コンサートホールから外へ出たら、夜の空気は、きんと冷たかった。
佳織は震えをこらえて、かたわらに立つ祖父のほうへ身をよせた。
終演後まもないコンサートホール前の広場には、まだ音楽の余韻に酔ったような顔をした大勢の人々が、なごりおしそうにたたずんでいる。
ライトアップされた噴水と広場の中央に立つクリスマスツリーのイルミネーションが、まるで連動しているかのように交互にきらめいて、都会の夜はまだまだ長いよと、人々に呼びかけているのだ。
「佳織くん、寒いかね?」
祖父が佳織に話しかけてきた。
ついさきほどコンサートホールのなかでボーイフレンドの夏海に一方的な喧嘩をふっかけてしまった佳織は、とても祖父とおしゃべりできるような気分ではなくて、黙って首をふった。
祖父は苦笑して、自分の腕にからんでいる佳織の手を、優しくたたいた。
「なんだか、おじいさまとデートという気分では、なさそうに見えるね。 このまま、まっすぐ家へ、送っていこうか?」
佳織は祖父の腕に、ぎゅっと、しがみついた。
今日は平日だから、きっと仕事人間の父の帰宅は深夜になる。
佳織が祖父とコンサートにでかけるとわかった時点で、外出好きの母は母で、女友達と観劇にでかける予定を、さっさと決めてしまっていたし。
だれもいない家に帰るのは嫌だった。
佳織は祖父を見あげていった。
「ふてくされたりして、ごめんなさい。
でも、まだひとりには、なりたくないの。
もう少し、おじいさまと、ごいっしょしてもいい?
おじいさま、明日はお仕事、お早いの?」
祖父は、すがるような孫娘の瞳の色を見て、さらに苦笑した。
佳織の家庭が、多感な年頃の娘にとっては、そっけなく寂しい家庭であることは、祖父にもよくわかっているのである。
「きみからのデートの誘いを、断ったりするものかね。
では、すぐそこのブラッスリーで、アフター・コンサート・ディナーと、しゃれこもうか」
そういって祖父は佳織と腕をくんだまま、広場の奥にあるレストランにむかって歩きだした。
佳織の祖父は、大手音楽総合企業の社長である。
財界では、機を見て俊敏に動く、やり手の経営者として名を知られている。
でも、佳織にとっての祖父は、ただの優しいおじいさまでしかなかった。
祖父は音楽が大好きで、好きゆえに、『吉澤楽器』創業者一族の三代目社長という地位におさまったあと、ひたすら会社を大きくすることに生きがいを見いだしてきた人だ。
だから、ピアニストとしての才能を開花させつつある佳織は、大勢いる孫のなかでも特にお気に入りの孫で、多少のわがまま程度なら、なんでも聞きいれてもらえるのだった。
♪ ♪ ♪
コンサートホールのむかいの建物に入っているレストランは、かなり混みあっており、きらびやかな雰囲気につつまれていた。
ついさきほど終演をむかえたコンサートは、年末の華とでもいうべき東都交響楽団の『第九』の演奏会。 しかも、世界的に活躍する人気指揮者の渡辺隆明が指揮する演奏会だったため、客席にはドレスアップした本格的なクラシック音楽ファンが多かった。
その客席の人々が、そのまま移動してきているので、まるでドレスコードを指定してくる欧米の一流レストランへトリップしてしまったような風景が、目の前には広がっているのである。
「今夜は予約をしていないのだが、ふたり分の席の余裕はあるかね?」
店の入り口でフロアマネージャーにたずねた祖父は、「もちろんでございます、吉澤さま。 ただいま、お席の準備をさせていただきますので、ウェイティングバーで、5分ほどお待ちいただけますでしょうか」との返事をもらう。
祖父の会社は大手の音楽総合企業だから、有名なコンサートホールのそばや、吉澤楽器銀座本店の近くにある高級レストランなどでは、いつもこういう扱いを受ける。
ほの暗い照明に照らされたウェイティングバーは静かだった。
おそらく、今夜のこのレストランの客は、ほとんどが渡辺隆明の『第九』を聴いたあと、食事を楽しむ予定でいた予約客ばかりである。 バーで待ち合わせをする客は、いないのだろう。
さまざまな洋酒のビンを並べた棚の前でグラス磨きにいそしんでいたバーテンダーが、すばやく、こちらへよってくる。
祖父は、なれたようすで、お気に入りのシェリー酒の銘柄をバーテンダーに告げ、そのあと彼と軽く相談をして、佳織のために冷たい飲み物をたのんでくれた。
祖父が選んでくれたのは、ペリエにレモンを絞り落とした、シンプルな飲み物だった。
コース料理をこれから食べようというとき、高校生の孫娘に、こういう飲み物をふるまうところが祖父らしいと、佳織は思った。
いつも、音楽と遊び心の融合をめざして会社を大きくしてきた祖父は、おしゃれ好きなのである。 仕事をしているときには、お金が動くところに鼻がきく商人っぽい雰囲気が前にでてしまって、とてもそんなふうには見えないのだけれども。
佳織のボーイフレンドの夏海などは、おたがいのことをよく知るまえには、「俺、おまえの爺さまって、苦手かも」と、いっていたくらいだ。
祖父が『日本じゅうの人に、もっと楽しい音楽を!』との思いから会社経営にいそしんできた経緯を知ったいまでは、夏海も祖父と打ち解けてくれているのだが。
冷たい飲み物を飲んだら、佳織の気持ちも落ち着いてきた。
甘くない、さわやかな飲み物は、若い胃袋を
ここちよく刺激する。
佳織は笑顔で、祖父にいった。
「おじいさま」
「なんだね」
「わたし、お腹がすきました」
嬉しそうに、祖父も笑う。
「それはよかった。 とーっても、お腹がすいているのだったね。 目がまわりそうなくらいだと、いっていたものね」
佳織は恥ずかしさに、ほほを染めた。
祖父は、さきほどのコンサートホールでの出来事を思い出して、佳織をからかっているのである。
定期演奏会の会員に割りふられている、いつもの席に夏海の姿を見つけられず、演奏会がおこなわれているあいだじゅう心配で気もそぞろだった佳織は、じつは夏海が家庭教師の女性と今夜は別席で『第九』を堪能したのだと知ったとき、嫉妬まるだしで怒ってしまったのだ。
一方的に喧嘩をふっかけられて、夏海がこまっているのは、佳織にだってわかっていた。
でも、どうしても我慢できなかった。
自分の感情が、まったくコントロールできなくて、佳織自身もこまったのだ。
最近、夏海のこととなると、佳織は冷静に
ものごとを考えられなくなってしまう。
すこし、ふくれて、佳織は訴えた。
「だって、渡辺くんたら、今日、学校であったときには、まだ落ち込んだままだったのに。 コンサートホールでは、楽しそうだったんですもの。 なんだか、腹が立ってしまって」
祖父は真顔で答えた。
「いつも陽気な夏海くんが、落ち込んでいるのかね?」
「そうなの。
彼、いま、スランプらしいんです。
大きな目標をクリアしたあとって、つぎの目標がなかなか見つからなくて、苦しくなることがあるでしょう?
たぶん、いまの渡辺くんって、そういう状態なのだろうと思うの」
「なるほど」
「それなのに彼ったら、得意な曲を弾かせると、すごいんですもの。
今日の期末試験での彼の演奏、おじいさまにも、お聞かせしたかったわ。
彼、『アパショナータ』を弾いたのだけれど、審査の先生方も、野次馬にきていた大学の先生方も、圧倒されるばっかりで。
演奏がおわったら、大拍手よ。
試験なんか、どこへやらって雰囲気に、なってしまって」
考え深いようすで、祖父はうなずいた。
「スランプのときでも、ゆらがずに他人を魅了できるものを持っているというのなら、彼の才能は、いよいよ本物なのだろうと思うよ」
佳織は言葉につまってしまった。
祖父は、じっと佳織を見ている。
「佳織くん。
今夜の夏海くんに対するきみの態度については、あまり感心しないね。
これからも夏海くんと楽しくおつきあいを続けたいと願っているのなら、きみには、そうとうな覚悟がいる。
これは、おおぜいのアーティストたちと、いろいろな仕事をしてきた私が、実感してきたことだけれど。
本物の才能に恵まれたアーティストには、ある意味、凡人とはちがった世界観がある。
世間の人々が望んでいる平穏無事な生活は、彼らの心を動かしはしないんだよ。
そうでなければ、個性こそが命である芸術の世界で、新たなものは生み出せないからね。
夏海くんの叔父さんである渡辺隆明先生も、おっしゃっていらした。
奥様には、苦しい思いを、たくさんさせてきてしまっているとね。
けれど、音楽をライフワークにしてしまった以上、先生には、ご自分を変えることはできない。
音楽を奏でることと、生きることは、先生にとって同じ意味を持つことなのだから。
周囲の人間は、それを理解して、先生を支えてきたんだ。
きっと、夏海くんも将来は、渡辺先生と同じ境地にたっする人間だと、私は思っている。
私はいつも、音楽を愛する人たちと、これからの音楽シーンを支える次世代のアーティストたちの、支援者であろうと自分にいいきかせてきた。
それが、『吉澤楽器』の経営者である、自分の最大の役目だとね。
だから、夏海くんを束縛しようとする人間には、彼のそばにいてほしくない。
彼には、思うぞんぶん才能の翼を広げられる、自由こそが必要だ。
彼の才能を信じて、成長を助けたいと願っている者は、だれもが、そう思っているはずだ」
祖父の真剣な表情から、佳織は目をそらせずにいた。
そうやって、どのくらい祖父と、見つめあったのだろうか。
飲み物のグラスについた水滴が指をぬらしていることに、佳織は気づいた。
指に力が入らず、そのままグラスが手のなかから滑りだしそうだった。
あわてて佳織は、グラスをカウンターにおいた。
その仕草を、合図ととらえたかのかもしれない。
ふいに、佳織の背後から、若い男の声がかかった。
「こんばんは、吉澤さん。 佳織さん」
祖父が愛想よく答える。
「やあ、こんばんは、崇くん」
「おふたりも、渡辺隆明先生の『第九』を聴きにいらしたのですか」
「そうだよ。 きみもかね?」
「はい。 うちは一家そろって、音楽好きですから。
今日は両親の供できたのですが、すばらしいコンサートでした。
きてよかったですよ」
「うん。 じつにすばらしい『第九』だったねえ」
佳織は笑顔をつくり、ゆっくりと、うしろへふりむいた。
声をかけてきた青年は、吉澤楽器とも取引がある中堅クラスの銀行の頭取の息子、久我山崇だった。
最近では佳織も、昼間のサロンコンサートをかねたお茶会などでは、祖父のそばにつきしたがって、ホステス役を務めなければならないことがある。 よく会う客の顔や経歴は、それなりに頭に入っていた。
吉澤楽器の創業者一族に名を連ねているからには、なさねばならないこともあるというわけだ。
求められる役割を、そつなくこなすのは、べつに苦痛ではない。
佳織のお嬢さま育ちは、伊達ではないのだ。
お嬢さまという呼び名は、ただ甘やかされて育った世間知らずの女の子に与えられるものではないと、佳織は思っている。
にっこり笑って、佳織はいう。
「こんばんは、崇お兄さま」
「やあ、―― どうも」
佳織の姿を見る相手の目には、賞賛があった。
今夜の佳織は、クリスマスシーズンにふさわしい、上等なウールの生地で仕立てたプリンセスラインのワンピースを着ている。
ほどよい開きの襟元には、真珠を一粒だけあしらったペンダント。
年齢にふさわしい初々しさを失わないように、佳織の母親が選んだアクセサリーだ。
そして、手入れのいい、まっすぐ長い黒髪が、佳織の涼やかな姿を、より引き立てている。
正装した佳織は、キャバクラ嬢もどきの露出度が高いドレスで精一杯着飾った、いまどきの若い女性たちとは、一線を画す雰囲気の持ち主なのだ。
青年は、高まる気持ちをかくせないようすで、声を弾ませている。
「あの、席が空くのを、お待ちなのでしょうか? よろしかったら、ぼくの家族と同じテーブルで、食事をごいっしょしませんか。
ぜひ、今夜のコンサートの感想なども、うかがいたいです。
ぼくは、佳織さんのピアノの、大ファンですし」
彼が指し示す手の先には、品のいい家族が座るテーブルがあった。
青年の両親と姉らしき人物が、こちらにむかって、にこやかな会釈をする。
やわらかな微笑みとともに返礼の会釈を返し、青年のほうへむきなおってから、佳織はいった。
「ごめんなさい。 今夜は、祖父とデートなんです。
おじいさまと、ないしょのお話も、いろいろあるの。
また機会があったら、ぜひ誘ってくださいね。
わたしも崇お兄さまから、大学のお話などを、うかがいたいわ」
「そうですか。 残念だな」
表情を曇らせた青年は、はたから見てもわかるほど大げさに肩をおとした。
祖父はそれを、おもしろそうに見ている。
フロアマネージャーが、「お席へご案内いたします」と、やってきた。
祖父と佳織は、青年と最後の挨拶をかわして、ウェイティングバーをあとにした。
♪ ♪ ♪
案内された席についてからも、祖父はくすくす笑っていた。
すこしふくれ気味に、佳織はたずねた。
「なにが、おかしいんですの?」
祖父は笑いながら答えた。
「いやいや、決死の覚悟で、きみに声をかけたのだろう青年が、あわれでね。
じつに、みごとな、ふられっぷりだった。
さわやかで、よろしい」
佳織は、いつものプライドの高さを
、そのまま祖父に見せて、鼻で笑った。
「いきなり、ご家族と同席でなんて誘われて、女の子が喜ぶと思います?
純朴なのが売りなんて男性は、いまどき流行らないわ」
「佳織くん、久我山さんのところの崇くんは、たしか、敬櫻BOYじゃなかったかね?
普通の女の子は、敬大生に、あこがれるものではないのかな?
彼がおっとりとしているのは、育ちがよいということではないのかね?
それに、きみのピアノのファンだと、いってくれているのに」
「崇さんは、敬櫻の幼稚舎からエスカレーターで大学へ進学なさった、苦労知らずの、お坊ちゃまだわ。
挫折といえば、クラブ活動のテニスの試合で負けたことくらい。
そんな、ぬるま湯のなかで泳いでいる金魚みたいな方に、わたしの音楽の、なにがわかるっておっしゃるの?」
「金魚って――」
「観賞用の水槽のなかでしか、生きられない方って意味だわ」
「手厳しいねえ、佳織くんは。
せめて珍しい熱帯魚くらいに、いってあげればよいのに」
「あら、おじいさまも、ひ弱なお魚さんを思い浮かべていらっしゃるじゃないの。
でも、わたしは崇さんのことを、全面否定はしないつもりで、金魚といったのよ。
あの方、賢い方ですもの。
大学を卒業されてから、お父さまの会社でなり、修行先でなり、お仕事をはじめられたら、滝登りをする鯉に成長なさるかもしれないでしょ? おなじフナの仲間だもの」
「ふうん」と、祖父はうなずいた。
「そうなったら、崇くんと、おつきあいしてみてもいいと思うかね?」
佳織は席についてからすぐに運ばれてきたサラダの皿のなかに、フォークを落としそうになった。
コンサートのあとで、このレストランへやってくるお客には、ラストオーダーの時間が間近なので、あらかじめ用意されているアフター・コンサート特別メニューしか提供されないから、料理はてきぱきと運ばれてくるのだ。
もちろんメニューそのものは、グルメガイドなどで一流の評価をもらうレストランらしく、吟味されたものである。
いま、佳織の目のまえにおかれているサラダも、蟹の身や貝を彩りよくカットした冬野菜とともに盛り付けた、前菜がわりの一品だった。
皿のうえに散らしてある三色のソースは、越前蟹の味噌風味、縮緬ほうれん草とクリームの風味、温州みかんとヴィネガーの風味なのだとか。
しかし、祖父の話を聞いていると、まったく料理の味がわからない。 佳織の食欲は、すっかりうせてしまっていた。
「佳織くん」
フォークの先でサラダをつつくだけの佳織にむかって、祖父はいった。
「きみは、自分の将来のことを、どういうふうに考えているのかな?
いぜん、きみは演奏家になりたいといっていたけれど、あのころのきみは周囲の期待や教師のいいつけにしたがって、深く考えることもなく、そういっていただけだろう?
だから、わたしも、『そうかい、そうかい』と笑顔で孫娘の話を聞くおじいさまとして、きみの『将来の夢』の話を聞いていたけれど。
でも、いまは、ちがうだろう?
常盤音高に通うようになって、きみは、いっぱい考えたはずだよ。
演奏家になるということは、どういうことなのかということをね。
夏海くんと親しくなり、自分なりの音楽を求めて葛藤し、谷崎先生や、渡辺先生からも、薫陶を受けて。
演奏家として生きていくことが、どんなに厳しくて大変なことなのか、きみには、もう十分すぎるほど、わかっているはずだ。
わかったから、きみは崇くんのことを金魚とよんで、笑ってしまうのだろう」
喉にものがつまったような気がして、佳織はとうとうナイフとフォークを、まだ半分ほどしか食べていない皿のうえに、そろえておいてしまった。
それを待ち構えていたように、サービス係が皿を取り替えていく。
本日のメイン料理は、クリスマスシーズンらしく、七面鳥のコンフィだった。 スープは添え物として小さなカップに入れられて、おなじ皿にのせてある。 コンサートのあと、いっせいにおしよせる客を、短時間でさばくための工夫だろう。
シェフ自慢の特別な香料の香りが、あたりに漂った。
「おいしそうだね」、「恐れ入ります」と、祖父とサービス係のあいだで、型どおりの挨拶がかわされる。
銀製のカトラリーを手にとった祖父が、食べなさいと、仕草で佳織にうながしてきた。
せっかくのご馳走を無駄にするわけにもいかなくて、やわらかく仕上がった鳥肉を口にいれてみたけれど、やっぱり佳織には、味がよくわからなかった。
そんな佳織を見ながら、祖父は吐息をふくんだ口調で話しつづけた。
「わたしは仕事柄、自分の音楽を求めて苦しむアーティストたちの姿を、いっぱい見てきたからね。
そのなかには、挫折から転落人生におちいって、身の破滅に至った人間も、たくさんいる。
自己表現を渇望している人間には、純粋すぎる人が多いから。
だから、わたしは
かわいい孫娘に、なにもそんな大変な道へ進まなくてもいいじゃないかと、いってしまいたいわけなんだ。
考えてごらん。
きみは、とても魅力的な女の子なのだから。
佳織くんさえ望めば、久我山さんのところの崇くんのように誠実で賢い青年が、きみのパートナーになりたいと、いつでも名乗りをあげてくれるだろう。
そういうパートナーと、堅実な人生を歩むのも、幸せのひとつの形だろう?
崇くんのような音楽好きの青年なら、佳織くんが演奏家としての活動を続けたいと願えば、よろこんで応援もしてくれるだろうしね。
そういう人生を選択すれば、きみは自分の音楽と職業を完全に切り離して、好きな音楽だけを奏でていられるよ?」
「でも、おじいさま。
それは、わたしが吉澤家の人間だから、かなう未来でしょう?」
「そうとも。
それの、どこが悪い?
佳織くんが吉澤一族の一員であることは、生まれたときから、もう決まってしまっていることだ。
他人より恵まれていることは、恥じなければならないことかね?」
佳織は憂鬱な顔で、祖父にたずねた。
「わたしが銀行家へ嫁いだら、おじいさまは助かるの?」
祖父はむっとして、食事の手をとめた。
「佳織くん。
私を、みくびらないでほしいな。
かわいい孫娘を嫁にやって、なにかの利権を手にいれようなんてことは、まったく考えたことなどない。
きみが幸せなら、だれといっしょになろうが、口出しなどしないよ。
ただ私は、きみに幸せでいてほしいだけだ。
佳織くんが望むなら、普通にサラリーをもらう仕事だって世話するよ。
音楽は趣味と割り切るのも、考えうる選択肢のひとつだろう?
そうだな。
音大を卒業したあとは、私の秘書なんか、やってみてはどうかな。
賢くて気配りがうまい佳織くんと仕事ができたら、ぼちぼち体のあちこちがきかなくなってきて、毎日がつらいなあと感じている私も、もう少しだけ元気に、現役でいられそうな気がするよ。
嫁にいきたくなかったら、いかなくてもいいんだ。
生活にこまらない程度のものは私が残してやれると思うから、きみは、お茶やお華の先生をしながら、優雅に暮らしたっていいぞ。
とにかく、佳織くん」
祖父は、フォークを皿において、そっと佳織の髪をなでた。
「泣かないでおくれ」
祖父の手は、髪から頬へと、うつっていく。
「たのむから、幸せでいておくれ」
そして、その手の指が、ひとすじ流れた佳織の涙をぬぐった。
「私はただ、いつも、きみには、笑っていてほしいだけなんだよ」
「おじいさま……!」
佳織は、自分の頬にふれている祖父の手を、両手で強く握りしめた。
嗚咽をこらえるために、その手をさらに、額へおしつける。
笑えといわれて、笑えるものか。
こんなに強く、祖父から、おまえを愛しているよと告げられて。
自分の音楽を求めて悩み苦しむ、いまの自分を、理解してもらって。
すごく嬉しいのに、涙はとまらない。
どうして、こんなに胸が、しめつけられるのだろう……。
祖父がいうように、音楽からは距離をとって暮らしたほうが、幸せになれるのかもしれない。
平凡な人と平凡な恋愛をすれば、きっと心おだやかに、毎日を暮らせる。
けれど、自分は、忘れられるのだろうか。
より美しいものを求めて楽譜を調べつくし、楽器の前で試行錯誤をくり返して、苦しみぬいたあとでたどりつく、すばらしい感動を手にする瞬間の喜びを。
その喜びを、ともに体験できる人と、いっしょにいるときの幸福感を。
「佳織くん」
祖父の声は、祖父の手を通して、佳織の額へしみとおる。
「悪かったね。
こんなことを話すのは、もっとあとに、するべきだったかな。
きみはまだ、高校生なのにね。
だけど、今夜のきみは、すでに夏海くんと、離れがたくなってきてしまっているように見えたから。
ひとこと忠告しておかなければと、思ってしまったんだよ。
夏海くんは、きっと世界を舞台にして活躍する演奏家になる。
演奏家として、つねに新しいテーマを求めて、彼は一生、苦悩しつづけるだろう。
そういう人間をパートナーにしてしまったら、きみは
なまじ演奏家であることの苦しみを知っているから、相手が感じている苦しみと、自分自身の苦しみを、二重に背負って歩かなければならなくなってしまう。
その苦しみを受け入れる覚悟がないのなら、これ以上、夏海くんとは深い仲にならないほうがいい。
彼を自由にしておくこと。
苦しくても、黙って見守ること。
このふたつが守れないのなら、きみは彼に対して、あくまでも友達というスタンスで、接するべきだよ。
わかるね?」
はでに鼻をすすりながら、佳織はうなずいた。
祖父のもう一方の手がのびてきて、佳織の手にナプキンを握らせてくれる。
張りのある布で涙をぬぐいながら、佳織は考えた。
いまさら夏海への恋慕の気持ちを、なかったことになどできない。
ただの友達になど、もどれるはずがない。
女にも、性的な衝動はある。
今日だって自分は彼が弾く情熱的なソナタに心をゆさぶられて、我慢ができなくなって、抱きついてしまったのだ。
人目さえ気にしなくてもよければ、もっと長い時間、彼の体に触れて、温もりや存在感を確かめていたかった。
冗談で、自分の行動を、ごまかしたりはしなかったはずだ。
いまでも、はっきりと、思い出せる。
夏海の手が背中にふれてきたとき、佳織の肌は粟立って、身をよじりたくなるような感触が、首筋にむかって走ったのだ。
もっと強く、抱きしめてもらいたかった。
彼になら、このまま何をされてもいいと、あのときは本気で思った。
ふと、人の気配に気づいて、佳織はおもてをあげた。
ほとんど手をつけなかった料理の皿は、いつのまにか、さげられてしまったらしい。
目の前のテーブルはきれいに整えられ、サービス係の若い男が、最後の仕上げとして、テーブルクロスのうえのパン屑をはらっていた。
「わたし……」
消え入るような声で、佳織はいった。
「よく、考えてみます。
おじいさまが、おっしゃったこと。
もうすぐ冬休みですもの。
そのあいだ、ひとりで、ゆっくり考えます」
「そうかね」
祖父は、せつなそうに目を細めて、うなずいた。
考え込んでいるあいだに、佳織の涙は乾いていた。
そっと口元をゆるめてみたら、笑顔がつくれた。
泣いたまま、祖父と別れることにならなくて、よかったと思った。
優しいおじいさまは、佳織のことを思って、耳に痛い忠告をしてくれたのだから。
「吉澤さま。 本日は、あまり、食が進まれませんでしたか?」
サービス係がテーブルから離れると、入れ替わりで、かっぷくのよいシェフコートを着た男性がやってきた。 襟元に金色のメダルをぶら下げているから、このレストランで、いちばん偉い料理人なのだろう。
祖父が、すまなそうに答えた。
「もうしわけない。
孫も私も、今日は、あまりコンディションがよくなかったようでね。
料理は、もうしぶんなかったよ。
食べられなくて、残念でしかたがない」
「恐縮でございます。
どうぞ、お体のほう、ご自愛ください。
次回のご来店時には、たくさん召し上がってくださいませ。
これからも、吉澤さまにお気に召していただける料理を提供できますよう、わたくしどもも、精一杯、精進いたしますので」
「近々、また必ず、よらせていただきますよ」
心がこもった笑顔とともに、シェフは頭をさげた。
「このあと、デザートになりますが。
もし、ケーキが胃のご負担になるようでしたら、なにか他のものに差し替えますが」
きっと自分が泣いてしまっていたせいで、この店の従業員たちにも、心配させてしまったのだろう。
佳織は、もうしわけない気持ちになって、シェフを見あげた。
「あの、わたし、ケーキは食べますから。
ここのデザートが、コンサートのあとは、いつも楽しみなの。
すてきな音楽を聴いて、ここでお食事をして甘いデザートを食べたら、とても幸せな気分で、家へ帰れるんですもの。
今日のケーキは、どんなケーキですか」
「プチ・ブッシュ・ド・ノエルでございますよ、お嬢さま。
繊細な細工は、当店のパテシェが腕をふるって、マロン・グラッセや飴菓子でつくりました。
どうぞ、目でも、お楽しみください」
シェフが笑顔とともに身を引くと、うしろに控えていたサービス係が、すばやく皿をさしだしてくる。
皿のうえには、粉砂糖の雪をまとった、かわいらしいクリスマスケーキがのっていた。
思わず、佳織と祖父は、ほほ笑みあった。
ふたりのあいだに生まれた柔らかい空気に安心したといったようすで、シェフが立ち去っていく。
祖父は、あたりを見まわしていった。
「ここは、いい店だね」
コンサートのあとの語らいを楽しむ人々は、あちこちで、笑いさざめいている。
落ち着いた店内の照明はやや暗く、それぞれのテーブルのうえでは卓上ランプの炎が、ちらちらと、ゆらめいていた。
炎は、なぜか人を感傷的にする。
佳織の祖父も、遠い昔を思いだしたようだ。
「私が楽器屋の跡継ぎ修行をはじめたばかりのころはね、コンサートのあとに食事を楽しめるような店なんか、ひとつもなかったよ。
まともなコンサートホールすら、まだ日本には、なかった時代なのだからね。
あれから、何十年もの月日が、流れたんだねえ。
いい時代に、なったものだ」
「おじいさま」
佳織は、デザート用のフォークを手にとりながらいった。
「おじいさまの年代の方々が、『日本にも、もっと楽しい音楽を!』と願って頑張ってこられたから、きっと、いまの時代があるんだと思うわ」
「嬉しいことを、いってくれるね」
「わたし、おじいさまのこと、大好きですもの」
ケーキは甘くて、おいしかった。
ケーキを食べながら祖父とかわした、他愛のない話も、楽しかった。
つらくもあり、楽しくもある、夜であった。
未来の自分の姿は、まだ欠片も見えないけれど。
でも、この夜の出来事は、きっと自分の心のなかで、いつまでも大切な思い出でありつづけるだろうなと、佳織は思った。
― End ―
Title Illustration Heaven's Garden
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