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ダスラーと電通の利害が一致して生まれたISL

2006年6月23日

(取材・文=樺山 満)

UEFA会長暗殺説

1983年8月。UEFA(ヨーロッパサッカー連盟)の第3代会長、アルテミオ・フランキが乗っていた自家用車が、イタリア・シエナの近郊で、大型トラックと正面衝突。フランキは任期中に非業の死を遂げた。

当時、ヘルシンキで開かれていた第1回世界陸上選手権に集まっていたスポーツマーケティング業界関係者は、「ホルスト・ダスラーがとうとうやったか」と、一様にうわさしあったという。UEFA会長の死はダスラーが差し向けた刺客によるものだ、と。

その前年の1982年、ダスラーは電通と共同でスイスにISL(International Sports and Leisure)を設立。ISLは、後に述べる経緯を経て、FIFAワールドカップ、UEFAヨーロッパ選手権、UEFAヨーロッパ・クラブ選手権などの権利を抱きあわせで販売する「INTERSOCCER 4」の権利保持者となっていた(前回記事参照)。この手法を快く思わないフランキがダスラーと激しく対立していた。

ダスラーは、IOC(国際オリンピック委員会)のアントニオ・サマランチ会長、FIFAのアベランジェ会長、IAAF(国際アマチュア陸上連盟)のプリモ・ネビオロ会長と緊密な関係を構築。「IOC」、「FIFA」、「IAAF」、「UEFA」の4大スポーツ団体にかかわる権利を得て、ISLのビジネスの地歩を着々と拡大させつつあった。その4つの軸の1つ、UEFAの会長が、あからさまに自分と対立すれば、ビジネスが不安定になる。これを懸念していた。

こうした状況の下、フランキ会長が自宅付近のシエナで、しかも通い慣れた道路で、正面衝突事故を起こして死去。業界関係者が「ホルストがフランキを暗殺した」との説にたどり着いても不思議ではない。冷厳なダスラーの人となりを語るエピソードである。

フランキの最期はイタリア当局によって「純粋なる事故死」として処理された。今となっては、真偽の確かめようはないことであるが…。

電通の巻き返し

さて、話をISLの設立前に戻す。1982年スペイン大会のマーケティング権セールスを博報堂に独占され、FIFAワールドカップ・ビジネスで完全に「蚊帳の外」となっていた電通は、虎視眈々(たんたん)と逆転の可能性を探っていた。

next: 意外な糸口から、電通は権利を奪還…

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