電通は、これ以前の1979年にFIFAワールドユース選手権を日本に招致。初回だったこの大会を成功に導いた。アルゼンチンが優勝。主力として大活躍した当時18歳のディエゴ・マラドーナが世界のサッカー関係者の注目を集めた大会である。当時FIFAに入ったばかりで、ワールドユース選手権を担当していたジョセフ・ブラッター開発部長(現会長)を通じて、電通はFIFAとの関係を深めた。それだけに、“本体”であるFIFAワールドカップ事業を博報堂にさらわれ、切歯扼腕(やくわん)の思いだったに違いない。
博報堂は、セールスエージェントであるウエスト・ナリー社の日本代表、ジャック・坂崎氏とタッグを組み、日本企業3社とスポンサー契約を結び、スペイン大会に向けて強固な体制を築き始めていた。ウエスト・ナリー社が転ぶか、博報堂が致命的な失敗でもしない限り、逆転の可能性は少ないように思えた。ところが、意外な糸口から、電通はFIFAワールドカップの権利を奪還できることになった。
ロサンゼルス五輪がつないだルート
スペイン大会を半年後にひかえた1981年10月。ドイツの一大スパ・リゾート、バーデン・バーデンで第11回オリンピック総会が開催された。この総会で、1988年夏季オリンピック大会の開催都市がIOC委員の投票によって決定した。下馬評では圧倒的優勢が伝えられていた名古屋を、韓国・ソウルが大差で破って招致に成功した。電通は、招致業務を通じて名古屋を支援していた。
このとき、総会に出席したIOC委員全員が宿泊するバーデン・バーデンの名門ホテル、ブレナーズ・パークで、アディダスの総領ホルスト・ダスラーが、IOC委員に対して強力なロビイングを行い、ソウルを勝利に導いたという(関連文献:『The New Lords of The Rings』, Andrew Jennings, Simon & Shuster, 1996)。
名古屋招致で一敗地にまみれた電通は、招致においてIOC委員の投票行動を把握する重要性と、スポーツ界におけるダスラーの隠然たる力を知る。また、ダスラーがFIFA、UEFAなどのマーケティング権を保有し、そのセールスエージェント、ウエスト・ナリー社をコントロールしていることもつかんだ。
名古屋五輪招致に敗れた電通ではあったが、1984年に開催されるロサンゼルス五輪の組織委員会とは包括的な提携関係を既に構築してあった。具体的には、同大会の日本企業向けスポンサーシップ・セールス独占エージェントの指名を受け(同大会の公式スポンサーシップを日本企業に対して独占的に販売する権利)、日本国内でのマーチャンダイジング・ライセンシング権(大会マスコット製品、大会ロゴを付着したライセンス製品の販売を管理し、一定の権利料を得る権利)、日本での大会観戦チケット独占販売権を獲得していた。ロサンゼルス五輪大会組織委員長、ピーター・ユベロスと、電通の服部庸一開発事業局長は、一連の取引を通じて、刎頚(ふんけい)の友とでもいうべき近しい関係となる。
next: ナリーとの関係清算を考えていたダスラーは…
(全 3 ページ中 2 ページ目を表示)
あなたのご意見をコメントやトラックバックでお寄せください
この連載のバックナンバー バックナンバー一覧へ 画面先頭に戻る
- 最終回〜2010年−2014年、新たなステップに向けて (2006/09/08)
- ジダンへの処分が証明、FIFAが“世界中の目”を意識する組織に変貌 (2006/08/29)
- W杯チケットはどこへ消えた?〜肥大化する“関係者”への配分 (2006/08/07)
- 日韓大会の放送権料は仏大会の10倍に〜ISLの“目覚め”が引き金 (2006/07/27)
- NBCの“奇襲契約”が火をつけた放送権の高騰 (2006/07/21)