伝言臨時ブログ

2012-07-09

このブログについて説明

大河が一時的に、伝言用に、いまだ使い方も不慣れで
開きましたが、継続して、皆さんのように
ブロガー生活をするわけではありません。

他人様の掲示板や、ブログコメント欄では処理しきれない
分量を書く時に使うつもりです。

あべひさんへの伝言


菊川さん関連の前に、長〜〜い説明をします。

まず「公平」なる言葉を何故私が使ったか?

http://6706.teacup.com/fbreformation/bbs/456
>それを認めれば、私は当時を知りませんから
>とことん、公平にウオッチングしますよ。

まず、何故↑のようなことを発言したか説明いたします。

ふりかえれば、京阪さんが、

http://6706.teacup.com/fbreformation/bbs/438
>反あべひであれば、何でもアリなの?
>反あべひであれば、無条件で“仲間”の過失も見逃すの?

京阪さんの抗議は「一理」あるのですが、

その「一理」というのは、

http://6706.teacup.com/fbreformation/bbs/400
JunkDarkさんに破折された「頓珍漢な引用」を性懲りもなく繰り返す阿部日 投稿者:阿部日の人間学 投稿日:2012年 6月 9日(土)19時08分2秒   通報 返信・引用

↑の記事に対して、一方の対話者である京阪さん自身が
「異議申し立て」の抗議をしていたわけです。

何故ならば、以前のJunkDark氏とあべひ氏の「やり取り」は
そのものずばり「ネットと現実」であったのでしょうが
京阪さんとあべひさんとの「やり取り」は
そのものずばり「理想と現実」であるからと、京阪さんの主張です、

(もっとも、この場合に、先生のその指導は、私自身は適切でないと
思いますが・・・・これは今回は触れません)

いずれにしても、言葉だけであれば「理想と現実」で
矛盾は無いと、その点で、京阪さんの異議申し立てに「一理」あると
申したわけです。

又、「公平」という観点からいえば、

京阪さんが、あべひさんに対して「カチーーン」となった
例の「親愛なる隣国中国」の件ですが、
あべひさんの意見は、ほぼ正論と、私には読めましたが、

京阪さんが、カチ〜ンとくるには、それなりの
やはり、あべひさんの対応のまずさはあったと思います。
解りやすく言えば「意地悪っぽい」&「皮肉っぽい」言い回しでしたね。

もっとも、一度はカチンとなっても、切り替えが早いのは
京阪さんの「気質」故の長所と思います。

これは蛇足でしょうが、それにしても何故、意地悪っぽい言い方をしたのか?
と推測すれば、容易に察しもつくのですが、


http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/1422/1336011529/15
>あべひさんの対・菊川さんへのやり方に反対だ。

↑この発言に対して、生身の人間ですから、気持ちは良くないでしょうしね。

「親愛なる隣国中国」の一件は、この京阪さん発言以降ですからね、

その証拠に、あべひさんに一切批判的な態度を取らないマグマグさんに対しては
優しく諭している場面は随分とありますしね。
意地悪、皮肉、等とは無縁の振る舞いですよね。

あ、それと、更には

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/wasureenu.html#6
『風景を探る』愚壮さまへの伝言
>529 名前:あべひ 投稿日:2012年05月31日 (木) 15時40分
>愚壮殿の堅王愚王論拝見しました。
大聖人様の時代はともかく明治以降は、為政者は民衆から「選ばれて」成れる時代です。
>そういう意味で「民衆が堅王の担い手」と表現されているようにも読めます。
>余事かもしれませんが日本の本当の為政者官僚機構だといえるのですけれどね(笑)

↑ここの部分など、人生・信仰の大先輩に対して、失礼の無い態度で
ゆるやかな進言をしていて、やや美しいのですよ。

ですから、人間ですから、自分に対して肯定的な人に対しては
進言は「緩やかに」なり、自分に対して否定的な人に対しての
進言、異議は、厳しい(嫌味皮肉含)口調になるわけです。
これは、一般論としてほとんどの凡夫の姿でしょう。
あべひさんだけが例外ではないわけです。

重ねて蛇足ですが、(『風景を探る』愚壮さまへの伝言)のその書き込みを
記憶を頼りに、本日探しにいきまして、
「おにゆり」さんの、とても茶目っ気タップリの
書き込みを見つけてしまい、微笑みましたよ。
クサカンムリとか、サンズイとか、クイズみたいですね。
ユーモア精神に賛辞を送っていたと、よろしくお伝えください。


いよいよ、本題ですが

さて、あべひさんの富士宮での記事抜粋ですが、

No.35338 あぁっ(汗) 待たせすぎでしたか?
>その時に戸田先生が手渡された妙悟空の「人間革命」を菊川広幸(吉川)さんは
>“戸田先生の人間革命は多くはフィクションで書かれています”
>“背景はフィクションでも、牧口先生のことは事実を元に書かれていると思います”

http://megalodon.jp/2012-0424-1252-00/sokaknight.exblog.jp/18148363/
>と外の方に説明し、牧口先生の事以外はフィクションだと念押しをした
>わけです。

>今だから書きますが、この菊川(吉川)さんの書き込みを見たときは
>「おいおい、コラちょっとまてや!」とマジギレしそうでした。

↑「トリック」が仕込んであるんですよね。

トリック、トリック、ですよ。
しかも、この件は、既に、カチカチ山さんが、やんわりと
指摘済なんですが、・・・


対話の相手である仏勉さんから牧口先生のことを聞かれたから
牧口先生について返答していると、普通は読みますよ。

あべひさんの「悪い方への」想像が膨らみ過ぎた結果ですよ。
良好な人間関係であれば、一応、確認できるんですよね。

「その説明、戸田先生については、どうなの?」とですね、
当然、仏勉さんが、戸田先生について尋ねれば、

先生の表現のように

★ この小説(戸田先生の小説・人間革命)の前半は、
★ 完全なフィクションであるが、
★ 後半は、(戸田)先生ご自身の獄中体験をもとにしており、
★ 投獄された主人公の「巌さん」が、
★ 正法の流布に生害を捧げる決意を固めるところで終わっている。
★ 新・人間革命第1巻あとがき

と、返答するはずですよ。

「信頼関係」の無い、人間同士では「最大限」に
悪く、悪く、解釈するもんなのですよ。


そして、何故、トリックかと言えば、

最初の批判の言葉は
No.34988 【内】 驚愕!人間革命フィクションだと明言した男
フィクションとは架空・虚構の物語を指す言葉であることは皆さんも承知でしょう。
>戸田先生の「人間革命」は創価学会という実在の宗教団体を描いたノンフィクション
>小説であることは論をまちません。
>責任をもってどこが創作なのかを示し責任を果たすべきでしょう。

牧口先生の件は「後だし」ですよね。
「マジギレ」しそうなくらいなのに、その時に何故「牧口先生」の
ことを書かなかったのでしょうか?
後で「言い訳」を考えたんですよね。

既に掲示板やブログコメント欄でも多くの人から指摘されているように
そもそも、あべひさんは、「フィクション」という言葉に
完全に勘違いがありましたね。

良く世間でいうところの
「あの人は作り話が多い」
これは、嘘が多いという意味で使いますね。

それに対して「創作」

創作作品でも、文学作品、等で、人間の真実を描き、感動を与える
ことのできるものは多々あることは認めますよね。

あたかも、菊川さんが、「フィクション」なる言葉を
世間でいうところの、うそつきを意味する「つくりばなし」程度、
あるいは「ねつ造」的な意味で使ったと、
勝手に解釈したわけですよ。

繰り返しますが、戸田先生の人間革命
フィクション部分でも、創価学会信仰の真実は
表現されているのですよ、
これは、認めますよね。

良く、あべひさん達は「自称創価学会員」なる表現をしますね。

共に、真の創価学会員であろうとするならば、
仲良くしている「マグマグ」さんに、善友であるならば
是非、緩やかに、慈悲をもって、進言してあげて下さいな、以下のことです。

あえて全文そのまま掲載します。

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No.31690 【主張】私は、沖浦さんに賛成!。。。o(*^▽^*)o~♪ 投稿者:マグマグ 投稿日:2010-12-06 20:27:35 ID:99d5e8ad4
新規 返信

――菊川さんが、戦争に関する意見を書かれて、富士ボーで/沖浦克治/2010年12月 6日(月)07時31分32秒/反対のための反対論が横行しています。/情け無いですね〜〜。/私は戦争は反対です。ですので、戦争になったら敵兵が来たら逃げますし、逃げられなくなったら抵抗せず殺されます。/仕方ないですね、仏法者ですから(沖浦息子板)――

最初の部分は大分違います。菊川さんが「戦争に部分的にでも賛成」した。他のほとんどの学会員は、それすらも「是」とせず、菊川さんの不明瞭な「戦争容認論」に反対した(反対し続けている)、です。

あとのほうは、この数年一度もなかったことですが(笑)、私は沖浦さんに「同感」です、「賛成」です、笑。そうですよね。人間の生命を最も尊重する仏法者として、「暴力による抵抗」は絶対に忌むべきです。どのように正当化しても、「殺人」を犯すことが、人として最大最悪の「罪悪」だからです。

(世法で言う「正当防衛」と、仏法で言う「不殺」を混同してはいけません。これは後述します)

戦争になって敵が攻めて来る。防衛本能が誰にでもあるので、どこかへ逃げる。あるいは、逃げ場がなくて、隠れてとどまりながらも、本当にそこに敵が迫れば、私は抵抗する。

ここは沖浦さんと違うところですが、「暴力によらない抵抗」で、最後の智慧と力、すなわち自身の信仰の力を振り絞って抵抗する。これが大事だと思います。

大聖人御在世当時の、工藤吉隆、鏡忍房は、闇討ちでほぼ無防備のなか、大聖人をお護りする「捨て身の一心で抵抗」し、殉教された。

竜ノ口の頸の座で、四条金吾は、大聖人の御身の潔白の証人としても、自らが進んで師匠とともに殉教する「勇気と覚悟の行動で抵抗」し、諸天の加護によって、自らは難を乗り越えて境涯を開き、大聖人は発迹顕本あそばされた。

熱原の三烈士は、濡れ衣を着せられて捕縛され、まったく自身で身動きがつかないまま、蟇目の矢が放たれても、「題目を声高らかに唱えて抵抗」し、殉教された。

大聖人は、「妙法の民衆の誕生」を見届けられ、これを出世の御本懐とされ、烈士によって確立された民衆の、民衆による民衆の、絶対的幸福境涯を拓く「日蓮仏法の信心」を、末法万年の全世界に顕彰、継承させるために、「本門戒壇の大御本尊」を御建立あそばされた。

人が人を殺戮する「武力行使の否定」、「非戦、不戦の方程式」は、つまり、すでに鎌倉時代に、大聖人とその弟子たちによって確立されているわけです。いや、大聖人だけではありません。先生の指導にある通り、人類英知の武力によらない「決死、死闘の抵抗者たち」は、歴史上、全世界各国地域にいます。

では「本当の戦争」に対する大聖人の御考えは?それこそ「立正安国論」です。「戦争絶対反対」の大精神、「人間主義の大哲理」がそこに展開されています(先日、先生の指導から書かせて頂きましたので、そちらをお読み下さい)

今回の場合、一つのポイントは、菊川さんが、戦争や紛争の「解決方法」、局面の「打開方法」や、戦争そのものがどのような経過をたどって勃発するのかなどの「プロセス」をまったく抜きに空想し、仮想敵が明日にでもやって来ると言った妄想に駆られていることです。

もう一つは、彼にはどうも一般的な暴力事件、暴力行使への「自己防衛」「正当防衛」と、戦争と言う最悪の事態に対する「平和の防衛」と言う次元の違いが分かっていないことが、あげられるでしょう。

つまり、菊川さんが怯えていることは、強いて言えば、どうやって自分を暴力から守り、「正当防衛」を行うか。概念も言葉も存在しない「防衛『戦争』容認」などの、大それた本当の戦争の問題ではないのです。目先の「正当防衛」だけで幾ら現実の戦争のことを考えても、結論など出ないのは当り前です。

その証拠に、昨日でしたか、彼が私に質問して来た内容、どうかお読み下さい。全部、個人の問題として捉えています。立正安国の四文字も、先生の指導の一節も出て来ない。空理を、空虚な頭で考えても、変な質問しか出来ない。それが今の彼なのです。

が、救いはあります。今日も何人もの心ある学会同志が、菊川さんの「自己防衛・暴力容認論」――こう言った方が正解に近いと思う――を否定し、優しく教え諭しておられます。大変に結構なことだと思います。

しかし、正当防衛仏法者としての「不殺」は、しっかりと分けて考えねばなりません。

前者は、現実的な状況、形態の違い、場合分けや理由づけが千差万別で、一概に禁じることが出来ない。すなわち、現・実・の・社・会・で・は・法によって整理出来ないし、しかも最終的な結果は「一形態でない」ので、世法でも、仏法でも容認せざるを得ない。

が、後者は、絶対に犯してはならない。どうしてかと言うと、「畢竟、一形態しかない」からです。で、もしも、正当防衛したことで、相手を死に至らしめた場合、仏法ではどう考えるかですが、これも結論は一つです。沖浦さんがお考えの通り「堕地獄」です。そう言えば、ecoさんもそう仰せでした。

因果の理法からは何人(なんぴと)も逃れられない。これはどうすることも出来ない。だ・か・ら・こ・そ、そ・う・な・る・前・に(有事の前に)、我々がすべきことは、反対に、容易に導き出されますですよね。

因みに、大聖人の弟子で、武士として人の命をあやめ、自らも死んだかたのお話しがあります。要するに「正当防衛」の範囲と考えてもよいでしょう。まあ、これは職業の上の問題でもありますが。

「光日房御書」(御書全集926頁)に、大聖人の慈愛の御心があふれたお話しが、我々にも分かり易く書かれてあります。

(ああ、これもecoさんがよくご存じですよね。そう言えば、ecoさん、こう言うテーマをよく考えておられます。とても素晴らしい、笑)

と言うことで、長々と書きましたが、今日の沖浦さんの「戦争反対!」の心の声に、心からの拍手をおおくり申し上げます。マグマグo(*^▽^*)o~♪
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あ、それと、菊川さんは、先生の書籍より、いかなる戦争もNOということは
納得していますからね。念のため。

本日の命題は、マグマグさんの上記書き込みの中の以下の記述です。

>>大聖人は、「妙法の民衆の誕生」を見届けられ、これを出世の御本懐とされ、

↑さて、真の創価学会員であろうとする者として、
創価学会で教えない「教義」を公然と述べているのはいかがなものか?

これ以上、説明は不要ですよね。

あべひさんが、マグマグさんの善き友であるならば
緩やかでよいから、進言してあげなくてはいけないですよ。

今度は、一転して、又、菊川さんのことについて、

中学生が、昨年ですか、自殺したニュースが流れました。
報道によると、やれ万引きしてこい、
やれ、銀行から金を引き出してこい、等々、
担任の先生も、笑っていただけとか、

もう、自殺してしまったのですが、
当時、親として子供を守るためには、
緊急避難的に、親はこの子供を「学校に行かせない」という方法しか
無かったと悔やまれますが、

先生の「苛めは苛める側が絶対に悪い」この指導
知らない、自称創価学会員は、皆無かと思います。

私は、菊川さんは、思い切ってブログを完全にやめてしまうのが
ベストだと個人的には思います。
訴訟云々もありましたが・・・・・

例の防衛戦争やら、例のメール問題等、指摘されても致し方ない
点もあり、それは、周囲のこころある友人達のサポートもあり
本人も、改めたわけです。

しかし、指摘されても致し方ない点をオーバーする「苛め」が
殆どであると、私には見えます。

菊川さんが、ブログを完全にやめてしまって一番「ガックリ」するのは
あべひさんとマグマグさんだと思います。

法華講員を相手にしているあべひさんは「イキイキ」していますよ。

そんなわけで、菊川さんは、それでも、マイウエイを行くと思いますので、
これは致し方ないですね。

あとは、カチカチ山さんの
富士宮ボーイの黒歴史1・「沖浦法論ごっこ」に加担したあべひ)

の続編を、冷静にウオッチングしたいと思います。