望郷の思い
それからというもの、常盤音高一、二年生たちの生活は、『めざせ、卒業生追い出しコンサート!』って雰囲気一色に、なってしまった。
だれかが『送る会』のことを『追い出す会』といったら、いつのまにか、そっちのほうがおもしろいって、だれも問題のコンサートのことを、『卒業生を送る会』とは呼ばなくなっちゃったんだよなー。
二月にはいったら、自宅研修期間とやらで三年生がほとんど学校へ登校しなくなったのをいいことに、休み時間や放課後まで、あちこちで個人練習やパート練習をしている連中を、見かけるようになったしな。
なんちゅーか、音高の校舎全体が、歌っている感じ。
おかげで、そのコンサートの指揮者である俺は、メチャいそがしかった。
だって、連中ときたら、練習のさいちゅう、こまったことや聞きたいことができたら、俺がどこにいたって、おかまいなしに、呼びつけるんだもん。
その日なんてさ、俺は男子トイレのなかで、ヒデと話してたんだぜ?
もちろん、用を足しながらだ。
「夏海。 おめー、新聞の批評、すごかったな」
「あー?」
「なんだよ、読んでねえのかよ。 今朝の毎朝新聞」
「俺んち、読×新聞だもん。
Y響の新聞購読者コンサート無料招待券プレゼントに応募したいがために、爺ちゃんがぜったい、新聞はかえさてくんねえの」
「ははは、おまえんちの爺ちゃんって、あいかわらずなんだなあ。
毎朝に、のってたんだ。 このあいだの毎コン受賞者発表演奏会の記事。
全体の8割が、おまえの演奏に関する内容だったんだぞ」
「うわー、なんだよそれ。
おもしろおかしく、書いてあったんじゃねえの?
俺ってば、ドラマのサントラとかやってるから、悪目立ちしてたんだよなー。
演奏直後のステージに、花もった女の子がおしよせてきちゃったり、楽屋口で、出待ちをされちゃったりしたもんだから、他のコンサート出演者たちから、大顰蹙買っちゃってさ」
「なにいってんだ。 べたぼめだったぞ。
こんな感じだ。
渡辺は出演者のなかでただひとり、名曲に自分なりのアプローチを試みた、聴き応えのある演奏を展開した。
普通、若い演奏家が協奏曲を演奏するときには、指揮者やオーケストラに助けられながら、自分の表現のみに集中しがちなものである。
しかし、渡辺はよく合奏の音を聴いており、ときに指揮者の中田から音楽の進行をまかされ、室内楽的な楽器同士のかけあいの場面では、リーダーシップさえ発揮していた。
そして、全体については、音楽とともにある喜びを、自分自身と、共演者、そして聴衆に感じさせる、強い生命力にあふれた、すばらしい内容だったと申しあげる。
とにかく、渡辺の音には、華がある。
テクニックの安定感も、文句なしである。
そしてなにより、サポートの中田や新東フィルのメンバーが、演奏中、始終笑顔を見せていたのが、筆者にはたいへん印象的であった」
俺はあきれて、ヒデの顔を見た。
「ヒデ、おまえ、作曲だけじゃなくて、批評にも手を出す気か?
よくもまあ、ぺらぺらと。
だいぶ話を作ってるだろう?」
ヒデはムッとして答えた。
「作ってねーよ。
このあと、弱冠17歳にして末恐ろしい。
彼ほど今後の成長が楽しみな若手演奏家は、そうそういるもんじゃない。
な〜んて、つづくんだぜ」
「ああそう」
「なんだよー。 無感動なやつだなあ」
用をすませて、俺たちは、ならんで手を洗った。
俺は、ため息をついた。
ヒデが、目のまえの鏡ごしに、俺の表情をうかがっている。
「おい、なにか心配事かよ?」
「いや」
鏡ごしに、俺はヒデに笑い返した。
ほんと、こいつは、ありがたい友達だぜ。
音楽的な相談は何でもござれだし、こうやって俺の元気がないときには、心配までしてくれてさ。
だからつい、愚痴がでる。
「なんかさー、俺、その演奏会で、指揮者の中田先生に気に入られちゃって」
「へえ、すごいじゃん。
中田善治って、ドイツのD響とかにも定期的に呼ばれてる実力派だろ?」
「そう。 でさ、まえにリストの協奏曲と交響詩を3曲ならべて演奏会やりたいなんて、俺、いってただろ?」
「ああ」
「ついうっかり、口を、すべらせちゃったんだよな〜。
リハーサルの休み時間に、オケのメンバーと、雑談してて。
そんでもって、コンサートが終わったあと、中田先生がさ」
「うん」
「リストの演奏会、ぜひ、ぼくとやりましょう。
来年四月の新東フィルの定期で、なにをやろうか、ちょうど考えていたところだったんですよ。
来年の春なら、きみの大学進学祝いってことで、時期的にもいいでしょ?
ぼく、リストには、一家言あるんですよ。 ドイツで勉強しましたからねえ。
なんなら、演奏会のまえにオーケストラをまきこんで、勉強会をやってもいいですよ、って。
それは、すっげー、おもしろそうでやりたいんだけど、最後のオマケがなー。
渡辺夏海、新東京フィル定期に華麗なるデビューって、ハデな宣伝、打ってもらいましょうね〜。
きっと、チケット即完売ですよ。
ぼくは新東京フィルに、貸しをつくれます。
あははははーっ、なんてさー」
「おい、おまえ……」
鏡に映ったヒデの顔は、あっけにとられていた。
俺は、うえーってなもんで。
「どーしよ。
そもそも、楽員さんたちとの雑談だって、こんなことを先生にいったら、英語の文献責めにあって、おまけに『まだ読まないなら、わたしに先に貸して』って、彼女に本をうばわれて、俺の手元には、いま一冊しかないんだけれど、その一冊が、まだ半分も読めてないんだーって、ぼやきだったんだぜ?
演奏会のとき、中田先生やオケが笑ってたのって、ぜったいに、俺のへたれぶりが、おもしろすぎるからだよ」
「へたれでもなんでも、チャンスじゃんか。
在京のオーケストラの定期演奏会にだしてもらえるなんて、演奏家として一人前だって、認められたようなもんだぞ」
「うーん。 確かに、すっげー、ありがたい申し出だよな。
谷崎先生も、『そりゃあ、よかったね。 ださせてもらえば、いいじゃないか。 中田先生のほうから申し出をいただいて、薫陶を受けられるなんて、めったにないチャンスだし』とは、いった」
「なにが、ひっかかってる?」
「だって、この演奏会にでるなら、それまでに、あの英語の文献を、ぜんぶ読まなくちゃいけないんだぞ!
ただ、ピアノがひけるだけじゃ、ダメなんだよ!
俺的には、リストを演奏するためには、ここまでやるぞーって目標が、ちゃんと、あるわけで!
それに中田先生が勉強会を開いてくれるっていうなら、ちゃんと自分の意見を、いえるようになってないと!」
「おまえってさー、みずから苦労を、ひろい集めて歩くようなやつだよな……」
ヒデは、よしよしと、俺の背中をたたいた。
とほほだよ、まったく。
実際、『毎朝新聞社音楽コンクール受賞者発表演奏会』をさかいにして、俺の身辺は、急に騒がしくなりつつあった。
東都交響楽団との二回の演奏会。
コンクールの最終選考会。
そして、今度の発表演奏会。
プロのオーケストラと協奏曲をひく演奏会が四回成功すれば、もうそれはビギナーズラックのたぐいではなく、実力だと認められる。
皮肉なことに、俺には渡辺隆明の甥であるという強力なブランド力と、ドラマのサントラで大ヒットを飛ばしたという過去の実績もあるわけで、音楽業界から、金を生みそうな若手演奏家として、いっきに注目を浴びることになってしまったんだ。
いまは目の前のことに集中していたいから、あえて聞かないようにしているけれど、俺と詩文のマネージャー役をしてくれている爺ちゃんのところには、けっこうな数のコンサート出演依頼が殺到してきているらしい。
いぜんから、話だけは、それとなくでていたんだけれど、五月の初リサイタルにライブ録音が入ることも、本決まりになった。
リサイタルのプログラムのなかから、できのいい演奏を選んで、俺のソロデビューアルバムを作ってくれるんだそうだ。
このアルバムが、『イデア』なんて国際的なメジャーレーベルからでることになったのは、まさに隆明叔父さんの、ご威光そのもの。
偶然も、俺にはラッキーに働いた。
詩文のやつが、春休みに、パリでリサイタルをするからな。
まず、最初にリサイタル・ライブ録音の話をもらったのは詩文で、俺は、ついでみたいなものなんだ。
渡辺隆明の息子と甥のデビューアルバムを、ふた月連続で発売するなんて、売り上げが低迷しつづけているクラシックCDレーベルの販売戦略としては、華やかな話題性がある、有望な作戦だといえるんだろう。
だけどさー、ライブ録音ってところが、胡散臭いんだよな。
最近、多いんだよ。クラシックのライブ録音って。
製作コストがかからないから。
クラシックのCDって、日本の国内市場じゃ、1万枚売れればヒット作、3万枚売れれば大ヒット作って世界だから。
だから、最初っから10万100万単位をねらっていくポップス系みたいに、金をかけた作り方はできないんだ。
CDの製作コストは、少なければ少ないほど、いいってわけなのさ。
俺は、あんまりライブ録音って、好きじゃない。
お客さんの咳とか、膝からものが落ちる音なんかが、音楽といっしょに入っていて落ち着かないのに、それをさしてコンサートの息吹を感じさせる録音と称するんだから、金をもうけなきゃいけない大人は大変だよなあと、いつもあきれてしまう。
演奏家のほうも、今日のコンサートは録音が入っているから大きなミスはできないなあって、無難な演奏に、おちいりがちだし。
くっそー。
俺は無難な演奏なんか、しないからな。
せっかくの、初リサイタルなのに。
ばりばりに、俺の思い入れがはいったプログラムで、ガツンとやってやるんだ!
手をふいたハンカチをポケットにつっこみながら、俺は鼻息荒く、トイレのドアを開けた。
そしたらさ。
「夏海くん!」
「でてきたっ!」
って、なんだよ、これは!
俺のうしろにいたヒデが、あとずさる。
「おまえ、とうとうトイレの前でまで、待ちぶせされやがって!」
「くっそー、俺には、トイレでゆっくりするひまもないのかよ!」
男子トイレの前には、人だかりができていたんだ。
さすがに男子トイレのなかにまでは入ってこれなくて、俺がでてくるところをつかまえようと、女どもが網を張って待っていたってわけ。
彼女たちは、いっせいに、しゃべりだした。
「合唱の練習スケジュールのことなんだけど」
「ビックバンド編成への場面転換の件で、相談があるの」
「今日の放課後、トランペットパートのパー練するから、つきあってほしいのよ」
「あっ、ずるい! それなら、わたし達だって、つきあってほしいわよ!
サックスアンサンブル!
出番が一曲しかないから、朝練の割り当ても、少ないんだから!」
「せんぱーい。 ヘンデルのフレージングについて、質問が。
ブレス(息継ぎ)の位置がですねぇ」
たのむ。
おまえら、一人ずつ順番に、しゃべってくれ。
俺は聖徳太子じゃないんだ。
いっせいに、わーわーやられても、なにいわれてんだか、わかんねえよ!
女どもをひきつれて、俺は教室へかえる。
練習スケジュールの件と、ステージ上の進行の相談は、吉澤に、とりあえずふって、トランペットの連中と、サックスアンサンブルの四人組とに、パート練習につきあう時間の約束を取り決め、細かいことにこだわっている質問者の疑問に答え、やれやれと、自分の席にへたりこむ。
ななめ前の席で、楽譜にチェックを入れながら話していた詩文とリードが、ご苦労さんと、笑った。
俺は、またもや、愚痴をたれてしまった。
「なんで、みんな、なんでもかんでも、俺に相談したがるんだよ?
俺は、みんなの自主性を尊重する、寛大な指揮者だぞ?
パートリーダーが決めてきた方針に文句つけたりしてないし、ブレスの位置なんて、よっぽど変な位置にはいってて音楽の表情がみょうちきりんでもなけりゃ、注意もしないだろ?」
詩文は、ため息をついた。
「それ、きっと、桑原のせいだ」
「桑原?」
「うん。 このところ、桑原のオケの授業は荒れてる」
リードがうなずく。
「桑原、なんか、あせってるみたいでさ。
自分が指導してるはずの『ヴルタヴァ』が、どんどん勝手に仕上がっていっちゃうからな。
それも、当初、桑原が目標にしていた無難な演奏とは、まったくちがう方向へだもん」
「しかも、オケのメンバーのなかに、桑原の指揮じゃやりにくいって空気が、蔓延してるんだよね」
「わかるなあ、それ。
悪いけど、俺も、メインテーマのときは、桑原の棒じゃなくて、詩文の弓を見てるもん。
あのメインテーマのときだけは、どうしても、桑原の指揮は見れねー。
夏海の、俺たちを歌に誘い込むみたいな棒を思い出しちまって、ギャップで混乱するんだ。
たぶん、他のメンバーも、みんなそうだと思うぜ」
俺は、うなった。
だって、想像しちゃったもん。
自分が指揮しているはずのオーケストラが、自分を無視してコンサートマスターの演奏についていくなんて事態が、目の前でおこってみろよ。
俺だったら、たちなおれねー。
「やっぱり、ひとつのオーケストラに、二人の指導者は、いらないってことか?」
まさかと、詩文。
「そんなこといってたら、毎日のように指揮者がかわるプロのオーケストラは、どうしたらいいんだよ」
そうそうと、リード。
「オケのメンバーの気持ちが桑原から離れていくのは、桑原自身に問題があるからだぜ。
桑原って、知識や指導内容は、それなりにまっとうだけれど、怒ると感情的だし、嫌味っぽいんだ。
それにさあ、な〜んか、たらないんだよなあ〜。
なんだろ?
桑原の指揮って、固い?
夏海と演奏するときみたいに、自然と歌えないんだよ。
へんないいかただけど、夏海と演奏しているときは、いっしょに歌ってるって感じがする。
だから、すっげー楽しい。
桑原と演奏しているときは、歌わされてるって感じ。
だから、楽しくない。
オケのメンバーが自然と夏海のほうへ頼りたくなる気持ち、俺には、よくわかるな」
また、うなる俺。
「うーん……」
しかしなあ。
これで、いいのか?
俺は、詩文が桑原との関係で苦しんでいるみたいだから、『卒業生を送る会』のメインプログラムに『ヴルタヴァ』をすえてしまったわけだけれど。
とにかく、だれが指導者でも、曲がそれなりに仕上がれば、詩文はピンチから脱出できるはずだと思ったから。
それって、考えが浅かったって、ことなのかな。
桑原が荒れぎみになるとか、オケのメンバーが混乱するとか、そんなことまでは考えてなかったよ。
指揮者失格だな。
隆明叔父さん、いってたもんなあ。
指揮者に一番大切なのは、集団をまとめる統率力なんだって。
オーケストラのメンバーは、ひとりひとりが、音楽のプロだ。
目の前の百人の音楽的な思考を深く理解して、いい方向へ導けたときに、名演は生まれるんだよって。
自分の音楽性は、その前提をなしとげたうえで、はじめてプラスアルファとして、のせていくものなんだって。
隆明叔父さんは、大編成のオーケストラ相手に、マーラーとか、ヴェルディとか、シュトラウスも指揮する、名指揮者だ。
オペラなんかを指揮するときには、オーケストラだけじゃなくて、歌手や、合唱団や、美術や演出といった他の制作スタッフとの連携までまとめていくんだから、そのとき発揮するリーダーとしての力って、すんげーんだろうなあと思う。
そういうこと、叔父さんから教えてもらって知っていたくせに、俺ってば思いつきで、指揮に手をだしたりして……。
俺って、いつもそうだ。
走りだしてしまってから、こりゃーやばいことに首をつっこんだかもって、気がつくんだ。
だけど、もう俺は、ひきかえせないところまで、来てしまっている。
三月一日の演奏会めざして、仲間たちはすでに、全力疾走体制に入ってしまっているんだから。
まいった!
そんなことを考えながら頭を抱えちまった俺のわきを、クラスメイトの女子が通りぬけていく。
自分の腕越しに、彼女の手が見えた。
指先に、いくつも絆創膏をはった、悲惨な状態の手だ。
「山田っ!」
叫んで、俺は立ちあがった。
「どうしたんだ、その手!」
俺の大声に驚いて、昼休みの教室が、静まりかえってしまった。
名前を呼ばれた山田も、驚いている。
「な、なに? 夏海くん?」
俺は、そこらの机と椅子をガタガタいわせながら山田の前にいって、問題の手をつかまえた。
俺の背中には、いやな汗が吹きでていた。
だって、山田はハーピストだ。
ハープってのは、一見優雅に見えるけれど、じつはハードな楽器なんだ。
ハープの弦って、鋼鉄でできているんだよ。
強い音をだすために力をこめて弦をはじくと、演奏者の指には、かなりの負担がかかる。
俺がふれた山田の指も、弦をはじくための訓練を重ねたせいで、指先の皮膚が固く分厚く変化している、ハーピストの指だった。
その指に、絆創膏だなんて……!
「俺がたてた練習計画、ハーピストには、きつすぎるのか?」
真剣に、そう問いかけたら、山田は笑った。
「ちがう、ちがう。
みんなとやる朝練ていどの演奏じゃ、指に怪我なんかしないわよ。
これはね――」
山田の顔から笑みが消え、目つきが急に険しくなった。
なにかを思いだして、不愉快になったって感じだ。
「桑原先生の授業で、さんざん同じアルペッジオをひかされたから、摩擦熱で、やけどみたいになっちゃったのよ。
これ以上やったら、指に怪我をしちゃうなってところで、手をぬいた音でごまかそうとしたら、桑原先生、ふぬけた音をだすなって、怒るんだもの。
そのとき先生が、しつこく直そうとしていたのは、木管の表情だったのに」
俺は思わず、山田の手を握りしめてしまった。
「痛いのか?」
「たいしたことないわよ。
ハープを始めたばかりのころなんて、よく指先から、血がでたりしたものよ。
あのときの痛みにくれべれば、どうってことないわ」
「そっか。
山田の指先のタコは、自慢のタコなんだな。
そのタコ、だいじにしてくれよな。
山田は俺たちのオケの、大切なメンバーなんだからさ」
「だいじょうぶ。 すぐ、治るわ」
「朝練のときは、指先きついと思ったら、遠慮なく手をぬけよ?
俺は、おまえの本気の演奏と、怠けた演奏の区別くらいは、つけられるつもりだから」
オーケストラのすべての楽器のことをよく知っていて、演奏者ひとりひとりのコンディションにまで気配りできなくちゃ、指揮者はつとまらない。
これも、俺が隆明叔父さんから、教えられたことのひとつ。
なにげない雑談のなかで、叔父さんとは、いろんなことを話しているからな。
俺が興味にまかせてたずねることに、叔父さんは、いつだってユーモアをまじえて、まじめに答えてくれる。
それに、俺は、いっしょに音楽を奏でる仲間は、なによりも大切にしたいよ。
だから俺は、真剣にいった。
「はやく、傷が、なおるといいな」
山田は、うつむいて、頬を赤らめた。
しばらく黙りこんだあと、消え入るようにいう。
「あのね、夏海くん」
「なんだよ」
「手、はなしてくれない?」
「あ……、すまん、つい」
「その、わたしは、べつにいいんだけど」
「けど?」
「夏海くんのうしろで、佳織が怒ってるわよ」
「はい?」
指摘されて、俺は気がついた。
たしかに俺のうしろからは、おっそろしい気配が、感じられる。
ぞぞぞーっと、背筋が震える。
ふりむきたくないけれど、そういうわけには、いかないよな、やっぱり。
と、思った瞬間、吉澤の声が、冷たい響きで俺に襲いかかってきた。
「夏海くん」
「はいっ!」
びくついて、山田の手を放りだした俺は、
教室にいたクラスメイト全員から笑われた。
なんで、全員で爆笑なんかしやがるんだよ!
さすがの吉澤だって、みんなの前では、嫉妬ばりばりの台詞なんか吐かないぜ?
俺は、冷たーく、にらまれただけなのに!
でもって、トゲトゲだらけの口調で、お叱りを受けてさ。
「もうっ! わたしに、雑用ばかりさせて!」
「ごめんっ! ごめんなさいっ!」
「勝手に放課後の練習予定を増やさないで!
今日の放課後は、米島記念音楽堂のステージマネージャーさんと打ち合わせだって、いっておいたでしょ!」
「げっ! そうだったっけ?」
「また、とぼけて!」
「ごめんってば。 パート練習は、他の日にしてもらう」
「もう変更してもらったわ。 トランペットは明日の昼休み。 サックスは放課後」
「さすが!」
「急に媚びた声、ださないで!」
「怒るなよ〜、佳織。 おまえ、怒ると怖いんだからさ」
「わるかったわねっ!」
クラスメイトの爆笑は、とまらねー。
女王様、たのむからさ。
俺が、うっかり屋なのは、おまえがいちばん、よく知ってるだろ?
俺の失敗は、いつだって、うっかりが原因なんだ。
だから、怒るときは、もうちょっと、優しく。
なっ?
吉澤は、さっさと教室から、でていこうとする。
「かおりぃ、まてよぉ。
佳織さん、まってください。
ごめんなさいです、佳織さま」
「うるさいわねっ!」
「どこいくんだ」
「印刷室!」
「てつだいます」
必死こいて吉澤のあとを追いかけて教室からでていく俺の背中には、クラスメイトの笑い声が、いつまでも、まとわりついていた。
あー、情けねー。
でもさ、俺は、なんだか嬉しかった。
こうやってクラスメイトが笑うのは、俺と吉澤が公認の仲だと、思われているからだろ?
好きだーと思っている彼女から、やきもちを焼かれるのだって、悪い気はしない。
男って、ほんと、勝手な生き物だよな。