それから一時間ほどたったころ、詩文は、やっと落ち着いて、あたりを見まわせるようになった。
時計の針は
まだ4時前を指しているのに、窓の外の冬の景色は、早くも薄闇にとざされようとしている。
ぎゃくに、詩文がうなだれてすわるリビングは、ダウンライトのひかえめな照明のせいで、暖かいセピア色の世界へかわっていた。
静かなリビングにいると、耳の奥が、しんとなる。
母は、この家を手放すつもりだ。
このまま詩文が生まれ育った家は、他人の手に渡って、沈黙のなかに沈むのだろうか。
この家は、いつも歌っている家だった。
父が、母が、そして自分が。
ときどき訪れる、両親の友人たちが。
いつも歌い、楽器を奏で、音楽を楽しんでいる、そういう家だった。
静かな家のなかにいると、これから自分が失おうとしているものが、どんなに大きなものなのかという、実感がせまってくる。
日本と、フランス。
ふたつの国のあいだに、生を受けた自分。
22歳の誕生日までに、自分は、どちらの国の国民になるのか、選ばなければならない。
まだ、時間は、じゅうぶんにあると思っていた。
でも、そう思っていたのは、自分だけだったのだ。
愛する息子のために、両親は詩文の決断を、まっていてくれた。
詩文が、よけいなことを考えず、純粋に自分のことだけを基準にして、国籍選択の決断がくだせるように。
そのためには、詩文がフランスを故郷と思える理由となる、この家の存在が必要だ。
このパリの家を家族が住む家として維持するために、父がヨーロッパでの仕事を、いままでと同じペースで
ひき受けつづける余裕なんて、本当は、もうとっくに、なくなっていたのに。
文字どおり世界を飛びまわって仕事をしていたら、このさき、父の身には破滅が訪れる。
音楽の神様が、いとし子の父を、現世から
つれさってしまうだろう。
「電話、こないわね」
詩文のむかい側のソファーにすわって、しょざいなさげにしているマリーが、つぶやいた。
病院へむかう救急車には、母と、父のマネージャーが、同乗していった。 詩文とマリーは、連絡まちである。
「どこへいくの」
立ちあがった詩文に、マリーが問う。
「おちつかないから、ぶらつくだけ。 家のなかには、いるから。 電話番、たのんでいい?」
いってらっしゃいと、彼女の手が、ひらひらふられた。
玄関ホールへでたら、玄関の扉のすきまから入る風のせいで、空気がぴんと冷たかった。
ツネといっしょに飾ったクリスマスツリーが、キラキラと輝いている。
そういえば、今夜はクリスマスイブだったっけ、と思う。
子供のころは両親につれられて、クリスマスイブにはかならず、教会でおこなわれる子供会のパーティーへいった。
簡単なミサがあり、子供たちがキリスト降誕の劇を演じ、大人たちが準備したクリスマスのお菓子やパンチがふるまわれる、楽しい集まりだ。
その集まりでも、両親は人気者だった。
毎年、子供会の役員からの依頼で、父のピアノに伴奏されて、母が賛美歌やバッハの美しいコラールなどを演奏したから。
両親は、詩文の自慢だった。
あのときの誇らしさは、きっと、一生忘れないと思う。
両親のことを思ったせいで、詩文の足は、自然と父の仕事部屋へむかった。
重いオーク材の扉をひらくと、そこには父の内世界とでもいうべき空間が広がっている。
部屋は、父が作曲の作業に没頭していたときの姿のままで、放置されていた。
明りも、暖房も、つけっぱなしだ。
床のうえにあった楽譜の海はかたづけられ、かわりに父の机のまわりが、紙で作られた鳥の巣のようになっている。
デスクサイドにおかれたパソコンのモニターだけが、ゆいいつ、部屋のなかで動くものだった。
父のパソコンのモニターに映るスクリーンセイバーは、おもしろい。
パソコンにくわしい父の音楽家の友人が、きみにもあげるよといって、設置していったものだ。
竪琴をかかえた小さなかわいい天使のアニメーションが、ぱたぱた翼を動かしながら、画面を飛びまわる。
その天使を見て子供の詩文が大喜びしていらい、父のパソコンモニターには、ずっと天使が飛んでいる。
なぜか、パソコンを最新型の機種に、買い換えたあとでも。
この天使のアニメーションを作った友達との思い出を大切にしているからかなと、詩文は思っていたけれど。
いまは、なんとなくわかる。
父は、この天使のアニメーションに、息子の無邪気な笑顔の思い出を見ているのだ。
詩文は父親のデスクへ近づいていった。
やりかけの作業を確認して、必要ならパソコンのデーターに保存をかけておくつもりで。
最近の父は、楽譜の清書を必ずパソコンでやる。
演奏者に一音のまちがいもない、正確な楽譜を渡すために。
音楽にかんしてだけは、父は完ぺき主義者だ。
いっしょに仕事をする音楽家に対する、要求だって大きい。
だから、父はマエストロと呼ばれて、だれからも尊敬されるのだが。
マウスに手をふれたら、モニターの画面が切り替わった。
アイボリーの目にやさしい背景。
そのうえに、楽譜という形をとって、父の音楽が映しだされていった。
「なんだよ、これ――!」
おもわず、詩文は息をのんだ。
こんなオーケストラスコアは、いままで見たことがなかった。
長いスラーがかかった、フルートの複雑なメロディ。
それは、とても美しくて、印象的なメロディだった。
けれども、こんな長いフレージングでメロディを奏でつづけるなんて、人間の能力では不可能だ。
笛は、人の息で奏でる楽器なのだから。
マウスを操って、楽譜のページをめくっていくと、どうやったらこの音を演奏できるのだという箇所が、あちこちに見つかる。
トランペッターが気絶してしまいそうな、跳躍音。
オーボエ吹きが涙ぐむだろう、スタッカートをかけた速いパッセージの連続。
クラリネットの高音のうえには、『音を割るな』と、わざわざ英語、フランス語、ドイツ語で、注意書きがそえてある。
この高音を、失敗するなといわれても……!
父はいよいよ、頭がおかしくなったのか?
背中に、いやな汗を感じながら、詩文はパソコンの画面を、いっきにスクロールした。
最初のページを映して、この曲のタイトルを確認するために。
あわてていたから、肘が父の机にふれて、ところせましとならべられていた楽譜が、床になだれ落ちる。
しまったと思いながら飛び散る楽譜のゆくえを目で追っているあいだに、モニターの画面は最初のページへたどりついた。
床のうえを
すべっていく、楽譜の動きがとまる。
どうやら楽譜を汚してしまうことは、なかったようだ。
ほっとしながら、詩文はモニターへ目をうつした。
そこにあった曲名は――。
『オーケストラのための協奏曲 ――
N・Y・N・F へ
ささげる』
理解の波が、詩文のもとへおしよせた。
『オーケストラのための協奏曲』とは、オーケストラ曲を書く現代の作曲家なら、だれでも一度は書いてみたいと思う、テーマであるらしい。
詩文が知っているだけでも、何人もの作曲家の作品があげられる。
その内容については、オーケストラのすべての楽器を、まるで協奏曲の独奏楽器のようにあつかい、演奏者の名人芸と管弦楽の融合を楽しもうとする作品だといえば、わかりやすいだろう。
団員のすべてが音楽の構造をすみずみまで理解できる実力の持ち主で、おたがいの音を聴きあって親密な一体感を築けるオーケストラでなければ、この手の曲は演奏できない。
父は、みずからが常任指揮者を務めているニューヨーク・ナショナル・フィルハーモニー管弦楽団に、この曲を演奏させたくて、夢中になっていたのだ。
たしかに、世界中から集まった名手によって結成されているニューヨーク・ナショナル・フィルになら、この難曲だって演奏できるだろう。
人間業では奏でられないと思われるフルートのメロディだって、口のなかにためた空気で音をだしながら、鼻から息を吸う特殊な演奏法をマスターしている演奏家になら、きっと奏でられるはずだ。
その困難な技を使いこなせる演奏家は、世界でも、ひと握りだけだと、いわれているけれども。
きっと父親は、オーケストラのメンバーの顔を、ひとりひとり頭のなかに思い浮かべながら、この曲を作曲していったに
ちがいない。
――ニューヨークでの仕事は、隆明の魂をささえるもの。
マリーが教えてくれた言葉が、詩文の脳裏によみがえる。
世界有数の大都市に、人種も、国境も、宗教も、思想も、すべてを乗り越えて、純粋に音楽のためだけに集まった音楽家の集団。
それが、父のひきいるオーケストラ。
そのオーケストラと音楽を奏でることは、世界中のあらゆる人々に音楽で幸せを感じてもらいたいと願っている、父親の生涯の夢を現実へ表わすもの。
母は、みっつのうち、ひとつを切り捨てる、時機がきたのだといった。
東京、ニューヨーク、パリ。
母が切り捨てる決心をしたのは、母自身の祖国と仕事だった。
なにと引き換えにしても、最愛の人だけは、失いたくないからと。
母は、父が思う存分、豊かな才能を発揮できるように、父の背中を大きく前方へ、おしだすつもりなのだ。
自分にも、決断のときがきたのだ。
自分だって、父親を愛している。
ときには、自分のまえに立ちはだかる壁として、父のことを憎く思うこともある。
母の愛も、初恋の人の愛も、男としての父にむけられていると悟ったときの悔しさを思いだすと、いまだに苦いものが、こみあげてくるけれども。
でも、それ以上に自分は、父親を愛している。
父の驚くべき才能に、敬意をもっている。
父の息子に生まれたことを、誇りに思っている。
だから、無条件の愛をもって、父親が自分を守り育ててくれた想いに、いまこそ応えなければならないと思うのだ。
♪ ♪ ♪
パソコンのデーターに保存をかけて電源を切り、床のうえに散らばった楽譜をひろい集めて机のうえにそろえ、詩文は父親の仕事部屋からでていった。
玄関ホールのクリスマスツリーは、あいかわらずキラキラと輝いている。
来年はもう、この光景も見られなくなる。
そう思うと、玄関ホールに満ちている冷たい空気が、心のすきまに入りこんでくるように感じられた。
詩文の父親は18歳で日本から飛び出したあと、何年も東京の生家には帰らなかったのだという。
いまの自分のように、寂しくなったり、感傷的になったりは、しなかったのだろうか。
しばらくクリスマスツリーを見あげて考えていたら、そうかと、思いついた。
東京の家には、祖父母と、加奈子伯母がいる。
「帰りたくなったら、いつでも帰っておいで」と、弟に告げるために、婿養子までとって、家を守っている加奈子伯母。
そして、いつも陽気な祖父と、優しい祖母。
あの、にぎやかな桜ヶ丘の商店街に、家族が住む家があると思えば、若い時代の父は、どこまででも自由に羽ばたけたのだろう。
東京の家族のことを思ったら、胸のなかに、小さな火が灯った。
小さいけれど、暖かい火が。
リビングへ入っていったら、ひとりで退屈していたマリーが、立ちあがっていった。
「やっと、帰ってきた。 電話番をかわってよ。 熱いコーヒーを、いれてくるから」
マリーといれちがいで、電話機がおかれているサイドテーブルのわきへすわる。
マネージャーからの電話は、まだかかってこない。
救急車がこの家をでてから、もう、かなりの時間がたっている。
父が、どこの病院へ運ばれたかくらい、教えてくれればいいのにと思う。
マネージャーの携帯電話へ、連絡を入れてみようか。
そう思って、詩文が電話へ目をむけた瞬間、電話のほうが、さきに鳴った。
受話器へ飛びつこうとした詩文の手は、とちゅうで止まった。
液晶ディスプレイの画面に浮かびあがった数字は、東京の祖父母の家のナンバーだった。
とっさに詩文は、かかってきた電話に留守番モードで応答するボタンを押した。
いま、夏海のくったくのない声を聞いてしまったら、その瞬間に泣きだして『パパが倒れちゃった!』と、わめいてしまいそうだ。
ピーと鳴る、電子音。
母の声で、メッセージが流れる。
『ただいま電話にはでられません。 録音メッセージを残したい方は、発信音のあとにお話ください』
もう一度、電子音。
スピーカーから、えへんと、咳払いの声。
夏海が、ヘタクソな英語でしゃべりだす。
『エヴァ叔母さん。
いまから話す、ぼくのメッセージを、詩文に聞かせてください』
そして、夏海の声は、いきなり日本語になった。
『なあ、詩文。
俺ってば、ミイちゃんに、叱られちまった。
もっと、おまえのことを、信じてやれって。
まったく、そのとおりだと思った。
だから、もう俺からは、電話しないからな。
おまえのほうから話したくなるまで、俺は、まってるから。
おまえのことを信じて、まつって、決めたからな。
東京は、いま25日になったぜ。
そっちは、まだクリスマスイブだよな?
メリー・クリスマス、詩文。
おまえが、いいクリスマスをすごせるように、こっちからも、祈ってる』
ぶつりと、電話が切れた。
けっきょく、詩文は夏海からかかってくる電話やメールに、返事をしないままでいた。
パリへ帰ってきてから自分の身のまわりにおこった出来事を、ひとことでは、とてもいい表せない。
うまく説明できないのに夏海と話したら、ろくな会話に、ならないような気がする。
それでも、きっと夏海は詩文の混乱ぶりを察して、不器用な言葉をいっぱいならべて、一生懸命、励ましてくれるだろう。
その優しさにふれたら、自分は絶対に、取り乱す。
夏海に甘えて、おもうぞんぶん、泣いてしまうにちがいない。
だって、いまだって、『おまえを信じてる』という言葉をもらっただけで、こんなに涙がでているのだから。
詩文は声にならない言葉で、電話機に話しかけた。
――メリークリスマス、夏海。
東京のクリスマスは、いいクリスマスかな。
パリのクリスマスは、かなり混乱中。
でも、きっと、のりこえるよ……。
静かに流れる涙が、詩文の手のうえに、点々と落ちた。
「そのメッセージ、あのメールの送り主からなの?」
マグカップを両手にもったマリーが、家の奥へ通じるドアのまえから話しかけてきた。
「うん」と詩文は、涙をふきもせずに答えた。
「東京にいる、従兄なんだ。
すごく仲がよくて、よく喧嘩もする。
彼は、とても才能があるピアニストで、ぼくの音楽のパートナーで、最高のライバル」
「会ってみたいわね」
「近いうちに会えると思うよ。
きっと彼は、ぼくのパパみたいに、世界を舞台にして生きる。
とっても、スケールが大きなやつだから」
「よかったわ」
マリーは手にしたカップをテーブルにおいて、詩文のかたわらに
すわった。
「甘えて泣き顔を見せられる場所が、あなたには、まだあるのね。
17歳で、もう大人になれと突き放すなんて、残酷すぎると思っていたけれど。
でも、だいじょうぶなのね。
よかったわ」
詩文の頭を、マリーは自分の胸に抱きよせた。
ほほにあたる豊かで柔らかい女性の胸の感触は、詩文に、めまいを感じさせた。
けれども、とまどい以上に、温もりが心地よい。
ため息とともに、詩文は、つぶやく。
「マリーってば、なんだか本当に、マルシャリンみたいだよ」
「そうね。
30歳を目の前にして、わたしにも、やっとマルシャリンの心が、わかるようになったわ。
だって、こんなにも、若いオクタビアンが、愛しいんですもの。
音楽へ野心をむける生意気な若さも、大人になるために傷ついている繊細なところも、あなたのぜんぶを、愛しいと思うわよ」
「なら、いまだけ、甘えてもいい?」
「いいわよ。 わたしのオクタビアン」
髪にくちづけられたら、全身に震えが走った。
男としての衝動を抑えられなくなって、自分の頭をかかえている彼女の腕をふりほどき、ぎゃくに、柔らかな身体を強く抱きしめてしまう。
ソファーに
おしつけられた彼女が、くうと、小さな
うめきをあげる。
あわてて腕の力をゆるめたら、彼女は笑っていった。
「そうよ。 女を抱くときには、そっと、優しく、抱くのよ」
「こんなときに、自分でも、なにをやってるんだろうって思うんだけど……」
「いいじゃない。 これだって、大人になるための、大切な通過点だわよ」
扇情的な言葉にあおられて、詩文はマリーの唇へ、初めて自分からくちづけた。
何度もキスをかわし、ほほをよせあいながら、詩文の耳元で、マリーはささやいた。
「大人になろうとしている、あなたを抱きしめて、やっとわかったわ。
なんでマルシャリンは、新しい恋をして自分のもとから去っていくオクタビアンを、許せたのか。
マルシャリンは、オクタビアンより歳をとっているせいで、人生から何かを失う痛みのつらさを、よく知っているのよ。
だから、新しい恋と未来へむけて旅立とうとしているオクタビアンの
これからの人生が、けしてバラ色だけに包まれているわけじゃないって、オクタビアン本人以上に、知っているのよね」
「マリーに、望んで手に入らないものなんてあるの?
男はみんな、あなたのいうことを、きくだろうに」
「いっぱいあるわよ。
このマエストロの家も、もうすぐ、わたしの喪失物リストのなかへ仲間入りだわ」
年上の女性に甘えさせてもらう酔い心地のこころよさから、詩文は、われにかえった。
「ひょっとして、この家がなくなったら、マリーも泣ける場所を、ひとつなくすのかな?」
「そういうことになるわね」
やわらかい女性の指が、詩文のほほをなでる。
「そんな顔をしないの。
失うものもあれば、得るものもある。
人生って、そういうものだわ。
この家がなくなるのは、とても寂しくて
つらいけれど、今度は、あなたが大人になって、わたしを慰めてくれる人のひとりに、仲間入りしてくれるでしょう?」
「するよ。 喜んで」
もう一度、キスをかわそうとした瞬間、電話の呼び出し音が鳴った。
しばらく、ふたりは、無慈悲なお告げのように鳴りつづける電話機をみつめた。
マリーがいった。
「さあ、電話をとって」
命じられるまま、詩文は受話器に手をのばした。
いま、この瞬間、自分は大人になるのだ。
そう、自分自身に、いいきかせながら。
...☆注)フランスの国籍法は1998年に改正され、2009年現在、フランスと日本のあいだにおける二重国籍状態は容認されております。
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