2012 年 7 月 13 日
本日の官邸前行動に警察が強弾圧を予告…だが、したたかに集まろう
「四トロ掲示板」への投稿より
数万人、10数万人の怒りと願いをこめた大行動で官邸前を埋め尽くし、野田を包囲しよう
『反原発デモに対応…警視庁が異例の警備方針発表』
→ http://5.tvasahi.jp/220712038?a=news
官邸とは遠く離れた反対方向に参加者を隔離して、10万規模の参加者に対してまた1万人とか2万人とか、実態とかけ離れた数字を発表するのでしょう。ようするに官邸前に多くの人たちが集まっている映像を配信されたくないのです。参加者のほとんどは、唯々諾々と官邸を背にして、屈辱的なくらい遠くに隔離されるか、抗議して逮捕されるかの二者択一を迫られることになるでしょう。それにしても鉄柵で隔離は酷いです。
この行動も、かつての「フォークゲリラ」のように、警察力で窒息させられる末路をたどることになるのかな?どんなに平和的な行動であろうとも、それが拡大した時には国家による暴力で潰され、さらにマスコミがそれを参加者のせいにするという、あの教訓は生かされないのか?警察との「協力関係」などに何の幻想ももつことはできない。なんとかそれをしたたかに乗り越えていくことを考えないといけないと思うが・・・どうすれば?
たった一つだけ、主催者はせめて一言くらいは警察に抗議したのか 聞きたい。
いくら「素人さん」とは言え、主催者は参加者と警察の調停人でもなければ、ましてや警察の出先機関でもないでしょう。100%あらゆる意味で参加者の側にたって、警察に要求をつきつける存在であるはず。もちろん普通の市民運動に、警察との衝突やら突入やらの方針を求めるのは酷だし、妥協だってあるだろうことはわかります。それでもせめて私たち参加者の苛立ちをくんで、少しくらいは強弾圧への怒りの声を代弁するべきでしょう。もし、彼らが警察との「協議」の上でこの弾圧体制を認めたのなら、もうついていけない感じがします。
さて、主催者の多くが「素人さん」であるというNさんの見解は一応信じることにします。
ただ、党派経験がないことだけで「素人さん」とは認められないとは申し添えます。私の狭い関西での経験上、古参の市民主義者やノンセクトのほうが、党派の新人さんより、よっぽど悪質でゴリゴリの「セクト主義者」であると思っています。こういう「無党派市民」との論争は、党派闘争そのものであると認識したほうがいいです。
その上で、たとえば「反原発ならなんでもあり」という考えは、それを認めるかは別にして、ごく普通に出てくる常識的な見解だと思います。今回の主催者よりよっぽど本物の「素人さん」だった三里塚反対同盟だって、最初は「空港反対なら誰でも受け入れる」というところから出発したわけです。当時の左翼は、それにつべこべ文句を言わず、まず、農民を守って闘うなかで信頼を築いていったわけでしょ。もしあの頃、天皇の写真にお辞儀してから集会にやってくる農民を、いちいち取り囲んで糾弾とまでいかなくても、上から目線で「説教」したり、誰それを排除しろとか「指導」していたら(まさに共産党がそれをやったわけだ!)、その後の闘争の発展はあったろうかと思います。
総じて「新しい」を強調するより、私は左翼は原点に立ち返るべきだと思いますし、単にこの国の大衆運動には歴史というものが存在しない、いつまでも同じ過ちを繰り返し続けているという問題だと思います。
自覚的右派の参加者を、「素人さん」がいちいち排除しないことをもって「ファシストと意識的に共闘」というのなら、彼らは中核派やカクマルの参加も排除していないのだから、いみじくも自民党の石原が言っていたように「彼らは革命派と意識的に共闘」していることになるでしょう。というか、ネット上ではむしろそちらの声のほうが大きいくらいだと知るべきだし、主催者はどっちかと言えば、そちら側のレッテルを剥がすほうに意識が向いているんじゃないかな。まあ、こういう左右のレッテル貼りは主催者の心に届かないばかりか、鼻で笑われさえしているんでしょうが。
同じ状況を前にして、私は巨大な大衆運動から右翼が排除されないことより、「革命派が排除されない」ことを重視しています。これは与えられた(ひょっとしたら最後の?)チャンスだと思っています。そこで革命派が何をなすべきかということを考えますし、注目しています。
Yさんのおっしゃることのうち、無批判に迎合して右シフトして「溶解」しつつ、延命をはかる自称左翼への批判には、心情的に共感するものですが、やはり一番違和感を感じるのは、どうして大衆運動がそうなってしまったのか、なぜ私たちが大衆の信頼を失い続け、貯金を食いつぶしていったのかという、左翼側の反省(スターリン主義や前衛ショウビニズムへの反省)が微塵もなく、それをふまえて今後どういった(左翼)運動が求められるのかという真摯な考察も苦闘も感じられない、いわばカクマル的な感性(革共同イズム)に陥っていることです。そういう考察なくして、二度と巨大な大衆運動の中心に左翼(=左の左部分)が座ることはないと思うのですが、いかがでしょう。
要するに、左翼がこんな上から目線で大衆を見下している限り、「その『次』」、つまり大衆の怒りや不満は左翼ではなく、今後とも石原や橋下のようなファシストに根こそぎもっていかれますよということです。
(追記)官邸前に座り込みというのは、欧米的感性で考えても、民意を示すための、平和的な非暴力直接行動だと思います。本来なら「過激派」の「官邸突入」方針に対置して、主催者側が平和的な非暴力行動として打ち出しても何の違和感も感じない方針です。そんなことすら「過激」だの「暴力的」だと感じるほどに、あまりにも日本人は飼いならされてきたのだなあと思います。
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