CHAPTER01
Chapter01 可能世界のパイドバイパー
「完成」
「できたー♪」
ラボの一室。
開けっぱなしの窓からは、申し訳ばかりのそよ風と、向かいの公園で鳴くセミの声が入ってくる。
ラボに空調がないせいで、空気はねばっこく暑い。――カコンカコンいう首振り扇風機だけが頼り。
うだるような暑さもピークに達した、午後2時を回ったころだった。
「あ、クリスちゃんも完成したのー? じゃあ、引き分けだねー」
まゆりが満面の笑みを浮かべた。
「オカリンオカリン、ちょっと来てー」
「何だ?」
「これをね、持っててくれないかなー? こうして、びろーんって広げて」
びろーん、と広げられたのは、まゆり作成のコスプレ衣装だった。
『ブラッドチューン THE ANIMATION』のヒロイン、星来オルジェルのコスプレ衣装は、パンツどころかおへそまで丸見えの、東京都条例にケンカを売ってるようなデザインがウリ、らしい。
「んー……」
少し離れたところから、コスプレの衣装をじーっと観察するまゆり。
「うん、ありがとー」
ずっと徹夜をしていたせいか、少し疲れた顔。
まゆりは明日からはじまるコミマのために、徹夜でコスプレを仕上げていた。
「おおー、まゆ氏のコスはいつもながら完成度高いすなあ」
「それで助手よ、そちらも完成したのか?」
「だから助手って言うな……まあいいわ。できたわよ、もちろん」
電話レンジに魔改造を加えた一品。
タイムリープマシン。
「おおー……」
「ついにできたな……」
でも。
牧瀬紅莉栖は――わたしは、少し不安だった。
「わたしたち、ひょっとすると、とんでもないものを作っちゃったかもしれない……」
タイムマシン。
意識だけとは言え、時空を超越して過去へと跳ぶことのできる装置――。
ここ数日は、熱に浮かされたようにこれを完成させることだけを目標にしてきた。
でも。
「とりあえず、正式名称を決めようではないか」
と、岡部倫太郎は言った。
「天国への弾丸列車《ヘヴンリィ・エクスプレス》」
「電話レンジ3rd Edition ver1.00」
「帽子つき電話レンジちゃん」
「あんたたち、ネーミングセンスないわねえ」
「クリスティーナは棄権か?」
ううむ。
「……タイムリープマシン」
「「これはひどい」」
岡部と橋田が同時に言った。
「な、なによ。シンプルイズベストでしょ」
「助手はネーミングセンスゼロのようだ」
「厨二病丸出しのあんたに言われたくない」
「おおう……? まさか牧瀬氏が厨二病って言葉を知ってるとは……。まさか、牧瀬氏って」
う。
しまった。
「……た、たまたまだから。勘違いしないで」
が、わたしの言い訳も聞かず、実にうれしそうにニヨニヨ笑う奴がひとり。岡部。……こいつ。
「うわはははは、実に白々しい。素直に“わたしは@ちゃんねる大好き人間です”と告白すればいいものを」
……こ、殺す。
もーやだ! このラボに来てから、調子狂わされっぱなし!
「だからわたしは@ちゃんねらーじゃないって言ってるでしょ! うがー!」
結局、まゆりの鶴の一声により、完成した機械の名前はタイムリープマシンに決定した。
† † †
誰からともなく、完成パーティーをしようということになった。
「宴会だー宴会だー☆」
「違う! 開発評議会である!」
完成パーティー(岡部が言うところの開発評議会)はつまるところ、タイムリープマシン完成記念式典あり、まゆりのコスプレ衣装完成記念パーティーであり、要するにラボを挙げての打ち上げ宴会というわけだった。
つまり料理は必須。
したがって我らがラボメンガールズ諸君、華麗で荘厳なる手料理で開発評議会を彩るのだ!
これを『最後の晩餐』作戦≪オペレーション・エルドフリームニル≫と名づける!
……と、岡部は宣言した。じつに偉そうに。片手を前に掲げて。白衣をセルフでパタパタさせながら。
「まったく。なにが『開発評議会を彩るのだ!』よ。えっらそーに」
「えへへークリスちゃんの〜手料理手料理〜♪」
ということで。
わたしとまゆりと漆原さんとで、手料理を作ることになった。
「ぼ、ぼぼボクは何を手伝えばいいんでしょう……」
「漆原さん、料理は得意なの?」
「い、いえ……あんまり得意、じゃないです。姉からいつも言われてました。『あんたの料理は面白みがない!』って……」
「面白み……いやいや、料理の評価基準が『おもしろさ』って、男子大学生の集まりじゃないんだから」
「い、いえ……駄目なんです、ボクの料理、あんまりよくないって、家でもいつも姉にいわれてて」
「あのねー、るかくんはねー、毎日家族にごはんつくってるんだよー」
「そうなの?」
「あの、いえ! たまにです! それに、たいていはありあわせのお惣菜とか、簡単な炒め物とか……」
「そう。でもいいと思うわ、毎日作るごはんなんだもの、それくらい手抜きでも」
「う、うう……だから、あんまり豪華なのなんて作れないんです。それこそ、こんな、こんな大事な開発評議会の、記念式典のための、料理なんて……!」
ふええ、と漆原さんは泣き出してしまった。
そんな仕草もキュートだ。
どうしてこんなに可愛い子が男の子なんだろう? 染色体仕事しろ。
「大丈夫よ漆原さん」
「ふえ……?」
「わたしに、任せなさい」
ぐっと親指を突き出す。
「わあー、クリスちゃんたのもしいー♪ ねえねえ、クリスちゃんはお料理、得意なの?」
「その質問は次元(ディメンション)が適切ではないわ」
ちっちっちっ、と指を振るわたし。
「漆原さん、料理の定義とは?」
「え、えーっと……? りょ、料理の定義ですか?」
「そう」
「えーっと、そうですね、えっと、おいしい食べ物を作ること……?」
「そうね。いい回答。では、おいしいの定義とは?」
「お、おいしい、ですか?」
漆原さんはくるくると眼を回した。
「えーっと、えっと、えーーーっと……?」
「きゃー、クリスちゃん、かっこいいー♪」
「わ、わわわ、分かりません……あの、おいしいって、何でしょう……?」
「まゆしぃ分かるよ♪ るかくん、おいしいっていうのはねー、おいしい味のするものを食べたときの気持ちのことだよー♪」
「近いわねまゆり。けれど少し答えが足りないわ。おいしい、それは、脳が見せる総合的な非陳述性記憶とエピソード記憶が織りなす、トータルな体験のことね」
「とーたるな……」
「たいけん?」
「そう。たしかに料理の味は舌で判断するのだけど、実は『おいしい』という判断はもっと高次な、大脳新皮質で判断している。主に視覚の後頭葉、感情記憶の中枢神経系、それから体験を理解する前頭葉で『おいしい』を感じるの」
「つまり『おいしい』とは! 脳神経がつくりだすオーケストラ! のハーモニクス!」
ばっ、と白衣がひるがえる。
「すごーいクリスちゃん」
ふふん。
「感覚神経から、過去の情報を参照に扁桃体へと走る、神経パルスの速度! 視神経から大脳辺縁系を経由し視覚野に送られ、即座に大脳全体に散る、花火のような情報の火花!」
ずびしっ! ばしっ!
「すごいすごーい♪」
「よかった、牧瀬さんに任せておけば、今日の打ち上げ宴会は安心ですね!」
「うん、まゆしぃはね、実は料理がすごーい苦手なのです。いちどカレーをつくろうと思って包丁をつかって野菜をきざんでたら、あわてたオカリンに止められちゃった。『お前は俺に、中指やら小指やらがごろごろ入ったカレーを食べさせたいのか!?』って」
「安心してまゆり。わたしが今から料理……いえ、脳、そして意識を指揮者とした、トータル・ストラクチャー・デザイニングを可能にしてみせるわ!」
ふふふ。
見ていなさい、岡部。
この計算しつくされた、美しい数式のような、わたしの手料理――
一口味わい、感涙にむせびなさい!
岡部、あなたは料理に感動し、床に手をついてこう言うわ――
すまなかった、紅莉栖! こんな完璧な料理を作れるなんて、俺はきみという人間を勘違いしていた!
こんなに、こんなに素晴らしい料理を毎日食べられたら、俺は、俺は――
紅莉栖、どうか俺に一生、この料理を――
どうか――
「ふ、うふうふうふふふ……」
体が震える。
武者震いというやつだ。
「さあっ、作るわよ、天上の料理を! ガスコンロに、火を!」
白衣がはためき、大軍を率いる古の英雄のように、わたしは手を高く掲げた。
そして。
「えれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれえれ」
「オロオロオロオロオロオロオロオロオロオロオロオロオロオロオロオロオロオロオロ……」
「う、うわぁ」
「ぐはっ、えげおろろろ、くっ、クリスティーナっ、なんだこ、これは」
「く、食い物ってレベルじゃねーぞ……」
「くっ、来る、舌にくるというより、脳とか脊髄とかそのへんに来る」
「これが毒物だとしたら、せっ、戦争の常識が変わるお……」
ラボの食卓。
腹をおさえてうずくまる、男ふたりの図。
「うわー、劇的だねー♪」
のたうちまわる男たちを、楽しそうに眺めるまゆり。
「こっ、これが試練か、これを乗り越えねばならんというのか、クリスティーナよっ……!」
「な……何よ! 嫌だったら残しなさいよ!」
「……い、いやっ、僕は……食うお」
がくがくと震える手をついてどうにか体を起こそうとする橋田。
橋田は関節に力が入らず、起き上がろうとしては前のめりに倒れる。生まれたばかりの小鹿の動きだ。
しかし、橋田の顔は、死を恐れず自らの体を人体実験に差し出す、殉教者の顔だった。
「今日っ、ぼ、僕は知ったんだ……ツンデレで、天才少女で、そして料理が壊滅的にダメ……そんな、そんな女の子がこの世に実在する、これぞ、これぞ萌え……っ! それを知ることができただけで、この料理は至高……だ、だからこそ食える、だからこそ死ねるうおえろろろえおろえぅえぁっ!?」
眼球がひっくり返り、完全な白目になって飛び跳ねる橋田。その体は半回転し、床にずしん、と音をたてて倒れた。
「ほ、本望だろ常考……」
がくり。
「だっ、ダル……! 橋田至よ……! お前は戦士だった、英雄だった! お前のその意志は忘れぬ……! 安心してヴァルハラへ逝け……俺もすぐに行くっ」
なんだ。
なんだなんだ。
この状況は一体なんなんだ。
「すごいねえー」
食事には一切手をつけず、にこにこ笑っているまゆり。
「お、岡部さんっ、大丈夫ですか? ほ、ほらっ、ボクが作ったおつけものを食べてください! まともですからっ」
漆原さん……さりげなく一番ひどい。
「マジで? あんたらわたしをからかってるんじゃないの?」
おそるおそる、料理のひとつに手を伸ばしてみる。
「そ、そんなにマズいわけないでしょ! たかが料理よ、食材はちゃんとしたものを使ってるのよ? そんな、そんな倒れるほどのダメージのものを作れるはずが、論理的に」
ぱくり。
「ん゛ぐっ!」
ずん!
頭に衝撃。
意識が衝撃で宇宙へと飛んだ。
目の前に宇宙が広がり、土星の輪が回り、世界は回っていた。
とろけそうな視界の中央に、ゆっくりと、悟りきって優しい微笑みを浮かべた、ぼ……、菩薩さまの、顔が。
ごーん(効果音)。
ありがたい菩薩さまの顔が、ゆっくりとアップに、「いいのですよ紅莉栖、すべていいのですよ……」と優しい微笑みとともにわたしに笑いかけ、世界が金色の光に満たされ、わたしはやすらかな気持ちで、光のさす方へと……
「牧ぃー瀬ぇーさーん! 気を確かに! そっちに行ってはダメー!!」
「……はっ!」
意識が戻る。
気づけばわたしは漆原さんに肩をゆすられていた。
「な、なにごとっ」
慌てて周囲を見る。
ラボだ。いつもの。
「クリスちゃん、大丈夫ー?」
「……ママが、いえっ、宇宙の真理が見えた……」
「うふふーみんな楽しそうだねー♪」
まゆりはひとり、近くのコンビニで買ってきていたカップアイスをはむはむと食べている。
「ぐ……ぐうげげげ、げ?」
橋田は宇宙人と交信しているみたいな正体不明の音を喉から出してのびている。
「こ……」
わたしの頬を冷や汗が流れる。
これが……
これが……料理……っ!
「理屈じゃ……ないっ……!」
† † †
しょうがないのでピザの出前を頼んで、みんなでそれを食べた。
† † †
翌日。
わたしは岡部といっしょに、秋葉原クローズフィールドの中にあるUPXに来ていた。
秋葉原駅の2階から北口、一般に中央口と呼ばれるほうに大きく蛇行した、インターチェンジのような陸橋が延びている。これは秋葉原クローズフィールドといって、真正面にあるおおきなビル――通称UPXビルと、駅ビル側に構えた大ビルに連結している。
UPXの壁面にある街頭ビジョンでは、ラジ館に落ちた謎の巨大物体が、8月9日に突如として動き始め、夜の空に消えていった様子を特集した記録映像が映し出されていた。
7月28日、その人工衛星は突然あらわれた。
いったいなぜそんなとこにあるのか、誰のものなのか、結局誰にも分からないままだ。
ただ――ひとつ、分かっていることがある。
……あの日、あの謎の巨大な機械がラジ館に突き刺さらなかったら。
中止にはならなかったはず。
パパの――パパの、発表会は。
それがなくなった。
不思議だ。
わたしは分からなくなる。
どれだけ何度も自分の内面分析を繰りかえしても、どう考えても、招待されていた父の発表会が中止になって、父に再会できなくなったことで、『ほっとしている』としか思えないから。
あれから、パパには会っていない。
だって発表会が中止になった。
だってパパのほうから連絡もない。
だってまた連絡もなしに行ったら、またあの目で見られる――
ダメだ、ダメだ。
あんまり悩んじゃいけない。
トラウマが発生する脳器質的メカニズムは明らかになっている。ひとたび怖いものができると、その印象が海馬のNMDA型グルタミン酸受容体の活性を強化し、「怖いもの」の記憶と他の脳細胞との結びつきを強めていく。
強化された記憶は、ことあるごとに思い出され、さらにNMDA受容体のチャンネルを開いていく。怖いという想いが、より怖さの回路を強化していくのだ。
これをわたしたちの業界では『回路が開く』という。
そして他の脳細胞の結びつきを押しのけて、最大最強の神経接続として君臨しはじめる。
それが怖さというものの本質だ。
怖いものが目の前になくても、脳はせっせと恐怖を強化しつづけるのだ。
昔の人はこう言った。『人間における最大の恐怖とは、自らの想像力に対して抱く恐怖である』――
――恐怖。
わたしは、パパが、怖いのだろうか?
…………。
怖い。
もちろん怖い。
パパとはもう、心が通じない。パパがなにを考えているのか、わたしには分からない。
相手の行動原理が理解できないことほど怖いことはない。
でも。
『クリス、あなたは天才だ』
どんな論文賞を取っても、どんなに人に賞賛されても、心はどこか満たされない。
それはわたしにとっての理想の科学者が、有名で、頭がよくて、論文が世界を変えるような、そんな存在ではないからだ。
『いいかい、紅莉栖。飛行機はなぜ飛べると思う?』
『紅莉栖、どうして船はあんなに重いのに、海の中に沈まないのかな?』
『どうして人は生きているんだろうか。考えてごらん、紅莉栖』
何千年も昔のことのように思える。はるか昔の思い出。
そんなものに、いまだに胸がしめつけられる。
その人は世界とは何かを知っていた。すべての“なぜ”に答えてくれた。その人がそばにいてくれるだけで、この世界にわからないものなんて何もないんだって思えた。
その人がいるだけで、わたしは心から安心して眠ることができた――
もう、甘い幻想なんだってことは分かっている。
男性は母親に、女性は父親に似た特徴を持つ人物に対して脳の扁桃体を強く反応させることが、実験で確認されている。
つまりそういうことだ。
ただそれだけのことなんだ。
でも。
「どうした助手よ、呆けた顔をしているぞ」
横からの声に、はっとして振り返る。
「岡……部」
「どうした。UPXの街頭ビジョンを、ぼーっと弛緩した顔で眺めおって。何かうまそうなものでも写っていたか?」
「あ……ああ、いえ」
「ハッ、それともままさか助手よ、“機関”の幹部の一人、幻想案内人《イリュージョン・コンダクター》の攻撃を受けているのかっ!?」
……これは。
はじまった。
「いかん、ついに“機関”に捕捉されたか。ククク……やむをえまい、こうなればここで右手に宿りし悪霊の力を解放するしか……クリスティーナよ、貴様の死は無駄にはせん、この秋葉原が血の海になろうとも、マッドサイエンティストたる我が力を“機関”の連中に知らしめてやろうぞ!」
無言でしばいた。
「痛ったあ! 痛いではないか助手よ! ごんっていう音がしたぞ!」
「あんまりイタい挙動をすると殴るわよ、これは警告よ岡部」
「殴ってから警告するな!」
岡部はクローズフィールドの道のまんなかで、頭をかかえてうずくまっている。
「第一なんなのだ今のは! 過去に受けたツッコミの中で最も痛かったぞ! そういうのアリなのか、いまどきは!」
「岡部専用ツッコミ道具。通称『エビフライくん』」
それは子どもの腕くらいのサイズの、鉄の塊だった。
特大のエビフライの形を模した、ジョークグッズだ。表面はクッションと人造毛で揚げたてのエビフライの見た目をしているけど、中の芯の部分はずっしりとした鉄が入っている。重さが2キロくらいあり、思いっきり振り回せば小ぶりなスイカくらい簡単に割ることができる。
岡部の対応がだんだん分かってきた。
こいつには真面目に対応したり怒ったりしてはダメだ。静かに攻撃し妄想をストップさせなければ、すぐに厨二病をエスカレートさせる。いちばんいいのは、驚きとか焦りとか痛いとかで妄想に使っている脳のCPUをカットさせちゃえばいいのだ。
そのための道具、エビフライくん。
今日のために秋葉原の露店で買ったのだ。
持ってきておいて、ほんとうに良かった。
「そ、そんなことのために凶器を持ち歩いていたのか貴様は。狂気の沙汰だな。凶器だけに」
もう一回しばいてやった。
「ぎゃあああっ、痛い! 痛いよ紅莉栖さん! おんなじとこ殴らないでください!」
「あん?」
ぎろり、と睨んでやった。
「ひいい、ひい、何なのだこれは、貴様あれか、キレやすい10代か、他人の痛みを理解できない無軌道な若者なのか」
「違うわ。これは学習。わたしにアホなこと言うとどうなるか、パブロフの犬のように学ばせてやる」
「ぬう……どうしてこんなことになっているのだ。俺が何をしたというのだ。昨日は昨日で悪夢のような料理を食べさせられて負に昇天させられそうになるし、今日は今日でぽんぽこ殴られるし。しかも」
岡部はバッと両手を広げて、道の真ん中で天を仰いだ。
「そんな暴走無軌道18歳と、今からデートなどとは!!」
ばっ……
「馬鹿っ、そんな大きな声で言うなっ!」
あわてて岡部の口を押さえつける。
「もががっ、だが本当のことではないかクリスティーナ。お前がUPXでランチデートをしたいと言うから、わざわざこうして洗濯したばかりの新しい白衣に着替えて……」
「デートに白衣で来るやつがあるかっ! て、てていうかそもそもデートじゃないし! そんなスイーツ(笑)みたいなやつじゃないし!」
「スイーツ脳が何を言う。貴様が言ったのだろう。今日は昨日のお詫びに、UPXのイタリアンでランチを一緒に食べましょう、と。ダルなんか苦笑していたぞ。あのダルが普通に苦笑して普通に送り出すなんぞ、どれだけの異常事態だと思っているのだ」
確かにダル、つまり橋田は、わたしと岡部がランチを食べに行くときくとぎょっとして、次に苦笑し、最後に父親のようなアルカイックスマイルに変わり、そして言ったのだ――「いってらっしゃい」と。
いってらっしゃいて。あの橋田がいってらっしゃいて。
いかん。
完全に誤解しておられる。
完全にわたしが、岡部をデートに誘ったと思っておられる。
違うのだ。
これは違うのだ。
どう違うかというと……ええと、その、アレがああでこうだから、つまりその……
ええい、とにかく違うの。
アブソリュートリー違うの。
「何だそのアブソリュートリー違うというのは。脳みそがウィルスにでも感染したかクリスティーナ」
ああっ、何だかよく分からない!
しかも何か心の声が外にもれている!
こ、これも全て橋田のせいよ。あの樽が悪いのよ。
そ、そうよ奴よ。
帰ったらエビフライくんで全身まんべんなく打撲青アザの刑にしてやる……。
「ダル、哀れな……何の罪もないのに、おかしな精神錯乱者の犯罪に巻き込まれて、あたら若い命を散らすとは……」
ふふ、ふふふふ。
見ていなさい。
無軌道な10代は怖いんだから……。
† † †
ことの起こりは。
漆原さんがラボに謝りに来たことに端を発する。
「ごめんなさいっ!」
どうやら打ち上げのときに、わたしの料理を味見もせずに皆に食べさせたことを謝りに来たらしい。
自分がちゃんと味見して、少なくとも仕上げをしていれば、こんなことにはなりませんでした、と。
確かに漆原さんの料理は地味だけどまともで、なんというか家庭の味、という感じがした。
つまり、おいしかったのだ。
が。
「い、いや、僕たちも料理まかせっぱなしにして悪かったっつーか、作る側にも苦労はあるっつーか……」
「う、うむ。ダルの言うことにも一理ある」
橋田も岡部も、なんだか中途半端なフォローをしていた。
しかも目が泳いでいる。
実は。
あの後、ラボメンバーの皆は、いっさい料理の話をしていなかった。
あの料理の味はどうとか、なぜあんな味になったのかとか、誰も言い出そうとしなかった。
避けてたのだ。
ようするに。
まあ、理由はなんとなく分かる。
タイムリープマシンを、わたしはほぼ独力で完成させた。
最大の功績者だ。
その直後に料理で、なんてものを食わせるんだとか、ひどいやつだとか、言いづらかったのだろう。
しかもこれから、『このタイムリープマシンを使うのか使わないのか』という、喫緊で重要な課題を話し合わなくてはならない。
そんなタイミングだから、彼らはわたしを責める気がない。
彼らは料理の一件を、なかったことにしてもいいと思っている。
つまり、彼らは――
つまり彼らは、いい人たちなのだ。
やれやれ。
そんなことは分かっている。
そうじゃなかったら、私はこんなに何日もラボに居たりしない。
いや、いいんだけどね。
そりゃあ料理の出来が悪いのはショックだったし……(でも何故失敗したのか論理的に分からない。なんでだろう? レシピとか見なかったからか?)、気を使われるのは息苦しかったけど、まあいいか、ほとぼりが冷めたら謝ろう、と思っていた。
そう思っていたところなのに。
「ほ、ほんとにごめんなさい。ボク……」
「いいんだ、ルカ子よ」
「岡部さん……」
漆原さんはうるうるした目で岡部を見上げている。
まるで恋する少女だ。
男だけど……。
漆原さんの女子力出まくりなピンクでキュートなオーラに軽く凹んでいると、まゆりがにこにこ顔のまま、すーっと、こっちを見た。
いつもと同じ笑顔。
にこにこ顔。
ωの形の口。
けれど数日経ってまゆりの表情にもいろいろあることを知ったわたしには、その表情にべつのメッセージを読み取った。
どうするの、これ。
どうしたらいい?
どうしてほしい?
え。
え……なにこれ、なにこの沈黙。
全員が、こっちを見ている。
いや、見ているというか、視線はこっち向いてないんだけど、意識がこっちを向いているのが、ものすごくわかる。
なにこれこわい。
このラボ、空気読む力ゼロの奇人変人大集合がウリなんじゃなかったの……?
「あー……」
沈黙に耐えられず、わたしはひとり言葉を発する。
全員の呼吸が止まる。
「…………」
「…………」
「…………」
マジでか。
こ、この空気の中で。
この魔女裁判の傍聴席みたいなはり詰めた空気の中で。
わたしに……謝れと?
いやいや。
いやいやいや。
謝る、いくらでも謝るよ。
だってわたしが悪かった。わたしが味付けを間違えた。
悪いと思ってる。お詫びをしなくちゃならないと思ってるわよ、もちろん。
でも……これは。
この空気の中で、謝れと?
漆原さんのソーキュートな「ご、ごめんなさいっ」宣言の、その直後に?
わたしのこの性格で?
わたしのこの性格を熟知しているみんなの前で?
「ごっ、ご…………」
声が裏返る。
足先が震える。
いやな汗が流れる。
素直に謝りなさい、それが賢明よと、わたしのなかの誰かがささやく。
ああ。
ツンしたい。
ツンしてしまいたい。
何よあんたたちが作れって言ったから作ったんでしょ、わたしは何も悪くないし第一このキッチン設備がボロだし秋葉原にはろくなスーパーないしと、いつもの調子でわめき立てたい。
普段なら間違いなくそうしていた。
が。
それは。
それだけはできないのだった。
だって、ほんとに悪いことしたと思ってるし。
第一、漆原さんのアレの後では、それはツンなんてものじゃなく、悪逆非道な自己中女王様、さもなきゃDQNだ。
みんなそれが分かっている。
だから、緊張している。
「ごっ、ご、ご……」
ごくり。
「ご?」
みんなが固唾をのんで見守る。
視線。
ひいい、ひい、勘弁して!
いかん、なんか口から漏れる。
「ご、ごはんたべます!!」
はい? という顔でみんながこっちを見た。
ああ、ああああ。
ちがうんだ、そーじゃないんだ。
『なんかいわなくちゃ』という衝動に負けて、わたしはどうやら、最低のカードを切ったらしかった。
「ごごごごはん……そう、ごはんたべます! ごはんたべたいですわたし! ねえ、みんなごはんたべたくない?」
みんながぽかんとしている。
ええ、えええい! 乗り切れ! 回転せよわたしの脳みそ! しゃべり続けろ! わたしならできる!
とにかく、しゃべり続けるのだ! 止まれば死!
「ね、ねえ、いいイタリアンなんかどう? たべたいだろ? いや分かっているんだなこれが、みんなが今求めているのはイタリアン! そういえばUPXにオシャレなイタリアンのお店があったわね、ねえどう? ほら岡部、行きたくない? いや行きたいだろうイタリアン、体にいいわよ! 何がどういいと訊かれても困るのだけれど」
ああああ墓穴。
見える。
この目の前に広がる暗くて大きい穴は、完全に墓穴です。
本当にありがとうございました。
「いや牧瀬氏、あそこランチすごい混むし、高いし、オシャレすぎてほとんどカップルじゃなきゃ入れない店だし」
ああもうなんでピンポイントで空気読まないんだこの樽め。
いやそれともわたし以外全員空気読めているだけなのか? なんなんだこの状況は?
そのとき。
「いや、行きたいな」
人生最大の屈辱がわたしを襲った。
「行こう」
全身を電流が駆け抜ける。
おおお、なんて、なんてことでしょう。
恥ずかしくて死にたくなる。
岡部に……
岡部にフォローされた……
orz……
やけくそだ。
「そう、そうだろう岡部! さすが岡部ね! 見る目があるわ!」
「ま……牧瀬、さん?」
わたしの舌はくるくると回りつづける。
「い、いいわ岡部、ふたりで行きましょう! ほかのみんなは乗り気じゃないみたいだし、カップルばっかりのお店に、みんなでどやどや入ってもいけないしね! そ、そう、なんならわたしがおごってあげてもいいわよ! どう、滅多にないことよ岡部、ねえ聞いてるの岡部? 滅多にないことなんだから、ありがたく思いなさいよ! わたしがおごってあげるなんて、あんたすごいラッキーなんじゃない?」
「あ、ああ……」
生返事の岡部。
わたしの舌はくるくると回りつづける。
地獄に向かって。
「とにかくそうと決まれば準備よ! わたしもオシャレしていくから、あんたもちゃんと決めてきなさいよ岡部? レディーに恥かかせたらタダじゃすまないんだから。そう紳士らしくエスコートしなさいよ、わたしだってこんなデートみたいなの、はじめてなんだから! わっしょい!」
あああ。
何を言っているのだろうわたしは。
目にちょっと涙が浮かぶ。
頭がかーっと熱くなる。
胸のあたりがどきどきする。
「その、なんだ、俺が言うのもなんだが」
岡部が目をきょろきょろさせながら、わたしに近づく。
肩に手を置く。
頭がぼんっ、と爆発した。
完全に涙目だ。
「冷静になれ、紅莉栖。落ち着け。クール、そしてクールだ」
「は……」
わたしは周囲をみわたす。
なんだかものすごく嬉しそうな顔のまゆり。
真っ赤になってモジモジしている漆原さん。
完全に能面のような顔で固まっている橋田。
そして少しだけ顔を赤くして、フッ、と笑っている岡部。
わ……
わたし、何ていった……?
「クリスティーナよ、お前がそんなに俺とデートしたいとは思わなかった。今まで気づいてやれなくて、すまなかったな」
ま、待て。
なんだこれは。
どこだここは。
「いいだろう、待っていろ。すぐに着替えてくる。なにしろデートスポットなどというものに明るくなくてな、少し迷うが……外で待っていてくれ、すぐに行く」
そう言ってすたすたと、ラボの脱衣室に歩いていく岡部。
ちょ、ちょっと待って……
ここにおいていかないで……
ひとりにしないで……
「ああ、そうそう」
脱衣室に入りかけた岡部が、思い出したように足を止めて、こちらを見て、言った。
「食事代はおごりと言っていたが、構わん。俺が出してやる」
「え」
「どの世界でも、デートの食事代は男が持つものと相場が決まっているからな」
ばたん、と扉が閉まる。
…………。
沈黙。
あ……
あんた誰よ……?
そして橋田が、言った。
「牧瀬氏……」
父親が娘を見守るときのような、完璧でおだやかな微笑をたたえて。
「いってらっしゃい……楽しんでくるんだぞ」
† † †
あ……ありのまま今起こったことを話すぜ!
『おれはみんなに謝ろうと思っていたら
いつのまにか岡部をデートに誘っていた』
な……何を言ってるのかわからねーと思うが
おれも何をしてるのかわからねえ……
ラブコメとかエロゲとかじゃ断じてねえ
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……
「クリスティーナよ、人目を気にせず@ちゃんねる語をつぶやきまくるのはいいが、それは俺のキャラだ」
岡部が仏頂面で言った。
UPXのイタリアンレストラン、『トラッティーニ サリエリ』である。
オシャレレストランである。
行列が40分待ちである。
まわりはカップルだらけである。
あああ。
どうしてこうなった。どうしてこうなった。
「うむ。うまい。なかなかいけるではないか」
「…………」
岡部はミートソースパスタをくるくると食べている。
フォークを使うのがへたくそだから、真っ赤な染みが次々と白衣にくっついている。
あぁ。
落ちないぞ、それは。
「どうした助手よ、手が進んでいないではないか。そんなにまずいのか、その洋風アサリ炒めパスタは?」
「ボンゴレよっ、何よ洋風アサリ炒めってそのゆとりっぽい表現。おいしいわよ、十分おいしゅうございますわよ!」
「うむ、そうだろう。うまいに決まっている。なにしろこれは俺のおごりであり、そして俺たちの初デートなのだからな」
くっ……
こいつ、完全に調子に乗っとるな。
どうやらわたしは、岡部に握られてはならない急所を握られてしまったらしい。
わたしは引くに引けず、こうして岡部とランチデートをすることになってしまった。
社会はお盆休みの真っ只中。
普段はビジネスマンが目立つUPXも、休日のお昼どきとあっては遊びに着たカップルや地元のカップルや地方から東京に出てきたカップルであふれている。
なんだかくらくらした。
秋葉原って、こんなにカップル、いたっけ?
初めて秋葉原に来て通りを歩いたときはそのオタクの多さと汗っぽさとオタクショップの多さに驚きというかむしろファンタジーすら感じたけど、こうやって違う生活圏に行くと、いろんな人がいる街なんだなあ、と思う。
「うむ、なかなかの味である。何より誰かさんの料理と違って、舌に優しい。デートスポットとしてはなかなかだな」
く、くっ……
駄目だ。勝てない。
昨日の料理の話とデートの話をからめられると、わたしの反論は完全に頭を押さえつけられてしまう。
というか、デートデート連呼するな。
このままではよくない。
岡部に首根っこをつかまれつづける。
死活問題だ。
「あ、あのね岡部。あなたはデートだデートだって言うけど、これなんてただ昼食を一緒に食べにきただけじゃない。こんなのデートだなんて言わないわよ」
きょとん、とする岡部。
「そうなのか?」
「そうよ。いつもの生活範囲にない店だし、カップルも多いからそんな風に思うのかもしれないけど、違う。違うんだからな」
「なるほど。実に理論整然とした反論だなクリスティーナ。反論の余地もない……と、言いたいところだが、どうしたのだ。お前らしくないぞ」
「な、何がよ」
「理論が穴だらけだぞ。ランチに行こう、と言い出したのはお前だし、これはデートだと言い出したのもお前だ」
うっ。
そ、そうだっけ。
そういえば……そうかもしれない。
いや、あの時わたしは口が滑るにまかせてしゃべりつづけていただけだから、なにを言ったのかちゃんと覚えていないけれど。
「そういうわけだ。これはデートではないと証明したいなら、背理法でも帰納法でもいいから、お前が証明しろ」
むむむ。
なんか岡部に理系っぽいこと言われると腹が立つ。
いや、こいつも一応理系なんだけどさ。
「しょ、証明してやろうじゃないの」
この手の挑発を受け流すことがことのできない、煽り耐性のないわたしなのだった。
証明とは。
証明とは、中世の時代から人々が営々と発展させてきた、考えるための知恵だ。
証明はまず、すでに認められた公理を組み合わせて、証明したいことを真または偽であると、万人が納得する推論だけを用いて推測することを言う。
まず使用する公理を決めるために、言葉をただしく定義しなくてはならない。
つまり。
問1.デートとは?
「で、デートとは……」
「デートとは?」
「恋人どうしが、どこかに出かけて楽しいことをする行為である」
「なるほど」
ということは。
問2.恋人とは?
「こっ……恋人とは……」
「恋人とは?」
こっ……こいび……こいび、ととは……
頭の中がぐるぐる回る。
岡部。
恋人。
Lovers。
恋人とは? 答え:互いに愛しあっている男女のこと
わたしの中の辞書が勝手に回答を提案する。
岡部。
恋人。
愛しあっている。
おかべ。
おかべりんたろう。
『素直な気持ちを言えばいいではないか、父親に』
『俺もついていってやろう、父親のところへ』
おかべは、わたしを。
『紅莉栖……助けてくれ……』
Lovers。
愛しあっている。
岡部はわたしを、どう思っている?
ぼんっ! と音をたてて、頭のコンピュータがスパークした。
あ、ああ、あああ……
頭を垂れた。
テーブルに手をつく。
「すいません岡部さん……わたしの負けです」
「! ほう」
よろよろと顔を伏せる。
「今まで調子のっててすんませんでしたホント許してください何でもしますし言うことききますから……お願い……ちょっと……やすませて……」
「は、はは」
岡部はなんとはなく照れ隠しに笑って。
それから本格的に照れ隠しに入った。
「フゥーハハハ! ようやく我が軍門に下ることを決意したかクリスティーナよ! だが案ずるな、このIQ1170の灰色の脳細胞にかかれば、貴様ごとき小娘篭絡するなど造作もないこと! 安心するがいいクリスティーナよ、貴様は我が助手として右手に宿りし悪霊の力を授けよう、そして共に世界を混沌へと導こうではないか、フゥゥーッハ」
思いっきりしばいた。
「うぐぉあ!」
ごん! という気持ちのいい音が店内に響いた。
「クッ……ちょっと……言葉がすぐ出てこないくらい……痛い……」
「厨二病患者め、そういう恥ずかしいセリフは頭の中だけにしなさいといつも言っているだろう」
結局岡部を止めるのには、これしかないのであった。
他のお客さんがちょっとこっちを見ている。
ひそひそ、ひそひそ。
ねえちょっと今の人変じゃなかった、うんなんかヘンな笑い方だった、世界に混沌がどうとか、ねえひょっとしてあの人ってアレかしら、うんひょっとしたら話に聞いたアレかもね、っていうかその前にあの人いろんな意味で大丈夫? 起き上がらないけど。
うーん。
ちょっと強く殴りすぎたかしら。
よく見ると、鉄製のエビフライくんの胴のところが少しへこんでいる。
硬度の低い鋳鉄製とはいえ、鉄をへこますとは、もやしっ子に見えて岡部の頭蓋骨は意外と頑丈なのであった。
「お……おのれクリスティーナ、他人の痛みを理解できない18歳め、人の頭を太鼓か何かだと思ってぼんぼこ叩きおって……俺が何をしたというのだ、俺をデートに誘いたければ誘えばいいし、好きなのだったら素直に好きと」
「うるせえ、エビフライぶつけんぞ」
「ひいい、ごめんなさい」
岡部は悲鳴をあげながら机の下に逃げた。
「…………」
「あの……牧瀬さん?」
岡部がおそるおそる、テーブルの下から顔だけをのぞかせる。
いい台詞を聞いてしまった。
好きなのだったら素直に好きと、何?
「なにかしら」
「あの、その、あれだ。正直すまんかった」
「……何の話かしら?」
にっこりと微笑むわたし。
ひいっ、と岡部が引っ込む。
好きだったら素直に言え?
はああ。そうですか。
ああ、これは。やばい。顔面に力が入っている。
こんな殺意を含んだ顔を人は笑顔とは呼ばない。
目尻のあたりにすっごいエネルギーたまっている感じがする。
ぱん、ぱん、とエビフライくんを自分の手のひらにたたきつけるわたし。
我ながらこの脅し方はなんだ、ヤのつく自由業のひとみたいだ。
「す、すまない、紅莉栖。少しその……なんだ、デリカシーがなさすぎた」
「あらあら、天下のマッドサイエンティスト、鳳凰院凶真さまの辞書にデリカシーなんて言葉があったなんて。わたし感動しましたわ」
わたしの邪気に、思わず一歩下がる岡部。
「その、本当に、すまないと思っている……俺は謝るのが苦手なんだ、だが、その……俺を食事に誘ったのは話のいきがかり上、偶然そうなってしまったのは分かってるし、デートってのもあくまで比喩で、混乱していたために偶然そんな言葉が出てしまっただけなのは理解している」
岡部は少し真面目な顔で、きちんと頭を下げる。
「申し訳なかった、ちょっと調子に乗りすぎた。俺とデートなんて気持ち悪くて断りたかっただろうに、わざわざ律儀についてきてくれて、感謝している。その、何だ、俺も緊張して少し混乱していたのだ」
「そう。混乱、ね」
「ああ。分かっているよ、クリスティーナ。お前はラボメンで、いい奴だ。怒らせてしまってすまない、本当はデートなんて嫌だし俺のことなんてこれっぽっちも好きではないことは分かっている。ちゃんと分かっているのだ」
「…………」
……………………………………………………………………………………………。
「それでも嬉しくてつい」
頭を下げる岡部。
「嬉しくてつい、調子に乗ってしまった」
真剣に。
「すまなかった」
…………。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。
「さあ、飯をくったらさっさと帰ろう! ダルたちも待っているだろう、奴らにもちゃんと教えてやらないとな、特にまゆりは信じるか分からないが……」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。
「ん、何だお前、その洋風アサリ炒め、進んでないじゃないか。腹いっぱいなのか? ならば俺が食べてやろうか」
「あんたが食うのは……」
「ん?」
「あんたが食らうのは、これじゃああああああああああぁーーーーーっ!」
カッキーーーーーーーン!
「なっ、なんでええええぇぇぇぇっ!?」
そうして岡部は星になった。
† † †
岡部はわたしがどうして機嫌を損ねたのか、まったくわからないらしかった。
へこへこ謝るので精一杯だが、そもそも『自分でも何に対して謝っているのか分からない謝罪』なんてものに効力があるわけがない。
それに気づかずへどもどする岡部に対して、わたしが要求したのは、賠償であった。
訴訟社会たるアメリカでは、当然の話なのだ。
そして訴訟において謝罪のための誠意を何で表すかというと、賠償金すなわちお金なのだ!
岡部、あなたがわたしに謝罪する誠意があるというのなら、それを有形に示しなさい。
あなたにはその義務がある。
「ど、どうすれば良いのだ?」
つまり、賠償よ。
「げ、現金か?」
現金だとおもしろみがないし、うれしくないでしょ(うれしいけど)。
あなたには有形化した賠償として、わたしが喜ぶものを買ってもらいます。
「喜ぶものって……お前、いったいなにを貰ったら喜ぶのだ? 自慢ではないが、俺は女子がもらってよろこぶものなど想像もつきません!」
威張んな。
『何をあげたら喜ぶか』?
それを考えなきゃ賠償にならないでしょうが。
岡部が立案し、岡部が選定して、わたしに贈呈しなさい。
すなわち、プレゼントです。
「ぷ、プレゼント?」
そう。
今日の午後はフリーだし、どこへでもついていくわ。
だから岡部よ、わたしが喜ぶなにかを選定し、わたしにプレゼントしなさい!
† † †
「それって、デートと言うのではないのか……?」
岡部は聞こえないような小さい声で言った。
† † †
で。
岡部は悩んだ。
それはもう悩みに悩んだ。
見ているこっちがかわいそうになるくらい、頭がおかしくなるんじゃないかってくらい、それはもう悩みに悩みまくった。
その結果、岡部がわたしを連れてきたのは。
「これだ! どうか?」
レディースカジュアルファッション。
「つまり……?」
「服だ。どうだ? これならば外さないだろう。女子といればファッション。それは実験大好きっ娘たるクリスティーナでも変わらぬはず」
……なるほど。
「クックック、我が灰色の脳細胞にかかれば貴様の思考を読むなど容易いこと。これぞ貴様の望みだろう! さあ賞賛するがいい、このマッドサイエンティストの完璧なる機知を! フゥーハハ」
「うるさい。エビフライの味は好きか?」
「ひいっ、エビフライは、エビフライはやめてっ」
条件反射のように頭をかばう岡部。
だんだん学習効果が出始めたようだった。
……まあ。
わたしは店内を見回す。
広くて開放的な店内、やわらかなオレンジの間接照明。
季節柄、カジュアルなインナー・アウターに客層を考えたボーダレスアンダーウェア。
流行色のチャコール系、ライトグレー系を前面に出しながらおしゃれ雑貨、靴も取り揃えている。
いわゆる「カジュアル系」のファッション店だ。
……岡部にしては、なかなかマシなセレクトじゃないの。
「秋葉原にこんなオシャレなお店があったなんてね。服っていうから、わたしはてっきりメイド服とかスクール水着とか、そういうのかと」
「何だ助手よ、メイド服が良かったのか。それならば早く言えばいいではないか。よし待っていろ、いまフェイリスに頼んであそこのメイド服を一着撮影会つきで」
「やらんでいい!」
電話しようとした岡部のケータイをひったくる。
ま、まったく油断も隙もない。
わ、わたしがそんな、メイド服で撮影会なんて。
そんなの、は、恥ずかしくてできるわけないでしょーが。
いくらかわいいメイド服でも、それは、その、ちょっと、着るのは!
みんなに見られたりするのは、ねえ!
「どうした助手よ。なにを取り乱している」
ええい、うるさい。
とにかく岡部チョイスで、わたしに服をプレゼントするのだ。
そういうことになったのだ。
わたしは妥協しないだろう。
徹底的に岡部を使って、わたしに似合いのコーディネートをプレゼントさせるのだ。
はっはっは。
「じゃあ、よろしくたのむわよ」
「何か釈然としないが――良かろう。俺がセレセブにふさわしい新ファッションをコーディネートしてくれるっ!」
はいはい。
期待してないけどね。
どうせ岡部にファッションセンスなんてないだろうし、時間がいくらかかっても構わない。そもそも、今の格好だってそれなりに気に入っているし。
赤のボウタイにパープルブルーのラインのシャツ。
クリームブラウンのパーカーとショートパンツ。
こっちに戻ってから、ずっと気に入ってて、洗濯しながら着ている。
まーこれを超えるコーディネートとなると、まあファッションセンス皆無の残念岡部には無理だろう。ちょっと酷なお願いをしてしまったかもしれない。
が。
数分後。
「ククク、紅莉栖嬢よ、これは……どうだ?」
雑貨を眺めていたわたしに、岡部が声をかけた。
「ええー、もう考えたの? ちょっと手ぇ抜いてるんじゃないでしょうね。あんまりに適当だったら、さすがのわたしも怒るわよー」
岡部わたしにコーディネートした衣装を見せる。
「ザンッ! これだ」
「なによこれえ! こんなんじゃ外を……歩け……な……」
反射的に文句を言おうとしたわたしだったけど、文句は途中で止まってしまった。
フードのついたモカブラウンのミリタリー調コート。
ホワイトの変形シャツワンピースには、今のと同じ赤のボウタイ。
色をあわせたブラックのオープントゥブーツ。
髪の色にあわせたのだろう、ダーククリムゾンのスキニーデニムパンツ。
な……
なんというか、これは、その、まあ……なかなか……
「ど、どうやって選んだのよこれ。あ、ひょっとしてマネキンが着てたやつそのまま選んだとか? もしくは店員さんから言われるままに揃えただけ?」
「重ね重ねも失敬な奴だなクリスティーナよ。俺がファッションを選ぶのがそんなにおかしいか? 狂気のIQ170に不可能はない。つまり普通に真剣に考えたのだ」
「ホントか? なにかズルしてない?」
「しているわけがないだろう。具体的にどうやってズルするというのだ」
それは例えば、タイムリープして事前にトライするとか……
……いや、さすがにそれはないか。
タイムリープマシンは使わないことに決めたのだった。
「どうした? いるのか、いらんのか。着るのか、着ないのか。第一俺はお前のスリーサイズを知らん。サイズが合っているかどうかわからんぞ」
「そ、それは上から79、56、8……って何をいわせるんじゃあんたはっ!」
顎をとらえる右フック。
岡部は上体をそらせて避ける。
「うおっ、ノリツッコミ!?」
「はあ、はあ……くっ、いいわよ着てやるわよ。少しそこで待っていなさい! いいわねっ、動くんじゃないわよ! ね!」
「あ、ああ」
なぜ怒っているのかわかっていないであろう岡部を尻目に、わたしは試着室へと入るのだった。
ていうかわたしはなんで怒っているのだろう。
わからなかった。
なにもかもみなわからなかった。
(〜お待ちください〜)
試着。
してみました。
「ど、どう? 似合うかな?」
わたしはくるりと回ってみる。
意外なことにサイズは比較的あっていた。すこしコートの袖が少し長めだけど、このぶかついたシルエットが、わたしは嫌いではない。赤のボウタイはいつものトレードマークになっているし、シャツワンピースの形もわたし好みだ。
雰囲気とあってるなあ、という感じがする。
まあそれはあくまでわたしの主観であって、他人から見たらどう見えるかわからない。
そのためにも岡部の感想が欲しいわけだけれども。
「ねえ、岡部?」
「…………」
「ねえ?」
岡部はわたしの声に答えることなく、わたしの格好をぼーっと見つめている。
心ここにあらずといった感じだ。
「……岡部?」
ふと、不安な気持ちになる。
こんな顔でわたしを見る岡部なんてはじめてだ。
右手には、さっきまで話していたのか、ケータイが握られている。
岡部。
ケータイ。
なにか、あった?
誰かからの知らせか……それとも。
それとも。
「ねえっ、岡部! 岡部ってば!」
「………………………………………………………………はっ?」
今はじめて気づいたようにこちらを見る岡部。
「どうしたの? 何かあった?」
「え、ああいや、その? 何だ、どうしたか」
「どうしたか、じゃないわよ。ぼーっとしちゃって、何みてたの?」
「く……紅莉栖を、みていたが、何か?」
「? どうしたの岡部、なんか様子ヘンだよ」
「いやっ、その、きれいだな、と思って見とれ……いやそうではなくてだな。なんだ、大したことではない。全くなんでもない。なんでもないぞお」
その顔はなぜか、赤く染まっている。
???
いったいこいつはどうしてしまったのか。
「そっ、そうだっ、気をつけろクリスティーナ、これは“機関”からの攻撃である! こっ、この能力は奴、時空破断者《ディメンション・ブレイカー》っ!」
あきらかに取り乱しておたおたと周囲を見回す岡部。
どうしたんだ。
何か変だ。
おかしい。いつもの厨二病にしても、タイミングがおかしい。
「奴は“機関”のエージェントにして四天王をもしのぐ最強の『零に等しき者《ロストナンバー》』っ! 気をつけるのだ我が助手っ、奴の手にかかって生き延びた者はいないっ!」
……ははあん。
これは。
岡部はクリムゾンレッドのストレート型ケータイをすらりと取り出し、あわてた様子で話しはじめた。
「おっ、俺だ。緊急事態だ。時空破断者《ディメンション・ブレイカー》が動き出した……! 間違いない、この時空の大きな歪みは奴だ! まずいぞっ、このままでは俺も助手もっ」
これは。
あれだな。
今日の昼間のわたしと同じだ。
時間稼ぎだ。
頭が冷静さを取り戻すまでの時間を、とにかく厨二病行動で稼ごうとしている。
その気持ちは分からなくもない。
人生にはそーゆー時がある。
岡部の時間稼ぎは、わたしのものより意味不明で奇怪なぶん、時間稼ぎとしては上級ですらある。
「わかっているっ、いざとなればこの俺の最終奥義をもってして……っ、ああ、秋葉原が血の海になるがそれでもかまわん! 奴は、奴だけは俺が、死んでいった仲間たち、そして妹のためにも……っ!!」
あんた妹おらんだろうが。
どっから湧いたんだその設定。
店の中はちょっと騒然としてきた。
お客さんが明らかに不審な異物をみる目で岡部としかも加えてわたしを見ている。
状況がよくわかっていないのか、お客さんのなかには『死んでいった妹』のくだりで、まあ、可哀想に、と間違った同情をいだいている人すらいる。
…………。
これ以上はまずかろう。
人前だが、やむをえまい。
わたしは荷物からすらりと得物を出す。
鋳鉄製のおいしい悪魔、エビフライくん。
岡部はまだケータイとぎゃいぎゃいやっている。
わたしは居合いにのぞむサムライのように静かな心持ちで、すっ、と武器を構える。
軌道計算。
誤差修正よし。
「奴の能力と俺の右手の悪霊がぶつかったらっ、秋葉原が吹き飛ぶぞ! その前に早く逃げるのだ!」
力をためる。
はああああああああ……っ。
「いいかよく聞け、俺の能力で奴を可能な限り食い止めるっ、だからその隙に奴をおごぼうぐうべらっ!?」
フルスイングされたエビフライくんが、岡部の後頭部にスマッシュヒットした。
鉄がぶつかると低い音がするはずだが、まるで硬球ボールを打ったときのようなコォン! という小気味よさすら感じる音が店内に響いた。
「……っ! ……っ!」
頭を抱えてうずくまる岡部。
ちょっと震えている。
わたしは自らの技のキレに思わず一礼し、戦いを終えた達人のようなおごそかな気持ちで武器をしまった。
すまない、岡部。
こうするしかなかったのだ。
岡部はふるふる震えながらうずくまっていたが、しばらくすると立ち上がった。
そのままゆっくりと、こちらを向く。
その顔は痛みをこらえながらも、痛みを乗り越えたような、平穏さすら感じさせる顔。
悟ったものの顔である。
岡部は目を閉じ、ゆっくりと首を横に振り、平坦な声で言った。
「……慣れちゃった」
もう一回しばいたろうかこいつ。
† † †
「……15時15分か」
わたしたちは駅前のヨドバシカメラの入ったビルの一階にあるコーヒースタンド、スタベのシート席で一休みしていた。
狭い店内は、ビジネスマンや主婦や友だち連れや電気屋の紙袋を抱えた男たちでいっぱいだ。
普段はここの無線LANを目当てにノートパソコンを持ち込んでがちゃがちゃやっている秋葉原電気系、って感じの人たちが多かったのだけど、今日は意外にそういう人はいない。街にもいない。
どうしてかな、と思ったら――今日はコミマの初日なのだった。
わたしもネットで情報ばかり聞いて実際に行ったことはないのだけれど、そこはものを売るための場所ではなく、同好の志の交流の場所でもなく、戦場なのだという。
おおげさな。つまるところスケールの大きな同人誌即売会場でしょう?
戦場ってことはないでしょう。
ここ何十年も戦争は海の外の出来事だった日本人に特有の、平和ボケした誇張表現じゃないの?
……という話を岡部としていたら、岡部は何もいわず、ただ首を横にそっと振った。
「……クリスティーナよ。おそらくコミマに今後一生行かないであろうお前がいくら妄想の中でコミマを過小評価しても、それは一向に構わん。だが、それを人前で公言するのは差し控えるべきとアドバイスしてやろう。とくにまゆりの前では決して言うな」
「ん? どうしてよ。あのまゆりが怒るとは思えないけど?」
「これは親切心から言ってやっているのだ。俺には見える。手に取るように見える。まゆりが『じゃあ一緒に行こうよ』と言うシーンが」
「わたしが? うーん、べつに欲しいものがあるわけじゃないしなあ」
「甘いぞクリスティーナ。そういう意味ではない。ラボメンの中で、最も頑固なのがまゆりだ。一度言い出したら絶対に意見を変えない。そんなまゆりが『一緒に行こう』と言ったら、それは首に縄をかけてでも連れて行く、ということなのだ。あまつさえ昨日のコスを見ただろう。あれをお前に着させると言い出す可能性すらある。そのとき、おまえの手元にすでに拒否するというカードはない」
「……っ」
昨日のコスプレ衣装が思い出される。
極限まで胸が露出したピチピチの白いワンピ。
パンチラどころかパンモロどころかヘソまで露出した、東京都条例に挑戦状をたたきつけるようなミニスカ。
それは……ちょっと……。
人間の尊厳っていうものが……。
わたしは人間の尊厳を破棄するくらいなら高潔な死を選ぶが、まゆりがそれを許してくれるだろうか。
「あ、ありがとう……岡部……ちょっと、気をつける……」
「ああ、そうしろ……」
なぜか2人して落ち込んでいる岡部とわたし。
なんだこの絵は。
わたしはふと思い出して、自分の服を見た。
「それにしても岡部、こんな高いもの買ってもらっちゃって、本当によかったの?」
わたしは岡部に買ってもらった服を着ていた。
岡部がぜひそうしろ、と言ったからだ。
まあわたしとしてもすごく気に入ってるし、なんだかデート用の服みたいでまんざらでもなかったが、岡部がそうしろと言うのは意外だった。
岡部はいつも白衣を着ているし、わたしが白衣を着たときにえらい喜びようだったから、その……てっきりその、白衣フェチなのかと思っていた。
「そんなフェチがあるか。なんだ白衣フェチというのは」
「そうなの? ないの?」
「いや……ひょっとしたら、しかるべきところに行けばあるのかもしれんが……俺もそう悪くはないと思っているが……いやまあ、とにかく」
悪くないのかよ。岡部もそれなりにHENTAIであった。
「なかなか似合っているぞ、その格好も」
「……ありがと」
なんか照れる。
しかし、わたしは見てしまった。
わたしがいないとき、こっそりと会計を済ませようとする岡部に気づかれないように後ろから覗くと、合計金額は24,275円となっていた。
あんまり高級な店じゃないから大丈夫だろう、と思っていたのだけれど、やっぱり高い。
というか日本の物価が高い。
アメリカの田舎だったら、服一式にこんだけお金使うのなんてモデルやってる人くらいだ。
わたしだって結構ぎりぎりでやっているのだ。
理系の大学院生で裕福に金を使えるやつなんていない。
いたとしても親のすねをかじるボンボンか、やってはいけないバイトをやってる連中くらいだ。
そのどちらでもないわたしがこんな金額の服をそうそう買えるわけがない。
一時期在学していた菖蒲院の制服を、自分なりにアレンジして着こなすのが精一杯。
短期バイトでかつかつの金をなんとかやりくりしている岡部が、2万円以上も出してフトコロが痛まないはずがない。
お金を払うとき、そっとため息をついていたのをわたしはちゃんと聞いていた。
……まったく。無茶しやがって。
「わがまま言って悪かったわね。いつか別のなにかで返すわ」
「……おおっ、どうした助手よ、いつになく神妙だな。ひょっとしてデレ期か?」
「ちがうわ。なんだデレ期ってそんな期あるのか。……そうじゃなくて素直に申し訳ないと思っているのよ。なんか高い買い物させすぎちゃったわね。こんなに出してもらうつもりなんてなかったのに」
「気にするな。俺も気にしていない。そもそも何の代償でお前は俺に服を買わせたのだったか、俺はもう覚えていないぞ」
「そりゃあ、はじめは、あんたが……」
……言いかけて、止まる。
あれ?
なんだっけ。
思い出せない。
あれ、ホントに覚えてないや。
「……ふ、ふふっ」
「ふふ、ふはは」
少し笑いあってしまった。
なんだろう、これ。
なんだろうね、これ。
すごくデート、って感じがする。
「お前のその格好、なかなか似合っているぞ」
さらっと、岡部が言った。
「あ、ありがと」
そこでピンとひらめく。
「あ、それじゃあ次は、わたしが岡部の服を選んでやるわよ」
「次?」
「そうよ。あんたいっつも白衣にシャツじゃないの。秋葉原ならともかく、ほかの町でそんな格好したら悪目立ちしてしょうがないじゃないの。言動と人格が悪目立ちするのはもう諦めるけど、せめて外見だけはまともにしなさいよ」
「言動と人格が悪目立ち(↑)てぇー(↓)」
何だ今のアクセントは。
「まあだから、わたしが次は選んであげるから、ついてきなさい、って話。わかった?」
岡部はしばらくぼーっとしていたけど、やがて少し赤くなってうなずいた。
「よ、よし。いいだろう。次の約束だな。望むところである」
……よし。
まったくこいつときたら、ほっとくといつまでもラボの日陰でガラクタいじってたりする。外に連れ出すのにも一苦労だわ。
ま、わたしもアメリカに戻ったら人のことは言えないんだけど――
わたしはそっと息を吐いた。
どうやら、緊張していたらしかった。
ガラにもないことだ。
全く。
――と。
岡部のケータイが鳴りはじめた。
「ん?」
岡部が自分のストレート型のケータイをポケットから取り出す。
「誰から?」
「わからん……非通知だ」
あら。いまどき非通知ねえ。
「“機関”とやらの差し金じゃないの?」
「そんなわけあるか。……ああ、いや、そうではなくて、“機関”は俺のケータイに電話をかけたりはしないのだ」
岡部はちらっと、様子を見るみたいにわたしのほうを見た。
「どうぞ」
しょうがないわね。
「出ていいわ」
「すまん」
岡部が珍しく神妙に頭を下げて、電話に出る。
「はい、もしも――」
ドクン。
岡部の頭が跳ね上がる。
「……あ……」
それは、誰が発した声だったか。
「……ぅあ、あ、あ、あ」
岡部の目……目が。
目が、左右に振動しはじめる。
首がひきつり、顎が跳ね上がる。
「ああ、あああ、ああああ」
岡部の目の瞳孔が、右目と左目がばらばらに、痙攣する。
「あぐぁ、あ」
痙攣は体全体に広がっていく。
いまや岡部はなにかに操られるみたいに、全身が勝手に跳ね、動き回り、痙攣し――
テーブルの上のコップが倒れた。
床に落ちて、割れる。
「う、うわ、あああ、ああああ」
次の瞬間。
魂が消える寸前のような、絶叫。
「うわぁぁああぁああああぁぁあああぁぁああああああああっ!!!!!」
「ちょっと岡部! どうしたのよ!?」
岡部がケータイを耳にあてたまま、目を飛び出るくらいまで見開かせて、絶叫している。
「うわああぁぁぁああぁぁあああああっ、ああっ、あああぁぁぁぁあああぁぁああぁぁああっ!!」
「岡部っ、ちょ、しっかりしなさい!」
跳ねる。
岡部の体を、必死でおさえつける。
なんだ、なんなの、一体何が起ころうとしているの!?
岡部がひときわ激しく跳ねると、手からケータイがすっぽ抜けた。
床をすべっていく。
「あ……が……」
なんだ、なんなの、これ?
お、岡部が……
岡部が死んじゃう……っ!
「が……」
……止まった。
抱きしめていた岡部の体が、急に重くなる。
落下するみたいに、店の椅子にもたれかかる。
「……っ」
店は静まり返っていた。
「お……かべ……?」
見開かれたままの、岡部の目が。
ゆっくりと、わたしをとらえる。
「岡部……ねえ、どうしたの!? びっくりさせるんじゃないわよ、ねえ、岡部、わたしが分かる?」
「……あ……」
岡部は喉を何度かふるわせたあと、ようやく、言った。
「ああ……紅莉栖。分かるさ……お前は、牧瀬紅莉栖だ」
岡部は、枯れた声で、そう言った。
「ねえ、急に大声出して倒れたのよ、大丈夫なの? なんともない?」
「ああ……大丈夫だ」
ゆっくりと立ち上がる岡部。
「立てる? 大丈夫?」
「すまない……気にするな、なんともないんだ。それより」
岡部は目をほそめて、
「今日は、何月何日だ?」
不思議なことを問いかけた。
「……え?」
一瞬、何のことだかさっぱり分からなかった。
何月何日って――今日の日付のこと?
突然そんなこと訊いて、こいつ、どうするの?
今の謎の絶叫と関係あるの?
「今日は、8月14日だけど……」
「今は何時何分だ?」
さらにわけがわからなくなる。
「ええ? 岡部さっき自分でケータイの時計見たじゃない。わすれたの?」
「お前の口から聞きたいんだ。何時何分だ?」
なんなのよこいつもう。
「えーと……わたしのケータイでは、15時25分だけど?」
「そうか……」
岡部はそう聞くと、ほっと胸をなでおろした。
あきらかに安心したようだった。
「念のため聞くが、ここは俺の知ってる世界線か? そうだな……桐生萌郁は生きているか?」
え、桐生萌郁? だれ?
どういう意味だろう。それが今、いったいなんだと言うんだろう。
桐生萌郁……。
ああ。
「桐生萌郁って、あの、何日か前にラボに来た、マスコミの人?」
「……そうだ」
そういえば、そんな人が来ていた。
10日ほど前、ラボにあるIBN5100を見せてほしい、と言ってあがりこんできたのだ。
確かなんとかという編集プロダクションの取材で、IBN5100のようなレトロPCを探しているんだと言っていたか。
でも不思議なことに、桐生さんはIBN5100の写真を数枚ケータイで撮影すると、「……ありがとう」と言って帰っていった。そういえば帰り際にぼそりと「せっかく見つけたのに……捜索中止なんて……」と言っていた。あれはどういう意味だったんだろう。
その後もDメールの実験につきあって、ケータイの機種変をしないっていうDメールを送ってもらったりした。結局ケータイの機種は変わらず、しょんぼりしていたみたいだったけど。
「桐生萌郁さんが生きてるか……って、どういう意味?」
「そのままの意味だ。今日、桐生萌郁が生きているところを見たか?」
「い、いえ……あ、そういえば、見たわ」
「どこでっ?」
「ラボの下、一階のブラウン管工房で。なんでも彼女、あそこでバイトはじめたらしいわ」
「バイト……だと……?」
「そう。いなくなった鈴羽さんの代わりみたい。あんなに口下手なのに、接客のバイトってつとまるのかしら」
「萌郁を見たのはいつだ?」
「いつって、今日の昼よ。出かける前に、一階で会ったじゃない。岡部も挨拶してたわよ。忘れたの?」
「いや、このところ、あんまり沢山の『今日』を見つづけてきたせいで、うまく思い出せないんだ……すまない」
岡部は床に落ちていた自分のケータイを拾い上げる。
「店を出よう」
それでわたしも気がつく。
店がしんと静まりかえっている。客がみんな、こちらを見守っている。
それは珍獣を見るような目ではなく、異物を見るような目。行動原理の理解できない、人間ではない異質なものを見る目。
私たちは足早にそそくさと、その店を後にした――
† † †
そのあとで、岡部は、わたしを意外な場所に連れて行った。
ラジ館の屋上。
ラジ館は、いまだに立ち入り禁止になっている。
電気街口の人通りは多く、頭上を見上げる人々は今も引きも切らない。人工衛星騒動で一時は閉鎖されていたのに、いまはバイトのメイドさんのティッシュ配りや、ケバブ屋まで操業を再開している。
にぎやかな街並み。
ラジ館の8階は破壊されたまま、かつての謎の人工衛星もどきが刺さっていたあたりはすっかりもぬけの殻になっている。いちばん目立つ物体が消えてしまった今では、ラジ館の注目も次第に薄れつつあるようだった。KEEPOUTの黄色いテープの間をくぐって、強い日差しとビル風が吹き込んでいる8階をやり過ごし、わたしたちはラジ館屋上への非常扉を押し開けた。
今日も快晴。
空が近い。
相変わらずの強風が、わたしの新しいコートの裾を持っていこうとするのを押さえながら、秋葉原の街並みを見下ろしてみる。こうしてみると、電気街口周辺はとても窮屈そう。
すぐ目の前にあるガードの上を、総武線の黄色い電車が走り抜けていった。
岡部は、屋上を囲う金網に身をもたせかけ、ずるずるとしゃがみこんだ。
「なあ……紅莉栖」
岡部は空を見上げたまま、言った。
「空がきれいだなあ……」
「ちょ、どうした岡部」
焦った。
いつもの厨二病のバリエーションに、こんなのあったっけ?
そう。
岡部の突然の絶叫、そこから派生する謎の言動――これらを理解するのに最も適した解を、わたしは探した。
そして真っ先に思いついたのが、『いつもの病気』という解。
岡部はいつもの電波ゆんゆん状態で、楽しく妄想の世界で悪と戦って、その結果やられた。わたしはそれについていけず、素人のようにおろそろしただけ。
どうだろうか。
――違う。
これは、そうではない。そっち側の話ではない。
――不思議な感覚だった。
いつも奇怪な行動で人を当惑させることが得意な岡部の、心の中が、分かる。
岡部はいま、苦しんでいる。
岡部にとって、鳳凰院凶真は、退屈で自分やまゆりを受け入れようとしない世界へのシュプレヒコールのようなものだ。
詳しい事情は知らないけれど、岡部は昔まゆりのために鳳凰院凶真を作り出したのだそうだ。
鳳凰院凶真は、岡部にとって退屈な世界と戦うための武器であり、自分やまわりの人を守るための防具なのだ。
だけど、今、岡部はほんとうに疲弊している。
武器や防具を持ち出すことができないくらい疲れきっている。
ついさっきまであんなにはしゃいでいたのに。
ついさっきまであんなに楽しそうだったのに。
そんな突然の変化に、わたしは論理的帰結をみちびき出せない。
――いや。
ひとつだけ、ある。
仮説というか、仮定が。
「岡部……おしえて」
「……なんだ?」
わたしはひとつ深呼吸して、言った。
「岡部は……いったい何回目の、岡部なの?」
岡部は驚いたようだった。
その顔には、どうして分かったんだ、という驚きが書かれていた。
「お前は……」
けど、すぐに顔を伏せると、弱々しく首を横に振った。
まるで見たくない現実から、目をそむけるみたいに。
「いや……さすがは天才少女だ。すべてお見通しか……そうだな、お前には正直に話さないとな、紅莉栖」
岡部に真顔で紅莉栖、と呼ばれると、なんだか不思議な感じがした。
いままではクリスティーナか助手か、さもなきゃセレセブとかザ・ゾンビとかひどいネーミングだったのに。
なんだろう。
岡部になにが起こったんだろう。
なんだか――
胸騒ぎが、する――
「紅莉栖。何回目の俺か、と聞いたな。俺は――」
岡部は首を振ると、老いて弱りきった犬のような目をして、言った。
「――7559回目だ」
――な。
なな、せん?
目の前がぐらりと揺れる。
この男は、いったい何を言って――
「そもそものはじまりから話そう、紅莉栖。俺が何千回と繰り返してお前に話した話だ。別の世界のお前にな」
岡部はすりへっていた。
どうしようもなくすりへっていて、それでも心を決めてここに来ていた。
「そして聞いてくれ、紅莉栖。この話はお前にとっては、他でもないお前にとっては――」
岡部はそこで泣きそうに顔をゆがめた。
けれど涙は出なかった。
涙は意志の力で押さえ込まれたのではなく、もうずっと前に、根元のほうから枯れてしまっていた。
絶望の、予兆。
「お前にとっては……死亡宣告になる」