謝罪の美徳と日本社会の閉塞感

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2012/07/14


謝罪というものについて、思考を巡らせました。


「謝罪圧力」

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photo credit: Lawrence OP via photo pin cc

特に欧米に滞在した経験がある方のお話を伺うと、「日本人はすぐに謝る」という意見が出てくることがしばしばあります。先ほどもこんなツイートを頂きました。

日本人は「罪(否)を認め、謝る」という行為にある種の美しさを感じているようにも思います。それは「和を以て尊しとなす」の価値観に根ざした、穏便な社会を作るために培われた美徳なのでしょう。


謝罪を美しいと思うということは、裏を返せば、人々は「世間を乱した人(法的な罪を犯していない人も含めて)」に対して、謝罪を暗に、または明示的に求めてしまうということです。

その「謝罪」が自発的な反省から生まれるものならまだ良いかもしれませんが、社会的な圧力によってなされるものであるならば、それを美徳と讃えるのは間違っているように思います。

例えば、生活保護を受給している人が「税金で暮らして申し訳ない」と語ったとき、本心から納得してそう語っているのでしょうか、私たちがそう語らせているのでしょうか。この差異は大きいと思います。


「謝罪圧力」がはびこる世の中は、息苦しいものだと思います。

法には触れていなくても、少しでも誰かの気分を害したら謝らないといけない。そんな社会では、変化を起こすインセンティブ=現状を否定するインセンティブは弱体化していきます。

僕にとっては、「日本社会の閉塞感」の源泉は、しばしば見られる「謝罪圧力」にもあるように感じます。

それは「失敗に対する不寛容」と裏表の関係なのでしょう(「失敗は許さない。お前失敗したな。期待を裏切ったな、社会に迷惑をかけたな、謝罪しろ」)。


謝罪を要求する人たちが、必ずしも当事者(「被害者」)ではないことにも違和感を覚えます。自分は直接的な被害を受けていないにも関わらず、「正義」を代行しようとする人たちが、特にインターネット上にははびこっています(「インターネット上の私的制裁について」)。市民が市民を制裁することに対しては、慎重な議論が必要だと思います。


誰かの謝罪を美しく感じること、誰かに謝罪を要求することについて、僕たちはもっと慎重になるべきではないかと考えます。

何の問題も解決しないどころか、かえって社会を息苦しくしている可能性があるのですから。