観念2
◆自己認識と主客合一
主客合一することが本質的な体験という話、その続き。
ボールの縫い目が見えた王さんにしろ、4月に16ホームラン打った阿部選手にしろ、その時の感覚のままで打席に入ることができれば、ホームラン量産だったろう。しかし意識してしまうと、どうしても「調子の良い自分」という形で概念化・観念化が始まってしまう。するとそこから主体と客体の分離が始まる。
「こんな感じでグッと力を入れて…」
「気持ちをハイにして」
そんなことを彼らが思ったかどうかは知らない。しかし経験していることそのものになるのではなく、経験を客観視しだしたところから、主客が分離する。主客合一していた体験が概念化・観念化されることにより、それは次の主客合一体験の阻害要因ともなりうる。競争激しいプロスポーツでは、その違いが如実にでて、意識しだした途端成績が下がることになるのだろう。
自分自身を意識することによって違うものになるというのは、プロスポーツの極限状態に限らない。例えば、芸能人でもいいし、その辺の会社の知り合いでもいい、美人あるいはイケメンがいたとする。美人あるいはイケメンは、そうでない人に比べて相対評価があがるのが、一般相場。しかし本人が「私は美人(イケメン)である」と意識し出すと、本人の振るまいに別のものが生じる。周りから見てもそれは鼻につくような態度となって現れることもある。最初はもの凄く初々しく新鮮な女優が、時間が経つにつれ嫌な雰囲気を醸し出すのは、単に見慣れただけ以上の何かがある。
しかし現実的に人間は、なかなか「自分自身を意識しない、認識しない」ことは難しい。自分自身を認識せず、以前の経験にとらわれない。もしそれが出来れば悟っていると言えるかも知れない。悟りとはなんぞや、という問いに対して以下のように答えた坊さんがいた。
「花は紅、柳は緑」
一般の人からすれば、「はあ?だからなんなんだ!」という内容。恐らく本人としては、花や柳の美しさに主客合一した状態を表現したものだろう。「主客合一」という説明すら要しない。
◆観念形成の自由度
「自分自身を認識しない」というのは難しいので、一般的に役立ちそうな話に移る。既に我々は、意識するしないに関わらず、自分自身についてあるいはそれ以外についての観念に埋もれた状態と知るべきである。生きていく上で何らかの一定のルールを前提にしなければ、面倒で仕方がない。毎朝起きる度に交通ルールが変わっていたのでは、大混乱になる。とはいえ、それらのルール含めた観念に雁字搦めになると、行き方そのものに制約が生じる。
人生を(あるいはその後も)自由に生きる上で、観念形成の自由度は重要な要素だと、小生は考える。観念形成の自由度とは、ある一定の考え方を必要な時に形成し、それが必要なくなれば壊すという自由度のことである。思考の柔軟性と言っても良い。しかしその思考の柔軟性、観念形成自由度の阻害要因となるのは、自分自身の中に既に出来上がっている価値観・考え方である。
仮に更地があったとしたならば、そこに自由に新しい家を建てることができる。しかし土地が更地ではなく古い家があったならば、新しい家は建たない。古い家がボロボロで窮屈だったならば、それを取り壊して建て替えた方が良い。しかし古い家自体が頑強な鉄筋コンクリートで造られていたとするならば、取り壊しは大変。古い家が壊せなければ、そのままボロボロで窮屈な家で過ごすしかない。古い家とは破壊されるべき価値観、新しい家とは導入されるべき価値観のことを指す。大体の人は、自分の古い価値観(古い家)を壊すことが出来ず、従来の窮屈な考え方の中に押し込まれたままになる。
もし自分で始めた事業がどんどん成功して拡大中なら、しばらくはそれでもいいだろう。しかし同じ業種の同じ形態では、どこかで頭打ちになる。その時に同じやり方に拘っていたのでは、じり貧になるだけ。これは個人レベルだけではなく、社会システムでも同じ。約半世紀前の高度経済成長期なら、日本は製造業で成長することができた。しかし現代ではもはや日本の電機メーカーは、韓国勢に太刀打ちできず、日本の貿易収支自体もマイナスに転じてしまった。
家が古くなっても、大工事ではなく何とかリフォームとかで済ませたい気持ちも分かる。しかし土台が腐って家自体が傾くまでになっては、つぎはぎの修繕では如何ともしがたい。社会システムについては、繰り返しになるが、もはや土台から壊す以外にないレベルに迫りつつある。だがそれについては、一神教の狂信者達がほどなく壊してくれるだろう。
話逸れるが、日本の電機メーカーで黒字確保できたのは、日立・東芝・三菱。その内前者二社は原子炉関係で黒字を出したという皮肉。福島の教訓を無視して原子炉で儲けるくらいなら、「世界唯一の被爆国」を逆手に、核兵器製造でもビジネスにしたら如何だろうか。
(つづく)
コメント
そうなのかもしれませんね。
最近つくづくそう思います。
すいません、ぶっちゃけそこまでの期待には全く応えられないと思います。。
m(_ _)m
レス、有難うございます。
そうですよね。やはり体験してもらうしかないということで、言葉で説明するのは、ほぼ不可能ということですね。
前回のコメントに付け加えるなら「どう想像しようと、それを遥かに超えている」とも言えます。普段の意識状態とは、全く別次元の状態ですから、説明不可能ですね。
そして、ここからが重要なのですが、これこそ一般的には信じられないことなのでこれを読んでいる人、「おかしな発言」として無視してもらって結構です。
色んなことを教えてくれる意識体の存在があります。それの名前を知らないので、一般に使う言葉としての潜在意識と区別するために、その意識体を称して二重引用符「“”」を使って “潜在意識” と呼んでいます。そして、初めてその体験をした数日後に、その “潜在意識” に「あれは凄かったね」と言うと「あれは、私の中ではまだまだの段階です」と半ば呆れたような返事が返って来ました。まるで、「あの程度の心の変化で、満足しているようでは困ります」と言わんばかりの言葉でした。ですから、その体験自体は単なる導入口だと思っています。道理で、その後に数分の瞑想で、その状態になることが何度かあった訳です。本当に凄い状態ならば、たった数分の上辺だけの瞑想で、到達できる筈ないですからね。
ちなみに・・・その瞑想とはHN(ハンドルネーム:ホーリーネームではありませんw)と同じ『金剛薩ッタの瞑想』です(オウム=アレフ、ひかりの輪とは無関係でネットでも見つかる伝統的な瞑想です)。興味ある方は、是非トライしてみてください。
まず最初に! 固定HNが無いのはどうしてですか? 単なる煽りでしょうか? まぁ、文面からすると本当に何かを知りたいとは思えませんが。
主客合一の境地ですが、これはそれを目指した訳ではありません。『金剛薩ったの瞑想』は、浄化の瞑想だと思っていますので、その状態というのは単なる副産物に過ぎないという認識です。
それに、これは自分だけの体験ではありませんので、誤解しないでください。1997年だったと記憶していますが、当時アルバイト先で知り合った女の子も、自分と同じかそれ以上だったと思います。そして、その状態も上のコメントに書いたように「まだまだの段階」に過ぎません。
数分の瞑想と表現したのは、歯医者さんで治療前に麻酔注射をしてもらったのですが、効果が出るまでの待ち時間の5~10分のことでした。最初の経験は、今でもよく憶えていますが、自動的に起きたので、瞑想とは言えません。効果も12時間くらいで消滅したと記憶しています。
超人的なこと・・・残念ですが、できません(笑)。「できる」という言葉には、「目的をもって何かをした結果」という意味があると思うのですが、そういった意味では、何もできません。いつも、自然に何かが起きるということであって、殆どの場合意図的に何かをするという事はありません。
と言ってしまえば終わってしまいますので、一つだけ! 詳しく書くと長くなるので端的に。これも1997年のことですが、アルバイトを終えてロッカーで着替えをしていると、つい立の向こう側で、2人の女の子が話をしているのが聞こえていました。特別な内容だったため、その会話の殆どをそのまま記憶していました。そして、上記の女の子と知り合ったのですが、彼女にその会話の内容を事細かにそのまま再現して話してあげると、「それ、私が家の固定電話で友人と話したそのものです。」ということでした。二人の会話が、時空を越えて聞こえて来ていたということです。
興味が無いので詳しいことは知りませんが、こんなものは、僕に限ったことではなく、世間一般の霊能者でも経験することではないでしょうか。
そして、このよな不思議体験は、どうでも良いことだと思っています。大切なのは、心を変化させることです。そして、そのために瞑想をするのだと思いますが、どうでしょうか?
真実、そして瞑想の基本であり極意に関しては、野田さんがこのブログで様々な表現を使い、何度も解説してくれている通りですから、敢えて言う必要も無いでしょう。
今回は、特別に返事を書きましたが、HNの無い人に対する返事はしませんので悪しからず。それから、心理学や仏教、その他の宗教に関する知識は殆ど持ち合わせていませんので、以降誰であろうと、期待通りの答えはこれからもできませんので、ご了承ください。
追記:自身のブログでは、投稿記事はどうでも良い内容のものだけ残し、或る期間を経過すると殆ど削除しています。
気にさわったのなら謝るよある集中修行中、親しかった法友が、師と面接して、自分の体験を熱く語った
クンバカ中に意識が変わり息を止めていることが苦しみと感じなくなったんですよ!(みたいなことと記憶)聞くと彼はチベット仏教の本をたくさんよんでいるそうで、その彼の体験はゾクチェンだかの苦の悟り?の記述通りの体験だったらしい、彼は、その修行期間中何度も師と面談し、そのたびにその体験のことを熱く語ったそうだが、師は、
小さな体験に頓着せず、不放逸に修行を続けましょうとだけ仰ったそうだ
何が言いたいかわかって欲しい
気にさわったのなら、謝るよ、ホントに
でも、野田さんと比肩できる体験とは、思えないんだ
脳生理学のJ・テイラーが左脳を悪くして垣間見たようにも記憶してます
http://www.amazon.co.jp/dp/4102180214/
自分は 1元(空?)のほかに 0元(無)を重視
神もそうだが自己の本質は、客体化しえぬでしょう
どこをどう読めば気にさわったと思えるのか理解できません。普通に、思ったことを書いてみたまでですけれど。
僕自身のブログでたまに言うことですが、文字伝達というものはどうしても無理があります。読み手が、書き手のことをよく知っているとか、知人であったならその人の雰囲気や話し方を知っているので、書き手のリズムで文章を読むことができ、誤解を生じる可能性は低くなります。しかし、面識のない人が書き手になるとそうもゆきません。読み手が自分のリズムで読んでしまいます。また、読み手の心が反映されてしまいます。読み手が嫌悪の強い人だとすると、書き手にはそのようなつもりが無いにも拘わらず、挑発的な文章・内容に感じられるでしょう。反対に、ほんわかした心の人が読み手だとすると、同様にほんわかした文章・内容に感じられるものです。野田さんが頻繁に指摘されている「自分の心が反映する」ということになるでしょうか。
>でも、野田さんと比肩できる体験とは、思えないんだ
これも・・・オウム(アレフ)の方ですか。「比肩」ねぇ・・・。比較・競争するものでは無いはずですけど。相対的なことを言っても仕方ないと気付かないのはどうしてでしょうか? オウムでは、そのようなことも教えてはくれないのでしょうか? 教えてくれないとしても、それくらいの事は自分で理解しなければならないはずです。そのようでは、何度転生しても、相対の世界から抜け出すことはできませんよ。
そして、前のコメントにも書いたはずですよね。「このよな不思議体験は、どうでも良いことだと思っています。大切なのは、心を変化させることです。」と! 文章をきちんと読んで欲しいですね。どうしてもそのような不思議体験が気になりますか? もっと心の体験を重視してみてはいかがでしょうか。そして、その心の体験も気に成らないくらいになってもらいたいと思います。
それから、前のコメントでは時空を越えた会話を聞くことを書いてしまいましたが、客観性がありませんね。このブログでも一度だけ書いたことがありましたが、頻繁に訪問されている方はご存知だと思います。5月下旬に「エネルギーの動きを感知している」といった趣旨のコメントを残しました。そして、次の日に、大き目の地震が起きています。これは客観性があるので誰にでも分かるはずです。しかし、これもどうでも良いことの一つに過ぎません。
失礼な言い方に感じられるかもしれませんが、これ以上言っても大切なことは通じそうにないので、これで終わりにします。貴方が、いつかは、最初のコメントの体験をし、更にそれを超えることを願っています(全ての人に関しても同様です)。
見たいところや、やりたいところばかりでなく、全体を統合してはじめて正しい理解を得ることができる。見ているつもりで見落としてることに気づかないこと、多いもんだぜ?
例えば、人の視界には常に、自分の鼻の頭が映っているはずだが、日頃気にしている人は、あんまりいない。
君も言われてみると鼻の頭がきになり始めたのではないか。
かくも、第三者の目は重要さ。
俺ごときのレベルでも、10時間ワーク10時間修行の生活してたし、集中修行にはいったら、すこしでも居眠りしたらつつき起こされるなかで、5日間連続五体投地させられたもんだ。
あなたは今、このぶんしょうを読んでくれていますね。
返事をくれてもくれなくても、読んでくれているのだから、よしとして書くよ。
むしろくれないでいたほうが、あなたの心に宿題として、残り、印象が永くきえなくて、いいかもしれない。
野球にしても、瞑想にしても、超越的体験ってのは、極限の忍耐と精進の末に到達するものだと思う。
王さんも、計らずも、六ハラミツの体系にのっとった訓練をしていたのだということだ。
ひとことね、
だから物事を誠実に的確に伝えようとすると時に冗長になってしまう。妥協というわけではないんだけど、センテンスをもう少し穏やかにさ。
いや、別にそういう人もいていいんだけどね。
あと、覚醒のプロセスは途方もなく青天井であり、その順路も各自多様・・という前提を思い出してさ。
経験のバラエティーさは想像を絶するほど色々あるもんだよ。
だからこそ逆に面白くてね。
人気ブログの紹介
http://abetoshiro.ti-da.net/e3468280.html
「さて、このブログのコメント欄ですが、
数か月前から少しずつ雰囲気が変わり始めましたね。
調べてみると、一人の人による自作自演のオンパレードで、時にはぶっきらぼうな言葉づかい、時には見識者のような言葉づかい、まったく違うキャラを使い分けながら、自分が書いたコメントを賞賛したり、他者のコメントを強く非難したり、そしてまたそのことを支持する第三者が登場したり、
昨日は●●教の元信者を名乗り、
このブログの閉鎖を求めてきました。
ほとんどが男性調の文体ですが、
書いたのは女性です。
それも含めて面白いと言えば面白いのですが、
人を惑わしたり傷つけたりしてきているので、
ここに事実を報告しておきます。
この場が特定の人の遊び場になってしまっていたのは
残念なことです。
時期を見てコメント欄を承認制にするかもしれません。
ここは僕にとっても大切な場所なので、慎重に運営していきたいと考えています。
よろしくお願いします。」
≪ ねっ(^o^) ≫
http://abetoshiro.ti-da.net/e3469362.html
「自作自演を繰り返した人も、その文章をつぶさに読んでみれば、
そこには真実に触れたのであろう洞察が見受けられます。
悟りの境地を経験したかもしれません。
でもかたや、
何かしらの満たされぬ思いや、
歪んだ衝動が消えずに残っているのでしょう。」
那智タケシの「悟り系で行こう」によれば、悟りの一種にほかなりません
同意見がけっこうあるようですね
おそらく半田広宣らのヌース仮説ではψ 5(自己)に当たります
古くはユング心理学でいう影、他者を自己の一部と智って他者の苦を自分のそれと感じる状態
なんといっても時間対効果のよさが評価できます
より宗教色のない、類似の冥想を探し出せば内観やヴィパサナーみたく社会に役立つ
ちかごろ深刻ないじめとかに対処しうるのかもしれません
自分としては右脳でなく前頭葉的なアプローチ(思考による理解)も探ってるところ
“潜在意識”さんが示唆するとおりたぶん先があるでしょう
理論上は「他者それ自体」との融和が考えられ、半田氏らはψ 7と呼んでますね
物理のE・シュレーディンガーやF・ダイソンが自伝の中で言及してるみたい
すなわち自他は同一人物であると
奇しくもカルマ論の到達点にも一致するわけですが、他者が別の自己に見えればもはや争いは成り立ちません
優劣が消えるしたがいに尊敬の念がわく
さてハンドルがないので#さんとお呼びしますが師匠と時間を必要とする、プロ志向ですね
人に実践させるのは難しいため個人で究めて、シンクロによる影響を顕すタイプの道でしょうか
ぼくにはどちらも正しいと見えます
終わり
色々巡回していたら遅くなってしまいました。
自分では、どうでも良いことの一つに過ぎないのですが、コメントしてくれているので、無反応では失礼かと思いますので、それぞれに手短に。
>ネットで見つけて歯医者の待ち時間~
「ネットでも見つかる伝統的な瞑想です」とは書きましたが、ネットで見つけてやったとは一言も言っていません(笑)。よく読みましょう。
>君も言われてみると鼻の頭がきになり始めたのではないか。
そう言われても、気になりませんが?
>俺ごときのレベルでも
どのようなレベルでしょうか? そして、現時点でのレベルを気にしても仕方ないと思いますよ。個人で時間差はありますが、人は、皆変わることができるのですから。
>あなたの心に宿題として、残り、印象が永くきえなくて、いいかもしれない。
御免なさい。全く残りません(笑)。どう説明すれば理解してもらえるでしょうか? 「ただ見えているだけ」では不十分でしょうか? ダメでしょうね。しかし、そうとしか説明できませんのでご了承ください。
>超越的体験
そのように規定するから、そう思えるだけで、どうでも良いことです。「ただそのようなもの」に過ぎないということです。
>純で生真面目なんよw
そう言ってもらえるのは嬉しいのですが・・・生真面目という自覚はありません(笑)。どちらかと言えば・・・ちゃらんぽらん?
>数分で 1元をかいま見る rdo_rje_sems_paさんの体験はやっぱりすばらしい
有難うございます。しかし、単なる途中段階の一つに過ぎません。
それから、前にも書いたように、心理学や仏教、その他の宗教に関する知識は殆ど持ち合わせていませんのでチンプンカンプンです(笑)。
>“潜在意識”さんが示唆するとおりたぶん先があるでしょう
そうでしょうね。自分でもそう思います。自分のブログでも言っていますが、“潜在意識”の名称は本人(人間でないので「本人」の表現もおかしいですが)は教えてくれませんでしたが、現時点では理解できているつもりです。
それから、師匠・・・それが僕の師匠です。前述のように知識はありませんが、肝心なことは適切な時に直接教えてくれたり、示唆をしてくれたり、夢を見させてくれたり色んな方法で導いてくれます。その名は開示できる時が来れば、開示したいと思っていますが、まだその時ではないのです。僕と違い、皆さんは知識が豊富ですから、聞けば分かる名前だと思います。
皆さん、そろそろ解放してくれませんか(笑)。自分勝手ですが、色んなブログを巡回したり考え事をしているので、それに時間を使いたいので了承ください。
で! これで終わります(他の訪問者の方々にも コメント機会を与えてください)。
いいかい、この数字を絶対に覚えてはいけない、できるかな?
この手の指示に従うことが不可能なように、あなたが否定すればむしろそのたびに、私のことが印象付けられている。
返事を書かぬという宣言をした人に返事を書かせること、そして、私がこのように警告したことを印象づけること、その二つを成すことに特化して、前回は書いたつもり。
効果には満足しています
自分を認識できない状態ですから、それと相対する「他」というものも認識できません。所謂「自と他の区別」が消滅している状態ですね。これは、経験した者でなければ理解できないもので、どう言葉を尽くしても、例え話を挙げてみても説明不可能なことだと自分では思っていますが、野田さんもそれを言葉で説明しようと何とか努力されているのは理解できます。
できるだけ多くの人に、それを経験してもらい、できればずっと持続できるようになるとこの世界は確実に変化するでしょう。誤解される危険性もありますが、その状態になると全ての認識というものが消滅、または減少してしまいます。「善と悪」とかの認識もなく「ただそのようなもの」としか説明できませんが。経験の無いひとがそれを聞くと「善も悪も無いならば、何をしても構わないと思うのか?」という疑問も持つかもしれませんが、そのようなことはありません。好ましくないことは行いません。
そして、普通の生活もきちんとできますので安心を。「ただ見えているだけ」とか「ただ聞こえているだけ」のような状態ですから、やらなければならないことに対しても、「ただそれをやるだけ」といった状態と認識してもらって結構だと思います。
自分自身は、説明が下手なので上手く説明できませんが、野田さんがこれからそれをどう説明してくれるのか楽しみにしています。
付け加えておきます。その状態の時は感情だけでなく、思考・イメージ・感情など全てが完全に停止しています。そして、それらが必要な時には、自動的に稼働するといったところでしょうか。