北京五輪を機に彼女を取り巻く環境は大きく変わっていった。“オグシオ”としての活動が北京で一区切りついたとき、将来のこと、自分が進むべき道をみつけるために悩み、迷った。そこからの4年間で人間として、競技者として、さらに大きく成長した彼女は今年、自ら最後のオリンピックと決めたロンドンの舞台に立つ。

折山淑美●文・取材 text by Oriyama Toshimi
山本雷太●写真(人物・競技) photo by Yamamoto Raita
アフロスポーツ●写真(競技)photo by AFLO SPORT
JMPA●写真(競技)photo by JMPA

オグシオ解散で味わった喪失感「何をやりたいのかわからなくなった」

ロンドン五輪出場権争いは12年4月末の最終戦、インドオープンまでもつれ込んだ。

世界ランキング9位以下は1国の出場枠が1つ。8位から11位に下がった池田信太郎/潮田玲子ペア“イケシオ”を五輪レース終盤になって佐藤翔治/松尾静香組が急追してきた。だが最後の大会でベスト8に進出してポイントを加算したイケシオは、なんとか佐藤/松尾組を振りきり、ロンドン五輪の出場権を手に入れた。

「ミックスをやり始めてからうまくいかないことや難しいことがいっぱいあり、何度もくじけそうになった。でもその度に『このままで終わりたくない。逃げ出したくない』という思いでやってきました。世界選手権や五輪を経験していたので、『絶対にあそこへ帰るぞ』という気持ちが支えになった」

安堵した表情で語る潮田は、「あの時辞めなくて良かった」と、心の底から思っていた――。

バドミントンダブルスの小椋久美子と潮田玲子は“美女ペア”として注目される中、08年北京五輪に出場した。準々決勝で杜婧(ドゥ・ジン)/干洋(ユー・ヤン)組(中国 北京金メダル)に完敗して5位に終わった潮田は、しばらく時間が過ぎてもまだ、頭の中が真っ白なままだった。

「もちろん悔しいというのはあったし、どうしてもメダルが欲しかったというのもあったので、あそこで満足したという訳ではないんです。でも五輪までは本当に必死だったし、負けた時には『ああ、終わったな』という事しか頭の中には浮かばなくて……。だからそう簡単には次に向けて、気持ちを切り換えられなくて、すぐに『じゃあまた次』という風に思えないのが正直なところでした」

アスリートとしてより、“オグシオ”というアイドルとして扱われることにも抵抗があった。特に、07年の世界選手権で銅メダルを獲得してからは、周囲の期待がこれまで以上に大きくなった。負担だった。

「北京へ向かうにあたっては、いろんなプレッシャーがあっていっぱいいっぱいの時もありました。パートナーとしての関係もそうだし、ふたりの中でも『とりあえず北京まで頑張ろうね』と、口癖のように言い合っていたんです。なので正直、あの時ふたりの中では『北京後』というのはなかったし、そのままペアを継続してロンドンを目指すというのも最初からなかったんです」

高校1年の冬に参加した、アジアジュニア選手権に向けての合宿でダブルスの練習試合をやった時、上級生たちのペアから先に組み合わせが決まってしまい、偶然余ったふたりが組むことで誕生した“オグシオ”。高校卒業後は小椋の積極的な誘いから三洋電機に入ってペアを継続することになったが、北京五輪後に解散することは、ふたりの間で暗黙の了解でもあった。

潮田は、北京五輪が終わったら競技を辞めようという気持ちが強く、母親の睦子さんにはいつもそう話していた。しかし、いざ北京が終わってみると、それから先のことが何も考えられなかった。

マスコミはそんな潮田のテレビキャスター転向が、すでに決定しているかのように報道した。

「また4年やろうという気持ちはなかったです。だからといって言われているような道にも、『本当に自分がやりたいのかな?』という疑問があったし。自分も曖昧にしていたのがよくなかったと思うけど、あの時は本当に自分が何をやりたいのかわからなかったんです」

08年全日本総合選手権がオグシオとして最後の試合になった

潮田が迷っている間に、パートナーの小椋久美子はロンドン五輪への挑戦を明言していた。そしてふたりで今後のことを話し合った時には、小椋が「新しいパートナーとペアを組んで頑張りたい」と言ってきた。

「オグっちも北京前はいろんな意味でプレッシャーを感じていただろうから、多分違うパートナーでやり直したいというのもあったと思うんです。だからそう言われた時は『そういう気持ちだったら』と尊重したというか……、私の方も『そっかぁ……』というくらいの感じだったんです」

わかっていたことではあったが、実際に言い出された時はショックを隠せず、何か喪失感のようなものが心に残った。

しかし、11月に行なわれる全日本総合選手権が、“オグシオ”として出場する最後の試合になることが決まり、そこまではきちんと“オグシオ”でいようと思えた。

「最後なんだな」と思いながらの試合は、予想に反して優勝。5連覇という自分でも驚くような結果だった。

「あの時はケガもしていて、練習もほとんどできていなかった。でも、もう最後ということで、『みなさんの前で』という気持ちだけで臨んだ大会だったんです。だからあそこで優勝できたのは、本当に奇跡が起きた感じでしたね。もう体はボロボロだったし、北京で4位になった末綱聡子さんと前田美順さんのペアの方が勢いもあったし、準決勝までの試合も安定していましたから。本当に気持ちだけで獲ったタイトルだったと思います」

試合が終わると、多くの人にいい試合だったと声をかけられた。携帯にも北京五輪に出た時以上の数のメールがきて、そのどれもが「感動しました」というものだった。

「競技をしていて初めて、人に感動してもらうというのを味わえたんです。最後だと思っていた大会で周りの人たちにすごい拍手をしてもらったり、泣いてくれる人たちもいて。それでなんか、『競技をしているのってすごくいいもんだな』というのを改めて感じたんです」

本当なら北京五輪の時に、みんなにそれを感じてもらいたかった。そう考えると、同時に北京五輪の敗北感も思い出した。「まだやり残したことがある」と思うようになり、「もう少し現役を続けた方がいいのかな」と考えるようになった。

「今思うと、北京の前は応援されることをずっとプレッシャーに感じていたんです。でもあの全日本総合選手権で応援されることのありがたさを改めて感じて……。こういう風に感動してもらえるのならまだ自分にもやれることはあるのかなって、もう少し頑張ってみようと思ったんです」

そのことを母親に伝えると、思った以上に喜んでくれた。

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