴロと床に転がり落ちる。ポッキリと折れた人参……、ベコベコにへこんだタマネギ。壁で一部分が削れたジャガイモ。
――どうやら、今夜のシチューは、ずいぶん野性味あふれる料理になりそうだった。
◆◆◆
「桜、美味しかった?」
会話のないまま、気まずい食事が終わった後、ボクの隣……お気に入りのソファーで体育座りをしている幼馴染へたずねる。だが、何も答えてくれない桜……あい変わらず無言のまま、ジッと真っ黒な瞳で、ボクを見つめていた。
「そろそろ機嫌なおせよ。謝るからさ」
プニプニと幼馴染の頬っぺたをつつく。桜の肌はきめ細かくて、とても綺麗だと思う。ボクの右手をハエでも追い払うように、うるさそうに左手を振る彼女。そして、真っ黒な瞳でボクを見つめたまま、桜のピンク色の唇が動く。
「兄さん、何か隠してない?」
ポツン、と呟く桜。怒ってるという雰囲気ではなく、真剣な表情。ボクを真っ黒な瞳に捕えたまま、じっ……と見上げる。どこか大人びた美しい表情に、ボクの鼓動が早くなってしまう。
何よりも、桜の勘に驚きを隠せない。
「な、何が?」
「料理……。悠斗兄さんが器用で、何でも出来るってのは知ってるわ。とっても努力家ってのも知ってる。だけど、今夜の料理は変よ。美味しいってだけじゃなくって……作り慣れてるって感じ」
桜の指摘に、ごくり……と唾を飲み込んでしまう。確かに桜の言う通り、料理の時、ボクのカラダが勝手に動いてしまった……という感じだった。いちいち考えなくても、次に何をすればいいか? をカラダが解っていて動くといったふうに。
「た、偶々だよ。この間、母さんの手伝いをしたばっかりなんだ。それでさ、なんか覚えちゃって」
しどろもどろになりそうな口を押し込めて、何でも無さそうに言い切る。ジト……とした瞳で見上げる桜。その整った顔立ちを見つめ続けられず、思わず視線をそらしてしまう。
が、なんとか納得したのか、ハァ……とため息をつく桜。腕を上に伸ばし、背伸びをするようにしながら、ゆっくりと言葉を吐き出す。
「ふーん、ならいいけど……。なんか、変なんだよね。微妙に優しいし。ま、バカなのは変わってないけどさっ」
「バカって言うほうがバカなんだよ。バカ桜」
「――!?」
一瞬、ニラみあった後、バシバシとロングクッションで叩き合うボク達。柔らかなクッションでじゃれあいながら、ボクは内心、安堵のため息をついていた。ボクの状態はなるだけ秘密にしていたかった。こんな事を話しても、信じてもらえるはず無いし、そもそも桜に何て言えばいい?
『将来、桜は植物状態になるかもしれない』
そんな怖がらせるような事を言って何になるだろう。くるかどうかも解らない未来を怯えさせてどうなる?
「いてっ、ちょ、桜、突きはヤメロよっ、ちょ、痛いっ」
「あははっ、女の子をぬか喜びさせたバツだよ、兄さん。大人しくしなさいっ」
無邪気な笑顔を浮かべる桜。さっきまでのふくれっ面は無く、楽しそうに微笑みながら攻撃してくる――どこか、屈折してるのかもしれない。いや、単なるドSなのかも……。互いに笑いながら、ソファーの上で、バシバシとクッションを振り回す。
――とにかくボクに出来る事は、今を精一杯楽しむ、再び医者になる、そして桜を守る事。彼女の笑顔を見ながら、ボクはそう決意を固めた時。
「ただいまー。悠斗、桜ちゃん、仲良くしてた?」
遠く玄関から響いてきた懐かしい声。その声を聞いた瞬間、ボクは涙が溢れそうになったけど、なんとか我慢した。あわててクッションを片付け、ソファーのシワを伸ばそうとしている桜。
その小さな手をひいて、僕達は並び、玄関まで迎えに行く。
「お帰り、母さん。そして、ただいま」
「先生、おかえりなさい、お邪魔してます」
「はいどうぞ。あら、仲良しね、ふふ、本当の兄妹みたい」
玄関で微笑んでいる母さんの微笑み。ショートカットの髪型、口元からのぞく八重歯。眼鏡の奥の嬉しそうな瞳。――その姿は記憶の中よりも、さらに美しくて可愛らしく、若かった。母さんではなく、姉さんだと間違われたことも何度もある。
――ツンっ、と鼻に消毒液のにおいが香る。それは義母さんの香り。
例え血がつながってなくても、ボク達は本当の家族と変わらない。義母さんの香りに包まれながら、ボクは一人、深く頷いた。
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