橋下大阪市長の言動をどうみる 今、まさに株主総会真っ盛りである。
東証、大証に上場している各企業は、この時期に開催する株主総会に戦々恐々としている。
特に、原発事故の影響を受けた東京電力や関西電力は、余計にその思いが強かったと思う。
ところで、「総会屋」をご存じだろうか。
会社の体面を気にする経営陣を利用した暴力団の資金源(シノギ)の一つが総会屋である。
もう少し詳しく言うと、正規の職業ではなく、株式会社の株式を若干数保有し、「株主総会の場を荒らす」という圧力をもって、会社に対し財産上の利益をさまざまな形で要求し、株主の権利を不当に乱用する者をいう。
暴力団限らず、えせ右翼や総会屋を飯のタネとしている反社会集団や個人が、この株主総会をプレイグランドにしてきた歴史がある。
総会屋が会社に要求する「財産上の利益」は、当初は金銭、物品、有価証券などの「直接的な利益」が主力であったが、年商法改正後、取締りが厳しくなったことを受け、近年は慈善団体・研究機関への寄付、会費・出版物の購入・広告料という形で「経済取引」を仮装するようになり、手口は年々巧妙化している。
しかし、平成8年の商法改正により、総会屋排除の気運はもはや時代の要請となり、書面による株主の質問への一括回答方式、権限が拡大された議長が運営の主導的な立場をうち出すという地道な努力を続ける企業が確実に増えてきて、総会屋が株主総会の場で活躍(議場を混乱するような言動)する光景はほとんど観られなくなった。
ただし、まだ見えないところで総会屋が暗躍し、この者に利益を提供している企業があると考えられる。
こんな企業は、いずれは倒産するなど社会的制裁や刑事罰を受けることになる。
この総会屋が復活した?と思わせる光景が、昨日の関西電力株式会社の株主総会の状況を撮影した映像である。
大株主の代表者として、運転手つきの公用車で株主総会の議場に乗り込み、しかも遅刻してである。
暴力団組長が、手下を数名引き連れて、さっそうと会場に行く姿となんら変わりがない。
そして、議場では、与えられて発言時間を超えて発言(ルール違反)し、その後も会場で不規則発言を繰り返す姿は、数十年前の総会屋が活動していた株主総会の光景を再現した。
総会屋の定義では、「会社に財産上の利益を要求する。」とされているが、市長たる公人が利益を要求するはずはないが、株主総会の議場でのテレビで映し出された一連の言動は、はっきり言って不適切極まりなく総会屋そのものである。
参加者から拍手喝采を受けて英雄気取りの満面の笑いは、恥をさらしていることを自覚しなければならない。
同じように、株主として集積していた他の首長は、当然であるが紳士的振る舞いであった。
株主総会の議場で英雄気取りのパフォーマンスを、有権者、特に大阪人はどのように評価しているのだろうか?
巧みな人心掌握術とカリスマ性 消費税増税法案をはじめ社会保障と税の一体改革関連法案をめぐって、政府与党民主党が内紛(分裂)の危機に直面している。
政党の方針に従わない、つまり法案を成立しようとしているのに、その体制に従わないで謀反を起こす、つまり造反議員が相当数いる。
この造反の先頭にいるのが、またもや小沢一郎衆議院議員であるし、鳩山元内閣総理大臣であるらしい。
各報道関係者の報道内容を見ていると、造反議員が増えること、政局が混乱することを期待していることがありありと判る。
相変わらず、反権力のマスコミが混乱を望んでいるのである。(何時ものこと)
こうした造反議員は、自民党政権でも、度々繰り返されてきたことで、最近では、郵政民営化法案などで多くの造反議員を生んだ。
そして、造反により、新しい政党や集団・グループが誕生してきたのであって、政治の歴史でもある。
造反という言葉は、中国の毛沢東時代(文化大革命)に生まれた言葉が、日本に輸入されてきたようであるが、個人的には好きな言葉でない。
在職中、常に、現状に甘んじることなく、次代の組織、人材の育成(大きなことを言う気はない。)を考え、ある意味で、古い体制や悪しき風習に反発してきたから、自身も造反者であり、そうしたレッテルが貼られていたように思う。しかし、反逆、謀反を起こす意図は全くなく、改革を強く望んで行動したのである。(自己主張)
さて、今回の法案を巡って、小沢氏は造反議員先頭にいるが、同氏は妻に裏切られ、政治資金規正法違反の被告人のたちばで苦慮しているが、同氏に同調する、いわゆる小沢チルドレン(小沢グループ)の発言や動静をみていると、小沢氏はマイルドコントロールの名人であると思う。
強制することなく、さも各議員が自分の意思で選択したかのように、小沢氏が決めた法案反対の結論に誘導されている。この誘導技術の巧みさがあるが故に、常に政治の中心にいて、それなりのポストに就いてきたのであろうと思う。
麻原オウム真理教の教祖と同氏を比較検討することは、不適切であるとともに誠に失礼であるが、麻原死刑囚はは信者から仏教用語でいう「帰依」であったといわれている。
つまり、麻原は信者からみて、心の拠り所であり、これはマインドコントロールされたことの証でる。
麻原も、またマインドコントロールの名人であり、小沢氏と通じるところが多々ある。
これは、決して悪い意味を言っているのでなく、両者には、通常人が持ち合わせない、先天的(いや後天的かもしれない)能力の持ち主でカリスマ性をも備えている。
このように、師と仰ぎ、こころの拠り所とする者を尊敬し、信望し、また過去に受けた恩義を裏切らない等する、俗にいう信者?は盲目的で他人の助言に耳を貸さないのである。
ただ、これは個人的な問題であって個人の思想や信条に関与しないが、少なくても国会議員は公人である。
選挙で、有権者から信頼を得て、有権者の代表者として公務に携わっている。
そんな立場にある者が、マインドコントロールされてならない。
有権者の意思を尊重し、自らの信念をもって、常識ある行動をすることを支持者は望んでいるのでないか。
政党の有力ポストに就くだけの能力がない、ましてや政府関係のポストはほど遠い、次回の選挙資金を小沢氏に頼らざるをえない議員のみなさん。国民がよくみてますよ。
瓢箪から駒がでた 瓢箪(ひょうたん)と関わり合いをもって、早、20年近くになる。
湖北の街、長浜に赴任し、間もなく公舎の庭から青い若葉が芽を出してきた。
これが瓢箪であるこに気付くまで、少し時間がかかったが、それまで瓢箪とは無縁であったから余計である。
前任者が、瓢箪栽培に凝っていて、収穫した瓢箪の種をこぼしていたところ、生命力の強い瓢箪が、石ころだらけの庭に自然に成長してきたのである。
長浜は、その後天下人となった豊臣秀吉が、若かりし頃に築城(今浜城)して住んでいたところで、この秀吉が美濃(岐阜県)攻めに際して、馬印としたのが千成瓢箪である。
こうした縁から、長浜市の市章は瓢箪が使われ、全日本愛瓢会の本部があり、瓢箪を愛する人が多くいる。
前任者は、当時の長浜市長(愛瓢会員)と親しくして瓢箪栽培を教わり、それにはまるようになった。
ところで、新芽は日毎に大きくなり、何の手入れもしない状態で放っておくことができなくなり、支柱を立て肥料を施すなどして手入れすることにした。
この矢先に警友会(警察OB)の先輩が公舎に訪れてきた。
この先輩は、長浜愛瓢会の会員で、瓢箪作りの名人であったことから、先輩の手解きを受けて、見よう見まねで瓢箪を育てたのである。
以来、瓢箪に魅せられて、瓢箪栽培を続けているが、思い通りの形のよい瓢箪は栽培できないでいる。
この最初に栽培した瓢箪は、種別としては「長瓢箪」であったが、他の種類と勾配して、独特の美しい形、しかも虫がつかなかったことから無傷で、その年の愛瓢会の作品展で優秀賞を受賞した。
これは、家宝として我が家の床の間に鎮座している。
また、幼少のころから絵心が少しだけあったことから、瓢箪に絵を描く試みをした。
瓢箪は、成長過程で虫がつくと、それが傷となってしまう場合が多くあるが、この傷を隠す意味で邪道であるが絵を描くことにした。
絵の素材は、浮世絵と並んで日本民画の代表とされている「大津絵」にし、これまで描いた大津絵や瓢箪の数は100個を超えている。
自宅にあるものもあるが、その多くは頼まれて描いたことから、多くの人の手元に私が描いた大津絵の瓢箪が散らばっている。
中には、イギリスに行っているものもあるが、この瓢箪は、警友会の先輩で、師匠と仰ぐ名人の作ったものに、不肖、私が大津絵を描いたのである。
岩彩を用いて、細い筆で円形の瓢箪の面に絵を描くのは苦労であるが、完成した時の喜び、受け取ってくれた人の嬉しそうな顔を拝見すると、すべてが吹き飛んでいく。
長浜では、金融機関などのフロアーを借りて、個展を開かせていただいたし、その後、大津絵は、画仙紙や板(銘木)へと飛躍し、彦根で勤務した時は、多賀町の大工さんなど多くの人にご協力をいただいた。
自宅には、銘木や瓢箪、画仙紙に「藤娘」、「鬼の念仏」、「七福神」などをモチーフにした大津絵を所狭しと飾っているが、その中には、彦根で勤務した縁から「彦根屏風絵」描いた瓢箪もある。
古来から、瓢箪は「末広がりの形」をしていることもあって縁起の良いものとされている。
瓢箪が6個そろえば、「六瓢箪」、これが「無病息災」のお守りとされている。
自宅トイレは、1階、2階とも6個の瓢箪を結束して飾り、病気しないように、またトイレで倒れないように縁起担ぎをしている。
瓢箪のキーワードは、水、生命、健康と言われている。
このブログで、「ういたかひょうたん」というペンネームを用いているが、名古屋弁で「うかうかしている様子」をさすが、他に、なまけもの、のんきもの、道楽者を意味するようである。
また、「瓢箪から駒が出た。」という格言?があるが、ここで言う駒は馬のこと。
意外な場所に意外なものが出てくること、起こることのないことが起こること、冗談で言ったことが現実になったことの意である。
「サマージャンボ宝くじの一等が当選するかもしれませんよ。」ひょうたんから駒が出ればよいですね。(笑)
瓢箪が6個そろえば、「六瓢箪」、これが「無病息災」のお守りとされている。
自宅トイレは、1階、2階とも6個の瓢箪を結束して飾り、病気しないように、またトイレで倒れないように縁起担ぎをしている。
瓢箪のキーワードは、水、生命、健康と言われている。
このブログで、「ういたかひょうたん」というペンネームを用いているが、名古屋弁で「うかうかしている様子」をさすが、他に、なまけもの、のんきもの、道楽者を意味するようである。
また、「瓢箪から駒が出た。」という格言?があるが、ここで言う駒は馬のこと。
意外な場所に意外なものが出てくること、起こることのないことが起こること、冗談で言ったことが現実になったことの意である。
「サマージャンボ宝くじの一等が当選するかもしれませんよ。」ひょうたんから駒が出ればよいですね。(笑)
このブログで、「ういたかひょうたん」というペンネームを用いているが、名古屋弁で「うかうかしている様子」をさすが、他に、なまけもの、のんきもの、道楽者を意味するようである。