今こそ皇室典範改正が必要なのだ 9月7日

男なら、それだけで良い。日本の天皇の、それ以上でもそれ以下でもない唯一無二の資質だ。私たち平民からすると、研鑽とか努力とは無縁の、あまりにも無味乾燥な天皇たり得る条件だ。秋篠宮家の男児誕生劇は、実際冷静に分析してみると、まぎれもなく出来レースだった。2月に秋篠宮妃の懐妊が発表された時点で、男子が誕生することはゆるぎない事実だった。逆に言うと、天皇家に男児を誕生させるための秋篠宮妃の懐妊であり、「秋篠宮妃懐妊」と「男児誕生」との二つの事象だけが、宮内庁にとっては必要な出来事であって、実際、懐妊中のプロセスについては一切ベールに包まれている。

皇太子一家は勿論のこと、秋篠宮に男児が誕生したことで心を痛めている人々が存在する。それらの人々の心中を思うと、天皇の資質とはいったい何なんだろうと考えてしまう。「男性」それだけで天皇としての価値が決定付けられてしまう日本の天皇制の真価が、今、問われようとしている。仏紙も英紙も、男系男子にこだわる日本の天皇制を、時代錯誤だと批評している。女であるということだけで、「天皇の資質なし」と烙印を押そうとする宮内庁の方針は、日本も批准している「女子差別撤廃条約」に反する上に、憲法14条(男女の平等)にも反する。そして何よりも、「公序良俗」に反するものだ。人格よりも何よりも、男性であることが最優先される天皇が日本の象徴であることに、日本国民の他、世界の多くの人々が違和感を覚えている。

秋篠宮家に男児が誕生したからといって、万世一系男系男子の系譜が維持される保障は将来的にはどこにもなく、女性・女系天皇を容認するための皇室典範改正は、天皇制の維持の大前提として、遅かれ早かれ必然のものとして受け入れなければならないときがやって来る。まさしく人格を踏みにじられた雅子妃や愛子内親王の痛みを、将来再び味わう人が出てくる可能性がある限り、天皇制の存在そのものに疑問を感じざるを得ず、秋篠宮家男児誕生のニュースに惑わされない思慮深き判断が求められるのだ。

全ての人々が平等に生き、たとえいかなるハンディキャップを背負おうとも、1人の人間としての人格が認められる人権豊かな社会こそ、健康で文化的な我が国が求める理想の国家像であるはずだ。雅子妃と愛子内親王とが強いられる非道な人生に心を寄せることをしない宮内庁や一部の政治家たちの言動は、国家権力の名のもとの人権蹂躙以外の何ものでもない。自身が天皇になるために執念を燃やす秋篠宮を、私たちは、国民の象徴として崇め奉ることができるのか!?

男女の区別なく、天皇に人間としての当たり前の人格を認めることが、全ての国民に対する「平等・公平・公正」な社会の約束となる。皇室典範を改正し、愛子内親王が皇太子殿下に継ぐ皇位継承者となることこそ、日本国民統合の象徴の証なのだ。雅子妃を否定する宮内庁の態度は、不妊症や男児を産むことのできない女性全てを否定していることに他ならない。かといって、男系男子論者である安倍晋三氏には、皇室典範改正は任せられない。来夏の参議院選挙で民主党が躍進し、一刻も早く政権交代を果たし安倍政権を終焉させることが、日本の国益に最も資するシナリオなのだ。愛子天皇を認めない国家の未来に、私たちは希望の光など見出せない。

意味もなく男子のみを優先する国家のどこが、いったい美しい国と言えるのだろうか・・・。
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