パリは世界一の音楽都市である。
バスティーユのオペラ座、クラシック専用ホールのサル・プレイエルやシャンゼリゼ劇場、その他の名だたる伝統的なホールや、シテ・ドゥ・ラ・ミュージックの近代的なホール。 そして、100はあるであろうといわれている、中小の劇場。 無数にある教会や、美術館などの公共の建物。
そのすべてで、音楽が奏でられているのだから。
音楽を奏でる団体も、無数にある。
そのうえ世界中から有名無名の芸術家たちがパリへ集まってきて、コンサートをする。
クラッシック音楽だけでなく、シャンソニエ、ジャズバー、クラブ、ミュージックホール――、ありとあらゆる音楽を、パリは懐深く、その腕に抱いている。
コンサートシーズン中は、街全体が歌っているのではないかと、思えるくらいだ。
その無数にある音楽団体のひとつ、ジャン‐ポール室内楽団が本拠地にしているのは、パリの旧市街の中心地レ・アルにほど近い古い劇場だった。
パリの古いの建物には、重厚な雰囲気がつきものだ。 その劇場も、表面がすすけた黒大理石と、ギリシア風の列柱で装飾されたステージをもつ、どっしりと落ちついた感じの音楽ホールだった。
詩文は、その劇場の楽屋廊下で、緊張しながら呼ばれるのを待っていた。
今日の練習はニースでの公演と同じ演目で、今夜のパリ公演のためのゲネプロだ。
指揮者は楽団の常任指揮者を務めているオルデリック・ル・マレシャル。 小編成のオーケストラの指揮に定評をもつ、中堅指揮者である。
ステージのうえのオーケストラは、にぎやかにおしゃべり中だった。
フランス人は、あまり時間に正確ではないし、規則よりマイルールを優先しがちだ。 ジャン‐ポールに指定された時間より早めに劇場へやってきて、ていねいに演奏の準備をすませた詩文も、こうして待たされてしまっている。
しばらくしたら、やっとメンバーが全員そろったらしく、楽団の事務局員だという若い女性が、指揮者を呼びに走っていった。
指揮者が到着するまでの短い時間に、団体の代表であるジャン‐ポールが、スピーチをはじめる。
「諸君、演奏旅行の疲れは、もう、とれただろうか。
今日は、これからパリ公演のためのゲネプロを行います。
ツアーで弾きこんだ演目だから問題はないと思うが、気をぬかずに取り組んでもらいたい。
それから急で申し訳ないが、本日の練習のまえに、新団員の入団オーディションを行います。
彼は
まだ学生なので、ヴァイオリン・パートに穴があいたときのエキストラに入ってもらうだけなのだが、たとえエキストラであろうと、我々の楽団には、合奏ができない人間をくわえるつもりはないので。
課題は恒例の、モーツアルトです。
楽譜は譜面台のうえに、すでに配ってあると思う。
いつものように、演奏後、団員全員で投票と協議を行うので、よろしく」
ざわめき声のむこうから、ジャン‐ポールが手招きで自分を呼んでいる。
詩文は深呼吸をひとつしてから、ステージへ登った。
足のしたで、古い階段がきしむ。
古い劇場の楽屋廊下とステージのあいだには、いまの設計では考えられないような、幅の狭い急な段差の階段が数段あったのだ。
ひと足ごとに、きしむ階段の音を聞いたら、身が縮んだ。
2000席クラスの大劇場でだって何度も演奏したことがあるというのに、今日の詩文の緊張ぶりは、特別ひどかった。
深い呼吸をくり返していないと、膝が震えてきてしまいそうだ。
なにしろステージへ登ったら、世界レベルの有名楽団のメンバーが、いっせいにこちらを見たのだから。
若手の団員が、こそこそしゃべっている。
「学生だって?
それにしても、若すぎやしないか?
17、8って感じか?」
「かわいい子じゃない。
ボスがつれてきて、急にオーディションをするって、いったらしいわ。
オーディションは口実で、本当はウチの楽団の公演で、デビューさせようと思っているのかもね」
「東洋の血が入ってるのかな。
エキゾチックな雰囲気がある。
目立つ容姿ってのは、クラシックの世界でも、なにかとお得だよ。 うらやましい」
普通だったら、こんな話が聞こえてきたら、新人演奏家は、ますます緊張して萎縮してしまうだろう。
しかし、詩文は、ほっとしてしまった。
無名の新人に浴びせられる他人からの好奇心とは、この程度なのかと。
渡辺隆明の一人息子という素性がばれていなければ、先輩音楽家たちのまえに立たされても、羨望や嫉妬のまなざしで射すくめられたりは、しなくてすむらしい。
そう思いながら、ジャン‐ポールのとなりに並び、「シモン・ミシェルです」と、挨拶をする。
あらかじめ事情を知らされているらしい何人かの古参団員が、ぷっと吹きだした。
ジャン‐ポールが、そちらをにらむ。
詩文は、ななめに視線を泳がせた。
自分の名前に、洗礼名と家族の姓をならべて名乗るのは、フランスではよくあることだ。 現に自分だって、フランスで自分の名前をサインするときには、Simon
Michel Watanabe
と書いている。 嘘はついていない。
まいったなあとも、思う。
きっと、吹きだした古参団員は、楽団創設当時のエピソードを覚えているにちがいない。
泣き虫のシモン坊やのことを。
いまの古参団員の反応を、母親は、どう思ったのだろう。
それが知りたくて、こっそりと母のほうをうかがったら、マダム・ワタナベは涼しい顔で、譜面台のうえに準備された楽譜を、使いやすいように並べかえる作業をしていた。
階段を踏みしめる音がして、ステージへ指揮者のル・マレシャルが現れた。
「諸君、おはよう」
詩文の父親より四、五歳年上と思われるル・マレシャルは、白髪が混じった赤毛に近い金髪を、ていねいになでつけて整えた紳士だった。
目じりのしわを笑顔にゆるませ、おだやかな様子で指揮者の定位置へ立って、オーケストラを見まわす。
そして、最後に視線は、気心知れた古い友人のもとへ注がれる。
「おはよう、ポール」
「おはよう、オリー。
この子がシモンだ。
よろしくたのむ」
ジャン‐ポールから紹介を受けて、詩文はふたたび緊張した。
でも、今度はいい意味での緊張だった。
「はじめまして、マエストロ」と挨拶をしたら、ル・マレシャルは握手の手をさしだしながら、いたずらっぽく笑ってくれたのだ。
そして、いった。
「時間がもったいないから、モーツアルトは第2楽章だけをやろうか。
オーディションなんていっているが、ようするに楽団員を納得させられれば、それでいいんだろう?」
「まあね」と、ジャン‐ポールが苦笑する。
けれど、詩文は笑えなかった。
いきなり、ゆっくりとしたテンポの第2楽章だけを演奏するのは、かなり難しいのだ。
オーケストラと息をあわせて
ゆうゆうとメロディーを歌いきるためには、音楽を疾走させるより、もっと神経をつかう。
「どのくらいのテンポで、やりたいのかね?」
ル・マレシャルにたずねられて、詩文は覚悟を決めた。
「おもいっきり、ゆっくりで、お願いします。 じれるような足取りで、けっこうです」
ル・マレシャルの目が、細められる。
「ほう、よほど、自信があるんだね」
「自信なんか、ありません。
ただ、この曲の第2楽章は、そのテンポでやらなくちゃならないと、思っているだけです」
いってしまってから、詩文は歯噛みした。
生意気ないい方に、なってしまった。
後悔さきに立たずとは、このことだ。
ル・マレシャルを不快な気持ちにしてしまったら、オーケストラとの演奏がうまくいかなくなるかもしれないのに。
ジャン‐ポールがコンサート・マスターの席について、オーケストラのチューニングが始まった。
詩文の緊張も高まる。
耳を澄ませて、自分の楽器の音も、微調整する。
いつもは、オーケストラより、微妙にピッチを高めにとるけれど。
今日の演奏目標は、オーケストラとの融合だ。おちついて、音をひろわなければ。
ル・マレシャルが指示をだす。
「では、諸君、よろしいか。
ソリストの希望で、おもいきり、ゆっくりとやります。
おたがいの音をよく聴いて、テンポを外さないように」
ゆったりとル・マレシャルの指揮棒が構えられると、その雰囲気だけで、オーケストラは音楽の流れを把握した。
のびやかにファースト・ヴァイオリンがテーマを歌いだし、他の弦が伴奏の音形を奏でる。
ふくよかで、繊細な響き。
それでいて、豊かで、奥行き深い響き。
これが、このオーケストラの、モーツアルトの音。
テンポは
これでいいかねと、ル・マレシャルが目で、詩文に問いかけてくる。
もちろんですともと、詩文は笑顔を返した。
嬉しくて、笑わずにはいられなかった。
ジャン‐ポールに鍛えられたこの楽団は、なんてすばらしいオーケストラなのだろう!
弱音器をつけて、優しく、なめらかに歌われる弦楽器の音。
いつもヴァイオリンの団員を新しく迎えるときには、この曲でオーディションをするというから演奏しなれているのかもしれないけれど、それにしたって、この楽団のメンバーの親密な音の一体感といったら。
ああ、このオーケストラと音をあわせられるなんて、幸せすぎる。
そう思ったら、まるで雲のうえに乗るように、そっと、すべりだしのフレーズを伴奏のうえに乗せることができた。
詩文が奏でた最初のフレーズを聴いて、ホルンとフルートがソロ・ヴァイオリンのメロディーのあいまに奏でる音を、こう演奏する以外やりようがないというほど、ぴたりと、あわせてきてくれる。
なんて、きれいな音なんだろう。
お礼とばかりに、詩文のヴァイオリンが次のメロディーを。
うけとったオーケストラが、たおやかに返礼を。
さざなみのように、弦の音がよせてはひく。
その波に、詩文の音はゆられて、歌う。
歌う音色は、まるで女性のつぶやき。
そよぐ風。
透明な光。
終盤のカデンツァを奏でるころには、自分自身が音楽のなかに、溶けてしまったような気がした。
ジャン‐ポールは、伴奏に注文があるのなら、リハーサル同様に音楽を止めてもいいと、いっていたけれど。
このすばらしい音楽に、注文などあるものか。
オーケストラが最後のテーマのくりかえしを演奏し、それを受けて、詩文は消え入るような歌で音楽をしめくくった。
とても幸せな、終わり方だった。
ともに音楽を奏でた人たちと、微笑みをかわしあったような――、そんな気分。
優しい空気につつまれて、心が解き放たれる。
緊張が解けて、詩文は大きく息を吸った。
すると、その呼吸を読んだように、すぐとなりでル・マレシャルが大声でいった。
「第3楽章!」
ぱっと、かまえられた指揮棒につづいて、オーケストラは華やかな前奏を奏でた。
不意打ちだ。
でも、望むところ。
詩文は大喜びだった。
演奏させてくれるというのなら、どこまでだって行こうじゃないか。
第2楽章とはうってかわって、第3楽章ではソロ・ヴァイオリンが大活躍する。
ロンドのタイトルにふさわしく、詩文のヴァイオリンは舞い踊る。
ぼくについておいでとばかりにオーケストラをあおるものだから、晴れ晴れとした17歳の少年らしい音楽が、コンサートホールいっぱいに満ちあふれた。
すっかり音楽の主導権は詩文の手のなかだ。
つぎは、こう行きたい!
そう思う瞬間、詩文からのアイコンタクトが、オーケストラのメンバーに飛ぶ。
合図をうけとったメンバーは、にやりと笑って、答えてくれる。
ますます音楽は光り輝く。
フランス風の舞踏歌。
ドイツ風のクプレ。
モーツアルトがたくらんだ、楽しい音楽の仕掛けが、つぎつぎに奏でられる。
喜びに満ちた音楽は、あっというまに終わってしまった。
モーツアルトの若い時代の曲には古典的な要素が強くて、この協奏曲の終わり方も最初のテーマが再現されるだけで、じつにあっさりとしたものだ。
でも、だからこそ、気持ちは浮き立ったままだ。
曲が終わると同時に、わっとオーケストラのメンバーが声をあげた。
「ブラボー!」
「いいぞ、坊や!」
声といっしょに、弓で譜面がたたかれ、足が踏み鳴らされる。
いつもならお客さんのほうを向いてお辞儀をするけれど、今日はオーケストラへ、お礼のお辞儀だ。
詩文は大喜びそのものの態度で、ありがとうのひとことを、くりかえした。
そのシンプルな言葉が、いまの自分の気持ちには、いちばんピタリときた。
騒ぎが
すこし静まったところで、ジャン‐ポールがいった。
「さて、投票と、協議だが」
オーケストラのメンバーが、口々に答えた。
「必要なーし!」
「入団決定!」
「異議ありません!」
「といいますか、この話し合い、つぎの公演の演目を変更しようっていう相談に、きりかえませんか?」
「彼になら、ソロをまかせられるよなあ」
「この若さで、あの音楽だもん。 きっと、すごい評判になるぞ。 そのうち、うちの演奏会のチケットも、即日完売の恩恵をうけたりして」
「夢だよな〜、即日完売!」
「モーツアルトもいいけれど、他のも聴いてみたいなあ。 バッハのコンチェルトとか、うちの楽団ならではのレパートリーを、弾かせてみたいです」
「学生って、どこの学生?
コンセルヴァトワール?
エコール・ノルマル?」
「ええ〜っ?
そんな有名どころの学生だったら、とっくに彼みたいなの、パリで話題になっているんじゃないのかい?」
「ボス、いったいどこで、この子を見つけてきたんです?」
とうとう、指揮者のル・マレシャルまでが、話し合いに乱入した。
「ジャン‐ポール。
つぎの公演の演目を変更するのなら、わたしも協力を惜しまないよ。
いっそ、ここで彼を、パリ・デビューさせてしまったらどうなんだね?」
ジャン‐ポールは、頭が痛いとでもいいたげに、額をおさえていた。
「そうしたいのは山々なんだが、勝手にそんなことを決めてしまったら、わたしは隆明に、しめ殺される」
若い団員が「タカアキって、だれ?」といったとたん、全員がはっと、息をのんだ。
数人の古参団員とル・マレシャルは、にやにや笑っていたけれども。
注目を浴びたマダム・エヴリーヌ・ワタナベは、申し訳なさそうにいった。
「ごめんなさい。
黙っていたほうが、よけいな混乱を招かないかしらと、思っていたのだけれど。
なんだか、かえって
おかしなことに、なってしまったみたい。
この子、うちの子なの。
日本の音楽学校へ、通わせているのよ。
父親の母校へ。
詩文、ご挨拶しなおして」
ひらきなおった詩文は、どうどうといった。
こうなったら、やけくそである。
ぺこりと腰を折って。
「渡辺詩文です。
ミシェルは、ぼくのクリスチャンネームで、日本名で名乗る時には省略します。
母がいつもお世話になり、ありがとうございます。
それから、みなさんの貴重な練習時間を、つまらないことでつぶして申し訳ありませんでした。
心から、おわびします」
オーケストラのメンバーが、いっせいに
どよめいた。
その
どよめきを聴きながら、詩文は思った。
われながら、なんて日本的な表現のおわびなんだろうかと。
でも、おわびには、やっぱりお辞儀が必要なんだ。
フランス人がよくやる、わたしは悪くないという、言い訳ばかりに終始する謝罪は嫌いだ。
謝罪は、潔くなくっちゃいけない。
侍魂をもって、誇り高く。
こうなると、やっぱり自分の半分は日本人にまちがいないなと、いまさらながら、思う詩文なのだった。
Title Illustration Mako's 薔薇素材
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