朝日新聞社の「報道と人権委員会」は12日、プロ野球・読売巨人軍の新人契約金報道に関する巨人軍と選手4人からの申し立てに対して見解を出した。見解は次の通り。
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株式会社読売巨人軍及び4選手からの申立てに対する見解
2012年7月12日
朝日新聞社報道と人権委員会
委員 長谷部恭男
委員 藤田 博司
委員 宮川 光治
1 事案の概要と審理の経緯
(1)本事案は、2012年3月15日及び翌16日付朝日新聞各朝刊の記事において、株式会社読売巨人軍(以下「巨人軍」という。)が、1997年から2004年にかけて、球界で申し合わせた新人契約金の最高標準額1億5千万円を超える契約を6人の選手と結び、その超過額は27億円に達している旨報じ、かつ「金権野球」であり、「ドラフト制度の根幹を揺るがす」等と論評したことについて、巨人軍と4人の選手(高橋由伸、阿部慎之助、内海哲也及び野間口貴彦の各選手、以下「4選手」という。なお、巨人軍とあわせて「巨人軍ら」という。)が、名誉を毀損しプライバシーを侵害しており、いずれも民法上の不法行為に当たるとして、当委員会に対し、株式会社朝日新聞社(以下「朝日新聞社」という。)は訂正記事とお詫びを掲載する等の是正措置をとるべきであるとの見解を示すよう求めているものである。
(2)巨人軍らは、4月27日申立書及び資料を提出し、さらにその後資料を追加した。朝日新聞社は、5月23日答弁書と資料を提出した。当委員会は、5月31日、双方提出の書面及び資料を検討し、申立てを受理し審理することを決定し、論点整理を行った。その後、巨人軍らは資料を追加して提出し、朝日新聞社も取材資料(入団契約金に関する契約文書・手紙・一覧表等の内部文書及び巨人軍関係者らへの取材メモ等。)を開示したので、6月15日、当委員会はこれらを検討し、審議した。さらにその後、双方は提出資料を追加した。6月23日、当委員会は、双方の関係者が出席して討論し当委員会から質問するという形式による審理及び双方個別の聞き取り調査を行い、その際、巨人軍らは入団契約書等の原本を開示した。そして、25日には朝日新聞社が、6月29日には巨人軍らが資料等を追加して提出し、当委員会は、7月3日における審議を経て、本見解をまとめた。なお資料等はすべて当委員会に対してのみ開示された。
2 名誉毀損について
(1)報道による名誉毀損とは、事実の報道または論評・意見の表明によって社会的評価を低下させることである。朝日新聞社は、本件報道によって巨人軍の社会的評価を低下させたことを認め、4選手との関係では否認している。4選手は、取材に対し「ノーコメント」を通したという記事及び契約金の額が球団を選択する際の考慮要素となった可能性がある等の指摘は、いずれも4選手の社会的評価を低下させると主張している。しかし、一般読者の普通の注意と読み方を基準として判断すると、これらの事実の報道と論評は4選手の社会的評価を低下させるものとはいえない。したがって、名誉毀損の不法行為の成否については、以下、巨人軍に対する関係のみにおいて検討する。
報道が公共の利害に関しており、公益を図る目的でなされたものであるとともに、報道された事実が真実である場合は、違法性がないものとして不法行為は成立しないとの法理が確立している。論評についても、そうした事実を前提として論評の域を逸脱していない場合は、同様である。なお、報道された事実が真実でない場合でも、確実な資料・根拠に照らし真実であると信ずるについて相当の理由が存在するときは、名誉毀損の不法行為は成立しない。
プロ野球は国民に最も人気が高いプロスポーツであり、スター選手の入団契約金については読者の関心事であることから、その内容は毎年報道されている。そして、契約金に関する球界の協定が存在することも周知されている。その協定に違反したと認められる事実があるのであれば、そのことは球界の在り方にかかわる問題として、広く議論を呼ぶ可能性がある。本件報道は公共の利害に関するもので、記事は公益を図る目的で書かれたことは明らかである。なお、各選手の入団契約の時点からは年月が経っているが、公共性・公益性が消滅しているといえるほど古い時代の出来事であるとはいえない。
結局、本件での中心的争点は、報道された事実が真実であるかどうかにある。
(2)最高裁判所判例が示すところによれば、真実であることの証明は、必ずしも細部にわたる必要はなく、重要な部分について真実であることの証明で足りる。3月15日の記事は、「巨人軍は、1997年度から2004年度に6選手(4選手のほか、上原浩治及び二岡智宏の各選手)との間で、プロ野球12球団で申し合わせた新人契約金の最高標準額(1億円プラス出来高払い5千万円)を超える契約を締結し、その超過額は計27億円であった。」という事実及び関連事実を伝えている。年度、選手数、超過額が計27億円であるという事実は、少なくとも読者が受ける印象が異ならない程度には、正確に証明されなければならないであろう。契約金の支払い方法(一括か分割か)やその名目(特別契約金等)は重要な部分であるとはいえないと思われる。
(3)争いのない事実及び資料により、概要、以下の事実が認められる。
プロ野球界では、1965年頃から新人契約金の額について議論されていたが、1978年、最高の標準額を3千万円とすることが申し合わされた。そして、1993年のドラフトから指定枠制度が導入され、社会人と大学の選手は各球団上位2人まで入団する球団を選べることとなったことに伴い、12球団は、契約金が高騰するのを防ぐため、最高標準額を1億円とすることを申し合わせた。さらに、翌94年からは、実力のない選手に不相応の契約金を支払うこととなったという反省を踏まえ、指定枠採用選手に関し、契約金は契約時に支払う第1次支払いと入団後一定の条件を達成した場合にシーズン後に支払うという第2次支払い(出来高払い)に分割することができるものとし、第1次支払金は最高標準額1億円、第2次支払金は第1次支払金額の50%を超えない額とすることを申し合わせた。
2001年、指定枠制度が廃止され、各球団2選手まで自由に獲得できるという制度が採用され、自由獲得選手の契約金については、最高標準額は1億円プラス5千万円とすることが合意され、後者に関しては「インセンティブ」と呼称された。巨人軍は、同年、新人選手の契約金に対する税務対策として、一定の条件を満たした場合に参稼報酬(年俸)に上乗せする「報酬加算金」という仕組みを作り、指定枠制度時代の選手についても、未払いの契約金を報酬加算金に切り替えた。
その後、2004年には球界において新人選手に対する利益供与の事実が明らかになり、12球団において、2005年には新人獲得活動において利益供与を行わない旨の倫理行動宣言を採択した。さらに、2007年には後記のとおり「申し合わせ」を大幅に超過する契約金が約束されたという不祥事が明らかになり、同年、「新人契約金は1億円を上限とし、出来高は契約金の50%を上限とする。違反球団は協約違反として制裁の対象とする」と合意されるに至った。
本件6選手の入団契約は、1997年から2004年の間に締結されている。
(4)巨人軍らは、最高標準額とは上限の意味ではないと主張している。本件記事も「最高標準額」を「上限」という意味で用いておらず、そのことは一般読者の普通の注意と読み方を基準として判断して明らかでもある。
また、巨人軍らは、「申し合わせ」は違反すれば直ちに制裁が科せられるような拘束力を有するものではないと主張している。本件記事も、「申し合わせ」は「野球協約では触れられておらず、超過に対する罰則はなかった」と記述しており、違反すれば直ちに制裁があるとはしていない。
1994年及び2001年の「申し合わせ」は、1978年以来の経緯に照らすと、新人獲得を自由競争にすれば契約金が高騰化し有望な新人が特定球団に集中することともなるので、契約金額に一定の標準を設けることとしたものと認めることができる。一種の競争制限的合意であるが、違背に対する制裁条項はない。いわゆる紳士協定であり、信義に基づき自発的に履行することが期待されている。こうした協定については、多少の違背は黙認されるが、違背の程度が著しく大きければ信義や道義に反し、フェアプレーの精神にもとるとして、非難や批判を当然受けることとなる。巨人軍らが援用するとおり、プロ野球関係者の中には非難を受けることは一切ない旨の発言があるが、それでは何のために12球団が協議して約束したのかということとなり、一般人の常識から乖離しているといえよう。2007年春、西武ライオンズが1994年から2005年の間に15選手に対し最高標準額を上回る契約金(超過額11億9千万円)を支払った事実を発表し、また横浜ベイスターズも2004年那須野巧選手との間で契約金5億3千万円(2年間、5回分割支払い)とする入団契約を締結した事実を発表し、いずれについてもこの年、根来コミッショナー代行が厳重注意し、さらに、前記のとおり、契約金に上限を決め、違反球団は協約違反として制裁の対象とすることが合意されるに至った。これらの事実は、いずれも事柄の性質を明瞭に表している。
(5)ところで、入団の対価としての契約金は無条件で支払われるものであるとは限らない。契約金の最高標準額を1億円プラス出来高5千万円とする申し合わせは、入団契約時になされる出来高払いの合意も契約金の一内容であることを前提としている。巨人軍らは、2001年に導入した「報酬加算金制度」は一定の条件を満たした場合における参稼報酬の上乗せであり、契約金とは切り離されたものであると主張している。報酬加算金制度とは、球団が設定した条件のうち一定項目をクリアすればその年の報酬に加算金を加えて支払う(クリアできない場合は繰り越す)というものである。入団契約時になされるこのような合意は、契約金について、入団契約時に支払われる金額以外の残余を複数年に分割し、出来高払いで支払うとしたものであり、契約金の支払い方法に関する合意と理解すべきものである。制度導入の動機が選手の契約金に対する税務対策であることからも、そのことは明瞭である。巨人軍ら開示資料によれば、入団時に設定した条件を後の年度において変更している場合のあることが認められるが、そのことは性質を変化させない。また、同資料によれば、一部の選手の入団契約書において、契約金額は統一契約書によるとし、報酬加算金の金額を表示していないものが存在する。巨人軍らは、この事実は、合意した契約金は統一契約書記載の金額であり、報酬加算金は参稼報酬(年俸)であることを示していると主張する。しかし、朝日新聞社開示資料によれば、その体裁及び記載内容から内部文書であることが確かであると認めることができる複数の文書が6選手の契約金の総額や分割支払方法を記載しており、これらによれば、入団契約時に報酬加算金の総額を合意していた事実を推認することができる。
(6)以上のとおり、入団契約時に入団の対価として合意したものは、その名目、支払い方法及び支払い条件の如何を問わず、契約金と理解すべきものである。そして、争いがない事実及び資料を総合すると、6選手の契約金についての合意とその支払いの経緯は以下のとおりと認めることができる。
(略=末尾の〈おことわり〉参照)
以上のとおり、6選手の契約金に関する記事は、すべて真実であると認めることができる。
(7)「金権野球」等の論評は、公共性、公益目的、前提事実の真実性の要件を満たしており、表現の自由の濫用にわたるとも認められない。したがって、論評の範囲を逸脱しているとみることはできない。
以上のとおり、本件記事と論評は巨人軍らの名誉を違法に毀損していると認めることはできない。
3 プライバシー侵害について
人は他人に知られたくない事柄をみだりに公表されない法的利益を有するが、他方、これを報道することに理由がある場合がある。報道がプライバシーを侵害しているといえるかどうかは、その双方を比較衡量して判断する。その場合、プロ野球選手については、公衆の関心は大きいので、著名であるほど報道することに理由がある可能性が大きい。
4選手にとって契約金の額は私的な情報であるから、公表されない法的利益がある。しかし、4選手はいずれも将来を嘱望され、その入団契約の内容はプロ野球ファンの関心事であり、入団契約時、契約金額をふくめその内容は公表され広く報道されていた。しかし、過去に公表され報道された事実が真実ではなく、実際には契約金は球団間の申し合わせを大幅に超えて約束されていたというのであるから、真実を公表する理由は大きい。比較衡量すれば、4選手にとって、本件報道による公表されない法的利益の侵害は合理的限界内にあり、受忍すべきものである。
以上のとおり、本件記事が4選手のプライバシーを違法に侵害していると認めることはできない。
4 報道倫理上の問題について
巨人軍らは、本件報道と取材に報道倫理上の問題があると主張している。当委員会はこの点に関しても開示された資料等に基づき慎重に検討した。
巨人軍らは、本件報道が3月15日朝刊においては一面トップ及び社会面見開きで報じるなど、問題を誇張して大きく扱ったことが、朝日新聞綱領や行動規範、記者行動基準に反し、編集権の濫用に当たると主張している。朝日新聞は、前記の横浜ベイスターズの事例を2007年4月12日朝刊の社会面とスポーツ面において報道しているが、比較すると今回の記事の扱いは格段に大きい。約8年から15年前の入団契約であり、その後12球団においては2005年の倫理行動宣言及び2007年協約がなされていることを考えると、その扱い方に関する評価は分かれるであろう。しかしながら、ニュース価値についての判断と紙面での扱い方は、基本的には編集権の裁量に属する事柄である。本件における対象選手の数及び金額を考えて、2007年横浜べイスターズの事例に比し球界の在り方により大きな影響を与える出来事と捉えたうえで、トップニュース扱いをしたことが、著しく編集権の裁量を逸脱し編集権を濫用しているとまでいうことはできない。
また、巨人軍らは、取材に対して述べた巨人軍社長らの意見が報道でほとんど無視され、日本野球機構(NPB)関係者への取材もされていないと主張している。しかし、巨人軍社長らの意見は記者との一問一答の形で3月15日紙面に掲載されており、NPBへの取材もなされている。「内部資料」を入手した経緯には特段の問題はなく、入手資料の裏付け取材も周到に行われていると認めることができる。取材が不十分・不適切であったという巨人軍らの主張も採用できない。
以上のとおり、本件報道と取材には報道倫理上の問題があるとの巨人軍らの主張は、採用できない。
5 本見解の公表について
当委員会は、本見解を巨人軍らと朝日新聞社に通知するとともに、朝日新聞社に対して、朝日新聞等において適切な方法で公表することを求める。
以上
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〈おことわり〉 事実認定にあたり、4選手の契約の内訳、経緯、受領金額などが、申し立て対象記事以上に詳細に記述されているため、省略しました。
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■「報道と人権委員会」とは
「報道と人権委員会」は、朝日新聞社と朝日新聞出版の取材・報道で名誉毀損(きそん)やプライバシー侵害などの人権侵害を受けたとする訴えがあった場合、その紛争の解決を図る第三者機関だ。2001年1月に発足した。
人権侵害の訴えは、広報部が窓口になり対応する。それでも解決が難しい場合に、当事者からの苦情を受けて社外の委員で構成する同委員会が審理する。審理の結果は「見解」としてまとめ、朝日新聞紙上などで公表している。
申し立ては年2、3件。今回の読売巨人軍と選手4人からの申し立ては、審理対象となった案件としては13件目で、見解の公表は10件目となる。
朝日新聞社は、委員会が出した見解を尊重し、それを踏まえた措置をとってきた。これまでに委員会が見解を公表した9件のうち、記事による人権侵害や朝日新聞社の対応の誤りなどを指摘された7件では、見解を踏まえて朝日新聞社が何らかの措置を講じている。
現在の委員は、東京大法学部教授(憲法)の長谷部恭男氏、元共同通信論説副委員長の藤田博司氏、元最高裁判事で弁護士の宮川光治氏の3氏。
委員会では、人権侵害の訴えについての審理のほか、報道と人権にかかわる諸問題を議論し、紙面での提言もしている。
■委員会が過去5年に扱った案件
2007年8月 栃木県の温泉旅館の破産手続きをめぐる本紙記事と週刊朝日の記事で、名誉と信用を傷つけられたとして、整理回収機構が謝罪などを求めた。委員会は、本紙記事の一部について、破産制度について誤解した関係者の発言引用や、恣意(しい)的なデータ使用などの問題があることを重視し、事業再生に向けて事態が進展していることなどを踏まえ、紙面で現状を報告することが望ましいなどとする見解を公表。本社は現状報告の記事を掲載
08年5月 割りばしをくわえたまま転倒し治療を受け、翌日に死亡した子供の両親が、事故を取り上げた連載記事の修正などを求めた。委員会は「記事に大きな誤りや偏りはなく修正等の必要はないが、記事掲載後の関係者への対応は誠意を欠いた」などとする見解を公表
09年4月 共産党員の増加を扱った記事で取り上げられた奈良県内の元森林組合長が、「記事に書かれたようなことは言っていない」として、人権救済を申し立てた。委員会は、記述の一部を「事実として認めることができなかった」などとする見解を公表。本社が「おわび」を掲載
7月 宮崎版の連載記事に取り上げられた研修医が、発言していない言葉を自分の言葉として書かれるなど、発言の趣旨が著しくゆがめられて報じられたとして申し立てた。委員会は「記者の思い込みから事実に反する記事の掲載になった」などとする見解を公表。本社は、宮崎総局長による「読者の共感・信頼得る紙面へ」という記事を宮崎版に掲載