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第一章:皇国動乱編
第一章ダイジェスト:第十話~第十八話 前編
 目覚めたレクティファールは、その身と同化した〈皇剣〉の存在を感じとり、自らの行く末に一抹の不安を抱いたという。

 歴代皇王が持っていた当たり前の知識や経験を持たない彼にとって、〈皇剣〉とは得体の知れない半身であり、しかし二度と手放すことはできない片割れだったということだろう。

 生きるも死ぬも〈皇剣〉と自分次第。この世界に執着すべきものができた彼には、もう後戻りという選択肢は存在しなかった。

 レクティファール・ルイツ=ロルド・エルヴィッヒという青年の物語は、ここから始まる。

         ◇ ◇ ◇

 レクティファールが自分の行く末にうんうん唸っていた頃、彼の寝かされていた部屋から少し離れた廊下でちょっとした事件が発生していた。

 当事者は二名。双方共に姫と呼ばれる人物である。

 その一方、白龍公の姫君メリエラが何かを堪えるように片眉を震わせつつ先制する。じっと相手を見詰め、その仕草の一つ一つまでも見逃さないという気迫に満ちていた。

「――猊下、四界神殿の巫女姫ともあろう方が、このような軽挙をなされては困ります」

 彼女のあまり好意的ではない視線を真正面から受け止めつつ、四界神殿の巫女姫リリシアが感情を押し殺した無表情で反論する。双方とも互いを油断ならない敵手と認め、相対していた。

「軽挙ではありません。これは皇王を支えるという巫女姫の役割に沿った行動です」

〈皇剣〉継承の儀式後、無事役割を果たしたことで声と視力を取り戻したリリシアは、これまでの清楚な印象よりも年齢相応の活発さが表に出てくるようになっていた。

 姉のミレイディアが驚くほど活動的になり、これまで暗闇の中で生きることを強要されていた鬱憤を晴らすように毎日大神殿の中を駆け回っている。

 そんな行動の変化に合わせて服装も変わり、肩の出た襯衣と丈の短い傘袴が、リリシアの最近の神殿内での装いであった。

 人生の大半を過ごした大神殿だが、今の彼女にとっては初めて来た場所も同じらしい。確かに周囲の状況を情報として脳に直接送り込まれる場合と、視覚として得る場合には大きな差がある。その差が、彼女の隠れた本質を呼び覚ましたのかもしれない。

 斯くしてお転婆の才能を開花させたリリシアがここ数日の日課としているのが、今回メリエラが見咎めたレクティファールの寝室訪問である。

 大神殿内に限れば、リリシアの方が圧倒的に地の利がある。メリエラはレクティファールの世話役としてほぼ一日中彼の寝室にいるのだが、それでもレクティファールの目覚めを待って神殿内で公務を執っている父カールの補佐として仕事がある。そのときにはメリエラの世話をしているウィリィアも同行するので、レクティファールの寝室には大神殿の神官が残るのみとなる。

 リリシアは、そうしてメリエラが居ないときばかりを狙ってレクティファールの寝室に不法侵入を繰り返していたのだ。大神殿の職員であれば、白龍公の姫よりも巫女姫の都合を優先するのは当たり前。彼らはリリシアの侵入を手引きし、さらにリリシア侵入の事実をメリエラに隠していた。

 これまでは天の時も地の利も人の和も完全にリリシアに味方していたと言える。

 ただこの日だけは、運がなかった。

 偶然にも仕事が早く終わったメリエラに寝室から出るところを見付かってしまい。こうして廊下のど真ん中で説教されているのである。

 もっとも、リリシアに反省の色など欠片もなかったが。

「四界神殿の巫女姫は、皇王の最大の理解者となり、その支えとなるようにとの教えを受けています。当然、わたくしもです」

「レクティファールは未だ正式に皇太子位に就いておりません。従って、彼はまだリンドヴルム公爵家の客分です」

 皇太子位は、儀式後に候補者が目覚めた段階で正式に認められる。

 だからまだ、レクティファールは白龍公の客人という扱いになるとメリエラは言っているのだ。

 言葉は辛うじて失礼にならない程度に丸められているが、その視線は同じ龍族の男でさえ裸足で逃げ出すほどの鋭さだった。

「たとえリンドヴルム家の客分であろうと、公爵家当主ではないメリエラ殿にレクティファール様に対する客人を選ぶ権利はないでしょう」

 その視線を受けてもそよ風程度にすら感じていないリリシアも、ある意味では龍族以上の胆力の持ち主かもしれない。

 彼女はメリエラの公的な立場の不明確なことを指摘し、彼女の行動の正当性を崩そうと攻勢を強めた。

「レクティファール様の御身は皇国の大事。一公爵家の姫が判断していい問題ではないとわたくしは考えます」

「う……」

 リリシアの舌鋒鋭い指摘に言葉に詰まるメリエラ。

 儀式終了に伴い、聖都には皇太子誕生の噂が流れ始めている。これはカールが意図的に流した噂だが、聖都から皇国全土に情報が拡がるまで数日といった所だろう。上手くすれば、連合や帝国の動きを牽制することもできるかもしれない。

 しかし、レクティファールの存在が大々的に明らかになった時点で、メリエラの庇護者としての役割は自然消滅したと言って良い。メリエラが守らなくてもレクティファールの身柄は皇国が国として保護するし、神殿とて自分たちの元に現れた候補者を保護しない理由はない。

 そして、存在が公になったということは、メリエラが個人でレクティファールに関する事柄を判断することもできなくなったということだ。

 未だ正式な扱いは候補者とはいえその立場はすでに公の存在であり、私的な関係しか持たず、公的には何らレクティファールに対する権利を持っていないメリエラよりも、同じ公の存在であり神殿の教義として明確に定められた理由のある巫女姫の言い分が優先されることは明白だった。

「レクティファール様のお世話はわたくしが引き継ぎます。メリエラ殿は白龍公の補佐としてレクティファール様の支えになって貰わなくてはなりませんし、そちらの仕事に集中なされては?」

 この娘、かなり黒い――メリエラはそう思った。

 あんなにも清楚で可憐だった巫女姫が、たった数日でこんなにも真っ黒に染まるなんて思ってもいなかった。

 実際には皇王の支えとなる巫女姫が知っているべき常識として神殿内で教育を受けた結果なのだが、そんなことを知らないメリエラにとってはたちの悪い詐欺に引っ掛かった気分だ。

 ミレイディアが知ったら嘆くのではないかと考えたメリエラだが、あの人のことだからすぐに笑って済ませるかもしれないとも思った。そう考えると、この姉妹は根の部分でよく似ているのかもしれない。

 心の中でリリシアに対する警戒段階を引き上げたメリエラは、だがしかし、ここで負けを認めるような種類の女性ではなかった。公式な発表はまだであるが、彼女にも皇太子を補佐する確かな理由が存在するのだ。

 彼女は深呼吸すると、目の前で屹立する四界神殿の巫女姫という巨大な壁に突撃を開始した。

「――猊下のご意見は至極尤もです。ですが、わたしにも同じく彼を守る理由が……」

「姫さまッ!!」

 しかし、その突撃は味方によって遮られる。

 自分の言葉を遮った侍女に対して、駄々っ子のようにむくれて涙目を向けるメリエラ。さあ反撃だと勢い込んでいたせいで、言葉を中断させられた瞬間に思わずこけそうになったことは秘密にしようと思う。

 されど、平時であれば主人の視線のその意味に気付かぬはずもないウィリィアが、このときは少しも気付く素振りを見せずにメリエラとリリシアの前で大声を上げた。メリエラは、そういえば、前にも似たようなことがあったと思い出す。

 確かあのときは――

「行き倒れ……じゃない、レクティファール殿下、お目覚めになりました!!」

 その言葉に顔を見合わせる二人。両者の視線には互いに対する隠しようのない警戒心が透けて見え、じりじりとした視線の交わりの末、二人は同時に廊下を走り出した。

 まさに抜きつ抜かれつの一進一退。取り残されたウィリィアが慌てて後を追い始める頃には、二人は走りながら先ほどの舌戦の第二戦を始めていた。

 神殿の神官や修道女たちが大慌てで二人の進路から逃げ出す。

「メリエラ殿! 廊下を走るなんてはしたない真似はおやめになったら如何ですかッ!?」

「猊下こそ、巫女姫として国民の尊敬を集めるお方が、どすんどすんどかんどかんとくそ喧しい足音を立てて走るなどあってはならないことですよ!」

「未来の夫となる皇太子殿下がお目覚めになったのです、まず一番にご挨拶をしなくては巫女姫の恥! いいえ、女の恥っ!」

「そんな理屈があるはずないでしょう!? ここはわたしにお任せになり、後からゆっくりといらっしゃればよろしいではありませんか!」

「そんなこと言って! レクティファール様に目覚めの口付けでもするつもりでしょう!?」
「はあッ!?」

 酷い言い掛かりだ。

 メリエラは興奮状態のリリシアの言葉に憤慨した。決して心当たりがあった訳ではない、と彼女は自分を納得させた。

 そもそも彼との間に男女の感情はないし、保護者と非保護者の関係を崩したこともない。

 よって、リリシアの言葉は冤罪である。

「猊下! その下品な物言い、巫女姫としてあるまじきことですよ!」

「誤解だというのですか!」

「ええそうです!」

 メリエラは語気を強めて断言し、怒りと羞恥で真っ赤になった顔をリリシアに向けた。

 だがしかし、巫女姫は明らかにその言葉に更なる興奮を抱いたようだった。

「あなたは毎日毎日朝方まで殿方の部屋に居座ることが下品でないというのですか!」

「なッ!」

 メリエラの顔に先ほどよりも色濃い朱が走る。

 さらにぱくぱくと口を開き、驚きを全身で表現していた。

「それだけではありません! レクティファール様のお召し物、あなたが洗濯しているそうではありませんか!」

「何故それを!?」

 さらなるリリシアの追撃。

 メリエラの速度が目に見えて低下する。

「女官たちが教えてくれました! 白龍公の姫さまは皇太子殿下と大変仲がよろしいのですね、と! わたしだってレクティファール様と仲良くなりたいのに!」

 折角取り繕った「わたくし」という一人称さえかなぐり捨て、リリシアが叫ぶ。

「ぐう……」

 対して辛うじてぐうの音は出たメリエラだが、さらに赤みを増した危険な顔色になりつつあった。

 どこでも女性たちはこういった噂話が好きだが、大神殿も例外ではないらしい。

 実際、レクティファールの衣服はウィリィアよりもメリエラが洗っていることの方が多い。本人としては単に弟の世話を焼く姉のような気分で――人目もあるしと、自分にそういう言い訳をして――やっていたのだが、周囲は別の目で見ていたらしい。

 そうして、レクティファールの居室が見えてきた頃、勝負は決した。

「レクティファール様とメリエラ殿がどんな仲か、わたしは問いません! ですが、ここは勝たせて貰います!」

「ああッ!」

 メリエラの速度が落ちた一瞬の隙を突いて、リリシアが猛加速。メリエラを一気に引き離してレクティファールの居室に飛び込む。

 そして、息も絶え絶えになりながら目覚めの挨拶をと顔を上げた彼女は――

「いやぁ、仕事が空いたから見舞いでもって思ったんだけど、まさか目ぇ覚めてるとは。あたしの運も中々のもんだね」

「運の問題なのかよく判りませんが……お見舞いに来て頂いたことは感謝します」

 和気藹々と雑談する姉とレクティファールの姿に呆然となった。

 そのまま二人はリリシアの姿に気付かず、話を続ける。

 放置される形となったリリシアは、ぽかんと口を明けたまま硬直することになった。

「かったいねぇ、ていうかあんたもう皇太子なんだから、あたしに敬語使っちゃ不味いと思うよ」

「そうなんですか?」

「一応宮内序列は同じだけど……まあ、正式に摂政位拝命してないから年功序列ってことでいいか。ほら、あんたって践祚しないまま〈皇剣〉継承してるから半皇って訳でもなし。そういえば、摂政云々ってのは聞いた?」

「確か、皇王以外で国事国政行為を行える唯一の位、実質的な皇王、通常であれば当代の皇王によって皇太子が補せられる職。皇王不在であり、法的に皇位継承が行えないならば――ということでしょう。まあ、白龍宮ですぐ手が出る良い教師がいたもので、そのくらいは憶えています」

「践祚ができていればねえ、まだ違ったんだけど。践祚って法解釈次第で皇王立会以外でも可能なんだけど、正式には即位の儀式の片割れだからね。喪が明けないうちにやるのはちょっとねぇ……特例ってことにするにしても反発も大きいだろうし。あ、ちなみに半皇ってのはね――」

 皇家典範に於いて、皇太子は原則として皇王立会いのもと践祚――法的な皇位継承――を行い、その後皇王が崩御した時点で皇号を名乗る。そして一年の先代皇王の喪が明けた時点で対外的に皇位継承を報せる即位の儀を執り行うことと定められている。

 法的には践祚後に皇王が崩御した段階で皇太子が皇王位へと登っているが、建前上は践祚と即位の二つの儀式を以て皇位継承と看做されている。その際、践祚のみを行った皇王を『半皇』と呼ぶことがある。

「てな訳で、あんたはまだ半皇にもなってないんだよ。ま、践祚と同時に即位だから、半皇なんて呼ばれることはないだろうけどね」

「はあ……」

 そこまで二人の会話が進んだ頃、ようやくリリシアの意識が回復の兆しを見せ始めた。背後からメリエラとウィリィアの気配が近付いてきたということもあるのだろう。

 ただ、その動きは緩慢であり、どこか危なっかしいという風であった。

「ね……姉さん――って、きゃあッ!」

 そんな状態のせいか、リリシアは足を縺れさせてしまい、床に敷いてある絨毯に向けて身を投げる羽目になった。

 受け身も取れず、真正面から盛大に顔面を絨毯に叩き付けたリリシア。

 べたんという景気のいい音がレクティファールの居室に拡がり、あまり丈の長くなかった傘袴がふわりと揺れてその下の布をさらけ出す。それは飾り布がふんだんに使用された、最高級の薄青の逸品であった。

「――――」

 レクティファール、ミレイディア共に突然の闖入者の悲劇に言葉もない。

 呆けるように悲劇の当事者を見詰め、無言を続ける。

「お待ち下さい猊下ッ! って……あら……?」

「姫さま、どうかなさいまし……え、猊下……?」

 しばらくして部屋に飛び込んできたメリエラも、床に全身を投げ出した格好の巫女姫の姿に言葉を失った。

 さらにメリエラの背後に現れたウィリィアも部屋の中の惨状を認め、黙り込む。

 酷く空虚な時間が、五人を包み込んだ。

         ◇ ◇ ◇


 平穏な日々だった。

 のちのレクティファールの人生から見ても、この立太子から皇都へと赴く数日間は、彼の人生最後の寧日と言っていい。

 以降、彼の身は常に摂政、或いは皇王として存在し、その責任によって心からの平穏は失われてしまった。

 妃や子らとの時間は確かに彼を慰めはしたが、それも皇王としての立場の上にあるものでしかない。レクティファール個人という考え方が彼やその周囲の者たちの心中に残されていたのはこの頃が最後で、それ以後は『公あっての私』という考えが、彼らの心の内を占めることになる。

 さらに言うなら、白龍宮のレクティファールを知る者たちと、このとき神殿にいた者たちだけが、一個人としての『レクティファール』という青年を記憶に留める、数少ない人々だった。

 そして蒼、黒、紅の三龍公。

 三人はレクティファールという英雄の紡ぐ物語において幾度も登場し、その折々に華を添える役目を果たした。

 そんな彼らがレクティファールと出会ったことは、時代のひとつの転機でもあった。その証拠に、三人の回顧録は揃ってこの出会いを『時代の節目』と記している。

 一国から大陸へ、大陸から世界へと物語の舞台が移り変わる。三人の生きた時代は、そんな時代だった。


        ◇ ◇ ◇


 レクティファールが四阿に入ったとき、その場にいたのは円卓に座るたった三人の男女であった。

 一人目は長い真っ直ぐな黒髪を持ち、小柄な体躯を飾り布の多い衣裳に包んだ小さな少女。彼女は眠たげに細められた瞳をレクティファールに向け、茫洋としたその視線で何かを探るようだった。

 二人目は深紅の髪を短く切り揃え、細くもしっかりとした筋肉に覆われた大柄な身体をカールと似通った衣裳で包んだ美丈夫。レクティファールの到着に気付いていながら、目を閉じて一瞥さえしない態度は、或いは拒絶の証だったのかもしれない。

 三人目は蒼穹の色を写した髪をゆるく三つ編みにし、それを背中に垂らした女性。比較的穏和そうな雰囲気を持っていたが、その実、もっとも底の知れない気配の持ち主でもあった。

 レクティファールが三人を短く観察し終えた頃、カールが彼の横に並び、三人それぞれを示しながら紹介を始めた。

「黒龍公、アナスターシャ・フォン・ニーズヘッグ」

「紅龍公、フレデリック・バルガ・スヴァローグ」

「蒼龍公、マリア・ヴィヴィ・フォン・レヴィアタン」

 本来ならば自ら立ち上がって名乗るのが礼儀だが、この三人がレクティファールに礼を示す理由はない。

 当代皇王の素行に反発して皇王家からの独立を宣言した彼らにとって、如何なる公職にも就いていない、ただの皇太子であるレクティファールに示す礼儀などありはしないのだ。

 いや、彼ら三人が皇国以外の国の貴族であるのならばそれなりの礼儀を示していたかもしれない。

 しかしここは皇国であり、彼らは皇国守護を初代皇王より命じられた四龍の子孫である。

 皇国を乱すのならば、皇王とて斬り捨てる理由があった。

 しかしこのとき、彼らは決してレクティファールを排除しようとはしなかった。

 ただ――

「――カール……これで義理、果たした」

 黒龍公アナスターシャがおもむろに立ち上がり、カールとレクティファールに向けて言い放つ。肩を震わせたカールの動揺が、レクティファールにも伝わってきた。

 それに続き、紅龍公フレデリックも組んでいた腕を解き、席を立つ。立ち上がればレクティファールよりも背が高く、見下ろすようにレクティファールを睨み付けてきた。

「確かにな、時間が限られている中で譲歩したんだ。文句はないだろう」

 レクティファールは彼らの行動に驚きを隠しきれなかった。

 自らは未だ名乗っていない。

 確かに彼らにとって取るに足らないような存在かもしれないが、仮にも国家元首になろうとしている人物をこうも軽んじられる理由が理解できなかった。

 好き嫌いで人を選ぶことはあるだろう。だが、好悪で元首を選ぶようなことはあってはならない。真に国を想うというのなら、個人的感情よりも優先すべきことがあるのではないか。

「カールちゃん、あとはよろしくね」

 にっこりと暖かな笑みを浮かべた蒼龍公マリアが彼らに続いて立ち上がり、レクティファールの隣に立つカールに笑いかけた。このとき彼女は、決してレクティファールを見ようとしなかった。

 レクティファールはこの状況に驚き、満足に思考を働かせることはできなかった。だが、それはカールも同じこと。彼は顔を紅潮させ、三人の前に立ちはだかった。

「き、貴様ら……何を考えている」

 唇を震わせ、三人を睨む。皇国の一大事に、最強の手札である皇太子を無碍に扱うとはどういうつもりなのか。

 しかしその視線を受け止めても、三人は小揺るぎもしなかった。

 カールと同格の龍族である三人にとって、その視線など大した意味を持たない。現にフレデリックは呆れたように首を振り、レクティファールとカールに告げた。

「決まっているだろう。俺たちは皇王家から独立したんだ、皇国を守ることはするが、その配下に入ることはしない」

「馬鹿なっ! 初代皇王陛下との契約は……」

「それだけどね、カールちゃん」

 マリアが困ったような笑顔をカールに向けた。しかし、その金色の瞳は少しも笑っていなかった。

「初代様の遺言は、皇国を守ること。わたくしたちは確かに皇王家には忠誠心を持っているけど、国にとって善か悪かも分からない皇太子に対する忠誠心は持ち合わせていないの。それに、彼がこの混乱を収められるという確証はないでしょう? 賭けごとは嫌いじゃないけれど、わたくしたちだって時間と場所は弁えているつもりよ」

 不確定要素だらけの賭けに出るよりも、確実に現状を収めることができる方法を選ぶべき。マリアはそう言っているのだ。

「――――」

 カールは絶句して残りの一人、黒龍公アナスターシャを見た。

 お前も同じ考えなのか、そう視線で訊ねていた。

 互いの視線が絡み合い。果たして、アナスターシャは小さく頷いた。

「――うん。……じゃあねカール、また遊びに行く」

 そう言って身を翻すアナスターシャ。その動きには躊躇いの欠片も見えない。

 マリアもそれに続き、フレデリックもまたカールたちに背を向けた。

「待て! 皇国を守るというのなら、お前たちはまさか……」

 カールの声に、フレデリックだけが振り返った。

「――決まってる。俺たちは、自分たちの軍を率いて連合を喰らい尽くす。皇国軍の手は要らん、協力を約束した貴族共もいるしな。そのまま帝国の蛮人どもも追い返すさ」

「な……っ!」

 フレデリックの言葉に、カールは驚きのあまり目眩がした。

 皇都戦線の危機的状況は知っている。だが、朋友である三人がいきなり強硬手段に出るなどということは予想していなかった。それでは連合諸国と周辺国に要らぬ敵愾心を植え付けるだけではないか。

 確かに強硬手段に訴えれば、短期的には連合の主力を殲滅してその侵攻の意志を挫くことはできよう。

 だが、その先に待っているのは連合との泥沼の戦争だ。周辺国も皇国を危険な国と見るかもしれない。

 何としてもそれだけは阻止しなくてはならない。

 カールは三人を呼び止めるために口を開いた。

 だが、それを遮るように金属じみた硬質な声が四阿に響いた。

「――ふざけてもらっては困るんだよ、この石頭共。長生きのし過ぎで考えが化石になったのか」

 彼の隣に立ったまま、そして立ち去る三人に目を向けることもしないまま、青年が呟いた。

 千年以上生きたカールさえ感情を揺り動かされたのだ。他の三人が何も感じないはずがなかった。

「――何?」

 初対面のレクティファールに痛罵された三人は揃って足を止め、一斉に振り返った。

 総じてその表情は硬く、フレデリックに至ってはその怒りのあまり瞳孔が鋭く裂けていた。

 龍族の特徴の一つである龍眼は、人間の姿で日常生活を送っている限りは決して現れない。ただその龍族の感情が昂ぶり、溢れる魔力を抑えるために龍の姿に戻ろうとする過程の中で、瞳孔が裂け、龍眼となる。

 つまり、龍族の瞳を見れば、その龍族の怒りがどの程度のものか判断できるということだ。

 最近は龍族も自らの魔力を効率よく抑える術を開発しているので絶対とは言えないが、それでも公的私的を問わず龍族との関わりのある者はこの判断基準を固く信じて行動するようにしていた。

 皇国内外に関わらず、悪名高き龍族の逆鱗とは別に、彼らが人の姿で見せる龍眼という存在もまた人々の恐怖の対象だったのである。

 しかし、フレデリックの龍眼を見せ付けられてもなお、レクティファールの表情に変化は無かった。

 常に使用者の状態を最良の状態に保つための機能を持つ〈皇剣〉。その機能の一つによって怒りを排除された思考を元に、ただ冷然と、こう告げるのみだった。

「ふざけるな、と言ったんだ。それとも、老いて耳も狂ったか?」

「――!」

 その言葉に三人の反応は分かれた。

 明らかに挑発と分かるレクティファールの言葉に、衝動的な怒りよりも強い疑問を抱いたアナスターシャとマリア。彼女たちは動きを見せなかったが、その挑発に乗ったフレデリックは一気に龍眼を開き、その体内に内包する莫大な魔力を練り上げて一瞬で召喚魔法の魔法陣を虚空に生み出した。

 その魔法陣から飛び出したのは一本の柄。

 革紐ではなく鱗状の金属で覆われたそれは太く長く、その先に存在するであろう刃の巨大さを物語っていた。

 フレデリックはその柄を引っ掴み、短い呼気と共にそれをレクティファールに向けて振り抜く。魔法陣の残留魔力が尾を引き、現れた巨大な両刃を輝かせた。

 対するレクティファールもその刃を黙って受けるようなことはしなかった。

 瞬き一つで白銀の龍眼を右眼に顕わすと同時に、ほぼ無意識のうちにフレデリックのものとは違う魔法陣を組み上げ、同じように魔法陣から現れた細い柄を握る。それは白金に輝く糸を柄巻にした、彼にとって最も身近である『白刃』。

「――っ!」

 自分に向かってくる大剣に向けて、レクティファールはその細い剣――刀を叩き付けた。

 折れない、折れることは有り得ないと本質的に理解しているからこそできる、武技の欠片も感じられない無茶な迎撃。脳まで響くような金属の衝突音と摩擦音、それらが空に溶け消えるまで僅かに刹那の間で、フレデリックはその刀の正体を察した。

 レクティファールの召喚した刀はこの世界で唯一無二の概念兵器――

「――〈皇剣〉っ!」

 フレデリックの悲鳴にも似た叫びには意味がある。

 過去に皇太子が〈皇剣〉を継承したときには、その力を使いこなすまで幾ばくかの時間を要した。

 だが、目の前の無礼な男は僅か数日前に〈皇剣〉を継承したばかりのはずである。たとえこの男が〈皇剣〉の力を望んだとしても、〈皇剣〉が使い手を認めない限りその力を振るうことはできないはずだった。それは未熟な使い手に対しては自己を守るために機能を制限するという〈皇剣〉に備わっている安全機構が原因であるとも、単に使い手が未熟で〈皇剣〉の機能を理解していないからだとも言われているが、事実は一つ、皇太子として〈皇剣〉を継承した者がこれほど短期間で〈皇剣〉を使うことはこれまで不可能だったということ。

 しかし、フレデリックの前に立つ男だけは〈皇剣〉を使って彼の剛剣を凌いで見せた。

 〈皇剣〉に傷一つ無いという事実は、その機能故に特にフレデリックの矜持を傷付けたりはしなかったが、立太子したばかりの若者が自らの剣を受けきったという事実はフレデリックを動揺させた。

 その動揺はレクティファールにも伝わり、彼はそうして生まれた間隙に言葉を滑り込ませる。

「――〈皇剣〉はこの国を守るために力を振るう。だからこそ、今私に力を与えた。この意味が理解できるはずだ、紅龍公」

 怒りを機械によって圧し潰され、しかし隠された激情をその龍眼に滾らせたレクティファールの言葉に、フレデリックは一言呻き、そして沈黙した。

 今となっては彼とて理解している。

 今までの皇太子がすぐに皇王として〈皇剣〉を振るえなかったのは、単にその状況になかったからだと。

 護衛に守られ、先代皇王の喪が明けて即位の儀を迎えるまで決して危険に晒されることはなかった彼らに、〈皇剣〉を振るう理由も意志も存在しなかった。だからこそ〈皇剣〉はその力を発揮することはなく、即位前の践祚を終えたばかりの新たな皇王には〈皇剣〉を使うことができないという常識ができ上がってしまった。

 だが、今このとき皇太子となった青年にはそれが存在した。

 外敵を排し、内憂を滅し、大切な者が住むこの国を守る。

 だからこそ、〈皇剣〉は皇国を守るために使い手の望みを叶えたのだ。

「私が三人の立場だったとしても、いきなり現れた、践祚もしていない皇太子に忠誠を誓うなんてことができるとは思えない。だから、忠誠なんてものは後回しでも、最悪、無くても構わない」

 レクティファールはフレデリックの剣を受け止めた体勢のまま、三人に語り掛ける。

 今必要なのは剣ではなく、意志だ。

 否、今の自分には意志しかない。人脈も財も、経験さえ持たない自分にあるのは、皇太子として振舞うという意志だけだ。

「あなた方は初代皇王より皇国の護持を命じられているはずだ。そして、当代の時代でもそれは変わらなかった」

 彼ら三人がここで軍を発することを選んだのは、皇都戦線の崩壊を察知したからだろう。

 皇都は単に皇国の首都というだけではない。

 初代皇王の建国宣言から始まる皇国の歴史が、皇都〈イクシード〉には籠められている。

 それを他国に蹂躙させることは皇国の存在が傷付くと同義、だから彼らは戦いを選んだ。もっとも確実で、早期の解決になるであろう道を。

 しかし、レクティファールはそれを性急だと言う。

「当代皇王の蛮行、代わって私が謝罪する。だから、此度の戦だけは私の意見を通させて欲しい。その上で私がこの国に害を及ぼすと判断したのなら、そのときに斬り捨ててくれて構わない。決して抵抗はしないと約束する」

 レクティファールの龍眼が三人を見詰めている。

 力持つ龍族ならば金色以外に有り得ない龍眼。

 しかし、この皇太子の瞳は他に類を見ない白銀の龍眼だった。

 これまでの皇王も同じように龍眼を持っていたが、彼らの龍眼も元々の瞳の色を色濃く残していた。その中でも、白銀という色素の薄い龍眼はこれまでに無いものだ。

 別にそれが特別であるという意識はない。ただ、その白銀に少しだけ興味が湧いた。龍族とは違うその瞳で、今何を見ているのかと。

「――――」

「ターシャ!?」

 フレデリックの驚愕を涼しいぼうっとした顔のまま受け流したアナスターシャが、無言のまま円卓に戻り腰を下ろした。

 そんな盟友の行動に、如何にも仕方がないといった風に肩を竦めたマリアが続いた。

 カールもまた密かに安堵の溜息を漏らして円卓に着き、残るはフレデリックただ一人となった。

「――――」

 無言で視線を絡ませる二人。睨み合いとも言えない視線の交わり、互いの内心を解き明かそうと視線を交換する。

 白銀と黄金が交わり、そして離れた。

 その刃と共に。

「――今回だけは〈皇剣〉に免じて話を聞いてやる。従うかどうかはそのあとだ。文句はねえな?」

「感謝する」

 不機嫌そうに鼻を鳴らしたフレデリックが円卓に戻ったとき、この場は皇国の次期皇王と元老が集う議場となった。

 この戦いを記した書物に悉く名を残すことになる、『聖都会談』の幕開けである。

         ◇ ◇ ◇

『聖都会談』

 この会談は初等中等高等とどの学校でも皇国史の教本を開けば必ず登場し、試験の鉄板問題として点数稼ぎに使われている。

 しかし、高い知名度とは裏腹に、詳しい内容が明かされなかったことで、研究者たちはこぞってその内容を分析、研究した。このたった一つの問題を解き明かすために大規模な研究討論会が開催されたほど、人々の興味を刺激してやまない題材なのだ。

 ある研究者はこの会談の終えた時点で皇王レクティファールを支える臣下団の礎ができあがっていたと言い。別の研究者は事務的なやり取りに終始したのではないかと分析した。

 前者の言い分としては、この会談以降四公爵は皇王家の臣下として大きな働きを見せており、その働きによってこの一連の騒乱が終結したというものだ。それだけの大仕事をさせたのだから、レクティファールにはそれを可能とするだけの能力があったと見るべきだと彼らは主張する。

 対して後者は、この時点でのレクティファールには圧倒的に経験が不足しており、四龍公を纏め上げることは難しかった。そのため、三龍公側は大義名分を得るために皇太子という旗頭を利用し、レクティファール側がその策に乗っただけで、会談の内容はその確認に費やされたに過ぎないと主張した。

 両者の違いは、レクティファールという後の世の英雄をどう見るかに尽きる。

 前者がレクティファールという存在を生まれながらの英雄と仮定し、その片鱗はこの頃からあったと考えているのに対し、後者はレクティファールという人物は結果的に英雄となっただけで、その過程は地道な行動と結果の積み重ねであると考えている。

 ただ、両者とも共通している部分はある。レクティファールという人物が旗頭となり、この会談のあとに行われた戦いに勝利したという点だ。

 公文書には『ミラ平原鎮圧戦』と記され、人々には『皇都奪還戦』と呼称される戦いは、レクティファールという英雄がその名を世に知らしめた最初の戦いだった。

英傑時代フェイルド・イギス』とも渾名される皇国暦二〇〇〇年代は、世界各地で英雄が生まれ、消えていった時代だ。

 アルマダ大陸だけでも〈新生アルマダ帝国〉の陽虎姫。〈マルドゥク王国〉の赤髪鬼。〈自由都市国家聖印連盟〉の魔弾女王。〈シェルミア共和国〉の鉄血王子。そして、〈アルトデステニア皇国〉の星龍皇。

 世界規模で見るなら、この数倍もの英傑たちが現れた。

 彼らはその後、ある者はひっそりと消え、ある者は華々しく散り、ある者は元の生活へと戻り、ある者は老いて死ぬまで英雄として生きた。

 どの生き方が正しかったのかは、彼らにしか分からない。

 しかし確実に言えることは、その中の一人がひとつの国を、人々の意識を変えたということだ。

         ◇ ◇ ◇

 会談を終え、カールと別れたレクティファールは、時折擦れ違う警備の騎士に労いの言葉を掛けつつ部屋へと戻った。

 しかし、延々と続いた会談で疲労した心身を引き摺るようにして戻った部屋で、彼はさらに精神的な疲労を重ねることになったのである。

「――――」

「む~~レクティファールさまぁ……」

「レクト……ばか……しらない……」

 何故か矢鱈と広かった寝台の上で、リリシアとメリエラが気持ちよさそうに眠っていたのだ。

 一瞬警備の騎士は何をしていたのかと思ったが、一介の騎士にこの二人を止められるはずがないと思い直した。

「――私だって、何も感じないわけではないんですけどね」

 二人ともひらひらで微妙に透けている目のやり場に困る寝間着姿であり、彼は一目見た瞬間に一瞬気が遠くなった。仲悪いんじゃなかったのか、と疑問にも思った。もっとも、彼の疑問が解消されるのは翌朝を待たねばならなかったが。

 しかし、双方とも見目麗しい乙女である。この部屋がレクティファールの寝室であるという諸々踏まえ、このまま襲いかかっても文句は言えないはずだった。

 それでも嫁入り前の娘が男の部屋で着る服ではないと真剣に考えた辺り、彼の理性の鉄壁振りが伺える。

 あまりにも常識外れな光景に腰が引けただけという理由もあるが、それは言わぬが花というものだ。それに、いつまでも理性が鉄壁であり続けるとは限らない。精錬された鉄でも、劣化するのだ。

「ああ、もう」

 彼は深夜の大神殿の居室で途方に暮れることになる。

 新たに部屋を用意して貰うという選択肢は気後れしてしまって選択することができず、当然二人の寝ている寝台に入ることもできない。いや、仮にやったところで実は問題ないのだが、彼はそれを知らなかったし実行する度胸やら何やらが決定的に不足していた。

 結局彼は寝台から一枚だけ掛け布を拝借すると、部屋の中央に置かれた長革椅子に寝転がってしまう。

 すると今までの疲れが一気に押し寄せ、彼は数分もしない内に夢の世界の住人となっていた。〈皇剣〉も自己の機能保全と最適化のため、使用者に休息を要求していたようだ。

「くかー……」

 皇国皇太子レクティファール・ルイツ=ロルド・エルヴィッヒの皇太子生活初日は、こうして終わりを迎えた。

 翌朝彼は盛大に叫び声を上げることになるが、少なくともこの時点では暢気に寝息を立てている。

「――へくしッ」

 あと、間抜けなくしゃみも。

         ◇ ◇ ◇

「ウィリィアちゃんはやっぱり筋がいいわね、お父様の血かしら」

「ありがとうございます!」

 城の庭で剣の稽古をつけてもらったとき、自分を褒めてくれるあの笑顔が好きだった。

「うちの子は余り剣は好きじゃないみたいだし……折角だからわたしの剣は全部ウィリィアちゃんに教えようかな。アルフォードの剣は剛の剣だし、わたしみたいな軽く速い剣も少しは覚えておいた方がいいでしょう」

「はい、頑張ります!」

 公務の傍ら、自分に剣や礼儀作法を教えてくれるあの人の手のひらが好きだった。

「ああもう、やんちゃなのはいいけど、顔に傷が残ったらどうするの。うちの子みたいに綺麗に治るとは限らないのよ?」

「ごめんなさい……」

 困ったような顔で自分の顔を撫でるあの人の指が好きだった。

「ほら可愛い! ルイーズに頼み込んだ甲斐があったわ。ルシェットの焼き菓子は結構財布に響いたけど……」

「奥さま……動き難いです」

 自分を着せ替え人形にしたあの人が浮かべる得意気な笑顔が好きだった。

 憧れていた。あの人のようになりたいと思った。

 だから、剣の稽古も礼儀作法も踊りの稽古も頑張った。

 あんなにも綺麗で、強くて、優しい人になりたいと思った。

 なのに――

「この子を、メリエラをお願い」

 あんな悲しそうな顔で、別れることになってしまった。

 自分がもっと強ければ、もっと思慮深ければ、幼い主君を止める勇気があれば、それだけであの悲劇は回避できたのに。

「――ウィリィアちゃん」

 そう思うたび、こんな悪夢を見る。

 憧れたあのひとが、恨みがましい目で自分を見詰めてくるのだ。

 半身を失い、焼け爛れた身体で、青白い顔をして。

「――ウィリィアちゃん、あの子を」

 分かっている。分かりきっている。

 自分の存在価値はあの方を守ること。それ以外の生きる道はない。生きる価値がない。

 そう思わなければ、罪悪感で潰されそうになる。

「――ウィリィアちゃん」

 大好きだった。本当の姉のように思っていた。

 あの人より強い人はいない。あの人より綺麗な人はないない。ずっとそう思っていた。

「――ウィリィアちゃん」

 そんな人を殺してしまった自分が、自分のために生きることは許されない。

 自分が生きていられるのは、あの方を守っている間だけ。

「だから、許してください……」

 だから今日もまた、彼女は一人で涙を流す。


         ◇ ◇ ◇


 騎士妃ウィリィア。

 まるで誰かが消し去ったかのように、後世にはほとんど資料の残っていない人物だ。ただし、レクティファールと関係が深かったと推測できる資料が幾つか存在している。

 その中の一つは彼女の孫――但し、血縁関係については諸説ある――に当たる人物が記した伝記であり、物語として描かれていることもあって、その内容は史実とはだいぶ異なる。

 しかし、異なるといっても彼女の生涯を記した確かな資料が存在しない以上、どこまでが創作であり、どこからが真実であるか、その答えは出ていない。

 レクティファールの愛人であったという市井の記録があり、皇族簿に記載がないことから、名前を変えて妃となった。もしくは皇族簿に記載されない愛人という立場のままだった。単に皇族簿から名前を削除したという意見もある。

 その愛人という記録の真贋を疑問視するなら、レクティファールの無二の友だった。実はメリエラ妃を巡る敵対関係にあった。レクティファールによって他国へと嫁がされたため、皇国に記録が残っていないという説も成り立つ。

 最後の説の根拠としてレクティファールが摂政だった頃にウィリィアらしき女性が〈マルドゥク王国〉に嫁いだという資料の存在があるが、その資料には史実と異なる点も多く、真相を解明するには至っていない。

 舞台演劇には、メリエラ以上にレクティファールに愛され、それ故に本来の主君であるメリエラに疎まれたというもの。皇妃たちの争いに巻き込まれて生命を落としたというもの。戦場に赴き、そこで戦死したというものもある。

 謎多き妃――厳密には妃と断定された訳ではないが――として人々の創作意欲を刺激する彼女であるが、比較的信頼性の高い歴史資料とされる皇妃メリエラが残した記録によれば、若い頃はレクティファールと毎日のように剣を交えていたのは間違いないらしい。

        ◇ ◇ ◇

 あの部屋に入った瞬間のことは憶えていない。

 ただ、自分の生命よりも大切だった人が誰かの隣で眠っているということを認識した瞬間、心の奥底から制御できない感情が吹き出した。

 自分の生きる理由を奪われた、そんな気がした。

「そこを動くなッ!」

「お断りです」

 誰かがあの方を守るなら、自分は不要なのではないか。

 誰かがあの方の隣にいるなら、自分の居場所はもうないのではないか。

「たとえ婚約者だとしても、未だ正式に輿入れも済ませていない今! あのようなことをして許されると思っているの!?」

「私の意志じゃありませんよ!」

 その言葉に、迷いなく剣を振り抜く、相手は刃の軌道を潜りぬけ、壁を蹴り登って天井へと。

「そんなことッ!」

 信じられるわけがない。あの方はそう簡単に身体を許したりはしない。

 そんな軽挙を許すような教育は誰もしていない。あの方は、然るべきときに然るべき殿方に嫁ぐべく、リンドヴルム公爵家の未来を担う女性として育てられたのだ。

「何故、あなたが……!」

 何故、そう、何故だ。

 もっと力のある者でなければあの方は守れない。

 あの方はずっと待っていた。自分の役割を果たせるときを、それこそ身を切られるような想いで。

「姫さまに守られていたあなたが、姫さまを守れるというの!?」

 この男は何の力も持たず、記憶さえ不確かで、あの城でもっとも弱い男だった。

 確かにこの世界のことを憶えようと必死に勉学に励んでいたことは知っている。だが、だからこそ納得できない。

「姫さまは……あなたのためだけに生きているんじゃないッ!」

 太腿に固定されている剣帯に手を走らせ、三本の投擲剣を引っ掴む。それを上空に向かって投げ放ち、自身もそれを追う。追いながら、思った。

 ああ、なんと勝手な言い分だろう。

 あの方から家族を奪うきっかけを作った自分が、あの方の生き方に口を挟めるものか。

「逃げるな! 逃げずに私に勝って見せなさい!」

 飛来した投擲剣を、レクティファールは空中の不安定な体勢の中で一つ残らず掴み取ってみせた。そのまま投擲剣を光へと変換し、何処かに転送してしまう。

 その一連の動作の間に、一気に距離を詰めた。

「レクトぉおッ!」

 躊躇いなく大上段から振り抜く。その瞬間金属の悲鳴が上がり、回転していたはずの刃が一本の細い刀身に絡み取られた。

「やっと名前で呼んでくれた」

「ふざけるなッ!」

 そのまま床へと降り立ち、二人は神殿の中庭へと飛び出した。

 周辺に神官や騎士の姿が見える。

 だがウィリィアはそれに気付かず、レクティファールも対応する余裕がなかった。

 歴戦の戦士であるウィリィアの動きは、〈皇剣〉を継承したばかりのレクティファールには余りにも早い。

〈皇剣〉の反応速度のお陰で一撃も受けずに済んでいるが、周辺にまで気を配る余裕はなかった。

 それに、レクティファールにはもう一つ余裕を奪う理由がある。。

「そんな苦しそうな顔をして追い掛けられたら、流石に対処に困ります」

「そんな顔してない!」

〈岩窟龍断ち〉の駆動機関が過負荷に警告を発する。刃の回転を無理やり停止させられ、駆動部からはうっすらと白煙が上がっていた。

「離せ!」

「まあ、構いませんが」

 ウィリィアが怒鳴れば、レクティファールはあっさりと〈岩窟龍断ち〉を解放した。駆動部は異常加熱によって緊急停止したままだ。

「ああッ」

 だが、ウィリィアはそのまま〈岩窟龍断ち〉をレクティファールに向けて振り上げた。

 回転していなくともある程度の切断能力は有している。それに、ウィリィアには目の前の男の冷静な顔が酷く気に食わなかった。

 相手が皇太子であることさえ、彼女は完全に意識の彼方に追いやっていた。

 それだけメリエラを奪われることに逆上したのか、純粋にレクティファールを疎んじていたのか。

 その答えさえ見付けようとしないまま、彼女は〈岩窟龍断ち〉を振り下ろす。

「おっと」

 大きく土を巻き上げながら、〈岩窟龍断ち〉は地面にめり込む。ウィリィアの動きは、時間を経るにつれてぎこちないものへと変わっていた。

 レクティファールには、それが手に取るように分かった。しかし、一体化した〈皇剣〉が幾度反撃の機会を教えても、彼はウィリィアに手を上げようとはしない。

 彼は〈岩窟龍断ち〉を避け、中庭を走り、庭の中にある人工林へと足を向ける。

 木々の中では、いよいよウィリィアの動きが鈍くなった。

 樹木と〈岩窟龍断ち〉が接触しないよう、一つ余計な動作を強制させられるようになったからだ。

「逃げるなって言ってるでしょうッ!」

「逃げなくては当たってしまいます」

 そうなれば、ウィリィアは皇太子を伝家の宝剣で傷付けたことになってしまう。

 たとえレクティファールが問題視しなくても、周囲の者たちがウィリィアを遠ざけるだろう。

 それは、レクティファールの望むことではなかった。

「落ち着いてください」

「わたしは落ち着いて……」

 そんなはずがないことを、二人とも理解している。

 目尻に涙を浮かべて叫ぶウィリィアも、その涙に胸を軋らせたレクティファールも。

「その剣を下ろしてください」

 そう言ったところで、返答は剛剣の一撃。

 レクティファールは〈岩窟龍断ち〉を躱しながら鬱蒼と生い茂る樹々の間を走り、その中から一本の樹を選び出した。〈皇剣〉の光学情報分析により見付け出したその樹には、他にはない特徴があった。

「ウィリィアさん」

 できるだけ優しく名を呼べば、逆上したように彼女は迫ってきた。

 真っ直ぐに、彼女の信念のごとく、生き様のごとく。

「どうして、今、あなたが!」

 もう少し自分が強ければ、〈皇剣〉を使いこなせれば、この人にこんな顔をさせずに済んだだろうか。

 笑った顔でも、怒った顔でも、困ったような顔でも、照れたような顔でもいい。

 ただ、泣き顔だけは苦手だ。

「――私にも、良く分かりません」

 自分が此処にいて、〈皇剣〉を扱う身の上になった理由など、分かりはしない。

「だったら……!」

「ですが、ウィリィアさん」

 こんな自分でも、分かることはある。

 理屈以上の何かが目の前の女性を大切だと結論づけていて、自分の感情もそれを肯定していることだ。

「私はウィリィアさんのことがどうしようもなく大切なので」

「――ッ! そんなことッ、そんなこと……!」

「まあ、分かりやすく言えば」

 そう、一言で言えば。

「一目惚れかと」

「――え」
 がしゃん、と〈岩窟龍断ち〉が地面に落下する。

 ウィリィアは力なく柄を掴んだまま、目を丸くしてレクティファールを見上げた。

 その瞳が動揺し、口が意味もなく半開きになる。

 呆然、と言えば、それだけでこと足りる表情だった。

「ですので――」

 もうそろそろ、剣を置いて欲しい――その言葉はしかし、ウィリィアには届かなかった。

「ふ」

「ふ?」

 彼女は顔を真っ赤に染め、肩を震わせ、涙目になって、〈岩窟龍断ち〉を振り上げる。

 レクティファールの顔色が、一気に青ざめた。

「え」

 本当に意味のないその一言を最後に、〈岩窟龍断ち〉は振り下ろされた。

 同時に、神殿の各所で「ふじゃけんにゃ」という悲鳴が聞こえたという。

         ◇ ◇ ◇

 レクティファールという男を表現するとき、女の存在は欠かせないと人々は口を揃える。

 正妃、側妃、愛妾、と男女の仲であった者たちはもとより、友人や好敵手といった間柄の女性たちも多い。もちろん、レクティファールは男性の友人や好敵手にも事欠かないが、物語として彼の人生を描く場合、女性たちを中心に据える場合が多く、そういった理由から「レクティファールは女好きだった」という明確な根拠のない評判が立ってしまったのだと考えられる。

 当時の他国の専制君主と比較してもレクティファールが群を抜いた女性遍歴を持っていたとは考え難く、ある種の情報操作によって人々の間にそういった評判が定着したというのが、現在の定説だ。

それらの女性の中で、〈白鱗の龍妃〉メリエラをはじめとした五人の四龍姫などは、それぞれが物語の主人公になるほど人々に愛され、よく知られている。

 だが、そういった日なたの妃たちがいるように、歴史に名の残らない日陰の妃たちもいる。

 側妃アリアといえば、そういった妃たちの中では比較的名の知られた人物だろう。

 行儀見習いの貴族子女を多く受け入れたため、貴族たちへの影響力が大きかった人物で、それにより、貴族たちを手玉にとった悪女とも、君臣の融和に努めた聖女とも言われる。

 彼女の人生はレクティファールに献上されたところから始まると言って間違いない。

 マリエの離宮の主として、レクティファールとの間に七人の子を作った彼女であるが、その出会いについては彼女自身ではなく、彼女の下で行儀見習いをしていた一人の女性が書き残している。その女性はレクティファールの仲立ちで隣国の王太子の元へと嫁ぎ、両国の友好の架け橋として国民に愛された。

         ◇ ◇ ◇

 なるほど彼女は男の理想というものを具現化した一つの形であった。

 全体的に細く、決して肉感的ではないが艶美さを失わない肢体。

 皇太子に“献上”されるだけあって、薄い桃色の髪は白に近い。緩やかに波打つそれが軽やかにレクティファールの視界で踊り、その髪の中に浮かんだ白皙は一つ一つの部位が整っていた。純粋な美という意味では、皇国の社交界に於いて美姫と称されるメリエラよりも洗練されているかもしれない。

 ただ、何かが抜け落ちているような気がして、彼は気付く。

(ああ、人形のような美しさ、とはこういうものか……)

 選ばれて、そういう形に育てられた。たった一つ、男に気に入られるためだけに。

 だからこそのこの美貌なのだ。

 整形だとか、肉体改造だとか、そんな次元のものではない。

 彼女たちは、それ以外に選択肢を与えられずに育てられる。

 それ以外に道があることも教えられず、疑問を持たないように常識ではなく知識だけを与えられて。ほんの一握りの男に総てを捧げるためだけに生かされてきた。

 それが今、レクティファールの前にいる『蕾の姫』。

 男を知り、花となった暁には『花の妃』と呼ばれるようになる最上級の『蕾』。

 この上なく丁寧にアリアと名乗った彼女だ。

「殿下は、湯浴みはもうお済みですか……」

 レクティファールの姿を見て、彼女はそう言って少し困ったように顔を伏せた。

 その仕草にミレイディアからどんな指示を受けていたのか大凡理解できたが、何、ミレイディアの日頃の言動を思えばさして不思議でもない。

 彼はできるだけアリアという存在に深入りしないよう、慎重に言葉を選ぶ。

「疲れていたから、早めに休もうかと」

 言葉数を少なくしたのは、相手にこちらの感情を伝わりにくくするため。

 暗にこれから休むところだと伝えたのは、彼女が自分の『手付き』として扱われる前にここから帰すためだった。

 彼にしてみれば、とりあえず会ってみたという時点で関係各所に対する義理は果たしたと考える。

 ならば、さっさとお引き取り願うべきだろう。

 レクティファールも男である。美しい女性が目の前にいれば心も弾もうが、このアリアという女性が意志とも呼べない曖昧な気持ちでここにいるということは容易に理解できる。

 そこで手を出すことは、果たして後の後悔の種にならないのか――レクティファールはそう考えてしまうのだ。

「そう、ですか……」

 だというのに、アリアは彼の意図を理解したようには見えなかった。或いは、上役からきつく言い含められているのかもしれない。

 肩や背中、胸元など、メリエラが普段来ているものより素肌を晒した艶麗な衣裳の裾を弱々しく掴み、寝室へと繋がる扉をちらちらと盗み見ている。かと思えば、今度はレクティファールの顔を伺うように見上げてくるのだ。

 もしかしたら、先ほどのレクティファールの言葉を彼女の役割に沿った形に解釈したのかもしれない。

 彼女は緊張を少しも隠せず、震える声で言った。

「では、あちらのお部屋で――」

 ああ、やっぱりだ。

 レクティファールは頭を抱えそうになる自分を抑え付け、頭を振って、できるだけ高圧的にならないよう細心の注意を払い、それから口を開く。

「いや、必要ない」

 でも結局、その声は固くなった。

 レクティファールは自分の言葉に目の前の女性――或いは少女の肩が大きく震えるのを認め、口を噤む。

 そして考える、もしかしたら彼女は自分以外の男というものを間接的にしか知らないのではないか。

 男を悦ばせる知識技術は教えられていたとしても、それを実在する男で確認したことはないのではないか。

 そこまで考えて、レクティファールは別の事実にも気付いた。

(――ここで帰したら、彼女はどうなる?)

 皇太子に突き返された『蕾』。

 確かにその容貌は皇国どころか大陸の男たちの欲望の対象として相応しいだろうが、現実はどうだ。彼女はメリエラやリリシアとは立場が違う。

 彼女を育てた者たちにとって、彼女が何もされずに――手を付けられずに帰ってくることは何を意味する。

 決まっている。これまで彼女に注ぎ込まれた時間、労力、金、ほとんどが露と消えるのだ。

 当然彼らもそれで諦めるわけにはいかないから、レクティファールより格下の男に再び差し出されることもあるだろう。だがその相手は、皇太子の『お下がり』を欲しがったりするだろうか。いや、本人が望んだとして、それを周囲が許すだろうか。そもそも、皇太子殿下の眼鏡に適わなかったような『失敗作』を貴族や大商人が欲しがるのか。

 彼らにも見栄がある。皇太子から直々に下賜されるならともかく、在庫処分のような形で女を宛てがわれたら、彼らの矜持は著しく傷付けられるだろう。

 最上級の『蕾』としての価値はレクティファールに気に入られなかった時点で地に落ちる。となれば、見た目が良いだけの娼婦として客を取らせた方が儲けが大きいと考えたりはしないだろうか。

 この常識を知らず、世間を知らず、男を知らない『蕾』の運命とは、今日この大神殿に上げられた時点で決まってしまったのではないだろうか。

 決して逃げられない場所まで追い遣られてしまったのではないだろうか。

 そこまで考えたとき、怯えたように自分を見るアリアの姿を見て、レクティファールは総てを理解した。

 ――ああ、これが皇太子であり、皇王か、と。

 己の内の正義感と義侠心に駆られるまま人を物のように扱う人々に憤慨し、自己満足に浸って彼女を帰したあと、その運命がどうなるのか、それに気付かなくても考えなくても良い存在なのだ。

(解りたくないもない現実だ)

 そうだ。

 もう自分はあの頃の価値観で何かを判断することは許されない。

 あの世界で死んだとき、あの世界の価値観は総じて錆び付き、朽ち落ちてしまった。それを以前のように気楽に使うことはできず、代替品で自分という装置を動かすしかない。

 継承の儀の直前、ミレイディアに自分は言った。諦めることを諦めようとしていると。

 だがどうだ、現実はそれよりも早く、諦めて進むよりなお早く進めと言ってくる。

 諦めろ、そして棄てろと言ってくる。

 それが皇だと。

 それが生かす者、殺す者だと。

 諦めて諦めて、それでも諦めて進もうとしている自分に、世界は言うのだ。

 本当に総てを諦めていいのか、と。

 自分の出す答えを知っていながら、それでも問うてくるのだ。

(これが、これこそが皇か)

 命を簡単に斬り捨てる権利を有し、他人を虐げる権利を有し、総ての価値観を無視する権利を有する至高の愚者。

 愚者であることに誇りを持ち、愚者であることを忘れず、愚者としての生き方を恥じること無き愚者。

 自らの諦めの果てに存在するのは、愚者の宴。

 「なんだ――皇とは、愚者の中の愚者じゃないか」

 簡単なことだ。賢しく生きるには、この身は大きくなり過ぎた。

 この身は、この身に相応しい生き方しかできない。

「よし」

 ならば、自分なりに生きよう。誰憚ることなく、皇王として好きに生きる。

「え、あの……?」

 レクティファールの口から漏れた言葉に、アリアが顔を上げる。

 きょとんとしたその顔を見て、彼は腹を決めた。

「あなたが好きなものは何ですか?」

「え……」

 アリアはレクティファールの問い掛けに困惑しているようだった。

 当然だ。何の脈絡もなく、これといった分野に限定することさえしていない質問を投げ掛けられ、悩まない者は幼い子どもぐらいのものだ。

 ただ、相手が相手であると思ったのか、アリアは少しの間だけ悩み、レクティファールの反応を窺うように答えた。

「花が、マリエの花が好きです」

 レクティファールはその答えに肯く。大いに結構、そう思った。

 そして重要な決断するように二度三度深呼吸し、アリアに向き直る。黙ったまま、目の前の『献上品』の両肩に手を置いた。

 アリアが身体を震わせたことなど、無視した。皇王のように、傲然と。

 そして告げるのだ。これ以上ない傲慢な言葉を。

 人々が望むように、皇王らしく。

「これからの君の時間、私がすべて預からせて貰う。その代価に、君が望むとき、望むだけ、私は君にマリエの花を贈ろう。君の望みは私しか叶えられない。君の未来は私しか作り得ない。そしてその代償は、やはり私にしか贖えない」

 驚くアリアの顔を見詰めながら、レクティファールは自分の中の何かを圧殺しようとしていた。

 それは嘗ての自分であり、皇太子としての自分でもあり、そして今、アリアを前にしてなおこの場から逃げたいと思う自分だ。

 みっともない、この上なくみっともない自分が腹立たしく、しかし、それ故に彼は決断することができた。

 皇王が殺すのは他人だけではない、自分をも殺す。

 全身全霊を懸けて、自分という存在を殺し尽くさなくてはならない。その切っ掛けとして、アリアという女性を利用しようとしていた。

「だから、君は生きている限り私の庭に咲く花であってくれ」

 くそ、と益体もない自分の語彙を毒突きたくなった。

 もっと他に言うべきことがあるだろう。もっと他に言わなくてはならないことがあるだろう。

 そう思えば思うほど、言葉は出てこない。

 だから、彼は言葉を諦めた。ただ、自らの地位に与えられた女を怒りのままに抱き締めた。

 ああ、この素晴らしく愚かなる世界よ。

 自分は諦めよう、この世界で嘗ての世界を忘れぬことを。

 だが、諦めても尚進もう。

 あらゆるものを諦めても、それでも進んでやろう。

 そして忘れるな、“我”はここにいる。

 レクティファール・ルイツ=ロルド・エルヴィッヒはここにいる。

 皇ではない、皇として。

 それだけは、世界にさえ指図される謂れはない。

         ◇ ◇ ◇

 お転婆正妃リリシア。

 本人はリリシア・エルヴィッヒと呼ばれることを好んだと言われる。

 わずか十四歳にして大国の正妃となった彼女は、しかしその二つ名に反してそれ以降特に目立つことはなく、他の妃に較べれば平穏な人生を歩んだ。

 子を成し、家を守り、正妃としての生き方を全うした。

 若い頃は随分とお転婆で、少数の護衛を付けて城下へと繰り出したことは数知れず、城下の人々の中にはその正体に気付きながらも、あえてそれに触れないまま彼女と接していた者たちもいたという。

 その目撃談には様々なリリシアの姿があり、港で釣りをしていた。川に落ちていた。木の上で降りられなくなっていた。屋台で食べ歩きしていた。本屋で立ち読みして店主に怒鳴られていた。初等学校の生徒たちと札遊びをしていた。公園にいた妊婦の腹部を撫で、嬉しそうに笑っていた――などなど、皇王家の公式記録よりも、市井の者たちの日記などの方が多くの記述が見られる。

 子どもが生まれてからはその子どもと一緒に城下に出掛けることもあり、彼女の第一子――正妃が産んだレクティファールの子としては六人目。男子としては一人目――が市井の女性に求婚し、結ばれたというのは、その頃の教育が影響しているのだと思われる。

         ◇ ◇ ◇

 大神殿の廊下を、軽やかに進む一つの人影。

 袖なしの上衣は簡素であるが品の良い装飾で彩られ、丈の短い傘袴から伸びる足は細く白い。

 揺れる翡翠の髪には幾つもの飾り紐、廊下で彼女の姿を見つけて頭を垂れる者たちは総て、その嬉しそうな姿に顔を綻ばせた。

 その中のひとり、警護役の神衛騎士が彼女に訊ねた。

「猊下、どちらに?」

「レクティファール様のところに」

 実を言えば、訊くまでもなく答えは分かっていた。

 彼女の顔に訊いて欲しいと書いてあったから、敢えて訊いたまでである。

「殿下はまだご執務の最中ではありませんか」

「ええ、ですから突然訪ねて驚かせて差し上げようと思ってるのです。マリア殿にはお話ししてありますし」

 根回しは済んでいるという巫女姫を前に、騎士は苦笑と共に頭を下げる。

「そうですか。それでは、いってらっしゃいませ」

「はい!」

 まるで翼があるよう、とはこのような光景を指す言葉なのだろう。

 騎士はとんととん、とんととんと規則正しく飛んでいく巫女姫を見送った。

 〈温室〉に着くと、リリシアは入り口に立つ二人の警備の騎士にレクティファールの所在を確認した。

 彼がまだ中で政務を行っていると聞き、良かったと呟いて近くの長椅子に腰掛ける。

 両足をご機嫌に揺らし、鼻歌を歌いながら、何度も何度も〈温室〉の入り口を窺う。

 警護の騎士たちは微動だにせず入り口に立っているが、時折その視線が巫女姫に向かうのは仕方のないことだろう。

 彼らはリリシアがこれほど明るく活発な少女であるとは知らなかった。

 物静かで、儚いという印象をずっと抱いていた。

 それが、たった一人の青年の登場で一変した

 今のリリシアは毎日大神殿の中を駆け回り、歳相応の笑顔を各所に振り撒いている。

 神官たちさえその行動を諫める者は少なく、諫めても笑顔で諭す程度。

 一番強く窘める者がいるとすれば、白龍姫メリエラという有様だ。

「猊下、そろそろ殿下が参られます」

 警備の騎士がそう告げれば、リリシアはぴょんと椅子から立ち上がって身嗜みを整え、最後に騎士たちの前でくるりと回った。

「おかしなところはありませんか?」

 問われれば、答えなど決まっている。

 騎士二人は声を揃えた。

「はい、お綺麗ですよ」

 その答えに、ぱっと表情を輝かせるリリシア。

 うきうきと入り口を眺めるその姿に、騎士たちは崩れそうになる表情を必死に維持した。

 年齢相応というよりも、実年齢より幼い印象を受ける仕種の数々。

 一部の女官たちがリリシアの姿に熱を上げているというのも、あながち嘘ではないかもしれない。

 騎士たちがそんなことを考えている間に、〈温室〉の入り口が開いた。

「――礼」

 金属の擦れる音と共に、騎士二人が剣を捧げる。

 扉から姿を見せたレクティファールが答礼すると、二人は剣を降ろして直立不動の姿勢に戻った。

「ご苦労。楽に」

「は」

 再度の金属音。騎士は肩幅に足を開き、必要以上に溜め込んでいた力を抜いた。

「レクティファール様!」

「ああ、リリシア。こんなところで何を?」

「決まっています! レクティファールとお散歩がしたくて……」

 なるほど、とレクティファールは独語し、背後を振り返る。

 蒼龍公マリアと、神殿に召喚された数名の文官に頷いてみせた。

「では、万事予定通りに」

「は」

 マリアを除く文官たちが一礼と共に立ち去る。いずれも書類を抱え、歩き難そうだった。

「マリアも、よろしく頼みます」

「はい殿下」

 優美なお辞儀の最中、マリアはリリシアに片目を瞑って見せた。

 リリシアもレクティファールに気付かれない程度に頷き、二人の無言の遣り取りは終わる。

 静かに歩いて行くマリアの背を見送り、レクティファールはリリシアに訊ねた。

「メリエラは……」

「お仕事です」

 即答である。

 レクティファールはリリシアの声音が硬く鋭いものに変わったことに苦笑すると、「少しは仲良くしてください」と本心を吐露した。

「だって、レクティファール様はお一人しかいませんもの」

「分身でもできれば違うんですかね」

 レクティファールが歩き始めると、リリシアはその腕にしがみつくようにして身体を寄せてきた。

 歩き難くないかと聞けば、大丈夫と満面の笑みが返ってくる。

「――分身なさるのはいいですけど、本物はわたしのものです」

「それでは何も変わらない気がしますけどね」

「ええ、ですから分身なんてしなくて構いません。ちゃんとわたしを見てくだされば」

 頬を膨らませるリリシアの頭を撫で、レクティファールはやれやれと頭を振る。

 リリシアの気持ちは理解できなくはないが、一夫多妻という制度そのものが原因ともなれば抜本的な解決は難しいだろう。

 皇太子として仕事をしていると分かるが、君主というのは専政者であると同時に調停者である必要がある。

 行政官庁の間を取り持ち、家臣同士の間を調整する。それができなければ、皇国という国は満足に回らない。

 調整という地味だが重要な仕事を忘れた国は、少しずつ少しずつ末端から腐っていくものだ。中央がそれに気付いたときには、もう手遅れということも多い。

 帝国などは、その典型的な悪例だ。中央の目の届かない場所で、地方官吏や軍人が好き勝手に利を貪っている。

 中央にもその現状に気付いている者がいるだろうが、彼らはその情報を生かすことができない。そのような場を得られないからだ。

 組織の潤滑剤となる調停者が不在であることは、そのまま国家の存亡に直結する。

 そして調停者には、幅広い人との繋がりが不可欠であった。

「レクティファール様は皇太子ですもの、わたしも妃妾の百や二百でどうこう言うつもりはありません。ですが、それもレクティファールがわたしをちゃんと見てくださることが前提ですよ?」

「百、二百……」

 想像よりも桁が一つ違う。レクティファールは何とも微妙な気分になった。

 余りにも桁が大きすぎ、想像の範疇を超えてしまったのだ。

「レクティファール様? ちゃんと聞いてくださってますか?」

「ええ、もちろん」

「だったら、もっとわたしのこと見てください。こういう髪型がいいとか、こういう服が好きだとか、色々お教えくださいませ」

 言われて、レクティファールは改めてリリシアに目を向ける。

 リリシアも、じっとレクティファールを見上げていた。

「今日の召し物は如何ですか? 髪型は?」

「ええと、よく似合っていらっしゃる」

「どの辺が?」

 ぐいと腕を引かれ、レクティファールはつんのめった。

 リリシアの胸に引き寄せられた腕から柔らかさと暖かさが伝わってくる。

「そうですね……」

 レクティファールは顎に手を当て、リリシアの姿を上から下まで眺める。

 リリシアが頬を染め、顔を伏せた。

「あの、やっぱりもう少し女性らしい体付きの方がいいですよね。一応栄養を考えた食事を摂って、朝晩の運動も欠かさないように頑張っているのですが……」

 姉という希望があるからこそリリシアも努力を欠かしていないが、彼女の種族の十四という年齢の平均にさえ届かぬ身体は、彼女にとって密かな悩みであった。

「いえ、それは時間がどうとでもしてくれるでしょう。私としては、リリシアが健康でいてくれればそれで……」

「でも……!」

 リリシアがなおも言葉を続けようとするも、レクティファールがその唇に人差し指と中指を触れさせる。

 困惑したようなリリシアに、レクティファールは溜息を吐いた。

「最近、どうにも女性関係で色々問題が起きている気がするのですが、占いとかありませんかね」

「む――っ」

 レクティファールの吐き出した言葉に、リリシアが抗議の声を上げる。

 自分の知らないところで一体何をしているのかと訊きたいらしい。

「何というか、色々努力しているのです。リリシアと同じように」

「む――?」

 首を傾げるリリシア。

「前は大切なものがなかったから気付かなかったんですが、人って大事なものができるとそれを守るために平気で無茶をするようになるんですよね」

 ウィリィアのメリエラに対する献身も、これに類することだ。

 大切なものは人によって様々で、金、地位、女、或いは家族や友人、信義などもこれに含まれる。

「私にとってはメリエラもウィリィアさんも大事ですし、アリアだってリリシアだって失くすのは怖い。皇太子の地位や権力は目に見えませんが、リリシアたちはこうして目に見えて、触れ合うことができる。私としては、リリシアたちの方がより大切なものだと思うんです」

「む」

 リリシアが神妙な顔で頷く。

「ですから、リリシアが色々悩んでいることはどうにかしたいですし、相談されれば幾らでも協力します。その代わり、私の近くにいてもらいたいと思っていますけど……」

「む!?」

 驚いたようにレクティファールを見上げるリリシア。

「あー、そういえばそういうつもりでは誰にも言ってないなぁ。あ、丁度いいからここで伝えておこうか」

 レクティファールはリリシアの前に膝を突くと、その手を握って笑い掛けた。

「リリシア」

「は、はい!」

 上擦ったリリシアの声に、レクティファールの笑みが深まる。

「色々あるでしょうが、私の手の届くところにいてください。手が届かないと不安でしょうがない」

 リリシアはレクティファールの物言いに目を点にしたが、すぐにその言葉の真意を悟って真っ赤になった。

「あの……それって……」

「これからもどうかよろしく、そういうことです」

 リリシアに答え、レクティファールはその指を絡める。

 メリエラとも手を繋いだが、リリシアの手はそれよりも一回り小さかった。

「如何ですか?」

 リリシアが、大きく頷いた。

「はい! 不束者ですが、こちらこそよろしくお願い致します!」


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