大津市いじめ事件については、警察が異例の学校、教育委員会への立ち入り捜査を行ったことが報道されていますが、それよりも異常さを感じるのは、詳細な加害者情報がネットに広がっていることです。真偽はともかく家族、また本人たちの写真、転校先、人脈図までが流出しています。ネットの怖さ、またネットの現実をまざまざと感じさせます。1997年に起こった、あのおぞましい神戸連続児童殺傷事件の際も、加害者の「酒鬼薔薇」少年の顔写真がネットに流れましたが、ネット人口そのもの、また情報の発信力も拡散力も当時とは比較になりません。
もともとはフジTVの報道で名前を伏せた黒塗りが透けていたことに問題があったのですが、いったい誰がなにの意図をもって、加害者とみられる家族の経歴や写真まで流したのでしょうか。とくにそれがデビ夫人のブログに載せられたことが情報の拡散を加速したようです。テレビにも出演し、社会的な影響力を持った人が、いかに加害者や学校、教育委員会に対して怒りを感じたとしても、なぜ法にも触れかねないリスクを負ってまで加害者情報を晒したのかは謎です。
この情報流出と、警察による突然の強制捜査との因果関係ははかりかねますが、もはや加害者とされる本人たち、家族の将来は失われます。いわばネットによる報復であり、私刑そのものです。それを良しとすればもう法治国家の体をなしていません。なにか不気味さを感じます。
加害者とされる少年の父親がPTA会長であったこと、また母親も人権問題などで市ともかかわりのある活動を行なっていたことまで情報が流れているのですが、その背景を考えると、なぜ学校や教育委員会が事件をネグレクトしたのかは想像がつきます。面倒なことを避ける事なかれ主義、保身そのものだといわざるをえません。。学校も教育委員会も、また行政もまったく組織として機能していなかったのです。
今頃になって大津市市長も第三者委員会を設置して調査にあたるとしていますが、大津市と加害者と遺族の間での民事裁判で、自殺した生徒の死といじめの因果関係を否定していたわけで、なにをいまさらと感じます。
いったい人権派と自認する人たちはこの事件、またその後の加害者とみられる家族情報の流出に関してどう考えているのでしょう。教育の場は聖域であり素人が口をだすなともとれる発言を繰り返してきた学者さんたちはこの問題をどうとらえるのでしょうか。
ちなみに内田樹先生のいじめ論を見ると、競争させたことがいじめを生んだというのです。競争は悪だという発想なのでしょう。競争原理がいじめの原因だというのです。こちらもその考え方に不気味さを感じます。
いじめについて (内田樹の研究室)
私の見るところ、「いじめ」というのは教育の失敗ではなく、むしろ教育の成果です。
子供たちがお互いの成長を相互に支援しあうというマインドをもつことを、学校教育はもう求めていません。むしろ、子供たちを競争させ、能力に応じて、格付けを行い、高い評点を得た子供には報償を与え、低い評点をつけられた子供には罰を与えるという「人参と鞭」戦略を無批判に採用してる。
であれば、子供たちにとって級友たちは潜在的には「敵」です。同学齢集団の中での相対的な優劣が、成績評価でも、進学でも、就職でも、すべての競争にかかわってくるわけですから。
だから、子供たちが学校において、級友たちの成熟や能力の開花を阻害するようにふるまうのは実はきわめて合理的なことなのです。
周囲の子供たちが無能であり、無気力であり、学習意欲もない状態であることは、相対的な優劣を競う限り、自分にとっては「よいこと」だからです。
そのために、いまの子供たちはさまざまな工夫を凝らしています。「いじめ」もそこから導き出された当然の事態です。
なにを言っているのでしょうか。では競争を避けさせたゆとり教育時代にいじめがなかったとでも言いたいのでしょうか。そんなことはありません。いじめはいつの時代にもあります。なにも日本だけで起こっているわけでもありません。私自身も小さいころにいじめを受けた経験があります。今回の件が起り、周りの人たちに聞くと、子供の頃にいじめを受けた経験がある人、また逆にいじめた経験を持って人はかなりいます。しかし、今回のような陰湿さはなかったというのが一致した感想でした。
大人の社会でも、子供の社会でも、いじめは必ず起ります。大切なのはそれを抑止する力を、その社会そのものが持っているかどうかです。
子供社会で言えば、いじめの暴走を力ずくでも抑えるリーダー、昔で言えばガキ大将がいるかどうか、あるいは地域コミュニティや学校がきちんと見ているかどうかです。しかし先生や学校がもちろんきちんといじめを発見し対処する努力も大切ですが、いじめは先生や学校から見えないところで起こるので、子供たち自身にいじめの暴走を止める意識、どうすれば止められるかという知恵を育てるほうが大切だと思います。
内田樹さんの考えのように、お手てつないで仲良くねというのが「市民的成熟」とは思えません。人間である限り、個性がぶつかりあうこと、対立も起ることも当然あります。それをうまく解決する能力を持つことが「市民的成熟」ではないでしょうか。少なくとも内田樹さんの「市民的成熟」社会は、無菌状態の気持ち悪さがあり、きっと個性の強い人たちを排除する結果になりそうです。
きっとそういった摩擦そのものを認めない「市民的成熟」意識が今回の市教委や学校の態度にもつながったのではないかとすら感じます。
むしろ、間違った平等主義、お手てつないでみんな一等賞ということで均質化をはかろうとすればするほど、異質を排除しようとする意識が働き、それがいじめをさらに助長するのではないかとすら感じます。
いずれにしても、大人になれば、否が応でも学校とは比較にならない厳しい競争を体験させられます。将来を担う子供たちには、競争でくじけない心、競争する土俵はいくらでもあり、自分にあった土俵を見つけだす意識や能力を育ててあげてほしいものです。
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