ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
第一章:皇国動乱編
第一章ダイジェスト:プロローグ~第九話 後編
 カールの眉間に深い皺が刻み込まれる光景を、報告を携えてきた部下は背筋が凍る思いで見ていた。

 自らの主人が古代史に出てくるような傍若無人な龍族でないことは知っているが、それでも主人の怒りが彼にとっての不幸であることに違いはない。普通の人間に、龍族の発する気迫は最早毒である。

「――西方の国境線に連合軍の大部隊が集結。これは冗談などではないんだな?」

「も、勿論です!」

 こんな命懸けの冗談は言わない。

 悪名高き龍族の逆鱗に触れるような真似を、その部下である自分がする筈がなかった。

「総数は六〇〇〇〇を超え、尚も続々と連合各国より増援が送られてきているとの情報もあります。主力が連邦ではなく〈シェルミア共和国〉だという情報もありますが、これはまだ裏付けが取れていません」

 各国の諜報機関とて、防諜には多大な労力と予算を注ぎ込んでいる。そう簡単に情報が引き出せるとはカールも考えていない。だがそれでも、少しでも情報を得たいと思うのは彼の慎重な性格故だった。

 しかし、無い物ねだりをするような性格でもない。彼はこの場でこれ以上の情報を得ることを諦めた。

「――まあいい、北方国境線に帝国の軍勢が集結との報はどうなった?」

「帝国で征南軍――我が国に対する侵略軍が新たに編成されたのは確実です。帝王の署名入りの文書が北方諸国に届けられたようで、諸国の動揺も大きいかと」

「ふん、我らを魔物と断じて軍を発する。帝国の国是とやらも面倒なことだ」

 皇国の北方に広がる凍土地帯を国土とするのが、この大陸を嘗て支配していた旧アルマダ帝国の後継を自称する新生アルマダ帝国だった。

 もちろんアルマダ帝国の名を名乗るだけの国力はあるが、皇国や連邦と比較して圧倒的という訳でもない。皇国と連邦を合わせれば、帝国の国力に食らいつくことは出来る。

 しかしその豊富な地下資源と、魔法技能者が少ないという国内事情故に発達した科学技術は侮れない。

 帝国は、皇国や連邦よりも遙かに多い兵士の数と優れた武器の性能でその軍事力を支えていた。

 しかし、帝国には他国にはない宿痾とも言える問題がある。

 この国は建国時より人間種至上主義なのだ。

 辛うじて亜人族の一部が人間と同じように扱われているが、魔族や龍族、獣人族などの人間族以外の種族は国民として認められない。それどころか旧帝国崩壊の原因となった害悪だと国の公文書で明言しているのである。つまり、彼らにとってカールたち皇国の民は、国家として討つべき害獣。

 今に至るまでも帝国とまともな国交を結べていない理由は、ここにあった。

「あれだけ散々痛めつけられてもまだ、我々が黙って征伐されるだけの獣と思っているのか、あの連中は」

 他国との緊張状態にあるだけあって、皇国の北方国境警備軍は皇国軍の精鋭たちが集まっている地方軍だ。貴族軍も優秀な人材を集めているらしく、そのため、陸上に脅威らしい脅威がなく、南洋海上輸送路を警備している海軍が主力を担う南方方面の陸軍との練度の違いは思わず笑ってしまうほど。

 東方も海しかないために海軍が主力になってはいるが、海を挟んで〈イズモ神州連合〉と国境を接しているため、それなりの部隊が揃っていた。

 ともあれ、北方の皇国軍が帝国の侵攻を許すことはない。事実、今までも何度か国境付近で戦闘が起こっているが、これまで一度たりとも皇国の国土を侵されたことはなかった。

 皇王不在の時期を狙ったのだろうが、このままなら今までと同じように国境付近で迎撃して撃破するだけだ。

「しかし、万が一ということも考えられる。念のため北方の情報量も増やせ」

「は」

 部下が頭を下げて退出するのを見送ったカールは、そのまま椅子の背もたれに身体を預けて目を閉じた。

 皇国を取り巻く情勢は依然予断を許さないが、あの〈白〉の若者を連合側に引き渡せれば問題のほとんどは解決する。新たな皇王の即位まで時間が空くだろうが、内憂を駆逐できればそれくらいの時間は稼ぐことが出来る。

(――そろそろ、あの若者に挨拶をしなくてはな……)

 今までは娘の気持ちを慮って敢えて〈白〉に接触してこなかったカールだが、死を強要するという立場上何の挨拶もしないという訳にはいかない。白龍公は礼儀知らずと思われたまま死なれては、それこそ公家の恥だ。

 最後の望みを聞いてやるというのも悪くない。

 娘がすでになんらかの願いを叶えているかもしれないが、娘には出来なくても自分には出来ることがあるだろう。

 廟代わりに城でも建てるという手もあるな――カールはそんなことを考えながら、思考の海に沈んでいった。


         ◇ ◇ ◇


 それから二日後。

 白龍宮に衝撃が走る。

 「正体不明の騎兵部隊、連合軍陣地を急襲」

 連合軍はそれを皇国側からの攻撃と判断し、始原貴族軍に反撃を開始する。

 カールは執務中、慌てて走り込んできた部下からその報を聞いた。

 与えられた衝撃に耐えることしばし、彼はすぐに何人かの部下に指示を出すと、〈白〉の青年の部屋へと足を向けた。

 彼には、最早取るべき手段は一つしか残されていなかった。


         ◇ ◇ ◇


 黒の第二月二一日の始原貴族軍首脳会議は紛糾していた。

 自軍の一隊と思わしき騎兵部隊が、連合軍に対して誰が見ても明らかな先制攻撃を仕掛けたからだ。

 連合軍は一気に緊張を高めており、今この瞬間に皇都や始原貴族軍に対して攻撃を始めても不思議ではないほど。いや、すでに一部の部隊が自衛のために始原貴族軍に対して攻撃を仕掛けているという情報もあった。

 始原貴族軍は、辛うじて自軍の反撃を抑えることで事態の泥沼化を防いでいた。

 そんな現実を見て、「あの部隊は何処の所属だ」「指揮官は誰だ」と、最早貴族としての対面など総てをかなぐり捨てて怒声を上げる出席者たち。

 彼らが集まった天幕は、始原貴族軍本陣の中でもっとも喧しい場所だった。

「何処の所属かまだ分からんのか!? 連合軍からはすでに状況の説明と謝罪、容疑者の引き渡しを求める使者が何度も訪れているんだぞ! 今のような散発的な攻撃ではなく連合軍総てが攻撃に転じれば、我らとて黙ってやられる訳にはいかん!」

 天幕内の長机に座る貴族たち、その中でもっとも上座に座っていた一人の男が、立ち上がりながら大吼した。

 始原貴族軍の主立った諸将の中で、もっとも武に優れていると言われているエルベンハイト辺境伯、ミッドガルド侯アルブレヒト・フォン・ヴィーヴルだ。

 巨人族特有の銅色の短い髪と熊のような身体に角張った顔、白毛交じりの眉は太く、濃い髭を蓄えたその姿は、皇国始原貴族の一つであるミッドガルド侯と言うよりも、皇国内の山間部に出没する山賊の親分と言った方が人々の納得を得られるだろう。

 領地を持たない下級貴族の次男として生まれた彼は、十五歳で皇国軍の門を叩きその後二〇〇年間皇国軍の将として勤め上げた。長命な種族が大半を占める皇国にあっても、二〇〇年という経験年数を持つ者はそうそう居ない。軍の退役定年は短命な種族に合わせてあるので、彼のように一〇〇年を超える勤務年数を持つものは全体的に見れば少ない。

 しかも、その二〇〇年間はほとんどが戦場にいた時間だという。

 その戦場で幾度も武勲を挙げ、断絶したヴィーヴル家の名を与えられ、当時の皇王からも幾度か直接言葉を賜るという栄誉に浴した彼が、その功績によって始原貴族の一人に列せられたことは、ある意味では当然のことかもしれない。

 彼が今佩いている大剣も皇王から恩賞として下賜されたものだ。本来なら家宝として屋敷に飾るような剣を戦場に持ってくる剛胆さがあってこそ、今の地位にいるのだろう。

 この場でもっとも軍事に明るい彼は、間違いなく始原貴族軍を束ねている者の一人と言えた。

「――現在調査中だと何度も言わせるなミッドガルド侯。少なくとも書類上は、あのとき攻撃を仕掛けられるような位置にいた騎兵部隊は存在しない。しかも連中、魔導師を連れていたというではないか。騎魔混合、そんな部隊は我が軍に存在しない筈だ」

 ミッドガルド侯の正面に座る金髪の女将が、腕を組んだまま告げる。

 妖精種らしい色素の薄い肌、肩口で切り揃えられた金髪は輝きこそ失っているが、その仄かな色合いは彼女に武人としての風格を与えていた。

 アストリア侯タチアナ・リアト・フォン・ハルゼ子爵。

 始原貴族アストリアの名を持つ彼女は、現黒龍公の後輩にあたり、かつて皇国情報院に奉職していた人物だった。

 国内外の情報の管理を担当する情報院で経歴を全うした彼女は、退職後亡き夫の家であるハルゼ子爵家を継いで領地の経営を行っていたが、その後しばらくして、請われる形で皇王の私的諮問機関の一員となった。

 その直後に発生した帝国との大規模な紛争に和平交渉の使者として派遣され、その類稀な交渉能力で捕虜全員の奪還を果たした上、交渉に当たった帝国の使者に頭を下げさせるという偉業を成し遂げた。

 そのとき、交渉で彼女が使ったのはたった数枚の書面であったというから、その能力は皇国どころか大陸で随一と言っても過言ではない。

 書面の内容は明らかにされていないが、彼女が独自の繋がりを通じて手に入れた帝国内の機密情報だったのではと言われている。

 実際に内容を知っているのは彼女とその腹心だった男性、後は彼女から報告を受けた先代皇王だけだ。

「アストリア殿……それは分かっているが……!」

「なればこの状況を打開する方に能力を傾けられよ。貴殿が知りたいことは、私が責任を持って確かめる。――それでは不服か?」

 ミッドガルド侯の呻きにアストリア侯は酷く冷淡に答える。それでも同じ始原貴族として長い付き合いのあるミッドガルド侯に、アストリア侯に対する敵意が芽生えることはなかった。

 少し付き合えば、アストリア侯の物言いが天下万人総てに等しいものだと分かるからだ。皇王相手の時ですら、公式の場以外では同じ口調であるとミッドガルド侯は先代皇王本人から聞いて知っていた。

 そして、アストリア侯と自分の皇国に対する愛情に差がないことも知っている。

「――相分かった。アストリア殿の言を信じよう」

「感謝する」

 軽く目を伏せて謝意を示すアストリア侯。

 ミッドガルド侯はそんな同輩の態度に苦笑しながら、椅子にどっかりと座った。

「問題の部隊の調査はアストリア侯とその配下の者に託すとして、今後の我らの方針についてはここで大凡の同意を得たい」

 連合軍はこのとき、始原貴族軍に対して謝罪と容疑者の引き渡しを要求していた。それが受け入れられない場合は本国と連携を取った上で皇国に対して宣戦を布告するとも。

 始原貴族たちには、すでに連合軍の増援部隊が西方の国境線を越えたという情報が与えられていた。その数およそ六〇〇〇〇。帝国に対するために北部に軍の部隊を残していることを考えれば、この数は連合軍の外征戦力の半数に等しい。

 これまでは友邦である皇国に対する義理を果たすため軍を発しなかった国々も、この連合軍に対する始原貴族軍の攻撃には非難の声を上げている。このまま皇国が有効な手を打てなければ、これらの国も皇国に軍を進めるだろう。

 過去の皇国であれば、このような小国の反抗を許しはしなかっただろう。だが、今の皇国にこの連合軍を相手にする余力はないと言っていい。国が割れ、首都を賊徒に占領され、さらに専制君主制を標榜する国家でありながらその象徴たる国主が存在しない。大陸でも有数の大国である皇国がここまで侮られている理由は、概ねそれで説明で出来る。

 だが、今まで皇国の属国に等しい扱いを受けてきた小国が、ここに至り宗主国に牙を剥いたのには別の理由がある。

 彼ら小国は、この大国が割拠する大陸に於いて何処かの大国の庇護下になければ国を保てないのだ。それが何れの国家であるかは問題ではない、自分たちを守り、その代償として自分たちを支配するだけの力があるかどうかが問題だった。

 そして皇国は、この条件から外れつつある。

 国内の治安悪化に伴い経済活動が鈍化し、国の力の象徴である軍事力も皇王不在の影響で分裂している。さらには他の大国から侵略を受けており、この事変を切っ掛けとして皇国そのものが失われる可能性すら出てきた。こんな状況では親皇国を声高に叫ぶなど自殺行為である。

 ならば、今までの義理を捨てて新しい宗主を戴こうと考えても不思議ではない。

 国家間に於いて、このような行動は多少非難されることこそあれ、決して行ってはならない行為ではない。このまま皇国が消え、連邦や帝国が伸長するようなことになれば、彼らは滅びるしかないのだから。

「〈マイヤー大公国〉、〈ブラッドレー公国〉、自由都市〈ルルイエ〉、すでにこれらの国は我が皇国に向けて軍を発した。〈ザクセン〉や〈アルマイア〉も軍の招集は終わっていよう。我らには時間がない、だが、容疑者が確保できていない現状ではその引き渡しは不可能。事実関係が明らかになっていない以上、謝罪も不可だ」

 そもそも皇国が攻撃を行ったということ自体が欺瞞である可能性もある。連合か、或いは帝国か、それ以外のどの国が黒幕であっても、この一件を利用して皇国の頭を抑えに掛かるはずだ。

 そうなれば、皇国の歴史は終わる。

「ことは皇国の存亡に関わる。――そうだな、エイメルシア侯……!」

 ミッドガルド侯が静かな怒気と共に長机の中程に座る一人の翁を睨んだ。

 出席者たちはその視線を追うように、エイメルシア侯と呼ばれた老人に目を向けた。

「――そうでしょうな」

 静かに頷く老人。

 ほとんど青みがかった白髪に支配された頭髪は、その老人の積み重ねてきた人生を物語っていた。短命な人間種であれ、それ以外の長命種であれ、老人となったときの姿は変わらない。その過程が異なるだけだ。

 オイゲン辺境伯、エイメルシア侯ハイデル・ツー・リッテンハイム。

 この場にいる皇国始原貴族の最後の一人にして、今回の連合軍侵攻の原因となった人物だった。

「貴殿が連合軍と取引を行い皇国に招き入れたこと、この場にいる全員が知っている。四龍公もご存じだろう」

「――それが自然ですな」

 エイメルシア侯は周囲から向けられる憎悪にも等しい悪意を一身に受けながらも、その顔色は変わらない。人間種としては高齢の七〇歳を越え、その人生の大半を皇国の政に捧げてきた男だ。この程度の敵意などそよ風のようなものだった。

「なればどうする!? 皇王陛下がお隠れあそばされても尚連合軍は残り続け、今こうして皇国の危機を招いた。その責は重いぞ……!?」

 ミッドガルド侯にとって、エイメルシア侯は戦友にも等しい存在だった。

 共に皇国を支えてきた朋友である筈だった。

 だからこそ、今回の一件はミッドガルド侯にとって許し難い裏切りのように感じられた。

 エイメルシア侯が皇国を売るような真似をする筈がないとミッドガルド侯は今でも信じている。しかし、現実として皇国に危機が訪れた今、エイメルシア侯の責任は重大だった。

「それがしの命一つで解決せよとでも仰られるか?」
 エイメルシア侯とてミッドガルド侯の言いたいことは分かる。

 しかし、本来なら自分の命一つで片付く問題だったのだ。だが、皇国の民を苦しめたあの偽皇の死が総てを狂わせた。死んでも尚、皇国に災厄をもたらすか――――彼は心の奥底で皇王に対する憤怒を滾らせていた。

 それが逆恨みであることは理解している。老い先短いこの身で皇国の未来を贖えるならと、連合国と取引した自分に責任がないとは言えない。

 だが、すでにエイメルシア侯の命一つでどうこうなる問題ではなくなってしまった。

「出来るのならば貴殿はすでにそれを行っているだろう。今ここに貴殿が居るということは、最早貴殿にこの争乱を解決する手段はないということだ。違うか?」

 今まで黙っていたアストリア侯が目を閉じたまま問う。

「然り。なれば、この戦の後にこの命御国の礎として捧げることで、諸兄らと共に戦うことを許して欲しい」

「それが貴殿の責任の取り方と言うのなら、それもよろしかろう。私はそう思うが、諸君らは如何に?」

 アストリア侯の問い掛けに、長机に座る貴族たちが静かに首肯した。

 此度の責任は免れぬ、されどエイメルシア侯が今まで挙げた勲功を鑑みれば、皇国に対する最後の奉公を認めることくらいは許されるだろう、とその場にいた者たちは考えたのだった。

 エイメルシア侯は胞輩たちの無言の許しに瞼を振るわせながら深く頷き、次に顔を上げたときには鋭い眼光で居並ぶ諸将を見渡した。

「――それがしの最大の過ちは、諸兄ら皇国の友人を信じられなかったことだろう。諸兄らを信じ、皇王陛下に諫言することを厭わなければ今日の問題はなかった。すでに状況は最悪と言って過言ではない。それでもここにお集まりの諸兄らは、皇国の為に命捧げる覚悟がおありか?」

「貴殿に問われるまでもない! 先代皇王の御代より御国のためにこの身を捧げてきた。この国難に背を向けるような真似をするものか!」

 エイメルシア侯の言葉に答えたのは、やはりミッドガルド侯だった。

 立ち上がって胸を張り、破鐘のような声で天幕に集った貴族たちに己の決意を叫んだ。

 それに引き摺られる形で出席者たちから同意の声が上がり、最後に一人残ったアストリア侯がゆっくりと組んでいた腕を解いた。そしてゆっくりと立ち上がり、今まで閉じられていた切れ長の目を鋭く輝かせて声を上げた。

「――諸兄らの決意、しかとお聞きした。しからば、このまま今後の方針について意見を纏めたい。よろしいか?」

 次々と挙がる同意の声。

 彼女はその声に満足げに頷くと、ミッドガルド侯と視線を交わして自らの方針案を話し始めた。

 第一に、これ以上の言い掛かりを避けるためにも、連合軍の攻撃に対しては守勢を貫くこと。

 第二に、今回の問題の発端となった部隊の洗い出しを総ての貴族たちの軍で大々的に行うこと。

 第三に、皇都に籠もる反乱貴族に対しては逆徒の討伐という形を取ること。

 この三つが大方針として提示され、出席者たちに受け入れられた。

 特に第三の方針については、この戦争が皇国内の問題であると主張するために不可欠なものだった。

 今の時点では始原貴族軍が連合軍に攻撃を仕掛けたことが事実かどうかまだ分からない。それでも連合軍の増援が国境を越えたのは、皇国内に駐留する友軍と皇国国民の安全を確保するためだと発表されていた。

 正体不明の武力集団が跋扈しているとなれば、それは進軍の理由になるということだ。

 無論、このような論法が通るのも、皇国正規軍が機能不全に陥っているのが原因である。正規軍が機能を取り戻せば、連合軍の駐留を認める理由はなくなり、その撤兵を求めることが出来るはずだった。

 しかし、始原貴族たちの呼びかけにも皇国軍は動かない。

 本来皇国軍を統帥するべき皇王がいない上、三軍の統帥組織が皇国軍を動かすことを頑なに拒否しているからだ。
皇国軍が動けば連合軍は撤退し、賊徒とされた支持貴族とその協力者は、始原貴族と更迭されていた元の軍上層部によって法廷に引きずり出されて裁かれる。この期に及んで軍を動かさなかっただけでも十分に重罪だ、少なくとも自分たちの身の安全が保障されない限り、現在の軍上層部は軍を動かさない。

 先に崩御した皇王が何を思って彼らに軍を預けたか定かではないが、少なくとも、軍本来の役割を果たさせるだけの能力はなかったようだ。

 たった一人の男がこの国に与えた傷は、自分たちが思っているよりずっと深いのかもしれない――――三人の始原貴族は同じように考えたが、結局それに対する答えが出ることはなかった。

 各部隊の再編成と動揺する兵士たちへの対応、その他この混乱に乗じて軍規を乱そうとする不逞の輩に対する処分内容を定める。混乱しているのは始原貴族軍全体だと、この場に集まっている者たちは正しく理解していた。


         ◇ ◇ ◇


 始原貴族軍が連合軍の猛攻に耐える中、事態は大きく動き始める。

 多くの悲劇の渦中で、ひとりの青年が歴史の表舞台に立とうとしていた。


         ◇ ◇ ◇

 扉を叩く音に、レクティファールとメリエラは顔を見合わせた。

 ついでに扉の横に立っているウィリィアも驚いたような顔で扉を見詰めており、この部屋に客が来るということがどれだけの異常事態か容易に察することが出来る光景だ。

 しかし、いつまでも扉の前に客を立たせておくことは出来ない。

 メリエラはレクティファールが頷いたのを見ると、一言「どうぞ」と告げた。

 その言葉を受けてウィリィアが扉を開け、入ってきた人物を見て慌てて頭を下げた。

「父上……!」

 メリエラもまた、来客の正体を知って驚きの声を上げて立ち上がる。彼女の座っていた椅子が、くぐもった音を立てて倒れた。

 これまで彼女の父がこの部屋に訪れたことはなかった。その父親の態度がレクティファールに対しての『生け贄』という扱いを示していると、彼女はずっと思っていた。

 そして、レクティファールもまた同じように考えていた。

 白龍公は、自分を決して人とは扱わないだろうと。ここで何不自由ない生活を送らせているのは、単に自分たち皇国のために死に往く存在に対して最低限の礼儀を貫いているだけだと。

 そんな白龍公がここに訪れた理由に、レクティファールは心当たりがあった。

 すなわち、自分がこの世界での唯一の役目を果たすときが来たのだ。

 レクティファールは驚いて椅子を蹴倒したメリエラにちらと目を向けると、ゆっくりとした仕草で寝台から降り、立ち上がろうとした。

 その動きを慌てて止めたのはメリエラだった。病み上がりであることはカールも知っている。たとえ相手が誰であっても病人と知って訪ねてきた以上、寝台の上で応対しても失礼には当たらない。

 しかし、レクティファールは頭を振ってメリエラ耳だけに聞こえる声で囁いた。

「――私も男の一人な訳で、そして、男にはどんな時でも見栄を張らなくてはならない相手が居るのですよ」

 これもあなたたちを守るという約束の一環です――レクティファールの自嘲気味な声音に顔を歪め、メリエラはレクティファールに肩を貸した。ありがとう、というレクティファールの声に答えず、彼女は自らの父をきっと見据えた。

 これが、今彼女の出来る唯一の意思表示だった。カールの眉が、ぴくりと動く。

 レクティファールは、自らの前に立つ偉丈夫に対して真っ直ぐに立ち、ゆっくりと頭を下げた。

「――お初にお目にかかります、私はご息女に生命を救われた者、名をレクティファールと申します。白龍公、カール・フォン・リンドヴルム公爵とお見受けいたしますが」

「如何にも。儂がリンドヴルム公爵のカールだ」

 ただの人間と侮るような真似をカールはしなかった。

 だが、それだけだ。

 龍族が人間を相手にするとき、人間はその圧倒的な存在感の差に震えが止まらないという。

 それは本能的な恐怖と言っていいだろう。旧帝国時代よりもさらに昔、龍族が人間種と敵対していた頃、龍族とは人間にとって神に等しい存在だった。

 気紛れで殺されることもあった。

 人間の万の軍勢がたった一頭の龍に蹂躙されることもあった。

 しかし、レクティファールの中にはそのような歴史的背景をもつ恐怖はない。

 だが、それでも生物としての格の違いは本能的に理解できた。

 これは自分が抗って良い存在ではない、と彼の中の生物としての本能が訴えていた。

「――っ」

 汗が滲み、目に痛みが走った。

 レクティファールは、その痛みで自分がカールの前で顔を上げられずにいるということに気付いた。

 そして、カールはそんなレクティファールの態度を一切気に留めていない。

(取るに足らないとでも言いたいのか……?)

 確かに今の自分の態度を見ればそう思うだろう。

 死を目の前にして逃げ出さないよう、こうして心を抑え付けておこうということなのか――――レクティファールは辛うじて思い通りになる思考の中でそう思った。

 そして、それは大きく外れていないだろうとも思う。

(私の価値は死ぬことのみ、そう言いたいんだろうなこの人は……)

 怒りも憐憫もない。

 ただ、黙って自分を見据えているだけのカールの態度から、レクティファールはそんなことを悟った。そして、自分の隣に立っているメリエラと、カールの背後で自分を見ているウィリィアを目の動きだけで確認し、大きく息を吐いた。

 その音に、カールがぴくりと反応したのが分かった。

(別に、死にたくないとは言わない)

 どうせ一度死んだ身だ。

 たった二人の世界のために、死んでやる。

 そして人生で一度だけ、退かずに意地を通してやろうじゃないか。

 レクティファールは腹の底に力を入れ、ぐっと身体を起こした。

 目の前に立つ、カールの金色の瞳を真っ直ぐに見た。

 レクティファールの視線とカールの視線が互いを呑もうとせめぎ合った。

「命を救って頂いたこと、感謝の念に堪えません。しかし、ここに公がいらっしゃったということは、私はここから移動させられると考えてよろしいのですか?」

「――……」

 レクティファールの震え一つ無い声音に驚いたのは、メリエラとウィリィアだった。

 〈白〉である以外普通の人間と変わらないレクティファールが、齢一〇〇〇年を越える龍族のカールに怯え一つ無い声で問い掛けている。その事実は、二人にとって驚き以上の何かだった。

 衝撃だったと言ってもいい。

 今に至るまで、カールを目の前にした人間は大半がその言葉に震えながら頷くことしか出来なかった。

 数少ない例外の人間たちも、人間としては人生の半ばを越えた年齢の者たちだけだ。レクティファールのような若い人間がカールに怯えないなどということは、これまでになかった。

 いや、怯えていてもそれを態度に表さないだけなのだろう。だが、同じことの出来る人間がこの国にどれだけ居るのだ。

 二人は驚きに満ちた顔をレクティファールに向け、その成り行きを見守っていた。

「私の認識に間違いが?」

 黙り込んだままのカールに、レクティファールが重ねて問う。

 その言葉を聞いても尚カールはレクティファールを黙って見下ろしていたが、ふっと引き結んでいた唇を解くと、小さく口の端を上げた。

 カールの両親と亡き二人の細君以外の者では気付けない、小さな笑みだった。

 それは娘であるメリエラでさえ気付かぬ笑み。

 人間という種の大多数を保護するべき民としか見てこなかったカールにとって、レクティファールの態度は新鮮で、同時に痛快だった。

「――いや、正しい。貴卿の言う通りだ」

 カールがレクティファールに対して『貴卿』という、敬意を持った言葉で呼び掛けたことにメリエラとウィリィアは再び驚愕した。

 初対面であっても公爵としての態度を崩さず、相手を格下に見るカールには珍しいことだったからだ。死に往く者に対する敬意だけではない、別の何かを感じた。

「出発はいつですか」

 レクティファールはメリエラに目を向けながらカールに問うた。

 別れの挨拶は出来るのか、と聞いているのだ。

 そんな自分よりも娘を優先したレクティファールの態度に怒ることもなく、カールは首を振った。

「――悪いが、今すぐにでも出発したい。用意はこちらでする、ついてきてくれ」

「父上ッ!」

 レクティファールを促して退出しようとするカールに、メリエラだけが反発の声を上げた。

 ことの中心に居るレクティファールにはカールに反発する理由がない、ウィリィアは、たとえ反発する意志があっても立場上声を上げることは出来なかっただろう。

 そんな中で、彼女だけが自分の意志で声を上げることが出来た。

「せめて、明日まで待つことは出来ないのですか? 今から出発しても、すぐに野営することになります。なら……」

 確かに、今から出発してもすぐに日が暮れる。

 レクティファールに何かあっては困るのはカールの筈だ。

 しかし、彼女の父は、娘に対して苛立ち以外の感情が込められていない眼差しを向け、一言で斬り捨てた。

「余計な心配は要らん」

「な……」

 何も知らないお前は黙っていろという父の目に、メリエラは絶句した。

 このような態度は父らしくない。そこまで考えた彼女は、カールが焦っているということに思い至った。

 そうだ、父は焦っている。

 泰然自若を絵に描いたような父がここまで焦る事態、それは皇都戦線に異状があったということではないか……!

「ち、父上!」

 再び歩き始めたカールの背に、メリエラは追い縋るように呼び掛けた。

 立ち止まったカールは、今度こそその苛立ちを隠さずに娘を睨んだ。

「――ッ! お、お願いがあります……!」

 その眼光に圧倒されながらも、彼女は一人の友人のためにそれに抗った。

「わたしも共に、彼と共に連れて行って下さい!」

 共に行って何が出来る訳でもない。

 だが、ここで行かねば彼の友人を名乗ることが出来なくなると思った。

「父上! お願いいたします!」

 深々と頭を下げた娘を見て、カールはレクティファールに目を向けた。

 娘にこれほど想われているのだからさぞかし良い気分なのだろう――――そう思っていたカールだが、レクティファールの表情は硬かった。カールにはそれが少し意外で、少し腹立たしかった。

 カールの娘に対する愛情に翳りはない。むしろ、年を経ることにその愛情は深く、大きくなっていく。

 これまで男に興味を示さず、軍務と政務に掛かりきりだった娘の未来に不安を抱いたこともある。だが、そんな娘に安心していた。まだ、娘は自分のものだと思えたからだ。

 しかし、そんな幻想は崩れ始めたのかもしれない。

 そう考えると、娘が始めて執着した男が娘に対してどのような感情を抱いているのか、彼は酷く気になった。

 だから、こんな言葉が出たのだろう。

「――良いだろう。ついてくるといい。急いで準備を整えて屋上に来るように」

 そう言って部屋を出るカールに、娘の感謝の言葉が投げ掛けられた。


         ◇ ◇ ◇

 レクティファール、メリエラ、ウィリィア、そしてカールの向かった先、それは聖都〈セオトコス〉の中央、エルメイレ山の頂に聳える白亜の神殿。

 四界神殿の総本山であるミストラル=ヘルメ大神殿だった。

 そこでレクティファールは、四界神殿総大主教ミレイディア・キール・ルプスブルグ=ヘルメと出会う。

 彼女はレクティファールの来訪を喜び、彼に次代の皇王としての素質ありと認める。

 それは、過酷な運命への道標。

 二度と戻れない運命を突き付けられ、しかしレクティファールは頷いた。

「――恐ろしくても、不安でも、私は諦めても放棄はしません。諦めは今を捨てて別の道を探すこと、放棄はあらゆる未来を捨てることですから」


         ◇ ◇ ◇


 レクティファールが着替えている最中、カールたちは別室で茶を供されていた。

 茶菓子は神殿で採れた香草を使った焼き菓子で、食べれば甘さのあとにすっとした清涼感が広がる。

「――む、これは中々……」

「ウィリィア、これってうちでも作れるかなぁ」

 まるで姉妹のようにお茶を飲み、菓子を食べる二人。カールといえば持ち込んだ書類を確認しつつ、それに花押を書き入れる作業に没頭していた。レクティファールが〈白〉であると確認されたことで、彼の仕事量は一気に膨れ上がった。

 だが、カールはそれを精力的にこなしていた。彼の意識にどんな変化が現れたのか、メリエラとウィリィアはそれが手に取るように分かった。

 カールは嬉しいのだ。自分の愛する国が、民が、幸せになれる道が見付かったから。

 これまではレクティファールを生贄にするしか無かったが、皇都戦線で戦端が開かれてしまった今、レクティファールを次期皇王として立てた方が皇国の利は大きいし、何よりも皇王不在という最大の懸念事項を解消出来る。

 仮にレクティファールを差し出したとしても、それは次期皇王を失い、さらに連合との関係改善のために国の権益を削るだけになってしまう。次期皇王と国益を敵国に売る、それによって齎されるのは民の落胆と猜疑心だ。

 レクティファールが神殿に来るまでなら、連合からすれば、戦線が硬直したままならレクティファールという戦犯を捕らえたことで撤退の理由にすることは出来た。皇国側としても公的に次期皇王ではない〈白〉を失っても大きな痛手は無かった。その気になれば、レクティファールを今上皇王の行動の黒幕として処罰することも可能で、つまりは今上皇王の行動は〈白〉としての立場を悪用したレクティファールに言葉巧みに操られてのこと、今上皇王はその責任を感じて自害したとして皇王家に傷を付けない形で事態の収拾を図ることも可能だったかもしれない。

 しかし、ミラ平原で戦いが始まり、レクティファールが〈白〉として認められた今、この戦いを皇国の傷を一番浅く済む形で治めるには、皇太子の名の下で国を纏め、総てを今上皇王の責任にして国の体面を保ち、連合の戦意を完全に砕く。もっと正確に言えば、皇太子が民の支持を失った支持貴族を撃滅し、駐留する理由を失った連合軍を撤退させることが一番良い。

 それに、この神殿に向かう前に部下から齎された一つの情報。連合軍の一部に帝国側と通じて争いを大きくしようとした勢力が居たという情報を上手く使えば、連合軍に対しても優位に交渉を進めることが出来る。

 カールにとって、謀略陰謀は大いに望むところだ。それでことが上手く行くのなら、自分が泥を被るくらいどうということはない。これまでの苦痛に満ちた日々に較べれば、それは薄汚くも楽園に思えるだろう。


         ◇ ◇ ◇


 巫女姫リリシア。

 四界神殿の実務の最高責任者が総大主教なら、巫女姫は四界神殿の象徴。

 次期皇王と〈皇剣〉の間を取り持ち、その継承を支える存在。

 それだけを求められる存在。


         ◇ ◇ ◇


 ぱちぱちぱちと、小さな拍手が聞こえてきた。

 その音に釣られて視線を巡らせた五人のその先に、ミレイディアとは違う意匠の長衣を着た少女が居た。

 年の頃は一四、五。儚いという印象を見る者に与える薄絹重ねの衣と、床に流れるほどの長さを持つ、色素の薄い翡翠の髪。その瞳は閉じられており、しかし顔には笑顔があった。

「――……」

 何度か口を開けては閉じる。

 明らかに言葉を発したと分かるその動きは、一つの音も奏でることはなかった。

 しかし、ミレイディアにはその声が聞こえていたらしい。

「ああそうだよリリシア、こいつが新しい〈白〉だ」

 ミレイディアがレクティファールの両肩に手を置いて、少女の前に押し出す。

 レクティファールは少しだけ逡巡したが、ぎこちない笑みを浮かべて会釈することは何とか出来た。

「白龍公たちは知ってるね。四界神殿の巫女姫リリシア。あたしの妹だよ」

「――……」

 裾を持ち上げて一礼。

 楚々としたその仕草に、レクティファールはほうと声を漏らした。

「巫女姫は結婚するまで名前以外の呼び名を持たないから、リリシアって呼んであげて。あと、気付いていると思うけど、この子は巫女姫の『お役目」で喋ることと見ることが出来ない。でも、周囲の状況は感覚で分かるらしいから、見えている人間と同じ扱いで大丈夫だよ」

 巫女姫の空間認識能力は常人の比ではないという。

 それが『お役目』に付随して与えられた特殊な能力であることは神殿内でも知られているが、詳しい理由は巫女姫本人とその相方となる者以外に明かされないため、ミレイディアも良くは知らないらしい。

「――……」

 レクティファールが自分を見ていると理解していたリリシア。

 口を開き、やはり音のない言葉を発した。

「――?」

 だが、聞こえない。

 リリシアもレクティファールの動きから自分の声が聞こえていないことを知ると、少しだけ表情を曇らせた。

 ミレイディアが慌ててレクティファールに通訳する。

「儀式の介添えをさせていただきます、って言ったんだよ」

「あ、ああ、そうでしたか……! こちらこそよろしくお願いします」

 レクティファールは慌ててリリシアに頭を下げる。

 リリシアは少しだけ苦いものが残った笑みで、それを受けた。

「そろそろ聞こえると思うんだけどねぇ……でも、相性の問題ってのもあるし……」

 ミレイディアがレクティファールの背後でぼそぼそと独りごちる。

 彼女の経験上、どちらかが接続を拒否していない限りは、念話が聞こえるようになるまではそう時間は掛からない。

 聞こえるようになって貰わないと儀式に支障が出る――――ミレイディアは儀式の時間をずらすことも考え始めた。

「――……」

「――あ」

 三度レクティファールに話し掛けたリリシア。

 また通訳しなくてはとミレイディアが口を開いた瞬間、レクティファールが呆けたような声を出した。

 一瞬訝しんだ彼女だが、すぐにその理由に思い至った。

 ようやくだ、ミレイディアはほっと溜息を吐いた。

「聞こえたのかい?」

 念のためにと、レクティファールに確認するミレイディア。

 レクティファールは、こくこくと頷いた。

「はっきりとは聞こえませんでしたが、体調はどうですかと聞かれたような……」

「――!」

 レクティファールの言葉にぱっとリリシアの表情が輝いた。

 どうやら正解だったらしい。

〈――良かった……ちゃんと聞こえるんですね……〉

「あ、今度ははっきり聞こえました」

 先ほどより明瞭に脳裏に届いた声。

 レクティファールは、少女の澄んだ声は、空気という媒介がなくとも十分に魅力的だと思った。

〈では、改めて名乗らせていただきます。四界神殿巫女姫、リリシアと申します〉

「どうもご丁寧に。自分は、今はレクティファールと」

〈存じ上げております。遠い遠い世界の方だと四界の方々からお聞きしました〉

 リリシアのその言葉を聞き、レクティファールは四界の主と呼ばれる者たちのことが気になった。

 どうやら異世界を含めた物ごとを一番知っているのは彼ららしい。

「猊下、お久しぶりでございます」

〈白龍公もご壮健そうで何よりです。されど此度の争乱、公もさぞお心を痛めておいででしょう〉

「いえ、猊下のご心痛に比ぶれば鱗を撫でられたようなものでございます」

 カールの挨拶にも巫女姫として完璧な返答を返すリリシア。

 その上品な物言いを聞き、レクティファールは思わずミレイディアを見てしまった。

 姉妹なのに――目がそう言っていた。

「――儀式中に手が滑っても良いってことなんだね? 真っ白小僧」

「いえ滅相もない」

 半眼になったミレイディアの威圧感に屈したレクティファール。あっさり撤退を開始した。

 情けないと思うなら思えばいい、怒った女性は怖いんだ。レクティファールは誰にともなくそう心の中で呟いた。

〈姉さん、レクティファール様苛めてるの?〉

「失礼なこと言うんじゃないよ、この若造に世の厳しさを教えてやってるんだ」

 呆れを多分に含んだ声を姉に向けるリリシアと、ふいと視線を逸らしてふて腐れるミレイディア。

 申し訳なさそうに自分を見るリリシアの優しさが心に染みた。だから、少しだけ見栄を張ることにする。

「お姉さんは私を心配して下さったのでしょう。良いお姉さんですよ」

〈そうですか……レクティファール様がそう仰るなら……〉

 渋々といった風ではあったが、リリシアはレクティファールの顔を立ててくれたらしい。そんな心遣いにもちょっとだけ涙が出そうになるレクティファールだった。


         ◇ ◇ ◇


 地下深くへと向かう階梯で、レクティファールは〈皇剣〉の歴史を知る。

 〈皇剣〉を知り、その秘密を守り続ける四界神殿典部。そこに属する神官が語る歴史を、レクティファールは黙って聴き続けた。

 初代皇王が旧帝国の切り札として開発されていた概念兵器を開発途中で奪い、それを完成させて〈皇剣〉と名付けたこと。

 同時期に製造された〈皇剣〉の兄弟機が暴走し、旧帝国の帝都とその周辺地域を丸ごと消滅させたこと。

 現在に至るまで概念兵器を完成させた国も組織も存在せず、〈皇剣〉だけが唯一稼働していること。

 その強大な力を制御するための儀式に耐えられず、皇太子となる前に生命を落とした者がいること。

 儀式を乗り越え、〈皇剣〉と一体化したとして、普通の生き物としての死は望めないこと。

 兵器として生きるしか、道はないこと。

 総てを聞き、レクティファールは薄暗い地下の階段で最後の選択をする。

 そこには、諦めることさえ諦めた決断があった。


◇ ◇ ◇


 地下深くにあるはずのその空間は、真っ白な光に満たされていた。

 光源を探して見上げた天井は距離感が掴み難いほど高く、軽く目眩がした。しかし、その天井の一部が光を発していることは分かった。

 よくよく見れば、天井を支える柱にも光源が取り付けられている。

 どういう原理で光を発しているのかは分からなかったが、直視することが難しいほどの明るさだった。

「――来たね」

 端から端までどれくらいの距離だろうと周囲を見回していたレクティファールの耳に、ミレイディアの声が届いた。

 反響を重ねて届いた声だったが、それでも声を発した人物が何処にいるかということは分かった。

 この広大な地下空間の中央。そこに複数の人影が見えたからだ。

 レクティファールはそちらに向けて歩き始めた。

「必要なことは聞いたかい?」

 人影たちの中心。

 単なる石とも違う、光沢のある何かで出来た床に描かれた精緻な魔法陣。その中央にミレイディアは居た。

 周囲にいるのはリリシアとベールで顔を隠した神官たち。

 神官たちはいずれも自らの身長を優に越える杖を持っており、全員同時にレクティファールに黙礼した。統一された衣裳を纏い、体型も似ているため酷く個性の薄い神官たちに少しだけ驚いたレクティファールだが、それを敢えて問おうとは思わなかった。

 その代わり、ミレイディアの問いに答える。

「典部神官殿にある程度は」

「聞いた上でここに居るなら、それで十分さ」

 ミレイディアは笑った。

 嬉しそうでありながら、同時に悲しそうな笑み。

 その表情に、レクティファールはミレイディアが総ての歴史的事実を知っているのだと悟る。

「今まさに戦争中だってのに、過去の戦争の罪過を聞かされるってのは嫌な気分だろうけどね。これも儀式の一環だと思ってくれると助かる」

「むしろ、この上なく判りやすい説明になったと思うことにしますよ」

「そうかい」

 苦笑。

 お互いに同じ表情を浮かべ、二人は少しだけ笑い合った。

 ミレイディアはレクティファールが総てを知って尚ここまで来たことに純粋な安堵を覚え、レクティファールはミレイディアという秘密の共有者を得ることに深い安心感を抱いた。

「二〇〇〇年の記録ってのは栄光や幸福だけじゃない。罪科も不幸も何もかも、誰の主観もなくただ記録されたもの」

 〈皇剣〉という無機物が無機質に、一片の抒情も無く記録していった代々の皇王の記録。

 記憶ではなく記録を選んだ初代が何を意図したか、代々の皇王はその答えを得ることが出来たのだろうか。それは神殿の総大主教が幾つもの代を経て尚、疑問に思っていることだ。

 もしかしたら、答えが得られるかもしれない。

 心の片隅でミレイディアは期待していた。

「受け継ぐだけじゃない。あんたもここに記録を残すことになるかもしれない」

 この青年がどんな記録を残すのか、それを受け継いだ次代の皇王が何を思うのか。興味は尽きない。

「どんな歴史書にも勝る事実。たとえそれがたった一人の見詰め続けた世界だとしても、それはこの国の記憶なんだ」

 道を誤らないようにという道標かもしれない。

 進む先は地獄であるという警告かもしれない。

 孤独こそ皇の真の友人であるという教えなのかもしれない。
 
唯一の記録、故に其を受け継ぐのは当代ただ一人。

「負けるんじゃないよレクティファール。この儀式が終われば、あんたは皇王の座という真の孤独と、〈皇剣〉という真の同胞を得るんだ。最初で最後の孤独な戦い、勝たなきゃ男が廃るってもんだ」

〈――姉さんの言うとおりです。わたしも儀式の一翼を担うことは出来ますが、レクティファール様ご自身がこの試練に打ち勝たなくては、結局わたしの存在など意味はありません〉

 リリシアは、その決して開かぬ瞳で白を纏う青年を見詰めた。

 きっとミレイディアと同じように強い意志を秘めた瞳があるのだろう――――儀式の中心たる青年はそう思い、その瞳を見てみたいと思った。

 多くの人は輝く宝珠に魅せられる。そして、同じく光輝の心にも惹かれるものだった。

 『欲望』と言うには浅く、『興味』と言うには深いその感情。

 自分には無い何かを求め、それを目の前にして湧き起こるもの。

 人は、或いはそれを『憧憬』と呼ぶのかもしれない。

「この子が巫女姫の役目を果たしてここから出られるか、これもあんた次第なんだ」

 巫女姫としての役目を果たすためにこれまでの人生を抛ってきた彼女に、レクティファールだけが新たな人生を与えられる。

 だが、リリシアが本当に望むのは新たな人生などではないのだろう。

〈姉さん、わたしは……姉さんと一緒に……〉

 そう、彼女は一人で神殿を出ることを望みはしない。

 離ればなれだった姉妹がこうもお互いを想い合っている。それは、供にいる時間や互いの抱く感情がその繋がり総てではないことの証拠ではないだろうか。

 ミレイディアは妹の頭を撫でると、優しげに微笑む。

「――リリシアが居なくなれば、あたしがここにいる理由も殆ど無くなるさ。お互い役目を果たしたら、どっか連れてって貰おうか。勿論、全部こいつ持ちでね」

 酷いな、そう思いながらも、いつかきっと実現させたいと願う。

 もしも実現できたらな、自分は自分を誇れるかもしれない。それはひどく楽しみだ。

「――そうなったとき、リリシアさんが望むならそうしましょうか」

 だから、約束しよう。

 小さな小さな約束を。

 あなたが微笑むのなら、それはきっと自分にとって幸福なことだから。

〈――わたしは……この神殿しか知りません。それでもよろしいのですか?〉

 困惑したように自分を見上げるリリシアに、レクティファールは笑って答えた。

 その柔らかな髪を撫でながら、頷いて。

「私も似たようなものだから、ミレイディアさんに色々案内してもらうとしましょうか……きっと楽しいですよ」

〈は、はい……! きっと!〉

 嬉しそうに笑うリリシアの姿に、ミレイディアも同じく嬉しそうな笑みを浮かべた。

 そしてそんな二人を見て、レクティファールも笑みを深める。

 これから命を懸ける青年の、心からの笑みだった。


         ◇ ◇ ◇


 立ち向かうは世界最強の兵器。

 嘗て大地を砕き、海を割り、天を穿った概念兵器。

 それはまだ目を覚まさず、ミレイディアの手にある。

 その眼前に立ち、ちっぽけな剣を握りしめるレクティファール。

 やがて始まる儀式。魔法陣の光に包まれ、レクティファールはミレイディアの振るう〈皇剣〉を受ける。

 幾度も幾度も、そのたびに〈皇剣〉は目覚め、レクティファールにその存在を誇示する。

 吹き荒れる風の中で、ミレイディアは〈皇剣〉の目覚めを確信した。

 彼女は躊躇いなく、目覚めた〈皇剣〉をレクティファールの右目に〈皇剣〉を突き立てた。

 魔法陣の外に弾き飛ばされるミレイディア。

 残されたのは、レクティファールとリリシアの二人のみ。



         ◇ ◇ ◇


(レクティファール様!)

 リリシアは柄を強く握り締め、〈皇剣〉をさらに深く突き刺す。

 それと同時に大きくなる叫び声に追い立てられるように、彼女は小さな身体でさらに刃を押し込んでいく。〈皇剣〉と候補者の合一が進まなければ、リリシアの預かる〈力〉とて意味を成さない。

 実際に身体の中に埋まっていくわけではないとはいえ、異物を挿入されることへの拒否反応が起きない訳ではない。

 融合率が一定の値を超えれば巫女姫の持つ力で〈皇剣〉を制御、安定化させることが出来るが、しかし、そこに至るまでの融合は候補者一人の手に掛かっていた。

〈レクティファール様! 頑張って下さい!〉

 聞こえているかも定かではない。

 それでも叫ばすにはいられなかった。

 あと少し、あと少しと〈皇剣〉を押し込み、溢れる血に顔を汚しながらリリシアは叫び続ける。

 あんなに優しく笑う人を、傷付けたくはない。

 だけど、この一度だけは自分が傷付いてでも成し遂げなくてはならない。

〈こんな儀式すぐに終わらせて一緒に出掛けましょうレクティファール様! 何も出来ないわたしですけど、お弁当ぐらい作れるようになります! あなたが隣に居てもいいと仰って下さるなら、いつまでもお支えします!〉

 どうしてそこまでこの青年に拘るのか、正直自分でもよく分からなかった。

 優しくしてくれたからなのか、巫女姫として自分を見なかったからなのか、考えても考えても答えが出ない。

(でも、一緒にいてみたい)

 大神殿の書庫には多くの書物があったけれど、目の見えないリリシアにはあまり縁のある場所ではなかった。

 或いは、仮にその書庫で彼女が文学を嗜んでいたとしたら、気付いたかもしれない。

 このとき、少女は青年に恋をしていた。

 それは〈皇剣〉の器たる青年に、彼女の中で多くを占める四界の力が引き寄せられた結果だ。

 歪められた恋心と言う者もいるだろう。紛い物と笑う者もいるだろう。だがそれでも、少女の恋は事実であり真実。

 歴代の巫女姫の中には、候補者と儀式以前に想いを交した者が居た。それはこのときのリリシアと同じ状況だったのかもしれない、しかし、その巫女姫は生涯その事実に気付かなかった。

 後に夫となった候補者と確かに幸せな日々を送ったからだ。

 リリシアが己の役割として皇王の隣に立つことを選ぶのか。 己の望みとして皇王の傍らに佇むことを願うのか。

 総ては、儀式が終わったあとのことだ。

〈レクティファール様! わたしはここにおります!〉

 今確かなことは、リリシアという少女がレクティファールという青年を守ろうとしていること。

 そして、青年もまたリリシアという少女の笑顔を見てみたいと思っていることだ。

(姉さん……)

 嘗てミレイディア・キールにとってリリシア・キールが唯一の妹であったように、リリシアにとって、ミレイディア・キール・ルプスブルグ=ヘルメは唯一の姉。

 自分以外の誰かが姉を姉として幸せには出来ない。

 自分のために総大主教にまでなった姉。

 そんな姉ともう一度ただの姉妹として過ごしたい。

 総大主教と巫女姫というしがらみを取り払い、もう一度家族に戻りたい。

(――わたしは、ただのリリシアでいい)

 望みはそれだけ。

 巫女姫の候補としてこれまで一度たりとも自分の将来を考えることはなかった。

 巫女姫としての公務を果たしながら、来たるべきときに備えるだけ、継承の儀を成功させることだけが生きる理由だった。

 そしてその役割を果たしたなら、今度はリリシアとしてこの青年の元に行く。そうなったとき、この青年はきっと自分を巫女姫としては見ないだろう。

 ミレイディアの妹として、ただのリリシアとしてだけ見てくれると思う。

(レクティファール様)

 それは過ぎた望みだろうか。

 皇太子となるこの人の隣でただのリリシアになることは無理だろうか。

(レクティファール様……!)

 天を仰ぎ、膝を着いて絶叫するレクティファールの手をひび割れた儀礼剣から引き剥がし、両手で包み握り締める。

 ぴくりと、レクティファールの手が動く。リリシアはそれに気付き、さらに力を込めた。

「――ぅ、あ、ぁぁぁああああああああああッ!!」

 リリシアが手放した〈皇剣〉が、ゆっくりと沈んでいく。

 それは、レクティファールが自分自身で〈皇剣〉を受け入れていることの証。

 同時に〈皇剣〉に貫かれていない左眼に金の光が走る。

 縦に割れた瞳孔、黄金の龍瞳がそこにあった。

〈あと少しです、レクティファール様!〉

 さらに猛威を増す暴風に耐えるため、リリシアはレクティファールの身体にしがみついた。

 自分よりも遙かに大きな背中に手を伸ばし、唇を噛んできつく抱きしめる。

 暖かい、そう感じた。

「――ッ!!」

 血の涙を流し、それでもこの人は自分に応えてくれた。

 なら、自分は総てを賭してこの人を助けよう。

〈――!〉

 〈皇剣〉の鍔から先が光の粒子へと変じていく、それは暴風の中にあってもレクティファールを中心にして旋回し、少しずつレクティファールの左眼に潜り込む。その瞳に皇国皇王家の紋章でもある十字の星が輝き始めたのを見て取り、リリシアは声無き声で祝詞を詠う。

〈――在れ、在れ、在れ、この地の光、この地の星、この地の闇、この地の月――〉

 導く者よ。

 導かれる者よ。

 命果つるまでこの地の道標になる者よ。

 我は汝と共に在るモノ。

 汝が望むモノになるモノ。

 我は希う。

〈――闇の内より光照らす者よ。我らと共に――〉

 我と共に。

〈――在れ――〉

 集束する爆光。

 中央に向けて渦巻く風。

 リリシアはその中で己の唇を噛み切った。

「――ッ!」

 一瞬痛みに顔を顰め、それを堪えて顔を上げる。

 滴る血で唇を湿らせ、彼女はレクティファールの首に腕を巻き付けた。

〈レクティファール様、失礼いたします!〉

 その声は自分への叱咤でもあったのだろう。

 彼女は躊躇う一部の感情を無理やり抑え付けると、レクティファールの唇に自分のそれを押し付けた。

「――!!」

 接触と同時にリリシアとレクティファールの間に〈力〉の連結が発生。

 金の龍眼の瞳孔が一気に収縮する。

 リリシアはレクティファールに向けて意識が流れ出す感覚を最後に、意識を失った。


         ◇ ◇ ◇

「よう、兄ちゃん」

 見覚えのある石造りの大広間。

 その中心に立ち、レクティファールは一人の男と相対していた。

 肩に届く白い髪を一つに束ね、真っ白い装束に身を包んだ男。その姿を、レクティファールは知っている。

「ああ、そんなに驚くことじゃないぞ、皆、『俺』とは一度必ず会うことになってるんだ」

「――どちら様ですか」

 『自分と同じ姿をした』男に対し、レクティファールは警戒心も露に身構える。この状況、この時期、警戒しない方がおかしい。

 男はレクティファールの質問に腕を組むと、少し唸り、何か思い付いたとでもいうように人差し指を一つ立てた。

「うーん、そうだな。最初の皇王の、皇王になる前の記憶とその他おまけってところかな」

「初代、皇王ということですか」

 レクティファールは重ねて訊ねた。

「違うな、皇王になった『俺』を皇王になる前の『俺』は知らない。俺には記憶するっていう機能がないからな、こうして話していることも、一度眠ったら殆ど忘れ
ちまう」

 男は楽しそうに肩を揺らし、レクティファールに笑い掛けた。

「何故、ここに居るのかって顔だな」

「――察しが良くて助かります」

「はは、礼を言われるほどのことじゃないさ。俺も、これまでの皇王も、本質的には似たようなもんだからな。仲間、同胞って言っても良いかもしれない」

 組んでいた腕を解き、男はレクティファールに一歩近寄る。

 レクティファールは腰を落とし、男の動きに警戒を強めた。

「おいおい、そんなに警戒するなよ。お前、今まで一番警戒心の強い奴だな」

「一応、責任があるので」

「生き残るって責任か?」

 その問いに、レクティファールはほんの少しだけ哂い、頷いた。

「ええ、死ぬならそれ相応の機会に、と思っているのです。以前の私なら、違ったかもしれませんが」

「相応の機会、ねぇ。意外と多いかもしれないぞ」

「多かろうと少なかろうと、それを決めるのは私です」

 諦めるのも、諦めないのも自分だ。自分の決めたことに責任を負えるのは、自分しか居ない。

「難しい奴だ。難しすぎると、いつか大事なもの取り逃がすぞ」

「逃げた先に回り込みますよ。逃げただけなら、また捕まえれば良い」

 レクティファールの言葉に男は一瞬虚を突かれ、そして大口を開けて大笑いした。

「あははッ! そうだな、逃げただけなら捕まえればいい、それだけのことだ。――――だが」

 男の姿が、消えた。

「――ッ!」

 一瞬遅れて金属の悲鳴が反響する。レクティファールはいつの間にかその手に掴んでいた刃の腹に複雑な文様の刻まれた幅広の刀で、自分の目の前に現れた男が振り抜いた剣を防いでいた。

「逃せば消える、そんなものも世の中にはあるぞ」

 男の瞳は、黒く澄んでいた。

 一つの迷いもなく、ただ真っ直ぐな眼差しだった。

「俺がここに居るのはな、皇王になろうとしている奴に最後の忠告をするためだ」

 男は刃を引き、すぐに新たな斬撃を繰り出した。

 ミレイディアのそれよりもだいぶ速く、だいぶ重い、レクティファールがそれに反応出来ているのは、身体が意識と同じ速度で動いているからだった。

 意識と身体の完全な同調。今までに経験したことのない感覚だった。

「別に、逃がすなとは言わないさ。永遠に失うことも、まあ、そいつの責任だ」

 左上から、右下へ、右下から、左への薙ぎ払い。空気を斬り裂き、鋒で雲を生み、男はレクティファールに迫る。

「お前も、憶えておけ」

 大上段の一撃。受け止めれば腕が痺れた。

「何を……」

 痺れた腕を叱咤し、レクティファールは男の刃を払い除けた。男はレクティファールの反撃を受ける前に、一挙動で最初の位置まで引き下がっていた。レクティファールの刀が、虚しく空を切る。

「俺たちは異常者だ。必ず、等しく心の何処かがおかしい。おかしく出来ている」

 男は再び姿を消すと、今度は上空から奇襲を仕掛けてきた。

 その場から飛び退り、男の持つ剣の分厚い刃が床を削るのを見届けてから、レクティファールは男に向かって一撃を振り下ろした。

「お前は、自覚があるだろう」

 躊躇いなく刃を頭上に捨てた男が、拳でレクティファールの顎を狙う。

 レクティファールは勢いを殺さず、身体を捻ってそれを回避した。

 二人の位置が、入れ替わる。

「そうですね、確かに」

 レクティファールは頭上に刀を掲げ、自分の頭上目掛けて落ちてきた刃を防いだ。

 火花が飛び、同じ顔をした二人の男を照らし出す。レクティファールが弾いた剣は、まるで意思を持っているかのように持ち主の手に戻って行く。

 戻ってきた剣を二度三度振り回し、彼はレクティファールに向き直る。

「ただ、私はそれでも別に構いませんよ」

「ほう」

 二人は同時に間合いを取り、そして同時に近付く。さらに同時に刃を繰り出し、同時に受け止めた。

「それで何の問題がありますか、異常、異質、異端、異なることが罪だと言うならば、それは単に世界が総て等しく罪を背負っているというだけのこと」

 世界に、二つとして同じものは存在しない。

 世界は、総てが異なるもので出来ている。

「罪など、私が私でなくなることに較べればどうということは無い」

 レクティファールは男に向かって刺突の構えを見せ、男もまた、レクティファールに刺突の構えを向けた。

「私は――私として生きていくのです。罪も罰も責任も、私が背負えるものは全部背負って……!」

 繰り出す。

 音を生む。

 雲を曳く。

 そして、穿つ。

「――そうかい、それはそれで……面白い生き方かもな」

 自分の胸に突き刺さる刃を見下ろし、男はすっきりとした表情だった。その表情に、レクティファールは全身が粟立った。

「だけどまあ、面白いだけでは上手くいかないこともある」

 男の言葉と同期し、その周囲に七本の武具が現れる。

 大剣、軍刀、薙刀、短槍、小太刀、鋭剣、短剣。

 そのいずれもが嘗ての〈皇剣〉の姿であると、レクティファールは気付いた。

 そして、それらの刃が一斉に殺到してくるのを見て、一挙動でその場を退く。

 だが、短槍と小太刀が、その肩と脇腹に突き刺さった。

「ぐっ」

 痛みは、身体に突き刺さった刃によるものではなかった。

 刃から流れ込んでくる怨嗟と憎悪が彼の身体を駆け巡り、まるで溶けた鉄を流し込まれたのではないかと思うほどの苦痛を彼に与えた。

「痛みを感じるだけ、幸せってもんだ」

 男は苦悶の表情を浮かべるレクティファールに対し、男は今までになく冷ややかな眼差しを向けた。

「人は痛みにさえ慣れちまう生き物だ。そのときがどれだけ苦しくても、しばらくすれば何とも思わなくなっちまう」

 男は虚空に浮いたままの大剣を手に取ると、レクティファールの腹に突き刺した。

「――っ!」

 レクティファールの口から、声にならない声が迸る。

 単に痛みとも言えない純粋な〈苦痛〉が、彼の身体を蹂躙した。

「嫉妬でも、怨恨でも、羨望でさえ、痛みであると忘れてしまう」

 鋭剣が背中に突き立ち、短剣が太腿に、薙刀と軍刀が両足を床に縫い付ける。

「痛いだろうなぁ、でも、それだって人はすぐに慣れる」


 男はレクティファールを見下ろし、悲しげに呟いた。

「いつか、人は痛みという概念すら忘れちまうんじゃないか、そんな風にさえ思えてくる」

 『俺』たちは、その先魁かもしれない――――男の言葉が、レクティファールの身体に染み込んだ。

 だが、レクティファールの中に湧き上がったのはそれに対する同意と恭順ではなく、否定と反発だった。

 メリエラの手から感じた彼女の苦しみが、ウィリィアの言葉の端々から感じる悲しみが、カールの厳しい視線から感じる懊悩が、レクティファールをその場から退かせない。

 この場は、諦める場ではないと彼の中の『彼』が叫んだ。

「――だから、どうだと……」

 レクティファールは震える身体を無理やり奮い立たせ、取り落としそうになる刀を握り直した。

 金属の柄に、彼の体温が移っていく。同時に、刀が一つ鼓動を打った。

 どくんと、空間を震わせる鼓動だった。

「痛みに慣れるから、どうだというのです……!」

 彼の叫びが更なる鼓動を呼び、一つどくんと空間が震えるたびに〈皇剣〉が一つ一つ光となって消えていく、帰っていく。

「痛みに慣れるということが痛みを乗り越えることだというなら、それを否定することを私は許さない」

 慣れようと慣れまいと、人は痛みを忘れることなどありはしない。

「私たちが憶えていれば良い。忘れることが出来ない私たちが痛みを憶えている限り、人は痛みを忘れたりはしない」

 地を踏み締め、刀を構え、呼吸を整え、そして眼前の男を捉える。

「あなたは、そうしてきたのでしょう」

 レクティファールがそう問いかけると、男は少し驚いたような顔を浮かべた。

「なるほど、お前もこの場に来るだけのことはあるってことか」

 そして独語し、うっすらと笑みを浮かべながら剣を構えた。

「じゃあ、そうやって生きろよ」

 男の言葉を合図に、二人は愚直なまでの直線運動で相手を狙う。

「――っ!!」

 呼吸が一致し、音を持たない裂帛が互いの身体を貫いた。



+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。