第一章:皇国動乱編
第一章ダイジェスト:プロローグ~第九話 前編
はるか昔、大きな戦いがあった。
大陸の片隅に灯った小さな小さな火種は、いつしか大陸全土を巻き込む大戦争となって人々を焼き尽くした。
龍を始めとした少数の人ならざる種と、人間を中心とした多数の命短い種の争い。
ときに憎しみ合い、ときに分かり合い、出会い、別れ――多くの人々の想いが混じり合い、混沌とした時代だった。
そんな時代に、何処からか一人の若者が現れた。
白の髪を持つ彼は一人の貴き者に見出され、戦乱の中に飛び込む。
その戦乱のさなかに生涯忘れられない多くの経験をした彼は、いつしか敵であった人ならざる者たちと、彼と共に進むことを決めた人間たちを率いて戦場に立っていた。
彼は世界の理を剣とし、志を共にする者たちを率い、大戦争に終止符を打つ。
戦乱の原因となった人間たちは北の地に追い遣られ、人ならざる者たちと、彼らと共存する道を選んだ人間たちが大陸の覇者となった。
それから、二〇〇〇以上の星巡りののち、物語は英雄となった若者の国から始まる。
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◇ ◇ ◇
「――はあ」
白龍公の縁者であることを示す銀の髪が、湖面を滑る風に揺れる。
夫である白龍公と夫婦になるまで、否、夫婦となってからも変わらずに大陸一の美姫と謳われたその母の面影を残す白皙の面と、それに映える黄金の瞳。
白い飾り布を多用した衣裳と相俟って、その姿は吟遊詩人の歌に登場しても遜色ない、まるで物語の女神や美姫のようだった。
だが、その美貌に浮かぶ表情はひたすらに暗い。
溜息を零しては桟橋から湖面を眺め、少し気の早い者ならば或いは、身投げの一歩手前にさえ見えるかもしれない。
実際、彼女の中にはこのまま湖に消えてしまいたいという願望さえあった。あとのことを考えてそれを実行しないだけの理性は残されていたが、その願望自体を打ち消すだけの力は理性にもなかった。
「ああ……本当に」
理性だけで生きていけたら、願望だけで生きていけたらどれほど楽だったか。
大領を預かる公爵の令嬢としての役目も、この国の軍人としての役割も果たせない自分に対して、彼女は自身のその価値を一切認めていなかった。認められるはずもなかった。
そんな、「民に顔向けできない」という想いが、彼女の表情からあらゆる明るさを奪っていた。
良くも悪くも、高貴なる者の果たすべき義務を弁えた彼女にとって、それは己の命の価値を失わせるに十分なことであった。だが、自分が命を捨てることで発生するであろう諸々の面倒ごとを思えば、その面倒ごとに巻き込まれる人々のことを思えば、迂闊に命を断つことも出来ない。
彼女は白龍公の姫君であり、その人生の大半は他者を排斥しては成り立たないように出来ている。それは望む、望まないに関わりなく、彼女の生まれから決まっていたことだった。
「――……」
それでも何度か身投げでもしようかと思ったことはある。自分の存在そのものが無価値なもののように思え、一度思ってしまえばその考えは容易に消えるものではない。しかしいざ実行に移そうとすれば、やはり一欠片の理性がそれを押し留めてしまう。何度もそれを繰り返し、そんな優柔不断な自分を顧みて落ち込んだ彼女は、気分の切り替えと視線を上げる以外に特に意味もなく周囲を見回し、湖岸まで伸びた城壁の辺りに違和感を覚えた。
(何? 不審物? ――まさか、爆発物なんてことはないと思うけど……)
一瞬の内に思考を巡らせた彼女は、疑問と警戒がない交ぜになった視線を違和感の中心に向けると軍事用魔法の一種である遠視魔法の術式を意識内に展開、その術式に沿って魔力を流した。
それに伴い実際の視界とは別に脳裏に映し出される風景。その真ん中にあってはならない、でも完全に否定することは出来ない物体を見付け、彼女は目を見開き、無意識に大きく息を吸っていた。
そして彼女は一瞬息を止め、思い切り吸い込んだ息を吐き出す。
「――ッ!!」
それは人を呼ぶ声だったのか単なる悲鳴だったのか、混乱していた彼女はそのときの自分の言葉を憶えていなかった。
◇ ◇ ◇
異なる世界で生を諦めた青年は、白龍の姫君に生命を救われた。
かつての家族も友人も恋人も、最後に自分の生命さえ諦めた彼。
その先にどんな運命があるとも知らないまま、彼は自分の世界を取り戻し始める。
◇ ◇ ◇
身体を起こし、軋む身体に顔を顰めながら呻くように呟く。
「――起きた、のか?」
自分に問い掛ける言葉として些か不適切な言葉だが、少なくとも彼の口から真っ先に出た言葉はそれだった。起きたのか、そうでないのか、そもそも自分は何をしていたのか。
手足の感覚を確認し――痺れはない。鼻から空気を吸い込んで匂いを確かめる――仄かに甘い匂いがある。
次いでかさかさに乾いた唇を舐める――痛みが走った。何とも言えない痛みに顔を歪めた彼は、ここでようやく自分が寝ている場所がひどく豪奢な寝台であることに気付いた。
恐る恐る見回してみた室内は品の良い、そして間違いなく高価であろう家具で統一されていた。
「――……」
恐ろしい。どんな理由かは分からないが、彼はそう思った。
落ち着かないという感覚がある一線を越えると、人間は恐ろしさを感じるのかもしれない。
「ここは何処だ?」
そして、何処だと思う自分は誰だ。
知っているのに分からない。理解出来ない、理解しようにも自分という意識が希薄でそれが出来ない。
彼が自分の思考に混じる歪みの除去に没頭し始めたとき、視界の片隅にある扉から小さくも聞き逃しようのない音が響く。
「――!!」
こんこんと二回。同時に肩が震えた。
返事をするかどうか数秒悩んだ彼だが、扉は勝手に開いた。
「失礼します」
「――」
扉を開けたのは、彼の主観で年の頃十代後半と思わしき、色素の薄い空色の髪を一つに纏めた女性。
彼の知る――これは記憶にあった――メイドと表しても良い姿をした彼女は、部屋の中にいた彼の返事を期待した様子もなく一言断りを入れて部屋に入った。彼の存在をそこらの家具と同じように扱っているらしく、その視線は一度も彼を捉えることなく、彼女は扉とは反対の壁にある大きな窓に向かった。
絨毯に音が吸収されることを差し引いても、その足音は極々小さい。彼女は窓辺に着くと、薄い布の窓掛けを引いて何気なく彼を見た。
「――」
そうなると当然、一度たりとも彼女から視線を外していない彼の瞳とぶつかることになる。
互いに無言。ただその数秒後、大きく見開かれた彼女の瞳の色が鳶色であると彼が認識した瞬間――
「ひ、姫さまぁッ!!」
「――!!」
彼女はこれまでの楚々とした佇まいを完全にぶち壊し、大声で叫びながら部屋から飛び出していった。
どたどたという足音と「姫さま」と叫ぶ声が遠ざかっていく。
青年は一人、首を傾げるだけだった。
◇ ◇ ◇
彼を救った白龍の姫君、メリエラ。
その侍女にして、彼にこの世界の知識を与える役目を負ったウィリィア。
彼は彼女たちと言葉を交わしながら、少しずつこの世界での居場所を得ていく。
◇ ◇ ◇
「――あなた! 身体は大丈夫なの!?」
彼は問われ、言葉に詰まった。
紅潮した頬は白皙に良く映え、潤んだように光る金色の瞳は自分を真っ直ぐに見詰め、浮かされたような吐息が何とも言えない色香を漂わせている。
大貴族の令嬢に相応しい、簡素でいて何処か華麗な印象を抱かせる薄緑の衣裳は、さぞ走り難い格好だっただろう。踵の高い靴のままここまで走ってきた彼女を褒めるべきか、危険だと諫めるべきか。実はこの部屋に辿り着くまでに何人もの使用人がそのようなことを考え、中には実際に諫めようとした者も居たのだが、彼女はあっという間に彼らの前から走り去ってしまっていた。
「え、あ……」
「言葉は分かる?」
メリエラは自分を落ち着かせるように一呼吸置き、再度問い掛けた。
「は、はい」
「良かった、じゃあ、幾つか質問に答えて貰える?」
「はい、構いませんが……」
「ありがとう」
メリエラは寝台横の椅子に腰掛けると、背後の侍女に命じて紙と筆記具を用意させた。装飾の施された用箋挟を差し出した侍女がメリエラの命令で部屋の外に退出すると、メリエラは真剣な表情で彼に向き直る。
彼女にとっての最重要事項である『あの事実』の存在を差し引いたとしても、『民とは善も悪も須らく己の総てを賭して守るべきものである』と幼い頃から教えられてきたメリエラにとって、自らの一族が統べる領土で行き倒れていた青年は、その一族の名と矜持に賭けて確実に保護すべき対象だった。
一つの言葉も聞き漏らさない。そんな気持ちでメリエラは彼に迫った。寝台に手を置き、嘘を許さないよう顔を近付ける。
目覚めたばかりだからだろうか、彼の顔色は蒼白で余り血色が良いとは言えない。出来るだけ手早く用事を済ませ、侍医を呼んだ方が良さそうだ。
そうと決まれば早速始めよう。彼女は硬筆を手に、事情聴取を開始した。
「まずあなた名前は? 対岸にある〈クリアード〉の街の人なの?」
「くりあーど……?」
男は首を傾げる。発音も怪しく、街の名前を知っている様子ではなかったが、彼女は念のため、重ねて確認する。
「そう、それがあなたの街?」
「いや……多分、違う」
「そう、それじゃあ何処の人? その前に名前は?」
彼の様子に嘘はない。
メリエラはそれを確認すると、更に質問を重ねる。本来なら最初に訊くべきことであったにも関わらず、それを忘れていた自分に内心苦笑した。
「名前……?」
問われた、名前という単語に記憶の一部が蘇る。
その単語を発音しようとして――
「――ッ」
しかし、彼の喉は一切の音を発しなかった。
いや、より正確に言うならば、発音出来なかった。
「――?」
口は動く、だが、発音出来ない。
それは違う、お前の名ではないと自分の中にある大きな何かに否定されているようで、口に出そうとしても身体がそれを否定した。意識と記憶が合致しない。
否、記憶さえも欠落している。思考し、記憶を手繰り、自分の名を舌に乗せようとすると、その部分が抜け落ちたように真っ白になっていた。
思い出せないのではない、初めから存在しないのだと気付き、彼は愕然とした。
黙り込んだ彼の様子に首を傾げるメリエラ。硬筆を動かしていた手が止まり、訝しげに彼の顔を覗き込んで来る。そんな彼女の様子に気付く彼だが、だからといってどうしようもない。
だが、今まで見たことの無いほど澄んだ彼女の金色の瞳を見た瞬間に、彼の喉は音を生んでいた。
「――レクティ……ファール。レクティファール」
「レクティファール? それがあなたの名前?」
いいや、違う。違うはずだ。
しかし、そう言おうとして、彼の唇は動きを止めた。
間違っているが、正しい、そう思えたからだ。
メリエラはそんな彼の内心など知らないまま、微笑んで一つ頷いた。硬筆を走らせ、用紙の一番上にその名を記す。
「古代語で『月の人』ね。良い名前だわ、両親か神殿の司祭かは知らないけど、あなたの優しい色をした瞳にちなんだのね」
良き名は、愛されて生まれた証拠だ。
神殿に照会すれば、もう少し情報を得られるかも知れない。彼女はその旨を名前の横に更に書き込んだ。
「瞳……?」
ただ、彼女に自分の容姿を評されはしたものの、一度も鏡を見ていない彼――レクティファールには自分の姿というものが分からない。
メリエラはそんなレクティファールの態度に少しだけ違和感を覚えながらも、硬筆を滑らせながら彼の言葉に答えた。
「そう、きれいな銀の瞳。あともう一つ聞きたいんだけど……」
そこで彼女は表情を固いものに変えると用箋挟に視線を落とし、やがて意を決したように頷くと、上目遣いで彼を見詰めながら問い掛けた。
その声は、少しだけ震えていた。
「あなたの――――その白い髪は、生まれ付き?」
質問の意味が分からないレクティファールは、首を傾げるしかない。
このときの彼は知らない、彼女のこの質問が自分の運命を大きく変えるものだったということを。
そしてそれに気付いたとき、彼はもう、引き返せない場所に立っていたのだった。
◇ ◇ ◇
運命であったと人は言う。
白龍の姫君の下に、彼が現れたことを。
白き髪は、かつての英雄の証にして、現代の皇王の証。
皇国の人々は白き髪を持つ皇王を戴き、国を作っていた。
だが皇国はこの時期、未曽有の危機に瀕していた。
白き髪を持たないために本来皇位を継承出来ぬはずの、先代皇王の一子による皇位簒奪。
簒奪者である当代皇王によって国は荒れ、ある貴族たちは皇王を見限り、ある貴族たちは皇王に追従する。
国を憂いた貴族は辺境へと流され、自らの栄耀栄華を求める貴族たちが国の中枢を占めた。
二〇〇〇年の歴史は暗く濁り、皇国はかつての輝きを失う。
それは、豊かな皇国を狙う他国にとって好機以外の何ものでもなかった。
当代皇王即位よりしばらくの後、西方の大国〈アルストロメリア民主連邦〉を中核とした連合国が軍を発する。西方に領地を持つ貴族は当代皇王の思惑に反して連合軍の通過を黙認。皇国正規軍もまた、西方を守る西方総軍司令部が当代皇王の軍統帥権について「その正当性に疑問がある」として迎撃命令を黙殺。
それによって遮るもののなくなった連合軍は皇国領へと侵攻する。彼らの旗印は「皇国の主権を不当に掌握している独裁者の討伐」であった。
◇ ◇ ◇
皇国を良き隣人と見る市民の声援に後押しされた連合軍は、まさに破竹の勢いで『賊軍』を粉砕し、そのまま一気に皇都に向かって突き進む。
「中央貴族は何度も防衛線を張ったけど、その防衛線を担う貴族軍の兵士は徴兵された平民。当然、士気なんてある筈もない。それどころか公然と連合軍に味方した兵士さえいたそうよ。――――まあ、自業自得としか言えないわね……わたしたちにとっては不名誉なことだけれど」
自嘲気味に哂うメリエラ。唯一その目だけが、悲しげに揺れていた。
「防衛線は虫食い穴だらけ、やっぱり連合軍は止められなかった」
内応や寝返りが続出し、結果次々と破られる防衛線。やがて支持貴族たちは自己保身のため、皇都への転進を開始した。味方さえ信じられないという状況に、防衛線の維持どころか組織的な戦闘も困難になっていた。
皇王麾下の近衛軍を中心として防備を固めている皇都なら、ひょっとしたら辺境に流された貴族たちが救援に来るまで持ちこたえられるかもしれない。そんな儚い期待を胸に、残存兵力と共に皇都へ向かう支持貴族たち。
だが、彼らにとって本当の不幸はそこから始まった。
「――支持貴族たちが皇都絶対防衛線に戦力を集結している最中、今から約六ヶ月前の朝、今上陛下が突然身罷られたの」
自殺とも、謀殺とも、病死とも言われているが、真実は未だ判明していない。
その頃にはもう皇都は連合軍に包囲されてしまい、中の状況を詳しく知る術は無かったのである。
「でもここで困ったのは、連合軍も同じこと」
何せ、今回の侵攻の大義名分が勝手に消えてしまったのだ。
悪の独裁者を討つことで幾らかの特権を皇国から得ようとしていた連合軍だが、その独裁者がいなくなってしまえば皇国に武力侵攻する大義を得られない。大義もなく武力による行動を起こせば、今度は自分たちが民衆にとっての『悪』になってしまう。各国政府は、国内の対抗勢力が皇王崩御の情報を掴み、自分たちを政権から引き摺り降ろそうと画策していることに気付いていた。
何としても、国民を納得させる勝利を得なくてはならない。
そんな各国政府の意思を受けた連合軍は、皇王崩御による混乱で悪化している治安を維持するという理由で皇都の包囲を続けた。その間、凡そひと月。
その一ヶ月の間に連合軍に軍を派遣している国家の政府と、彼らを招き入れた辺境貴族の間で停戦条約が締結される筈だったのだが、そこでも幾つか新たな問題が出てきた。
辺境貴族たちは事前に約束されていた賠償金の内の何割かの支払いには応じても、各国政府が求めるような経済的な特権は認めなかったのだった。
約束が違うと詰め寄る各国政府に対し、辺境貴族たちは今や故人となった皇王の身柄を連合軍が引き渡さない以上、約束を果たす義理はないと強硬な姿勢を崩さなかった。今上皇王の身柄を確保出来ず、大義名分を失ったのは貴族たちも同様だ。これ以上国土と国民を疲弊させるような真似は絶対に出来なかった。
だが、皇王の身柄はすでに支持貴族たちによって葬られたあとだ。
そして、皇王の廟は皇都の地下深くにあり、皇族と一部の儀式院職員以外の立ち入りは認められていなかった。
「つまり、今上陛下の身柄を抑えるためには皇都に侵攻し、武力で廟を暴かなくてはならない」
だが、皇都へと侵攻すれば今度こそ辺境貴族たちの軍が連合軍に攻め掛かるだろう。貴族たちは何度もそれを匂わせたし、現に彼らの軍は続々と皇都周辺に集結し、いつしかその数は連合軍を凌駕していた。
自分たちで皇王の身を害すれば反逆となってしまう、それを防ぐために他国の力を借りたが、これ以上他国の軍を愛する皇国の領土に留め置く理由はない。貴族たちにとってはもう、連合軍は邪魔者だった。
「もう用は済んだのだから早急に撤退せよ」という辺境貴族軍と、「僅かな賠償金以外に何も得られず、単に無駄に軍事費を消費しただけでは国民の支持を失ってしまう」という各国政府の対立という構図が新たに生まれ、状況はより混迷の度合いを増した。
外征は莫大な資金と物資を必要とする軍事行動である。どんな大国でもおいそれと実行出来るものではない。国債発行などで戦費を拠出した各国政府にしてみれば、すでに自国経済に影を作り始めた今次侵攻作戦の戦費にも満たない、少額の賠償金だけで納得出来る訳がない。
結局のところ、連合側からすれば最低限収支の釣り合いが取れる条件を皇国側に呑ませなくては撤退など出来ない。
他方、連合軍と睨み合いを続ける辺境始原貴族軍も内部に複数問題を抱えていた。
「そう、何処も問題だらけだった」
身内の恥を晒すことに躊躇いはない、と言わんばかりに言葉を続けようとするメリエラ。
しかし、彼女が口を開く前に、扉が数度叩かれる。
冷水を浴びせられたように身体を竦ませるメリエラであったが、レクティファールの視線を感じると慌てて表情を取り繕い、扉に向かって入室の許可を出した。
「――姫さま、お茶をお持ちしました」
扉けて部屋に入ってきたのは、先程の侍女だった。
台車にお湯の入った保温瓶と茶壷、お茶請けの焼き菓子を載せ、二人にそれを差し出す。
「あ、ありがとう……でも……」
「何ごとも緩急が大事だと、旦那様も仰っておられたではありませんか。それに、彼は病み上がりです。余り無理をさせては」
彼女は侍女にそう指摘され、はっとした表情でレクティファールを振り返る。
良く見てみれば、先程よりも顔色が悪くなっていた。
「ごめんなさい。少し気が急いてしまったみたい」
「いいや、別に……」
気にしていない、と続けようとしたレクティファールだが、こちらを見る彼女の目が自分を窘めているような気がして、それ以上言葉を継ぐことが出来なかった。
「少し休憩しましょう」
メリエラの言葉で、部屋の空気が少しだけ弛緩した。
◇ ◇ ◇
一刻の休息、それはレクティファールとメリエラにとって忘れ難い記憶となる。
レクティファールはメリエラを貴族の娘ではなくただの女として見、メリエラは何の力も持たないはずのレクティファールに自分にはない男を感じた。
それは二人がお互いを一個の人として認識する切っ掛けであり、二人にとっての一大転換点だった。
◇ ◇ ◇
「これでも、お茶にはちょっと自信があるの」
そう言い、彼女は慣れた手付きで紅茶を淹れた。温めたポットに茶葉と熱湯を入れ、ほんの少しの時間で見事な色合いのお茶を淹れて見せた。
(うまいものだ)
貴族令嬢というからには、てっきり侍女にお茶を淹れさせるものと思っていたレクティファールは、メリエラの見事な腕前に感嘆するしかない。
「どうぞ」
「頂きます」
差し出された磁碗を受け皿ごと受け取ろうとしたレクティファールだが、ふとお茶の表面が波立っていることに気が付いた。そして、その原因を探ろうとしてメリエラの手を見、そこに付着したインクに目を奪われた。
小さな傷だらけの手。その傷や爪の間に染み込んだインクは、メリエラのその美しい姿には余りに不釣合だった。
「どうしたの? ――あ!」
メリエラはレクティファールの視線が自分の手に向かっていることを感じ取ると、その手が染み込んだインクで汚れていることを思い出し、慌ててお茶をレクティファールに押し付けた。
「ご、ごめんさない」
真っ赤な顔で恥じ入ったように手を隠し、「本当にごめんなさい。いつもはこんなことないのに……」と呟く。染み込んだインクは少し洗った程度で落ちたりしないのだから彼女に責任はない筈だが、メリエラは顔を伏せたまま上げようとしない。
「あの、別に気にしていませんから」
そうレクティファールが明るく声を掛けても、お茶を飲んで美味しいと言っても、メリエラは顔を上げなかった。ただ、その耳だけが真っ赤に染まり、彼女の隠された表情をレクティファールに窺わせる。
先程まではひどく真剣な空気が満ちていたというのに、今の室内は余りにも穏やかであった。
しかし、隠そうとして隠しきれないメリエラの手に刻まれた幾つもの傷に気付くと、彼の表情から一切の笑みが消え去った。
「――その傷は、どうしたのですか」
動揺を押し隠して問うてみれば、メリエラは自分の手を見詰め、困ったように微笑んだ。
「大丈夫、わたしたちの種族は治癒力が高いから」
レクティファールが求めた答えは、もちろんそんなものではなかった。
そして、メリエラのその今にも泣き出しそうな表情も、けっして望んでいなかった。
明確な理由もなく、ただただそんな顔を見るのが嫌だった。
「治癒能力が高いのに、そんな小さな傷も癒せないのですか」
「いじわる、本当に」
だが、今の彼には、メリエラを笑顔にさせるだけの言葉がなかった。
気の利いた台詞も、仕草も知らない。
だから、せめて怒らせようとした。少し考えればそれが余りにも拙い小細工であるとすぐに分かりそうなものであるが、この時点ではふたりともそれを察することは出来なかった。
「あなたには関係ないことでしょう」
「いいえ」
レクティファールはこれまでで一番強い意思を瞳に滾らせ、メリエラの黄金の瞳を見詰めた。
しばらくの間その視線を受け止めていたメリエラであるが、やがて耐え切れなくなったように視線を逸らした。
「――本当に、いじわるな人ね」
「あなたには負けます。あんな顔を見せられて、黙っていろと言うのだから」
あそこで黙っていられる程、レクティファールは大人になりきれていなかった。そして、そんな大人になどなりたくもなかった。
「折角の綺麗な顔が台無しでしたよ」
「お世辞は、もう少し場を選ぶべきね。こんな雰囲気も何も無いところで言っても、恥ずかしいだけよ」
そう云うメリエラ自身が、一番恥ずかしそうに頬を染めている。
言葉を発したレクティファールが平気な顔をしているということが、益々彼女の羞恥心を煽る。
「少し、手を見せてくれませんか」
「え? でも……」
躊躇うメリエラの手を、レクティファールは強引に引き寄せた。メリエラが本気で抵抗すればそんなことは出来なかっただろうが、驚きを顔いっぱいに浮かべたままの彼女は自分の手を掴む青年に抗うことが出来なかった。今まで、彼女をこんな風に扱う他人など、ほとんど居なかったからだ。
人々は彼女を姫君として扱っていたし、辛うじて軍の上官や教官がそれ相応の態度を取っていただけで、ひょっとしたら、仕事や役目以外で彼女を白龍公の姫君と知り、なおその態度を変えなかったのは目の前の青年が初めてかもしれない。
「――肌が白いってことは、その分荒れやすいんでしょうか」
言って、メリエラの両手を自分のそれで包みこむレクティファール。
彼の体温が、じんわりとメリエラに移っていく。
「――う」
それがなんとも気恥ずかしい。移ってくる体温に集中してみれば、それはまるでもっと親密な男女の睦み合いを体験しているような感覚であった。
全体は優しく包まれ、荒れて痛みを覚える箇所は優しく撫でられる。それは治癒魔法ではなく単なる愛撫であった筈なのに、メリエラの白磁の手は、その傷を次々と癒されていく。
不思議な光景だった。魔法も使わずに傷を治すなど、神々が与える奇蹟のようではないか。
「こんなこと言うと、怒られるかもしれませんが」
レクティファールは、自分の引き起こしている現象の理由を知らない。
それが奇蹟でも何でもないということだけ、知っていた。
「君は、君の守りたい人たちの痛みを知る必要はないと思います」
メリエラの肩が、大きく震えた。痛みを感じることで許しを得ようとしていた自分の浅薄さを、初対面の男に看破されたことで生じた衝撃。それは彼女の身体を反応させ、心を揺り動かした。
「でも、彼らの苦しみを理解しないと……」
「擬似的な体験と、感覚の共有は別物です。そして、共有でもしない限り、本当の意味で、その他者が感じている痛みを理解することは出来ないのではないですか」
「じゃあ、わたしはずっと彼らの苦しみを理解出来ないの?」
彼にこんなことを問うのは、間違っている。
だが、訊かないという選択肢はない。それほどまでに、メリエラの心は答えを欲していた。
「彼らの苦しみを理解することが、そんなにも大切ですか」
レクティファールの言葉を、メリエラは理解出来なかった。
民の苦しみや喜びを理解出来ずして、何が為政者かと思った。
「当たり前、じゃない……そうしないと、彼らがわたしたちを統治者として認めることが出来ない」
「本当に?」
尋ねるレクティファールの表情は、メリエラとは正反対の穏やかなものだった。彼の中の答えは、メリエラの言葉にも揺らいでいないのだ。
「人々の苦しみを理解出来れば、人々のためになると?」
「――……」
肯定も、否定も出来なかった。
苦しみを理解出来れば、彼らの望むことが分かるだろう。だが、分かったところで望むものを与えられるかどうかは、また別の問題だ。
「手段と目的を間違えては、あとで後悔することになるでしょう。あなたがすべきは民の苦しみを擬似的に感じるのではなく、その苦しみを取り除くためにどうしたら良いかを考えることなのでは?」
「でも、それじゃあ、人々が求めることは……」
「人々が求めることは、人々の声で聞くしかないと思います。勝手に想像を膨らませて、自分を傷めつけて、そして理解しようとしていると言っても、それは目的と手段を間違えているだけ」
レクティファールにとって、メリエラの語るこの世界の現実は、所詮他人ごとでしかない。彼の言葉を聞けば、怒りに駆られる者も居るだろう。現実を知らぬ者が何を知ったような口を聞くのか、と。
だが、彼の手の中にある細く白い手は、彼にとっての現実である。そこに刻まれていた痛々しい傷も、彼女の浮かべていた悲しみも。
彼はその現実をどうにかしようと思案を巡らせ、そして彼なりの答えを見付けたのだった。
「まず、あなたはあなたとして自分を万全な状態にしておくべきだと思います。あなたが倒れてはあなたが救えるかもしれない人々も救えなくなる」
「それは、慰めかしら」
「まさか、あなたを慰められるほど、私は上等な人間ではないのです」
レクティファールは、そっとメリエラの手を解放した。そこには一つの傷も残っていなかった。
「あなたが間違っていたということはありません。傷付くことで得られたものもあったでしょう。あとは、その得たものを上手く使うだけです」
「上手く使えなかったら?」
それこそ、意地の悪い問い掛けだった。
だが、レクティファールはその意地の悪い問い掛けにも笑みを崩さない。
「失敗を得たと思い、その得たものをさらに上手く使うだけです。何度失敗しようとも、諦めようとも、放棄さえしなければ機会は訪れるもの。あなたは未だ生きていて、まだ歩くことが出来て、まだ喋ることが出来る。そして、そうやって穏やかに笑っていられる」
「――?」
メリエラは、思わず自分の顔に触れた。
笑っていたのだろうか、もし笑っていたのなら、それはどんな表情だったのだろうか。
平和だったあの頃と同じ表情だっただろうか、それとも役目として身に付けた令嬢としての笑顔だろうか。
彼女は疑問をそのままに、レクティファールに問い返した。
「――どんな、顔をしているかしら」
レクティファールは、少し考える素振りを見せると、一つ頷いて答えてくれた。
「あなたに似合う、綺麗な笑顔です」
メリエラは、頬に触れていた手に平で熱を感じ、自分が真っ赤に染まった顔をしていると確信した。
◇ ◇ ◇
心を通わせ、二人の距離は縮まった。
メリエラは少しだけ軽くなった心で、レクティファールに国の現実を話し始める。
皇都を包囲する連合軍。その連合軍と相対する辺境の始原貴族軍。そして、皇都に立て篭もる当代皇王の支持貴族軍。
補給線の断裂。人質となった皇都。圧倒的戦力差。それぞれが戦えない事情を持つ三つ巴の戦いは硬直し、時間ばかりが過ぎていく。
そしていつしか、五ヶ月が経過していた。
補給を断たれた連合軍の兵たちが暴走を始め、周辺の民間人に被害が出るようになる。
皇都の戦いは一触即発の状態と化した。
◇ ◇ ◇
「でもね、本当に……これは、所詮わたしたち皇国の問題よ。だけど、今あなたがいる場所は皇国で、きっとあなたはこれらに無関係では居られない」
「――」
レクティファールは彼女の言葉に無言を貫いた。
彼女が心の裡の悲鳴を押し殺して語った内容は、正直彼の想像を超えていた。現実として認識することが酷く困難なほどに、余りのことに悪い夢ではないかと思ってしまうほどに。
彼の生まれた世界は、いや、記憶にある限り、少なくとも以前の彼の周囲は平和だった。
人が人に殺され、女が暴漢に犯され、子供が親に虐げられる世界ではあったが、それでも多くの人々が自分たちが平和の中にいると気付かない程度には平和であった筈だ。
だが、ここは違う。
彼の居るこの部屋からそう遠くない場所で、今も戦いに怯えている人々がいる。そして、今ここにいる彼の周囲に、自分は平和の中にいると思っている人間など殆ど居ないだろう。
哀しいほど空虚で、同時に血の烟る現実感に充ち満ちた現実。
だが、哀しいと思うことさえもがこの世界では不相応なのだ。
そう、これは自分の身に降り掛からない遠くの世界の話ではない。今、彼がいる世界の現状だった。
「――やっぱり、あなたには関係のない世界かしら?」
「――!」
その言葉に、彼女の黄金の瞳を見た。
試すように、侮るように、そして、何故か乞うように。悲しげに細められた金色に、彼は心臓を鷲掴みにされたような気分を味わう。
様々な感情に翻弄されて揺れるその瞳は、決して自分には解き明かせない答えを求めていた。
「関係……ない訳ではない……でも……」
言葉に詰まる。
答えようとして、答えることが怖かった。
答えてしまえば、もう後戻りは出来ないような気がした。
ついさっきまであれほど良く動いていた口は、現実を認識すると途端に動きを鈍らせた。
「ええ、そうね。あなたは知らない。無知過ぎる。わたしも同じだけど、あなたよりはこの国を知っているわ」
メリエラは身を引き、窓の外へと視線を巡らせた。彼女の世界がそこにあった。
彼女の目には、レクティファールには見えない世界が広がっているのだろう。
「私は……」
無知を詰られることには慣れていた。
仕事でも、最初はやはりこうしてどうしようもない人間を見るような目で見られたものだ。
だが、人という生き物は永遠に無知ではいられない生き物だった。
良い意味でも、悪い意味でも。
無知で居ることに、恐怖さえ覚える生き物。それが人。
真実を聞き、受け入れることに恐怖はある。
だが、真実を知らずに居ることにも、同じだけの恐怖がある。
そのどちらの恐怖を受け入れ、拒絶するのか――――人の根源的な性質はそこで分かたれる。
彼の本質は――――果たして。
「ならば、私に……あなたの知る世界を教えてもらっても良いですか?」
知らず、只無為に生きることへの恐怖だった。
その恐怖に追い詰められ、総てを知るべきだと彼の本能が叫んでいた。
他の何を置いても、あの悲しそうな瞳を見たくないと、彼の中の何がが唸りを上げる。
「何故? そして何を知りたいの?」
彼のこれまで希薄だった気配に厚みと重みが増したことに気付いた彼女は一切の表情を消し去り、彼の銀の瞳を見詰めた。
この言葉で彼の為人を見定めよう、そういう意図だった。
彼は彼女の思惑に気付いていたのかもしれない。だが、気付いていなかったのかもしれない。
ただ、彼の持つ答えは一つしかなかった。
「私の生きる道を探す道標。私が望む未来への糧。あなたが求める明日への扉」
そして彼は、そこで一つ吐息を漏らし、続けた。
本能のままに。
意地のままに。
「この世界で私が私として生きるための、総てを」
◇ ◇ ◇
このときを以て、レクティファールは一歩を踏み出す。
そして彼に与えられたのは、侍女ウィリィアとの学びの日々。
歴史を学び、法を学び、宗教を学び、常識を学ぶ。
〈アルトデステニア〉という国の名前さえ知らず、子どもでも当たり前に知っている常識さえもない彼に、ウィリィアは驚くと同時に興味を抱いた。
主人メリエラが、レクティファールに大きな関心を抱いていることを彼女は知っていた。嫉妬さえ抱いた。
自分に課した「メリエラを守る」という誓いを侵されるのではないかという疑念が、彼女の心に付き纏う。
それでも彼女は、それを隠し、レクティファールに接する。
彼女は気付かない。嫉妬、独占欲による負の興味であっても、人を変えることはあると。
◇ ◇ ◇
レクティファールという青年は、常に厭世的な雰囲気を纏っていた。
白龍公の諸侯軍で一兵卒から少将まで勤め上げた城の警備司令の言葉を信じるならば、「一度死を間近に感じたか、それに近い境地に至ったことがある者の雰囲気」ということになるだろうか。
世話係に任じられたことで一日中その姿を見ているウィリィアは、講師として様々なことを教えているとき以外に彼が見せる表情を「まるで死を悟った老人のようだ」と評した。
穏やかで、世界に一つの未練もなく、生きるだけ生きた。数年前に他界した彼女の祖父も、晩年はそのような姿を見せていた。
家を守るに足る後継夫婦と、可愛い孫たち、死に臨むその瞬間でさえ祖父は、人々が羨むような静かな笑顔だった。
そんな祖父と同じような表情を見せる青年に、彼女は言い知れぬ恐怖と嫌悪を抱いた。
「姫さま」
廊下を歩く主人にそう呼び掛ければ、振り返る顔は随分と血色の良いものだった。
つい一週間前ならまるで幽鬼のような蒼白さであったというのに、今ではこのくだらない争いの始まる前とそう違いはない。それを成し遂げたのがあの青年であるとは、城の誰もが認めるところだ。
ウィリィアとて青年に対して蟠りはあるものの、その功績は認めている。
「あ、ウィリィア」
ただ問題があるとすれば、
「彼の様子はどう?」
「……」
最近の主人は、自分の姿の向こうにあるあの青年しか見ていないことだろう。
「――だいぶ食欲も戻りました。もう食事もわたしたちと同じものでも良いかもしれないと侍医殿が……」
「そう、良かった。もうすぐ父上も戻ると思うから、それまで彼をよろしく」
「――はい」
そのまま自室へと向かう主人の後ろ姿を見送るウィリィア。
主人に対する不満が無いといえば嘘になる。
だが、それを表に出すことは憚られ、自然とその不満は別の方向へと差し向けられることになった。
「今日は、皇国法でも勉強してもらおうかな」
彼女のそんな言葉は、誰にも聞かれることなく無人の廊下へと消えていく。
向かう先は、城の資料庫だ。
そこで彼女は分厚い法典を数冊借り受け、かの青年の元へと赴く。
「――――え、これを全部ですか?」
「はい、姫さまのご意向です。これを主要な部分、総て憶えていただきます」
差し出された皇国大法典に顔を引き攣らせたレクティファールは、何かの間違いではないではないかと何度も確認した。
されど彼の目の前に立つ侍女は厳然として彼の夢想を打ち砕き、さらに数冊の資料を追加する。
「この国で生きていくなら、基本的な法は知っておくべきとのことです」
「正しい、至極正しいんだけれども……」
ずっしりとした重さに、彼の腕が弱々しく震える。
一般人ならば日常生活の上で少しずつ憶えていく法も、彼は一気に覚えなくてはならない。
「あとは、皇室法に関しても追加で憶えていただきます」
「――嘘ですよね」
「侍女は嘘を言いません」
「言って欲しかった、切実に……」
レクティファールは間近に迫った脅威を思い、ぐったりと身体を弛緩させた。
「では、始めましょう」
「はい……」
右手に硬筆を持ち、左手で帳面を押さえるレクティファール。
これが悪意からの嫌がらせであるなら幾らでも抵抗するのだろうが、これらの行いは総てあの姫君の厚意であるらしい。
そうなると、抵抗することは彼の良心に反する。黙って耐えるしか道はないのだ。
「では、軽く各法の触りから」
「はい、お願いします……」
心で泣き、彼は真っ白い帳面に向き直った。
◇ ◇ ◇
白龍公カール・フォン・リンドヴルム。
リンドヴルム公爵にして、未だ皇王家を見限らずにいる大貴族。
その思惑はただ一つ、国家の安寧のみ。
◇ ◇ ◇
城の一切を取り仕切る家令から水精湖の対岸の街〈クリアード〉にある商館に出向いていた父が帰ったと聞き、メリエラ慌ててウィリィアの代わりとして自分に付いた侍女に身支度を整えさせた。
「髪、肌、服、装身具、全部よし」
その姿を姿見で確認して納得すると、彼女はそのまま部屋を飛び出して城に入ったばかりの父を出迎える。侍女が慌ててあとを追ってくることには気付いていたが、自分の中で渦巻く気持ちを抑え切れなかった。
玄関で外套を脱いでいた二メイテルを超える長身を持つ見た目壮年の男性。彼は貴族伝統の長衣に包んだ身体を慌ただしい足音の聞こえる方向へと向けた。そして、自分よりも色素の薄い銀髪を揺らして走り寄ってくる娘を見ると、慌てて執事に手荷物を預けて大きく手を広げた。
「おいでメリア。儂の可愛い娘よ!」
威厳の欠片もないほど崩れきったその表情は、満面の笑みという言葉がこれほど相応しいものはないと断言出来るものだった。〈クリアード〉にまで随行していた執事はそう思い、これこそが親馬鹿の姿だと改めて確信する。
ただ、父親のそんな蕩けた表情を見た瞬間に娘は急減速。大きく広げられた腕に飛び込む直前にしっかりと停止した。
娘が完全停止した瞬間、長身の偉丈夫が浮かべた完全無欠の笑顔が凍り付いたのも執事はきちんと見ていた。
「――メリア……」
あの方は凍り付いた笑顔の裏で泣いている、執事はそう思った。
ただ、娘はそんな父の姿に一欠片の同情もしなかったらしい。きっと引き結んだ唇を微かに開くと、用件を口にした。
硬く、張り詰めた声音だった。
「父上、先ほど伝えました件についてですが」
「む……」
そんな娘の言葉と表情に、広げた腕を下ろす男。
先のメリエラの言葉の通り、この男性が彼女の父でありこの城の主である第二代白龍公カール・フォン・リンドヴルム公爵である。娘に関することを除けば、皇国貴族の筆頭に相応しい風格と威厳を持つ男だ。
そんな彼は顎に手を当てて少し考えると、金の瞳を細め、娘に向かって低く告げた。
「――正直に言うならば、俄には信じがたい話だ」
「ですが……!」
カールの言葉に噛み付くメリエラ。
だが、自分に対しても意見を曲げず、その目に涙さえ浮かべている娘を見て、カールはふっと表情を緩める。そして、先ほどとは全く違う優しい声で続けた。
決して、厳しさだけが風格や威厳を形成するのではない。
「しかし、我が娘が此度のような重大事を見誤るとは思えん。部屋で詳しい話を聞こう」
「は、はい!」
ぱっと花開くように表情を明るく変える娘。
父親はそんな娘の様子に微笑むと、そのまま娘を伴って城の上層にある自分の執務室へと上っていった。
◇ ◇ ◇
親子の想いは同じ――この国に平穏を。
しかし、その目標に至る手段には大きな隔たりがあった。
カールは娘の保護した〈白〉を連合軍に差し出すことで戦乱の終結を図り、メリエラは〈白〉を然るべき地位に就けることで国を立て直そうとしていた。
裏で連合軍に物資を送り、始原貴族軍に干渉することで戦線の崩壊を食い止めていたカールは、連合軍の実情も始原貴族軍の現状も知り抜いている。
連合軍の士気は落ち、軍としての規律を維持することも難しくなっていた。
始原貴族軍もまた、その連合軍の行いを座視することが出来ないでいる。
ここでひとつ切っ掛けがあれば、皇都は火の海になってしまう――それを知るが故に、カールはひたすらに冷たい決断を下そうとしていた。
◇ ◇ ◇
誰もが笑って終わる結末など現実には存在しない。ならば、泣く人間が一番少ない方法を選ぶのが政治を司る者の役割である。カールは常日頃から自分の後継者である彼女の兄と、彼女自身にそう言い聞かせていた。
しかし、彼の娘は父の言葉に決して頷かなかった。
若者特有の、潔癖さが彼女にはあった。
「ち、父上の言葉は至極ごもっとも……。ですが、〈白〉は――レクティファールはわたしたちに対してなんの害も為していないではありませんか……! 罪には罰を、罰には赦しを与える。それが為政者の務めではないのですか!」
「敢えて言うならば、今、この瞬間にここにいることが罪なのだ、我が娘。儂とてもう少し状況が良ければ〈白〉を殺す算段などせぬ。むしろ、次代皇王として臣下の礼を取り、健やかに養育しよう。だが、すでにそのような状況ではない」
〈クリアード〉にて秘密裏に会談を持った連邦の使者は、このまま睨み合いが続くようならば更なる派兵を行って皇都に拘束されている連合軍将兵を救出するとまで言ってきた。
今回は皇都にいる連合軍に対して公爵家に出入りしている商人に依頼して物資を届けさせると約束することでとりあえず話を纏めたが、こんな方法がそう続くはずはない。
最長でもひと月で限界が来る、カールは娘に告げた。
「ですが、それではレクティファールが報われません! これではまるで、殺すために救ったようではありませんか!」
「お前に救われていなければ〈白〉は死んでいたのだ。ならば、その命存えさせる代償に皇国の礎となってもらうべきだろう」
「父上っ!!」
娘は卓の天板に手を叩き付けて立ち上がった。
涙声で、彼女は叫んだ。
「礎になる理由など彼にはありません! 皇国の皇族でも貴族でも平民でもない、まして誰かに裁かれる理由も罪もないのに、どうして命奪われることが正しいと言えるのですか!」
「正しいとは言わん。だが、必要なことだ」
世の中は正しいことだけで廻っているのではない。間違ったこと、不条理なことで廻っているのだ。
激する娘の泣き声など、為政者としてのカールに何の痛痒ももたらさない。政治とは、過程が正しいか間違っているかではないのだ。それによってもたらされる結果が、大多数にとって良き結果であれば正しい、そうでなければ間違い、ただそれだけだ。
「くっ! どうしても……どうしても彼を贄とすると仰られますか?」
「他に術がなければそうせざるを得まい。儂はお前が気付かぬ間にかの〈白〉を拐かし、お前が気付いて泣く頃には総てを終わらせる」
恨まれること、憎まれることも役割の一つ。
そしてそれを受け入れることが、父としての愛情だ。
「―っ!」
圧倒的なまでの存在感で目の前にいる父を、彼女は絶望的な思いで睨んだ。
それ以外に、今ここで彼女が出来ることはなかった。
あの自分の手を握って、自分の苦しみを肯定してくれた優しい青年を殺そうとしている父親を前に、メリエラが出来ることはそれだけだったのである。
◇ ◇ ◇
メリエラは、カールの考えを覆すことが出来なかった。
これまで自らの心の拠り所としてきた貴族としての役割。それを全うするなら、レクティファールを生かすよりも、その生命で国を救うことを選択せざるをえない。
彼女はこのとき初めて、「貴族」という存在の重さを知った。
貴族とは立場でも位階でもない、生き方なのだと。
それを知り、彼女はレクティファールの下へと赴く。
貴族として彼に死を求めるのなら、貴族としてその対価を負わなくてはならない。
たとえそれが、自分の身を費やすことであっても……
◇ ◇ ◇
痛いほどの沈黙がどれくらい続いたのか、時計のない部屋では判断が付きかねたが、夕食を運んでくる筈のウィリィアが未だ姿を見せないことを考えれば、そう長い時間ではなかったのかもしれない。
いつしかメリエラは、分厚い皇国大法典簡易版を読むレクティファールを眺めていた。その姿を見ていると、波立つ心が落ち着いた。
「――」
それでもまだ、この部屋に来た理由を発することはない。ただ静かに、見ているだけだ。
レクティファールもそんなメリエラの様子に気付いていたが、特に何か言うことはなかった。この男の場合は単に話し掛ける切っ掛けがなかっただけという理由なのだが、このときだけはそれが正しかったのかもしれない。
沈黙を破ったのは、ようやく覚悟を決めた姫君だった。
「――あなたを、連合に差し出そうという意見があるわ」
再び沈黙が落ちた。
メリエラはレクティファールから向けられるであろう怨嗟の声に耐えるために身を固くしたが、しかし、彼女の想像したような言葉はいつまで経っても彼女を襲わない。
まさか、言われたことを理解していないのか――――顔を上げたメリエラの前で、レクティファールは顔色ひとつ変えずにそこに居た。
「――ほう」
自身の死を告げられて尚も黙っていたレクティファール。そう相槌を打つと、また黙り込んだ。その間ずっと大法典から顔を上げなかった。
沈黙が怖い。何か言わなくてはならないという強迫観念に駆られたメリエラは、震える声で続けた。
「最長でもひと月、その期限が経過したら、あなたは連合国側に戦犯として引き渡される。多分、皇国と連合国合同の裁判にかけられるわ……」
「それは困りましたね」
やはり、レクティファールは顔を上げない。メリエラは、いっそ罵ってくれと心の底から思った。だが、言葉にすることは出来なかった。たったひと月の期限を得たくらいで、彼に何かを求めることが出来るなどとは考えられなかったのだ。
「ええ、本当に」
レクティファールとて、動揺していない訳ではない、ただ、余りにも現実感がなくて反応のしようが無かった。
一度死んでいるのに、もう一度死ぬと言われて、どんな反応を示せば良いのか分からない。
そんな彼の沈黙をどう受け取ったのか、メリエラは顔を伏せ、両の手を握り締め、涙を浮かべて言葉を続けた。黙りたくない、黙ったら、もう――――意味のある言葉は紡げない。
「どんなに……罪を軽く見積もっても、死に方が変わるだけ。名誉を持ったまま死ぬか、名誉すら取り上げられて死ぬかの違いしかないわ……っ」
「そうですか」
レクティファールはここでようやく大法典を閉じ、窓の外に視線を移した。
姫君の言葉を聞いて、頭の芯が氷のように冷えていた。
恐怖よりも、圧倒的な『無』が彼の心を支配している。
この感覚は、二度目だ。
「この風景も、短い付き合いになるのですね」
「――ごめんなさい、ごめんなさい」
彼女は謝ってばかりだと、レクティファールは思った。
謝ってばかりで、こちらの顔を見てくれない。顔を見せてくれない。そちらの方が、彼には辛かった。
「それも、ひとつの終わり方でしょう。あなたの責任ではありません」
「でも……わたしが余計なことをしなければ……」
「そうなったら、もっと前に死んでいただけです。結果は同じではないですか」
違う、そう叫びたかった。
自分が見付けても、父の帰還前に彼を解き放っていれば良かった。神殿に連絡を入れ、保護してもらえば良かった。やりようは幾らでもあったのに、それをしなかったのは焦燥の余り状況を見誤っていたからか、或いは、〈白〉に対する執着が強過ぎたのだろうか。そのどちらでも、責任はメリエラにある。
「でも、でも本当に……」
「お願いですから、泣くのだけはやめてください」
言われ、メリエラは慌てて涙を拭った。
動揺した様子を見せないレクティファールに対し、自分が動揺する様を見せる訳にはいかない。
だがしかし、泰然として死を受け入れるという、メリエラにとって理想とする貴族像が目の前にあるのに、彼女はそれを見ることが怖かった。
自分が余計なことをしたばっかりに余計なものを背負わせてしまった、その事実がどうしても彼女を縛り、責める。とはいえ、レクティファールも姫君が思うほど泰然としていた訳ではない。
(――ここでも終わりか)
何故ここに居るのか知らないまま果てるのは少し心残りだが、既に一度死んだのだと認識した彼に、死は恐怖の対象となり得ない。もしかしたら、本当は死というものが理解出来ていなかっただけなのかもしれないが、このときの彼は自身が驚くほどに『死』に対して鈍感であった。
それはこの世界に執着するべきものがないという現状と、彼の持ち前の諦めの良さが発揮されていただけであり、別に矜持だとか心構えによって冷静な態度を取っていた訳ではないのだ。そもそも、そんな矜持や心構えがあれば、元世界でももう少しましな人生だっただろう。
「一ヶ月間、わたしが出来る限りの支援をします。望みがあればわたしや当家の力の及ぶ限り叶えます。それで許してもらえるとは思えないけど、わたしに出来ることならなんだって……」
それこそ、身体を差し出せと言われたら黙って差し出す、とまでメリエラは言い切った。
それくらいの覚悟でなくでは、彼女は罪悪感で一言もレクティファールと会話できないし、何より彼女の矜持が自分自身を許さない。
公爵家は兄が継ぐ予定で、そうなれば元々政治の道具として誰かの伴侶になった筈のこの身だ。皇国を救うために政治の道具とされた男に捧ぐことに問題などありはしない、メリエラはそう考えた。
それがある種の父親への反発であることに、彼女は気付いていない。彼女には、父親の行いが本来の貴族の役目さえも他人に押し付けようとしているように思えた。
だからこその言葉、だが、レクティファールはそれを拒んだ。
「それは……私には過ぎた申し出です。救われた命を費やすだけなのに、そこに対価を求める訳にはいきません」
白皙の美貌と銀の髪、金の瞳。
そして均整の取れた体躯は異性としてひどく魅力的ではあったが、彼女の申し出が贖罪のためと分かった以上望むことは出来ない。自分がいなくなったあと、彼女がいつか後悔する日が来ると分かっていたからだ。
もしも彼女が後悔しないにしても、男として譲れない一線というのはある。そして何よりも、自分みたいな男が汚して良い女性ではないと、レクティファールは自虐的に笑った。
一方死の直前になれば、ひょっとしたらみっともなく彼女を求めてしまうかもしれないと思う自分も確かに存在し、彼はそんな自分を積極的に黙殺した。彼なりの小さな小さな矜持だ。
「今みたいに贖罪に逃げるためではなく、いつの日か心の底から納得して身を任せる相手が出来ますよ。少なくとも、私はそっちの方が嬉しい」
命の恩人が悲しむのは、嬉しいことではなかった。
出会って間もないが、彼女には幸せになって欲しい。
レクティファールにとって、メリエラは少なくともそう願える程度には大切な知り合いだった。
これは正義感だとか、そういった類のものではない。ただ、自分が嫌だと思うことはしたくなかっただけだ。
そこにあるのが恋愛感情であるとしても、彼はそれを否定も肯定もしない。このまま消えればそれで済む話だと思っていた。
(想い、想われることがどれだけ幸運か、知らない訳ではないですしね……)
女々しいことだと思う。他人を想うことが出来ないことを、他者のせいにするのだから。
しかし、そんな自分でも譲れないものがある。
何も無い自分の中にたった二つだけある確かな記憶。
この愛らしく儚げな姫君と、ちょっと気の強い侍女。
自分の世界のたった二つ確かな存在。それぐらい、守らせてくれても良いではないかと思った。
「――ありがとう、って言うべきなの?」
俯いていたメリエラはようやく顔を上げた。レクティファールを上目遣いで見ながら、小さく笑って首を傾げる。無理をしていると、一目で分かった。レクティファールはメリエラをそのままにはしておけず、彼女の月明かりに輝く銀髪に手を伸ばした。
彼女の問いに答えながら、彼はメリエラの髪を撫でる。
「嬉しければありがとう、多分、それだけで良いんじゃないですか?」
さらさらとした銀髪は、レクティファールにとても心地よいと思わせた。出来るなら、もう少し触っていたいと思うほどに。
だが、彼はそんな誘惑を振り切ってその手を引っ込めた。メリエラが少しだけ残念そうに表情を曇らせたが、彼はそれを気のせいだと決め付ける。そう思わなければ、分不相応なことを考えてしまいそうだった。
「私が前居た場所では、意味のある死なんてそうそうあるものではありませんでした。だというのに、ここでは一国を救うなんて大きな意味を与えられた。これは運が良いと言えませんか?」
言ってから、心の中で叫んだ。本当は、国なんてどうでも良い。
でも、今の自分にとって一番大事な人を守れるなら、この大して意味の見出せない生命を費やすに足るのではないだろうか。
あの空虚な世界のように、ただ漫然とした死を賜るよりも幾らか“マシ”なのではないだろうか。
◇ ◇ ◇
生を実感出来ないから、死を恐れることがない。
それは異常なのか、それとも生き物としてあたり前のことなのか。
メリエラは死を恐れる素振りを見せないレクティファールに、自分の理想とする貴族像を重ねた。
そんなメリエラの内心に気付かないレクティファール。彼は、メリエラに一つの望みを伝える。
それは彼にとってこの世界で生きるための大切な糧。たとえそれが、ひどく短い生であったとしても。
◇ ◇ ◇
こんなことなら軍学校の同期に色々聞いておくべきだったと後悔している銀色の姫君に対し、レクティファールの言葉が与えた衝撃は激甚だった。曰く、名前を教えて下さい、である。
「――名前? え、名前?」
「ええ、名前教えて下さい。恩人の名も知らず死ぬのは流石に気分がよろしくないので……」
「な、なんだぁ……」
がくりと崩れ落ちるメリエラの姿に、男は首を傾げるだけだ。彼女の中で繰り広げられた葛藤の内容を知れば多少は態度が変わったかもしれないが、良い変化が起きるとも思えない。
とりあえず、そんな男だという評価を下された自分に落ち込んだことだろう。
彼にとって彼女は自分の命を懸けるだけの価値があるのだ、そんな女性に破廉恥漢と思われていたらまず間違い無く落ち込む。
「それで、教えてもらっても?」
「も、もちろん! というより、今まで名乗ってなかったこっちが謝らないといけないくらい」
「いえ、ウィリィアさんに偉い人だと聞いていたので、名前を名乗らないのが当たり前なのかと……」
名前を知っているのが当たり前の人間というのは居るものだ。
少なくとも、この白龍公領の領民で彼女の名を知らないのは小さな子供と別の領地から来た者くらいなのだろう。レクティファールはそう考えて、敢えて名を聞かなかった。
聞くことが失礼に当たるのではないかと思っていたのだ。
「名を尋ねられて怒るって、それってどんな不作法者? まあ、それはいいとして、きちんと自己紹介させて貰うわね」
メリエラは体に染み付くくらい厳しく教え込まれた流麗な動作で、レクティファールの前に立った。銀の髪が流れ、衣裳が踊る。レクティファールはその光景に目を奪われた。
「〈アルトデステ二ア皇国〉公爵、カール・フォン・リンドヴルムが一女、メリエラ・リリ・リンドヴルムと申します。以後、見知り置き下さいませ」
完全無欠のお姫さま振りを発揮して緩やかに頭を垂れる姫君――――メリエラ・リリ・リンドヴルム。
皇国四龍姫と呼ばれる公爵家の姫たち。その中の一人であり、その戦場での姿に敬意を込めて『戦女神』とも呼ばれる女性がそこにいた。
「――これでよろしい?」
頭を下げたまま小さく舌を出してレクティファールを見上げるその姿に、レクティファールはくくっと喉を鳴らして笑った。
彼も威儀を正し、名乗り返す。
「丁寧なお名乗り恐悦至極。私の名はレクティファール。一切の肩書きもないこの身なれど、あなたの名を知ったのはまさに天の与えた大いなる恵み。今後ともよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、皇国の英雄になられる方に名を憶えてもらって嬉しいわ」
そう言って笑い合う二人。
その姿は、単なる友人同士のじゃれ合いにしか見えなかった。
それが幸福であるかどうかは別にして――――
◇ ◇ ◇
大層な肩書きなど必要としない相手。
彼女は始めてそんな相手を得た。
それが彼女の運命の始まりであり、同時に彼らの人生に於いて決して忘れられない戦いの始まりでもあった。
ときに皇国歴二〇〇九年。
秋も間近に迫る頃だった。
◇ ◇ ◇
自らの称号である『白龍公』の名を使い、始原貴族軍側の主立った将に書簡を送ってからしばし、彼は瞑目したまま己の脳裏で皇国の現状を分析していた。
すなわち、本来国土を防衛するべき国軍が政治的混乱によって動くことが出来ず、更に国家の藩屏として録を食んでいた筈の貴族の一部がそれを支援した結果、皇都の鼻先まで他国の軍隊に攻め込まれてしまったという現実についてであった。
確かに首都の眼前まで他国の軍に攻め込まれたとはいえ、〈アルトデステ二ア〉国軍である皇国三軍そのものが敗退した訳ではないから、皇国そのものが軍事的敗北を喫したとは言い難い。皇王の支持貴族の軍隊は確かに連合軍に鎧袖一触粉砕されたが、逆徒と化した貴族の軍勢など皇国軍全体と比較すれば、その総兵力一割にも満たない寡兵でしかなかった。
それに支持貴族軍の主力は、各支持貴族の所領から強制的に徴兵された農民兵と、金で雇われた傭兵である。
専門の教育を受け、日々訓練に励んでいる職業軍人がその大多数を占める皇国軍とは、たとえ同じ数であってもその戦闘能力に大きな差がある筈だ。確かに傭兵の中には腕の立つ者も多く、皇国軍には長期契約を結んだ傭兵たちで編成された外人部隊も幾つか存在する。彼らの能力は皇国軍でも高く評価されており、同じ階級の皇国軍人と大差ない待遇を与えられていた。
しかし如何に精強な彼らとて、肩を並べて戦うのがつい最近まで鍬を握って畑を耕していた農民では、総ての力を出し切るのは難しい。それどころか信用出来ない味方を与えられたことで士気が下がったことも容易に察することが出来る。
つまり、支持貴族軍は己の面目を保つために数だけは揃えようとして、誰の目にも明らかな失敗を犯してしまったのだ。軍で正式な高級士官教育を受けた者や、常日頃から私設軍を常備している一部の貴族ならば、絶対に犯さない類の間違いだった。
「――愚かな連中だ」
全く度し難い。
カールは執務机の引き出しに入れておいた蒸留酒と硝子杯を取り出そうとして、しかし娘に執務中の飲酒を止めるようきつく言い含められていたことを思い出し、不機嫌そうに鼻を鳴らした。約束を破ったら二度と「父」とは呼ばないと言われれば、娘を溺愛するカールは従うしかない。
「くそ」
八つ当たりだと自覚しながら、彼は自分の中の苛立ちを皇都に篭る馬鹿共に向ける。貴族的と言ってしまえばそれまでだが、カールは貴族という人種に些か理想を求め過ぎるきらいがあった。大権を甘受するには重責を果たさなくてはならないという考えだ。
皇国二〇〇〇年の歴史をこのような形で危機に晒すとは、民と国を護持する貴族には不相応な連中だ。たとえこの戦生き残っても皇国の益にはなるまい。ならばいっそのこと――――この時点で、彼はすでに支持貴族たちの処遇を決めていた。
皇王家を見限り、独立を宣言した三公爵も似たような考えを持っているということは、つい最近自分の元に届いた書簡から容易に読み取れた。いつか誰かの目に晒されることを警戒して直接的な表現は避けていたが、カールがその真意を読み取ることに少しの問題もなかった。
そして先ほど送った始原貴族への書。これで支持貴族の運命は決まったようなものだ。
カールの送ったものと同じような文面の書簡が残る三公爵からも届けば、始原貴族たちは内心はともかく表向きはカールたち貴族議会の重鎮の決定に従うだろう。四公爵にはそれだけの影響力があり、また、その影響力を維持するに足る軍事力を持っている。
この戦、四公爵は一兵たりとて出していない。
それはつまり、貴族軍で最も精強と名高い公爵軍が、無傷のまま四つ残っているということになる。
他国正規軍を相手取って一切の不足無し、必要とあれば三日以内に皇都に向けて進発出来る準備を整えているカールの軍隊は、この戦争に一石を投じる存在だった。
(だが、連合軍に更なる増援があれば、一層状況は悪くなり、我が軍を含めた四公爵軍を差し向けても意味が無くなってしまう)
四公爵領から皇都まではいずれも歩兵の行軍速度で五日、騎兵でも二日は掛かってしまう。
龍族などの空に生きる者たちならばどれだけ飛行速度の遅い者でも一日と掛からず皇都に辿り着くことも出来るだろうが、龍公爵の軍とはいえ、彼らを擁する部隊は決して多くない。万単位の軍勢を相手取るのは荷が勝つというものだ。
唯一の救いは、連合軍の増派に必要な大義名分が何処にもないことだろうか。
友好国を混乱に陥れている独裁者を討つという戦略目標が自国民に支持され、他国の領土に侵攻することが出来た連合軍だったが、目標の喪失という形でその目的を果たすことは既に不可能となった。そうなれば即刻撤退するのが筋というものだが、連合軍の今次遠征に掛かった戦費は、連合国の国内総生産の五分を超えるのではないかという試算が出ている。
元々が複数の国家の集合体で、それ故に地方政府がある程度の力を持つ〈アルストロメリア民主連邦〉と、似たような国家体系の周辺国によって編成された連合軍である、その戦費負担に関しては色々揉めたらしい。
単に費用だけ出して兵を送らなかった国もあれば、義勇兵という形で兵士のみ送り付けた国もある。
そして、結局は限りのある同じ木の実を取り合っているのだから揉めない訳がない。
〈アルストロメリア民主連邦〉は皇国との経済的な繋がりを強化した上で賠償金を手に入れる予定だった。しかし、皇国が示した遺族補償金という名の賠償金は、連合軍の戦費負担を補填するには全く足りない金額だった。第一、遺族たちに支払う補償金を国家の予算として分捕る訳にもいかない。
結果、侵攻を主導した〈アルストロメリア民主連邦〉が、本来得られた筈のものも得られないと知った諸国から突き上げを受けていることは想像に難くない。カールはそこに連合軍撤兵の糸口を見付けようとしているが、外務院の知己から得た情報では、連邦政府と軍部が今後の方針で対立していて交渉どころではないらしい。
何としても皇国から譲歩を引き出したい連邦政府と、兵力が消耗する前に早期撤退したい軍部。
戦費による経済情勢の悪化に伴う民衆からの怨嗟に怯えて自己保身に走る政治家と、多大な予算と長い時間を掛けて育てた兵士をくだらない政治の犠牲にしたくない軍の対立とも言える。
皇国内でも、連合軍と裏取引した始原貴族に対する不満があり、同時に支持貴族に対する断罪を叫ぶ過激な一派も貴族議会や国民議会には存在する。現在国民議会で少数派の彼らが各派閥の支持を集めて多数派になるかどうかは今後の動静次第だが、このまま睨み合いが続くようならそれも現実味を帯びてくる。そうなれば、国権の発動に伴う全面戦争の可能性すら考えられるだろう。
現在皇国軍は最高司令官たる皇王不在を理由に部隊を動かしていないが、現実は、皇王によってその座に据えられた上層部が、今や完全に敵に回った皇国三軍の統率を放棄して自分の身を守ることに躍起になっているからだとカールは知っている。
だが、国軍が動かないのはこの状況では好都合だった。
この戦争、皇国は正規軍が動いていないからこそ、連合国に余計な貸しを作らずに済んでいる。
連合軍に被害が出てもそれを行ったのは貴族の私兵である。その補償を行うのはその貴族であり、皇国は貴族を抑えられなかった責任は負うが、その貴族を罰するという形で正当性は主張出来るのだ。無論、主張が可能であるだけであって当然諸外国が納得するとは考えられないし、他国に対する責任を負わないという愚行は亡国の行いである。
現実的に考えれば、とても実行できる手段ではない。
だがそれでも、今回の戦争は国家間の同意に基づいて連合軍が皇国領内に侵攻したわけではない。
所詮主権のない始原貴族が勝手に約したことに則って行われた侵攻であり、皇国は、その気になれば連合国を領土侵犯で追求することも不可能ではないのだ。もっとも、連合国に対する追求と同時に皇国は始原貴族の裏切りという事実を認めなくてはならないが、貴族は貴族であって皇王ではない。代わりは居るのである。
始原貴族は名であって、爵位ではない。
始原貴族の家が取り潰されれば、その名を継ぐ別の貴族が生まれるだけのこと。
しかし、同じようなことが無駄に繰り返されるのなら、総ては無意味。
「――やはり、我ら貴族も変わらねばならん」
二〇〇〇年の歴史は決して失ってはならぬ誇り。
しかし、ただ古いだけのものはいつか腐り朽ちる。
歴史を抱きながらも変わっていくことこそ、真に歴史を作るということだとカールは考えていた。
幸い、自分以外の三公爵も同じ考えを抱き始めている。カールに匹敵する権力を持つ彼らが悪しき権力者の因習に囚われていないと分かっただけでも今後の改革に弾みがつくというものだ。
白龍リンドヴルム。
黒龍ニーズヘッグ。
紅龍スヴァローグ。
蒼龍レヴィアタン。
龍族故に矜持が高く、人間たちが望んで止まない権力や富というものに対する執着が薄いからこそ、彼らは友人でもあり主人でもあった初代皇王によって皇国を守る盾として今の領地と地位を与えられた。
初代皇王は嘗て人間であったことで、自分たち短命の種族が心に飼っている『欲』という化け物を怖れていた。
自分たちを信じて共に戦ってくれた皇国の民を守るために、己が従えた四頭の龍をその守護者としたのだ。
「ここで皇国を失っては建国皇陛下に申し訳ない」
そして、皇国を守れという主人の命に背くことになる。
龍が、その名と存在に賭して誓った約定を違えるなどあってはならないこと。
いくら代替わりしようとも、〈白龍のリンドヴルム〉の名と存在が生きる限り、約定もまた生きているのである。
カールは他の総てを捨ててでも皇国を守るという誓いを己に課した。
そして、その手段は彼の手元にある。まるで運命に導かれたように、〈白〉が龍の巣に落ちてきた。
「〈白〉の若者よ、怨むなら怨むが良い。儂が死して冥界に居るお前の膝下に傅いたとき、儂は総てをお前に捧げ罪を償おう。だが今は、その命皇国の礎とさせてもらう」
カールは自分の執務室から見える庭の長椅子に、銀の髪と白の髪を見付けていた。
彼自身が遠い日に経験した歳の離れた友との語らい。今、自分の娘が同じ経験をしていると思うと、寂しさと同時に嬉しさを覚えた。
そういえば、あの友も――――
「今の奴と同じように、笑っていたな」
すでにこの世界ではない何処かの世界に旅立った友を想い、カールはゆっくりと目を閉じた。
◇ ◇ ◇
ゆっくりゆっくりと時間が過ぎていく。
レクティファールに短い生を遂げさせようとするメリエラと、その主人の意思を最優先するウィリィア。
二人と共に日々を過ごし、レクティファールはかつて得られなかった安息を実感する。
確実な死に向かう猶予期間であるとしても、それは三人にとって掛け替えのない時間だった。
盤上遊戯に興じ、近くの森を散策し、秋の実りを眺めた。
レクティファールは自らに迫る死を実感出来ないでいたが、メリエラは時折暗い表情を浮かべていたし、ウィリィアはそんな主人の様子に一抹の不安を抱いていた。
水面上は穏やかに、水面下ではもがくように、三者三様の気持ちを抱いたままに日々は移ろう。
大きな歪みを抱えたまま。
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