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閃き
2012年X月、スイスジュネーブ近郊CERN(欧州合同原子核研究機構)。
「グレイト・サクセス(大成功だ)」
オペレーターの発声とともに半円形の巨大なモニタールームに大きな歓声と拍手が響き渡った。この瞬間、世界で最大といわれる大型ハドロン粒子加速器(LHC)が初稼動した。世界中の物理学者がこの日を心待ちにしていた。LHCは、スイスジュネーブ近郊の地下深くに周囲27キロメートルという途方もない巨大なトンネルを掘り、その中で陽子を高速の99.99%まで加速して衝突させ、その衝突の痕跡を探ることにより、物質の根源である素粒子よりさらに小さい世界を探り、あわよくばこの宇宙の起源であるビッグバンの秘密にも迫ろうかという代物である。
「チアーズ、チアーズ(乾杯)」
あちらこちらからシャンパングラスをトスする声が上がり、その場に居合わせた数百人の著名な物理学者や各国の政府関係者から大きな拍手が沸き起こった。次いで、ある者は硬い握手を交わし、ある者は抱き合って、装置稼動の瞬間の喜びを分かち合った。
しかし、そんな華やかなセレモニーの傍らで、誰一人不安げな様子で嘆息を漏らす人物がいた。歳はまだ30過ぎ、ぼさぼさの頭に短い脚、丸い眼鏡をかけた不細工な格好のその人物は凡そこの華やかな場所に似つかわしくないという風体で、その様子を見守っていた。益山公平、日本素粒子研究機構の新鋭の理論物理学者で、ここCERNには日本の研究チームの一員として招聘されていた。
「とうとうパンドラの箱が開いてしまったか。」
公平は一人ボソリと呟いた。
「ハーイ、コーヘイ、どうしたの、そんな浮かない顔をして。」
公平の傍らにシャンパングラスを片手にした金髪の若い女性が近づいてきた。
「ケイトか。」
ケイト・ハブロン、ケンブリッジ大学素粒子物理学研究所の研究員で、ここCERNでは公平のパートナーとして研究に携わることになっていた。
CERNのLHCは世界各国の政府の出資により建設された。総額2兆円に上ろうかという巨費は到底一国でまかなえたものではない。出資した国々は、その出資割合に応じて研究員を派遣する権利を得ていた。アメリカ、EUに次いで世界で3番目の出資国日本からは総勢35名の研究員が派遣されており、公平はその中の一人であった。
「いや、少し気になることがあってね。」
公平は、モニタールームの丁度反対側にいる一団に目を向けた。ケイトもそっと公平の視線の先にある一団に目を向けた。そこには数人の男女が、場の喧騒を避けるかのように丸くなってグラスを傾けていた。
「ああ、アメリカチームね。どうも好かないわ、あの連中。いつもあの調子。自分たちだけで集まってヒソヒソ話。」
ケイトは吐き出すようにののしった。LHC最大の出資国であるアメリカは、ことの他ここでの研究成果に期待を寄せていた。サブプライム問題に端を発した世界金融恐慌のせいでアメリカの権威は失墜し、宇宙開発の分野でも最近は後発の中国やインドの追い上げが気になり始めていた。ここCERNで起死回生の研究成果を挙げ、理論物理学はおろか宇宙物理学の分野でも再び世界をリードしようとせんばかりに野心的な物理学者を数多く送り込んできていた。
「いや、僕が気にしているのは、やつらの人物像ではなく、あの研究テーマだ。」
「アメリカチームの研究テーマって、コーヘイ、あなたまさかあんな馬鹿げた理論を信じてるの。あんなの理論物理学の世界じゃありえない。百年経っても出来っこないわ。」
「だといいが。ただ、どうも嫌な予感がするんだ。僕の計算が間違ってなければ、ここのLHCで出現する可能性はゼロではない。もし、そんなことにでもなったら世界は破滅する。」
「大丈夫よ。そんなもの、出て来っこないわ。そんなことより、さあ飲みましょう。こんなシャンパン、滅多にお口に入らないわよ。私たちの研究の成功を祈って、ハイ、チアーズ。」
ケイトは陽気にシャンパングラスを傾けると一気にその中味を飲み干した。

その三ヶ月後。
「駄目だわ、また駄目。」
ケイトは大きなため息を漏らした。ケイトの目の前にあるコンピューターの画面には「CALCULATION FAILURE(計算失敗)」の文字が浮かび上がった。
「まだ研究が始まって三ヶ月だ。そんなに簡単に成果が上がるわけないよ。」
傍らから公平が笑いながら覗き込んだ。公平たち日英合同チームの研究テーマはヒッグズ粒子と呼ばれる未知の粒子の検出である。「ヒッグズ粒子」、物質に質量を与えると言われているこの粒子は、勿論どのような精巧な電子顕微鏡を使っても直に見ることなど到底不可能な小ささである。
物理学では、質量とは重さではなく「動かしにくさ」を意味する。動かしにくいのは、動くことを邪魔しようとする何かがあるからである。それは、今夜あなたがお風呂に入り、バスタブをまたいで立って足踏みをすればすぐに実感できる。バスタブの外にある左足は軽く動く。ところがお湯に浸かった右足を動かそうとするとお湯が邪魔になって動かしにくい。ヒッグズ粒子とはこのバスタブを満たすお湯のようなものである。真空の中にもお湯らしき何かが満ちている。だから物質に動かしにくさ(質量)が与えられる。
冒頭でもお話したとおり、何もないように見える空気中にも酸素分子や水素分子が無数に浮かんでいる。それが見えないのは、単にあなたの目の解像度が低いからに過ぎない。同じように、全く何もないと思われる真空の中でさえ、動かしにくさを与える何かが潜んでいる。それが見えないのは、単に人類が手にした最高性能の機械ですら解像度が低すぎるからに過ぎない。
しかし、あなたは手を素早く動かすことで、間接的に酸素分子の存在を実感できる。手を大きく素早く振れば、手は空を切る。しかし、その瞬間、あなたは手に微かな抵抗を感じる。それで、あなたは空気中にも何かがあることを知ることになる。
公平たちが探し求めているこのヒッグズ粒子を見つけるのも原理的には同じである。ヒッグズ粒子の大きさは10のマイナス33乗メートル、いわゆるプランク長さと呼ばれるレベルの大きさである。それは原子の大きさよりもさらに何億倍も小さい。想像するだけで気が遠くなりそうである。どんな精巧な電子顕微鏡でも直に観察することは絶対に出来ない。陽子衝突実験により検出されるエネルギーの流痕から間接的に観察するしか方法はない。手を振ることによって起こる空気の流れの変化を観察することで、酸素分子の存在を間接的に観察しようとするのに似ている。
しかし、ヒッグズ粒子を見つけるのは酸素分子を見つけるように簡単ではない。その理由は、その粒子が常にそこに存在しているわけではなく、真空の中のごくわずかなエネルギーの揺らぎの中で浮かんでは消え、消えては浮かぶという、まさに幽霊のような存在だからである。山のような数があるのに、それが見つかる確率は10の何乗分の1とかいうレベルかもしれない。何兆個という陽子を衝突させてやっと1個めぐり合えるかどうかという類の話である。世界最高速のコンピューターで解析を続けても明日発見できるという保証はない。
「まあ、焦っても仕方ないさ。2~3年以内には何とか。」
「また、そんな暢気なことを言って。アメリカチームに先を越されてもいいの。彼らは毎日24時間体制で交代で研究を続けてるわ。」
「おいおい、また、アメリカチームかい。君はいつもそのことになるとムキになるんだから。」
「だって。あいつらだけには負けたくないんだもの。」
ケイトは膨れっ面をして見せた。
「それより、どう、これからハイキングに出かけない。外はこんなにいい天気だし。」
「ハイキングですって。」
ケイトは釣り上がった目をさらに釣り上げるように公平を睨みつけた。
「ああ、ここでこうやっていてもすぐには結論も出そうにないし。外に出ていい空気を吸った方が、きっといいアイデアも浮かぶ。ほら、かのニュートンだって、リンゴが木から落ちるのを見てひらめいたんだろう。そう、物理学の世界なんて所詮そんなものさ。」
公平に言われて、ケイトは渋々重い腰を上げた。
2人はハイキングシューズにリュックサックという軽装で表に出た。外は、抜けるような青空。遠くには雪を抱いたアルプスの山々が見渡せ、6月の強烈な紫外線が2人の目を刺激した。CERNのある村からは10分も歩けば、すぐにハイキングコースに出られる。
2人は黄色い標識の指示に従って、一路シルトゼー(シルト湖)を目指す。なだらかなアルプの広がる斜面には初夏の風が吹きぬけ、草原で草をはむ牛たちのつけたカウベルがカランコロンと心地よい音を立てる。2人はそんな中、緩やかな斜面に沿って歩いた。
こうして歩いていると、この地下数10メートルのところに巨大な粒子加速器のトンネルがあることなど微塵も感じさせない。のどかで平和な空気に包まれていた。
「ねえ、コーヘイ、コーヘイはどうして、また物理学の世界に。」
「ウーン、何となくかな。ほら、日本じゃ、あまり自分の将来のことを考えて大学を選ぶっていう習慣がないから。僕だって、子供の頃の夢は電車の運転手になることだったんだ。」
「電車の運転手?」
ケイトは思わず吹き出した。
「そう、子供の頃から速い乗り物が好きだった。特に日本の新幹線、そう超特急には憧れてた。何しろ時速300キロで走るんだから。すごいだろう。」
「でもいくら速い電車でも粒子加速器には適わない。こっちは光の速さの99%。」
「それとこれとは別次元の話だ。そんなに速く走ったら、体がバラバラになってしまう。」
「バカね。ジョークに決まってるわ。」
そこで2人は大笑いした。道はいつしか緩やかな上りになり、2人の額には薄っすらと汗が浮かんだ。出発してきた村はもうはるか眼下に退き、赤い小さな家々の屋根が点々と見える。
「転機になったのは大学2年の時だったかな。あの時、北部先生のノーベル賞受賞の発表があった。」
「ホクブ?、ホクブ博士ってあの対称性の破れの。」
「そう、対称性の破れ。あの時は正直びっくりした。まだ対称性っていう言葉の意味もよく知らない頃だったからね。でも、わけが分からないながらも、何かとんでもないものを日本人が発見したということだけは、今でもハッキリ覚えている。あれが物理学の道に進もうと決めるきっかけになった。」
「対称性の破れ」ビッグバン直後の初期の宇宙は物質と反物質が同じだけ存在していたとされている。しかし、その後電荷がプラスの物質だけが残り反物質はすべて消えてしまった。これがビッグバンの最大のなぞとされていた。でも、ホクブ理論により、対称性が破れることで反物質だけが消滅することがありうることが証明された。これにより今日宇宙というものが存在する理由が明らかにされたのである。
「意外と単純なのね。コーヘイほどの物理学者なら、もっときっちりした動機があったとばかり思ってたのに。」
ケイトは公平の少し前に歩み出た。
「単純で悪かったね。人生なんてそんなものさ。かく言う君の方はどうなんだい。」
公平は、先を進むケイトを追いかけるようにして聞き返した。
「私は、もっと真剣だったわ。物理学の道に進もうと決めたのはハイスクールの時。化学の実験で顕微鏡をのぞいた時だった。この世には、私たちの目に見えない物が一杯ある、そしてその目に見えない物が私たちの世界を決めている。そう思った時から、私の一生を捧げるのはこの世界しかないと思った。」
「ヘー、それはすごい。ハイスクールの時なんて、日本じゃ皆な受験勉強で大騒ぎだ。自分が将来何をしたいかなんて関係ない。どれだけ難しい大学の、どれだけ難しい学部に入れるか、皆なそんなことしか考えてない。」
「かわいそうね、日本の学生さんは。」
道はいつしか峰を回りこみ、突然眼前に美しい湖水の風景が広がった。
「ワオー、ビューティフル。」
ケイトの口から驚きの一声があがった。
シルト湖。アルプスの雪解け水が地下水となって湧出して溜まったその湖は周囲が3キロメートルほどの小さなものであったが、鏡のように平らかな湖面にはアルプスの山影が映り、喩えようのない美しさであった。湖の周囲にはなだらかな草原が広がり、のんびりと草をはむ牛たちが緑一色の美しい斜面に点々と彩を添えていた。
「さて、お昼にしようか。」
公平とケイトは湖を一望できる高台に持ってきたシートを広げると並んで腰を下ろした。ガイドブックにも載っていないような小さい湖の周辺は、訪れるハイカーも少なく虫の飛ぶ音が聞こえるほどの静けさがあたりを包んでいた。このような美しい風景を堪能できるのは、地元に住む人とCERNに派遣されている物理学者たちだけであった。
2人は用意してきたサンドイッチを頬張りながら、のんびりと眼前に広がる雄大な景色に見入っていた。公平は不思議な気持ちで一杯であった。もし対称性が破れていなかったら、この美しい風景も、このアルプスの山も、いやそれだけではない、この地球や宇宙すら存在していなかった。わずか10の何乗分の1の確率で対称性が破れたからこそ、今自分がここに存在し、この景色を見ている。宝くじに当たるよりもはるかに小さい確率がこの世界を創り出した。何度考えてもそのことが不思議でならなかった。やはり神というものが存在するのか。そう思わないではいられなかった。
「あの人たちには、きっとこんな景色もただの風景かもね。いや、こんな場所があることすら知らないかも。」
「またアメリカチームの話かい。よほど彼らのことが気に入らないようだね。」
「だって、明けても暮れても研究所に入りびたり。おまけに陽子出力装置も独占。少しはこっちのことも考えて欲しいわ。」
「仕方ないさ。アメリカは最大の出資国だし、派遣されている研究員の数も群を抜いて多い。」
公平は、持ち上げかけたコーヒーカップを止めて、嘆息を漏らした。
「ただ、気になるのは彼らの研究テーマの方だ。あの分野は危ない。まだ知られていないことが多すぎる。もし想定していないことが起きたら、コントロール出来るかどうか。」
「それって、ブラックホールのことかしら。」
公平は黙ってうなずいた。
「ブラックホール」、物質が極端に一点に凝縮した結果、重力が無限大になり近づく全ての物質を飲み込んでしまうなぞの天体である。この穴にはまり込むともはや光すら脱出することは出来ない。ゆえに観測すら物理的には困難な理論上の天体である。この広大な宇宙空間では銀河の中心部に存在すると言われて久しいが、それを直接観測した者はおらず、間接的な観測結果からその存在が仮定されているに過ぎない。ところが、ここCERNのLHCでは、この恐るべき難物を人工的に生成できるかもしれないということが予言されており、アメリカチームの主たる研究テーマとなっていた。
仮に、人工的なブラックホールの生成に成功すればノーベル賞10個分に値するほどの大発見と言われているだけに、アメリカチームが力を入れるのも無理はない。しかし、それには当然に大きなリスクも伴う。
「そう、ブラックホール。もし見つかれば世紀の大発見になることは間違いない。ただ、それがこの宇宙空間にどんな影響を与えるのかは未知数だ。もし対称性が破れていなかったら、そう、対称性の破れが間違っていたとしたら、大変なことになるかもしれない。」
「対称性が破れていない? コーヘイ、あなた一体何を言ってるの。そんなことありえないわ。だって、あれは実際に実験でも検証されている。生成された反物質は全てすぐに消滅する。理論とも矛盾がないわ。まさにホクブ博士の理論どおりよ。」
「そう、確かに。万が一にも北部先生の理論に間違いがあるはずなどありえない。ただ、生成された反物質が消えているように見えているだけだとしたら。もし実際には消えてなくて、巧妙にその姿を隠しているだけだとしたら…。」
その時、2人の眼前の湖面に黒い影が映った。上空を飛んでいた一羽の水鳥が水面に向かって急降下してきた。鏡のように真っ平らな湖面に映る鳥の影。次の瞬間、鳥はその影に向かって突っ込み、水面に大きなスプラッシュが上がった。と同時に、鳥の姿は消え、湖面には鳥が残した波紋だけが幾重にも残った。
「そうか、分かった。そういうことか。」
その瞬間、公平の脳裏に閃光が走った。公平は素早く立ち上がると、わき目も振らず駆け出した。
「コーヘイ、コーヘイ。待って。どうしたのよ、いきなり。コーヘイ。」
公平は、ケイトの呼び声に振り返りもせず一目散に山を駆け下り始めた。
この小説はフィクションです。実際のCERN(欧州合同原子核研究機構)はヨーロッパ各国により構成されており、アメリカや日本はオブザーバー国として参加しています。


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